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記事No.7099に関するスレッドです

続きです 3 / ゆらぎ
ubik0101さんのお答えは、論点のすり替えです。
質問にストレートにお答え戴きたいです。

因果であれば、結果としての事象であるそれらの凄惨な出来事、その原因が実在にあるということですよね?

つまり、弱肉強食、戦争、暴力、病気、嫉妬、偽善、嘘が実在にあるということですよね?
そして、それらは仮想ではなく実体だということですよね?

ubik0101さんは体験によって、例えば飢えによって死んでいく子供たちの凄惨な状況を、どう了解出来たのでしょうか?
この質問にはお答え戴いているのかもしれませんが、全く理解できていませんので、もう少し説明を加えて戴けると有り難いです。

> と、ゆらぎさんが言ってるそれは、思考なんです。ずっと前に話した、何をしても、それはそういうことができるようにできてるから出来るだけ・・・歩くも、走るも、笑うも、病気も、治療も、死ぬも・・・絶対不自由・・・それは思考の見る風景なのです。

思考の見る風景、それを私は幻想と表現しています。
思考であるということは、実体ではないということですね?

> ゆらぎさんは、その飢えて死ぬ子供ではないでしょう?実際に、どこかにそんな子供はいるでしょう。そんな映像を見た記憶はあるでしょう。ここでその事実に飛びつかずに、そこにとどまって自己観察です。思考は、空想と事実を峻別する機能がついてないな・・・です。

20年前、一人しかいない弟が、スキルス性の胃癌で他界しました。その時、弟の子供は8歳と11歳でした。私の人生の中でも最大の悲しみでした。
これは、空想なのでしょうか?
それとも、事実なのでしょうか?

>まず先に思考者がいて、思考してるのではありません。思考があって、その主体をつくるのです。これが自我は虚構ということです。実際、その思考以外、あるいはその思考の範疇以外の思考をすることは困難でしょう。

これは、私も主張してきたことです。

> 経験則ですが、なにか疑問があれば、それは必ず自分で解けます。たぶん子供の頃、誰にも降って湧いたような疑問、自分て何?なんのために生きてる?・・・私はたぶん、この疑問を捨てなかっただけだと思います。そして、その自然の公案を忘れるほど、それに没頭したのです。

私も疑問は捨てませんでした。
今は、この世界は幻想であるということが、腑に落ちています。
書棚を見て、よくこれだけの本を読んできたなと我ながら感心します。(笑)
今は、1冊の本も必要なくなりました。

No.7098 - 2019/10/26(Sat) 06:16:02

Re: 昨日の朝、散歩で、カラスに襲われている鳥を拾いました / 勘太郎
 仰向けになって、ばたばたしていました。簡単に捕まりました。ヒヨドリ程の大きさで、片目を閉じて、嘴は半開きでした。

 帰宅後、砂糖水とさいの目切リンゴを口に詰め込み小さな箱にいれて、帰宅後も生きていれば獣医さんに連れて行こう。捕まえた手はかなりの血が付きました。

 夕方生きていたので妻が獣医さんに診せたら、怪我も治って、脱水症状も無いので、今、放鳥した方が良いと言われました。
 
19時頃なので、翌朝砂糖水飲ませて、放す事にしました。
獣医さんは、捕まえた近くで放せと言いましたが、今朝も同じカラスが2羽、おらの散歩を見ていました。「よくも、私たちの大事なエサをよこどりしたね」と言っていました。
それで、車で30分走り、遠くの山中に放してきました。

 元気に飛んで行きました。

これらは、私が行った事ではなく、私の目の前に起きた出来事です。おらの心の中には鳥が起こしたバタバタした出来事が少し哀しく思い出されます。おらと私は全く繋がらず、私はいつもながらのスクリーンです。残念ながら、私はおらの分身であって、真我ではありません。

 薄く3重の虹にみえます。3重目はおらの想像かもしれません。

 放す直前の鳥です。明るい外に出ようとしています。

No.7099 - 2019/10/26(Sat) 12:23:27

Re: 休みだけれども、雨予報で畑には行きません / 勘太郎
 暇です。

 ダグラス・ハーディングという人が、世界は層(レイヤー)でできている。カオスとも云うかもしれません。と言っています。

 カラスの層で言えば、御馳走を逃して悔しい1日であったし、おらから云うと「弱肉強食を見せつけれれて哀しい」となります。
地球の層で云うと「何もなく、日常が過ぎた」となります。

 タデウスゴラスと人が「我々は塊にもなるし、スペースにもなる」と言ってます。
宇宙は一つ実体で、できています。そしてその一つ一つが命を持ち、自分の事を自分で決めています。

 おらが想像するに、地球は一つの思考を持ち、ゴリラの思考も人の思考もミミズの思考も含んでいるのではないかと思っています。
 おらはおらの視点でしかみることができません。おらの善悪はおらの身体を如何に安楽に生きるかを主題にしています。それに重なって、おらは地球なので、肉体の層である「おらの人生」にはほとんど関わりません。スペースと塊とは、このの事を言っているのではないか?と思っています。

No.7100 - 2019/10/26(Sat) 13:58:36

Re: 続きです 3 / ubik0101
私は、実在の解き解れ、それを実体と言ったことがあるのですか?もしかしてですが、私が実体と言ってると、ゆらぎさんが自分で空想して、それに対して、ゆらぎさんが自分で批判してるのではないですか?私は、ストレートに真面目に話しています。

なんかピカピカで完璧なことだけが、実在の解き解れかも知れないと考えていませんか。不完全もない、完全は、完全ではない・・・たとえば美醜、善悪、生死とかあるとして・・・たとえば世界には美という、片方だけがあるのではないでしょう?また、ほかのことは何もなくて、生死だけが、世界にあるというわけではないでしょう?実在の解き解れに、あるもないも、総てなくて、それが実在の解き解れとは言えないです。

まったく疎いのですが、粒子?に+も−も、無電荷のものもあるのでは?磁石にはSとNがあるのでは?さまざまあって、どれが実体とか、そうでないとかあるのでしょうか?

