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ノートに向かって、 / ubik0101
この自分を探るということは、この自分が過去の自分を探る、なりたい自分を探る、ということではありません。この今の自分・・・という意識さえないのですが・・・それがそれを開示していく・・・ノートに向かって実況生中継ということです。

そして思考の奥を探る場合は、ポーズボタンを押して小出しにして、そこを言葉で見ながら、書くのと同じ速度に思考の速度を緩めながら書く、ということです。つまり思考はコントロールできるのです。ふつう人が文章を書いてる時は、そうしてるのではないでしょうか。

そして探求そのことは、たとえば熱帯雨林に掻き分け入って、実は何を探してるのか、知らないで探してるのです。たとえば、ほんとうの自分?悟り?総てはひとつ?無我?いまここ?そんなこと、そんな目標があるなら、探求と言えるとは思えません。

求めてる、その何を知らないで、求める。求めるというなら、そのように求める。何を探してるのか分からないのに探すのは不可能とか、無理、と感じるなら、もうそこで、アウトです。たとえば自分で自分を捜すのに、目標を設定できるのは変です。

No.4953 - 2015/09/02(Wed) 19:21:11

Re: ノートに向かって、 / hato

まだノースリーブが着れるくらい、雨が降っても蒸し暑い初秋夜半です。晩ご飯のあとは、2人が気に入りの机にそれぞれ向かい、それぞれのことをします。

すこし前に、よく行くスーパーで見つけた、あかしあ蜂蜜。ちょっと奮発ものでしたが、買ってみてとてもよかった。紅茶を入れて、はちみつにさっと浸したスプーンを溶かして飲みます。朝、仕事の前と、今日はubik0101さんが紅茶がいいというので、虫たちのいい声を聴きながら、飲みました。はちみつはごく少量で、お茶がやさしい味に。

No.4954 - 2015/09/03(Thu) 22:21:51

Re: ノートに向かって、 / ubik0101
たとえば真理が真理を、自分が自分に目標を立てて探るというのは、変なのです。どんな目標も立て得ない探ること、その全体の働きに、たとえば私は何?と(結果として)名前をつけるのです。人間関係の心理的な思考は、そのような探求の扉、までのことです。

その扉を閉じたままにするのも自分でしかありません。もし過去の自分が、相手がどうだったか?とか人間関係を探っても、おおむねそれは空想です。この自分が、こう、であることを、こう、と思考すること。そんな探求が、扉を開けて、探求を導きます。

もしなにも考える、探ることがないなら、なにも考えることがない、これはなぜ?から始めれば・・・ここから自分の無意識を探ろう、という多少の決意を要しましたが・・・そこから自分の足下を掘ることが始まったりします。

そうならば、なにを見ても、見なくても、なにを考えても、考えなくても、何かをしても、しなくても探求です。いつも言いますが、ときに探求は詩となり、ときに絵となり・・・それは、どんなことでも、私は何?であり、迷ったり、見当はずれはできないのです。

No.4955 - 2015/09/04(Fri) 11:15:44
力・・・世界の力・・・人の底力。 / ubik0101
ある時アメリカのケネディ大統領に記者が質問した、

「○年○月○日に生まれた若者は、
ベトナムに行くのに、
一日違いの生まれで行かないのは不平等ではないか?」

ケネディは即座に答えた

「人生はもともと不平等だ」、

この答えに記者は反論できなかった。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13107681958

ずっとずっと前に11PMだったかな?TVの深夜番組で聞いた話ですが、ネットでも見つかりました。

No.4935 - 2015/08/27(Thu) 10:05:29

Re: 力・・・世界の力・・・人の底力。 / ubik0101
なんでもいいですが、誰かから不平等、不公平に扱われるとします。そうする相手を責める、恨む、嫌う、気落ちする、自分の評価を変えたい、葛藤する、ことはあるでしょう。そしてその前提になってる平等、公平とは何?と探るとします。

たとえば経済で言えば、老若男女の差別なしに収入があるのが平等、公平さだろうか?それとも、社長と新入社員、能力分担責任に応じて、収入が違うというのが、平等、公平さだろうか?また、そいうことが金額で計れるのだろうか?

また人間関係で言えば、誰かに挨拶するとかしないとか、席順とか、貧富とか、年齢とか・・・いろいろ思考できるでしょうが、平等、公平さが定義できるでしょうか?

No.4936 - 2015/08/27(Thu) 10:06:40

Re: 力・・・世界の力・・・人の底力。 / ubik0101
そのなにか解らないとしても・・・公平・・・それを誰かに求めるのではなく、不公平である何かを非難するのではなく・・・そう非難してる自分が便宜を図られたいとかの不公平を望んでるかもしれず、

それなら滑稽で馬鹿馬鹿しい・・・そんなことではなく、まさに自分が、公平、であろうとすること。それが人の力、底力です。それは日常生活で、育ち成長します。

また正直であろうとすること、分け隔てなくあろうとすること。善であろうとすること。優しくあろうとすること。正しくあろうとすること。もしかして、そのようなことは、

すでに思考の前提にされていて、その前提には思考は届かず、思考によって、定義ができないかもしれません。どう思考してもまた他の前提ができてる・・・どう言っても誤りかもしれません。

No.4937 - 2015/08/27(Thu) 10:07:53

Re: 力・・・世界の力・・・人の底力。 / ubik0101
そのなにか解らないこと・・・しかし、しかし、それにしても、自分は、そう、であろうとすること・・・、たとえば平等、公平で、正直で、善で、あろうとすること・・・それは世界の力、人の底力を呼び起こすことです。

たとえば不平等を起こす、そんな戦争を起こさなければいいのです。それには戦争を起こすより力が要ります。辛いなら葛藤を起こさなければいいのです。それには葛藤を起こすより力が要ります。でないなら、それは楽を取ろうとして苦を掴んでるのです。

そうと認識されなくても・・・あまりにも、そう、であって、そう、と認識されないでも働く探求の力。それは不平等、平等や、戦争、平和や、葛藤、平穏に、何も力を使わない、とも言えます。

