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(No Subject) / hato

3月3日、ひな祭り。まだ冷える空気感のなか、それでも日中はすこし、温かみが増してきたようです。

きのうの朝、起き上がろうとしたら、窓からの朝日がアクリルガラスのカーテンタッセルを通り、枕元の布団の表のあちこちに、きれいな虹のスペクトラムを映し出していました。

No.5104 - 2016/03/03(Thu) 22:33:35

Re: / hato

ほんとにきれいね!

ちょっと嬉しくなる、

ほんの小さな、春のできごと。

No.5105 - 2016/03/03(Thu) 22:38:03

Re: / ubik0101
これは確かにそうだと思うけど。思考が問題ではなく、その思考する・・・自覚でき得ない思考する人・・・それが問題なんじゃないかな?

過去未来・・・時間・・・が問題なんじゃなく・・・その自覚できないその人が問題なんじゃないかな?

説明すれば、たとえ問題があっても自覚できない自分の様子を・・・思考とか、時間とかに被せて見えるようにして・・・問題としてるのじゃないかな?

No.5106 - 2016/03/06(Sun) 19:31:43

Re: / ubik0101
この庭を縄張りにしてるモズは、働き者です。これもブルーベリーの枝です。
No.5107 - 2016/03/07(Mon) 17:20:45

Re: / ubik0101
まあどんな意見も、それで納得でき得る前提があったりするものですが・・・自分には問題がないんだ、思考は問題だ・・・というのは、あまりに責任転嫁で変でしょう。ただ、

たとえば道を歩いていて転んだとして、その原因になった、小石が悪いんだ。という意見もないことはないのです。また、あーでもない、こーでもない、どーでもない葛藤、心理的思考、自我の働く最中に、

この自分は問題ない、思考も問題ない、という意見を持つこともあるかもしれません。もちろん、まったく葛藤なしに、平穏にあって同じ意見を言えます。ふつう思考は、その思考を成立させる前提が必要で、

しかもその前提は数学の公理のように、ある意味、疑い得ず、その思考にとっては、盲点、のように不可視です。それがその思考を成立させる前提です。それはおおむね曖昧な、暗黙の了解で、

その自分の立場を成立させ得ます。これを探ることが、思考する、ということです。それは思考を確定する、構築するのではなく、壊滅するということです。

No.5108 - 2016/03/08(Tue) 08:11:34

Re: / ubik0101
たとえば、過去に行けるでしょうか?また未来に行けるでしょうか?なにか100億年前とか、ジュラ紀とか、江戸時代とか、深宇宙植民時代とか・・・なぜ行けないのでしょう?

それは、そいう過去や未来が、なんであれ空想だからです。空想には、空想つまり、思考が行くことができます。過去や未来は空想です。では・・・あそこ・・・この家の玄関から歩いて10分の、

あの自動販売機までは行けるでしょう。しかし、まだ、その自動販売機も空想です。ただこうしてること、この部屋にいること、歩くこと、お湯を沸かすこと、それを今とは呼ばないのです。

まあ説明ですが、過去も未来もない、それは空想、なら、今も、それは空想、ない、です。なんであれ、掃除、洗濯、料理・・・庭作業・・・思考であれ、探求であれ、この、ない、からしか、始めようがありません。

No.5109 - 2016/03/08(Tue) 08:57:21

Re: / ubik0101
ほんとに働き者です。今度は、この雨の中、梅の枝に長さ20cmほどの蛇です。
No.5110 - 2016/03/09(Wed) 15:03:52

Re: / ubik0101
昨日の夜のことです。hatoさんの運転する車の助手席に座っていました。CDがピアノ曲を演奏していました。ん?自分の身体は、この流れてる音楽なんだ。と気がつきました。この音楽が、自分の身体です。

ふーむ。それで家に着いて、ステレオでバッハのフルートを聞いてみました。ソファに座ってる自分の足とか手とか見えますが、それは見えるだけです。この美しい音楽が自分の身体です。

それで今日、雨の音が、自分の身体です。鳥の声が自分の身体です。これは観察するに、知覚してる音の背景が静かで透明で、それは知覚にとって、ない、から、知覚されてる音だけが、ある、からかもしれません。

では部屋は、どのように見えてるだろう?ぽっと空中に眼だけが浮かんでる。もちろん眼は見えないので、それも空想なんだけど面白い・・・という思考も、ただあるだけ・・・ふつう人って、こうなんだろうけど。

No.5111 - 2016/03/09(Wed) 15:50:28

Re: / ubik0101
それで、さっきまでショッピングモールに行ってきました。hatoさんが腕を組んでくるので・・・触るな、けがわらしい・・・うふふ・・・などと話ながら・・・わーははは・・・なんだ自分て透明だったんだ。

わーははは。だけど自分で手足が見えるんだ。これは大爆笑。ここで探ってみます。これは見える、聞こえる、思考する・・・知覚の背後に、なにもない、ということです。さあ、みなさん、透明になって・・・すでにそうなんだけど・・・楽しくいきましょう。

