[ 掲示板に戻る ]

記事No.7138に関するスレッドです

Re: 雪にも慣れて、いつもの初冬 / hato

こんばんは。
こちらひんやり爽やかな気が、いい季節です。

>チャクラとかよく知りませんが「気」の通り道がある」とか読んだことがあるような記憶があります。

チャクラとか、精神世界のあれこれが、巷に流行っていたことがありました。主として精神と肉体を扱う方面だったようですが、自分にはあまり身になりませんでした。

>真我をいくら探しても真我は現れない。感覚の対象とはならない真我を感覚と云うレーダーで探っても、真我はステルスです。

尚、自己に問う。それは知覚の範疇を超えているので、応えが意識されるまでにはある種、力を蓄える、力を要する、つまり時間が要る、ものかも知れません。問えば応えは即座にここにあり、準備が出来たら、それ自身として、見出される・・かも知れません。

或いは、なにか発する問いについての答えは、さまざまな道のりでやってきているのでしょう。自己という、対象、存在を感じる、・・ことでない、そこは大要未知として置いておき、「これはなんだ?」。と問う、やはり大事と思います。

イエスが死の間際、神に訴えた言葉があったそうです。「神よ、なぜわたしを見捨てたのか」。自身の現状か、人々のことか、いずれにしても言語を絶する艱難辛苦だった、その辛苦が表れたのでしょう。

痛いときは痛い、辛いことは辛いです。嬉しいことも、素晴らしいことも、同様でしょう。感じる、という知覚に問題はないでしょう。人が変容しても、道具は変わらないでしょう。

それでも、変容。人が変わる。それは神と自己、世界の有無についての理解が、(体験)経験として起きること、と思います。神(節理でも虚空でも)があまりに嬉しく祝福するので、歓喜が起こるのでしょう。

生ある限り、智慧の灯として生きる、生きようと努力する、それは幸せで大切なこと、と思っています。

No.7129 - 2019/11/18(Mon) 18:36:26

Re: いやおうなく、人は善に向かっている / 勘太郎
ように 思います。
その一人がおいらです。

 短期でみると逆戻りもあります。ながあああいいいい〜〜〜、今までの歴史を振り返ると、なんだか楽しい・うれしい社会になってきていると思います。

 地球全体も協力してくれている様に感じます。温暖化が悪の現れの様に言われますけれども、温暖化により食料が増産されて、飢えを防いでるように思います。
 漁網にイルカが挟まり、この写真が人々に環境の尊さを訴える。

 微力ながら、生きとし生けるものの幸福を願います(天皇陛下のお言葉みたいですけれども、上目線では、ないつもりでいます。)

 公園で銀杏を拾ってきました。たくさん。ぎんなんの匂いは手に着いたら洗剤で洗ってもなかなか落ちません。油の感じがします。
今年は豊作で公園が臭いです。ぎんなんご飯にするつもりです。

No.7130 - 2019/11/19(Tue) 16:07:47

Re: 雪にも慣れて、いつもの初冬 / hato

ぎんなんご飯、きっと美味しそう!ですね。🍚こちらは、ひと口お酒、のつまみに時々、ぎんなんを固い殻ごとレンジで数十秒かチン!して、熱々を歯で噛み割って、塩を振って、ホクホクを頂きます。なんともいえぬ好きな味です。そう、銀杏の木はこの時期、美しいけど、臭いますね。

桜の木も葉がすっかり落ちて、冬の日差しが嬉しい日中です。メジロ天使が舞い、ジョウビタキの声が聴こえるようになりました。(もしかして、百舌鳥の仕業か・・?も知れないですが・・)

