たとえば明日は晴れたら、海に行こう、とか。草むしりをしよう。と考えたとします。さて、その思考に、そうする決定権があるでしょうか?そう思考して、そう行動すると、思考は何となく思ってても、実は、決定権はないのではないでしょうか。
では、なにが、行動を決定してるでしょう?これとなくですが、気力とか、決意とか、そうしようという身体というか、亊の流れというか、世界の動きが、そこで始まってるのではないでしょうか。そうです。思考は思考するだけで、なんの決定権もないのです。
それで、たとえば草むしりしながら、それとなく、ああ海に行けばよかった。九州の知人は元気だ。そーだ、怒りや不安がなければ、架空の因果の思考をしないのだから、怒らなければいい、寂しさ、悲しさがなければいい、人間関係では優しくあればいい、とか思考してたりします。
と、パソコンの前で思考しています。このように思考は,ある意味とても無責任で、それゆえ自在です。ゴミをゴミ箱に投げるとか、ささいなことでも思考が決定してるわけではないのです。このことはなかなか思考には分からないので、それを明確にすることも意味があると思います。
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No.4958 - 2015/09/07(Mon) 08:15:27
| ☆ Re: この思考に、決定権は、 / ubik0101 | | | あるいは逆に、架空の因果の思考をするから、怒りや、不安、寂しさ、悲しさが起きるとも言えます。それは自分の思考に、かまけてるのかもしれません。それなら思考を止めればいいのです。そ、しようとしても止まります。そ、でなくても案外簡単です。
たとえば部屋の中でも、野外でも、そこを見ればいいです。そこは何も始まってないです。空間や、電気スタンドや、森、青空、太陽が、つまり世界が・・・説明すればですが・・・そんな思考はしてない・・・で・・・思考してない自分。ほら簡単です。
ぬか漬けご飯です。これは、食後感が、とても爽やかです。心身?が軽くなります。
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No.4959 - 2015/09/08(Tue) 12:15:27 |
| ☆ Re: この思考に、決定権は、 / ubik0101 | | | それでいわゆる葛藤は、思考と感情、の依存関係にあるようです。そんな互いに互いを支えないと存続できないし・・・発生しないことは気がつかないので、発生しないとも気がつかないし・・・その思考と感情の依存関係は、両方あって成立してる。
それで思考か感情、片方がないと。または片方だけがあると、不成立。と、いうことは、そんなことやってるフィールドを自分と呼ぶとして。それはニュートラル、中立、透明、なにか、これだ、というものではない。つまり、ない。自覚不可能、でないと、たとえば思考と感情の依存関係は成立しない、です。
なのに、ここで。あーでもない、こーでもない、どーでもない、などとやってると、自分があるような気がする。それはその依存関係が自分だ、としてしまう・・・見るものは見られるもの・・・と暗黙に誤解するからかもしれません。
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No.4966 - 2015/09/10(Thu) 09:19:30 |
| ☆ Re: この思考に、決定権は、 / ubik0101 | | | すこし振り返ると。すべてを破壊する波動砲のように怒ると、架空の因果の思考は不可能。それで予め終了。あるいは怒りや、悲しさ、寂しさの感情がなく思考だけなら平静・・・その前提を探る・・・なら、それは探求とも言えます。
しかし、自分で自分を自覚でき得ない、ない、は不安定ならば何か対象を求めて頼りにしたい・・・それでそのフィールドで起こってるのが見える依存関係に依存する・・・その自分は自覚され得ない・・・で、見るものは見られるもの・・・逆に言えば、《思考や感情が、自分、の振りをする》。
ここで、明確だけど微妙な機微。この自分は、ない、がそうと確認してもしなくても、そう、であること。たとえ私は、ある、も。ない、も・・・それがそれで完璧にそれで・・・私は、ない、です。見るものは見られるもので、あるでも、見るものは見られるものでも、ない、でもないです。
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No.4967 - 2015/09/10(Thu) 09:59:01 |
| ☆ Re: この思考に、決定権は、 / ubik0101 | | | ふたたび。たとえ私が神《私は、ある》でも、悪魔でも、犬でも、仏陀でも、私は。ない、です。そこで、思考、感情、行動すると、私は、そこで観察され得る、思考。感情、行動。見るものは見られるものと、勘違いします。この見るものは見られるもの。が、諸悪の根源です。
たしかに私は、ない、なら、見るものは見られるもの、ではありません。また、ない、ですから、見るものは見られるものでない、でもありません。ない、を万遍なく経緯して、そのどこにも依拠しない。ない、も忘れる。ない、も始まらないということです。このように、私は、ない。その、ない、という何かでもありません。
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No.4968 - 2015/09/10(Thu) 19:19:15 |
| ☆ Re: この思考に、決定権は、 / ubik0101 | | | ケルシージャパンです。スーパーで売ってるのを初めて見ました。ネットで調べてみると某有名果物店では、一個1000円。しかーし、これは一個100円でした。みどりの庭ではまだ小さい苗が植木鉢にいます。
甲州大巴旦杏とも呼ばれる、中国原産?日本古来?の、すももの一種です。これを食べて美味しさに感動した、ケルシーさんが、アメリカの農園で育てたものが広まり、逆輸入されたと、言われています。
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No.4969 - 2015/09/10(Thu) 20:07:16 |
| ☆ Re: この思考に、決定権は、 / ubik0101 | | | ついでに、ふたたび。たとえば静かであれば、自分は、ない、これは普通にそうです。たとえば、見る聞く・・・青空は見ようとしなくても見える、虫の声は聞こうとしなくても聞こえる・・・の受動で、その自分は、映像や音が(映る?)明るく深い森の透明な泉のように静か、です。