No.5112 - 2016/03/09(Wed) 18:43:18

Re: / hato

そんなこんな、梅の枝にぶら下がったモズの速贄(はやにえ)に驚嘆しつつ、今朝は古家の脇の、サクランボの花が咲きました。

ぐずついた、早い春の朝の雨に調度よく映え、はなやぎが増すようでした。

No.5113 - 2016/03/09(Wed) 22:23:14

Re: / hato

そういえばよく、思考がわるもの扱いされているのを読むことがあるけれど、うーん、なぜそうなれるのか???、と疑問でした。

とりわけ思考は大事な道具。としたら、もしそれに難があるなら、ほかでもないその、人に、問題があるに決まってるじゃないのー。

言葉とは、不思議の国の杖、とよく思います。こちらとも、あちらともつかぬそばからやってくること。そして思考。考えること。それは、道具です。

でね、ほんとは手を繋ぎたいときもあるけれど、ubik0101さん照れちゃうからね。のでちょっと、組むくらいに、しといてあげるんだよ。(喜)


それで、雄蕊がとてもたくさんなのが、

サクランボの花。

No.5114 - 2016/03/09(Wed) 22:48:35

Re: / ubik0101
たぶん、思考が悪者にされるのは、それが原因と結果という、因果な構造の空想のストーリーを展開しやすい、ということにもあります。あれがああだったから、これがこれだ。とか・・・それは、

たぶん、今ここ・・・因果の壊滅・・・事実・・・から見れば、悪者にされるということもありそうです。これは半共依存関係です。そんなの面倒なので因果・・・過去未来と、因果の壊滅・・・この今、どっちも蹴っ飛ばせばいいのです。

すると思考は、その人がそのようであることが思考に現われるだけで、思考そのことが問題じゃない。と見えるかもしれません。たとえば料理をするのに、ナイフを使います。

またナイフは、誰かを脅したりするのにも使えるかもしれません。ふつうはナイフが問題だとは考えず、それを使う人が問題と感じるでしょう。と、こう思考すると、その思考を思考が見て、

No.5115 - 2016/03/11(Fri) 20:50:03

Re: / ubik0101
つまり・・・演繹して・・・空想に空想を重ねて・・・じゃ、銃は?原子爆弾は?とか考えてしまうかもしれません。もちろん銃や原子爆弾は世の中にあるし、世界は人の空想を事実と混同させることを、

なぜだか助長させる働きもします。でも問題があるのは世界じゃないです。しかし葛藤を抱えてる人には、世界が問題、思考が問題、と思考が働くのです。葛藤が因果を捏造するのですが、思考が因果で機能するのは、

とくに問題はありません。まあ迷ってる人がいると仮定しての話ですが、思考がなくっても、迷ってるなら迷ってるのです。でなくては迷いの思考は生起しないのです。そして思考は、その人に意識されてない、過去未来は、ない、けど、

この今は、ある、とか、変な対立とかを暴く、それもまた思考が嫌われる理由かもしれません。たぶん思考は、銃や原子爆弾よりもっと、人にとって制御が困難だけど、なにか人の基本に関る働きをするのでしょう。

No.5116 - 2016/03/11(Fri) 20:57:40

Re: / hato

日差しは強く、けれど日中からの冷たい空気が、それがいいと思える3月の週末。久しぶりに御前崎に行きました。気に入ってる場所で、ubik0101さんはちょっと釣り、わたしは座り、おにぎりを食べ、海を眺めます。

ああ!そうです、春の岸壁には小魚がいっぱい。上から身を乗りだして、じっと、それが群れでひらひらと向きを変え、背色を変えて移動しているのを見ていました。

御前崎でのもうひとつの楽しみ、市場をてくてく歩いて「これは安いね!」「ハモだね!」などと言いながら見てまわると、

まだ明るい陽気に誘われて、帰りがけに、今日はもう一か所の海を訪れました。

No.5117 - 2016/03/13(Sun) 00:32:05

Re: / hato

引き潮は、浜辺にまるで残り香のようにうつくしい光の反射板を残し、遠方の、すこし遠い潮騒に、早春の音を聴きました。

No.5118 - 2016/03/13(Sun) 01:08:14

Re: / ubik0101
ついでに・・・総てはひとつも、分離も、悟ったも、迷ってるも、みんな纏めて蹴っ飛ばせばいいのです。大丈夫です。それが真理だとして、真理は、そんなの忘れても失われることはありません。

それを誰か人が掴む掴まないに無関係でなくて、どうして真理と言えるでしょう?もちろん真理は、なぜ真理が、真理なのか、なにが真理なのかも、ほかに依存しないゆえ、知りはしないのです。

ある意味、国は国と、人は人と、思いは思いと、出来事と出来事は、どこまでも分裂すればいいです。心をこめて、精神を込めて、魂をこめて、分裂すればいいです。それでなんの問題もありません。

たとえば善が、何か悪を基準とする、悪と対立する、そんな善なら、それは善ではないです。善悪の対立する、そのような善は、たしかに世界に悪を見るのです。そのように悪をつくる善は善ではあり得ません。

No.5119 - 2016/03/13(Sun) 09:05:29

Re: / ubik0101
また、迷悟に依拠する人には・・・あるいは悟りを、あるいは迷いを自分とするとしても・・・どちらも世界には、たしかに事実として、悟った人と迷った人がいると見えるのです。そんなの、空想、妄想、幻想です。

そんなもの、ありはしません。と、いうより、そんなのも、こんなのも、何もないところからしか、たとえば、ご飯を食べる、音楽を聴く、思考すること、どんなことも始まりません。また、たとえば・・・それはたぶん、よいこととは思われないかもしれませんが、

人がプライドが高いなら・・・ほんとうにプライドで生きればいいのです。そうです。ほんとにプライドの高い人が、どうして人間関係で、あれこれと、また自分の過去未来のことで、ぐじぐじ悩むことが可能でしょうか?

