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記事No.7582に関するスレッドです
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ubik0101の探求ノートから
/ hato
引用
9/25
ほとんどなにごとも考えずこのところ暮らしている。とくに大きな不満はない。けれど、この世は本当に見えただけのものでいいのか、なんていうようなことがフト思われてしまう。そこでこれを読み返してみた。
No.7565 - 2021/03/15(Mon) 22:41:15
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Re: ubik0101の探求ノートから
/ hato
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人が自己を知ろうとする時、それが強度なものであるなど、この世界のとあるものに根拠を置かない。(いいかえれば自分をとくに知りたくない時に人はこの世のとあるものに自己の根拠を置く)けれどこの世界のものごとを通じてしか自己を知ることができないのに、(そうすると根拠がないわけだから)にもかかわらず、世界は自己を知らせるようにできてない、ということになる。それはなぜか。
No.7566 - 2021/03/15(Mon) 22:43:54
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Re: ubik0101の探求ノートから
/ hato
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それは実に、僕そして対象としての世界の2つのものの対立関係としてそれが考えられているからである。(それは思考形式だとか、感覚器官のありようだとかのためであるし、僕と世界というこの関係のどちらもに根拠を置かないのであれば、それは支点のないてんびんと同じで何も測定できないのは当然であるからだ。だから、そうではなくって、客観性ということを考えてみよう。と。さて、実はこれ以前のところでかくされて問題が実はある。依存関係にしても自己は・・・すべてのものを依存関係によって理解しても自己自身は理解できないでいるという僕の問題未解決がある。
No.7567 - 2021/03/15(Mon) 22:47:43
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Re: ubik0101の探求ノートから
/ hato
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てんびんの支点、たとえば、ある人が、あることをなしとげて、だからその人はあることをなしとげた人である、とこう考えるのは、いっこうにかまわない。けれど僕はそれに価値を置けない。
すべてのものを依存関係と見る。これはたやすいことだと思う。けれど自己をも依存関係によったものであると思うことはむづかしい。
No.7568 - 2021/03/15(Mon) 22:49:37
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Re: ubik0101の探求ノートから
/ hato
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10/6
それにしてもいつも好調とは限らない。というよりいつも故障している機械のようなもので生きるに当たっていつも問題が起きてしまう。それはすべて自分自身に深くかかわっている。それがあるだけで人のありがたさというのは世界に対してなんだかの有り方を現している。
人は生きている暮らしのために仕事をしたり、なんだかの日常生活のためにどうしても自分自身の在り方が自分に明らかにされてくる。なにかをするとそのなにかによって、どうしても自分の心が自分にあらわにされてしまう。ただあまりに熱心に世界のものごとを追い求める生き方は、僕には誤っているように見える。
No.7569 - 2021/03/16(Tue) 21:51:43
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Re: ubik0101の探求ノートから
/ hato
引用
いわゆる自己主張の強い人とか依存関係を理解しない人とか、それで僕自身はあまりにこの世のものごとが嫌いなわけなのだけれど。この世のものごとを通じて自己を知るそのこの世のものごとは俗にいってしまえば、目的でなく手段なのだ。
自己を知る方法の1つのいわば手段であるもの、いい生活をしたいとか、女が欲しいとか、楽したいとか、それが目的となっている人生は馬鹿げて見える。
No.7570 - 2021/03/16(Tue) 21:52:28
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Re: 生命の外側は千差万別に見えますが
/ 勘太郎
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本人の内側としては、皆おなじだろうと想像しています。給料100万円のAさんと、10万円のBさんで給料日の嬉しさに違いはないでしょう、たぶん。それをどう思うかは金額では無くて本人の性格に依るでしょう。
