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記事No.7383に関するスレッドです

ubik0101探求ノートから / hato

6.24

名称と形態

僕はビールを飲むのが好きです。で、考えます。食べたり飲んだりすることは自身の中の楽しみである。(他人には関係なくあります。)

つまり、自分を超えて、せめて他人と出会うというようなことにはならないか、と考えます。多くの場合、ほとんどの場合、どのようなことも、ただ自分の見知らぬ自分の感情や感覚やらで、世界や他人を感じているだけであり、そうであるなら自我とは何の関わりもなくあるのであり、そんなものは(たとえ自分がどー思おうと、)どーでもいいものであるということを誤りだとすることがみつかるでしょうか。

No.7373 - 2020/07/31(Fri) 23:28:25

Re: ubik0101探求ノートから / hato

たとえば、他人のために何かいいことをしてあげることの方が、他人からされることより楽しいということがあったとします。ま、これは大体そうでしょう。それでもその相手からそれが受け取られないことがあります。

とすると、他人のためになることをすることが楽しいという感情は、単に、他人に向かう向かい方が正しいものでなくてはならない、ということを示すもので、(その感情が正当なものだということではないのですし、)単にこのように問題を見るようになるまでそれを忘れないようにしておかせるための快さ、ということになります。

そしてなおそれ以上に私たちは、私たちの感情や感覚が私たちだけのものであるだけでないようにしなくては、ということを指示します。

No.7374 - 2020/07/31(Fri) 23:29:20

Re: ubik0101探求ノートから / hato

他人のために何かよいことをしてあげたとして、それが受け取られたとすると、そこでその件については終わりです。そうなると、それは幸せでしょうが、受け取られない場合の不幸ほど多くのものを人に与えません。人に物によらず体によらず、何かしてあげることができるか?という問題を起こさせません。

もちろん世間でも受け取られた場合の幸せも決して満足いくものでないことを表しています。ギフトはより数多くしたいでしょうし、愛しているといく度も訴えたいでしょうから。

たとえば誰でもお金めあてに結婚した男や女を(しっとしているのでしょうが、)ケイベツします。それはもちろん相手の心や体の美しさや、自分の感情や感覚を根拠にして結婚することも同じです。

前者はただ意味も知らず、何だ重要なことでないものにとらわれて、と人をケイベツしているのです。そして後者の場合も同じです。

No.7375 - 2020/07/31(Fri) 23:30:37

Re: ubik0101探求ノートから / hato

人は名称と形態を超えてなお個別者でありましょうか。

感情や感覚は体に根ざしたものであり、体に根ざしたものは自我のあずかり知らぬものです。この体と自我(心)を区別できることは、ま、大したものです。

けれど、このようにして体と心の対立として身体と心が意識されますけれど、決してまだ心とは何か、の答えがここにあるわけではありません。この心と体との対立はただ、何か依存関係の側面を定着するための主題として現れているのです。

感情や感覚は身体に根差すもので、自分自身の知らぬものです。体に根ざしたものでなく、他人と関係することはできないか、と探す場合のみこの主題が奏でられます。

これはしかし、どうしても、人間が不幸である場合です。幸福な場合、どうしてもこれは考えにくいものです。つまり、感情や感覚は受け身の場合は(食物の例のように)不幸です。いや不幸のあり方が感情や感覚を受け身のあり方にするのです。不幸はだから、このような考えのしゅご者です。

もちろん幸福の場合も、もっと相手を幸せにしたいと努力するならば同じです。多くの場合のように単に感情や感覚が積極的になっているだけでないならば、同じです。

No.7376 - 2020/07/31(Fri) 23:32:02

Re: ubik0101探求ノートから / hato

1978.6.30

名称と形態

この世界のしくみについての解答のひとつとして「名称と形態」ということが考えられています。それは僕の思うところかなりの高得点をあげられていそうです。ただし及第点では多分ないかも知れません。この世界の有り様を観て「名称と形態」を理解することは、しかし人間が個別者であるがどーか?他の人が生きていることは付ということをまだ知らしめません。