そいうのがあるとして、不安や苦痛に満ちた、自我でいられるでしょうか?なにもない。これは、とくに個別な何かということでも、ものでもないので、失いようがないのです。まあ説明としては、総てがあるので、

まったく透明であり、赤、緑、黄の個別の色は個別のこととしてはないのです。これは事実そうなんです。これは真理という真理も捨てればいいのです。その何もないが、説明過剰ですが、豊饒そのことです。

No.5120 - 2016/03/13(Sun) 09:16:56

Re: / hato

今日の日中もぽかぽか陽気でした。

スノーフレークや、遅咲きの小さな白水仙が咲いているなか、すもも(黒琥珀)の地植えを手伝いました。土に堆肥をよく混ぜながら、根が入る場所を深く耕し、掘り起こし。苗を入れたら、スコップで地ならしをし、たっぷりなみなみと水をやります。

美味しく、きれいな実がなるといいね。根元には、ubik0101さんがダイカンドラを移植しています。こうして円形に植わると、とても美しいのです。

ふと思います。

大事なことはただ、大事なこと。としてあり、いいわるいでない、善いこと。と同様に、理由なく大事であり、善いことです。

そのように真理なら、それは人に、ほんのささやかで強烈な見えない稲妻が、生涯を通して走ってしまったようなことで、それはもう、人生は生きてみるしか、ないのだ。ということに、面倒でも途方に暮れても、生きてみること、と思います。

No.5121 - 2016/03/13(Sun) 22:06:12

Re: / ubik0101
コウモリが一昨日の夕方、薄暗くなった庭を飛んでいるのをhatoさんと見つけました。糸の両端に小石を結んで、コウモリのいるあたりに投げ上げる。

すると超音波で察知して虫などの餌と思い
近づいて、糸に絡まって落ちてくる。

そんなことを雑誌で知って、小学生の頃やってみた。ほんとに落ちて来て、もがいてましたが、しばらくして飛んでいってしまった。びっくりして2度やろうとは思わなかった。

No.5122 - 2016/03/18(Fri) 12:48:48

Re: / hato

この時期しばらく庭を眺めていると、モズはどこかしらの枝にいるのを見ることができます。

狙いを定め、ぴゅーっといきなり地面に急降下、獲物を捕るのです。

ほんとに可愛いのですが、なんというか、このお手並みに毎度、目がテンです。

No.5123 - 2016/03/22(Tue) 20:37:56
(No Subject) / ubik0101
小さなトカゲが、ブルーベリーの枝で、ハヤニエになっていました。
No.5091 - 2016/02/09(Tue) 20:57:50

Re: / hato

今日の日中は風もない、暖かな陽気にふと思い立ち、周智郡森町にあるという、城ヶ平公園に行きました。

我が家の小さな車には、少々きつめの山坂でしたが、小山の頂上にぽっかり開けた、かつての城跡というその場所。勇壮に生え育った松の木立を歩いて抜けると、わぁっと息を呑む光景が眼下一面に広がりました。

静岡西部地域を、東西広く眺める眺望は圧巻です。太平洋が見えます。

No.5092 - 2016/02/11(Thu) 21:33:48

Re: / hato

赤松。

どの松も、驚くほど太く大きく、天高く伸びていました。

No.5093 - 2016/02/11(Thu) 21:36:37

Re: / hato

毎度、ちょっと散歩の気楽さで、いつも意表を突かれる静岡散策。

松ぼっくりは、こちらもまるで彫刻のような、見事な出来栄えです。

No.5094 - 2016/02/11(Thu) 21:55:10

Re: / ubik0101
それで簡単に纏めると。熱い、寒い、痛いは、自明です。思考も、たとえば愛が愛を現し、これが、これを現し、自明です 。とりあえずは、この自明、ということを疑わないとして、

この夜の雨が見える聞こえる、キーボードに触る、コーヒーを味わうなども、またどのような思考も、知覚であり、自明であり、そこには・・・その人には・・・分離、分裂がありません。

たとえば非2元、総てはひとつ、を真理としながら、(知覚は無問題で)思考が問題だとするなら、その、そこに・・・その人・・・に、分裂があり、まったく言ってることが変なのです。

たとえば、私はない、起こってる事象があるだけ、とかいう意見も、ない、ある、の・・・その、それが・・・その人の分裂であり、非2元、総てはひとつ、の意見としては変なのです。

そんな変な分裂がなければ、非2元、総てはひとつという意見は、成立しないかもしれません。知覚と思考に分裂、亀裂、背理がないなら、非2元、総ては一つは、ことさら必要はないです。

いろんな体験をするし、どうやっても人は今も体験してるのですが、その理解は素直で真摯で、つまり正確であらねば、と思います。

No.5095 - 2016/02/14(Sun) 00:05:04

Re: / hato

今年はフキノトウが少ないね?、と2人で何度も、庭の西の、生える場所まで見に行きました。冬が遅かったことや、ただ 気がせいてるだけかも知れません。

ひとつ・・ふたつ・・と数えていって。ここ数日、みっつがよっつ、いつつ、あたりになって、よかったね、と喜んでいます。

No.5096 - 2016/02/17(Wed) 10:08:03

Re: / ubik0101
たとえば怒ったとします。その怒ったことに気がつくのは、後になってからでしょうか。たとえば、なにか行動、発言、思考するとします。その裏には、実は、怒りが隠れてあった。という怒りは、

後になって気がつくのかもしれません。でなくても怒りが怒りに気がつくのではないなら、怒りと、その意識?が分離してるのです。見る聞くと、思考が分割されてるのです。たとえば怒りと思考に焦点を合わせる意識が、ある、のです。

