こんばんは。 こちらひんやり爽やかな気が、いい季節です。
>チャクラとかよく知りませんが「気」の通り道がある」とか読んだことがあるような記憶があります。
チャクラとか、精神世界のあれこれが、巷に流行っていたことがありました。主として精神と肉体を扱う方面だったようですが、自分にはあまり身になりませんでした。
>真我をいくら探しても真我は現れない。感覚の対象とはならない真我を感覚と云うレーダーで探っても、真我はステルスです。
尚、自己に問う。それは知覚の範疇を超えているので、応えが意識されるまでにはある種、力を蓄える、力を要する、つまり時間が要る、ものかも知れません。問えば応えは即座にここにあり、準備が出来たら、それ自身として、見出される・・かも知れません。
或いは、なにか発する問いについての答えは、さまざまな道のりでやってきているのでしょう。自己という、対象、存在を感じる、・・ことでない、そこは大要未知として置いておき、「これはなんだ?」。と問う、やはり大事と思います。
イエスが死の間際、神に訴えた言葉があったそうです。「神よ、なぜわたしを見捨てたのか」。自身の現状か、人々のことか、いずれにしても言語を絶する艱難辛苦だった、その辛苦が表れたのでしょう。
痛いときは痛い、辛いことは辛いです。嬉しいことも、素晴らしいことも、同様でしょう。感じる、という知覚に問題はないでしょう。人が変容しても、道具は変わらないでしょう。
それでも、変容。人が変わる。それは神と自己、世界の有無についての理解が、(体験)経験として起きること、と思います。神(節理でも虚空でも)があまりに嬉しく祝福するので、歓喜が起こるのでしょう。
生ある限り、智慧の灯として生きる、生きようと努力する、それは幸せで大切なこと、と思っています。
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No.7129 - 2019/11/18(Mon) 18:36:26
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