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ちょっと?復帰、復習 / ubik0101
ときに悟った人が誰かに、その前と後、なにが違いますか?と聞かれることがあるようです。なにも違わないよ。と返事するかもしれません。元の木阿弥、と返事するかもしれません。

ひとつには、たとえば窓から積乱雲が見える。しゃわしゃわと蝉時雨が聞こえる・・・そんなことにあって、そんな知覚の機能は・・・なにも変わらないよ。という意味です。と、いうことは、

すでに、自分で自分を知覚しようとする、いわゆる自我の騒がしい問題が解決されてるということです。そこで見える聞こえる触る味わう思考される、なぜ、これが、これ。それが不思議、という感覚です。

No.4919 - 2015/08/08(Sat) 07:42:02

Re: ちょっと?復帰、復習 / ubik0101
ほかの言い方では、自分は、ない、が確定してる。もうことさら知覚、行動、発言、思考が、そうする虚構の中心、自分を更につくる必要がなくなってる。そこで知覚、行動、発言、思考が無問題ということです。

まず自分があって、知覚、行動、発言、思考するのではありません。知覚、行動、発言、思考があると予め・・・あたかも時間線を遡って・・・その知覚、行動、発言、思考する自分をつくる。その必要がなくなってる、ということでもあります。

ではなく。まず自分があって、それが知覚、行動、発言、思考するということは、あまりに当然。厳とした理論、に束縛されその範疇での運動しかできないけど、それはその範疇で人は養われてる、守られてる、育てられてる、ということでもあります。

No.4920 - 2015/08/08(Sat) 07:43:09

Re: ちょっと?復帰、復習 / ubik0101
そして予めある自分は虚構であり、その立ち上がりから架空の時間に組み込まれてます。そこに野望や絶望、あーでもない、こーでもない、どーでもない、の虚構の騒がしい因果の思考がそれに沿って機能します。社会はそのことに好都合なフィールドです。

それで人が学ぶにあって、これ以上の環境は願ってもないかもしれません。なんでもいいですが、知覚、行動、発言、思考のその展開、その展開、に現を抜かすのではなく、その原因、その原因を、自分で探るだけで済みます。

この簡単なこと。あくまで喩えですが、なにかこの世界にもない素晴らしい宝を探し出そうとするなら、ほかのどこか遠くではない、自分の足下を掘ればいいだけです。ツールは言葉。すでにこの日常に、道は整えられています。

No.4921 - 2015/08/08(Sat) 07:44:27

Re: ちょっと?復帰、復習 / ubik0101
しかし何であれ、ない、ということを見るには、徹底的には、世界の総てを見なくては、でき得ません。ない、が、ない、を認識するためには、世界の総活動。ここでは縁起とか、中道、と呼ぶこともありますが、それが必要なようです。

この自分が、ない、ということは、架空の時間に依存しないということです。虚構の因果に振り回されない、ということです。ここにあって、そもそもの虚構の自分が立ち上がる原因にある問題、が解決されます。

しかし実に、自分が、ない、は諸悪の根源です。どうでしょう。自分で自分を自覚でき得ないから、人は悪事をなせるのではないでしょうか。そしてまた、自分が、ない、ゆえに諸善をなし得るのです。

No.4922 - 2015/08/08(Sat) 07:48:50

Re: ちょっと?復帰、復習 / ubik0101
この、ない、ゆえの決定的な違い、それは思考に掛からなくても、認識できなくても、事実として、そう、です。たとえ世界の総活動に、善悪はなくても、自分は、ない、ゆえにその転換?が可能です。

ところで思考だけが思考する人をつくるというのでは、思考とほかのこと、あるいは有害な思考、有益な思考、の分離があるかもしれません。それは、どのような仕組みで、思考によって自分がつくられるかが見えてはいないからです。

それは思考の、それ、が、それ、を、それ、と命名するという・・・これ、が、これ、を。ない、が、ない、を認識できないに囚われると・・・言葉の特異な機能に、まだ振り回されて、思考に依存しながら思考を嫌い、思考を問題視する傾向にあります。

