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記事No.7774に関するスレッドです

お久しぶりでございます / 勘太郎
お元気な様子は拝見しておりました。

単刀直入です。
勘太郎は胸の奥から見聞きしている、勘太郎です。

特定のものなく、あるもないもない。

覚醒でも自我でもなんでもよいです。この勘太郎と今しばらくの年月、お付きあい頂いて、その後の事は知りません。

体験が無いながら、勘太郎はこれ以外にはあり得ず。
印可証明は不要。勘太郎がこれでなかったら、勘太郎とは別のものです。勘太郎と別のものなら、勘太郎には不要です。最近こんなふうに感じております。

これからは、むずかしいお話はどけておいて、季節の話題などいたしたいと思います。

No.7766 - 2022/08/28(Sun) 17:18:33

Re: お久しぶりでございます / ubik0101
その胸の奥から見聞きしてる。として、
それは事実ですか?
事実だとして、なぜそう感じられるか理解できますか?

これは、意識とは何か。ということです。

すこし個人的なことですが、こちらの経緯を話してみます。

その日に考えたことを総て書こうと決めて、20年間ほど、夜中に起きて数時間、ノートを書いていました。なんで華々しいことは何もなく、基礎研究しか出来ないのに続ける?自分でも訳もわからず、憤りを感じたこともあります。

それで今思えば、自分がどう機能するかを研究してたのだと思います。自分がどう機能するのか、自分で、自分を研究するのです。それが意識の機能です。意識なしに、これはできないでしょう?

ふつう人は、自分で自分のことを知ろうとする意識の機能が強く働き過ぎ、あるいは自覚がなく意識に振り回され、その奴隷となって、自分が何をやってるか判らないでいることがあるようです。ここで、思考がない自分に気がつくという道も起こったりします。こんなことは日常であることです。

No.7767 - 2022/08/29(Mon) 15:08:47

Re: お久しぶりでございます / ubik0101
また、たとえば、なにかを誰かに向かって批判的に判断することもあるかも知れません。そこで、その言葉を自分に向かって言うのです。あるいは、偉い人は指図する、けど指図するから偉いというわけではない不可逆・・・この日常で、意識の機能として、自分を学ぶのです。これは自己責任から逃げないとか、きりがないですが・・・これはその人の探求に必要なだけ必要です。

ふつうは、時間差、空間差をもって、意識する、見ることが起きるのです。しかしその意識の機能によって見ることが出来る、対象、内容は、おおむねですが事実、真実ではないことを見てるのです。誰かが、なにかを意識したり、思考したり、対象にしたりすると、そのことは、本物ではないです。幻想を見てるのです。判断してるのです。

そこで大事なのは、意識の対象になってること。思考の内容ではないです。楽しいとか、苦しいとか、思考、概念、哲学、真理、虚偽・・・なんであれ知覚できること、これらは意識内容、対象です。幻想です。そうでなく大事は、なにかを思考、感情、してる、それ、主体、中心、これ、が、どんなことか?ということです。

その中心は、その思考内容によって、思考するという行為によって、それを逆にたどって、垣間見られることもあり、示されないこともあり、そいうことは絶妙に配合されて機能し、そのことも学ぶことができます。その中心が幻影ということもあります。探求の日常で起こることです。

No.7768 - 2022/08/29(Mon) 15:11:51

Re: お久しぶりでございます / ubik0101
それから、それを学ぶこと。それはそれができるようにできてるのです。

それは、ほんとうに。その誰かが24時間のうち24時間かけてすることです。要約したり、結果だけを得ることはできないです。

ともかく、

>勘太郎は胸の奥から見聞きしている、勘太郎です。

と、その胸の奥の勘太郎が、そう言ってるのでしょうか?また、それは誰に向かって言ってるのでしょう?

