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記事No.7488に関するスレッドです

ubik0101の探求ノートから / hato
1/21

この世のものによって自己が自己であるところのものを与えられる。つまり、いわば後天的に自己は与えられるのだとしたら、そう考えている私そのものは、そうなってしまうということをほとんど認めざるを得ません。つまりそう考えてしまえば自己はそうなってしまっているともいえるのです。

あるいは自己が自己であるのは、この世の何物何事によっても確証できない、となると逆にそれは自己の存在をこの世よりも明らかに確証することができます。

つまり、感情も、感覚も自己ではない、と感じながら、自己の存在証明を求めるのです。いわばこれはより深くへと自己の内部に向かって自己を探すのです。(多くの場合、そこには自由(意志))とい何ものにも捉えられないあらかじめ不定形のものを見付けることになります。)

これに反して前者のように考えますなら、それは自己を失うキケンがあるのです。なんとなく自己は自己であるとして、それは後天的に与えられるものです。これは世界から自己を見ているのです。

で、このように考える僕自身は、と申しますと。

No.7462 - 2020/11/25(Wed) 22:58:04

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

1/31

価値という言葉があります。それについて考えること、はまずその言葉自体の意です。「価値って何?」という場合の多くが、価値そのものを問うているのです。けれど、価値とは、それが何かについてのこと、であるとするならば、そんな問題は立てる必要がないように思われます。つまり(世界にあって)(人が)何かに対してそれが価値のあるか否かと、思うものだとしたら。よくは分かりませんがこの関係はなんだかの系のなかに収められてあるものとして、価値というのは本来的に、それ自身の意味を問うものでない、と感じられるのです。このことは自由とか心理とかいう言葉についてもいえます。さらに自己という言葉についてもおなじです。で、そうしますと、このようなことは、

No.7463 - 2020/11/25(Wed) 23:00:03

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

2/19

すこし動物について。人間はわりとなぜ、生きているのか?なんて考えてしまう。そして考えなくなったとしても、それは何も答を得たかというわけでは、多分、ない。それはなにがなんだか分からないで生きていることなんだ。で、ね、人は世界の中にでも世の中の中にでも人の中にでも生きたりするわけだよ、。で、自分のまわりのものを感覚して、さ
て、そこから自分はなんだろーか、なんて考えてみたりするわけなんだけど、ま、それは全然情報不足である。ということは別の話。

たとえば、ほとんど何がなんだかわからないで生きているものというと、やっぱり動物だな。これが、ま、それ自身はどーいう感じなものか知らんけど、わけがわからず生きているわけだ。ここんところは全く人間もおんなじだ。人間にも目の不自由な人とか体の不自由な人とかがいるんだけど、ま、人間を基準にしてみれば形態が不自由なのだな。

ということは別として、彼らは、なにがなんだかわからずに生きているのだから、もし神が創造したものであれば、あれは、生かされている、といってもいい。それは人間もおんなじだ。で、世の中には、自分が生かされてあります、なんて、さも得意そうにしている人がいる。どーいうわけなんだろう。たとえば昔コーウンキもなくクワだけで熱い重労働にたえて汗をながし赤貧で、そんな純直な人がそういうのであれば、非迫害者であることを受け入れながらも、という感じで分かるは分かる。けれど、わたしは生かされてあります、などとたとえ六畳一間のアパートの住人だったとしても夕食の心配がないならば、いうべきじゃない。

No.7464 - 2020/11/28(Sat) 23:06:18

Re: ubik0101の探求ノートから / hato
2/21

いつかノートに書くことにしよう。たとえば冷たい風を呼吸しながらセーターを透して感じる寒さだとか、どこからどこかへ向かって歩いている感じ、天気が良いとか、それが楽しくないなんてことはない。だもんだからこの世界はぼくを楽しませるためにあるといってもいいくらいなのだ、と。

もし完全なキリスト者であった人がいて、死んで、復活もなくイエスと会うこともないとしたら、その人の生きていたことキリスト者であったことは、その人にとって何だったのだろう。というのも、世には明らかにインチキぽい宗教があって、その人達の人生は何なのだろうとも考えるからだ。だけでは決してない。ただ世の中を生きるフォームとしてキリスト者であることを、その人が選んだだけのことであれば、それはむろんキリスト者とはいえない。しかしイエス自身について考えてみれば、明らかに彼は復活し神の右に座るであろう。と、するとキリスト者であれば神の御国に、仏教徒であれば極楽に、イスラム教であれば・・・・と、非常に個人的なものであると考えてそれが事実そうなると考えてよいのだろうか。