そして、触覚、味覚、思考などは、受動でもあり能動でもある。さらに不満とか、怒りとか、走るとか、労働とかは、個別の人としては、騒がしい暴風雨が荒れる濁った氾濫する川、能動と思われやすいのです。それはそうと気がついてなくても、静かさを大事としてるならば、問題とされやすいのです。
そこには静かさと騒がしさの、隠れてる、気がつかない、対比があるかもしれません。ただこれだけで解決です。つまり、受動〜能動。いろいろあるね。とても微妙な機微に見えるかしれませんが、明確に、その認識だけで、これを区別する必要があるわけではないと了解します。
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No.4970 - 2015/09/12(Sat) 09:09:38 |
| ☆ Re: この思考に、決定権は、 / ubik0101 | | | このことを説明すれば。気がつかないままに、静かな受動と、騒がしい能動、の対比にあった。そうでありながらそうと気がつかなかくてそうだった、に気がついたということは、その気がつかないに囚われない、ということです。
それは、この日常、受動〜能動〜受動、そのように万遍なく見えたり聞いたり、働いたり、思考したり、怒ったりしてる、その自分は見えない、その見えなさにあって、そうです。なにか特定の自己制御、状態、境地ではなく、その万遍なさにあって、自分は、自然に透明。
ならば何であれ常に自分に展開されることで、それから外れることはない、です。世界は自分であろうと、なかろうと、平穏であろうと、騒がしかろうと、悟ろうと迷おうと、ないでもあるでも、どうあっても自分。そのなんであるか知らない自分。世界。その、知らない、日常。
ついでに、ここで、もっと簡単なこと。たとえば先輩とか、近所の人とか、家族とか・・・ほかの誰かを自分の正当化のために、批判したり、非難したりしなければ・・・優しくあれば・・・悩んだり、苦しんだりしない、です。これは真理と言えるほど、確かなことです。
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No.4971 - 2015/09/14(Mon) 09:30:22 |
| ☆ Re: この思考に、決定権は、 / ubik0101&hato | | | スズムシさん、マツムシさんが全開です。夜半はめっきり涼しくなりました。今年もマツムシの愛らしい、チンチロリン,の音、スズムシの、文字通り鈴音のような美しい響きに、すっかり共振して聞き入ります。夏の終わりは、肌寒さがもの悲しいけれど、虫たちの声が音楽です。
同僚から、初生みたまごを頂きました。初めて見ましたが、なんてきれい。白いほうは双子さんだそうで、見てわかるのですって。なるほど。
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No.4972 - 2015/09/15(Tue) 23:37:16 |
| ☆ Re: この思考に、決定権は、 / ubik0101&hato | | | もう一枚。
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No.4973 - 2015/09/15(Tue) 23:40:59 |
| ☆ Re: この思考に、決定権は、 / ubik0101 | | | こんなことにも、いくらでも反対意見や、ほかの意見は提出できます。誰かを嘲り侮る総ての人が、苦痛を感じるのか?それで威張ってる人もいるではないか?とか。そんな空想より、あなたが、私が、どうであるか?だけです。
どこかのサイトで、愚か者は笑いながら地獄に堕ちる、とありました。泣きながらでも、堕ちる地獄は地獄でしょう。それは、ここにある、どこにある、ということではありません。この日常で、自分で地獄をつくって、そこに転がり堕ちるのです。
そんな必要はありません。何かをするとかしないとかに関らず、幸せ感は胸に働き、それは意識ではありません。おそらく思考でどうしようとしても、それを働かせることはできないかもしれませんが、それは働きます。
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No.4974 - 2015/09/16(Wed) 16:17:47 |
| ☆ Re: この思考に、決定権は、 / ubik0101 | | | もしあなたが、誰かが、これは絶対に確実な事実、真理、ということを了解したとします。たとえば真我、世界の総活動、実在、何でもいいですが、その真理に尋ねてみましょう。たとえば、いまここ、叡智、自分はない、空、に聞いてみましょう。なぜ、これは、これ?
それが真理なら、これが、これ、である理由など、これ、は完全に知らないのです。もしかして何か言葉の説明はできることがあるかもしれませんが、それについて、なぜ、それは、それ?・・・あえて説明すればですが、知らない、ということは、真理にあるということです。
こんな簡単なことが、ほかにあるでしょうか。感情であれ、思考であれ、バッハであれ、花であれ、森であれ、畝を耕し種を蒔くことであれ・・・なにかを知ってるのではなく、なにも知らない・・・日常とは、このようなことです。ここにあって自分は、世界は透明です。
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No.4975 - 2015/09/17(Thu) 06:28:43 |
| ☆ Re: この思考に、決定権は、 / ubik0101 | | | なにも知らない、とは。その説明は・・・これ、が、これ、のほかに何の根拠もない、これ、ということです。ではなくて、なにかが、そのなにかの他に根拠、理由などがあるなら、それ、は、それ、では、ない、ということです。この簡単なこと、ただ、これ、が、これ・・・これが、なにも知らない、ということです。
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No.4976 - 2015/09/17(Thu) 09:05:39 |
| ☆ Re: この思考に、決定権は、 / ubik0101 | | | もっと解りやすくは・・・真我は、なぜ、真我?縁起は、なぜ、縁起、叡智は,なぜ、叡智?自分はないは、なぜ、自分はない?花は、なぜ、花?もし、それの根拠、理由、由来を、なにか(ほか)に見いだすなら人は、それを知ってる、と呼びます。
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No.4977 - 2015/09/17(Thu) 14:22:53 |
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