No.4923 - 2015/08/08(Sat) 07:56:24

Re: ちょっと?復帰、復習 / ubik0101
これが、おおむね、世界は私、緯(よこいと)系の問題かもしれません。私は世界につくられてるので世界があるなら、ない、が輪廻するでしょう。では世界がなければ?まだ地球、宇宙の重力圏から脱してはいず、解脱とは言いがたいです。

またひとつには経(たていと)系、自分は、ある、があります。ここで一旦、自分はない、ということは、どいうことか探ってみましょう。ない、とは、それ自身が、それ自身を知覚できない、ということでもあります。

たとえ私が神《私は在る》でも、悪魔でも、天使でも、人でも、電気スタンドでも、世界でも、私は私を知覚できず、ない、です。つまり、知覚によればですが、在るでも、無いでも、在るでもなくても、無いでもなくても、私は。ない、です。

No.4924 - 2015/08/08(Sat) 08:00:22

Re: ちょっと?復帰、復習 / hato

なんて熱い、暑い、今日この頃でしょう。けれど、昨日の朝はその前の朝と違い、すこしだけ、暑さがしずかだったのです。すっかりの盛夏に、秋の気配がそっと来てる。そんな感じです。

世界はなかなか難儀だけれど、つくづくよくできてる、と思う時があります。

机を買いました。大きな作業机が欲しかったのです。ubik0101さんがワトコオイルを塗り、7日間待って、使い始めました。

No.4925 - 2015/08/09(Sun) 00:25:07

Re: ちょっと?復帰、復習 / ubik0101
そんな、ない、自分は捕まえることも、把握することもできず、まったく自覚不可能。見ても聞いても触っても思考しても、泣いても、笑っても、ない。です。その、ない、も忘れる。説明すれば、傷つき、不完全であっても、それゆえ完璧。

たぶん、見る聞くなどの知覚は受動だと思われます。それで受動だと無問題、という意見もあるかもしれません。たとえば静かさは受動だと見なされるかもしれません。そこで、思考は、受動でも能動でもあり、たとえば怒りは能動に思われます。

この受動であれ、能動であれ、どちらでもあれ、なんの問題があるでしょう。なにかしか良しとしないのは、それはある意味、偏りです。中道。どれにも自分はつくられない、つくられても無問題。で解決です。

No.4926 - 2015/08/09(Sun) 15:52:15

Re: ちょっと?復帰、復習 / ubik0101
その大きな机の下の、hatoさんがつくった、と言うか、ただの段ボール箱の本棚。この家にある書はこれだけで、読むこともほとんどありません。
No.4927 - 2015/08/10(Mon) 10:57:15

Re: ちょっと?復帰、復習 / ubik0101
なんでもいいのですが、土地に、文化に、言葉に、学歴に、過去に、権力、お金、思考に執着する人がいるとします。それはその自分が、土地、文化、言葉、学歴、過去、権力、お金、思考によってつくられてるということです。

まったき乳飲み子が母親に依存するように、世界あるいはその断片?構成要素が自分のつくり主なら、それに依存せざるを得ない、ということです。倒錯とも、顛倒とも呼ばれます。

また、たとえば自動車が自分をつくってる。山が自分をつくってる。木が花が、ほかの誰かが、行動が、言葉が、思考が自分をつくってる。それで、それ、世界が、自分というのは当たり前なのです。

No.4928 - 2015/08/11(Tue) 12:42:44

Re: ちょっと?復帰、復習 / ubik0101
ちょっと実験してみましょう。いま部屋の中にいます。ただ眺めてください。そうです。空間が自分なのです。部屋一杯自分です。これは空間は、自分との差が認識できないから、と睨んでいます。

つまり知覚、時計や、蛍光灯、机、それらが知覚でき得るのは・・・知覚とは差の認識・・・だから、なにかの物は、自動的に自分ではない、に振り分けられるだけではないでしょうか。