No.7131 - 2019/11/21(Thu) 22:36:55

Re: 雪担御老師に傑作の仏像は足跡だけ / 勘太郎
という説法があります。身体を持たず、真我だけ。身体は仏にあらず」という事

 庭に準備している白い椅子を見て思い出しました。
身体はテレビ受像機で「仏」は電波に例えられるのではないかと想像しています。テレビのカメラがおいらの目玉。

 親鸞聖人が「私は師匠の法然の云う事を信じます。騙されても後悔しません」と言ったと聞いたことがあります・
 おらも最近は、親鸞の気持ちになってきました。仏(真我)というものが世界を取り仕切っているらしい。これにすべてを委ねて、おらは大船に乗っている気分で生きて死んで行きましょう。

 22日に猫が1匹死にました。4日くらいから食わなくなって、それから病院に行ったら、腎臓と肺炎で厳しいとの話。入院3日目に死にました。なつかない猫で、生きている時に触わることはできませんでした。それで捕まえられなくて獣医に行くのが遅れました。8年程前に。拙宅の庭に仕掛けた捕獲器に入り、我が家の住人となりました。

 名前をごえもんと言います。人には懐かないけれども、猫には神様仏様の様に接していました。猫同士が喧嘩すると間に割って入ってなだめます。ゴエと合わない猫はゼロで、どの猫とも寄り添って寝てました。孤独な猫もいるのですが、ゴエとは争いは起きませんでした。
そんな不思議な猫でした。
 今日は午前中、ゴエの荼毘です。
キジトラ(黒と灰色の縞模様)のごえが、この白い椅子で陽向ぼっこしている姿を想像します。

No.7132 - 2019/11/24(Sun) 07:50:22

Re: 雪にも慣れて、いつもの初冬 / ubik0101
そいえば・・・ずっと初期の仏陀を表す印は足跡だけ、とかいうテレビの旅行番組を見たことがあるような気がします。仏陀は透明、てことでもあるのかもしれません。

そいえば般若心経・・・まともに読んだことないですが・・・も、そのようです。違うかも知れませんが、シャーリプトラに向って、観自在菩薩が、深い瞑想にあって、つまりこの日常にあって、一切は空と見た。

と話してる仏陀は、その物語の話し手で、その物語には登場してきません。透明なんです。この構成だけでも、凄いです。ついでに、日常では自己は透明です。

たぶんですが、仏教ではこれは人空、と呼ばれてることと符合するかもしれません。そして世界は透明です。これは法空、かな?と勝手に思ったりします。人にそんな経緯があります。

ネットで検索してみると・・・人間をはじめすべての心をもつ存在は、因縁によって生じたものであって、永続する自体性をもたないということ・・・とかなっていますが、それは説明概念で、そのまま直接の感じではないです。

ところで自己、真我を探してみます。勘太郎さんの言うとおり、見えません。それでいいのですが、なお探るとして、その探そうとしてる自分は何でしょう?これを探ります。

なにか時空の離れた別の視点から、探してるそのことを見るのではなく、こう、あることを、こう、と見ていきます。この探してる、これ、には、名前があるでしょうか?年齢があるでしょうか?

性別があるでしょうか?それは自我でしょうか?無我でしょうか?真我でしょうか?意識でしょうか?総て、いいえ、です。なんでもない、どんなことでもない、迷いでも悟りでもない、ただ探してるという事象です。

真我を探していようが、いなかろうが、働いていようが、猫に餌をやっていようと、総てでもない、分離でもない、無相でも、有相でもあるでもないでもない・・・ただそれだけです。ここは何も解決も問題もないです。

たしかに身体は生命維持装置という感じはするのですが・・・それは生死を考えるという前提があってのことです。なにが、理由で、

>身体はテレビ受像機で「仏」は電波に例えられるのではないかと想像しています。テレビのカメラがおいらの目玉。

と、このように考えるのでしょう。このように考えてることを正当化する、整合性を与えてるのは、どういう前提でしょう。

こんなことを探ることが、こちらの探求でした。これはいつまで続ければいいのだろう、終わりはあるのか?と思われるかもしれませんが、それは杞憂です。

>おらも最近は、親鸞の気持ちになってきました。仏(真我)というものが世界を取り仕切っているらしい。これにすべてを委ねて、おらは大船に乗っている気分で生きて死んで行きましょう。