No.4938 - 2015/08/27(Thu) 10:09:42

Re: 力・・・世界の力・・・人の底力。 / hato

この一週間ほど、夕方からすっかり虫の声は秋の声に移り変わりました。カエルもよく見かけるし、一緒に鳴いてるのですが、鈴虫やコオロギのいい響きに、すっかり気分は秋心地。

なにしろ、さまざまなことで忙殺されたここ半年でしたが、まだまだ、人生この妙味。ひとつひとつを噛みしめるように味わい、見ています。

ここでは久々の、ノンノンです。マイペースで、ちょっと癇癪もちのおきゃんきゃん。美人さんです。いちご泥棒の生地の上で、上機嫌で遊んでいるところ。

No.4939 - 2015/08/27(Thu) 22:25:55

Re: 力・・・世界の力・・・人の底力。 / hato

チュチュ,チュリル。

なんて賢いのかと、いつも思います。元気でやんちゃだったルンルンとは、同じ♂でも違うのね。鳥にもそれぞれ性格があって、おもしろいですね。

No.4940 - 2015/08/27(Thu) 22:30:27

Re: 力・・・世界の力・・・人の底力。 / ubik0101
も、ひとつには。たとえば誰かから、馬鹿にされたとします。蔑ろにされたとします。とんでもなく理不尽な扱いを受けたとします。悲しい寂しいなら、たとえば友人に助けを求めたりしないで、それを発散させることをしないで、どうしてただ1人それを受け止めないのだろう。

その屈辱に自分がなりきれば、それは花のように咲き、消えて行くとか・・・なぜ、その結果を求めるのだろう。なぜ、それがない状態、屈辱の見返りを求めるのだろう。屈辱は好機などと言わず・・・辛い,悲しい、無様。どうしてそれを抱きしめ、背負わないのだろう。

このことが何かの役に立つからではなく、誰のためでなく、自分のためでなく、明日のためでなく、たとえば底力をつけるためではなく、背を向けず、ただその悲しい空気を呼吸するように・・・原発事故の放射能を浴びるように・・・その屈辱に、寂しさに、汚染されないのだろう。

No.4941 - 2015/08/29(Sat) 08:46:39

Re: 力・・・世界の力・・・人の底力。 / ubik0101
hatoさんが夜、車で帰って来て、タイヤが玄関先の砂利を踏む音がすると、ノンノンは、小桜インコが嬉しいときする、チッ、チッ、チッと、優しく舌うちします。帰って来たのがわかるのは凄いと思います。

またhatoさんの休日、遊んで、遊んで、と騒がしく鳴きます。それでhatoさんは、出掛けてくるよー。と言って、玄関のドアを開けて、閉める音を出します。

そしてそっと、鳥籠の置いてない部屋に戻ります。するとノンノンは、そっか出掛けたのかー。と静かになります。鳥を騙すのも凄いけど、騙されるのも、もっと凄いかもしれません。

チュリルはふだんから静かなので、分かりませんが、たぶん分かってて、黙ってるのかもしれません。2羽とも、わざと人の頭スレスレに、また小刻みに方向転換しながら、野球アニメの魔球のような飛び方をします。

No.4942 - 2015/08/30(Sun) 08:51:14

Re: 力・・・世界の力・・・人の底力。 / ?
> も、ひとつには。たとえば誰かから、馬鹿にされたとします。蔑ろにされたとします。とんでもなく理不尽な扱いを受けたとします。悲しい寂しいなら、たとえば友人に助けを求めたりしないで、それを発散させることをしないで、どうしてただ1人それを受け止めないのだろう。

今、その、状況です。
そこから逃げも隠れもせずにいます。
誰にも助けは求めていません。
誰も責めてはいません。


> その屈辱に自分がなりきれば、それは花のように咲き、消えて行くとか・・・なぜ、その結果を求めるのだろう。なぜ、それがない状態、屈辱の見返りを求めるのだろう。屈辱は好機などと言わず・・・辛い,悲しい、無様。どうしてそれを抱きしめ、背負わないのだろう。

?それをしていても辛いだけです。
苦しくて悲しくて辛くて震える思いで存在しています。


> このことが何かの役に立つからではなく、誰のためでなく、自分のためでなく、明日のためでなく、たとえば底力をつけるためではなく、背を向けず、ただその悲しい空気を呼吸するように・・・原発事故の放射能を浴びるように・・・その屈辱に、寂しさに、汚染されないのだろう。

その意味がわかりません。
どういうことですか?

No.4943 - 2015/08/30(Sun) 22:38:26

Re: 力・・・世界の力・・・人の底力。 / ubik0101&hato
> その意味がわかりません。
> どういうことですか?


?さん、はじめまして。

なんであれ、自分の状態、たとえば辛い悲しいことを、なにか他の理由と結びつけない、ということです。

たとえば辛い悲しいから、憂さ晴らししようとか、そこから逃げようとか、自分を慰めようとか、自暴自棄とか、辛い悲しいに浸ろう、とは、しない。ということです。

いま思えばですが、そうしようとしてしたわけではないのですが、自分でそんなことがよく、できたもんだと思います。

ubik0101

ああ!それがどんなに過酷な圧か!どうしてそうなんだろう!なぜ、そうでなければならないのだろう!でも、でも、それはそうして、生きられる。としか、言えません。

hato

No.4944 - 2015/08/30(Sun) 23:49:59

Re: 力・・・世界の力・・・人の底力。 / ?
> なんであれ、自分の状態、たとえば辛い悲しいことを、なにか他の理由と結びつけない、ということです。

そうなっている原因?を反省しています。
理不尽なこともありますが。

> たとえば辛い悲しいから、憂さ晴らししようとか、そこから逃げようとか、自分を慰めようとか、自暴自棄とか、

それはするつもりはないのです。

辛い悲しいに浸ろう、とは、しない。ということで

浸るつもりはないのですが、無気力です。ずっとこうなのかと思うと、
何故自分だけこうなのか、ここから出たいと思ってしまいます。
それは自然なことではないですか?
それさえも未熟ゆえ?