しかし、そして時計や、蛍光灯、机などの物、それは自分をつくってる。つまり差の認識できないこと空間と、できること物と、これは共に、知覚にとってですが、自分です。

No.4929 - 2015/08/11(Tue) 12:43:59

Re: ちょっと?復帰、復習 / ubik0101
たとえば思考が問題だ、と言うのは、思考が未開発、不活性、未整備で、その思考につくられてる自分が、思考への依存度が高い、つまり思考が不完全なゆえに(それを完成するために)自分がつくられるということかもしれません。

おおむね差障りのあることに人は依存するのです。パズルは未完成なら人を魅了します。完成すると放置。たとえば土地、文化、言葉、学歴、過去、権力、お金、思考、発言、行動は不完全。それらは変化し、絶対ではなく、知覚され得る、ことです。

それらは完全ではなく、自分をつくります。しかし、なんでもいいですが、たとえば思考が適切に機能するなら、無意識、無思考もそれが滞り無く機能するなら、それに人は依存しない、それに使われるのではなく、それを使うと言えます。

No.4930 - 2015/08/12(Wed) 08:23:58

Re: ちょっと?復帰、復習 / ubik0101
もし重い物を落としても足を守る・・・爪先にプラスチックの板が入ってる・・・安全靴を買いました。庭作業に便利で、安価。普通にスニーカーとしても使え、約1200円です。以前買った時は約1000円でした。
No.4931 - 2015/08/16(Sun) 10:13:34

Re: ちょっと?復帰、復習 / ubik0101
たとえば過去や未来、人間関係に悩んでるとします。それは、それが、思い通りではない、不満、不安・・・という意味で、不完全・・・で葛藤が起きてる。それは不完全さに愚かさが執着してるのです。なので自我の死とも言えますが、自我の完成が問題の解決です。

また、たとえば順風満帆であれば、ふつうの日常であれば、なんの執着することがあるでしょう。それが、もっと順調なようにと、あるいは好調が失われないようにと、執着すれば、そのことが不完全。それにつくられた自分は、苦痛でしょう。

それにまつわる、過去とか未来とか人間関係。その思考のタガが外れて、知覚、行動、言葉が万遍なく機能したら・・・それが真理でなくても・・・世界は私・・・が扉で、解脱するということはあり得ないとは言えないと思います。

No.4932 - 2015/08/16(Sun) 18:21:38

Re: ちょっと?復帰、復習 / ubik0101
そ−いえば子供の頃、怪我をすると、なぜ痛いのだろうと不思議に思っていました。たとえばシャツの汚れ、障子の穴、ダイヤモンドの傷、青葉の中の枯葉、葛藤、思考がそこに焦点を当てやすい、というだけで、それは思考の問題ではありません。

と、あーでもある、こーでもある、どーでもあるの心理的な表現、説明が続けられます。緯(よこいと)系では、これが問題ということもあります。経(たていと)系では、私は、ある。愛の源、実在の直系。これで総てです。そして日常とは、経と緯、の交点です。

この日常。なにもかもが解決したのに、見えたり聞こえたりしてる、この不思議。神秘。ただの人は、それをも捨てる。ない。ある、も捨てる。完全な自分は透明で自覚できない、も捨てる、経と緯も捨てる。捨てることにも、依存できない。それが日常です。

No.4933 - 2015/08/18(Tue) 21:18:49

Re: ちょっと?復帰、復習 / ubik0101
つまり元の木阿弥も捨てる。でも、捨てると言うと、意図的な姿勢に見えるかもしれませんが、実際は、捨てることも起こってもない、とくになにもない日常ということです。なんか問題があるとして、見える聞こえる思考されることでは、どうしても解決しません。なぜなら、すでに解決されてるからです。

ひとつには、この人の日常、泣いたり笑ったり怒ったり、それが真理?となにも違わない、ということです。なんだかイメージとしては、悟ってしまうと静かでいると空想されますが、それは空想です。ただ悩みとか苦痛の状態になるのは、超困難です。

