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記事No.7213に関するスレッドです

スペイン風邪はしぶとかった / 勘太郎
1918年3月にアメリカに始まり、第1波は5月から6月にヨロッパで流行。

第2波は、その年の秋から全世界で流行し
第3波は 翌年の春から全世界で流行した

当時の日本の人口が5500万人でスペイン風邪による死者は39万人。世界では5千万人から1億人の死者。

私は、春になれば、流行は納まると思っていましたけれども、どうなるのでしょうかね?運を天に任せて(手洗い等の防御はします)明日は菜園の種の交換会に行ってきます。

政府や厚生省を非難する声もありますけれども、人の往来を止める事はできないし、後から批評はどうとでもできます。誰がどう何を行うのか?解りませんけれども、運を天に任せるしかないと思っています。

No.7206 - 2020/02/23(Sun) 21:46:30

Re: スペイン風邪はしぶとかった / ubik0101
こちら帰宅後は、手洗い、歯磨きをしています。そのほかのことはあまり考えることもないです。昨日今日は夜遅くまで働きました。
No.7207 - 2020/02/24(Mon) 23:55:07

そのようにすろ。 / ubik0101
たとえば不公平・・・嫉妬や偽善を理解したら、日常を実際に、そうでなくあるよに生きる。その決意、行為まで、その理解に含まれます。

なんでもいいですが、私は優柔不断だなと理解したら、傲慢だなと理解したら、欲が強いと理解したら、そのようでなく生きる日常に生きる。

ただ何の理由もなく、素直であればいい・・・小心者と気がついたら、たとえば傍若無人であるのではなく、そんな自分だと諦めるのでもなく、

ほかの誰かを根拠にすることでもなく・・・それは自分の感情や思考に正直、素直だということで・・・ただ何の理由もなく、素直でいい。

たとえば誰かの眼を気にしている、と気がついたら、ほかに何も求めず、ただ誰かの眼を気にしないだけでいいい。自分が嘘つきと気がついたら、

正直であろうとするのではなく、嘘を言うことを止める。ただそれだけです。そんな日常こそ探求です。たとえば恥ずかしいとことをして、

自分を正当化するのではなく、もう二度と同じようなことはしないという決意する・・・あるとして業とかは、葛藤は根から消えます。

No.7208 - 2020/02/25(Tue) 18:26:26

そのようにすると似ていると思います / 勘太郎
 善意は無敵」と思います。

仏教ではこれを捨身し虎(お腹の空いた虎に我が身を与える。
キリスト教では右の頬を打たれたら、左の頬をさしだせ。

自分が良いと思う事を行うと、なんの後悔もなく過ごすことが出来ます。我欲に駆られた、とげのある行為は成功しても、うしろめたさが残ります。
葛藤が消えるとおもいます。

今日のお話はとても具体的でグサッときます。

今朝の中島公園です。
仕事を終えて帰りに通ったら、枝の雪が融け落ちてました。

No.7209 - 2020/02/25(Tue) 18:55:05

Re: 私の精神はどこに所属する? / 勘太郎
インドのパパジという方の問答で
質問者「私の精神は身体に依存するのですか?」
答え 「精神が無ければ、私の肉体と云う物に気が付きません」

おいらの身体は地球に所属します(見ているおいらの対象で、おいらとは別の物であるように思います)

そこで。おいらの精神はどこに所属するのでしょう?と云う疑問が湧きます。

精神の所属は解らないながら、精神と身体は別れています。 
正解は、そんなことは考えるな、だと思います。解らない事を考えて時間を無駄に過ごすな!

でも、やっぱり考えてしまいます。
考えないで空を見ていれば、空があります。

精神の所属を考えるとおらの身体以外にはありません。身体はおらの物ではありません。精神はどこかに拡散して霧散してしまいます。

感情とか思考はどこかに有る大きな袋の中に詰まっています。おいらの機能というか教育なのか、おいらがいつもなにかないかなあ?とこの袋の中を探っています。「犬も歩けば棒に当たる」状態です。ちょっと現実と関連するかな?と感じる感情・思考を引っ張り出して表に出してきます。
何もかもが全部入っている大きな袋を私と呼んでいるような気がします。

No.7210 - 2020/02/27(Thu) 15:30:03

Re: スペイン風邪はしぶとかった / ubik0101
そいえば松田優作が命に関る病気になって、禅寺に行き、精神は肉体を超えられるか?と質問したそうです。

どう返事されたかは知りませんが・・・自分を、知覚できえる肉体や感情や思考と・・・知覚できえない何か、と分別すると仮定して・・・その知覚できない何かを精神と呼んでるのでしょうか。

インドのババジも知りませんが、

>質問者「私の精神は身体に依存するのですか?」
>答え 「精神が無ければ、私の肉体と云う物に気が付きません」


それ自身は気がつかれない、肉体に気がつくなにかがある、という問答なのでしょうか。そうだとして、それは対象にならないので、あるとかないとかではないでしょう。これだけでは解りませんが、精神て、自我のことを、あるいは真我のことを言ってるのかもしれません。

ところで精神と肉体と仮に分別したとして考えられてるなら、その前提からして、その精神の所属は肉体ということになるでしょう。けど、肉体の所属は精神だ、もなくては不公平な思考かもしれません。また、実際は、どちらも対象にならず掴めないのですから、どちらがどちらに所属があるわけないでしょう。

>精神の所属を考えるとおらの身体以外にはありません。身体はおらの物ではありません。精神はどこかに拡散して霧散してしまいます。

それで。精神も自分のものではない、では?

