[
掲示板に戻る
]
記事No.7188に関するスレッドです
★
感想
/ お節介な見物人
引用
ubik0101&hato 様
お誘いありがとうございます。
主催されているお方とお見受けいたしました。
適切なアドバイスをされて喜ばれているようでいいのではないでしょうか。
私ごときの出る幕はないかと思われます。
ご活躍を祈念いたします。
No.7177 - 2020/01/26(Sun) 13:01:48
☆
Re: 感想
/ ubik0101
引用
なんか、それらしい話をしてるようですが、体験した人の話にある、香りがない、なぜなんだろう・・・知識による知的理解かな・・・あるいは、お節介な見物人さんにとって、愚さんのブログは馴染みがないので、こんな文章になることもあるのかな?と思っていたのです。
こちら名前も年齢も性別もない、たんなる料理人です。
No.7178 - 2020/01/26(Sun) 19:26:30
☆
Re: どうにもなりませんけれども
/ 勘太郎
引用
楽しいです。
葬式坊主の説教とは違って、退屈しません。
No.7179 - 2020/01/27(Mon) 19:03:13
☆
Re: 感想
/ hato
引用
なんか、とても儀礼的な感想で、すごくがっかりしました。ま、仕方ないことです。
No.7180 - 2020/01/27(Mon) 23:10:48
☆
Re: 自分を観察する、とは
/ 勘太郎
引用
只管打座(思考を流す)を言葉で具体的に説明すると。
心に現れる思考を(猫が鳴いた・猫がないた・打ち間違えた・ストーブ―を少し強めるかな・カーテンを開けるかな)確認し続けて、自分が何を思考しているのかを観察し続ける事の様に思っています。
しかしながら、子供の時から自分を観察し続けています。町子ちゃんに好かれたいなあ〜と願っているなあと感じたのは小学校低学年。
観察者と観察される者が分かれないと、自分の心を観察できないのです。この場合は時間を使って一瞬前の自分の心を少し遅れて、自分の心で観察するという事なんでしょうけれども。
無字の公案は此処を解決するために、ムーと叫び時間を使わないで、観察者と観察される者を繋げるのかな、と思います。
「似て非なるもの」という言葉があります。オイラの理解は、非なるものを似てると理解しているのでしょう。
No.7181 - 2020/01/28(Tue) 07:16:57
☆
Re: 感想
/ ubik0101
引用
こちらにとってですが・・・自己観察とは・・・たとえば町子ちゃんに好かれたい。そのことをそのまま認めるということではなかったです。なぜ、町子ちゃんに好かれたいのか、この自分の有り様、その原因を探るということでした。
また失恋した、苦しい・・・どうして苦しいのだろう。これを探ることでした。そのためには、そのわけの分からない苦しさから逃げては探れないのです。人は言います。時間が解決する。いいえ、時間が解決するような些細なことではないです。
そいえば、♫この果てしない悲しさの〜救〜いは、ないだろかー。という歌が流行りましたが・・・この果てしない悲しさの〜仕組〜みは何だろか?で、なくてはいけないと思いました。
そんな・・・この苦しさは、なぜ苦しさなんだろう、この悲しさはなぜ悲しさなんだろう。この原因は、ある意味、簡単なのですが、言わないでおきます。
ともかく、これは、なぜ、これ?これが自己観察の姿勢でした。それで思考についてですが、この思考は、なぜ生起した?その理由、原因、前提を探ります。思考の発生源に切り込むということです。
こちらはしたことないのですが・・・もし只管打座(思考を流す)なら、思考に歯止めを掛けない、どこまでも考え続ける、思考して思考して思考し尽くすのでした。
なんでもいいですが、たとえば、因果だから自由意志はない、と思考したとします。そこから、あれこれ演繹するのもいいですが、ありとあらゆることにそれは適応できるか整合性があるか試してみる。また、この思考の中心に切り込みます。たとえば、
こう思考してるけど、自分は、因果の端から端まで始まりから終わりまで、あるいは森羅万象を知ってるだろうか?
そもそも、なぜ因果は因果なのか知ってるだろうか?