また、なにか考え事をしてると、たぶん眼は見てるのでしょうが、まったく世界は自分には見えない・・・パソコンに向かってると、ラジオの音楽が聞こえてない・・・画面の文字さえ見えてないけど

ふつうに思考してる・・・椅子に座ってるという身体の感覚もない・・・また、キッチンに立って、ナイフで林檎を切ってると、足の裏の感覚がない・・・足の裏の感覚を見ると、手の感覚がない・・・また、

この部屋の中を見渡しても、なんだか滑らかに視点が移動するとは、感じません。飛び飛び?また静岡にいるなら、神奈川にいるわけではありません。これはなにか意識?自分?が、ある、のでなくては、

そうはならないかもしれません。あるいは、焦点が移動するだけで、意識?自分?中心?が、ない、ということかもしれません。まったく同じことから、ある、ない、どちらも説明されます。

No.5097 - 2016/02/17(Wed) 11:04:23

Re: / hato

蕗の薹。

日中まだ明るいうちに、一緒に採りに行ってみると、つい数日前まで出てきていなかった小さな蕾が、あ、ここにも。そこにも。。

というわけで、今日は十数個、収穫しました。

No.5098 - 2016/02/17(Wed) 23:27:12

Re: / hato

豆苗の、食べてしまったあとを日に当てて、再度育つのを見ています。こんなに伸びてしまったのですが、ノンノン、チュリルがお気に入りで、葉を食む様子が、鳥らしい風景です。

No.5099 - 2016/02/17(Wed) 23:31:00

Re: / hato

最近チュリルはノンノンに、一所懸命近寄っていってはアピールします。ちょっとぶっきらぼうなんですけど、あどけない足元がかわいい、チュリルくん。けれど、かなしいかなノンノンはそっけなく、跳ね返したり突き返したり、ちょい意地悪なのよ。こっちが切なくなっちゃうけど、こればかりはしかたないものです。

でも、こんなに近くに寄れるようになったね、チュリルとノンノン。

No.5100 - 2016/02/17(Wed) 23:39:45

Re: / hato

今日の晩ご飯は、そうです!天ぷら。
ubik0101さんが腕をふるってくれました。

びっくりするほど美味でした。サクサクの、アツアツ。噛んだ奥から、シンとくるほろ苦さ。妙味たっぷり、春の味覚。

春一番の風が、庭に空に吹きあれる頃の、ささやかで、ちょっと贅沢な楽しみです。

No.5101 - 2016/02/17(Wed) 23:55:05

Re: / ubik0101
たしかに真理には根拠がない、です。真理にはその真理のほかに根拠がない、真理にはその真理にしか根拠がない・・・つまり、完全に真理には根拠がない・・・それは現われたと見えても現われずに消える・・・もちろん、怒りも、喜びも、思考も、消える、です。
No.5102 - 2016/02/18(Thu) 11:03:26

Re: / ubik0101
構想から1年半・・・洗面所のタオルを、少しずつ100円ショップで買い増しして、赤(200円)、白(200円)、緑(100円)で揃えました。
No.5103 - 2016/02/19(Fri) 10:32:52
うちすてる / 大阪
こんにちは。

こちらで質問させてください。

たとえば、そういう、すべてはひとつ、いまここ、神、基底、、、

それを思考するときに、まるで「これが本当はいっつもあって、これが真実で。」とか、日常より深い部分、をイメージしたりして考えてしまう。

でも本当は、そのように「これが真実で」なんて考えれば、その「これが真実で。」が。

湯を沸かせば、湯を沸かした、が。

迷っても悟っても、どう転んでもそれが。

日常そのものがすでにそれの表現になっている、ということでしょうか。

仕事をさぼって出かければ、それが。

(そう考える必要もない、ということでしょうか。)

いまいち打ち捨てる、が分かったような分からないような、でスッキリいきません。

No.5088 - 2016/02/03(Wed) 16:47:02

Re: うちすてる / ubik0101&hato

ルーツがない、頼るところがない・・・たとえば波と海の喩え、縁起、自分はない、ある、今ここ、神、悟り、などそれを真理と呼ぶとして、それによっても・・・その自分を確認しない・・・

まったく真理にも頼らない・・・《糸の切れた凧》は・・・どこに飛んで行くか判らないで、不安がなく・・・説明するならばですが・・・自覚できなくても力があるのです。

(また人の経緯としては、真理を握ったら、それとセットになってる虚偽を、どこかだれかに被せることで、隠し持ってしまう可能性があります。それを丸ごと捨てる。ま、真理でありきるなら、真理も消える)、

たとえば楽譜を捨てて・・・それで弾けるピアニストは・・・ピアニストです。たとえピアノを弾いてないでも・・・ピアニストです。道路工夫であっても、いいです。

またたとえば風は、自分を自分で知覚できないけど、枯れ草の波は見える。なんだか自覚できない自分が、なんだかわからないこと・・・ご飯を食べたり、思考したりしてる・・・日常です。

ubik0101

そんなことあんなこと、わけ解りませ〜ん!それでなお、キーキー言いながらどんどん生きてく、気づいたり忘れたり、笑ったり怒ったり、作業や仕事や人付き合いや、ぼーっとすることや、ただ一所懸命、それでいい??? かどうかもほっぽらかし、また朝起きてできることをする、とこちら、そんな日常です。