ひとつには、人は平等だということ、つまり悟りも迷いも人の状態であり、その悟りと迷いの区別を失い、大事は、それを自覚出来得ない人そのこと。これが真理。しかしそれも捨てる。ということも始まるでない、この日常です。

No.4934 - 2015/08/18(Tue) 21:20:32
(No Subject) / ubik0101
それで、結局は、いったい何が問題?たとえば思考が問題だ。感情が問題だ。分離が問題だ。投影が問題だ。因果が問題だ。過去,未来が問題だ。欲望が問題だ。不公平が問題だ。嘘が問題だ。争いが問題だ。問題が問題だ。

いろいろ言われるでしょう。それはもしかして問題がないという意味で解決された日常から見て、いくつかの問題の例として説明されたりすることで。そもそも問題の核心が解決されてからの、さまざまの説明かもしれません。

なにか核心?その人?が解決されてれば、思考。感情。分離。投影。因果。欲望。不公平。好き嫌い、嘘、争い・・・などの個別なことは、それが解決されたと意識認識できないでも、また意識認識するまでもなく、解決されてる、それを探り説明するということでもあります。

No.4914 - 2015/06/04(Thu) 15:50:24

Re: / ubik0101
ここは微妙ですが、それで、なにかそのような思考などの個別のことは。それが解決されれば総てが解決するような、問題の根源、なのでしょうか?もしかして思考の問題を解決したら、分離とか、投影とか、因果とか・・・修行法?だとしても・・・総てが解決されるよな、問題の根源ではないかもしれません。

くり返しますが、その総ての根源が解決されるので、なにか個別のことが原因として説明され得る。その思考。感情。分離。投影。因果。欲望。不公平。好き嫌い、日常・・・でもそれは、何も問題でないのに、問題だということにして、問題をつくって説明するということもあるでしょう。

でも、もしかして、思考。感情。分離。投影。因果。欲望。不公平。好き嫌い、日常、争い・・・何もかもが問題なのかもしれません。つまり、なにも問題ないかもしれないし、なにもかも問題なのかもしれません。では一体、これはどういうことなのでしょう。

No.4915 - 2015/06/04(Thu) 15:51:58

Re: / ubik0101
なにかほかのことを問題と感じてしまう。なにか問題だ、と言う、その自分は自分で見えないから度外視されてしまってる。実はそれが問題、ということもあるでしょう。つまり問題と、見えない自分、ない自分、を切り離して解決、とするわけにはいきません。

たとえば投影は問題だ、と言う人は、いるかいないか解らない誰か空想の誰かをつくって、そんなことを言う・・・つまり投影してる・・・ということもあるでしょう。それは投影は問題だということを投影において主張することで、投影は、役にたってはいるのです。

あれこれ探ると、なんだか複雑で、一筋縄ではいかない、思考。感情。分離。投影。因果。欲望。不公平。好き嫌い、日常、争いなども、功罪両面が見えると、功罪の判断そのことが、判断する立場が成立しなくなります。

そして問題が起こらないこれは、ある時そうなったともいえるのですが、もともとそうだった、とも感じます。が、そう考えることは解釈で、すでに問題なくこうであるのだから、あるときそうなっても、もともとでも、どうでもいいと言えます。

ララベリーの実です。

No.4916 - 2015/06/04(Thu) 15:53:57

Re: / ubik0101
そこで、その自分は何か?が大事なんだ、とするとしても、それもまた個別の項目になるなら・・・また自分で自分を知覚できず、個別のことでは自分は思考できない・・・にっちもさっちもいかない、です。

それで。思考。感情。分離。投影。因果。欲望。不公平。好き嫌い、日常、争いの、ある、ことに依存することはあるでしょう。それの、ない、ことに依存するということもあります。ここで思うのですが、なにかに依存したり、しなかったり・・・してるなにか自分は、まったく自分で自覚でき得ません。

たとえば思考。感情。分離。投影。因果。欲望。不公平。好き嫌い、日常、争い・・・生に囚われ、死に囚われ、生に囚われず、死に囚われない・・・この、それらと関りながら関らず、とくにそれらと同じとも、別のなにかとも言えない・・・まったく自覚され得ない、あるともないとも言えない、これ、とも言えない。です。

