こんにちは。
こちらで質問させてください。
たとえば、そういう、すべてはひとつ、いまここ、神、基底、、、
それを思考するときに、まるで「これが本当はいっつもあって、これが真実で。」とか、日常より深い部分、をイメージしたりして考えてしまう。
でも本当は、そのように「これが真実で」なんて考えれば、その「これが真実で。」が。
湯を沸かせば、湯を沸かした、が。
迷っても悟っても、どう転んでもそれが。
日常そのものがすでにそれの表現になっている、ということでしょうか。
仕事をさぼって出かければ、それが。
(そう考える必要もない、ということでしょうか。)
いまいち打ち捨てる、が分かったような分からないような、でスッキリいきません。
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No.5088 - 2016/02/03(Wed) 16:47:02
| ☆ Re: うちすてる / ubik0101&hato | | | ルーツがない、頼るところがない・・・たとえば波と海の喩え、縁起、自分はない、ある、今ここ、神、悟り、などそれを真理と呼ぶとして、それによっても・・・その自分を確認しない・・・
まったく真理にも頼らない・・・《糸の切れた凧》は・・・どこに飛んで行くか判らないで、不安がなく・・・説明するならばですが・・・自覚できなくても力があるのです。
(また人の経緯としては、真理を握ったら、それとセットになってる虚偽を、どこかだれかに被せることで、隠し持ってしまう可能性があります。それを丸ごと捨てる。ま、真理でありきるなら、真理も消える)、
たとえば楽譜を捨てて・・・それで弾けるピアニストは・・・ピアニストです。たとえピアノを弾いてないでも・・・ピアニストです。道路工夫であっても、いいです。
またたとえば風は、自分を自分で知覚できないけど、枯れ草の波は見える。なんだか自覚できない自分が、なんだかわからないこと・・・ご飯を食べたり、思考したりしてる・・・日常です。
ubik0101
そんなことあんなこと、わけ解りませ〜ん!それでなお、キーキー言いながらどんどん生きてく、気づいたり忘れたり、笑ったり怒ったり、作業や仕事や人付き合いや、ぼーっとすることや、ただ一所懸命、それでいい??? かどうかもほっぽらかし、また朝起きてできることをする、とこちら、そんな日常です。
なにか自己を学んでいて、自分はあの世とこの世の代理人とか、わたしは仏陀とか、いまここだとか、そういうことに思い当たったとして、人から言われたとして、伝統の教えだとして、そういうところに留まるとして、それはつねに、目指してるなにか「知ってること」が念頭になければできなさそうです。
そんなときあんなとき、でも、それ、とはどうしても、この世界の知っていることにはなり得ない・・・それは了解であり、知ってること、ではない、ということ。いまここ・・とか、総てはひとつ・・という旗に落ち着かない・・・ということかも知れません。
hato
裏庭の梅が咲きました。 とても寒い頃、ちょうどよく咲きます。
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No.5089 - 2016/02/03(Wed) 23:17:42 |
| ☆ Re: うちすてる / 大阪 | | | ちょっとわかってきたような気がします。
うびさんハトさん、ありがとうございます。
とりあえず2016年のテーマはしばらくこれにしようかな、と思います。
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No.5090 - 2016/02/05(Fri) 17:05:36 |
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