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記事No.7418に関するスレッドです

ubik0101探求ノートから / hato

我々はこの現実と交信状態にあります。


1978.5.16

感情も思考も、自己の根拠になりません。なら、どうして生きていけばよいのでしょうか。聖書にはあります。人はその果実を見て知るべし、と。ということは、行為によって、ということのようです。しかし行為は何によって根拠を得たらいいのでしょう。感情でしょうか、理性でしょうか。行為することができません。しかし、できないという根拠もまたありません。空に飛ぶ鳥のように明日のことは思い悩むことあらず。僕は、百合の花のように、それは、美しいということでしょうか。僕は美しいでしょうか。

No.7388 - 2020/08/17(Mon) 21:51:42

Re: ubik0101探求ノートから / hato

5.20

理性によって愛すなら、その理性対象を愛すのであり、感情によって愛すなら、やはりその対象を愛すのです。

眠ってて分かったこと。もし人が生まれる以前のことを覚えていたら、この世界で生きてる意味がない。

感情によって愛すなら、相手の感情を求め、体によって愛すなら、相手の体を求めます。

そして命によって愛すなら、命を求めます。

計算による愛は、感情など、どうでもいいといいます。
感情による愛は、計算など、どうでもいいといいます。

命による愛は、命以外のものは、どうでもいいといいます。
では、何によって、それを確かめるでしょう。

No.7389 - 2020/08/17(Mon) 21:52:35

Re: ubik0101探求ノートから / hato

5.24

神は僕を愛しているけど、特別に他と比べて気にしているわけではない。現実的な意味に於いて。もしそうだったら僕は現実的な出来事などを我と思うだろう。考えてみよう。

世界には、まだ、物ごころもつかぬ間に死ぬ者がいる、体や心が不自由な者がいる。それら当事者にとっては正にそのことが現実である。もしそのような人が神に祈り治されたら、その人は、現実的なそのことを我と思うだろう。神は人間の祈りを聞いても、その愛ゆえに叶えることはできない。

ここに男がいて、女を欲しているとする。女が欲しいと祈ることによって与えられる女は、アンドロイドでしかない。男は女の心も欲しいのだから。神が与えないそのことに於いて神を信じる。しかし、これは昔の信である。本能的にそう感じるだけだ。神は個人を分けへだてて愛さないし、そうであることが許されるような愛し方はしない。

No.7390 - 2020/08/17(Mon) 21:54:53

Re: ubik0101探求ノートから / hato

5.26

なぜなら世界は僕が創造しているのだから、幻にすぎない。説明をする。

世界が有らぬとすれば
自己は有り、
自己が有らぬとすれば
世界がある。

No.7391 - 2020/08/17(Mon) 21:55:46

Re: ubik0101探求ノートから / hato

僕は幻である。3年前、僕が彼女を受け入れていたら、僕はこの僕でなく、現在彼女が受け入れている男と同じだろう。心も体も目に見えるものはすべてそのような代用品としてあり得る。なぜなら、もし今、彼女が僕を受け入れたとしたら、僕はあの男の代用でしかない。そして僕は、どうすることもできる。目に見えるものとしては、 いや、 人間としてその全て、思考 感情 意識、認識 生きているという感覚

僕が3年前、彼女を受けていたら、僕は生きているという感覚のある一人の人間として、くらしている。つまり人間として生きているだろう。それを僕は想像できる。眼前に。そして、それ、僕は、この僕と何だ変わりない。もし、そうなら。世界は思いのままに変わる。現実さえその思いのまま、とったコースにある。
僕は僕の決心で現実を変えられる。

人は子供の頃、世界は思いのままにならないということから世界の存在を信じるようになる。そう、自分の思いのままになるとしたら、世界は自己は存在しないのに、人は思いのままに世界をすることが自己のあることと思うとは。シーザーやナポレオンが世界を動かすだけ、自身と世界を無にする。

No.7392 - 2020/08/17(Mon) 21:57:07

Re: ubik0101探求ノートから / hato

?@人間は自己の考えたり感じたりすることさえ、自分で決めることはできない。

あるいは、

?A人間は、自己自身を変えることができる

 この(相反する)ことは同じことを示している
 
?@は、変えられぬ現実が厳として存在する。そして人間はそれを根拠にしない。
?Aは、世界は変えられる。世界も自己も幻である。

これは、あるひとつのものの2面生である。つまり、それはあるものの概念である。といっても、?@、?Aは現実である。だから現実は、あるものの概念そして、そのあるものとは、存在の本質である。世界がかく在るその在り方である。