> ああ!それがどんなに過酷な圧か!どうしてそうなんだろう!なぜ、そうでなければならないのだろう!でも、でも、それはそうして、生きられる。としか、言えません。
>
> hato


辛いまま生きるのだということですか?
甘んじて生きるのみ?

それが覚醒?


No.4945 - 2015/08/31(Mon) 06:29:39

Re: 力・・・世界の力・・・人の底力。 / ubik0101
たぶん、辛い悲しい、その原因?を反省するということは・・・辛い悲しいという今の結果と、なにか過去の原因を結びつけることで。ずっとこうなのか、何故自分だけこうなのか、ここから出たい、ということも・・・まずは架空の因果の思考の範疇にあるかもしれません。

自分は、ノートに自分の思ったことの、その奥を探って書いていました。会社から帰って、いったん眠って、夜中に起きて2〜3時間。毎日。約20年間。すでに自分の中心を知りたいという動機も忘れて、です。

そのことで辛い人間関係にかかわり合う、そんな問題は、捨ててた。また通過してたのかもしれません。たとえば会社で誰かに蔑まれても、その場にいる同僚、先輩,後輩に対して、恥ずかしい、とも思いもしなかった。でもその場で、辛いことは辛い。

そして、なにか体験が起きるとか、まったく知りもしなかった。こんなことを探求と呼ぶとして、たとえば思考の奥、その奥を探るこの全体は、染み付いてる架空の因果の思考を、結果的に解消することとしても機能する、ということなのでしょう。

もしかしてですが、熱い風呂に入るまでは面倒なように、楽しいデートも行くまでは、おっくうに感じることがあるように。無気力というのは、のめり込むほどには、まだ自分の奥を探求してない、その信号かもしれません。

hatoさんは仕事で外出しています。

No.4946 - 2015/08/31(Mon) 11:27:54

Re: 力・・・世界の力・・・人の底力。 / ?
何度もお返事ありがとうございます。

> たぶん、辛い悲しい、その原因?を反省するということは・・・辛い悲しいという今の結果と、なにか過去の原因を結びつけることで。ずっとこうなのか、何故自分だけこうなのか、ここから出たい、ということも・・・まずは架空の因果の思考の範疇にあるかもしれません。

そうですね。
記憶から答えを出そうとしています。

>
> 自分は、ノートに自分の思ったことの、その奥を探って書いていました。会社から帰って、いったん眠って、夜中に起きて2〜3時間。毎日。約20年間。すでに自分の中心を知りたいという動機も忘れて、です。


私も書き出しています。
そう思う感情の背景にはどんな観念があるのかとかですけど、、、

>
> そのことで辛い人間関係にかかわり合う、そんな問題は、捨ててた。また通過してたのかもしれません。たとえば会社で誰かに蔑まれても、その場にいる同僚、先輩,後輩に対して、恥ずかしい、とも思いもしなかった。でもその場で、辛いことは辛い。
>
> そして、なにか体験が起きるとか、まったく知りもしなかった。こんなことを探求と呼ぶとして、たとえば思考の奥、その奥を探るこの全体は、染み付いてる架空の因果の思考を、結果的に解消することとしても機能する、ということなのでしょう。
>
> もしかしてですが、熱い風呂に入るまでは面倒なように、楽しいデートも行くまでは、おっくうに感じることがあるように。無気力というのは、のめり込むほどには、まだ自分の奥を探求してない、その信号かもしれません。
>

そうなのでしょうか?
それは、まだその思考の原因?根っこをつかんでいないということなのでしょうか?
それとも私は的外れなことをしているのか?

悲しんでいるのも、苦しんでいるのも、本来の私でなく自我だということは、わかります。
でも本当に苦しい。

> hatoさんは仕事で外出しています。

何度もお付き合いいただいてありがとうございます。

No.4947 - 2015/08/31(Mon) 12:41:38

Re: 力・・・世界の力・・・人の底力。 / ubik0101
これが思考の原因、根っこ、というのはないと思います。ただ探るということは。何かを食べると見えなくなるけど、それは消化されて血肉になったから、見えなくなった。理解するということは得ることより、失うことに似てる。

なにを考えるかより、そういう経緯の理解も、大事なのではないかと思います。それに探求が探求を導くので、どこから初めても的外れになることはない、と思います。

あるいは、昔のロシアには朝から永久凍土を掘って、夕方には埋め戻させられる、というなんの意味も希望も目的も無いゆえに過酷な刑罰があったそうです。それでも、それは、そうと意図しないでも、腕に、全身に、脱獄の力がつく。

自分の思考の奥を探るということは。なんか包み、固まりがあって、それを言葉で見て、解きほぐしていく、感じです。ふつうはどうしても思考の速度に、書く速度が追いつきません。

でも、丁寧に正確に探るそこでは、思考の速度を遅くしてる。そいうことも、思考に巻き込まれないために有効かな、と思っています。それに書いたら、もう読み返さなくても、忘れてられる。くり返さないですむ、という利点もあります。

たぶん、ほんとうに苦しいということが、探求の原動力かもしれません。熱帯雨林を掻き分け入るようなことで・・・あてのない絶望のなかで、絶望と気がつかないほど絶望してる。苦しいと気がつかないほど苦しい、でも・・・探求は、楽しいと言っていいほど、興味が湧くことだと思います。

そいえば。ほかの人のことは知りませんが、自分にとって時期として最終的な問題は、絶対不自由でした。なにをしても、つまり話しても、走っても、笑っても、それは自分が話せるように、走れるように、笑えるようにできてるから、できる。

たとえば機関車が、俺は自由だ。と言って野山を走っても、足下を見ると、レールがあった。どうやっても不自由だ。どうすればいい?それと、あなた自身を愛すように、あなたの隣人を愛しなさい。聖書の言葉ですが、これが大事な問いになりました。

