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(No Subject) / 咆哮
感謝の反対はあたりまえ
あたりまえの事は何処にも見当たらない
感謝さえ対象を示さない
これは慈悲の目覚めですか?

No.5248 - 2016/09/27(Tue) 07:15:53

Re: / ubik0101
その気持ちは、あの体験の後、どうしようもなく勝手に湧き上がってきました。それを感じようと感じまいと、世界に溢れてる知覚に依存しない愛とは、性質が違います。人のためになりたい、人が覚醒するための、力になりたい・・・そうしないということ、またその力がなく、できない、

ということ、それが自分を苦しめました。あと、あの体験の残り火が燃え続け・・・そのことも自分を苦しめました。ほかに、しようがないので、体験の読み解きによって・・・それは楽しいことです・・・その残り火を消す・・・すると意図せず、あの体験が、ふつうの日常になる・・・おおまか、これらのことが、探求の原動力です。

> 感謝の反対はあたりまえ
> あたりまえの事は何処にも見当たらない
> 感謝さえ対象を示さない
> これは慈悲の目覚めですか?


それはたぶん・・・無理にそうしてるのでなければ・・・1人あって、探求にあって、静かであり、幸せで・・・道を歩いてる、その日常だと思います。それを、ゆっくり楽しむことも、それは大事なことと思います。愛、慈悲、知恵・・・そうと認識できないでも、そいうことが育ってる状況かもしれません。

No.5249 - 2016/09/27(Tue) 08:11:34

Re: / 咆哮
自己確認しました!
No.5250 - 2016/09/29(Thu) 09:08:29

Re: / ubik0101
そうですね。なんであれ・・・それがそれを、それと教えてくれるので、それを見る・・・これを探求と呼んでいます。
No.5251 - 2016/09/29(Thu) 16:14:20
自分がないと対象もないのが推測できます。 / 勘太郎
 自分がないと、自他の境界というものがありませんから、対象もないと推測できます。
感覚のみがある、ということなんでしょう。

 コスモスの花びらを1枚切り取ったら、それまでのコスモスは消えて、新たに花びらが1枚無いコスモスが現れる。運動している宇宙の形は変わる。運動という働きの形は変わらない、というのでしょう。コスモスの喩はよく理解できます。

下記の虹火星さん、どこのどなたかは知りませんが、ステキな写真をながめています。  
http://nijikaseki.exblog.jp/

No.5246 - 2016/09/26(Mon) 21:41:42

Re: 自分がないと対象もないのが推測できます。 / hato

>  コスモスの花びらを1枚切り取ったら、それまでのコスモスは消えて、新たに花びらが1枚無いコスモスが現れる。運動している宇宙の形は変わる。運動という働きの形は変わらない、というのでしょう。コスモスの喩はよく理解できます。


こんばんは。コスモスの例えは、すこし違う意味で話したように思いますが、人は皆ちがうことが、それもいいな、と思いました。


> 下記の虹火星さん、どこのどなたかは知りませんが、ステキな写真をながめています。  
> http://nijikaseki.exblog.jp/



本当に素敵な景色。勘太郎さんの北海道、わたしは未体験ですけれど、ubik0101さんも札幌にいい感じを持ってるようですし、大切な知人も北海道にいるので、いつか機会があったらいいな、と思います。お金も時間もなかなか間に合いませんが・・。

ひとり・・とは、人は皆一人ともいえるし、皆そのようなら、とくにひとりというわけでもないようです。

2人でいても、ひとり歩むことができる、そんな不思議なここにいます。

No.5247 - 2016/09/26(Mon) 23:00:44
蔓から立ち直りつつある木です / 勘太郎
 てっぺんに葉がポヤポヤと生えています。切った蔓がぶら下がっています。隣の木は枯れています、蔓にからみつかれて光不足になったのでしょうか?

 おもしろい事に、なぜ?全部の木が一斉に蔓に覆われて枯れ果てていない。場合によっては全部が枯れてしまう事もあるのでしょうが。

本論
 「そして日常、鳥も、猫も、犬も、人も、ない、です。ない、のです」
自分が無いのは理解・推測・共感できるような気がしますが、対象が無いは理解を超えています。猫はおいらを引っかくし、犬は引き綱を引っ張って匂いを嗅いで回ります。

  対象がないと、パソコンモニターは自己に映るのでしょうか?
言葉で説明できるものなら、とっくにおいらも理解しているのですから、答えられないとは思いつつもこの疑問多くの方が持っているでしょう。

 あら写真が横になったままです。

No.5243 - 2016/09/25(Sun) 21:16:43
みどりの庭から / hato

静岡は、そぼ降る雨模様です。9月の長雨とは、今日のような様子をいうのかも知れません。雨はしずかに降ると、気持ちが落ち着くようです。

庭もすこししっとり冷えて、衣替えの頃でしょうか。初雪蔓。今年は珍しく、白い地色を長く保っています。

No.5238 - 2016/09/24(Sat) 11:55:00

Re: みどりの庭から / hato

むらさきしきぶ。初秋に似合う紫です。

No.5239 - 2016/09/24(Sat) 12:00:22

Re: みどりの庭から / hato

ubik0101さんのリクエストで、もう一枚。

No.5240 - 2016/09/24(Sat) 12:01:12

Re: みどりの庭から / ubik0101
すこし纏めてみます。

たしかに自我の中心は、ない、です。それに気がつくには・・・なんであれ、ない、ということを見るためには、森羅万象を見ることが・・・世界の総活動、体験としての縁起が・・・好ましいです。そうならば、自我が虚構である種明かしをして、消えて行きます。