なにか自己を学んでいて、自分はあの世とこの世の代理人とか、わたしは仏陀とか、いまここだとか、そういうことに思い当たったとして、人から言われたとして、伝統の教えだとして、そういうところに留まるとして、それはつねに、目指してるなにか「知ってること」が念頭になければできなさそうです。

そんなときあんなとき、でも、それ、とはどうしても、この世界の知っていることにはなり得ない・・・それは了解であり、知ってること、ではない、ということ。いまここ・・とか、総てはひとつ・・という旗に落ち着かない・・・ということかも知れません。

hato

裏庭の梅が咲きました。
とても寒い頃、ちょうどよく咲きます。

No.5089 - 2016/02/03(Wed) 23:17:42

Re: うちすてる / 大阪
ちょっとわかってきたような気がします。

うびさんハトさん、ありがとうございます。

とりあえず2016年のテーマはしばらくこれにしようかな、と思います。

No.5090 - 2016/02/05(Fri) 17:05:36
・・・では、知覚って、 / ubik0101
すこし纏めます。そーいう分類があるとしてですが・・・たとえ悟りでも、迷いでも、善でも、悪でも、美醜でも、自我でも、無我でも、真実虚偽でも、過去未来でも、今ここでも・・・知覚に依存する、

ということです。そいうことは限りない知覚野があるとして、そのどこかが活性化してるというだけ・・・しかも、その知覚野の、裏打ち、基底がない・・・これが、この、このこと、

そのことが・・・不思議、神秘という感覚です。世界が、神秘。生きてることが、神秘です。そして、ここで知覚がなければ、知覚に依存しないも、ありようがないでしょう。たとえば知覚がない、とします。

そこで、知覚に依存しない、も有り得ない、です。この世界に生きながら、 この世界に依存しない、それが世界にあって、でき得るということです。これは世界に、その裏打ちがない、基底がない・・・ぽっと、

この日常があるだけ・・・空とか、神とか、理念とか、地獄天国・・・まったくない・・・海と、波。根や幹と、花・・・実在と現象・・・もない《糸の切れた凧》であって・・・それはもしかして、なにかに依存する経緯を辿るなら、不安、恐怖を難じることかもしれません。

No.5079 - 2016/01/26(Tue) 10:41:26

Re: ・・・では、知覚って、 / ubik0101
それで、死が恐怖ということは、まったく知覚がないという・・・空想・・・に恐怖するのではないでしょうか。自分が死んだ、ということも判らない・・・知覚がない、も知覚でき得ない、

と、それを空想することが、底知れない恐怖ではないでしょうか。これはいろいろ経緯はあるでしょう。たとえば、この世界の裏側、基底が、私だ。あるいは、私は根や幹ではなく舞い散る、枯れ葉。またあるいは、そのどちらでもない。

あるいは、自分なんてない、今ここ、未来過去、分離、融合、葛藤、平安、喜怒哀楽、輪廻・・・(よこいと・・・緯)、それはさまざまな知覚野の問題を解決する過程でしょう。

そして愛・・・それを人が感じようと感じまいと・・・つまり知覚に依存しない・・・世界に溢れてる愛・・・その源・・・神、実在、第一原因・・・(たていと・・・経)それは一気に解決するでしょう。私は、ある。しかし、それでも、知覚って?

No.5080 - 2016/01/26(Tue) 11:19:44

Re: ・・・では、知覚って、 / ubik0101
窓際の豆苗の切り株から、新しい芽が出てきました。まだ暗い早朝には、真っ直ぐですが、光が差し込むと、そちらに傾きます。
No.5081 - 2016/01/26(Tue) 12:11:35

Re: ・・・では、知覚って、 / ubik0101
・・・ここから、ほかの掲示版への投稿・・・

それはそれとして。あるない、って、どいう意味か考えてみました。ある・・・それが機能してて知覚されてる・・・たとえば、宇宙がある、ここに時計がある、幸せがある、青い空がある・・・つまり、それが機能してて知覚される。



そして、それが機能してないで、知覚される・・・故障した時計・・・ここに時計が・・・あるけどない、とか。電池があるけど、ない、とか。そして機能してないで知覚されない・・・濃く冷たい、ない。機能してて知覚されない・・・薄く暖かい、ない。



ない・・・は、かなり複雑。それが、それ自身を知覚できない・・・つまり・・・たとえば、私は(それが宇宙だとしても)ある、も、ある、でありきって、私はない。私はない、も、ありきって私はない。知覚とは、差の認識。花、鳥、風・・・知覚にとって世界とは、この何がなんだか解らない私との差の認識。

・・・ここまで、ほかの掲示版への投稿・・・

つまり、見える,聞こえる、思考するなどの知覚は、なにがなんだか判らない自分との、なんだかの違いがあって、起きてるということです。もし、自分が世界なら、自分も世界も消えてしまいます。そういうことが起こり得るということは、

まったく人って何がなんだか判らない(好みではありませんが、未知とか、絶対とか、無限定とか呼んでもいいけど)・・・それ?そこ?これ?とも言えないけど、に見る聞く思考する・・・知覚が起きてる・・・その自分はゆえに・・・自分で自分を対象にでき得ないというだけではなく・・・知覚不可能・・・です。

No.5082 - 2016/01/26(Tue) 18:40:51

Re: ・・・では、知覚って、 / ubik0101
それで、なんでもいいですが、今ここ、過去未来、分離、ひとつ、自我、無我、意識、無意識、善悪、美醜、葛藤、平穏・・・そいうのは、誰の、彼の、意見というわけでもない、です。数学とか物理の方程式のようで、それを使って、自分?疑問?を解くのです。