なにか勘太郎を感じてるなら、その感じてるのは何?という疑問が常に生じるはずです。

ここは微細に見ることが望ましいと思います。

ここからA=Aの話になったりしますが、自我は、A=Aができないようにできてるのです。

No.7769 - 2022/08/29(Mon) 15:13:35

Re: お久しぶりでございます / hato

ここはいつも、ちょっとむずかしい。けど、やっぱりここは、自己を知りたい人の場所です。

・・ふと立ち止まり、所業、その自身を、見止める。「これはなに?」。たとえば欲望を、欺瞞を、嘘、その所為の大もとであるところを、見止め(失い)、見止め(失い)・・一歩、・・それだけで、自己と世界は開示してくれます。真摯、素直であろうと努力できる、それを助けてる、なんて奇跡の世界なのでしょう。

人は「わたしが、なにかをしてる、」と当然に思います。身体、精神、なにか神的精神は確たるものとされて、そのような自分が先ず、ある、と疑いようなく思います。

けれど逆です。実際は、なにかをした(衝動)(行)、ことから、世界と人が生じる(識)(色)(感覚器官)(受)(感情)(意識)(判断)人と世界は(有)と(死)、・・・無明より発した依存関係は概ね、その、ある(ない)、に片寄ります。縁起の順環といわれます。

ここに本来的には、人に繊細、微妙、精妙な事柄である、了解故の体験は、不可避です。結果にのみ性急なとき、それは欲望です。一歩、一歩。振り返り、

 これは?

No.7770 - 2022/08/29(Mon) 15:15:05

Re: お久しぶりでございます / hato

季節の話題・・この夏はずっと家と庭で過ごしました。何度か近場の海山川。森、清流、広い広い田畑と空。初めてのタマムシ、一緒に、碧いカワセミを見ました。

No.7771 - 2022/08/29(Mon) 15:23:34

Re: お久しぶりでございます / hato

森の中の清流でした。

No.7772 - 2022/08/29(Mon) 15:25:22

Re: お久しぶりでございます / hato

海もちっと行けました。

No.7773 - 2022/08/29(Mon) 15:27:55

Re: お久しぶりでございます / hato

田圃も、元気です。

No.7774 - 2022/08/29(Mon) 15:29:32

Re: お久しぶりでございます / 勘太郎
> その胸の奥から見聞きしてる。として、
> それは事実ですか?
> 事実だとして、なぜそう感じられるか理解できますか?
> 勘太郎の眼があるから。手で見てる、足で見ているとも言えます。
> これは、意識とは何か。ということです。
>意識が勘太郎です。勘太郎は普遍である感覚機械です。多分アインシュタインもこの意識もこれ以外にない感じています。
> すこし個人的なことですが、こちらの経緯を話してみます。
>
> その日に考えたことを総て書こうと決めて、20年間ほど、夜中に起きて数時間、ノートを書いていました。なんで華々しいことは何もなく、基礎研究しか出来ないのに続ける?自分でも訳もわからず、憤りを感じたこともあります。
>
> それで今思えば、自分がどう機能するかを研究してたのだと思います。自分がどう機能するのか、自分で、自分を研究するのです。それが意識の機能です。意識なしに、これはできないでしょう?
>
> ふつう人は、自分で自分のことを知ろうとする意識の機能が強く働き過ぎ、あるいは自覚がなく意識に振り回され、その奴隷となって、自分が何をやってるか判らないでいることがあるようです。ここで、思考がない自分に気がつくという道も起こったりします。こんなことは日常であることです。

意識は普段は自分をいしきしていません。1日の中で1時間もないです。

打ち方を忘れてしまいました。これで試しにエンターします。

No.7775 - 2022/08/29(Mon) 19:33:40

Re: お久しぶりでございます / 勘太郎
れ、主体、中心、これ、が、どんなことか?ということです。

これが勘太郎です。勘太郎は体を持たず、心を持たずすべて受け身です。仏教では鏡に喩えられますがなににも傷つきませんし、攻撃はしませんが、無限の包容力により、すべてを受け入れてしまいます。これが勘太郎です。それとか意識と云うと、漠然としてしてしまうので、勘太郎と名付けました。

肉体を持つ勘太郎は本物の勘太郎のモニターとレーダーとキーボードでしょうか?と言っても別の勘太郎が居るのではありません。意識が勘太郎として現れいるとの表現が合っているかもしれません。キリスト教の三位一体ってこれに近い事をさしているのかと思います。

マインドフルネスってこの事をいうのではないか?と思っています。

No.7776 - 2022/08/29(Mon) 20:11:43

Re: お久しぶりでございます / 勘太郎
人は「わたしが、なにかをしてる、」と当然に思います。

私が畳になった」とか言います。「私は対象だ」でしょうか
勘太郎には私という感覚がないのです。
主体無しに、なにかしている、あるいはそういうことが起こるという感覚です。

私の自我が学習して、そういう感覚だとかんじるのでしょう。

話題を変えます。
視界って面白いです。理性的には視界は180度の半円なのですが、感覚的には360度完全な球で内側から球全体を見ているのですが、視点が無い、球の中に首を突っ込んで眺めているような感覚です。不思議な感じがして面白いです。死角がなく球の内面全体を眺めているのです。これは絵に描けないのです。魚眼レンズならこうみえるのですかね?

