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対象も消える / 勘太郎
とは、そういうことですか。わかりました
帰宅してから、じっくり考えてみます。

No.5253 - 2016/09/30(Fri) 09:25:27

Re: 対象も消える / 勘太郎
> とは、そういうことですか。わかりました
> 帰宅してから、じっくり考えてみます。


[つまり、hatoさんは、どこにも映っていません。]
+「花びらと花は分割できない」から推測すると。
 自分が見えないのは解ります。おいらの妄想からすると、自分は胸の奥にある、世界から影響を受けず又おいらから指1本触れることのできない見えないものです。
 この見えない自分と世界(いまおいらが対象とかんじているもの)が分割できないものであるならば、世界も見えないものになって消えるのでしょう。

 対象

No.5254 - 2016/09/30(Fri) 19:46:23

Re: 対象も消える / ubik0101
>[つまり、hatoさんは、どこにも映っていません。]
>+「花びらと花は分割できない」から推測すると。
> 自分が見えないのは解ります。おいらの妄想からすると、自分は胸の奥にある、世界から影響を受けず又おいらから指1本触れることのできない見えないものです。


(A)ひとつには、自分て、自我て、ほんとに、ない、てことです。

(B)ひとつには、ある、真我(と・・・実在の関係)です。それは、あるがあるにあるで日常、知覚できないので、ない、とも呼べます。

ない、というのは、この(A)、ない、ということと、(B)ある、ゆえに知覚できない、ない、ということの意味があります。

でも、(A)の、ない、でも、(B)の、ある、でも、それは体験できるので、それを対象にして掴んでしまうことができます。すると、しまった!です。

どちらも、そこに分離が生じます。つまり、ない、を認識してる、掴んでる自分。また、ある、を認識してる、掴んでる自分。が生じ易いのです。

それは、何?です。なんでもいいのですが・・・たとえば・・・非2元と、分離と、自我と、真我と、世界と、思考は問題と、見るものは見られるものと・・・言ってる、それは、何?

ここで正確に考えます。たとえば、自分は・・・あるでもないでも、どー言っても、誤り・・・です。世界もそのようです。

正確に思考することによって、あるとかないとかの拘りを忘れます。それが、この日常です。これは世界が、なんでもあるので、なんでもない、透明でなければ不可能でしょう。

> この見えない自分と世界(いまおいらが対象とかんじているもの)が分割できないものであるならば、世界も見えないものになって消えるのでしょう。

そこで、世界が消えて意識だけの状態、それも消えて時間も空間もない、ということがあります。そこからこの世界に、ぱちん、と瞬間に戻ってきます。ここで泣いたり笑ったり怒ったり思考したり食べたり歩いたり・・・です。

それで、それ、は、それ自身を対象にできないから、時間、空間という距離をつくって・・・つまり、この世界です・・・もの、ことが、見たり聞いたり触ったりできるようになります。

ほんとに、人って何なんだろう?と思います。とんでもないです。このへんは、ヨガとか禅とかでも、再現可能なようですが、そいう工夫を自分は一切しないで起こるに任せます。

No.5255 - 2016/09/30(Fri) 22:34:30
木の写真 / 勘太郎
今度は映るかな
プレビュー押してしまったので失敗しました。

No.5244 - 2016/09/25(Sun) 21:23:01

Re: 木の写真 / ubik0101
>自分が無いのは理解・推測・共感できるような気がしますが、対象が無いは理解を超えています。猫はおいらを引っかくし、犬は引き綱を引っ張って匂いを嗅いで回ります。

対象ではなく、鳥は鳥として、ない、てことです。

>対象がないと、パソコンモニターは自己に映るのでしょうか?
>言葉で説明できるものなら、とっくにおいらも理解しているのですから、答えられないとは思いつつもこの疑問多くの方が持っているでしょう。


コスモスの花びらを一枚ちぎり取ったとします。すると、もうコスモスは、コスモスではありません。つまり、花びらは、部分ではないのです。コスモスの必要不可欠な構成要素です。おなじように人は世界の部分ではありません。必要不可欠の構成要素です。

それで、自分と違うものとして、世界は対象にはならない、ということです。

そこで、世界から完全に切り離された者として・・・世界を見ることは不可能です。けれど、また世界と自分、まったく同じになると・・・どちらも消えてしまいます。

つまり、見えたり聴こえたりするということは、完全に同一でも、完全に違うものでもない、からです。ほかの言い方では・・・この世界は、実在でも、虚無でもない・・・空・・・と睨んでいます。

ところで、たしかに来る人、来る人が、自分という感覚は、感覚なので説明はできないと思います。でも、なんか見ることで、見てる自分が生起します。山を見てるとそれを見てる意識が生起します。それなので、たとえば歩いて来る人が自分だった、と感じるのかもしれません。どうやら意識って、そういことらしいです。

けれど、ふつうは、パソコンは自分ではなく、ふつうにパソコンが見えます。それは、自分というのが、実に、世界でもない、宇宙でもない・・・その構成要素でもない・・・ほんとに、とんでもない、無規定の、わけのわからないことだから、ふつうに、富士山は富士山、青空は青空なんだと感じます。

こちらも古い大きな梅の木に、宿り木が取り付いてて大きな傘のように繁り、ほとんど日陰になってるのがありました。その宿り木を取り外すのは大変でしたが、梅の実がたくさんできるようになりました。

今日は、hatoさんと、海に行きました。(かわいいといってよー、と言ってます。かわいいです。)