つまり自明なこと、知覚がなんであるか・・・公理が、公式が、なんであれ・・・たとえば自我無我が、甘い辛い酸っぱい、思考が・・・なぜ、それ、が、それ、なのか、解らない・・・というより判らなく、なければならない・・・それでなくては、疑問を解くことが不可能。

どうやら、いろんな体験、いろんな意見、があるようだけど、その意味を統合して協力して探れば、どんなにいいだろうと思うけど、やろうとする誰かを見つけられない・・・だけです。

No.5083 - 2016/01/26(Tue) 19:16:47

Re: ・・・では、知覚って、 / ubik0101
すこし知覚野の活性化の範疇の説明をしてみます。たとえば、(a)花という言葉は、花ではありません。まったく表現することされることは無関係です。

それゆえ(b)花という言葉は花を示します。わずかでも言葉とそれが表現することが関係あるなら、言葉は正確に機能しません。

ここで(a)は、

なんでもいいですが、たとえば愛という言葉は愛を示しません。月でも、少年でも同じです。ここでは、見る聞くなどの知覚と、言葉による思考とは違うという実感があるかもしれません。知覚野に分裂があります。

これは実は思考が自在ではありません。愛という言葉が愛を示していません。嘘である可能性があります。言葉は信じられない、ということです。

それは単に、その言葉を言った誰かを、あるいは自分を、信じられない、という状態です。そのように思考が適切でないと・・・言葉がその意味と乖離してると・・・つまり、それ、が、それ、を現してない状態だと正確に・・・思考は問題だ、と思考は思考するのです。

しかし、「言葉は、事実を示さない、」というのも、言葉です。「思考」という言葉は思考です。

そして(b)は、

しかし、愛という言葉は、愛なのです。あるいは愛を示します。ほかのことを示したり、なにか隠し持ったことがありません。愛が、自分で,愛と、言うのです。A=Aです。

ここは、言葉は、それを示さないも、示すも、全体が滞りなく活性化しています。嘘を言い得るゆえに真実を言い得るのです。言葉と、それが表現することと、まったく無関係、ゆえに言葉は正確に機能します。

ここで言葉と知覚との分離がなく。見える、聞こえる、熱い、冷たいなどと同じく、思考は知覚です。知覚に分離、乖離がありません。説明ですが、見える聞こえる知覚になにも問題がありません。思考も知覚です。

このように説明すると難しいのですが、この日常にあって、素直であること、真摯であること、それだけです。怒るなら、全身全霊、怒るのです。笑うなら、全世界が笑うのです。これだけです。

No.5084 - 2016/01/27(Wed) 21:12:59

Re: ・・・では、知覚って、 / hato

暮れのすこし前に行ったきりの、久しぶり、待望の海に行きました。午前中にそれぞれ仕事を済ませ、午後の成り行きで車を飛ばします。

ここ数日としては温度がありましたが、冬場の強風が、まるで見えるような日中の海岸でした。

No.5085 - 2016/01/27(Wed) 23:10:37

Re: ・・・では、知覚って、 / ubik0101
hatoさんが、

思考が問題だ、というのは嘘つきということ。と、言います。

うん、まあ、そう、では、意識って何?

意識は世界です。

・・なかなかです、奥さん。


ところで思考は、過去未来、真実、虚偽、誰彼・・・に制限されないで、機能しています。たとえば百年前に誰かが書いた、何十万年後の世界の物語でも、まるで目前?に、展開します。昨日のことを思考するのも、

何億年先のことを思考するのも、思考には障害がありません。ただこの思考の自在さに振り回される、思考に使われると、思考が問題だ、となるのかもしれません。もしかして思考がない、なにか気づいたそこに思考がない、ということで

なんか気がついたことがあるなら、それを切っ掛けとして、そのような体験を得たのです。その体験と、悟りは、おなじであっても、違います。思考は問題だ、は不要です。ここで、

できればですが、真理と思われることを打ち捨てるのです。なんでもいいですが、総てはひとつでも、実在と現象でも、無我でも、今ここでも、基底でも、愛でも、自分は仏陀です、でも、

なんでもいいですが、打ち捨てるのです。それは図らずも必然的に、自我とか、ぐちゃぐちゃした時間とか、葛藤とか、衆生とか、真理と思われない、虚偽も捨てること、です。たとえば、今ここには、今ここは、ないのです。

総てはひとつには、総てはひとつは、ないのです。私は仏陀には、私は仏陀、もないです。これそのことが、その反対としての障害、たとえば過去未来という迷いの時間、分離、自我も、葛藤、もないということです。

こういえばなにか難しそうですが、普通のことです。ご飯を食べてて、自転車に乗ってて、ヤカンが熱ッで・・・そんなことを感じても障害になりません・・・ですが、

そんなことも思ってもいない・・・その普通の日常が、そう、です。ここは、善悪、優劣、神、愛、縁起、基底・・・何も自分の頼りがないのです。説明すれば、世界は、日常は、このこと、歩くこと、働くこと、思考すること・・・が、

ぽっと、あるだけです。なかなか洒落た言い方を東山寺、せったん和尚はしたようですが《糸の切れた凧》。もとより何も失いません。たとえば・・・ジェットコースターは、出発点に戻るのです。青い鳥は家にいたのです。なんてこと・・・を信じてはいけません、よ。けっ。