No.7465 - 2020/12/01(Tue) 21:18:48

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

たしかにもしぼくがこの考えを正しいとし、ぼくのものにしたとしたら、ぼくにとってはこうなのだ。だからこの世の有り様をみて何か解釈したとしたら、ぼくは、そんなぼくなのだ。なら、こうであることは、どういうことなのだろう。それはぼくは単に主観であるためのしくみの一つなのだろうか。バッハはもう飽きた、マイルスが良いとぼくの主観がある得るための、そして他の人があいつはどういう男だ、とわかるためのものだろうか。

これは世界のしくみみたいなものでもあり、また、ぼくの存在のしくみの深いところまで浸透している在り方だ。たんに主観というものがあり得るためのこと、たとえば、僕は------であると思うそのことによって僕は-------であると規定されることだけのために、この世界の中にあって、僕は僕の心はそのことに強くしばられている。この主観があり得るためのしくみ、それがぼくの精神をも満たし、従って、ぼくが見ていることとしての世界をも満たしている。ぼくが見ていることとしての世界の中に他の人も存在し、自然はあたかも自然のただなかにぼくがあるようにぼくを配列する。しかし一方には、自己のどうにもならんものとしての天候とか他人とか自分の体や心などが在る。

No.7466 - 2020/12/01(Tue) 21:20:24

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

もしぼくが積極的であればまず心を、体をコントロールし、他人を動かし、天候をかえることができる。心のためには哲学が、体のためにはスポーツが、他人のためには社会が、天候のことには物理学があるのだ。

もしぼくが消極的であれば、天候に左右され、他人に動かされ身体や心に支配される。天候からは物理が、他人からは社会が、体からはスポーツが、心からは哲学た導きだされるのだ。多分。

ぼくが主観であり得るためのしくみ

No.7467 - 2020/12/01(Tue) 21:21:27

Re: ubik0101の探求ノートから / hato
3/8

生まれることも、生きることも、死ぬこともすべてこの世界に(おいて)原因があることです。

No.7468 - 2020/12/01(Tue) 21:22:13

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

3/11

ぼくは常にこの世から学ぶ者です。

No.7469 - 2020/12/01(Tue) 21:22:38

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

3/24

ただこの世に生きることは、この世で経験されるどのようなことより面白い。あるいは苦しい、というべきか。もし、この世界がすべて(神の)創造物であれば、楽しい、とか、苦しい、とかいうことさへ創られたものです。

No.7470 - 2020/12/01(Tue) 21:23:09

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

記憶がない自我。

No.7471 - 2020/12/01(Tue) 21:23:28

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

自我主張することは、なんと消極的だ。なぜなら、それはそうする理由を(自己でななく)他人に持っている。

No.7472 - 2020/12/01(Tue) 21:23:53

Re: ubik0101の探求ノートから / hato
1981

8/19

たとえば、男であること女であること、お金持ちであること、恋をしていること。それは自分にとって何か意味のあることです。つまり他の人にとっては全然どうでもよいことです。たとえば田中という人がどこかにいて、いま散歩しているとか、口論しているとか、悲しみを味わっているとかしているとして、僕には、どうでもよいことです。

それとおなじで僕がなにであろうとほとんど僕にとってもどうでもいいことのように思えてしまいます。というのもどんな心や体の状態にしても、それは決して僕という自己(つまり全存在としての自己)を表さないからです。という考えが暗にあるからです。そりゃそうで、たとえば悲しみが僕であるはずはなく、喜びが僕だということはなく散歩が僕だということはなく、視覚が僕だということはなく、あるからです。

ところが他の人に関しましては大方の場合、悲しんでいるのは、彼や彼女である、散歩しているのは彼は彼女であり、なのです。かんたんにいってしまえば自己というのはここでは何か創造的なものとして言われているから、部分からはそれは決して導かれないとか、他人としてみれば人はかたよりがあって、それをとらえて他の人のことを考えているのだ、といえるかも知れません。
けれど問題はそうではありません。自己とは不思議です。

No.7473 - 2020/12/01(Tue) 21:26:28

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

悲しみやら喜びやら、そういう(つまらないものに)捉われてしまうし、それでいて、そういうものは自己でないと思うにしても、そういうものしか自己感覚を味わえないのです。お金持ちであるとか貧乏人であるとか、そういうものとしてしか、人は自己を確かめる方法がないのです。つまり、この世界によって人は自己の有り様を知るのです。(まったくそれ以外のものはありません)けれどそれは単なる手段であり、ぜーんぜん「自己とは何か?」を知らしめません。言いかえればぜーんぜん知らしめないようにできているといってもいいようなものです。この世界は人に自己を知らせないようにしてあります。

No.7474 - 2020/12/01(Tue) 21:27:45

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

けれど、それでも自己。この不思議なものが世界を見、歩き、思い悩むのです。それは当然で、もし自己がこの世界のどんなものであろうと、もしいいあてることができるほどのものだとしたら、それは全然自己なんてものではありません。つまりこの世界のどのようなものでもないもの、として在らしめ(られて)いるのが自己といってもいいほどです。

というよりそのようなものがすべて自己ではないですから、そういう形式である、という方がより正確です。(どうして、そうなっているのでしょう?)

