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記事No.7584に関するスレッドです
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(No Subject)
/ hato
引用
仕事場の近隣の小山に、数年前から日本カモシカが見られるようになりました。近くに住んでいると思うと嬉しいものです。増えると、山や畑を食い潰すと聞くと、切なくなります。ともかく、元気ならとてもよかった。
じっとこちらを見て、微動だにしない、静かな佇まいが美しいです。
No.7584 - 2021/04/05(Mon) 00:19:06
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Re: ハトさんの「私がはなしているのではありません」
/ 勘太郎
引用
この言葉が頭に浮かぶことがあります。鉄城御老師の「無字ってなんだ?」と同じ様に公案です。
浄土真宗では「阿弥陀様が話している」と云われます。誰が口にしても出どころは一つと云こと、実感は伴わないながら、そうなんでしょう。
いつも話で、ダグラースハーディングと言うひとの中に、「距離は無い」と言います。おいらはどうしても、まず距離というものが有って、それが無いと考えてしまうのですけれども、彼が言っているのは、見ている私と対象である遠くの鉄塔が一つで分かれていないといっているのだなあ〜とやっと解りました。距離とか、幅とか時間もそうなのでしょう。これまた実感が伴いません。仏陀の「明けの明星を見て、歓喜した」もこれです。生死の解決は生死無しというか、生死が無い。です。
No.7585 - 2021/04/05(Mon) 09:39:34
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Re:
/ hato
引用
何度か話題になっていたのかも知れませんが、ダグラスハーディングという人をよく知りませんでしたので、すこし読みました。哲学者、神秘家という通りの文章、との印象でしたが、その、ダイレクトに見るというのか、そうしたものの見方の練習で、自分という中心がないことを言われてるのか、と思います。実際のところ、人はどこに導かれてるのでしょう。
自分としては人として、対象との物理的距離はあるとして、認識する事柄に距離はないこととその物理的距離、どちらを落としても拡大しても、事実の認識との意味では、奇妙なことになるのではないでしょうか。と思います。
或いは、世界はひとつ、自己は世界、自分は見ているパソコンであり壁であり、他人なのだ、というのは、その総てを自己として愛するという、覚悟かも知れません。
として、本当に、?。自己とは本当に、? とは問わなかった。
不可思議、という事実を見ず、世界であること、ひとつである意識、という解釈に落ち着いたのかも知れません。
頭がない、の意味が違うかもしれませんが、そのように頭で解釈したところ、ありきたりの、詰まらない、本当には落ち着けないところに、人は押し込められるでしょうか?
今年は早くて、もう散ってしまいましたが、桜が今年も咲いてくれました。ナナが見えます。
No.7586 - 2021/04/06(Tue) 00:56:37