それから、会社でどんな嫌な目に会っても、会社から一歩でると、ころっと忘れる。貯金もないのに、会社を辞めても、全然平気。そんなところもありました。

おなじようなことしてる?さんの投稿に、
つい長文になりました。

No.4948 - 2015/08/31(Mon) 14:19:34

Re: 力・・・世界の力・・・人の底力。 / ubik0101
見逃していました。

>悲しんでいるのも、苦しんでいるのも、本来の私でなく自我だということは、わかります。
>でも本当に苦しい。


ふつうは本来の私とか、自我とか、感じないです。ちょっと分からないのですが、すると、ほんとうの自分を見た、ということでしょうか。それならその体験を読み解けばすみます。

No.4949 - 2015/08/31(Mon) 16:30:38

Re: 力・・・世界の力・・・人の底力。 / hato

悲しい,はなんて本当に、悲しいのだろう。辛い,はどうしてこんなに、辛いのだろう。切ないはどうしてこんなに、切ないのだろう。身に刺さるような振動は一体なんだろう。そしてまた、嬉しい,もあるだろう。

むかしどこかで、「人生最良のパートナーとは、自分の持ってる音楽の総てを奏でてくれる人だ。」という言葉を読んだことがあります。なにかそのように、世界の出来事とはもしかすると、その悲しみ、あるいは喜び、またはとくにどうとも形容できない状態のなにか、または愛を、引き起こした、だけかも知れません。

もともとあったので、露わになっただけかも知れません。

それらはただ、引き起こされてあるもので、もしかすると現象その内容はほんとはどうでもいい、関係に起きたこと、それ自体の、あちらとこちらのあれこれに、意義や意味無意味を見つけようとしなくていい・・・それよりその悲しみを生きること・・かも知れません。

そして尚この人生、現象や出来事といわれることは、ずっと固定されてるわけではない、と思います。

今年の夏は庭に、タカサゴユリとテッポウユリがたくさん咲いていました。どこからか、種?がやってきたようです。

No.4950 - 2015/09/01(Tue) 00:40:56

Re: 力・・・世界の力・・・人の底力。 / ?
ubik0101さん hatoさん

お返事ありがとうございます。
私は少し鬱でしょうか。
年を取るごとに以前は平気だったことが、心に刺さるようになりました。

読解力も無いゆえ、お二人のお話は分かるようなわからないような、、、

まだその境地には程遠いのでしょう。

でも少しやる気がでてきました。
ありがとうございます。

お二人のご活躍楽しみにしています。

No.4951 - 2015/09/01(Tue) 21:36:36

Re: 力・・・世界の力・・・人の底力。 / ubik0101&hato
また、いつでも、話しましょう。
No.4952 - 2015/09/01(Tue) 23:32:00
ちょっと?復帰、復習 / ubik0101
ときに悟った人が誰かに、その前と後、なにが違いますか?と聞かれることがあるようです。なにも違わないよ。と返事するかもしれません。元の木阿弥、と返事するかもしれません。

ひとつには、たとえば窓から積乱雲が見える。しゃわしゃわと蝉時雨が聞こえる・・・そんなことにあって、そんな知覚の機能は・・・なにも変わらないよ。という意味です。と、いうことは、

すでに、自分で自分を知覚しようとする、いわゆる自我の騒がしい問題が解決されてるということです。そこで見える聞こえる触る味わう思考される、なぜ、これが、これ。それが不思議、という感覚です。

No.4919 - 2015/08/08(Sat) 07:42:02

Re: ちょっと?復帰、復習 / ubik0101
ほかの言い方では、自分は、ない、が確定してる。もうことさら知覚、行動、発言、思考が、そうする虚構の中心、自分を更につくる必要がなくなってる。そこで知覚、行動、発言、思考が無問題ということです。

まず自分があって、知覚、行動、発言、思考するのではありません。知覚、行動、発言、思考があると予め・・・あたかも時間線を遡って・・・その知覚、行動、発言、思考する自分をつくる。その必要がなくなってる、ということでもあります。

ではなく。まず自分があって、それが知覚、行動、発言、思考するということは、あまりに当然。厳とした理論、に束縛されその範疇での運動しかできないけど、それはその範疇で人は養われてる、守られてる、育てられてる、ということでもあります。

No.4920 - 2015/08/08(Sat) 07:43:09

Re: ちょっと?復帰、復習 / ubik0101
そして予めある自分は虚構であり、その立ち上がりから架空の時間に組み込まれてます。そこに野望や絶望、あーでもない、こーでもない、どーでもない、の虚構の騒がしい因果の思考がそれに沿って機能します。社会はそのことに好都合なフィールドです。

それで人が学ぶにあって、これ以上の環境は願ってもないかもしれません。なんでもいいですが、知覚、行動、発言、思考のその展開、その展開、に現を抜かすのではなく、その原因、その原因を、自分で探るだけで済みます。

この簡単なこと。あくまで喩えですが、なにかこの世界にもない素晴らしい宝を探し出そうとするなら、ほかのどこか遠くではない、自分の足下を掘ればいいだけです。ツールは言葉。すでにこの日常に、道は整えられています。

No.4921 - 2015/08/08(Sat) 07:44:27

Re: ちょっと?復帰、復習 / ubik0101
しかし何であれ、ない、ということを見るには、徹底的には、世界の総てを見なくては、でき得ません。ない、が、ない、を認識するためには、世界の総活動。ここでは縁起とか、中道、と呼ぶこともありますが、それが必要なようです。

この自分が、ない、ということは、架空の時間に依存しないということです。虚構の因果に振り回されない、ということです。ここにあって、そもそもの虚構の自分が立ち上がる原因にある問題、が解決されます。

しかし実に、自分が、ない、は諸悪の根源です。どうでしょう。自分で自分を自覚でき得ないから、人は悪事をなせるのではないでしょうか。そしてまた、自分が、ない、ゆえに諸善をなし得るのです。

No.4922 - 2015/08/08(Sat) 07:48:50

Re: ちょっと?復帰、復習 / ubik0101
この、ない、ゆえの決定的な違い、それは思考に掛からなくても、認識できなくても、事実として、そう、です。たとえ世界の総活動に、善悪はなくても、自分は、ない、ゆえにその転換?が可能です。

