人は自由だとします。そこで世界に人が2人しかいないとします。
それだけで言葉が違う、行動が違う、その関係だけで、自由がない、と・・・この世界には実際は約70億人・・・老若男女・・・つまり自由ということが、そのまま自由がない・・・と感じられることになるでしょう。
もちろん世界の物理法則、これだけで不自由です。そこで、重力があるかないか?議論することもできるでしょう。でも、それそのことは何か解らないので、その機能について議論することになるかもしれません。
ある人は言うかもしれません。重力は束縛だ。また、ある人は言うかもしれません。重力があるから、歩けるし、空を飛ぶこともできるのだ。これは事実ですが、すでに思考の領域です。
くり返します。この世界では、自由は、不自由として現れます。これで充分ですが、もっと言うと、不自由が自由の証明です。
この逆、不自由だと気がついたら自由だ。たとえば人は不自由だ、でも歩けるし自転車にも乗れる。なんだ自由なんだ。という経緯は、自我の印象です。いくら何でも、まず、そんな自由の了解は納得できないと思います。
やはり真我と自我の関係にあって問われることのようです。その対比がなければ問われることはないでしょう。
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No.7191 - 2020/02/12(Wed) 07:06:46
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