No.7393 - 2020/08/17(Mon) 21:58:35

Re: ubik0101探求ノートから / hato

僕は髪の一筋さえ変えられない
しかし世界を変えることができる
といっても、世界そのものをひとまとめに

僕は髪の色を変えることはできない
命を伸ばすことはできない
人の心を変えることはできない
物理法則を変えることはできない
 しかし世界を変えることができる

このどちらともが      を示している
      を示しているということは、
このことを概念的有り方として人に知らしめていることである。
ということは、そのもの自体の存在を知り得るということだ。

なぜ世界はかく在るか
目に見えるように、感覚されるものとして

No.7394 - 2020/08/17(Mon) 22:01:10

Re: ubik0101探求ノートから / hato

6.4

仏が六年苦行して得たものは
一杯のミルク粥でした。


人間の、自己とは、現実のことです。人間とは、自分自身と、まわりの現実、そのものです。ある人間とは、その人間そのものであるという意味に於いて、現実そのものです。これが幻でなくてなんなんでしょう。このことは、人間の自己が対象性を持っているときには理解できません。なぜなら対象化は限られた現実なのですから。その自己もまた

限られたものであるからです。

No.7395 - 2020/08/18(Tue) 20:30:31

Re: ubik0101探求ノートから / hato

?@だれも時間の流れを止めたりできません

 ということは、時間は自己ではありません

?Aだれも運命は自分で変えられます

 ということは、それは自己ではありません

No.7396 - 2020/08/18(Tue) 20:31:10

Re: ubik0101探求ノートから / hato

そのどちらからも自己は幻であることが示されます。しかしこのどちらからも、というこの有り方は、実に概念的です。つまりこの世界そのものが何だかの概念として在る、ということです。

あるとは?@、?Aとも逆に考えてみると、自己とは時間です。自己とは世界です。ということになります。

人間とは世界です。

No.7397 - 2020/08/18(Tue) 20:32:00

Re: ubik0101探求ノートから / hato

6.6

人間は世界です。そうでなかったら、誰がものを対象にし、それに捉われ世界の内で自己自身を発見することができるでしょう。

No.7398 - 2020/08/18(Tue) 20:32:38

Re: ubik0101探求ノートから / hato

人間そのものがアートマンです。なぜなら、世界とは純粋な抽象性そのものだからです。

ごらんなさい。世界は美しく、とあるものとしての対象性を受け入れません。とあるものの対象性は常に、とあるもの以外のすべてのとあるものに根拠を得ていますが、それは想定された根拠、つまり、ここにないものとして、どこかにあるだろうものとしてあるだけです。この対象性を理解し、それに捉われることなく世界を見るなら、人間そのものは抽象性そのものであると、どうしていえないでしょうか。

ごらんなさい。
世界はそれだけで美しく在ります。
あっ、そのように感じている時の人間、て何なんだろうと、思ったことはないでしょうか。

No.7399 - 2020/08/18(Tue) 20:34:49

Re: ubik0101探求ノートから / hato

お元気ですか。あなたは僕により多くのものを与えてくれています。そのために僕の前から姿を消しました。今では、なつかしく思います。僕自身の根拠をあなたに、ではなく、僕自身に置かれました。あまりに全てのものが僕のものになりましたので、まだ、それについて話すことが上手にできません。僕の存在の根拠が僕自身にある、なんと恐ろしく不安なことでしょう。

No.7400 - 2020/08/18(Tue) 20:35:29

Re: ubik0101探求ノートから / hato

6.7

どんなに美しい恋も、それがモラル的にも、かくあるべきものとしてある恋、理想的な、1人の男が1人の女と1生恋し続けたという恋も、隣人愛の足元にも及びません。恋はそれが美しいものであるためには、ただ1人を恋すのです。しかし隣人愛は、すべて、です。

あー、人間は、自己自身を愛すようにつくられています。恋は、いかに激しく美しくとも、自己愛でしかありません。しかし、隣人愛が自己愛に勝るとき、隣人を愛してやまないとき、自己への愛を常に彼自身が呼び起こさないとしたら・・・・。

すべての人に対して、自己を捧げるのです。あー、恋の、君のためにCENSOREDる、なんて、なんてこっけいなんでしょう。愛と呼べるものは、隣人愛しかありません。そして、それを行った人、それはイエス キリストです。

No.7401 - 2020/08/19(Wed) 23:30:22

Re: ubik0101探求ノートから / hato

6.10

あなたがあなたの隣人を愛すように、あなた自身を愛せ。これが必要な、という人はイエスだけです。恋する人に言ってみましょう。あなたが恋すように、あなた自身を恋せ。むろんそうです。恋をしている。相手を得ている自身を恋してなかったら、どうして、人を
恋すことなどできるでしょう。