No.4917 - 2015/06/04(Thu) 16:02:08
日常。?D / ubik0101
たとえば、思考が問題だ、とします。では、なぜ、そうでしょう?ひとつには自分は、ない、つまり自覚され得ません。そこで、ある・・・それが機能して知覚される・・・問題が・・・その苦痛である思考が原因、となるかもしれません。

たしかに、なにか思い悩んでるとします。イライラと重苦しく、あーでもない、こーでもない、どーでもない、してるとします。しかしふと、冷たい水を飲んでて、あっ。いま、その思考をしてなかったんだ。ということに気がつくことがあるかもしれません。

その思考のないときは、平穏だった。つまり思考が問題だ。それがなければ、無問題。たしかにそうです。しかーし、ほんとに自分が、ない、それが確認?、確立?する必要もなく確認?、確立?、されてるのなら、思考があろうが、なかろうが、問題ないです。

No.4897 - 2015/04/17(Fri) 11:30:00

Re: 日常。?D / ubik0101
つまり自分が、ない、がそれほど明確?でない状態では,思考の所為。おなじことですが、時間の所為、因果の所為、プロパガンダの所為、分離の所為、人類の集合無意識の所為・・・これはまだ、葛藤を外に見たりしています。

こっちは静か、どこか、あっちは騒がしい、中心は静か、どこか外は騒がしい・・・とか対比があるかもしれません。それはまだ、葛藤の範疇にあります。どこか外を空想しながら自分を守り、ある、そのことに気がつかないことに囚われてる範疇にあります。

と、こういうこの投稿は・・・まだ対比の範疇である・・・と見ると、無限退行になります。それは、一種の因果で、その見える範囲では限りなくくり返し続き、誤りを見いだせない、抜け出せない・・・意識され得ることの外は、意識され得てない、ということです。

No.4898 - 2015/04/17(Fri) 11:37:34

Re: 日常。?D / ubik0101
ここで自分は、ない。がそう思考されても、思考されなくても、問題でなければ、思考の所為、とはならない、と説明されます。つまり、こういうことです。自分が、ない、ということを、確認する必要もない、思考して確認しても。ない、という事態は変わらない・・・です。

そして自分が、ない、ということが、見てなくても、変わらない。ということです。あるでも、ないでも、あるでも、ないでもない、でも。それを見ても見なくても、変わらないし、変わってもとくに問題ではないです。

それは、あーだ、こーだ、どーだ、見える範疇、意識の外・・・そいうのをイメージしては困りますが・・・の解決です。これは最初からもなく、、いつもででもなく、いまでもなく、ここでもなく、すでにでもなく、表現としては、始まりもなく解決されてる。それだけのことです。

No.4899 - 2015/04/17(Fri) 11:43:08

Re: 日常。?D / ubik0101
もひとつには、思考が、それを思考する中心、その人をつくる、ということにあります。たとえば、なにか考えるとします。それは、私、が考えてるのではありません。逆です。なにか思考することが、私、をつくるのです。

それは、私、とは虚構だ、ということです。なんであれ、なにか思考するとします。それの正誤を判断するのも、その思考によってつくられた、私、です。すると、その思考の誤りを見つけることは困難、私の思考は正しい、となるしかないのです。

これを打破するには、この自分を傷つけることも厭わない公平さ、真摯さ、正確さ・・・損得、快不快、好き嫌い、に縛られない生き方・・・を要しました。それは人が社会、世間にあって、それに抵抗するだけではなくて、その底に沈んで、おおくを学べます。

No.4900 - 2015/04/21(Tue) 08:49:42

Re: 日常。?D / ubik0101
なぜかは知りませんが、世界はそうして、虚構の私、つまり虚構の、ない、を育て、それが虚構であると開示して、ある、それゆえ、ない、人を育てるようです。ところで、虚構の私、をつくるのは、思考だけではありません。

