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記事No.7340に関するスレッドです

補足の続きです。 / ubik0101
すこし実例を話してみます。

この静かな岡の片田舎では、自治会というのがあって、たとえばそれが近隣だというだけで、まったく知らない家だとしても、通夜に行ったり、葬式の手伝いをすることになっています。

そこで、知らない人の通夜葬式には出ないと不満を言う人もいます。そんな機会があったので、

知らない人だから、ということは、通夜葬式に出ない、ということの理由にならない・・・そして・・・このことの理由は言わないけど、考えてみたらどうでしょう?と言ってみました。

すると、どうしてもその理由を言えと、言います。しかたなく、知らない人の通夜葬式に出たくない、というのは、自分中心ということでしょ。と答えました。

No.7325 - 2020/07/09(Thu) 21:31:09

Re: 補足の続きです。 / ubik0101
そこから、ああでもない、こうでもないの、通夜葬式に行かないことの正当性を守るための、思考と発言と行動が始まります。

そして世界は・・・その自分中心を正当化する材料を幾らでも供給し続けます。わたしは知らない人に香典をだすほど裕福ではない、面倒だから、もう時代は変わる。私の通夜葬式には誰も来なくていい。あなたは自己中ではないの?いったい自己中でない生き方て、どういうこと?・・・どうでしょう。

そのありとあらゆる思考が、自分中心を隠れた前提にしてるのではないでしょうか。その都度その都度、愚かな自分を守り、愚かな自分をつくってるのです。

No.7326 - 2020/07/09(Thu) 21:34:29

Re: 補足の続きです。 / hato

列島、大雨の7月初旬です。皆様もどうぞご無事でありますように。

こちら、いつかのルンルン。もう風になってしまったけど、いつも精一杯、「大好き」という気持ちを表現してくれたラブバード。
青い小鳥です。

No.7327 - 2020/07/09(Thu) 21:44:16

Re: 補足の続きです。 / ubik0101
そんな人が・・・人を変えるには自分が変わればいい、私は違う次元に生まれ変わる、なんの執着もない、もう終わった過去は問題にしない。みんな自己責任・・・とか言ったりするのです。自分のしたことが自分で分からないので、どこかから聞いたことを振りまいてる、この恥ずかしさに気がつかないのでしょう。

もちろん不公平でありたい人かもしれませんし、責任を負いたくない人かもしれませんし、不満をまき散らしたい人かもしれませんし、人にはいろんなことが複合してその人を隠してるものですが、言ったように、実際に話した人であれ、ほかの人のことは、ここで、どう考えても空想です。

このようなことを、その自己中な人が誰から聞いても、その自己中な人のためになりません。ここで話してることは噂話にすぎません。

ほとんど、自己責任は絶対ということ・・・それをも自我は自我を守る理由にします。そのように自我は、人と人の間に隠れて生きているのです。

ただ・・・自分の言動思考発言は自分で、誰もがそのまま解るでしょう?ただそのことを受け止めて・・・それから逃げずに・・・そうするその奥、それを探るだけなのです。

No.7328 - 2020/07/09(Thu) 21:46:15

Re: 補足の続きです。 / ubik0101
こんな簡単なことはないのに、ほとんどビデオも見ず、書も読まないけど、そうする人は、あまりいないかもしれません。世界にも、人にも、その準備はできています。それなのに、

ああでもない、こうでもない・・・変な言い方ですが、思考が外のことばかりを見て根拠に、その思考する中心を見ず、その見えない自分を守るのです。

そんな境はありませんが、あるとしても、ほんの薄皮一枚・・・これも変な言い方ですが、内を見ればいいだけです。

それだけで自我のつくった真我、いわゆる外の、あっちこっちを飛び回り自分のことを疎かにしながら、特別感、万能感を、それが嬉しいという、愚かさ・・・そんな思考、

こんなことが思考が問題だ。と言われる理由かもしれませんが・・・いいえ・・・思考ではなく、問題があるとしたら、その人が問題なのです。その問題を思考が正確に現してるのです。思考は導探求の頼りになるのです。

No.7329 - 2020/07/09(Thu) 21:57:19

Re: 補足の続きです。 / ubik0101
ところで、

ほんとうには、誰か人が自分中心だとしても、その理由がないのです。理由なく自己中なのです。この理由がなく、自己中ということは、最強の理由なのです。あるいは知識がある、あるいは裕福、あるいは家柄がいい、先祖に優れた人がいる・・・考えられることは、どんなことでも・・・自我にとっては理由になるとしても・・・理由にならないのです。

つまり理由は、理由なくあることのカモフラージュということもあります。なにか、誰かから理由を指摘されたとしても、自己中と言われても、それは単なる理由ですから、理由なくある自己中は生き残るのです。

