おいらは、橋に立っている様に思うのです。 とんだ勘違いで、おいらの心(自我)のままかもしれません。そこは距離のない場所ですから。
おいらが時計の秒針の動く音を聴いています。 その時、遠くで自我のざわめきは聞こえますが。 音を聴こうとする力と、自分の胸の奥に入り込んで心の物音を聴こうとする力があります。 ここに欲も善悪も感情もありません。
これらの動作(力)の中心点が存在する様に感じてます。 この中心点が消えたところに、真我とか空とか言われる状態があるのだろうと思ってます。
中心点を探るから、中心点が生まれる。
そんなふうに思いますが、論点を外してますか? 遠慮なしに叩いてください。
まるで「独参」です。 御拝
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No.5262 - 2016/10/06(Thu) 20:04:46
| ☆ Re: 自己は感じ得ない。心がおいらと自己の橋。 / ubik0101 | | | ubik0101の経緯を話します。まったく中心点を探らないと、中心点はない、とは言えません。自覚できないでも、自我は自我です。探ったとしても探らないとしても、自我は自我です。ある、から、探ることで、ある、と認められるのかもしれません。
なにも自我をなくす意図で探求してたわけではないのです。どうしようもない衝動で自分の奥へ奥へと向かっていたのですが、またそんなこと考えてもなくても、自我があるとかないとか気がついてもいませんでした。
たった一度だけ会社で・・・あの作業の指示をしたのは僕・・・とか、仕事仲間に話した時。ああこれ、もしかして自我?と微かに疑ったことがあるだけです。
それで気がつかないでも、ずっと自我だったのです。より適切な表現としては、自我が完成するその時。これまでずっと自我だった、自我の仕組みを見て、これで総てが終わった、と了解されます。それを目的としなくても、それは解決されます。
そこで、自己は体験として、自覚できます。ほかの人の話とか聞いたり調べたりしないので、みんなが、そうかどうか知らないのですけど・・・神、実在、第一原因・・・が、認めるものとして、自覚できるのです。
けっして人が、神を認めるのではありません。逆です。自己とは、神の直系です。初めて体験してもそれは愛としか呼べない愛が、その証です。聖書の言葉・・・《あなた自身を愛すように、あなたの隣人を愛せ》・・・この通りです。
それまでは自我が、なんであるかも知らないのです。それが何なのか知らないで、あの人は自我だとか、誰かを批判してるのが普通です。なのにそれをなくそうとかするなら、それは空想の自我をどうこうしようとしてるのかもしれません。
ただ、あの体験もトリック、神も仮定、かもしれないと疑えます。そうだとしても探求は、神を失い、自己を失い、体験を、この日常に失うこと。縁起の生起・・・順観と、縁起の壊滅・・・逆観。どうやら、これも意図してるわけではないですが、そうなってるようです。
このようなことは体験のほうが遥かに簡単です。でも思考によっても、了解できないとは言い切れないです。思考を活性化すれば、起こった体験を読み解くのに、とても役に立つてこともあります。
たとえばですが、中心点を探るから、中心点が生まれる、とか。中心点を探るから・・・中心点の有無に関らず・・・探ってる自分が生じる。とか定義してみます。それをしっかり認識して、それは去ってしまう、失うに任せます。
歌ったり、ご飯を食べたりの日常。すると意図しないでも、それがそれを展開するのを自然が推進し、真相を露にしてくれるようです。誰彼から聞いたというわけではなく、1人あって生じた疑問は解けなかったということはないです。
いろいろあるでしょうけど。中心点を探ってる自分は、中心点と遊離してるから、探れるわけで、自我が生じてるような気がするのかもしれません。そんなこと、たとえば距離が・・・あるとかないとか・・・この世界にありえる・・・スライス・オブ・ライフ・・・です。
たとえば無我にあれば、対応してるのは自我とか・・・それは分離だ・・・とか、思考が問題だ、とか・・・そんな偏りをつくって、説明のために、確認のために、分離とか融合とか・・・使ったりするというだけです。
なんか滅茶苦茶かもしれませんが、自我も,真我も、無我も、悟りも、迷いも、非2元も、いまここも、基底も、ない、です。そもそも、これ、がなぜ、これ、なのか何も知りはしないのです。こう、であることを、こう、と認めるだけです。
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No.5263 - 2016/10/07(Fri) 09:37:51 |
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