遠州灘としては珍しく凪の、いい色の海でした。

No.5245 - 2016/09/25(Sun) 22:46:33

Re: 木の写真 / ubik0101
↑の写真ですけど、海に向かって腰に手をして立ってるのはubik0101です。その隣り、クーラーに腰掛けてるのは女性にも見えますが、この季節は夕方になると、

イシモチが釣れると教えてくれた、初めて会った男性の釣り人です。写真を撮ったのがhatoさんです。つまり、hatoさんは、どこにも映っていません。写真を撮る、

つまり、世界を見てる聞いてる思考してる、その人は映らない、ない、のです。カメラで自分を撮れるとか、いろいろ考えられるのですが、まずは、そこです。

もちろん勘太郎さんが撮った写真にも、勘太郎さんが映っていません。

No.5252 - 2016/09/29(Thu) 18:54:53
(No Subject) / 咆哮
感謝の反対はあたりまえ
あたりまえの事は何処にも見当たらない
感謝さえ対象を示さない
これは慈悲の目覚めですか?

No.5248 - 2016/09/27(Tue) 07:15:53

Re: / ubik0101
その気持ちは、あの体験の後、どうしようもなく勝手に湧き上がってきました。それを感じようと感じまいと、世界に溢れてる知覚に依存しない愛とは、性質が違います。人のためになりたい、人が覚醒するための、力になりたい・・・そうしないということ、またその力がなく、できない、

ということ、それが自分を苦しめました。あと、あの体験の残り火が燃え続け・・・そのことも自分を苦しめました。ほかに、しようがないので、体験の読み解きによって・・・それは楽しいことです・・・その残り火を消す・・・すると意図せず、あの体験が、ふつうの日常になる・・・おおまか、これらのことが、探求の原動力です。

> 感謝の反対はあたりまえ
> あたりまえの事は何処にも見当たらない
> 感謝さえ対象を示さない
> これは慈悲の目覚めですか?


それはたぶん・・・無理にそうしてるのでなければ・・・1人あって、探求にあって、静かであり、幸せで・・・道を歩いてる、その日常だと思います。それを、ゆっくり楽しむことも、それは大事なことと思います。愛、慈悲、知恵・・・そうと認識できないでも、そいうことが育ってる状況かもしれません。

No.5249 - 2016/09/27(Tue) 08:11:34

Re: / 咆哮
自己確認しました!
No.5250 - 2016/09/29(Thu) 09:08:29

Re: / ubik0101
そうですね。なんであれ・・・それがそれを、それと教えてくれるので、それを見る・・・これを探求と呼んでいます。
No.5251 - 2016/09/29(Thu) 16:14:20
自分がないと対象もないのが推測できます。 / 勘太郎
 自分がないと、自他の境界というものがありませんから、対象もないと推測できます。
感覚のみがある、ということなんでしょう。

 コスモスの花びらを1枚切り取ったら、それまでのコスモスは消えて、新たに花びらが1枚無いコスモスが現れる。運動している宇宙の形は変わる。運動という働きの形は変わらない、というのでしょう。コスモスの喩はよく理解できます。

下記の虹火星さん、どこのどなたかは知りませんが、ステキな写真をながめています。  
http://nijikaseki.exblog.jp/

No.5246 - 2016/09/26(Mon) 21:41:42

Re: 自分がないと対象もないのが推測できます。 / hato

>  コスモスの花びらを1枚切り取ったら、それまでのコスモスは消えて、新たに花びらが1枚無いコスモスが現れる。運動している宇宙の形は変わる。運動という働きの形は変わらない、というのでしょう。コスモスの喩はよく理解できます。


こんばんは。コスモスの例えは、すこし違う意味で話したように思いますが、人は皆ちがうことが、それもいいな、と思いました。


> 下記の虹火星さん、どこのどなたかは知りませんが、ステキな写真をながめています。  
> http://nijikaseki.exblog.jp/



本当に素敵な景色。勘太郎さんの北海道、わたしは未体験ですけれど、ubik0101さんも札幌にいい感じを持ってるようですし、大切な知人も北海道にいるので、いつか機会があったらいいな、と思います。お金も時間もなかなか間に合いませんが・・。

ひとり・・とは、人は皆一人ともいえるし、皆そのようなら、とくにひとりというわけでもないようです。

2人でいても、ひとり歩むことができる、そんな不思議なここにいます。

No.5247 - 2016/09/26(Mon) 23:00:44
蔓から立ち直りつつある木です / 勘太郎
 てっぺんに葉がポヤポヤと生えています。切った蔓がぶら下がっています。隣の木は枯れています、蔓にからみつかれて光不足になったのでしょうか?

 おもしろい事に、なぜ?全部の木が一斉に蔓に覆われて枯れ果てていない。場合によっては全部が枯れてしまう事もあるのでしょうが。

本論
 「そして日常、鳥も、猫も、犬も、人も、ない、です。ない、のです」
自分が無いのは理解・推測・共感できるような気がしますが、対象が無いは理解を超えています。猫はおいらを引っかくし、犬は引き綱を引っ張って匂いを嗅いで回ります。

  対象がないと、パソコンモニターは自己に映るのでしょうか?
言葉で説明できるものなら、とっくにおいらも理解しているのですから、答えられないとは思いつつもこの疑問多くの方が持っているでしょう。

 あら写真が横になったままです。

No.5243 - 2016/09/25(Sun) 21:16:43
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