威張ってる人は理由なく威張ってるし、卑下してる人は理由なく卑下してるのです。逆に言えば、理由がないのですから、この瞬間にも、そんなことにも縛られることもなくあれるのです。また理由なく公平、理由なく親切、理由なく誠実、であれるのです。

No.7330 - 2020/07/09(Thu) 22:23:01

Re: 補足の続きです。 / ubik0101
こんなことに、なんとなくでも気がついたら、理由なく生きる。そして理由なく生きることに縛られてしまうこともありますが、それが探求の経緯になったりします。

そういえば上司には絶対服従で、部下には服従を求める人がいました。それはそれなりの世界観なのでしょうし、大声で叫び、俺が俺がの、活動的な人でした。また上司には絶対服従で、部下には服従を求める人がいました。どちらかと言うと、陰険で、人の顔を窺って生きてる人もいました。

ほんとうに、ほんとうに、その人自身の問題、課題です。世界には準備はできてます。人にも探求の用意は整っています。

ゆっくり続きます。

No.7331 - 2020/07/09(Thu) 22:26:20

Re: 補足の続きです。 / hato

一昨日か前の夜中、ふいに思い出して、かなり久々に、ubik0101さんの、とある探求ノートを手に取りました。はたと開いて読みいくと、「うむ。これはかなりの天才に、違いない。」とは思うとして、人は正しく努力しょう!人生励もう。と力付けられるところがあります。

ubik0101さんの学生時代の探求ノートから、いくつか続きます。

No.7333 - 2020/07/09(Thu) 23:14:15

Re: また、ゆっくり続きをお願いいたします。 / 勘太郎
 こちらは青空、さっぱりした快晴です。
近隣の方が「九州の人たちは、みんなこっちに引っ越して来ればいいんだ」と言いました。

 この近隣の方にも、隠れた自分が居ます。

おらは、天候だけを取り出して、自分と比較しても生活全体の比較はできないと思っています。おらの中に隠れた自分が「おらは近隣の方より、隠れた自分に気が付いている」と思う自分が分かります。無限にこれが反射・反復します。

No.7334 - 2020/07/10(Fri) 08:36:59

Re: 補足の続きです。 / ubik0101
おそらく自分で自分を感じるというのは・・・楽しくもあり不安でもあり、自分がある?という確認作業かもしれません、が・・・それは、ものたりないということ、欠如、完全ではないということ・・・自我の構造が及ぼす影響でしょう。

そうではなく、自分を見る自分も見られる自分もないこと・・・確かめる必要がないということ、満ちているということであり・・・自我はないという意味でもありますが、真我(ある)は真我(ある)にありきって、ない、も無我と呼びます。

No.7335 - 2020/07/11(Sat) 17:48:47

Re: 補足の続きです。 / ubik0101
もすこし、この話を続けます。

たとえば通夜葬式に出る。出たくない。と考える言う行動する、考えない言わない行動しないということに関らず、自己中なら、自己中なのです。自己満なら、自己満。自己顕示なら自己顕示。強欲なら強欲。

ご飯を食べてるときも、TVを見てるときも、誰かと仲良くしてるときも。それは隠れていても・・・それは見えないけど、自己中なら、自己中なのです。自己満なら、自己満。自己顕示なら自己顕示。強欲なら強欲。まったく気がつく、縁(よすが)もないとしても、そなのです。けれど、

その、

その、たとえば知らない人の通夜葬式にはでないという思考が発言が行動が、発生する時。誰かと話す時、その人の話を聞かないで自分の思考を捲し立てる時、じっと相手の眼を見る時、怒る時、静かな時・・・この日常の普通の、その出来事、出来事が、不思議に、その自分の有り様を見せてくれる、絶妙な機微です。

たとえば通夜葬式に出ないと言ったのに出るとか、出ると言ったのに出ないとかもあるでしょう。この思考の意味は何?この発言の裏は何?この行動の前提は何?それが問えるのは、それが現われないことがあり、現われるので、問えるのです。そして、それが何であれ、たとえばゴミ捨て場に袋を持って行く、なんか仕事とかの作業をする・・・その都度その都度、なにか現われてないことなど、ないのです。ここでなにか思考や感情が起こるなら、

その眼の前、眼の前に展開されることに眼を奪われて、狭い範疇にいる。ということかもしれません。なにか考えたら、それをあらゆることに適応してみる、そして、それを自分に適応してみる・・・ことも役に立ちます。

また誰かを小馬鹿にして、拒否して、その小馬鹿にしてる一瞬前の自分を振り返って自己満を楽しむ・・・こいうことをしたら、恥ずかしいことですが、その恥ずかしさを引き受ける。でないのなら自分のしたことにも気がつかないで、自分を隠してる。ということかもしれません。ということに気がつく。