100歳まで生きても、0歳で死んでも特別な何かが違うとは思えません。その人なりに、死ぬまで一生懸命に生きるだけです。
どう生きても、ここから別れることはできません。
No.7571 - 2021/03/17(Wed) 14:05:18
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Re: ubik0101の探求ノートから
/ ubik0101
引用
>本人の内側としては、皆おなじだろうと想像しています。給料100万円のAさんと、10万円のBさんで給料日の嬉しさに違いはないでしょう、たぶん。それをどう思うかは金額では無くて本人の性格に依るでしょう。
> 100歳まで生きても、0歳で死んでも特別な何かが違うとは思えません。その人なりに、死ぬまで一生懸命に生きるだけです。
と、そう思考するとそう思考してることしか見えないので、そう思考しなければいいのです。24時間ずーとそう思考してるわけではないでしょうから、あるいは、そう思考してない無思考に気が付けばいいのです。それを思考してないとき、世界は狭くなく、重くなく、暗くないのではないでしょうか。それを思考してると、世界は狭く、重く、暗いのでは?そ、いえば
かなりうろ覚えですが昔、テレビで見た南太平洋とかいう映画で、ヒロインが野蛮な孤島から大都会に連れてこられて、世界は広くて、私の知らないことで一杯!と言ったと思うのですが、そうだ。孤島だって大都会だって、世界は知らないことで満ちてる。なんか知ってるということから離れることは幸せ感、開放感に満ちてる。と感じたものです。
あるいは・・・私が、誰かがどう考えてるかを、考えてみます。その誰かが私のことをどう考えてるか考えてみます。その誰かが誰かのことを、どう考えてると考えてみます。私としては、それは総て空想で、全然当たらない、と思っています。勘太郎さんも<皆おなじだろうと想像しています>と、まず言ってるでしょう。あらかじめ思考の前提を言って、想像していますと、念を押しても、その前提は度外視も正当化もできないでしょう。
まず、そんな誰かの考えを探ることをするのは何か理由があるのでしょう?誰かの考えを考える、その必要はありますか?あるいは私の考えは空想だと知って承知の上の空想。つまり空想と事実は違う。という認識が役に立つこともあるでしょう。探求は、誰とか彼とか自分とかの枠のないことが、あるとしてそのフィールドです。
あるいは、なにかを思考することによって、その思考してる主体が仮の主体が作られる。それで、その主体は、その思考を否定できにくい・・・ということではなく、実際に、人は似たり寄ったりで内側はみな同じでは?という指摘でしょうか。
そうだとして、それが探求の障害になるということでしょうか?説明すればですが、思考で探ればですが、たとえば光の三原色だけで、インクの4色だけで、たぶん何千万色の表現ができます。単なる水蒸気だとしてもその動き雲の千変万化。素材から結果は予測できるのですか?大理石の塊から、ダビデも、ビーナスも、削りカスも、できるのです。
あるいは人って、なにかしても、その基本は、隠れてる前提は大したことなくて、似たり寄ったりだよね、問題は自己責任から逃げること?ということでしょうか?それならば、探求は、それほど難しくはないということです。
> どう生きても、ここから別れることはできません。
そんな固定観念?に行き詰ってるということでしょうか。総てはひとつととか、ほんとうの自分は意識とか、わたしはいないとか・・・そんなことでは、難しいでしょう。ついでですが、たとえば即今、縁起、わたしはある。どのような真理と思われることも説明、解釈にすぎません。
No.7572 - 2021/03/18(Thu) 06:30:15
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Re: ここから別れることはできません。
/ 勘太郎
引用
言い訳ながら、体験がないので本当の事はわかりません。
自分を探って心の奥に入り込もうとします。するとそこは背中の後の無限の空間にいます。
勘太郎の思考、感覚は勘太郎の身体からではなく、この空間から来ている様な感じがします。
お金が欲しい・称賛、将来に渡る安全安心・精神身体の快楽(楽しい暮らし)・優越感などが実現した妄想をしますけれども。そう長い時間は続かず、思考は目先の事々に戻ります。戻った時に、ふっと人生そのものが、長い妄想時間なのではないか?と感じる時もあります。
勘太郎って何?っとかんがえても、それが霧散してストーブが静かに燃える音を聞きながら居眠りしています。良い気持ちです。
この良い気分の人は居眠りをしていません。今感じるのに、この良い気分を感じる人は勘太郎の頭の中には有りません。頭の外側に有るようなきがします。
No.7573 - 2021/03/19(Fri) 09:04:46
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Re: ubik0101の探求ノートから
/ ubik0101
引用
勘太郎さんの投稿を読んで、今日、自分がどこにあるか探ってみました。これを意図的にやってると、どうも猫を見てたら猫、庭に出ると空気、その風光、その辺にありそうなのですが時々に、見る視点が変位するようで、その視点自体は見えませんが、一定しないです。
もっと意図的、意識的になると、見てるのは自分の身体、目?考えてるのは、頭?でもその場所は特定できないですという感じです。なにか見えてる聞こえてる思考してるというそのことを自分、と思うのかな?