No.7133 - 2019/11/25(Mon) 07:28:10

Re: 雪にも慣れて、いつもの初冬 / 勘太郎

> ところで自己、真我を探してみます。勘太郎さんの言うとおり、見えません。それでいいのですが、なお探るとして、その探そうとしてる自分は何でしょう?これを探ります。

自画自賛ながら、この捜そうとしている自分の黒い影を見る事ができるようになった気分がします。だからどうなの?なのですけれども、切り倒す本体はこれなのではないか?と想像しています。

総て、いいえ、です。なんでもない、どんなことでもない、迷いでも悟りでもない、ただ探してるという事象です。
ここで、おらの目が点になりました。
よく言われる「落とした指輪を、落とした場所でなく、たまたま近くに点灯する街灯の下で捜している」この事かあ???と

お言葉通りに受け取ると、(おいらが想像していた)仏は自分の精神が変性したもので、心や天の声では無くて、物理的な行動(動くという事実・動き・働き・運動)???。以前からその様な言葉は読み・聞きしているけれども・・・・うんん〜・・・です。
そうしたら、仏も私も覚醒も何も無いじゃん!
おらは、何していたんだ!となります。行動だけがあるというならば??
狐に騙されているのかなあ???おらはどうなる?どこに行ってしまうんだろう??

おいらは確かに透明でつかみどころがないもの似思えますけれども、。精神とか意思とか思考とか呼ぶものがあると感じてしまいます。
う〜んと唸って言葉がでません。もしそうならば・・・
神も仏も悪魔も無い!  とっても信じられません。


ただそれだけです。ここは何も解決も問題もないです。

> こんなことを探ることが、こちらの探求でした。これはいつまで続ければいいのだろう、終わりはあるのか?と思われるかもしれませんが、それは杞憂です。

希望が湧きます。

No.7134 - 2019/11/25(Mon) 19:31:40

Re: 雪にも慣れて、いつもの初冬 / ubik0101
こうであること、こうでありきること、働くなら働く、笑うなら笑う、怒るなら怒る。でなくてどうして、世界と一体とか、どうして天上天下唯我独尊とか、私はあるとか、ないとかで、あり得るでしょう。

そして私は神であり悪魔であり仏陀であり、どれか個別のことでない、でなくてなんでしょう。

もしかして指輪を夜に探すから落としたのではないでしょうか。探しものをするなら昼間にするのです。そすれば、落としたことなどないことに気がつくでしょう。

No.7135 - 2019/11/25(Mon) 23:48:20

Re: 雪にも慣れて、いつもの初冬 / hato
>おらは、何していたんだ!となります。行動だけがあるというならば??狐に騙されているのかなあ???おらはどうなる?どこに行ってしまうんだろう??

もちろん行動だけでない、感情、思考、も伴うなにか、です。その、おら(わたし)は、環境やあらゆる状態によって出来てる空っぽの渦の中心・・・として、自己探求は、神や仏と思うなにかを空想して探す・・でない、いまその通りの「わたし」を見て探ること、と言えます。勘太郎さんというタマネギの皮を剥く、それが、自己に問う、の意味合いです。

思考、感情や意志は、そのようにある勘太郎さんに沸き起こってくるので、そこを問う、(見る)、剥いて剥いて、「ありのままをあからさまに知る、」ことに、意味があると思います。探求は、書き出すだけで進むことがあります。

本来ある、でも、ない、でもない、という・・名状し難いその「わたし」。探っていくと、なにか思考、感情に寄って、そのように「わたし」と感じられているだけ・・かも知れません。

ゴエ。まったき猫を生きたのですね。2年前までいた、ミューを思い出しました。ミューも気高く人に触れさせなかったけど、白い小さな彼女ねこもできたり、・・一等最初にナナに声をかけたのも、ミューだった。猫に優しい奴でした。大きくて執念深い怖い黒猫に、庭から追い出されました。当時、すでに身体も傷んでいたので、思うと、胸が締め付けられます。ゴエは勘太郎さん一家にみてもらって、本当によかった。