ところで思考だけが思考する人をつくるというのでは、思考とほかのこと、あるいは有害な思考、有益な思考、の分離があるかもしれません。それは、どのような仕組みで、思考によって自分がつくられるかが見えてはいないからです。

それは思考の、それ、が、それ、を、それ、と命名するという・・・これ、が、これ、を。ない、が、ない、を認識できないに囚われると・・・言葉の特異な機能に、まだ振り回されて、思考に依存しながら思考を嫌い、思考を問題視する傾向にあります。

No.4923 - 2015/08/08(Sat) 07:56:24

Re: ちょっと?復帰、復習 / ubik0101
これが、おおむね、世界は私、緯(よこいと)系の問題かもしれません。私は世界につくられてるので世界があるなら、ない、が輪廻するでしょう。では世界がなければ?まだ地球、宇宙の重力圏から脱してはいず、解脱とは言いがたいです。

またひとつには経(たていと)系、自分は、ある、があります。ここで一旦、自分はない、ということは、どいうことか探ってみましょう。ない、とは、それ自身が、それ自身を知覚できない、ということでもあります。

たとえ私が神《私は在る》でも、悪魔でも、天使でも、人でも、電気スタンドでも、世界でも、私は私を知覚できず、ない、です。つまり、知覚によればですが、在るでも、無いでも、在るでもなくても、無いでもなくても、私は。ない、です。

No.4924 - 2015/08/08(Sat) 08:00:22

Re: ちょっと?復帰、復習 / hato

なんて熱い、暑い、今日この頃でしょう。けれど、昨日の朝はその前の朝と違い、すこしだけ、暑さがしずかだったのです。すっかりの盛夏に、秋の気配がそっと来てる。そんな感じです。

世界はなかなか難儀だけれど、つくづくよくできてる、と思う時があります。

机を買いました。大きな作業机が欲しかったのです。ubik0101さんがワトコオイルを塗り、7日間待って、使い始めました。

No.4925 - 2015/08/09(Sun) 00:25:07

Re: ちょっと?復帰、復習 / ubik0101
そんな、ない、自分は捕まえることも、把握することもできず、まったく自覚不可能。見ても聞いても触っても思考しても、泣いても、笑っても、ない。です。その、ない、も忘れる。説明すれば、傷つき、不完全であっても、それゆえ完璧。

たぶん、見る聞くなどの知覚は受動だと思われます。それで受動だと無問題、という意見もあるかもしれません。たとえば静かさは受動だと見なされるかもしれません。そこで、思考は、受動でも能動でもあり、たとえば怒りは能動に思われます。

この受動であれ、能動であれ、どちらでもあれ、なんの問題があるでしょう。なにかしか良しとしないのは、それはある意味、偏りです。中道。どれにも自分はつくられない、つくられても無問題。で解決です。

No.4926 - 2015/08/09(Sun) 15:52:15

Re: ちょっと?復帰、復習 / ubik0101
その大きな机の下の、hatoさんがつくった、と言うか、ただの段ボール箱の本棚。この家にある書はこれだけで、読むこともほとんどありません。
No.4927 - 2015/08/10(Mon) 10:57:15

Re: ちょっと?復帰、復習 / ubik0101
なんでもいいのですが、土地に、文化に、言葉に、学歴に、過去に、権力、お金、思考に執着する人がいるとします。それはその自分が、土地、文化、言葉、学歴、過去、権力、お金、思考によってつくられてるということです。

まったき乳飲み子が母親に依存するように、世界あるいはその断片?構成要素が自分のつくり主なら、それに依存せざるを得ない、ということです。倒錯とも、顛倒とも呼ばれます。

また、たとえば自動車が自分をつくってる。山が自分をつくってる。木が花が、ほかの誰かが、行動が、言葉が、思考が自分をつくってる。それで、それ、世界が、自分というのは当たり前なのです。

No.4928 - 2015/08/11(Tue) 12:42:44

Re: ちょっと?復帰、復習 / ubik0101
ちょっと実験してみましょう。いま部屋の中にいます。ただ眺めてください。そうです。空間が自分なのです。部屋一杯自分です。これは空間は、自分との差が認識できないから、と睨んでいます。

つまり知覚、時計や、蛍光灯、机、それらが知覚でき得るのは・・・知覚とは差の認識・・・だから、なにかの物は、自動的に自分ではない、に振り分けられるだけではないでしょうか。

しかし、そして時計や、蛍光灯、机などの物、それは自分をつくってる。つまり差の認識できないこと空間と、できること物と、これは共に、知覚にとってですが、自分です。

No.4929 - 2015/08/11(Tue) 12:43:59

Re: ちょっと?復帰、復習 / ubik0101
たとえば思考が問題だ、と言うのは、思考が未開発、不活性、未整備で、その思考につくられてる自分が、思考への依存度が高い、つまり思考が不完全なゆえに(それを完成するために)自分がつくられるということかもしれません。

おおむね差障りのあることに人は依存するのです。パズルは未完成なら人を魅了します。完成すると放置。たとえば土地、文化、言葉、学歴、過去、権力、お金、思考、発言、行動は不完全。それらは変化し、絶対ではなく、知覚され得る、ことです。

それらは完全ではなく、自分をつくります。しかし、なんでもいいですが、たとえば思考が適切に機能するなら、無意識、無思考もそれが滞り無く機能するなら、それに人は依存しない、それに使われるのではなく、それを使うと言えます。

No.4930 - 2015/08/12(Wed) 08:23:58

Re: ちょっと?復帰、復習 / ubik0101
もし重い物を落としても足を守る・・・爪先にプラスチックの板が入ってる・・・安全靴を買いました。庭作業に便利で、安価。普通にスニーカーとしても使え、約1200円です。以前買った時は約1000円でした。
No.4931 - 2015/08/16(Sun) 10:13:34

Re: ちょっと?復帰、復習 / ubik0101
たとえば過去や未来、人間関係に悩んでるとします。それは、それが、思い通りではない、不満、不安・・・という意味で、不完全・・・で葛藤が起きてる。それは不完全さに愚かさが執着してるのです。なので自我の死とも言えますが、自我の完成が問題の解決です。