それは行動、発言、思考《言葉》・・・人の生活の総てです。それを思考だけの所為にするのは、なんだか理由があるのでしょうか?おそらく言葉は、時間、個人、真実、嘘、などに制約されず、あまりにメタであり、そのことに振り回されるからでは?と睨んでいます。

ありもしない空想を現実のように思考し・・・あっ、3つ先の交差点の信号が黄色だ。どうしよう?4つ先の交差点で女の子が転んだらどうしよう?5つ先の交差点で・・・あり得ることと、あることと、嘘と真実の区別をする機能が装備されてないために、自在である思考。

No.4901 - 2015/04/21(Tue) 08:51:13

Re: 日常。?D / ubik0101
ララベリー(桑)の、まだ小さいツボミです。実がなって熟すと赤黒く甘くなりますが、去年は、ほとんどヒヨドリに食べられてしまいました。ユスラウメも、グミも、100円ショップで、防鳥ネット、が必要かもしれません。
No.4902 - 2015/04/21(Tue) 16:35:36

Re: 日常。?D / ubik0101
やはり思考が問題だ。いや、思考は無問題だ。というのも、どちらも思考です。ここで対比するなら、問題、無問題、どちらかに偏って、その人の有り様を表示できるのが思考です。

もしかして、思考は問題だ、という人は、その思考は問題だ。という思考につくられてる、つまり、思考に依存してる、その行動、言葉、思考が、思考に使われてる、かもしれません。

そして逆に、思考は無問題、という人は、その思考に使われてる、その思考に、つくられてる、その思考に依存してる、ゆえにその思考を正しいと見なすしかない状態、かもしれません。

No.4903 - 2015/05/04(Mon) 10:17:57

Re: 日常。?D / ubik0101
それで結局、思考によっては判断できず、その人がどうあるか、ということに帰着します・・・と、いうことも思考です。そんな思考は、問題、無問題もない、なんでもない、ニュートラルに機能しています。

つまり、こいうことです。思考が万遍なく機能するなら、その偏りを自ら解消します。それは思考することと、しないことと、そのことによって変わらない事態、ということです。雨が降っています。思考しても、しなくても、その事態は変わりません。

また思考は対象であり、知覚されることだ、ということです。それ、のことは思考できても、これ、のことは思考のしようがないけど。これ、に名前をつけることができます。たとえば、ただの人。日常。春夏秋冬。喜怒哀楽。シュレーゲル青蛙が鳴いています、と。

ここで、ひとつながりも、分離も、とくに真理とか、反真理とかではありません。ただそんな人の状態があるというだけです。言うならば、真理とは、自分で自分を知覚でき得ない、ふつうの人そのことです。

No.4904 - 2015/05/04(Mon) 10:22:39

Re: 日常。?D / ubik0101
と、いうことも思考です。つまり思考は対象であり、知覚です。と、いうことも思考であり、それは、こういうことに、なんとも言えないことに、そいう名前をつけたのです。今朝は庭の半日陰に、とてもいい香り・・・山椒の苗・・・を植えました。

という名前を、それ、につけたのです。くり返しますが、なにがなんだかわからないこと、それに名前をつけて・・・青空が綺麗で風が気持ちいい庭、とか・・・それを、そう呼んでるだけです。と、なにかを、こう呼びました。それが思考。そいえば、しかし、どこかで、命名が問題。という意見を見たことがあります。

なにが何だかわからないことに名前をつけてるだけのことを、なにが問題なのか解りませんが・・・たとえば海で、それまで見たことがない、刺のある銀色の魚が釣れたとします。すると、これ何?と、ほかの釣り人に聞きます。

No.4905 - 2015/05/07(Thu) 13:27:42

Re: 日常。?D / ubik0101
そして、ギギ、という答えを聞くと。そーか、ギギか、というわけで、知り得ないことを、なにか知ってることと勘違いしてしまう・・・もしかしてそんなところにあるのかもしれません。