デッキにキリギリスがいました。まだ若いでしょう。少し前に見たのも、こんな感じの子でした。

No.7136 - 2019/11/26(Tue) 00:10:12

Re: 捜す場所をみつけたのかもしれません。 / 勘太郎
出かける前に、手にクリーム(馬油)をつけて手をもむ、その手で顔を撫でて、クリームを広げる。
免疫が落ちて、鼻の中にできものが良くできるようなった、顔を撫でるとできものに外側から押すことになるので痛い。

ここに自分は出て来ない様に感じます。おらの身体と外界との境界はあいまいになってきています。
出来事は、あります。そこに自分は無くても、なんの支障もないようにも、感じます(確信はありません、学習の結果)

探求の入り口に到着したかもしれません。


>そして私は神であり悪魔であり仏陀であり、どれか個別のことでない、でなくてなんでしょう。

もしかして指輪を夜に探すから落としたのではないでしょうか。探しものをするなら昼間にするのです。そすれば、落としたことなどないことに気がつくでしょう。<

ここらへんは、解らないです。

No.7137 - 2019/11/26(Tue) 07:17:46

Re: 雪にも慣れて、いつもの初冬 / hato


>そして私は神であり悪魔であり仏陀であり、どれか個別のことでない、でなくてなんでしょう。


総ての光線が揃っていなくて、・・言い換えれば、すべての質でなくて、どうして透明でしょう。偏りもないその総ては、すでに意識され得ない、なにかです。

>もしかして指輪を夜に探すから落としたのではないでしょうか。探しものをするなら昼間にするのです。そすれば、落としたことなどないことに気がつくでしょう。


もう入り口に着いたので、問題ないでしょう。

あとは Go ahead!、と思います。

No.7138 - 2019/11/26(Tue) 20:21:25

Re: 東招寺接心4日目の無字、の様に感じます / 勘太郎
 接心4日目と最後の5日目の昼間。参禅者全員で力の限り「ムー」と叫びます。坐禅堂が震えます。
 
 たぶん古参の参禅者が新参者を見性させる為に、全力を振り絞り、背中を押す作業なのではないかと思っています。
 新参者は力尽きて、力なく「ムー」となる人もいます。(力尽きて、覚醒する人もいます)
力も湧くし、頭が音でしびれます。無字でいっぱいにさせてしまう、とい働きかもしれません。

 背中を無字の叫び声に押されて、背筋がのびます。つられて私も大声で無字を叫びます。

今、そんな気分です。

No.7139 - 2019/11/27(Wed) 19:58:30

Re: 今日はのんびり雨の休日 / 勘太郎
 しばらく忙しい日々が続きました。今日はのんびり、お昼は、お好み焼き。パリッとできませんでしたが、それなりに美味しくたべました。

 昨年は職場でそりの合わない人との軋轢で心安らかでいる事ができなかった。
振り返えって考えると、どうしても私は不当に扱われている、私は正当で、そりの合わない人は性格がゆがんだ人だと感じてしまっていました。

 どこにでもある人間関係だから、そういう人間関係バージョンだと諦めて、過ごせばよかったなあ〜と思います。自分を無限関係バージョンの中の特定状況を自分でズームインしていたように思います。

 こんどそういう職場になった時は無限バージョンの一つと思えるかなあ? それとも、やっぱり自分を不幸の典型とかんじてしまうかなあ?そんなことをおもいました。

 自我の拡大について、トラックの運転手は大型トラックの前端から後端までが自分、これを拡大解釈すると自分は地球。との書いてあるのを読んで納得しました。

 親猫が明日養子に行きます。乳離れもほぼ済んで、先ほど獣医さんで駆虫薬とワクチン投与してきました。別の人に行く、子猫は風邪ひいたので来年までずれ込みそうです。まだ、目ヤニがひどいです。