>20年前、一人しかいない弟が、スキルス性の胃癌で他界しました。その時、弟の子供は8歳と11歳でした。私の人生の中でも最大の悲しみでした。
>これは、空想なのでしょうか?
>それとも、事実なのでしょうか?


ゆらぎさんに聞きます。それは空想ですか?事実ですか?最大の悲しみも、ゆらぎさんによれば、シミュレーション、仮想、幻ではないのですか?

いま、ゆらぎさんが、死んだ弟を思考してるなら、それは空想で、思考でしょう?ゆらぎさんが思考してるなら、思考してることが事実でしょう。思考してないなら、思考してないが事実でしょう。

死んだ弟はどこにいますか?死んだ弟がここにいるなら・・・今も、子供は8歳と11歳なら・・・実体という定義は知りませんが・・・それは実体でしょう。

>>まず先に思考者がいて、思考してるのではありません。思考があって、その主体をつくるのです。

>これは、私も主張してきたことです。

ゆらぎさんは、そう主張してないと思います。ゆらぎさんは、自我の構造を、どう言ってますか?プログラムされてるとか、現象界は幻だとか、無自性と、言ってる印象はありますが・・・それは自我だけでなく、世界は総てシミュレーションということで、とくに自我の構造をまだ聞いてないと思います。シミュレーション仮説が自我ということなら、それはそうなのでしょう。

>今は、この世界は幻想であるということが、腑に落ちています。

その幻想ということは、弟のことも幻想なんでしょう。弟は例外なんでしょうか?そして、ゆらぎさんも幻想なんでしょう?幻想が思考することは幻想なんでしょう?ゆらぎさん、そしてその思考は、幻ではない、幻の例外てことはないでしょう。あるいはシミュレーション仮説と悲しみという現実を、使い分けてる?

もしかして、ゆらぎさんの、自分て何?の定義は、生まれてこの方変わらない気づいてる意識ということでしょうか。それ、自性ですか、無自性ですか?それ、現象界でのことですか?実在ですか?それとも実在と現象界の堺ですか?いろいろこの投稿に?はついていますが、ゆらぎさん自身が応えを出せばいいと思います。

私には、生まれてこの方変わらない気づいてる意識、それがないです。ついでに言いますと、スクリーンも、基底もないです。

No.7101 - 2019/10/26(Sat) 21:44:13

2重の虹。 / ubik0101
今日、私もあの虹を見た。という人がいました。見なかった、という人もいました。虹は幻なのに、いろんな人に見えるのは、変な感じでした。
No.7102 - 2019/10/26(Sat) 21:46:46

Re: 続きです 3 / hato

さてゆらぎさん。そろそろ、終わりにさせて頂いてよいでしょうか?☺
言葉は山のように費やされました。このように理解なく散財されることは、よいことではありません。

ゆらぎさんは、まったき、空虚なるご自身を生きるとご自身で決めているのですから、なにも問題ないです。悟った人を、理解する必要がありますか?。ここは正直なところ、努力したいでもない、科学的興味本位で質問されては困ります。ゆらぎさんの状態が変わらなければ、理解することは難しいことがあると思います。

先にわたしとの間でお話し頂いてることからすこし。

> 思考も体験の一つであり、全ては脳内の出来事です。それを不可思議と呼べば、不可思議です。


空虚な自我状態に、ダダ流れの如き思考を、覚醒体験と同様にみることは出来ません。実体なき自我状態に於ける思考と言葉。それは、星の数ほど溢れ出ては、ただ消えていくでしょう。一方、実在の言葉、仏陀やイエスの言葉は残り、語り継がれるでしょう。ない、自我と、ある、自己。という、そんなことが言えるでしょう。


> 思考の見る風景、それを私は幻想と表現しています。

その通り、ゆらぎさんは幻想のただ中です。そこから出たくない、と駄々をこねる人を連れ出すことは出来ません。いたずらに、思考を費やす対話は、ただのレジャーか、ちょっとした自分確認くらいなことでしょう。成長について、努力の甲斐もないと考える人は、こうしたことに係らないほうがよいと思います。中途半端に言葉を弄んでは、理解の道は遠くなるだけです。

私たちは、幻想の話をしていません。ubik0101さんは、ある意味血が滴るほどの本気度で応対しています。もうこれで十分。やめておきましょう。

疑問が湧いたら??

自己に、尋ねるのです。自己に入ってください。それ以外に決着できることはありません。なにか宗教や修行、外に出掛けていって行う、あらゆる行でも書を読むでもいいですが、ここではそれを、自己探求とはいいません。自己探求は文字通り、自問自答、「自分てなに?これはどういうこと?」それを自身に問う、道です。汝我を知れ。それ以外ではありません。こうした場所(掲示板やホームページ)は、そんな人たちがちょっと疲れたり、迷ったときのために開かれています。本当にそのことを、結果も可否もわからず、その自身に問い努力する人の為の、場所です。

ゆらぎさんが引用された、聖書の言葉から再度あげておきます。誰もが、道端に蒔かれたものになろうとは思いも寄らないでしょう。ですが残念なことに性根がわるいために、自分から、そのようになる人もいるのかも知れません。


> 「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。/だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。/石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。/茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。/良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである」


お元気でお過ごしください。
またいつか、新しいゆらぎさんに出会えるのを、・・楽しみにしています。

No.7103 - 2019/10/26(Sat) 22:33:01