そでなくても、ふっと、ない、に気がつくこともあります。そいう、ない、に気がついてることに対比して、自我の状態を、ある、と呼んだりします。実際に、自我が、ある、というわけではないです。世界との乖離とか、苦痛とか葛藤とかにあって、それが、ある、と感じられるような気がするということです。

それで、苦痛や葛藤を解決すれば、自我が解決する、無我、と思われるかもしれません。けど関係ないとも言えないのですが、あんまり関係ないです。探求は、なんにしても探求です。この自分が、こう、であることを、こう、と認識すれば、その探求は,探求を導きます。その結果、いかなる探求も、私は何、に収束します。

No.5241 - 2016/09/24(Sat) 12:03:24

Re: みどりの庭から / ubik0101
そして日常、鳥も、猫も、犬も、人も、ない、です。ない、のですが、その、ない、を掴むと・・・とくに、ない、を体験すると・・・それは、ない、を対象にしてることですが・・・ある、と比較してる。ある、と、ない、に、乖離がある。それは、しまった!!です。

ない、を認識してる、その自分は何?あるないの、対比がない・・・正確には、あるでもあり、ないでもある、あるでもないでもない・・・です。それ以前に、喩えはなんでもいいですが、鏡には何でも映るとして、その鏡は見えませんが、それを知覚にとっては、

ない、と呼べますが、曇っていたり、傷があったりすると、鏡が見えるような気がする・・・です。ない、ということは、完全、という意味でもあります。それは、完全だからそれ自身を、それ自身が自覚できないから・・・また知覚とは差の認識で、

あるがあるにある、ない、です。これは、実在、第一原因、神、との関係にあってそうです。これも、ある、を、掴むと、また対比であり、問題がでます。ここで、いわゆる悟りって、世界が、悟ってるのです。誰とか彼とかが、迷ってる、悟ってる、ではないです。

No.5242 - 2016/09/24(Sat) 12:06:15
(No Subject) / 勘太郎
対象を認識してから後に、自分という自覚が遡って産まれる。これを「一瞬一瞬生まれて死ぬを繰り返している」と云われることなんでしょうか?

 〉このところ、見てる聞いてる思考してる働いてる、なにかで、ありきる。ことでも解決しそうです。
  確かに、どっかりと座っている自分の背景は虚空です。ドアを開けたら、おいらの壁の向こう側では妻がテレビを見ていますけれども、壁の向こう側は虚空です。壁に貼ってある暦の裏側は虚空です。おいらの部屋は6面を虚空で囲まれています。

 ニサルガダッタ・マハラジは消化や免疫を身体に任せている様に、自分でないものに世界を任せなさいと言っています。

ここら辺を賢者は注意して生きる」というのでしょうか。

   面白い写真があったらやってみます。

No.5236 - 2016/09/19(Mon) 18:39:31

Re: / ubik0101
>対象を認識してから後に、自分という自覚が遡って産まれる。これを「一瞬一瞬生まれて死ぬを繰り返している」と云われることなんでしょうか?

なにか対象を認識するということは。そうしてる何か中心、この自分があるから可能だ・・・だから見たり聞いたり働いたりできるのだ・・・こいうことは、

理論もなにもそれ以前に強固に成立してると、意識さえしてないのですが・・・そんな自分があるから見たり聞いたり働いたりできる、という仕組みは虚構だ、という意味です。

たぶんですが「一瞬一瞬生まれて死ぬ」とは、因果の生起と、壊滅のことを言ってるのかもしれません。ここはまだ、うまく説明できないと、感じます。

>確かに、どっかりと座っている自分の背景は虚空です。ドアを開けたら、おいらの壁の向こう側では妻がテレビを見ていますけれども、壁の向こう側は虚空です。壁に貼ってある暦の裏側は虚空です。おいらの部屋は6面を虚空で囲まれています。

そうですね・・・それだと、世界とスクリーン、自分に乖離がないでしょう?それを、ひとつ、と言う人もいるらしいのですが、でも、そ、感じる、その自分は何?

いつか静かなとき・・・いわゆる外に展開されてる風景や気分や思考ではなく・・・その自分の内側、その自分の奥、その自分の裏・・・

それを、ふっ、と振り返って見る。を、やってみたら?うまくいけば、面白いことが起こるかもしれません。ということで話したのです。

>ニサルガダッタ・マハラジは消化や免疫を身体に任せている様に、自分でないものに世界を任せなさいと言っています。

>ここら辺を賢者は注意して生きる」というのでしょうか。

その言葉だけを見ての印象ですが・・・ああでもない、こうでもない、どうでもないという、ふらふらする意識に巻き込まれない、あれこれ起こってる出来事に反応して火の粉のように飛びつき、

また飛びつき、また飛びつき燃える・・・ということをしない、と言ってるのかもしれません。そうなら見ても聞いても思考してても意識(心)、火種がなくて静かで、注意にある、という意味なのでしょう。

>面白い写真があったらやってみます。

楽しみです。

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No.5237 - 2016/09/20(Tue) 08:16:55
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