なぜなら名称と形態をよー認することは、絶対の絶望を認めるということだ。

そりゃ、自分自身の有り方が名称と形態によることは全然かまわない。

しかし、人に愛や恋のあるとき、それは理不尽なものになる。

No.7377 - 2020/08/01(Sat) 23:39:36

Re: ubik0101探求ノートから / hato

7.3

名称と形態

僕はイエスキリストではありません。と、すると人間というのは根本的に個別者ということになるでしょう(か)。では僕が僕であることの原因となっているものは何でしょう。僕が他の誰かでないということは何によるのでしょう。(もちろん鉄ゴーシの中には、自称イエスがたくさんいるでしょうが)

では簡単にいって、体は僕の感覚は僕の感情は僕である、ということになるでしょうか?

とすると体や感覚や感情はその根拠もなにも自分自身に知らされてないのに、それが個別的なもの、ということになります。

とすると、体や感覚や感情の根拠を知らないというだけで、それは自我でない、とするのは早計ということになります。

もし人が個別者であるとすると、それ自体がまったくの不思議です。とある在るものがなくなる、つまり死ぬことがあるはずはありませんから。

あるいは人が、もし個別者でないとしたら、これはまた不思議です。

では、人は個別者であるからこそ、体によらず感覚によらず感情によらず在る、のかも知れません。では人は根本的に個別者なわけです。

人が個別者であるとするなら、個別者が個別者を生むこと、つまり誕生と、個別者が無くなること、つまり死は、不思議です。

人が個別者でないとするなら、人が生きていることが不思議です。

No.7378 - 2020/08/01(Sat) 23:40:46

Re: ubik0101探求ノートから / hato

7.5

とすると人は、他の人に対しては個別者であり、自分に対しては個別者でない、ことになりましょう。

No.7379 - 2020/08/01(Sat) 23:43:07

Re: ubik0101探求ノートから / hato

7.6

考えよーによっては、この有り方は非情に素直であります。どこまでも人をケンキョにします。

まわりのどのようなものも自我であるはずがありません。感覚(対象)も感情(対象)も、それの根拠は自我にありません。感情や感情の根拠を知らずあることは、その対象を我としないための有り方でしょう。

もし感覚、感情、対象が我であれば、つまり自己のまわりのものが我であれば、自我の個別性は失われてしまいます。ですから自我は、どのようなものでもなくあるものです。

感情や感覚は無根拠です。このことは自我は自我のまわりにあるものでは、対象ではない、ことを保ゴします。

僕は僕にとって個別者ではありません。しかしおなじよーに、個別者でないところのあなたがいます。これは何を意味するか。そうです、世界の有り様がこそ個別化であります。いや個別性こそ世界の有り業です。だから僕はあなたにとって個別者です。と、こういう考えは採らないことにしましょう。なぜならこれは何も理解したことになりませんから。

僕とあなたが在るそこの所を示せ。僕とあなたが違う存在であるそこのところを示せ。

自分が自分にとって個別的なものであるという根拠は何ひとつありません。というより個別者でないことを証拠だてています。感覚対象は個別的なものにみえます。

そして感覚ということ、というもの、は自己を示しません。

あなたがあなたであるところのものは何ですか?