No.7475 - 2020/12/01(Tue) 21:28:46

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

さて、すべての人がそのようであるとしてみましょう。すると、他の人がただ単に物のように、つまりなんとかという性格だとか社会的地位であるとかの人である見られるのは、単に他の人は僕の(対象として)カンサツされるかれであるとしか言えません。単にそれだけの理由で、他人は他人なのです。
かえって、それでは自己は、僕は、この肉体(のなか?)から、これを基準点としてみている、ということだけで僕であるというようにも思えます。まったく自己とは不思議です。これはこの考えがたんに対概念であって、一つの手がかりでしかないことをそれ自らが示しています。自己=この僕ということは、そこから出て来ません。もちろん経験が僕をつくったのだ、ともいえます。つまりこの世界は自己を知るために(ある)のですけれど、決して自己はそのようなあのようなものではありません。

No.7476 - 2020/12/01(Tue) 21:29:42

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

この前公園で木もれ日を見ながら、空間というのは物と物との間であると知った。では時間は?出来事と出来事の間であるとしたら、それは探知不可能である。つねに経験やら何かやに変調された時をひとは味わうわけなのです。で、そこから純粋時間を取り出してみるというのは大変むずかしい。たんにそうしている時もそうしていることに時間が変調されているということ(だけ)が手がかりに見えるけれど。出来事と出来事の間というと、それが時間だとして、それが有るか無いかさえ分からない。

時間と空間は似ているから類推してみよう、なんて馬鹿げたことに思えるけれど。物と物との間が空間として、なぜ空間があると分かるかといえば、そこに何もないからである。実サイには、光とか風とか、ナントカがあるわけだけれど。時間は、その場合、そこにないから分かる、となぜ言えないのだろう。

単純には空間に対する光のようなものが、時間のなかにはあるように知覚できない。あるいは物と物というようなものでなく、ずっと連続して(均一な)ものであれば間ということはあり得ない。(もし人がリンネするとしたら、生きていることと生きていることの間というのはあるだろう)あるいは、もともとそれだけでは在らぬものは存在しない。
あるいは、

No.7477 - 2020/12/01(Tue) 21:33:04

Re: 自分を動かす事はじぶんにしかできません。 / 勘太郎
これは解り易くて、明快です。

ubik0101の探求ノートから / hato 引用

自我主張することは、なんと消極的だ。なぜなら、それはそうする理由を(自己でななく)他人に持っている。

No.7478 - 2020/12/03(Thu) 17:31:33

Re: と言っても、私はできていません / 勘太郎
言行不一致。理解に留まっていて、実現されていません。
No.7479 - 2020/12/03(Thu) 20:27:29

Re: ubik0101の探求ノートから / ubik0101
そうなら、そのようである理由は、自分にあるのでしょう。こちらにとっては、まずはその理由を探ることが、始まりでした。

ところで、

そのノートを最後のページまで書き終わると、なんとなく、辛いノートだったとか、なんかいい内容のノートだったな、とかの印象が残ったりしたのです。そして次の夜、新しい何も書かれてないノートを開きます。するとそこで、それに向かってる自分も、まったく白紙なんです。なにもない自分なのです。そこから自然に始まる言葉、思考が、探求でした。

No.7480 - 2020/12/04(Fri) 06:57:46

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

9/3

たとえば、「生じるものは滅す」ということについて。この世にはすべて原因がある。従って、そういうものは感じない。(なぜなら原因なくして生じたものはこの世の中にはないから)。原因があって生じたものは、また滅しもしない。・・・などとある日は思い、またある日は「野の花のように生きる」と思い、またある日は・・・・これはなにか自己が自己を確かめる手段としてのこの世のすべてのものが変わること。

もし、どのようなことがらでもそれが僕というものであれば、‶自己″というものの存在は不可解です。

No.7481 - 2020/12/05(Sat) 23:11:14

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

(ごく普通のこととして)人は思うこと、行うこと、そうであること、において自己がそのようなものだと知るのだけれど。
(ごく当然のことだけれど)そのように経験されることは変化する。あるいは、ある日はお金持ちであっても、ある日は貧乏であって、それをよりどころとして自己を認識する。この世界のどのようなことも、そのように変化するものなのです。

(だけれども、ある朝目覚めてみると有名になっていたりすることはあっても、大きな毒虫になっていたり、僕がほかの誰か、彼か彼女そのものになっていたりすることはあまりない。と、いうようなことがあるのは、実はその示すところは)自分自身にとって、(たとえば)過去の自己(それもその時々の経験によって認識、覚感されたもの)と今の自己
とを比べることもできないのが普通で、(それはこの世のどのようなことも自己を示さない)それはなぜなんだろう、と思うところに現れる。