ノンノン、チュリルと遊びながら、ヘンデルのフルートソナタを聞いていましたが、聞こえてるってことが自分なのかな?そしてスーパーに行って普通に買いものしたり、見てる聞いてる中心は、どうも掴みようがない、知り合いの店員さんがいる、コインをポケットから出して感覚だけある、って感じです。
たぶんなにか対象になりうる、見える聞こえる対象であり、それが見る視点であり、なんか意識かなにかが、そこを目印、拠り所にして、そこを自分とするようです。たとえば身体の目の奥に、世界を見てる自分がいるって、空想であれ事実であれ、目の奥が目印になるようです。
ところで、自分がどこにあるとか、自分を見てる視点、があるというわけでもないですが、自分で探れるって、面白いですよね。自分がないと、ほんとに自分がないと、分かるのです。そのとき思考がなかったら、そのとき思考がなかった、と分かるのです。なにか思考しててその主体はないなら、主体はない、て感じられるのです。なので、わざわざ探らなくても、大丈夫に思います。
とくに勘太郎さんのことではないですが・・・このころ思ったこと、素直であること、真摯であること、それはその自分の一存でできるし、もしかしたら世界で一番簡単なことかもしれない。それをその人が、難しくするのは、どうしてだろう。
No.7574 - 2021/03/19(Fri) 20:41:06
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Re: ubik0101の探求ノートから
/ ubik0101
引用
ところで、
> 100歳まで生きても、0歳で死んでも特別な何かが違うとは思えません。その人なりに、死ぬまで一生懸命に生きるだけです。
では、生まれても、生まれなくても、同じなのでしょうか?
No.7575 - 2021/03/20(Sat) 00:06:03
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Re: 一番大事な文字をする―していました
/ 勘太郎
引用
と、そう思考するとそう思考してることしか見えないので、そう思考しなければいいのです。
自分でもこの「そう思考しなければよいのです」は理解しているつもりなのですけれども
午後3時半になって、陽の光が室内の植物の葉に射して葉が黄緑色でとてもきれいです。とこのままで止めておけばよいと思うのですけれども、止めておけばよいとか、眺めているのはだれだ?とか思考してしまいます。だた眺める事ができるようにと努力してしまうのです。
具体的には葉の色に注目して思考が湧かないようにする。そして猫の甘える声がしますので抱き上げます。短い時間だけど思考が無かったなと思考します。
思考を頭の隅に寄せて、葉を眺める状態を中心に持ってくる、という感覚です。
話題を変えて産まれても産まれなくてもおなじか?
私の経験として残るものはありません。現実に世界にオイラも参加していますので変化の一端を担っています。オイラは変化の一端ですから、・・これらはオイラの屁理屈です。
おなじなのでしょうか?の問いには、葉が陽を浴びてきれいだなあ と答えます。
No.7576 - 2021/03/22(Mon) 15:51:00
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Re: ubik0101の探求ノートから
/ ubik0101
引用
そうです、努力しないでも、そう思考しない。ということです。ここは、まずは思考内容を言葉にする前に瞬間的に了解する・・・瞬間思考とか、気配思考、無思考思考と言えば通じるでしょうか・・・で解決するかもしれません。ついでですけど、問題があるとしてそれは、その人の状態が問題であり、思考が問題だというわけではないです。
もしかして、0歳で死んでも、100歳で死んでも、という思考があり得るためには、何も変わらないということが、見えない前提としてないですか?貫太郎さんは自分でそのように自分を決めてないですか?と思ってたのですけど。私の経験として残るものはないというのは、私それそのことは、変化しないということですか?ただ波は静まれば海になるだけなんですか?