また、たとえば順風満帆であれば、ふつうの日常であれば、なんの執着することがあるでしょう。それが、もっと順調なようにと、あるいは好調が失われないようにと、執着すれば、そのことが不完全。それにつくられた自分は、苦痛でしょう。

それにまつわる、過去とか未来とか人間関係。その思考のタガが外れて、知覚、行動、言葉が万遍なく機能したら・・・それが真理でなくても・・・世界は私・・・が扉で、解脱するということはあり得ないとは言えないと思います。

No.4932 - 2015/08/16(Sun) 18:21:38

Re: ちょっと?復帰、復習 / ubik0101
そ−いえば子供の頃、怪我をすると、なぜ痛いのだろうと不思議に思っていました。たとえばシャツの汚れ、障子の穴、ダイヤモンドの傷、青葉の中の枯葉、葛藤、思考がそこに焦点を当てやすい、というだけで、それは思考の問題ではありません。

と、あーでもある、こーでもある、どーでもあるの心理的な表現、説明が続けられます。緯(よこいと)系では、これが問題ということもあります。経(たていと)系では、私は、ある。愛の源、実在の直系。これで総てです。そして日常とは、経と緯、の交点です。

この日常。なにもかもが解決したのに、見えたり聞こえたりしてる、この不思議。神秘。ただの人は、それをも捨てる。ない。ある、も捨てる。完全な自分は透明で自覚できない、も捨てる、経と緯も捨てる。捨てることにも、依存できない。それが日常です。

No.4933 - 2015/08/18(Tue) 21:18:49

Re: ちょっと?復帰、復習 / ubik0101
つまり元の木阿弥も捨てる。でも、捨てると言うと、意図的な姿勢に見えるかもしれませんが、実際は、捨てることも起こってもない、とくになにもない日常ということです。なんか問題があるとして、見える聞こえる思考されることでは、どうしても解決しません。なぜなら、すでに解決されてるからです。

ひとつには、この人の日常、泣いたり笑ったり怒ったり、それが真理?となにも違わない、ということです。なんだかイメージとしては、悟ってしまうと静かでいると空想されますが、それは空想です。ただ悩みとか苦痛の状態になるのは、超困難です。

ひとつには、人は平等だということ、つまり悟りも迷いも人の状態であり、その悟りと迷いの区別を失い、大事は、それを自覚出来得ない人そのこと。これが真理。しかしそれも捨てる。ということも始まるでない、この日常です。

No.4934 - 2015/08/18(Tue) 21:20:32
(No Subject) / ubik0101
それで、結局は、いったい何が問題?たとえば思考が問題だ。感情が問題だ。分離が問題だ。投影が問題だ。因果が問題だ。過去,未来が問題だ。欲望が問題だ。不公平が問題だ。嘘が問題だ。争いが問題だ。問題が問題だ。

いろいろ言われるでしょう。それはもしかして問題がないという意味で解決された日常から見て、いくつかの問題の例として説明されたりすることで。そもそも問題の核心が解決されてからの、さまざまの説明かもしれません。

なにか核心?その人?が解決されてれば、思考。感情。分離。投影。因果。欲望。不公平。好き嫌い、嘘、争い・・・などの個別なことは、それが解決されたと意識認識できないでも、また意識認識するまでもなく、解決されてる、それを探り説明するということでもあります。

No.4914 - 2015/06/04(Thu) 15:50:24

Re: / ubik0101
ここは微妙ですが、それで、なにかそのような思考などの個別のことは。それが解決されれば総てが解決するような、問題の根源、なのでしょうか?もしかして思考の問題を解決したら、分離とか、投影とか、因果とか・・・修行法?だとしても・・・総てが解決されるよな、問題の根源ではないかもしれません。

くり返しますが、その総ての根源が解決されるので、なにか個別のことが原因として説明され得る。その思考。感情。分離。投影。因果。欲望。不公平。好き嫌い、日常・・・でもそれは、何も問題でないのに、問題だということにして、問題をつくって説明するということもあるでしょう。

でも、もしかして、思考。感情。分離。投影。因果。欲望。不公平。好き嫌い、日常、争い・・・何もかもが問題なのかもしれません。つまり、なにも問題ないかもしれないし、なにもかも問題なのかもしれません。では一体、これはどういうことなのでしょう。

No.4915 - 2015/06/04(Thu) 15:51:58

Re: / ubik0101
なにかほかのことを問題と感じてしまう。なにか問題だ、と言う、その自分は自分で見えないから度外視されてしまってる。実はそれが問題、ということもあるでしょう。つまり問題と、見えない自分、ない自分、を切り離して解決、とするわけにはいきません。

たとえば投影は問題だ、と言う人は、いるかいないか解らない誰か空想の誰かをつくって、そんなことを言う・・・つまり投影してる・・・ということもあるでしょう。それは投影は問題だということを投影において主張することで、投影は、役にたってはいるのです。

あれこれ探ると、なんだか複雑で、一筋縄ではいかない、思考。感情。分離。投影。因果。欲望。不公平。好き嫌い、日常、争いなども、功罪両面が見えると、功罪の判断そのことが、判断する立場が成立しなくなります。

そして問題が起こらないこれは、ある時そうなったともいえるのですが、もともとそうだった、とも感じます。が、そう考えることは解釈で、すでに問題なくこうであるのだから、あるときそうなっても、もともとでも、どうでもいいと言えます。

ララベリーの実です。

No.4916 - 2015/06/04(Thu) 15:53:57

Re: / ubik0101
そこで、その自分は何か?が大事なんだ、とするとしても、それもまた個別の項目になるなら・・・また自分で自分を知覚できず、個別のことでは自分は思考できない・・・にっちもさっちもいかない、です。

それで。思考。感情。分離。投影。因果。欲望。不公平。好き嫌い、日常、争いの、ある、ことに依存することはあるでしょう。それの、ない、ことに依存するということもあります。ここで思うのですが、なにかに依存したり、しなかったり・・・してるなにか自分は、まったく自分で自覚でき得ません。

