[ 掲示板に戻る ]

記事No.7288に関するスレッドです

自我・・・世界/実在・・・真我 / ubik0101
ところで、まず自我とは、何でしょう?

ほかの人に向かって強い意見をする、怒る、くよくよ悩む、こだわる・・・いいえ・・・自我とは、仕組み、形式でしかありません。

それは、

その自分が予めあって、なにか話す、行動する、思考するのではなく・・・なにか話します、行動します、思考します。

そのことによって、そうする自分が、予めあるかのように時間を遡って作られます。

そしてその作られた自分が何か話し、行動し、思考したと感じる・・・虚構・・・その形式が自我です。

No.7281 - 2020/05/12(Tue) 06:09:05

Re: 自我・・・世界/実在・・・真我 / ubik0101
ほかの言い方では、世界がその人のために行ってるのに、その人がしてると思い違うことです。

またほかの言い方では、小さな苗木を支える支柱のようなことです。

No.7282 - 2020/05/12(Tue) 06:10:43

Re: 自我・・・世界/実在・・・真我 / ubik0101
そんな自我とは、その形式、構造そのことであり、その中身は、ない・・・空虚、です。

その空虚を形成する・・・構造、骨組みとなって、機能するのは、ありとあらゆること・・・たとえば、

この怒り、悲しみ、楽しさ、嬉しさ・・・歩く走る話す・・・知識、無知、真、善、美、醜、快、楽、苦、嘘、不快、好き、嫌い、損得、賛成、反対、時間、空間・・・いわゆる心理的思考、もちろん科学的、数学的思考・・・青い空、夜、銀河、宇宙・・・言葉・・・ほんとうに、ありとあらゆること、ありとありえないこと、森羅万象がその内容になりえます。

その人が何かをするのではなく、なにかをすることによってその人がつくられるのですから、そのしたことを守らざるを得ず、これが執着ということです。ほかの言い方では、自我は、その、ない、を守ってるのです。

No.7283 - 2020/05/12(Tue) 06:25:21

Re: 自我・・・世界/実在・・・真我 / ubik0101
では自我は何のために作られたのでしょう?

それは簡単です。真我の発現のために必要だからです。この真我の発現にあって、もう二度と使われることのないマジックの種明かしがなされるように・・・それは読んだり聞いたりされる知識ではなく・・・その用を終えた自我の仕組みが開示されます。その開示は、体験、の機能です。

No.7284 - 2020/05/12(Tue) 06:31:03

Re: 自我・・・世界/実在・・・真我 / ubik0101
もし人が誰か、自分は世界とか、総てはひとつとか、いうことを悟りとするなら、それは違います。悟りとは、真我の発現を意味します。世界からの解脱を意味します。

もし全ては1つとかいうことが悟りなら、たとえば自分のアイデンティティが身体から宇宙に拡大することが悟りなら、悟りは不要です。

よく言われるように、そいうことなら人は最初から悟っています。そんなことは悟りと言われるほどのことではないです。

なので、その自我は削除されれば問題解決というわけではありません。苦悩などの人生の問題が解決さえすれば、人生は問題ないというのではありません。自我は成長しそれから死ぬ必要があります。

No.7285 - 2020/05/12(Tue) 06:44:27

Re: 自我・・・世界/実在・・・真我 / ubik0101
くり返します。その人が予めあって、なにかをするのではありません。なにかすることによって、予め時間を遡ってその自分が仮定される、自我は虚構、ということです。

それは、行動する、話す、思考する人の総ての行いに適応されます。言われるように思考だけが問題なのではありません。なにか思考がなくても、話さなくても、行動しなくても、騒がしくても平穏でも、戦争でも平和でも、まったく自覚がなくても・・・その人が自我なら自我です。

なので自我の解決は、それら全ての解決です。それは解脱でしかあり得ないです。

No.7286 - 2020/05/12(Tue) 06:58:24

Re: 自我・・・世界/実在・・・真我 / ubik0101
ここで、その自我の形式が開示され、壊滅しました。すると、結果的に、どんなことでも、争いでも平穏でも、戦争でも平和でも、楽でも苦でも、自我であったことが了解されます。

その内容・・・つまり、ありとあらゆること、青い空、世界、数学の公式、怒り、喜び、悲しみ、思考、行動、幾年月・・・それは、それだけのことで・・・世界の機能であり・・・自我の働きではないと知れます。

ただどうしても、妬み、偽善、悔しさ、傲慢、卑下、苦悩とかは、その形式がなくなることで、それは機能しなくなります。そいうことは自我の形式がなくては機能することはできません。

しかし、妬み、偽善、悔しさ、苦悩とかは、その自我という形式が機能しないでも、機能しなくすることができます。それはその構造を理解することによって。

ただ自分のみを拠り所にして。ほかの言い方では、ほかのどんなことも拠り所にせず、否、ならず・・・自分は自分の対象にならないので、自分も拠り所にならない、素直、真摯であることによって。

No.7287 - 2020/05/12(Tue) 07:11:45

Re: 自我・・・世界/実在・・・真我 / hato

テレビのマツコさんという人が、家内生活にすっかり埋没していて、今後の社会復帰が心配・・というので、あら自分だけじゃなかった!と可笑しくなりました。

ubik0101さんは身体もうひと頑張り!のところ、季節の風は初夏の香りです。

ヤマトヌマエビ君の子。10日前の4ミリが、1センチ強に育ちました。

No.7288 - 2020/05/12(Tue) 14:01:12

Re: 自我がかくれんぼして 遊んでいます。 / 勘太郎
 猫の声を聴く、間髪を置かずに、時計の音を聴く、間髪を置かずに、キーボードを打つ。自我は陰に隠れて姿を隠します。また自我は霧の様に薄くなって視界の邪魔をしない様になります。そして条件により一寸先の見えない濃い暗黒にもなります。