あくまで譬えですが、芋虫が蝶になっても、その私は、その私で・・・その私は対象にできないので、ありとあらゆること、森羅万象との区別も、同一もしようがない・・・その私。まったく変化ないも変化したも判断できないということはないですか?自我と真我、まるっきり違うけど、まるっきり同じとか、言いたくなります。
まったく私が私でありきって、私が私の対象にならない・・・私がない・・・で、見知らぬこの世界/物質、知覚、感情、思考に埋没しきって自由なく、不自由なく、善なく、悪なく、ないこともない・・・どうして苦悩が生じ得るでしょう。自分で自分が見えないのが諸悪の根源。また自分で自分を見るのが諸悪の根源。日常としては自己責任。このへん探ると面白いかもしれません。
>おなじなのでしょうか?の問いには、葉が陽を浴びてきれいだなあ と答えます。
もしかして、現象=実在って意味ですか?わたしなら、♪口笛を吹きながら、どこまでも行こう。です。
No.7577 - 2021/03/23(Tue) 06:54:41
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Re: ubik0101の探求ノートから
/ hato
引用
透き通しで見える風景。森羅万象、摂理、ただ凄いです。そして尚、命は、人は、生ある限り挑戦し続けます。誰かが、またほかの誰かが旗でも、終着点でも完成でもない、日々生きる、ただ、自身というところを問う意味での真摯と努力が、発祥であり、旗であり、進むところ、と思います。
冬のいちじくです。
No.7578 - 2021/03/23(Tue) 11:55:33
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Re: ubik0101の探求ノートから
/ hato
引用
その先の、ユスラウメ(梅桃)です。
No.7579 - 2021/03/23(Tue) 11:57:34
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Re: だんだん 世の中が楽しいです。
/ 勘太郎
引用
おなじなのでしょうか?の問いには、葉が陽を浴びてきれいだなあ と答えます。
もしかして、現象=実在って意味ですか
実存とか実在は関係ない様に感じます。「私は在る」との題名の覚者の本がありますけれども、オイラは、私・自分の自覚や意味あいが薄れてきています。私が在る」とは感じません。そう言われたらそうかもしれない?と感じます。陽に照らされた葉を見ている今の気分がこの部屋に浮かんでいるような感じです。その感覚はオイラの身体の中にあるのですけれども。かっこっつけ過ぎた表現ですが。
この頃、流行の言葉で云うと「今に在ると今が楽しい」という感じがします。自己責任はあるのでしょうけれども、オイラが
CENSORED
ば無くなります。月から見た地球はビー玉の様で、地球が無くなっても、温暖化で住めなくなっても仕方がない・どうでもよいやあ〜です。
そうではあっても、猫の一生君もゴムの木も散歩道の松もとっても愛おしいです。
<<それを思考してないとき、世界は狭くなく、重くなく、暗くないのではないでしょうか。それを思考してると、世界は狭く、重く、暗いのでは?>>ここに書いていただいた気分がすこし解るようなきがします。
No.7580 - 2021/03/23(Tue) 19:48:03
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Re: 口笛を吹きながら行こう。
/ 勘太郎
引用
真摯と努力で押し進む。
その人なりの進み方が指定されているようです。15年程まえの人にオイラが「神様はいます」と云ったら、彼は「もし神様がいたら、人をこんなに苦しめることはしない。」と言いました。
釘を板に打ち付けて家を作る。釘は頭を玄翁で打ち付けられるし、板は釘を打ち込まれる。丸太は切り刻まれて柱や壁になる。釘や板や丸太にとっては苦しみかもしれません。家ができて、楽しい会話が家の中で行われる。
変化を見ているのは、哀しいときもあり、楽しい時も孤独のときもありますけれども、その実どんな時も充実感でいっぱいなのではないか?と思います。怒っている時や孤独感に打ちひしがれている時も充実感で一杯だとおもいます。
No.7581 - 2021/03/28(Sun) 09:05:21
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Re: ubik0101の探求ノートから
/ hato
引用
勘太郎さんの文章を読むと、日常の現場が伝わるというか、なにかの比喩も、勘太郎さんの生活に裏付けされたものであることが伝わってきます。
>変化を見ているのは、哀しいときもあり、楽しい時も孤独のときもありますけれども、その実どんな時も充実感でいっぱいなのではないか?と思います。怒っている時や孤独感に打ちひしがれている時も充実感で一杯だとおもいます。
怒りは怒りでいっぱい。孤独は孤独でいっぱい。それそのもの、てことでしょうか。怒りがあって、その人。孤独があって、その人。そのことである充溢、ならそのようです。或いはまた、充実感、というとき、変化を見ているというなにかが、充実感を得ている、・・偏ることもなければ、ただ人、て思います。
誰もが、その人なりの道、そして尚、ただ言葉が導いてくれることが、確かにありますね。たとえば、イエスの言葉によって表現されたことは、道を行くとき、通らざるを得ない門のようなこと、と思います。
どこもかしこも、新芽が物凄い勢いですね。
No.7582 - 2021/03/29(Mon) 01:15:49