そこで、自分で自分を隠さないこと、誤摩化さないこと・・・それは他の誰かから見て、この自分のことは解らないだろうから、としてその自分を自分で隠す・・・人と人の間に隠れて生きる・・・そんな操作を知らず知らずしてるかもしれません。そこで、たとえ全知全能の神が見てなくても、私は私のことを知ってる。こんな決意も大事だったりします。

そして、自由を求めるなら、自由を求める。公平を求めるなら公平を求める。世間に疑問を持つなら、世間に疑問を持つこともあるでしょう。

あるいはしかし、世間や学校や会社には規制があって、自由を求めるなら、また公平を求めるなら・・・その自由とか、公平とか、世間とかの意味は・・・数学の公式のように前提にされ不問にされている・・・そのことを意味を探る。その言葉の定義をする。ここで人は、もう後戻りすることのない道に踏み出します。

これは素直であることによって。自分が自分でないことに自分の根拠を求めないことによって。つまり、どんなことにも見える聞こえる感じる思考できるどんなことにも、自分の根拠を求めないということで可能です。

こんなことで何をしてるのか?繰り返します。人が、世界の、その人の機能を学んでるのです。

ゆっくり続きます。

No.7336 - 2020/07/16(Thu) 21:03:42

Re: 補足の続きです。 / hato

庭に多くの、トネリコの木が植わってます。とあるひとつの樹が、6月かの初夏の頃、とても見事に花を咲かせました。

No.7337 - 2020/07/21(Tue) 23:19:12

Re: 補足の続きです。 / hato

なんとも美しく、目を引きました。

No.7338 - 2020/07/21(Tue) 23:20:00

Re: 補足の続きです。 / hato

7月に入り、とある猫散歩中、コタロウが立ち止まり、なにかを見てると思ったら、あのトネリコです。

なにやら黒い物体、カナブンか・・・と近づくと、あれ、カブトムシ!??

草むらにいるであろうのも含めて、30匹かそれ以上はいるのかも知れません。知らないうちにパラダイス化していました。調べてみると、こんなこと、あるのだそうです。カブトムシは、神奈川のアパートから10年ぶり。ちょうど思い出していたところで、驚きの再会です。

ほかにも沢山生えていますが、このトネリコが気に入りのようです。

No.7339 - 2020/07/21(Tue) 23:28:14

Re: 補足の続きです。 / hato

雨模様から数日蒸した晴れ日があったり、こんな気候がいいのかも知れません。独特な、西瓜に似た匂いが漂い、カブトムシ特有の、ジリリ、ジリリという、無機質な、心地わるくない音を出します。木の幹を削り進み、樹液を吸っています。

夏に入り、こちら仕事もすこしずつ本調子。いまのところ、まだ涼やかな朝晩に助けられてます。

No.7340 - 2020/07/21(Tue) 23:37:15

Re: カブトムシは不思議な形です / 勘太郎
 カブトムシの世界でしか通じない角の様に思えます。しかしながら、恐竜のトリケラトプスに似ています。 生き物はこんな形が好きなのかもしれません。
 
 天気予報が少し外れて、爽やかな快晴の朝です。このような天気の犬の散歩は特にたのしいです。

No.7341 - 2020/07/22(Wed) 08:56:07

探求ノートから / hato

ubik0101さんの若かりし頃の探求ノートから、少しずつ。

7.14

名称と形態

人は自己にとって個別者ではありませんが、他の人にとっては個別者です。

これは、ま、今の私の有り様を表している、としましょう。これについての批判をなし得ているわけではありませんから。というのも、愛は名称と形態を超えねばならないからです。

いや名称と形態を超えるものが愛であり、そのことを証明せねばなりません。

No.7342 - 2020/07/22(Wed) 21:37:37

Re: 補足の続きです。 / ubik0101
ちょっと書き忘れがありました。

それで、誰か他の人が、自己中だ。偽善者だ。嘘つきだ。と思う時、これを振り返ります。そ考えてる自分は、実は、自己中ではないのか?・・・なぜなら、まったく、そでないなら、他の誰かのことだとしても、そ考えることができるだろうか?

この、そ考えないところ、考えてないところ・・・その空気感・・・投影と、事実の認識はどう違う?・・・この微妙な一瞬の感覚。見えないけど、1人あることの、無意識の、なんか扉を開ける時だったように思います。

それは、他の誰かに向かって、馬鹿と言う人は馬鹿だ。自己中と言う人は自己中だ。ということはあるでしょう。それを自分に向かって、言う。その知覚できない、認識できないところに向かって、言った、ということです。

ゆっくり続きます。

No.7343 - 2020/07/26(Sun) 22:03:54