もしかしたら、自分が無知だから、知ってることしか知らないから、因果だから自由意志はない、という思考が成立するのかもしれない。
たぶん、因果だから自由意志はない、というのは所謂、思考かもしれない。。。こんなことを見るにはメタ現実、メタ世界、メタ思考である、言葉の翼を使います。
こう思考することは、まったくあり得ないことは思考できないだろうから、なんだ、私は思考に踊らされてるんだ、無知なんだ。あるいは傲慢なんだ。因果と自由意志を結びつける必要はどこにある・・・こんなことが、ここでいう実況中継です。
たしかに・・・自分を無知、傲慢にしてきたのは誰でもない自分ですし、それは隠されてなければ成立しないので、それを露わに見ることが、その無意識の束縛から解きほぐすことです。仏教では因果の生起と壊滅を言うようですし、生起だけに眼をやる必要はないです。
ここは、観察されるものと観察するものが分かれてるとか一体とか、時間差とか、いうこともないのではないですか。こう話すことは、
ひとつの喩え話です。このような観察は、その人それぞれの経緯のことなので、その人にしかできないし、その人の日常の事実が大事です。
No.7182 - 2020/01/28(Tue) 10:21:07
☆
Re: ぱっと思いついた解答なので
/ 勘太郎
引用
もうしばらく考えてみます。
ぱっとの解答。
>なぜ苦しいのだろう。苦しい原因はなんだろう?
なぜ悲しいのだろう?<
哀しい自分を焙り出すため。オイラがヒーロー・ヒロインに成る事ができますから、自分の中で。
哀しいとか、辛いという感情は、おいらは快感に感じます。哀しいのが楽しいです。
だから、哀しい失恋の歌が流行る。
憎い、辛い、苦しいも快感かもしれません。だから繰り返し想い出す。
哀しいは本当に快感です。(この感覚は思いつきではなく、オイラの今のところの確たる思考です)
たぶん、哀しいをたのしんでいるのです。
これも思い付き
自由意志について深く考えたことは無いのです(自由意志が有っても無くてもオイラの生活には影響しないように感じるのです)
自由意志って、「今の有様をどのように受け取るかはオイラの勝手だよ」っという事なのか?と思いつきました。
叱られて、有難いと思うか、此畜生!か?
日が暮れて、哀しくなるか、暖かいご飯を食べようか?。雪が降ってくそ!この忙しいのに雪かきか!と感じるか、雪かきで運動不足が解消して有難いと思うか?それぞれの個人の自由意志です。
もう一つ掘り下げると、自由意志が有るか無いかを感じるのも個人の自由となるように思います。
謎解きは面白いです。大概外れます。
No.7183 - 2020/01/28(Tue) 19:13:47
☆
Re: 感想
/ ubik0101
引用
なぜ苦しいのだろう。悲しいのだろう。それを楽しんでる・・・それはそうですが・・・苦しみ悲しみの原因は、そうで、ないです。でも簡単です。いずれ解けます。
たとえば。道が左右に分かれてるとして、右に行くことも、左に行くことも出来ます。石に躓いて転ぶこともあります。それで怪我をする、死ぬこともあります。これは、右に行くことができるから、右に行くことができる。怪我をする、死ぬことができるから、そうあることができる。(反面そうできるようにできてないことは絶対にできない)。なにかできる事、雪かきで運動になる、あるいは糞と感じる、それはそう感じるようにできてるから感じる事ができる。自由だと思うことができるのも、そう思うことができるから思うことができる。自由意志が有るか無いかを感じるのも個人の自由。これが不自由。絶対不自由。
No.7184 - 2020/01/28(Tue) 20:09:32
☆
Re:絶対不自由とオイラは感じる
/ 勘太郎
引用
でも、現実は絶対自由。
ここは謎解きと云うよりも、目が外を見てるか?オイラの心を見ているかの違いなんでしょう。
なぜ苦しい? の謎解きは続いています。良く探ってみます。
論理で云うと。
今有るオイラをそのまま維持しようとするから、困難が立ちはだかります。
苦しいは、現状維持ができない、です。
哀しみは去って行ってしまった現状を懐かしむ感情。
(大概の場合は現状維持欲望です。遠大な野望とか云うモノもおらが思うに、現状維持です)
今の答えです。
違うよのアドバイスをお願いします。まるで下手な鉄砲数打ちゃ当たるになってしまいますけれども。
No.7185 - 2020/01/29(Wed) 18:19:34
☆
Re: 感想
/ ubik0101&hato
引用