濃い霧に包まれたら、動くのを止めて、鳥の鳴き声や微かにかおる、花の香りを嗅ぎます。時間が経つと霧は晴れます。

ここでは待つという時間が必要になります。或いは濃い霧そのものを見つめると霧は霧散します。影に隠れただけで、また出てきます。

ハトさんに笑われますけれども、またいつもの言葉が思考に浮かびます。「今日のお手紙は大変わかりやすく、私の理解が一歩進みました」
 現実はなに一つ変わりません。足踏み歩行です。

 そこでまた思います。足踏み歩行でも、筋力はつくだろう。いつかきっとジャンプするに違いない。待っていても仕方が無いので、待つことは止めて、焼き芋やさんの売り声に聞き入ります。

勤務先のホテルは200室以上あります。宴会その他はもちろん0.宿泊者は二人です。のっぴきならない事由があってキャンセルできないのでしょう。

No.7289 - 2020/05/12(Tue) 19:38:42

Re: 自我・・・世界/実在・・・真我 / hato

おはようございます。
今朝も爽やか、なんともいい朝です。

>ハトさんに笑われますけれど・・

自分は、勘太郎さんの言う、思う・・ところのハトさん、ではないので、人を見下して笑いません。そういうことをできません。けれど、自他を問わず、愚かさを見るとき、嘆かわしい、と思います。

自我は、愛着ある故に足かせになっている考え方、その有り様を、どこまでも、失いたくないのです。自分を理解することを、人はじつはわからないのではなく、理解出来ないのではなく、好んでそうしない、捨てない、です。理解するとは自我の死、その有り様を、維持できないことだからです。

そのための言い訳、理由を巧妙に作成して、毀誉褒貶(きよほうへん)に甘んじる自分から、変わらないでいたい、ということなのでしょう。

No.7290 - 2020/05/13(Wed) 08:39:15

Re: 誤解はしていません。 / 勘太郎
 勘太郎の性格上、他人から小ばかにされることも多かったです。それだからこそ、癖の指摘を不快に感じる事はありません。勘太郎の癖を自分で面白くて、書いた言葉です。
 明るく振る舞わないとならないという強迫観念。明るい人だと思われて、勘太郎を可愛がって欲しいという願望が卑下したような書き方をするのかもしれません。これもくだらない言い訳です。

お二方の書き込みに、鞭うたれる感覚があります。

No.7291 - 2020/05/13(Wed) 15:48:49

Re: 自我・・・世界/実在・・・真我 / hato

実態として空虚ながら、依存構造である自我ゆえの、残響のような陰影に、人は自ら気付くことがあり、それを指して自我だ、と感じるかも知れません。構造は依存関係でしかあることができません。人がその自我なら、なにをしてもしなくても、無でも有でも、強弱濃淡に係らず、人はただ自我その構造、その仕組みです。

例えば、可愛がられていたいという有り様は、まさになにかに依って有ろうとする、依存関係である自我の構造そのもので、じつは自らまんざらでもない、ことに気付いてないことがあると思います。

ここはなにかスピリチュアルな、希望的事態が目的になり得ない、どこまでも人の、成長に係ってること。それ以上でも以下でもない故に、なによりこの日常、生活が十分な道具となり、誰にでも開かれている、注意深くできるなら、いつでもどこでも自己をいく道です。

じつは傲慢であるところの甘えの構造、依頼心の全貌に理解が進むまで、自分に隠している嘘とごまかし、自分として無問題と放置している偏向(癖)や言動の、根本となる観念と事実を、正確に見なければならないと思います。

なぜそうしたのか、なぜそう考えたのか、

隠してあるのに、なぜ隠していることに気付けないのか、ばかにされたなら、自分がじつは見下していたのではないか?どんな観念があるのか。なぜ事実より世間体に甘んじるのか、頭のせいにしてないか、なぜその観念、思い込みに従属するのか、当然としているのか、しなければどうなると思うのか、なぜ信じてるのか、それは事実か?これはなにか?なにをしようとしてるのか?、なにか知ってると言えるか?本当に知ってるのか?・・・・、

道筋は個々それぞれに、丁寧に見ていくことができると思います。雑駁でない、繊細、且つ明確である必要があります。探求に文学的形容、装飾は不要です。

そうすればなにかが起こるか?
それは、わかりません。人によります。

ですが、しないよりは事実に近づくのであり、無用は削ぎ落され、生自体がよりシンプル、簡単になると思います。多く欺瞞や嘘、正確でない不明瞭なものを抱えたまま自己に向かう(これは単に言い方、表現です)ことは困難です。

自分をだまさない。また、不可思議に於ける、自己流解釈をいったん捨てると決意することは、助けになると思います。
或いはまた。これは憧れ夢見た覚醒ではないので、もうやめよう、これまで通り生きよう、ということも、あると思います。

誰もが、そこから。尚、無意識、意識的を問わず、敢えて直面する人がいる、ということだと思います。

No.7292 - 2020/05/16(Sat) 17:33:20