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記事No.7649に関するスレッドです

言い訳です。 / 勘太郎
パソコンを変えたので(再生品)住所の移行ができないでいます。
今日は迷子にならないように、ブックマークに住所を記憶しました。

その人とは。勘太郎の後ろにいて、勘太郎の感覚から世界を見ています。勘太郎もその人から見たら外側に属します。
勘太郎は死んだら、その人になります。その人は意識も時間もありませんので、勘太郎には想像のしようもありません。仏教で空とか無とか云うのはこの人の事をいっているのかな?ともおもいます。この人の中には、何にもないも含まれます。ですから、宇宙がないのもその人に含まれるような気がします。想像の世界なのでこれにおぼれてしまうと困ります。仏教では魔境と呼ばれる状態です。

 暇な職場がコロナで更に暇です。昨年の6月にコロナでお客が少なくて止めた喫茶店の跡に、また別の喫茶店の入居が決まりそうです。といっても開店は来年の予定でそれまではテナント料金は取らないらしいです。
 こんなごご時勢でも、テナント募集していると内覧希望がぽつぽつあります。韓国料理店さんもかなり真剣に考えたようですが、改装費用はテナントさん持ちの契約で、初期費用がネックになってボツになったようです。

 しゃぶしゃぶやさんはづっとお休みしています。けっこう盛っていたんですが、残念です。今まではビル自体は12時頃も明かりがついていましたが、コロナ後は10時には全員退館してしまう日も多いです。それで暇がますます増えました。

No.7646 - 2021/08/29(Sun) 17:37:00

Re: 言い訳です。 / hato

「言い訳です」・・と言われてるということは、あまり腑に落ちなかったようです?。むむー。前のスレッドのubik0101さんの内容は、実際とってもツボたよ!? と思ってしまいましたが、人さまは本当に皆、身体として、意識として、その持てるところの感覚というのが違うのでしょう。真理といって、指し示されるなにかが元来、ちがうこともあるのかも、と思います。勘太郎さんの見ているところは、勘太郎さんの、なにかよい場所なのでしょうね。

さてこちら、

仕事は臨時休業中。お金がないのは困るだろうけど、やっぱり、家でじっくり作業(書いたり、読んだり、見たり、掃除したり、深呼吸したり、眠ったり、食べたり、・・・)できる、休日はいいなあぁ。これぞ夏!を、たっぷり味わいました。家と庭にだけいる生活です。

ubik0101さんは、この時期ちょい簡単な目の手術(でも入院、)を2度受けて、目がまっこと良く見えるようになったですと。なんと幸いなんでしょう。👀

でもコロナ、大変ですね。仕事も自分たちも、出来る限りの注意をしょうというところです。イチジクがたくさん、出来てきているので、画像を載せようと言ってます。

No.7647 - 2021/08/29(Sun) 23:34:54

Re: 言い訳です。 / ubik0101
ふつうは勘太郎さんの言う、その人、がいないのが、無心とか無我とか、呼ばれることでしょう。うまく言えませんが、その無我と世界のかかわりを空・・・人空、色空・・・と言うのでしょう。

たとえば、私私私と、誰かに自分を認めてもらいたい人がいるとします。そんな人は、その人が、その人自身ではないから、誰かに認められて、仮にでも自己満したいということかもしれません。

そのような誰かに認められたい人は、まず立派な?優れた?自分であってそれを認められたいということなんでしょうけど、誰かに認められるから優れた人だと自分に納得させられる。という誤魔化しをしてることに気づかない愚かさに満たされてるかもしれません。

でなくて、その人がその人なら、それで満たされてるので・・・満たされてないことを埋めるために誰かに認められることは・・・とくに必要がないでしょう。

おなじように自分が自分であれば、自分のほかに、本当の自分とか、仮の自分とか、必要はないです。

もしかして、勘太郎さんのいうその人は、24時間いるような気がするかもしれませんが、それを感じよう、それから感じられようとするから、それがいるのではないですか。なんだか自我がつくった偽の真我かもしれません。

そうだとして、どうすればいい?それは、まったく何の役に立たない・・・これが納得できるかどうかは、かなりの分岐点ですが・・・それで、それは消えてしまいます。ひとりあること、唯我独尊の第一歩です。

それでも、勘太郎さんには、勘太郎さんの道があるのかもしれません、

イチジクは、ロードス。ギリシャ産です。美味しい実ができると、スズメバチが沢山やってきます。

No.7648 - 2021/09/06(Mon) 11:01:32

Re: 言い訳です。 / hato

もう一枚。

No.7649 - 2021/09/06(Mon) 11:06:44

Re: 私にできることは一つ / 勘太郎
気が付いたら、自分の中に意識を向ける。

眠いなあ、疲れたなあ、おなかいっぱいだあ・・・猫をなでると気持ちがいいなあ。

そう感じている自分を見つめる。なんともならないかもしれませんけれども、そこから白紙の自分を眺める。

昨日はのんびり小樽の港で船を眺めたり、穏やかな海をながめたりして、一時を過ごしました。日曜日は港も静かでした。
 イチジクはおいしそうです。かたつむりを思い出します。梅雨時には葉にたくさんいました。蜂もいました。あしながバチだたような気がします。