No.7402 - 2020/08/19(Wed) 23:31:13

Re: ubik0101探求ノートから / hato

6.15

イエスは僕に無限に近づく。仏は僕に無限に遠ざかる。

つまんない。僕が僕そのものであることは、ただそれだけのものであり、ただそれだけのものであることは、これだけのものであり、これだけのものであることは。世界がただ、これだけのものとしてある、ただこれだけ、とは、その根拠を自己に持つ、ということだ。つまり、これは、これ。そのものである。

そして、そのような有り方としては、世界と僕を区別できない。世界がかくあるからという認識によって、僕はそういうものではない、という暗黙の、が、ない。世界は、それ自体が世界の根拠である。としたら、それは、それだけのものであり、根拠などというのは、ないも同じだ。僕は、僕自身に根拠があるとしたら、それはそれだけのものであり、根拠がないと同じだ。

No.7403 - 2020/08/19(Wed) 23:33:41

Re: ubik0101探求ノートから / hato

普通、世界は幻のように現れ、と考えるとき、その根拠たる別のものが見える。それは実在である。

普通、自己は幻であると考えるとき、その根拠たる別のものが現れる。それは実存である。

たとえば因果関係によっては、生起も消メツもない。というとき、やはり根拠が否定されてはいるものの、ないものとして想定されている。自分自身も幻であるというとき、それを感じている自分がある。

No.7404 - 2020/08/19(Wed) 23:34:26

Re: ubik0101探求ノートから / hato

むろんそうだ、世界が幻であれば、それは無限であり、命は永遠である。けれどすべてが実在であれば、世界は有限である、命は限られている。それだけのものでしかないというとき後者である、ということだ。

世界が生成変化しないとしたら、それは在ることができない。

No.7405 - 2020/08/19(Wed) 23:35:44

Re: ubik0101探求ノートから / hato

つまり木はその果実で知られる。果実を見るとき人はそれが木から成ったものであることを知る。しかし、果実そのものを、そのものが成ったと思うとき、つまり、その果実の根拠を果実に置くとき、それは、それだけのものとなる。それはそれだけのものとなるとき
、それはもう生成しない。

つまり世界が在るためには、それは幻でなければならぬ。

No.7406 - 2020/08/19(Wed) 23:36:32

Re: ubik0101探求ノートから / hato

世界が在るためには
それは幻でなくてはならない。

人間があるためには運命がなくてはならぬ。つまり、幻でなくてはならない。
くだらない人間でもよくやるじゃないか。自分の行為の根拠が他のどこかにあるように、人に思わせることを。Aの根拠がBであり、Bの根拠はCであり、Cの・・・と永遠にあらねば在ることができない。僕としてはこれが嫌であった。

でも現実がそうであっても、それを人間が真似することは少しもない。

No.7407 - 2020/08/19(Wed) 23:37:42

Re: ubik0101探求ノートから / hato

6/18

世界が在るためには、それは幻でなくてはならぬ。幻であるとは生成、変化するものであることである。生成変化するからこそ、世界は幻である。なぜなら、存在の根拠が常にそれ自体でなく他のものに借定しているからであり、それは永遠にたどっていっても常にそうである。

そのようなものとして存在の根拠は借定されたものとしてある。(むろんナーガジュルナの言うことは、ここから、因果関係によっては生起も消滅もないということがいえる。)しかしこれは世界の、とあるものを見て、つまり対象を持って考えた抽象である。そう見ないとしたら。「世界」は、そのものを根拠として存在する、としたら。それはそれ自体で存在する。

No.7408 - 2020/08/24(Mon) 20:46:32

Re: ubik0101探求ノートから / hato

つまり存在がそれ自体にその根拠であるとしたら、それはそれだけのものである。それだけのものであるとは、まったく、有限なものである、ということである。なぜなら幻である世界は永遠であり無限である、それは、存在の根拠が永遠に無限に借定されるからである。

世界がそれだけで存在するとすれば、それは有限なものである。世界が幻である人間はまた幻である。それは根拠なく無限であり永遠である。それが、どうして幸福でないことはないだろう。しかし、しかし。

事実は、世界は、それ自体存在である。生成も変化もない、つまり、有限なものである。世界は幻のように現れているのではない。幻のような世界は虹に例えられる。それは美しく見える。それを追いかけてそれが在った所に行ってもまた虹はあそこで輝くばかりである。

しかし世界は有限である。これが苦痛でなくてなんだろう。僕自身も有限であるということだから。

No.7409 - 2020/08/24(Mon) 20:49:26

Re: ubik0101探求ノートから / hato

人間は自分の根拠を自分に見るとき有限である。これは僕にとって苦痛である。自分自身を救わねばならぬ。しかし世の中は永遠である。世界も人も。根拠を他のものに持つ限り。あー、人は永遠でありたいために自分自身を限定したものとして考える。そうすればとにかく他のものに自分の根拠をまかせておける。