No.5086 - 2016/01/29(Fri) 09:29:57

Re: ・・・では、知覚って、 / ubik0101

たとえば光は・・・山、木、花、雪、鳥と接触して、
その世界の姿になります。

たとえば風は・・・冬の草原を渡り、枯れ草の波が起こって、
その世界の姿を現します。

たとえば水は・・・流れ、溜まり、蒸発し、雲となって巡り、
その世界の姿を現します。

たとえば火は・・・マッチに燃え、ストーブに燃え、また消えて、
その世界の姿を現します。

たとえば地は・・・高く隆起し、深く浸食され、耕され、
その世界の姿を現します。


たとえば、緑は、緑です。熱いは、熱いです。愛は、愛です。つまり、知覚は、A=Aです。これで、それがそれに乖離がありません。自明ということです。なぜそこで言葉だけが、これがこれを示さないことがある、と感じられるのでしょう。

たとえば色には、緑があれば、黄色があります。赤があれば青があります。熱いもあれば、凄く熱いもあれば、寒いもあるでしょう。そうです。さまざまな知覚が、相反するのですが、それは矛盾と感じられてない、というだけではないでしょうか。

しかし。たとえば、砂糖の味と、塩の味が、逆の知覚でしょうか?違います。そのように逆の味と思い込んでるだけなのです。赤に緑・・・補色関係・・・もそうです。熱い,寒いも、反対の感覚ではありません。

慈しみと、憎しみは、反対の感情ではありません。簡単なのです。反対のことでないことを反対のこととして認識して、そのことに気がつかないでいる領域で、人は反復運動し、発振状態になるだけです。おなじく言葉にも、慈しみという言葉、憎しみという言葉、ほかにさまざまあります。

つまりそれが機能してて知覚され得ます。それと、たとえば寒いというのは、この今ここでの、感覚です。でも、熱かった(たとえば過去)、快適ということも有り得る(たとえば未来)ということもあるでしょう。

これは矛盾といえば矛盾ですが、そうは感じません。実に言葉もそうなのです。嫌なら、ただ嫌。好きなら、ただ好き。これで、過去とか、今とか、未来とか、その特定な状態に、こだわることも必要ありません。

ここの要点は、意識が対象に接着しない、ということです。たとえば光は、風は・・・何かに触れて、関係して、世界を現します。しかしそれ、対象?に接着しないでいいのです。意識?自分?は・・・宇宙開闢138億年とか、なんであれ真理とかに触れてもそれに、接着、固着しないということです。

No.5087 - 2016/02/01(Mon) 08:40:08
体験って、 / ubik0101
ショッピングモールの通路で、向こうから歩いて来た知らない男性が、自分だった。まじまじ見たけど、やっぱり自分だった、その男性が通り過ぎ見えなくなると、その感覚はかき消すようになくなった。

これはドッペルなんとか・・・自我の死・・・を意味するのかな?とも思った。けど、自我とか、無我とか、真我とか・・・いまさらだし・・・そ、ではないだろう。

それから食堂でテレビを見てると、正月番組なのでしょう。なにか国会議事堂みたいなところで、和歌みたいなのを誰かが詠んでて、カメラはその部屋の中を映しながら移動して行き、

ちっと高慢そうな着飾った、三人のお姉さんの内の1人が、自分だった。なぜ、この1人だけなんだろう。しかもテレビの画面の中。でもやはり彼女は自分だった。

No.5067 - 2016/01/09(Sat) 06:51:42

Re: 体験って、 / ubik0101
それから、料金500円の山の中の温泉の露天風呂に浸かってて、向かいの山が自分だった。これはたぶん、あらかじめ機能してる自分が山を見てるからではなくて、

あの見える山によって、見ている自分がつくられるからかもしれない。と思ったけど・・・どうもそれだけとは言い切れないような気がします。そのとき確認したけど青空はとくに自分というわけではなかった。

まあ、こいうことが起きると、これは悟り体験で・・・みんな繫がってるとか、世界は1つ・・・とか感じる人もいるらしいけど・・・そんな悟りという凄いことじゃないでも、

そいう体験は、ただ起きる。それでいわゆる悟りって、そいう体験そのことではないと思います。ここはとても微妙だけど、体験は扉、あるいは通路で、悟りとは分けられないのだけど、

No.5068 - 2016/01/09(Sat) 07:17:02

Re: 体験って、 / ubik0101
この辺りの造り酒屋の麹が500gで約400円。というわけで、ありあわせのヒマラヤの岩塩175gと水を混ぜて、塩麹をつくることにしました。とても大量、ほんのりピンクです。これで毎日混ぜて10日ほどでできるそうです。
No.5071 - 2016/01/11(Mon) 11:32:50

Re: 体験って、 / ubik0101
まったく同じことではない。と感じます。たしかに起こったことは事実として確定し・・・どんなことでも・・・たとえば、青空に乱れに乱れる飛行機雲、自転車に乗る、

12時になると寺の鐘が鳴る・・・どんなことでも・・・くり返したり、やり直したりでき得るように思えても、一度だけであり・・・偶然と必然は同じことである・・・そのように、

その体験と悟りは分けられないんだけど、それでも、みんな繫がってるとか、世界は1つというのだけが真理というのは、あまりに短絡的ではないでしょうか。

たとえば美しい、神秘な、絵。それは表現で。その絵・・・色と形の配置・・・と、そこに表現されてること・・・美しさとか、神秘・・・と、おなじだけど、やはり違うように、

No.5072 - 2016/01/14(Thu) 08:48:14

Re: 体験って、 / ubik0101
なんであれ、今ここでもいいけど。私はない、でもいいけど。私はある、でもいいけど。総てはひとつ、でもいいけど・・・それそのことが真理と思われても、

それは目的地ではなく、通路。扉。と、言えば言い過ぎかもしれないけど、直接的に、自我とか無我とかではない、即今とかではない、その通路を歩かなかった、そんな悟りもあります。

たしかに悟りは・・・無我とか、即今とか・・・そのような有り様なのですが・・・そう説明され得るとして、そのように自分で納得し得るとして。それは迷いも、自我、過去未来も、空想も、そうなのですが、

たとえば・・・ない、ということ、ある、ということ、今ここということ、過去未来ということ、あるいは総てはひとつにしても、分離にしても、記憶にしても、非難と正当化にしても・・・なぜ、これ、が、これ、なのか?

