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記事No.7813に関するスレッドです

名称と形態 / ubik0101
♪どこまでも行こう。
地図は見なくても、誰にも
聞かなくても、
口笛を吹きながら、
どこまでも行こう。

まず、意識とは何?・・・これは人が意識に依存しなくなると自然に発生する疑問ですが・・・自己を知ろうとする機能です。自分で自分を知ろうとする機能です。おおむねですが、

それ自体、意識そのことは不可視です。傍証ですが、たとえば怒りそのこと、嬉しさそのこと、味覚、聴覚、視覚そのこととかは、それがなんであるか不可知です。その内容、機能は感じられるということです。

No.7802 - 2024/03/05(Tue) 12:49:01

Re: 名称と形態 / ubik0101
しかしここで、花とか風とか人とか、嬉しいとか、悲しいとか、が知覚されると、その見てる主体が見ること以前に時間を遡って仮定、設定されます。それは胸の奥とか、眼の奥に想定されることがあるようです。

そこで、逆に、私、自分、俺・・・が予めあって、それが花とか風とか人とか、嬉しい悲しいを知覚したと、行動、発言、思考を、知覚したと思い込みます。これが自我です。虚構です。

なにか対象を知覚するのだから、知覚してる主体、中心がなければならないという、まったく疑うこともできない自明に思える理論的なこと、こんな簡単なこと、これに囚われてしまうようです。

No.7803 - 2024/03/06(Wed) 08:32:36

Re: 名称と形態 / ubik0101
これが自我の仕組みの開示で、マジックの種明かしであり、自我の解決です。深い安堵が訪れます。どうすればいい?ふつうに生活するのです。けど何かをした、何かをしなかった。という人生、それが何になるでしょう。

なんであれ・・・世界一の金持ちになった、貧乏人になった。人を小馬鹿にした、蔑まれた、尊敬された、宇宙に行った、海溝の最深部に行った?経験が大事。それでいいなら、それでいいのが、世界の凄いところです。

が・・・何か行動してる、話してる、思考してる・・・その自分は何だ?これだけです。いつでもどこでも、自分の全生活にあって、できることです。こんな簡単なことはないと思います。

No.7804 - 2024/03/07(Thu) 13:36:34

Re: 名称と形態 / ubik0101
たとえば、俳優とか政治家とか隣人とか、誰かを批判したりするとします。その自分は何だ?たとえば誰かが言ったことを知ったかぶりとも気がつかないで、誰かに吹聴するとします。

また嘘を言ったとします。誰かを褒めたとします。その行動発言思考の内容でなく、その、その自分は、なぜそんなことをする?これが困難なら、それは自分が自分で見えないからです。まずは、これが諸悪の根源としても機能します。

そんな自分が自分で見えないから・・・誰か相手にもそんな自分が見えないと見做すので、自分にも自分が見えなくていいとするのか・・・嘘もつけるし、誰かを馬鹿にすることも、一生を通じて人を、自分を騙していけるのではないでしょうか。

その時々に対応策があります。たとえば、全知全能の神が私のことを知らなくても、家族が、友人が、世間が私を知らなくても、私は私のことを知ってる。この自分の判断は、総て誤る。判断が適正だったとしても偶然だ。

たとえば不公平な行動発言思考するなら、その原因を探るのです。そのことに気がつけばいいのです。嘘つきなら、自分が嘘つきだと見ればいいのです。それを見ないなら、ずっと嘘つきです。

ただ誰でも自分の行動は、発言は、思考は、自分でそのまま知覚できるはずです。それは結果であり、その原因を探るのです、それがそれである前提を探るのです。話しながら苦笑するのは、人を小馬鹿にしてるのかもしれません。

また、その自分に注目を望んでるのかもしれません。タレントや政治家を批判するのは、傲慢かもしれません。対岸の火事を楽しんでるのかもしれません。

次々と話題を変えて連想ゲームするのは、自己責任から逃げてるのかもしれません。そして人は誰でもそうだと見做すなら、人と人の間に隠れて卑怯なのかもしれません。

そうして誰かを不快だと、偽善者だと、傲慢だと、愚かだと、恥知らずだと・・・非難するのは、そうしてる自分にも非難される同じ原因があるかもしれません。

でなくて、どうしてそれが認識出来得るでしょう。またそうする自分の自己評価が自分だけで高いのかもしれませんが、誰かを非難することによっては優れた人であることはできないです。

このように学ぶのです。ほかの人のことは知りませんが、まずは・・・このように自分を探査したのです。自我とは自分を学ぶ機能です。それを使うのです。自分で自分の中が見えないから探るのです。

No.7805 - 2024/03/08(Fri) 11:31:10

Re: 名称と形態 / ubik0101
それでこれは、その自分の中の人に対する、勝手に自分が空想した人に対する非難ですから、自分で自分を非難してることです。そこでもっと直接、人に向けた批判の言葉を、そのまま自分に向けて切り返すのです。

あの政治家は馬鹿だ、ずるい・・・あの隣人は偽善者だ、自我だ・・・なんであれ、噂話するその原因。そうする人が愚かであり、偽善者、自我なのですが、その原因は自分で自分に隠れてなければ機能しません。

というより自分で隠してるのですが、それに気がつくことは困難です。それを認識するだけでいいのです。ここで、その愚かとか、偽善者とか・・・ほかにも自由、愛、幸福とか・・・それ、そのことを定義してみましょう。

できないです。自分で何を考えてきたのか知りもしないのに、そんなことにも気がつかず、思考をまき散らしてきたのです。端的に言って、なにをしても行動しても、何を言っても、何を思考しても、自分でしてることが、自分で判らないのです。

tpoに合わせて空気を読んだり、読まなかったり、単に思い込みによって、言動思考してきたのではないでしょうか。ここでたとえば、不公平だということに気がついたら、公平であろうとすることはいいことでしょうか?