No.7777 - 2022/08/29(Mon) 20:32:25

Re: お久しぶりでございます / ubik0101
そうならば、胸の奥、ではないでしょう。
No.7778 - 2022/08/29(Mon) 23:45:52

Re: お久しぶりでございます / hato

>勘太郎には私という感覚がないのです。
>主体無しに、なにかしている、あるいはそういうことが起こるという感覚です。


そうですね、実際、自我としても、常にわたしが、わたしが、・・と考えてるわけではないでしょうね。そういうことではないのです。問題は、形式です。


>勘太郎は胸の奥から見聞きしている、勘太郎です。

内奥から見聞してる、なにかが、勘太郎、と自らお話しです。先んじて確たるなにかがあるわけです。そこに、なにがいるのでしょう?

No.7779 - 2022/08/30(Tue) 00:17:24

Re: それなら、胸の奥ではないでしょう。 / 勘太郎
胸の奥というか、胸の辺りです。これが勘太郎が私を無しに、できていないところでしょう。
勘太郎は視界と云う球の内面に張り付いている厚さを持たない平面な肉体です。

No.7780 - 2022/08/30(Tue) 19:00:16

Re: お久しぶりでございます / ubik0101
・・・たとえば360度の視界。それは、見る、聞く、歩く、とかいう日常から・・・抽象?表象?逆算されて、仮定された、勘太郎、かもしれません。(つまり主が、仮定されたものを、主と思い違ってる)。

それは主体ではないので、仮定されたので、視点はなく、何も出来ないし、受けるだけでしょう。

このように仮定と主とに分裂することによって、そのようでないはずの、仮につくられた、勘太郎、と中心、本体、主体が現れ・・・そのためには時間、空間の差が必要で、そのようにして、自分の行動、思考、言葉を認識できるように仕組んでる・・・それが意識の機能なのではないでしょうか。

ところで、

その、勘太郎、をつくってるなにかは、完全に自覚できないのでは?

それで、説明としても実感としても・・・見る自分は自覚できないので、ない。見られる自分(勘太郎)は虚構と判ってるなので、ない・・・見る自分も、見られる自分もない、です。

No.7781 - 2022/08/30(Tue) 19:49:22

Re: お久しぶりでございます / hato

人が表層の自分と内奥の自己、という主体、客体と分かれ、それをよしとしてしまうと、都合に依って、行ったり来たりするのでしょう。都度一方に逃げることになり、自身というところを、きちんと詰めることができないと思います。

有り様を見止め(失い)いくと、起こしている前提が掘り起こされ・・

No.7782 - 2022/08/30(Tue) 21:16:30

頭がグルグル回ってしまいました / 勘太郎

性急に書いたものは、書くたびに内容がバラバラです。

No.7783 - 2022/08/31(Wed) 18:48:31

Re: 主体はあるでしょうか? / 勘太郎
主体なんてとあるんですか、と言いたいところです。

ubik0101さんもhatoさんも私の中の意識の中に居ます。行ったり来たりはできません。スポットライトの当て方で出たり去ったりします。
禅僧が〇を書く意味は、みんな私の中の出来事といいたいのではないでしょうか。

掘れば掘るほど無尽蔵になんでも出てきます。

見止めとは別の言葉で言うとなんというのでしょう。初めての言葉です。変換もすぐでますから、
一般的な単語なのでしょうけれど。意味は見て途中でやめるとあります。

No.7784 - 2022/09/01(Thu) 04:05:26

Re: お久しぶりでございます / ubik0101
なにか勘太郎さんに
起こったなら、
養生するのがいいかもしれません。

そうなら以下は、蛇足です。

>主体なんてとあるんですか、と言いたいところです。

眼は眼を見れない、というのは、眼がないのではないです。主体は主体を見れない、です。それは主体でなくては言えないです。ここでは、あるはあるにあるきって、ない、とも言います。