たとえば思考。感情。分離。投影。因果。欲望。不公平。好き嫌い、日常、争い・・・生に囚われ、死に囚われ、生に囚われず、死に囚われない・・・この、それらと関りながら関らず、とくにそれらと同じとも、別のなにかとも言えない・・・まったく自覚され得ない、あるともないとも言えない、これ、とも言えない。です。

No.4917 - 2015/06/04(Thu) 16:02:08
日常。?D / ubik0101
たとえば、思考が問題だ、とします。では、なぜ、そうでしょう?ひとつには自分は、ない、つまり自覚され得ません。そこで、ある・・・それが機能して知覚される・・・問題が・・・その苦痛である思考が原因、となるかもしれません。

たしかに、なにか思い悩んでるとします。イライラと重苦しく、あーでもない、こーでもない、どーでもない、してるとします。しかしふと、冷たい水を飲んでて、あっ。いま、その思考をしてなかったんだ。ということに気がつくことがあるかもしれません。

その思考のないときは、平穏だった。つまり思考が問題だ。それがなければ、無問題。たしかにそうです。しかーし、ほんとに自分が、ない、それが確認?、確立?する必要もなく確認?、確立?、されてるのなら、思考があろうが、なかろうが、問題ないです。

No.4897 - 2015/04/17(Fri) 11:30:00

Re: 日常。?D / ubik0101
つまり自分が、ない、がそれほど明確?でない状態では,思考の所為。おなじことですが、時間の所為、因果の所為、プロパガンダの所為、分離の所為、人類の集合無意識の所為・・・これはまだ、葛藤を外に見たりしています。

こっちは静か、どこか、あっちは騒がしい、中心は静か、どこか外は騒がしい・・・とか対比があるかもしれません。それはまだ、葛藤の範疇にあります。どこか外を空想しながら自分を守り、ある、そのことに気がつかないことに囚われてる範疇にあります。

と、こういうこの投稿は・・・まだ対比の範疇である・・・と見ると、無限退行になります。それは、一種の因果で、その見える範囲では限りなくくり返し続き、誤りを見いだせない、抜け出せない・・・意識され得ることの外は、意識され得てない、ということです。

No.4898 - 2015/04/17(Fri) 11:37:34

Re: 日常。?D / ubik0101
ここで自分は、ない。がそう思考されても、思考されなくても、問題でなければ、思考の所為、とはならない、と説明されます。つまり、こういうことです。自分が、ない、ということを、確認する必要もない、思考して確認しても。ない、という事態は変わらない・・・です。

そして自分が、ない、ということが、見てなくても、変わらない。ということです。あるでも、ないでも、あるでも、ないでもない、でも。それを見ても見なくても、変わらないし、変わってもとくに問題ではないです。

それは、あーだ、こーだ、どーだ、見える範疇、意識の外・・・そいうのをイメージしては困りますが・・・の解決です。これは最初からもなく、、いつもででもなく、いまでもなく、ここでもなく、すでにでもなく、表現としては、始まりもなく解決されてる。それだけのことです。

No.4899 - 2015/04/17(Fri) 11:43:08

Re: 日常。?D / ubik0101
もひとつには、思考が、それを思考する中心、その人をつくる、ということにあります。たとえば、なにか考えるとします。それは、私、が考えてるのではありません。逆です。なにか思考することが、私、をつくるのです。

それは、私、とは虚構だ、ということです。なんであれ、なにか思考するとします。それの正誤を判断するのも、その思考によってつくられた、私、です。すると、その思考の誤りを見つけることは困難、私の思考は正しい、となるしかないのです。

これを打破するには、この自分を傷つけることも厭わない公平さ、真摯さ、正確さ・・・損得、快不快、好き嫌い、に縛られない生き方・・・を要しました。それは人が社会、世間にあって、それに抵抗するだけではなくて、その底に沈んで、おおくを学べます。

No.4900 - 2015/04/21(Tue) 08:49:42

Re: 日常。?D / ubik0101
なぜかは知りませんが、世界はそうして、虚構の私、つまり虚構の、ない、を育て、それが虚構であると開示して、ある、それゆえ、ない、人を育てるようです。ところで、虚構の私、をつくるのは、思考だけではありません。

それは行動、発言、思考《言葉》・・・人の生活の総てです。それを思考だけの所為にするのは、なんだか理由があるのでしょうか?おそらく言葉は、時間、個人、真実、嘘、などに制約されず、あまりにメタであり、そのことに振り回されるからでは?と睨んでいます。

ありもしない空想を現実のように思考し・・・あっ、3つ先の交差点の信号が黄色だ。どうしよう?4つ先の交差点で女の子が転んだらどうしよう?5つ先の交差点で・・・あり得ることと、あることと、嘘と真実の区別をする機能が装備されてないために、自在である思考。

No.4901 - 2015/04/21(Tue) 08:51:13

Re: 日常。?D / ubik0101
ララベリー(桑)の、まだ小さいツボミです。実がなって熟すと赤黒く甘くなりますが、去年は、ほとんどヒヨドリに食べられてしまいました。ユスラウメも、グミも、100円ショップで、防鳥ネット、が必要かもしれません。
No.4902 - 2015/04/21(Tue) 16:35:36

Re: 日常。?D / ubik0101
やはり思考が問題だ。いや、思考は無問題だ。というのも、どちらも思考です。ここで対比するなら、問題、無問題、どちらかに偏って、その人の有り様を表示できるのが思考です。

もしかして、思考は問題だ、という人は、その思考は問題だ。という思考につくられてる、つまり、思考に依存してる、その行動、言葉、思考が、思考に使われてる、かもしれません。

そして逆に、思考は無問題、という人は、その思考に使われてる、その思考に、つくられてる、その思考に依存してる、ゆえにその思考を正しいと見なすしかない状態、かもしれません。

No.4903 - 2015/05/04(Mon) 10:17:57

Re: 日常。?D / ubik0101
それで結局、思考によっては判断できず、その人がどうあるか、ということに帰着します・・・と、いうことも思考です。そんな思考は、問題、無問題もない、なんでもない、ニュートラルに機能しています。