No.7482 - 2020/12/05(Sat) 23:12:52

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

・・・は自我でない・・・は自我でない。この世界のどのようなことも自己自身ではない。というのは、自我はそのようなどのようなものでもない、ということだけれど、逆に。

・・・は自我である・・・は自我である。この世界の経験対象、覚感作用すべて自我である。と思ってもわるいわけは決してない。もし人が過去の自己、現在の自己の、この(不思議な)有り様を観サツ思念するのであれば、それは、どちらもおなじ働きをするから。

No.7483 - 2020/12/05(Sat) 23:14:24

Re: ubik0101の探求ノートから / ubik0101
>言行不一致。理解に留まっていて、実現されていません。

もしかしたらですが、言行不一致と考えることは、何か考えてることと、その考えてる自分とを結びつけてる、その状態。あるいは思考と思考してる自分が分離してる、ので、それを結びつけようともする、

それは架空の因果。そうしてる原因の自分がいるかもしれません。

そでなく、思考の展開を見るだけで、自分の状態と関係づけない。つまり何かの思考と、思考してることによって、たとえば言行不一致。と認識されるような(ほかの何を考えても)、自分はこんな自分だとかの認識のない、掴めない何か、それでも自分としか呼びようがない、

そこでそのことを立てる、掴むのではなく、思考と自分、分離するのでもなく、一致するのでもない・・・つかず離れずで・・・それは思考だけではなく、見る聞くにしても、行動するにしても、話すにしても、日常はそのようで、

なぜか、自分の思考したことは自分でわかり、話したことは自分でわかる、行動したことは自分でそのままわかる。この絶妙な不思議。その自分も、あるでもないでもない・・・世界もあるでもないでもない・・・思考と思考者を個別に立てたり一緒にしたり、世界と自分を別にしたり一体にしたり、自分の観察者を立てたりする必要はないかもしれません。

No.7484 - 2020/12/07(Mon) 10:13:17

Re:しらんぷりをする / 勘太郎
雪担御老師が「覚醒はしらんぷりの事である」と言っています・

こちらを見ないで、向こうに注意を向ける」ことなのかと思いました。

こちらを探れば必ず何かの自分が出来てしまいます。注意の方向の→の根元と先が分かれて、見る対象は先にあり、根元には全く解らない自分が居ると感じてしまいます。
そうしたら、対象だけで自分が消えるかもしれません。

 と書いている時に頭をポリポリ掻くと、見る対象が段々自分に近づきます。自分は玉ねぎらしいです。

No.7485 - 2020/12/07(Mon) 20:09:56

Re: 自分は日本の大きさにもなります / 勘太郎
ハヤブサ2が小惑星から岩石を持ち帰った」と聞くと自分の事と喜びます。

自分の乗っている車が傷ついたら自分が悲しくなります。破れた服を着ていると恥ずかしいです。
身体と身体の外との境があいまいとの話をbik0101さんとしたことがあります。自分の心も堺があいまいです。

 自分を米粒大の塊にして、道路わきの草むらに投げ捨てたいです。

No.7486 - 2020/12/07(Mon) 20:26:52

Re: ubik0101の探求ノートから / ubik0101
>雪担御老師が「覚醒はしらんぷりの事である」と言っています。

どんな文脈で言われたのかわかりませんが、真理にある人は、知らないことに自ら気が付きます。

たとえば仏陀に、縁起の法は、なぜ、縁起の法なのですか?と聞いたとします。達磨に、無功徳と言ってる、あなたそのことは、何ですか?と聞いたとします。

なんか知ったかぶりなら、その言ってることの理由や根拠を言うかもしれません。しかし真理にあって、人は何も、まったく、知らないのです。これを知らんぷり、といえないことはないです。知ってるのに知らないという人為的なことではないです。即今は、なぜ、即今?

たとえば見えるは、なぜ、見える?聞こえるはなぜ、聞こえる?思考は、なぜ、思考?うどんの味は、なぜ、うどんの味?日常は、なぜ、日常?無知の知とか、どいう意味かしりませんが、そいうことではなく、ただ知らないに気が付くのです。

>身体と身体の外との境があいまいとの話をbik0101さんとしたことがあります。自分の心も堺があいまいです。

それは、なぜ、それ?

No.7487 - 2020/12/08(Tue) 08:20:56

Re: ubik0101の探求ノートから / hato

冬空が透き通ってます。

見た、感じた、考えた・・

その不可思議にさっと渡し、さあ!進もう。

No.7488 - 2020/12/08(Tue) 08:39:29