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記事No.7564に関するスレッドです

自我・世界/真我・実在 / ubik0101
まず自我の仕組み、形式は・・・なにか話します。行動します。思考します。そのことによって、そうしてる主体、中心、が予め初めからあったかのように時間を遡って設定される。です。

つまり考えることによって考える私が設定されるのに、まったく逆に、まず予めある、この私が、こう考えた。私が言った。行動した。私が感覚した。となるということです。

これはごく当然のこと、どうして考える主体なくして、考えることができるか?という、ほとんど疑問にも思えないことが前提になってて、その前提なしには、成立しない有様です。

すこし話が寄り道しますが・・・ちょっとだけ思考がないことによって、静かで平穏で、世界が明るく感じる、といったことも起こったりします。そんな一瞥はたしかに、無思考が切っ掛けになったりします。が、それは思考が問題だということではありません。おおむね思考はその人の状態を正確に表しているだけで、なにか問題があるとしたら、その人の状態が問題なのです。

No.7557 - 2021/03/02(Tue) 12:57:04

Re: 自我・世界/真我・実在 / ubik0101
と、いうだけのことです。なんであれ、ついでだから言うということですが、自己責任なのです。たとえば世界には責任なんかないかもしれません。そこで人が車を運転するとしたら、事故を起こさないように注意する、料理するなら中毒を起こさないように注意する、もちろん何かしないことによっても自己責任は生じます。これから逃げないこと、誠実なことは大事かもしれません。

ところで、この仮に作られてる物事の中心、主体は、自我は・・・仕組み、形式・・・たとえば建物の骨組みだけでしかなく、中身は空虚です。そしてその骨組みだけの空虚は、ないのですから、なんでも知覚でき得ることは、それが思考であれ、感情であれ、行為であれ、宗教であれ、無宗教であれ、取り込まれます。このような骨組みが作られるには、時間、そして空間、の距離を必要とします。

つまり、骨組みだけでその中身は、ないのですが、そのないを世界が埋めるのです。もちろんありもしない空想であれ、その中身になりえます。繰り返します。思考であれ、いわゆる心理的思考であれ、技術的思考であれ、数学の、物理の思考であれ、未知であれ既知であれ、部分であれ、いわゆる全体であれ、そこに差異はありません。ありとあらゆること、世界が、そうであり、自我は世界の映し絵なのです。

No.7558 - 2021/03/02(Tue) 13:17:21

Re: 自我・世界/真我・実在 / ubik0101
そこでおおくの場合、その自分の言ったこと、したこと行動したこと・・・しなかったこと、で、その人が自分と思われる自分が作られるので、結果がその原因を否定するのは困難で、その自我はその自我の言動を否定することは困難です。たとえ現実にそぐわないとしても、間違ってない、正しいとして、疑うことが困難・・・それほど世界は人の空虚に食い込みます。そのようにして愚かな、空虚な自分を守る、ということです。

それでも、その自分のしたこと、話したこと、思考したことは、その自分に、そのまま分かるのです。

とくに自分を見る自分とか、自分を見る世間を、自分を見る神仏を想定する必要はないです・・・たとえば自己責任から、つまりはその自分から逃げるというだけで、嫁いだり娶ったりの、いったい何の人生だったんだ。という、そんな人がいるとして、それもその人がそうしたくてそうしてるほかには何も誰も、そうでき得ないのです。いくらそれを誰かのせい、世の中のせい、生まれのせいとしても、それはそうしてるのはその人であり、それを理解でき得るのも、その人でしかありません。

自分のことを自分で隠しても騙しても隠しても、それが自分の行動、発言、思考に現れているでしょう。その理を見ればいいのです。その人のことはその人に全権があるので、そんなことを他の誰かが指摘しても無駄だし、それができるのは、その自分です。探求は、それか最も簡単なことだし、自己観察、で十分です。

その段階があるとしての説明ですが、誰かの言動を見て、それを非難、批判する。次に誰かの言動を見て、自分をただす。そして自分の言動を見て自分を正す、ならばもう人は戻ることのない道を歩いています。これも繰り返しますが、自分を見る自分、自分を見る世間、自分を見る神仏を設定することなく、そうだということです。自分の言ったことは自分に聞こえ、したことはわかり、思ったこともそのまま分かります。