うーん、公平ということが、どんなことか知らない、定義できないなら、勝手にその自分の思う公平、なんであれ思い込みの、不自由、自由、愛、自我、無我かもしれません。そんなことでは思考も人も硬直するかもしれません。まず、気がつく百億の昼と千億の夜。

このようなことは企画して、意図して、そうするのではないです。思考することによって、それが教えてくれるのです。思考は思考の機能を教えてくれるのです。自分がどう機能するのか教えてくれるのです。

No.7806 - 2024/03/11(Mon) 08:04:26

Re: 名称と形態 / ubik0101
おおむねですが、自分がどう機能するか無知な人は、自分の因果から逃げる人は、外に因果を探します。たとえばルーツ、家系、学歴、職歴、誰かが空想でつくったドラマに、国の歴史とかに自分の因果を肩代わりさせたりする傾向にあるようです。

そいえば、地震が起きるとか、惑星直列で災害が起きるとか、宇宙人が・・・とか吹聴したりそれに追従したりする人もいるようですが、それは自分の因果から逃げることをしてるのです。正しく?良く?生きることとなんの関係もありません。

そんなことをしてるその自分は何だ。なぜそんなことをする?ふつう言われる、反省とか自省とかもできないのかもしれません。たとえばいかなる価値観、世界観、損得、好き嫌い、快不快、主義、主張・・・なんであれそんなことは、それだけのことです。

そんな自分のためにならないことを永遠に続ける。実際、なんでもいいですが、甘いがなぜ甘いか、喜びがなぜ喜びか、見えるがなぜ見えるか、思考がなぜ思考か?光がなぜ光なのか?意識がなぜ意識か?

それがなぜ、それなのか?誰が知ってるのでしょうか。知らないということを知らないので、知ってるつもりかもしれません。人の知らないことを知ってる振りをする。自分のためにしてるつもりで、ためにならないことをしてるかもしれません。

そうであれば、知らないことは、知らないままにする、真摯に生きる。力がないのでしょう。知らないを知らないと、するには力がいるのかもしれません。

No.7807 - 2024/03/18(Mon) 08:02:37

Re: 名称と形態 / hato

すももの花が咲いてます。

早春。花冷えに映える、花の芯は淡いみどり色です。

甘酸っぱくてほんとに美味しい、すももの実。今年はできるかな・・?と、楽しみに見てます。

No.7808 - 2024/03/21(Thu) 22:14:04

Re: 名称と形態 / ubik0101
なぜ、力・・・万難を排して素直、誠に生きるとも言えます・・・が、いる?意識はその対象つまり内容がないと機能しないので・・・ほとんど茫漠とした広大な無知のなかで・・・川の中に飛び飛びにある石の上を飛び飛びに飛んで渡るように。

知ってること、知ってると思いこんでることに結びつけて、物語を捏造します。さらに意識には空想と事実を峻別する機能はありません。誰かが書いた小説でも、リアルに感動したり、

まったくの思い違い、噂話、嘘でも事実と思い込んだりできます。さらに意識は時間とか空間との差がないと機能しないので、これ、このことは認識不能です。つねに何かと何かとの差、

また対象と、対象を知覚認識すると思しき中心との差を必要とします。a=aができないのです。また、たとえば、おおむね食べるもので人の身体はできてると言われます。

その人の心?精神?とか呼ばれるかもしれない、対象を知覚する仮の中心の日常は、その人の行動、言葉、思考で出来ています。なので、その人の言動思考。たとえ嘘、偽り、

まったくの誤解、思い込みであっても・・・それをそれが・・・否定、修正することは、困難です。執着と呼ばれます。これはそうしてる中心があるからです。まあ同一化とも呼ばれますが、完全に同一ではないのです。

もし完全に同一だと、この世界も、自分も消えます。神も思考も消えます。なにかを知覚できてるというのは、内容を知覚する中心と思しきことと、その内容が違うのです。

No.7809 - 2024/03/25(Mon) 07:59:41

Re: 名称と形態 / ubik0101
つまり・・・意識は、性能が良すぎるのです。とくに言葉はメタ現実です。メタ言葉です。あまりに自在。そえゆえ人は、振り回され、巻き込まれ、顛倒させられ迷います。そのことから結果、自分がどう機能するか学ぶことができます。
No.7810 - 2024/04/01(Mon) 06:23:13

