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記事No.8011に関するスレッドです

★ (No Subject) / ubik0101
比丘たちよ、実に、“ 貧を離れる ” ことから《心解脱》があり、“ 無明を離れること ” から《慧解脱》がある。

           ・・・・・・・・・・・

No.8008 - 2026/09/01(Tue) 07:53:53

☆ Re: / ubik0101
で・・・だから・・・はないです。仏陀は、仏経典を読んで悟ったのではない・・・だから・・・何々だ。の、だからは、ないです。ありもしない因果をつくって、それに巻き込まれないでください。

まあ、ついで話ですが、あるとき山の上の露天風呂に浸かってたら、向かいの山が自分でした。それで雲はどうだろう?ということでその山の端を見たのですが、雲は浮かんでいませんでした。

その山の隣の山は、自分ではありませんでした。あるとき向こうから歩いて来る知らない誰かが自分でした。ほかの歩いてる人、人、人は、そうではなかった。そしてその誰かが通り過ぎると、

その誰かが自分だという感じが完全に消滅しました。で・・・だから、たとえば・・・世界は私だ・・・はないです。それは世界が人に染み込んでいく執着の機能を見せてくれたのです。そこから、

それを扉にして見性することもありですが・・・それでは見る自分が設定しやすいです。ありもしない因果をつくって、それに酔わないでください。そいえば、うろ覚えですが、何十年も前に

読んだ禅語録にあった曹洞宗の開祖の誰かは、かれ(対象/世界)は私である。しかし私はかれではない。こう見て初めてすっきりする。と言ったということです。世界は私。しかし私は無規定。限定解除。

さらに、ついでですが、人はなにか言います。行動します。思考します。またしなかったりします。そのことから、その自分を学ぶのです。ほんとうにそれだけ・・・その百億の、

その千億の機会・・・自分で自分の状態を知ろうとすることがその自分の言動思考です。から・・・それから逃げないでください。誠実。それは、正確な話、正確な行動。正確な思考です。これだけで、生死より大事が醸されます。

No.8009 - 2026/09/01(Tue) 08:03:10

☆ Re: / ubik0101
おそらく・・・ほかの誰かのことは知りませんが、おおむね人は無明に支配されて日常を過ごしてるのでしょう。と、いうことは、解脱が確定。ということです。なんであれ、

その無明を理解すればいいのですから解脱、そのほかの行き先はありようがないのです。たとえばですが、あなたは誰かのことしか言わないと、誰かのことしか言わない人が言ったり非難したりします。

あなたは意地悪だと、意地悪な人が言ったりします。あなたは自我な人だと、自我な人が言ったり、非難したりします。そいうとき人はその人自身を、空想の完璧な人と仮定して、

誰かを非難して、空想の自己満を覚えてるかもしれませんが、そこに不平等が隠れてるかもしれませんが、そのその自分がそうであるその背景、前提、根拠を理解すればいいんです。たとえば、あなたは私を無視すると非難する人が、

私は人を無視しないと架空の自分に満足するとしても、誰かを無視したことが一度もない人生ではなかった。あるいは誰かのことと言っていながら、その言ってる自分のことを言ってるだけです。

誰かに言ったことは自分に返ってくる。のではなく、すでに自分のことを言ってるのです。ただそんなことに気がつく簡単なことが無明を理解し晴らす扉になります。なぜ、

そうしないのか?自分が自分で見えないから度外視されるからです。無知と呼びます。しかしその代わりに、悪い意味でのマインドに映っている・・・たとえば、自分は魂とか、真我とか、若くても年齢を重ねても変わらない自分とか、

特別な私とか・・・鏡に映ってるそれは、見えるのですからみな事実ではありません。この意味では、なにも自分に自分が映らないそれは、無我とか無心、無知の知。と呼べます。

自分を見る鏡とかないのです。スクリーンでも同じです。んなもん幻想です。思うのですが、人はどこかの家に生まれ、学校に行き教師や友達と会います。バスや電車に乗れば、見知らぬ誰かがいます。あそこに、

誰かが、話したり歩いたりしてるのが見えます。ほかの人がいるのです。いる。ということは、ここに、この自分もいる。そのように思うわけでもないでも、感じる訳でもないでも

・・・そのようにして、自分がいる。ある。と設定されてしまう、経緯もあるようです。そこで、ほかの誰かの言うこと・・・たとえば、私はある、私はない、思考は問題、身体に同一視すると問題、

心、精神、魂、私は意識、噂話、疑似科学、未来予知、占い・・・なんであれ、そんなことを信じやすくなるかもしれません。ほかの誰かがいるということで自分がいるとするのですから、

承認要求も生じるかも知れません。どうすればいい?自己観察が簡単で・・・方法とも言えませんが・・・楽しい道だと思います。その自分の百億の昼と千億の夜の、話が、行動が、思考が、無明を晴らす絶対の機会です。