>ubik0101さんもhatoさんも私の中の意識の中に居ます。行ったり来たりはできません。スポットライトの当て方で出たり去ったりします。
>禅僧が〇を書く意味は、みんな私の中の出来事といいたいのではないでしょうか。


勘太郎という主体がないので、みんな勘太郎の中の出来事って意味でしょうか。その勘太郎さんは、私(ubik0101)の意識の中にいる、は、ありませんか?では、誰にしても、みんな、私の意識のなかにいる、ではないでしょう。

勘太郎さんの中にいるのは、勘太郎さんにとっての、ubik0101なのでしょう。

>掘れば掘るほど無尽蔵になんでも出てきます。

では掘ってないことは、どうなってます?感じられることが総てで、感じられないことはない、ではないでしょう。

No.7785 - 2022/09/01(Thu) 08:42:57

Re: お久しぶりでございます / hato

見止める。辞書にあるのですね。認める、・・見止める、です。ここでいう見止めることは、見て、気付くことによって、その衝動から起こる有象無象が瞬き捨てられる、・・ことでもあります。

少し違いますが、放置しているところに災害が起こりやすいといわれます。人の、自身でよく精査されていないところ(明らめてないところ、)は、放っておかれると、見て見て、と騒ぐ・・一般的に、自我の有り様とはそんな感じです。

人はあらゆる総てが、十全であって、変な言い方ですが、落ち着くことができる、・・ようなものですが、(微妙な言い方になりますが、)、集積された無明、そこから発した(逆転した)形態は、片寄らざるを得ないために(無意識にも苦、)有り様が突出する、・・それは必要があるからです。

これを見て。が表現されている、それはまさに、その意識の有り様、がそのことです。それを見止めることができます。


>スポットライトの当て方で出たり去ったりします。


スポットを当ててるその自体、を、振り返ります。

No.7786 - 2022/09/01(Thu) 12:41:27

Re: あるに、ありきって ない。 / 勘太郎
を理解できたような気がします。

禅では 魚が、水の中にあって、水を求める。とかいいます。

見止めるの意味が腑に落ちました。
 認めると消える。 下世話な経験では、勉強では暗記が先で理解が後の方が学習が進む場合が多いです。 食べ物・知識の消化でしょうか。栄養となって食べ物・知識は消え去る。

スポット当ててるその自体、を、振り返ります。
これは大変判り易い説明です。
それがあるにありきってない、主体です。私のいうところの勘太郎です。

人はあらゆる総てが、十全であって、変な言い方ですが、落ち着くことができる。
 これを禅では雪は落ちるべきところに落ちる」とかいう意味でしょう。こちらも禅の言葉より具体的です。

私も白内障の手術をして3月。遠くに視点を合わせたので、急に老眼になって不自由な毎日です。視界は狭まるので、トンネルの出口から外を眺めているような感覚です。困ったもですが、車の運転は気持ち良いです。遠くまではっきり見えるので、うんてんが楽しいです。

No.7787 - 2022/09/01(Thu) 15:35:38

Re: お久しぶりでございます / hato

うーんと、ちょっちあれれ〜? もありなりけど、

勘太郎さんがそれでよさそうなら、

ま、いっか。(..)(..)、のところです。

腑に落ちたことがあって、とてもよかった。

まだ、まだ、これから。

元気でいきましょうね!

言わなければならないことは、人は人として、(表現として難しいところですが、)予め十全ではない、ということだと思います。ですがここは、個人の信条によりますね。人はもともと悟ってる、愛のもとにひとつだ、真理を探す必要ない・・等々、意見はあるでしょうね。
それでも、奮起して、その趣向、自体を見止めて進むこともできる、ということだと思います。

勘太郎さん、いつも、ありがとうございます。

けど、ここでお喋りしすぎは、お互いのためによくなさそう〜です。😭

もう十分、書かれてますから。

年賀状で、またご挨拶させて頂きますね。

(運転、気を付けて楽しんでください。ubik0101&hato)

No.7788 - 2022/09/01(Thu) 21:10:48

Re: 精進いたします / 勘太郎
 長い間 おつきあいいただきありがとうございました。
よくはわかりませんけれども、精進いたします。

No.7789 - 2022/09/02(Fri) 17:36:33