>感情とか思考はどこかに有る大きな袋の中に詰まっています。おいらの機能というか教育なのか、おいらがいつもなにかないかなあ?とこの袋の中を探っています。「犬も歩けば棒に当たる」状態です。ちょっと現実と関連するかな?と感じる感情・思考を引っ張り出して表に出してきます。
>何もかもが全部入っている大きな袋を私と呼んでいるような気がします。


それで。その袋が、ないって。ことです。

No.7211 - 2020/02/27(Thu) 20:12:01

Re: スペイン風邪はしぶとかった / ubik0101
意識とはその内容だ。ではなくて、内容だけ、なのです。
No.7212 - 2020/02/27(Thu) 20:38:37

Re: スペイン風邪はしぶとかった / hato

すこし前、梅園に行ってきました。

No.7213 - 2020/02/27(Thu) 21:52:30

Re: スペイン風邪はしぶとかった / hato

小太郎です。

No.7214 - 2020/02/27(Thu) 21:53:41

Re: スペイン風邪はしぶとかった / ubik0101
小太郎に似てるつっ。
No.7215 - 2020/02/27(Thu) 23:40:43

Re: 品川東照寺の接心は中止となりました / 勘太郎
残念ですけれども仕方がありません。

自分は抽象、と言います。これを少し解りました。

No7211に書いてくださった事を何回も眺めました。

大きな袋は無限に大きいので自我には理解できない。そこで便宜的に仮想の袋を思い描いてその中でのことして、出来事や感情を取り扱います。

仮想の袋だから、堺を調べても解かりません。

身体においては皮膚の内側を仮に私として言動の基としておく。これも単なる決め事だから実質の意味は無く、堺も当然どこだかあいまいになります。

精神と身体が別れているはずがないのですけれども解れていると仮定すして、取り扱う。

ミミズの研究で有名なダーウインは、脳の無いミミズが葉のどこを掴んで運び、巣に蓋をして雨水を防ぐのを解かっていることを観察して驚いています。

葉もミミズも雨も土の穴も一つのものなので、脳の無いミミズが社会生活を送れるのでしょう。

室内飼育になってもうすぐ40日経つ犬は、おいらにハグされるのが嫌でおらが帰宅すると部屋の隅に避難します。しばらく様子をうかがって、ハグされないと感じるとベットに戻ります。気の毒ですが、どうしても触ってしまいます、可愛くて。
野良犬は子供の頃の癖が抜けにくく、産まれてから2月過ぎまで野良で育つと人に馴れにくい犬も出てくるそうです。

No.7216 - 2020/02/28(Fri) 13:12:48

Re: スペイン風邪はしぶとかった / hato

ウィルスの猛威、はやく収束するといいですね。

>自分は抽象、と言います。これを少し解りました。

こちらは自分とか自己について、便宜的に仮想の袋・・と考えたこと、・・見たことがないです。空想上の袋のなかでのこととして、出来事や感情を取り扱う・・・より、そのまま、このまま、・・として見ることが、事実に踏み込むのではないでしょうか。ないものはないままで。本当に、袋のなかにいる・・と感じるでしょうか?実際とは常に、思考で見立てた空想に逡巡できないところ、と思います。


>精神と身体が別れているはずがないのですけれども解れていると仮定すして、取り扱う。

自分は幼少の頃、1歳半くらい?かと思いますが、初めてベビー箪笥に捕まり立ちをしたとき、その瞬間、わたし、であるはずの意識は、ふいに母であり、(母の驚きと喜び、その感情と思考、言葉を母として意識しており、)ふいに父(父の驚きと喜び、その感情と思考、言葉を父として意識しており、)であった、・・という体験をしました。

自我が確立される以前で、意識の置き場所が不安定だった、として、実際、自我というのはあるとして元来、世界に生きるための意識の置き場所、定点というくらいなことかと思います。先の体験のようにあっちこっちに焦点が飛んでいたら、きちんと生活できない、学びにくい、なことでは、と思います。

世界(眼耳鼻舌身意)とその世界、は、人の道具であり、自己であり、それ故つねに不可-思議、であり、・・・ではないでしょうか。


それにしても勘太郎さんの情の篤さが見えるようです。いいなあ。犬さん、伝わらないなんて残念。ubik0101さんは、「コタロウ!コタロウ!ナナ!ナナ!」{ノンノン!、チュリル!」と呼んで、みてるのが精一杯なかわいがり。好んで触るってことはまず、ありませんよ(笑)。わたしは猫も鳥もキュッキュ抱きしめちゃうんですけど、パパ、やっぱり神経症なのよー。ちょっと触るとすぐ手を洗ってます。でも、ノンノンとチュリルは、世話の甲斐があってか、けっこう懐いてるようです。

No.7217 - 2020/02/29(Sat) 00:23:05