No.7650 - 2021/09/06(Mon) 19:46:45

Re: 言い訳です。 / ubik0101
いつか言ったかもですが、自我がつくった偽の真我を囮、人質にして、自我は生き延びる・・・それが自分は子供から大人になっても、

結婚しても、老人になっても自分は変わらずにあるその感覚、簡単に言うと自分という感覚・・・もしそれが作られた偽の真我、実際、

それは永遠の命とか天の国を保証してるように見せかけてるだけで、なにもできない・・・ことを見破られたら、それを作ってる、

自我の安全は保証されない・・・眼くらまし、隠れ蓑としての、偽の真我を失うから、、、こちらはこんな経緯がありました。

たぶん幸運なのでしょう。もちろん、おなじ経緯をなぞってもなにも保証できないし、違う経緯があるとかないとかを問題にできることでもないです。

No.7651 - 2021/09/07(Tue) 06:42:09

Re: ぐさりと突き刺されます。 / 勘太郎
 おいら自身のことは解りませんが、他人が真我を語るとき、ubik0101さんの言う事が解ります。偽宗教でも悪意のない真我ごっこは楽しいのです。

偽物はいつか偽物と自覚できて破壊できないものか!と願ってしまいます。
偽物というよりも、こいつは自我だ!と解っているのですが消えません。すぐに出てきます。

えぐり出して、捕まえようと思っている主体が自我ですから。自分の体を自分の腕で天に持ち上げようと願っています。おかしな話です。

 ご指摘、ありがとうございます。

No.7652 - 2021/09/07(Tue) 20:21:36

Re: 読み落としていました。 / 勘太郎
なにもできない、偽物真我。
触れないし、おいらに接触もしてこないし、傷つきもしない。これが偽の真我の具体的な姿です。

No.7653 - 2021/09/07(Tue) 20:25:46

Re: 言い訳です。 / ubik0101
ときに・・・ここに至るには道がない、と言われることがあります。そうです。たしかに至ったら、道がありません、しかし、道を通ってきたのです。それが自我です。自我を学んできたのです。

おそらく勘太郎さんは、知識があり、結論を急ぎすぎでしょう。おいらとか、私とか、の中心を、まず見えないことを、見ようとして探ると固着してる?それを探る必要はないと思います。事態は、もっと簡単です。

ああこれは、こういう働きをしてるのかと、自我から、自我が、自我の振る舞い特性、を学べばいいだけです。(自我は神羅万象の写し絵です)、見えることを大雑把でなく、敏感に正確に見ればいいのです。

たとえば、タカビーな人は自分がタカビーと気がつくことが、卑下する人はそうと気がつくことが、自己責任を引き受けない人はそうと、狡ければ、知ったかぶりなら・・・そうと認識することが、その一歩です。それはたぶん誰にも、すでに用意されてるでしょう。

それだけで、発見が発見を、いわば奥へ奥へと導いてくれます。それが、どんなことより面白くて、血と汗と涙の楽しさだったのです。それを探求とか、道とか、経緯とか、日常とか、呼んでるだけです。メソッドとか何も知らず、これしか出来なかった、

No.7654 - 2021/09/08(Wed) 06:28:13

Re: 言い訳です。 / hato

>私にできることは一つ

>気が付いたら、自分の中に意識を向ける。
>眠いなあ、疲れたなあ、おなかいっぱいだなあ・・・猫をなでると気持ちがいいなあ。
>そう感じている自分を見つめる。



自分を見るというのは、もし誰かが、自己探求をするとき、勘太郎さんのように、自分の行動、動向を感覚、視覚的に見る、・・・ことから、実際は一歩踏み込み、たとえばなにか、駆られるようにした行動が自分でも不明だとして、であったとして、その自分を、

「なぜ、そうなのか。なぜ、そう考えたのか。その考え、思考の前提とされるところはなにか。その根本原理として自分が当然としているところはなにか。」

と、言葉、思考を駆使して見る、ことが本来的探求の形式と言えます。言葉で見る、との所以です。

物理的な身体、肉体の動向に焦点を置くよりは、見えないけれども、思考されてる、思考してる、であるところの、その 人 が、どうであるのか?、を言葉で、見ることです。

肉体、または感覚を、「自分」として瞑想などすれば、その物体的質感や、皮膚感覚等が重要になってきます。そのあたりに意識を置きますと、ともすれば、勘太郎さんがよく話されてる、オカルト方面に進みやすいです。意識はとめどなく浮遊し、解消されていない希望欲望戯言、怖れに、人は幻惑されてしまうかも知れません。そうしたことは、試しに一度体験すれば、もう結構です。正しいことがあるとして、正しい方法でないから、いつまでも、不明な幻惑のままなのではないでしょうか。

もし、本当に、ここで言われる探求に進むとしたなら、そのような瞑想はひとまず置いておき、改めて、言葉で見る、探求に向かい直すことも、できると思います。望んだことは、なにも起きないかも知れません。進むことによってだけ、道があるとしたら、それですら、進んでいけるでしょうか?

すこし前までこちらに載せてた、ubik0101さんの研究書を読まれていたでしょうか。もう40年くらいか昔という、青年ubik0101さんの探求の、ほんの一端です。よく見れば、思考を駆使して、自分というところの都度の概念を、言葉で見ている、のがわかると思います。想定されたなにか自分というところの、動向をながめてる・・ではないことが、わかると思います。

No.7655 - 2021/09/08(Wed) 22:17:09