つまり、こいうことです。思考が万遍なく機能するなら、その偏りを自ら解消します。それは思考することと、しないことと、そのことによって変わらない事態、ということです。雨が降っています。思考しても、しなくても、その事態は変わりません。

また思考は対象であり、知覚されることだ、ということです。それ、のことは思考できても、これ、のことは思考のしようがないけど。これ、に名前をつけることができます。たとえば、ただの人。日常。春夏秋冬。喜怒哀楽。シュレーゲル青蛙が鳴いています、と。

ここで、ひとつながりも、分離も、とくに真理とか、反真理とかではありません。ただそんな人の状態があるというだけです。言うならば、真理とは、自分で自分を知覚でき得ない、ふつうの人そのことです。

No.4904 - 2015/05/04(Mon) 10:22:39

Re: 日常。?D / ubik0101
と、いうことも思考です。つまり思考は対象であり、知覚です。と、いうことも思考であり、それは、こういうことに、なんとも言えないことに、そいう名前をつけたのです。今朝は庭の半日陰に、とてもいい香り・・・山椒の苗・・・を植えました。

という名前を、それ、につけたのです。くり返しますが、なにがなんだかわからないこと、それに名前をつけて・・・青空が綺麗で風が気持ちいい庭、とか・・・それを、そう呼んでるだけです。と、なにかを、こう呼びました。それが思考。そいえば、しかし、どこかで、命名が問題。という意見を見たことがあります。

なにが何だかわからないことに名前をつけてるだけのことを、なにが問題なのか解りませんが・・・たとえば海で、それまで見たことがない、刺のある銀色の魚が釣れたとします。すると、これ何?と、ほかの釣り人に聞きます。

No.4905 - 2015/05/07(Thu) 13:27:42

Re: 日常。?D / ubik0101
そして、ギギ、という答えを聞くと。そーか、ギギか、というわけで、知り得ないことを、なにか知ってることと勘違いしてしまう・・・もしかしてそんなところにあるのかもしれません。

でも、知ってることなど何もないので、命名しようが、思考しようが、なにも問題になり得ないのです。命名が、なぜ命名なのか、思考がなぜ思考なのか、知ってることが何か、知らないことが何か、知らない、です。

つまり、命名や思考がなんであるか、知ってると仮定したら、それは問題はでてくるでしょう。たとえば、あっちは既知、こっちは未知という対比。に囚われて・・・それは命名が問題だという、その人のことです。でも、その対比も何であるか・・・それがなぜそれか・・・誰が知ってるというのでしょう。と、知覚。

No.4906 - 2015/05/07(Thu) 13:30:47

Re: 日常。?D / ubik0101
スイカの苗を畝ではなくて、庭に植えてみました。この地域では、強風から苗を守るために、たいがいの農家で、このように保護します。保温効果もあるかもしれません。
No.4907 - 2015/05/07(Thu) 13:35:21

Re: 日常。?D / hato

5月の連休もあっという間に過ぎたようです。恒例の夫婦いざらいも、はやめに済ませました。もう5回目?て驚きです。そんなになるかしらん。作業にもすっかり慣れました。

書類作りは佳境ですが、終わるのか終わらないのか?まだまだこれから正念場。頑張ってます。

気力に体調、あれやこれ、ままならずのことも多いですが、それでもなにかすることがあると、たいていのことは楽しんでできることが幸せです。

庭のラベンダーが盛況です。

No.4908 - 2015/05/07(Thu) 22:05:28

Re: 日常。?D / ubik0101
これは、ミニトマト《アイコ》の苗。数日前に植えたばかりなのに、もう目に見えて大きくなってきました。
No.4909 - 2015/05/11(Mon) 16:13:46

Re: 日常。?D / ubik0101
これは山椒の苗。桜の木の木漏れ日が差し込んでいるところです。アゲハの産卵を防ぐために目の細かいネットを被せています。
No.4910 - 2015/05/11(Mon) 16:17:10

Re: 日常。?D / ubik0101
そして思考は、それ自らに、思考、と。言葉は、それ自らに、言葉、と命名します。ここに言葉の特異性があるようです。つまり、それ自身が、それ自身を対象にでき得る。ただの人が、ただの人と。日常が、日常と、世界が、世界と。私が、私と、思考でき得ます。

しかし、その中心,内容は、まったく空白、空虚、ない、なにも話してないのと同じです。その視点は、個人としての誰かに対応する特定の誰かではありません。あえて視点があるかと探すとすればですが、世界です。

ここで過去や未来の時間も、近くや遠くの距離も、あったりなかったりする空想も・・・それを排除するのではなく・・・それに使われるのではなく、それを使い・・・滞りなく機能してる、です。

こんな思考、言葉、見ることは、これ、を認識でき得ない状態に拘る必要がなくある・・・それは思考、言葉、見ることからの自由を意味します。思考、言葉、見ることは・・・あらゆる、もの、こと・・・日常は・・・そのような拘らない働きを露にするそんな機能そのことです。

No.4911 - 2015/05/12(Tue) 08:18:23

Re: 日常。?D / ubik0101
またひとつに、思考が問題、ということは。たとえば愚かな状態、葛藤、自我の状態・・・あーでもない、こーでもない、どーでもない、の思考をする人の状態に・・・思考、という名前をつけてることにあるかもしれません。

または、そいう思考の状態の人と、思考、を同一視してる、そんな流行?風習?伝統?もありそうです。それは、思考、にとっては事実無根であり、誤解であり、濡れ衣です。そんな場合には、思考て何?を問うといいかもしれません。

ララベリー(桑)の実が黒くなってきました。つい洗って食べたくなりますが、それでは味が抜けます。木から摘んだそのままがいいです。草イチゴを濃くしたような味です。

No.4912 - 2015/05/23(Sat) 12:35:04

Re: 日常。?D / ubik0101
これは改良短形ジネンジョの葉です。丸いハート形で、ツヤツヤです。
No.4913 - 2015/05/23(Sat) 12:40:44
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