おおむねですが、自由意思がある、ないというのは・・・私が、創造者であるか、被造物、つまり自我か・・・ということに帰着するようです。
とても説明ですが、私が万軍の主、創造者なら、自由意思があると言うのではないでしょうか。そして簡単に言うと、自由意思がないというのは、創るのではなく、創られた自我の感覚です。
ところで、私が話す、私が考える、私が行為するというのではなく、話す、考える、行為することによって、私が予めあるかのよに時間を遡って設定される。このことの意味は、その虚構である自我が、世界に創ってもらってるということです。
それなのにまず自分が予めあって、自分が話す、自分が考える自分が行為する。と見なすのは、普通に言う自我の特性です。仮の、贋の主体が自らを主体と見なしたいということです。
このように自我は世界の子ですし、時間の子で、虚構ですが、そんなことによって自らをあらしめようとしてるのではないでしょうか。
そんな自我は、たとえばその話したこと、考えたこと、行為したことの子ですから、その親である、話したこと考えたこと行為したことを守らねばなりません。
どんなことでも、事実に反することでも、自我は正しくなくてはならない、育たなくてはならない、守らなくてはならない、ほかの意見を非難し、自分の意見を正当化したりする必要があるのでしょう。
これは日常に観察されますが、なにか自分があって、なにかするのではなく、なにかすることでその中心が予め時間を遡って設定される、その虚構である自我の仕組みは。自我の完成、おなじことですが自我の壊滅と、真我の発現の関係にあって開示されることで、日常で観察されることではないです。
そんなことが開示された人が誰であれ、自由意思がある、ないは、問題にされえません。自我と真我の対比が成立しないからです。
とても説明ですが、ひとつの説明ですが、自我の中心は、ない、ですが、真我も、あるにありきって、ない、です。
とくに、自我はそれを守ろうとしますが、自我を壊滅するために苦痛や苦悩は役に立つことはあっても、とくにそうでなくてはならないということはないです。
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No.7164 - 2020/01/20(Mon) 23:43:49
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