No.7140 - 2019/12/02(Mon) 13:31:34

Re: 職場で人に悩んでいた頃の投稿捜して / 勘太郎
過去を読み返すとその時理解できなかった事が理解できる、様な気がします。自己解釈・勝手解釈なのですけれども。

そうして、暇な時間をなんだか得した様な気分で過ごします。損得の言葉が、私の心の状態(欲望でいっぱいの)を現わしているのが自分でも面白いです。

No.7141 - 2019/12/02(Mon) 17:11:17

Re: 雪にも慣れて、いつもの初冬 / ubik0101
ギクシャクした人間関係を改善したいから悩むのでしょうか?それが改善したとして、なにか良いことがありますか?

もしかして気分が良い、楽しい・・・そのことと、勘太郎さんの望みが悟りだとして、なんか関係があるのでしょうか。

人間関係に悩むことで悟った、という実例があるのかないのか知りませんが、人間関係について考えるのは、無駄な努力をしてるような気もします。

好きな人は好き、嫌いな人は嫌い、どっちというわけではないなら、それはそれ・・・次の職場ではどうするこうするではなく、その場その場で力を尽くそうで充分・・・と言ったら言い過ぎですか?

もちろん好きでも嫌いでも公平に対応しよう。不公平でありたい気持ちに負けないようにしよう。とか考えたり行動することはありでしょう。

こちらは会社の人間関係なら、好いも悪いも、会社の玄関を一歩でたら、総て忘れる、そんな感じでした。

たとえば銀座にあった広告代理店でそれまで4〜5人でやってた制作部を1人で回したけど、給料は悲惨だった、ずるい人がたくさんいたんでしょう。

無字について考えるとは、趙州が、無、と答えたその意味を探れ、ということなのでしょうか?人間関係に悩むことは、無字を考えるほど命がけの重要なことでしょうか。

No.7142 - 2019/12/02(Mon) 19:32:41

Re: その場、その場で全力を尽くす / 勘太郎
 よく、読むと深い言葉です。世間にありふれた言葉ですけれども、前後の思惑無く、今できる事を行う。

 昨日は死ぬ事について考えました。
わからないながら、どうも、私の本質はおいらの心には無いらしい、出来事に関わるらしい。
 
 おいらという気持ちは、出来事の後(付属して)に意識に現れるものらしい。とすると、じゃんけんをして負けたと云うできごとがある。その後で悔しい気持ちが起こり、それに付随して自分がくやしがるという主語が起こる。

 死ぬという出来事が起こっていない今は、死に付随する私がまだ起こっていない。死ぬ主体である私が居ない時に、その私の死を考える。
 ボイラー室でひとり、豚のすき焼き(昨日の残り)を温めてたべている自分が起こる。その起こった自分が主体となって、起きていない「死ぬ」という出来事の主体を想像して死んだらどうなる?と考える。

 こんな事を「死んだらどうなる?と考える前に、自分はなにものであるか?知っているのか」とのニサルガダッタマハラジの言葉になるのかなと思いました。

No.7143 - 2019/12/05(Thu) 07:36:41

Re: 雪にも慣れて、いつもの初冬 / ubik0101
そうです。なんであれ、思うことによって、話すことによって、行動することによって、そうしてる仮の自分が成立します。とくに思考だけが問題だ、というわけではありません。

ある時、横浜あたりでしたか、知人と歩いてて、道で子共を大声で怒ってる主婦がいました。そこで・・・あの主婦は自分が怒ってると思ってるのだろうけど、怒ってることで、その自分が作られてるんだ・・・と話しました。

たとえばジャンケンした、その時間を遡って、ジャンケンをする前から、ジャンケンをする主体が仮に設定される。自分がジャンケンをしたのだ。という虚構・・・仮の主体、自我、の仕組みは、たったこれだけです。

No.7144 - 2019/12/05(Thu) 20:27:12