でも、知ってることなど何もないので、命名しようが、思考しようが、なにも問題になり得ないのです。命名が、なぜ命名なのか、思考がなぜ思考なのか、知ってることが何か、知らないことが何か、知らない、です。

つまり、命名や思考がなんであるか、知ってると仮定したら、それは問題はでてくるでしょう。たとえば、あっちは既知、こっちは未知という対比。に囚われて・・・それは命名が問題だという、その人のことです。でも、その対比も何であるか・・・それがなぜそれか・・・誰が知ってるというのでしょう。と、知覚。

No.4906 - 2015/05/07(Thu) 13:30:47

Re: 日常。?D / ubik0101
スイカの苗を畝ではなくて、庭に植えてみました。この地域では、強風から苗を守るために、たいがいの農家で、このように保護します。保温効果もあるかもしれません。
No.4907 - 2015/05/07(Thu) 13:35:21

Re: 日常。?D / hato

5月の連休もあっという間に過ぎたようです。恒例の夫婦いざらいも、はやめに済ませました。もう5回目?て驚きです。そんなになるかしらん。作業にもすっかり慣れました。

書類作りは佳境ですが、終わるのか終わらないのか?まだまだこれから正念場。頑張ってます。

気力に体調、あれやこれ、ままならずのことも多いですが、それでもなにかすることがあると、たいていのことは楽しんでできることが幸せです。

庭のラベンダーが盛況です。

No.4908 - 2015/05/07(Thu) 22:05:28

Re: 日常。?D / ubik0101
これは、ミニトマト《アイコ》の苗。数日前に植えたばかりなのに、もう目に見えて大きくなってきました。
No.4909 - 2015/05/11(Mon) 16:13:46

Re: 日常。?D / ubik0101
これは山椒の苗。桜の木の木漏れ日が差し込んでいるところです。アゲハの産卵を防ぐために目の細かいネットを被せています。
No.4910 - 2015/05/11(Mon) 16:17:10

Re: 日常。?D / ubik0101
そして思考は、それ自らに、思考、と。言葉は、それ自らに、言葉、と命名します。ここに言葉の特異性があるようです。つまり、それ自身が、それ自身を対象にでき得る。ただの人が、ただの人と。日常が、日常と、世界が、世界と。私が、私と、思考でき得ます。

しかし、その中心,内容は、まったく空白、空虚、ない、なにも話してないのと同じです。その視点は、個人としての誰かに対応する特定の誰かではありません。あえて視点があるかと探すとすればですが、世界です。

ここで過去や未来の時間も、近くや遠くの距離も、あったりなかったりする空想も・・・それを排除するのではなく・・・それに使われるのではなく、それを使い・・・滞りなく機能してる、です。

こんな思考、言葉、見ることは、これ、を認識でき得ない状態に拘る必要がなくある・・・それは思考、言葉、見ることからの自由を意味します。思考、言葉、見ることは・・・あらゆる、もの、こと・・・日常は・・・そのような拘らない働きを露にするそんな機能そのことです。

No.4911 - 2015/05/12(Tue) 08:18:23

Re: 日常。?D / ubik0101
またひとつに、思考が問題、ということは。たとえば愚かな状態、葛藤、自我の状態・・・あーでもない、こーでもない、どーでもない、の思考をする人の状態に・・・思考、という名前をつけてることにあるかもしれません。

または、そいう思考の状態の人と、思考、を同一視してる、そんな流行?風習?伝統?もありそうです。それは、思考、にとっては事実無根であり、誤解であり、濡れ衣です。そんな場合には、思考て何?を問うといいかもしれません。

ララベリー(桑)の実が黒くなってきました。つい洗って食べたくなりますが、それでは味が抜けます。木から摘んだそのままがいいです。草イチゴを濃くしたような味です。

No.4912 - 2015/05/23(Sat) 12:35:04

Re: 日常。?D / ubik0101
これは改良短形ジネンジョの葉です。丸いハート形で、ツヤツヤです。
No.4913 - 2015/05/23(Sat) 12:40:44
日常。?C / ubik0101
ところで話を戻します。完全なバラバラも、完全な融合も、思考としても、事実としても、あり得ない、ということでした。どちらかであっても、それがそれだけで完全であれば、それをそれとして認識できません。そして、事実として、そのようであれば、この現実は、こうであり得ません。