No.5073 - 2016/01/23(Sat) 22:06:27

Re: 体験って、 / ubik0101
まったく知りようがなく、ここで悟りも、迷いも区別はなくて。この怒ったり、笑ったりの日常。怒るということが、笑うということが、見えるということが・・・なぜ、見えるということ?聞こえるということが、

なぜ、聞こえるということ?思考するということが・・・つまり、なぜ、それ、は、それ?迷いは、なぜ、迷い?その知りようがない・・・この、なにも知り得ない・・・それは普通の怒ったり笑ったりの日常・・・知覚・・・に依存するということです。

それは、訳判らないことに依存してるのですから、依存そのことも、なぜ、それは、それ?なのですから、なにも依存しないということと、等価です。過去,未来は空想で、今ここはリアル、だとしても、そのリアルに。分離が空想で、総てはひとつが真実だとしても。

また自我が空想で、無我が真理だとしても、その空想にも、リアル、事実、真理にも依存しない・・・また、悟りも、迷いも、自分が何かを知らなくても、なにも問題ない・・・ここを、

うまく言えるといいのだけど、ふつうの日常、これで完璧。だけど、それでも、では、歩いたり、見たり、思考したり・・・知覚・・・とは何?これは必然的な疑問ではないでしょうか。

No.5074 - 2016/01/23(Sat) 22:24:12

Re: 体験って、 / hato

今年の初仕事は、家内作業、膨大な書類整理整頓から始めました。けっこう、大変。ですが、寒い季節、家に籠って時間を使って、じっくりやります。

ふと窓の外を見ると、ミューが桜の木の枝に登って日向ぼっこしていました。とりわけ冷え込んだ日中でしたが、低い地面よりも、暖かそうに見えたのでしょうか?

No.5075 - 2016/01/23(Sat) 22:51:59

Re: 体験って、 / hato

古家の脇の白い山茶花が、かわるがわる花を咲かせています。ここに来てはや6年、木の繁り具合に、なんだかとても大きくなったような気がします。

No.5076 - 2016/01/23(Sat) 23:08:01

Re: 体験って、 / ubik0101
たとえば、嘘、を定義してみましょう。現実と言葉が違うことでしょうか?しかし現実とは何でしょう?これは自明でしょうか。そうでなく極端を言えば、あの映画/羅生門のように、

人によって違ってしまう、訳の判らない現実があるとして、それを根拠にしたら定義とは言えないでしょう。嘘。それは、自分の行動、発言、思考が互いに矛盾することではないでしょうか。そして、自分の行動は自分には自明でしょう。

発言は自明でしょう。思考は自明でしょう。(これが素通しで自明であれば人は嘘を言うのが困難)。このように、どうやら定義は自明なことを前提にするのです。なぜ、それを自明とするのか?それは、知覚、です。

知覚されることを、自明と言うのです。たとえば、自分があるにしても、ないにしても、分離にしても、ひとつにしても、日常が神秘にしても、思考にしても、知覚に依存するのです。その知覚は,どのようなのでしょう?

No.5077 - 2016/01/24(Sun) 16:12:57

Re: 体験って、 / ubik0101
たとえば思考が頭の中?に発生すると、それを誰かに話し続ける人もいます。それでも足りず、なんでもないところから空想を発生させ、あーでもない、こーでもない、どーでもないと思考し、

とめどなく不平不満を捏造する・・・そのように思考に依存することもあるでしょう。それは思考が問題なのではなく、人が思考の奴隷ということが問題なのです。ご主人様である、ありもしない思考、空想、を崇め、追い求めるのです。

こういう誰かや自分の状態を嫌うと、思考は問題だ。となりやすいかもしれません。ところで、この思考とか不平不満とかは知覚されることです。その知覚に依存してる、それを自分の根拠にしてる、のではないでしょうか。

なんだかの主義とか主張とか信念とかはそうなのでしょう。思考だけではなく、知覚一般、この蜜柑は甘いとか酸っぱいとか、この数式は自分が発見したとか、正しいとか、それだけのことで争いが起こったりもするでしょう。

そして、今ここ、総てはひとつ、私はない、ある・・・なんであれ、それも・・・たとえありのままの?静かな?認識であろうと・・・見る聞く触る味わう思考する・・・知覚依存です。

そーいえば昔の中国の禅者が、修行者に向かって・・・言い得ても三十棒。言い得なくても三十棒・・・と言ったそうです。悟っても棒でメッタ打ちだぞ、迷っても棒でメッタ打ちだぞ。ということなのでしょう。

まったく伝統的な理解は知りませんが、迷っても、悟っても、知覚依存でどうするんだ、それでいいのか?と言ってると見ることもできそうです。知覚とは、何?

No.5078 - 2016/01/25(Mon) 10:51:33
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