Re: 名称と形態 / ubik0101
このように世界は十分以上に人に尽くしています。人がそれを自分が主導権を握ってると思い違いするだけです。自我は虚構、その中心は、ない、です。不満を撒き散らしたり抑えたり、喜んだり泣いたり、対立したり仲良くしたり、ない自分を守ってるのです。
No.7811 - 2024/04/01(Mon) 07:34:48

Re: 名称と形態 / ubik0101
その逆に、知覚からの直接行動とかも、心理的な問題に対応してるだけで、あんまり意味ないです。悪とは、自分のためにならない言動思考をすることです。

誰かの言ったことを自分で言ったように見せかけても、威張っても、謙っても、喜んでも悩んでも、自分を騙して、愚かな自分を自分でつくってるのです。なにが嬉しいのか?自分のためにしてるつもりなのでしょうか。

たとえば、ほかの誰かが、私のことをどう思うかとか、そんなことを切り捨てるとか、明日のことも判らないのに、明後日のことを心配するとか。また注意を逸らし誤魔化すとか、いろんな心理的な問題にかまけていては、困ります。

嘘つきは、おおむねですが言うことが全部嘘で、そのことに気がついていません。そこで自分が嘘つきと認めることが、その人の人生で、たった一つの事実になります。

でなければ、ああでもない、こうでもない、どうでもない・・・ああである、こうである、どうでもある葛藤。それだけの一生になってしまう恐れがあります。

それでいいならそれでいいのが、世界の凄いところですが、なんであれ、そうなったのはその人に全責任があります。なのに、自己責任から逃げること・・・世界はとてつもなく優しく・・・そんなことも見守ってるだけですが、

おそらくですが、生死を解決したいとか、たぶん誰でも人生の始めに、私って何?という疑問が与えられると思いますが、それを諦めないことが大事かと思います。

No.7812 - 2024/04/01(Mon) 07:56:08

Re: 名称と形態 / hato

有名なご高齢のタレントが、世界の歴史を学ばないでは逝けない、ようなことを言われてました。自分の知人が同じように思うのか、歴史を知ることが自分を知ることだ、と言います。自分は同意できないけれど、それはその人が、自己を知ることを、人類の歴史に照らし合わせて考えてるのでしょう。

聖書を学ぶクリスチャンの友人は、雛祭りや鯉のぼりにもなにか宗教的な意味があるとかで、仏式や神道の葬式なども同じ理由で拒否して、周囲との軋轢も少しくあるようです。聖書の神を信じるという決意の表明なのでしょう。自分はすでに文化的、地域的なことは、とくに好まないけれど、そこここの様式を尊重します。

世界のあり様を見て、なぜ自分がこうなんだ?と学ぶこともあります。世界に十分巻き込まれながら、巻き込まれない自己を生きる、その努力は、スリリングと思います。


14年前、神奈川のアパート前に植わってた、コナラの木の、ちょっと根が出てたどんぐりを2、3個持ってきました。もう14年て、驚きます。

No.7813 - 2024/04/01(Mon) 22:03:11

Re: 名称と形態 / ubik0101
それは簡単です。欲望とは、人が自己以外のことに、拠り所を持とうとすることです。持とうとする・・・というのは、そうしたくてもそうできないからです。いつまでも叶わないので、その欲望は持続できます。

それが銀行貯金であれ、成功であれ、どこかの誰かが書いた歴史であれ、口伝であれ、持ってるもの、持ってないものであれ・・・その自分の状態であれ・・・自分がないことにも気がつかない、ない人は、頼りを求めるのでしょう。そうと気がついてなくても不安かもしれません。

ただ見えない自分。でない、見える聞こえる、事実であれ空想であれ、知覚できることに依存したいのです。そうすることは決してできないのに、自分が虚ろな自我だということから眼をそむけ、逃げるのです。

そいう気がつかない隠れている欲望、傲慢、卑下、偽善、不公平、知ったかぶり・・・ですが、なんでもいいですが、たとえば歴史を知りたいという、その自分に現れてる言動思考、そこに隠れてる原因に、まず気がつき、一歩、踏み込むのです。

それ、から、それ、を学ぶのです。意識の、自分が自分を見る・・・自我の機能を使います。そこで、たとえば自分は愚かだと気がつきます。それは思考できることなので《名称》です。しかしそう気がついてなくても、愚かなら、愚かです。《形態》です。

自分が自我だと気がつくこと《名称》もあるでしょう。そう気づいてなくても自我《形態》なのです。気づいても、気づかなくても、これまでも、これからも、自我なら自我です。欲にまみれてるなら、欲にまみれてるのです。

これは意識されないので、無意識と呼ばれたりしますが、なんか強く主張するとかが、自我ではありません。自我なら、静かにあっても、自我です。リラックスして、とくに不満もなく、

静かな海や街の雑踏にあっても、まったくそう思いもしなくても、自我なら自我です。欲望なら欲望です。傲慢なら傲慢です。卑下なら卑下、嫉妬なら嫉妬、偽善なら偽善、不平等なら不平等、不安なら不安・・・これを解決できなければ、解決ではないです。

No.7814 - 2024/04/02(Tue) 06:07:22