こちらにとって絶対不自由・・・これ以上の難問はなかったです。
すごく簡単です。この今と、ありたい今。ありたくない今との段差、落差。あるいは、ありたくなかった今と、ありたかった今・・・この今と今に・・・段差、落差がある。今が分裂してる。あるいはそれを一致させようとすること、というだけです。
ubik0101
人は誤るために、苦しみ、悲しみます。あるいはまた、苦とは人が自身を感じられる、最も強力なツールとも言えるので、無意識にも、苦に拘泥することがあるのでしょう。苦を学び、翻って進むことができるとは、世界の最上の配慮のように思います。
最大の悲しみは、無明として世界に生きようとすることで、その自体が空である故に、解消され得る苦であり、悲しみであると思います。
hato
No.7186 - 2020/01/29(Wed) 21:17:54
☆
Re:絶対不自由、 明快なお答えです。
/ 勘太郎
引用
苦はジャンプアップの踏みきり台であるという認識はあります。
一つの苦を解決しても、無限の苦が待ち構えていることを知ると、解決するためには、相手ではなく自分に問題があると解ります。
心理学とか学んでも、根本の解決にはなりません。
煩悩が菩提の起爆剤。
人間関係の軋轢は特にそう思います。
No.7187 - 2020/01/30(Thu) 07:17:26
☆
Re: 感想
/ hato
引用
苦を学ぶとは、文字通り、その自分=苦、であることを学ぶ、ということと思います。その自我が、本来ないのにも係らず、在ろう、在らねばならない、として、なくてもよいところで我を張っているとしたら、それがとくになくてもよい苦という、誤りなのでしょう。
気が付く、その自体を見る、ことが、この意味での苦を学ぶ、ということで、これは心理学とかに拘らず、本来あるわけでもない自我が誇張される、その有様を余すところなく見る、しかも的確に見る必要がある、ということです。それが、自分を理解する、解消する、ということ。
これはいつか自分が迷ったとき、うまく言えませんが、かけがえない人から頂いた大事なこと、人生を通じて大きく励まされたことのひとつです。
裏庭に、いつか誰かが植えた杉が一本あります。台風で斜めになったり、枝が折れたり散々ですが、車で走って帰ってくるとき、この杉が見ます。
No.7188 - 2020/01/31(Fri) 00:10:42
☆
Re: 感想
/ ubik0101
引用
たとえば、ただ1人で寛いでる時、そこに人間関係の悩みがあるでしょうか?あるとしたら、その悩みは、上司がどうした、同僚が、隣人がああ言った。
それと自分の関係を考えるということが悩みなら・・・それは総て空想でしょう?だって、その上司とか、同僚、隣人、そこにいないのです。
実はその時、誰かがどう考えてるかなんて、知りようもないでしょう。そんな苦痛て、ひとり噂話でしょう。噂話は美しくないです。運転中、そんな悩みを抱えてたら、困るでしょう。
悩むのもいいかもしれませんが、その原因を探る・・・いい人に見られたい、承認要求かな?・・・とか探るのも大事ですし、原因を見つけたら悩みは去るでしょう。でも、
なんだか自分が悩みそうな感じがあったら、直ぐ様それを切り捨てる。透明な空気。ちょっとした決断。ちょっとした勇気。これも、けっこう力がつく、悩みの使い方です。
ほとんどの悩みは、悩むべきことではないことを悩んでるのではないですか。そしてそんな人間関係にあっても、悩んでないときだって、いくらでもあるでしょう。
みんなが同じような空想の悩みをしてるから悩みが事実のように、あるいは思考には事実と空想を識別する機能がないというだけでしょう。
なんだかですが、勘太郎さんの情の厚いこと、それが邪魔になってるような気がするので、言ってみました。
No.7189 - 2020/01/31(Fri) 08:26:24
☆
Re: この杉が見ます。が面白い表現です
/ 勘太郎
引用
悩む必要のない事で悩んでいます。指摘されると、ふと我に返って、心配や嫌な感情、反省(後悔)は重要度で振り分けると、重要な心配は無いか、或はおいらの関与できる外にある事などに成ると思います。
想像上の延長、思案の連続の結果の心配。病気になって苦しむ様になったらどうしよう…あたふた。
情が厚いとも言えるかもしれませんけれども、掘り下げると小心やら、こすい(ずるい)下手にでて、おこぼれを欲しがる。そうでもあります。
おいら自身も一筋縄ではいきません。自分の事ながら困った性格です。
No.7190 - 2020/01/31(Fri) 18:38:43