→ すでに記載済の 7.14 名称と形態 → 7.25に続きます。

No.7380 - 2020/08/01(Sat) 23:45:35

Re: 真我ではない、自我が自我を探っても / 勘太郎
 自我が消えてしまうので、第3の自分が居る様にかんじることがあります。

 自我(感情・欲望)を探ろうとすると感情・欲望も見えなくなってしまいますので困ります。

 本日は 札幌市豊平区にある「カフェコロボックル」でワンコインの中華丼ぶりを食べました。みんなが無言で食べているので、不気味なきぶんでした。12時だったので満席、と言っても6席。本来は20席くらいなのでしょうけれど。不気味と言ってもそれに馴れてしまうのかもしれませんけれども、無言の食堂にラジオの音だけ。ゆっくり食事を楽しむという雰囲気ではなかったです。中には待ち合わせの人や本を読む人もいました。多くが常連さんみたいな感じでした。
https://sapporo-list.info/shop/koropokkuru/

No.7381 - 2020/08/03(Mon) 19:25:47

ところで、 / ubik0101
・・・石原慎太郎が、死んだら、虚無だ。と言ったそうです。そか?私なら、生きてても虚無なんだよ。死ななければ虚無てことはなかろう。どう違うのだ。と聞くでしょう。

・・・生きてて小説を書いても、どっかの海岸に弟の記念碑を建てても・・・俺が俺がとやってるときも、その自分はない、のです。とくに、死んでなくなるわけではありません。

またhatoさんが、覚者は寝てるときも意識がなくちゃと、誰かが言ったそうで、ちょっち変。とのことです。そんな人には、私なら、起きてても意識はない。と答えるよ、と答えました。

なにを勘太郎さんが言ってるのか解りませんが・・・自我が消えたとして、無我も消えた?そして第三の自分がいると、第三の自分が感じる?それは何?消えても自我は、このようだった。ということは認識できませんか?とくに感情、欲望が自我というわけでもないでしょう。

No.7382 - 2020/08/04(Tue) 00:08:34

Re: ubik0101探求ノートから / hato

自我を見るとは、たとえばubik0101さんの探求や文書を見ていても、ことさら欲望や感情を抽出して見る、との感じより、どちらかといえば、表出してくるその事態を言葉で見てる、ような、言い方がむつかしいですが、主体に重点のない無機質な感じです。

欲望や感情を対象にして、それを見る自分に、ことさら重点がいくのでなく、思考という、そこに起こる事実を見る感じです。そうしょうとしてするものでないでしょうが、大事なところです。

探求ノートはゆっくり続きます。飛び飛びでもいいよ、とのことで、そうなったり、日を順次追うこともあると思います。

画像はいつかの古家から。なんてきれいだったんでしょう。

No.7383 - 2020/08/05(Wed) 00:24:28

Re: ubik0101探求ノートから / ubik0101
たぶん、(たとえ自分のことでも)自分に知らないことがある、それを探ろう。という(そうとは意識されないけど)素直な有り様。

そでなく、知ってることしか知らないなら、知らないことなど(気がつかない)ので、ない。それだけで(意識されなくても)傲慢な有り様。

そうだと見えること見えることに飛びついて、勝手な因果をつくっては、自分でその傲慢な因果に捕われてしまう。こんなことに気がつくことはないだろうか。

No.7384 - 2020/08/05(Wed) 06:44:00

Re: ubik0101探求ノートから / 勘太郎
またhatoさんが、覚者は寝てるときも意識がなくちゃと、誰かが言ったそうで、ちょっち変。とのことです。そんな人には、私なら、起きてても意識はない。と答えるよ、と答えました。

私も、覚者は眠っている時も意識がある、と読んだことがありますのでそうなんだろうか?と思ってきました。この場合の意識とは記憶を遡ることが出来る(眠っていない)。
 それなので、ubik0101さんの書き込みで疑問が少し解けたような気がします。

ゆっくり続きます。が楽しみです。

No.7385 - 2020/08/05(Wed) 07:58:53

Re: ubik0101探求ノートから / hato

>私も、覚者は眠っている時も意識がある、と読んだことが


体験してからのことより、今のことが大事ではないでしょうか。

ubik0101さんの探求ノートは、体験した人も、そうでない人にも、読む人に訴える光があると思います。先ずどこまでも、ubik0101さんの探求です。まったき個的である故に、超個的な探求です。

No.7386 - 2020/08/05(Wed) 23:01:34