ほんとうに、自分のために生きるのです。自己主義とか個人主義とかいうことではなく、これば簡単な真っすぐな道です。ふだん人は、さまざまなことをしたり、しなかったりします。たとえば恨み、妬み、主導権争い、あまたの葛藤・・・なんであれ、自分のためにしてるのでしょう?ならば、ほんとうにほんとうに、自分のためにするのです。もちろん、自分のためにするということを掲げて、自分のためにする、ではありません。一人あって、です。理由なく、です。

No.7559 - 2021/03/02(Tue) 22:32:01

Re: 自我・世界/真我・実在 / 勘太郎
励みになります。
No.7560 - 2021/03/04(Thu) 22:42:45

Re: 自我・世界/真我・実在 / ubik0101
その骨組みだけの自我の空虚を埋めるのは世界です。それはその中心、主体、自我を作ってるのは世界、ということです。自分は世界に作ってもらってるのです。なにか話す、行動する、思考する、ことによって、自分が作られるのに、自分が話す、行動する、思考すると見做すのは傲慢とか、無知とかの要素があるかもしれません。

それでもそうならば、世界が作る自我なら、悪いことをせず、善いことをすればいという面もあります。それが良い自分をつくるからです。功徳を積むという言い方もあるようです。ほんとうには、善悪は自我にはわからないでも、素直であること、誠実、真摯であること、自分を騙さないこと、それが探求の灯りになってくれます。

ついでですが、自我にあって、それは世界に作られてるのですから、仮の中心ですから、人としての主体ではないのですから、そもそも自由意志があるはずもないです。というより、自我が自由意志はないと、それがそれを感じると。自由意志についてそれでも考え得るということです。ところでここでわりと大事なのは、どっかで聞いたような結論に飛びつかない、そんなことより、どこまでも自分で素直に探るということです。ところで、

No.7561 - 2021/03/09(Tue) 17:19:16

Re: 自我・世界/真我・実在 / ubik0101
おおむね自我は悪者、とされてるようです。それを撲滅しようと頑張るかもしれません。しかし自我はとてつもない大事です。自我は世界の写し絵であり、たとえば自我、世界が、すべて活動して、自我の中心がない、その仕組み、形式は虚構と開示され、変な言い方ですが、真我が現れます。

自我はそのくらい大事なので、実際、隠したりごまかしたりできるだけで・・・それもまた自我の機能ですが・・・削除は不可能になってるようです。自我は完成されなくてはなりません。その世界は完成されなくてはなりません。人為的にできることは、探求とか、悪いことをせず善いことをする、つまり誠実ということです。

No.7562 - 2021/03/09(Tue) 17:27:38

Re: 自我・世界/真我・実在 / ubik0101
あっちこっち、寄り道しながら話してますが、ここはどうも難しいです。おなじ説明、言葉、思考にしても、逆転、再逆転で、たとえば、ある、ない。も意味は変移するし、一定した視点は実情に付いていかず問題ということもあるからです。

ここでの話は単純には、自我は真我の発現に必要。これだけなんですが、自分があると感じられてても、その自我の中心は、ないで・・・そしてその真我<ある>も、真我にありきって・・・ない・・・となる。のですが、これだけでまた終わるわけでもないからです。

さて、なんでも、たとえば善と悪、優劣、現れると隠す、あるとない・・・その反対のことと、無関係なこと・・・世界の総てが、機能しなければ、真我の発現は不可能なのでしょう。そこで、そのどこにも依拠できないから、中道とも、世界の総ての活動ですから、縁起とも呼ばれます。

No.7563 - 2021/03/09(Tue) 17:57:05

Re: 自我・世界/真我・実在 / hato

こちら元気です。
静岡にきて11年目になりました。

そういえば聖書に、モーセが神に名を問うたとき、主は、「わたしはある、」と言ったと書かれていました。

早春の庭に、小さなスモモ(秋姫)の花が咲きました。待望の実は3年後、・・ubik0101さんと楽しみにしています。研究ノートは、ゆっくり続きます。

No.7564 - 2021/03/12(Fri) 22:51:43