それが他人であれ運命であれ性格であれ、前提であれ。そうしてさえいれば命は永遠である。
これらはただ、とあるものを対象にしている。世界の内に自己を発見する限り、そのようにしてある。僕は自分が永遠でないことを知っている。

幻である、永遠なもの、根拠を自らにもたないものは逆に、自らも他のものの根拠になり得る。だから実体は空である。在るのでも、無いのでもない。
(有限なもの、その根拠を自らにもつものは、他のものの根拠にならない。)
自己主張なんてものも存在のこの有り様から来ている。決して、とある人が、その人自身がそのようにしようとして、その意味を知って、そうしようとしているものではない。自己主張さえ、個人としての存在から生まれるのではないし、それが返って個性のなさを示してしまう理由もここにある。

No.7410 - 2020/08/24(Mon) 20:52:27

Re: ubik0101探求ノートから / hato

続6/18

もし神がその存在の根拠を自己に持つなら、それは有限なものである。神はむろん存在の根拠を自己に持つものである。とするとそれは限られたものである。なぜなら、それは他のものと並存しないからだ。並存するものは実体が空である。

自ら存在するものは有限なものである。神はともかく人間はそのようなものだ。これが苦痛だ。人間が神にその根拠を見い出すなら、人間の命は永遠である。しかし自分自身にその根拠を置くなら人間は限られたものでしかない。

No.7411 - 2020/08/24(Mon) 21:43:45

Re: ubik0101探求ノートから / hato

依存関係の認識によって世界は幻であると知るとき、明らかに自我も幻であると知る。しかし深いところでは人間の永遠の命を感じる。自分自身が幻であると知るとき、人は永遠の命を知る。世界が幻であると知るとき、人間はそれに依存しないものとして、明らかに世界があらぬものなら人の命は永遠なものとして知る。

次に自己自身が幻であると知るときには明らかに自己の命は永遠であることを知る。それは自己そのものが依存関係そのものと知るからであり、依存関係そのものは永遠なものだからである。

No.7412 - 2020/08/24(Mon) 21:45:08

Re: ubik0101探求ノートから / hato

しかし疑問が生じる。なぜ、そうであるのかと。なぜ、現実はそのようであるのかと。なぜ世界は幻であり自己も幻であるのか。

No.7413 - 2020/08/24(Mon) 21:46:07

Re: ubik0101探求ノートから / hato

実体が空であると認識するとき人間は、空である自己を見て喜びに満ちる。なぜなら空である自己は消滅も生起もないから。そしてなおかつ自己は消滅も生起もないものとして、

つまり幻として在り、そうであることは永遠に在ることだから。

No.7414 - 2020/08/24(Mon) 21:47:14

Re: ubik0101探求ノートから / hato

幻としてでなければ世界は在ることができない。世界は幻のように現れる、というよりも正確にいえば、依存関係でなしに世界は在ることはできない。なぜなら、それによらぬものは有限なものだからである。実体として生起したものは有限なものである。それはそれ自体に根拠を持ち生成変化しない。実体としてあるものは依存関係によらない。

No.7415 - 2020/08/24(Mon) 21:48:15

Re: ubik0101探求ノートから / hato

さて少し考えてみよう。依存関係を見るとき人はどうしても時間を観ている。ということは幻である、とは時間の特質を示しているのではないか。なぜなら依存関係によって生じるものは、 のものは、 限定されてないから。

というよりそれは、木や石やそんなもの、そのものとして考えられているものではない。

No.7416 - 2020/08/24(Mon) 21:50:52

Re: ubik0101探求ノートから / hato

そこで問題が生じる。なぜなら時間関係を見ることによって永遠を知るからである。依存関係は時間の解釈である、もし、そうでなければ。
時間による変化、つまり依存関係を見ることによって永遠を知る、のはむずかしい。
時によって変化しないものは、実体として生起したものであり、それゆえ限られたものである。

No.7417 - 2020/08/25(Tue) 23:32:03

久々の海 / hato

海に行きました。今年は2度目。なかなか行けませんが、暫し憩い、愉しみました。

No.7418 - 2020/08/31(Mon) 23:51:16

久々の海 / hato

本日のubik0101さんの釣果は4尾。すべて待望、クロダイです。初捕りの魚は45センチ。中潮の夕刻。満潮は遠い台風の影響か、波が激しくうねっており、いい海でした。

No.7419 - 2020/09/01(Tue) 00:01:12