No.8010 - 2026/09/07(Mon) 18:51:47

☆ Re: / hato

これは8月前半の頃。この辺りではお盆前後から刈り取られた田圃もあり、これから本格的に収穫の時です。

No.8011 - 2026/09/08(Tue) 20:32:29

☆ Re: / ubik0101
また思うのですが・・・無明と人。別のことではありません。なにか無明という個別のことがあり、それに捕らわれる人、ということではなく・・・その人の特質、性質、属性などが無明ではなく

・・・その人が無明です。解脱もそうです。誰かが解脱するとかしないとかではなく、分けられることでもなく、解脱という個別のことがあるのではなく・・・解脱がその人です。ほかの説明ができないです。

No.8012 - 2026/09/15(Tue) 19:38:02

☆ Re: / ubik0101
・・・で、たとえば自分は偽善者だと気がつかない偽善者が、自分が嘘つきと気がつかない嘘つきが、誰かに向かって、あなたは偽善者だ。あなたは嘘つきだ。

と指摘したり非難したりするという話をしていたのでした。ここで有効なのは、その誰かに言った言葉を自分に向けて返すということです。実際、自我な人が誰かに向かって、

あなたは自我な人だと言うことは、いくらでもあるでしょう。ここからさまざま展開できますが・・・まずは、誰かと戦うとしても、結局、自分と戦ってる、ということもあります。

その自分の作った相手のイメージと、その自分が戦ってるのです。なんだか辛い人生だ、不幸だ、厭な社会だ。国だ。世界だ。そんな空想と戦ってるのは、そんな空想をしてるその自分です。

いや。そんなことはない。我が国は、あの下劣な敵国と戦ってるんだ。私はあの愚かな隣人と戦ってるんだ。あの国や隣人は、実際いるだろう?この自分が自分の空想と戦ってるなんてことは空想だ。

と。それならそれで、そんな人生なので、誰もかまいはしないのですが・・・それで探求者であることは、困難でしょう。まず、基本ルールとして人は、自分の面倒は自分で見れると

いうことがあります。この話の行きがかり上・・・たとえば、あなたは自分の空想と戦ってるだけ、自分と戦うのはやめたらどう?と言って、それを止める人はいるでしょうか?

自分で自分と戦ってると気が付きもしないのに、それから学ぶことができるでしょうか?ほとんど無理です。なぜなら、人は誰でも、その自分の面倒を見ることができるので、

ほかの誰かの言うことを聞くことは必要ないのです。そのくらい人はその人に任されてる・・・その人の主導権はその人にある。これは、ほとんど絶対のルールです。たとえば、

愚かな人は、自分でそうなりたくて、そうなってるのです。自己責任から逃げる人は、誰の所為でもない、そう自分でなりたくてなってるのです。それを誰かの、社会の、時代の所為にするのは、

その人です。このルールからは外れることはできません。いや。私はそこに含まれない、としても、そいう意見は、絶対にその人の責任です。そのくらい、その人の主導権はその人にあります。

No.8013 - 2026/10/05(Mon) 08:54:35

☆ Re: / ubik0101
そういえば、ネルケ無法という禅者が、永井均?という誰かの話をしてる動画の最初のほうだけ、ちょい見る機会がありました。なぜ、自分はこの自分なのか?

ということを研究してる哲学者だそうです。簡単です。まず自分がいて、ほかの誰かを見て、なぜ私は誰かではなく、この私?という疑問があるなら、解決しないでしょう。

そうではなく、人は、その言葉、行動、思考に依って、作られる。ということです。つまり、朝ご飯を食べたら、朝ご飯を食べた自分が作られる。食べなかったら、

食べなかった自分が作られた。誰かを小馬鹿にしたら、誰かを小馬鹿にした自分が作られた。自己責任から逃げたら、その、その自分が作られた。そのことにも気がつかないなら、

そのことにも気がつかない自分が作られた。どうしようもない、どうする?と思考したら、その自分が作られた。嘘をついたら嘘をついた自分が作られた。のに、嘘をついてないと思うなら、

そのようにして自分を騙す自分が作られた。簡単なことです。でもなぜ、それがそうなのか?その自分の言葉、行動、思考によって、その自分ができるのか・・・知らないです・・・誠実であろう。正確な言葉、正確な行動。正確な思考。

No.8014 - 2026/10/05(Mon) 09:40:21

☆ Re: / ubik0101
それで・・・自分で自分と戦うにしても、誰かと戦うにしても、実は、どうでもいいのです。なんか人間関係の苦悩を、葛藤を通じて悟りに・・・とかいう話は聞くことはあるかもしれません。それは余計なことに目を奪われて、

自分を蔑ろにする苦しい娯楽、自分で自分の人生を無駄にすることになりかねません。そんなことに、大事はないです。苦しかろうと楽しかろうと人生、そういえば・・・なんであれ・・・なんかそれで

何かが起こるとかも知らず考えられず、止むに止まれず・・・自分で自分の機能を探ることを続けていた血と汗と涙の毎日・・・花も嵐も踏み越えて行く・・・いつかこんな決心をしたことを思い出しました。

No.8015 - 2026/10/12(Mon) 08:18:09