つまり、様々な意見、思考、事実の区別なく、極限は成立しないのです。これはなにを意味するのでしょう。そこで、総てはひとつながりで関係し合ってる。因果関係にある。世界は実在ではなく、現象である。多様である。無常である。

とか、思考が落ち着きやすいのですが、しかーし。ひとつながり、には思考としても、事実としても、ひとつながりは成立しない。因果には、思考としても事実としても・・・収縮あるいは拡散・・・してしまい因果は成立しない。です。これはどういうことでしょう?

No.4886 - 2015/04/03(Fri) 08:59:00

Re: 日常。?C / ubik0101
この世界は始まりも、終わりもないのに、桜が咲き、雨が降ったり止んだり、人が畑で働き、なにか思考し、モズが飛ぶのを見ます。そんな、たとえば、どんなことでもなく。どんな判断にも、接着しないでいること。自分にも落ち着くところを見つけないこと、はできないでしょうか。

もちろんことさら回り込んで言うなら、そーいう落ち着かないところにも、落ち着かない、で。とくに宙ぶらりんでなく、です。そんな雨が降ったり止んだり、バッハを聞いたり、それが、総てが壊滅した、あるいは何も始まってない、この日常です。

説明ですが、どんなことにも落ち着きどころがない、この日常。どんな極端もない、これを無常ということとも判断しない。なんの支え、拠り所、根拠にも、また自分の根拠にもしない、できない、この日常。それがそのまま、解脱そのことです。

No.4887 - 2015/04/03(Fri) 18:59:19

Re: 日常。?C / ubik0101
もすこし説明します。まず、なんだか因果を認めるとします。そうならば、それが、どこか(の時点)で始まるというのは変なのです。それで、それが終わるというのも変なのです。世界に始まりも終わりもありません。

その因果の後先は、見えません。つまり何だかの繫がりの見えてる範疇、意識の範囲だけで、その範囲にないことは暗い、冥い、のです。その見えてるような気がする範囲を因果と呼んでるだけです。

つまり因果は、因果として確定して成立、していません。なのに空は晴れ、自転車で散歩。風が吹き緑が育ちます。この現実は夢か幻か、という判断もなく、なにも頼ることもできない、にも頼ることもできないこの日常です。

スナップエンドウの株間に、改良短形ジネンジョの種芋5本1000円を植えてみました。どう育つか、楽しみです。

No.4888 - 2015/04/04(Sat) 14:27:04

Re: 日常。?C / ubik0101
たとえば、こういう・・・世界は無意味、人生は無意味・・・とかいう思考があります。なんか忘れましたが、岩波から出版された昔の中国の禅の書を訳した、どこか大学の教授が、禅は無意味を旨とするとか、そんなことを言ってました。

その思考を、森羅万象に適応しましょう。たとえば、自分の誕生、学生時代、親友、喧嘩、怒り喜び悲しみ、飲食、快不快、損得、好き嫌い、結婚、子供、職業、経済、研究、死、それも総て無意味なのでしょうか。そこでもう大概その思考は破綻します。

そして、その思考を、その思考に、つまり世界は無意味、に適応してみましょう。それは、世界は無意味ということは無意味、で・・・つまり《無意味という意味》に囚われるのでなければ・・・思考として成立しないのです。

そのように思考は壊滅するようにできています。そんなことに依存の仕様もないのです。そして思考は・・・たとえば無意味という意味を隠し持って偏って・・・無意味から自分を度外視して・・・無意味とは何かを知らないことを前提にしてしまって・・・予め破綻して成立します。

どこにも自分の根拠に出来得ないのです。そして究極はないです。それは、もの、こと、知覚、感情、思考、総てそうです。これを無常と呼ぶなら、無常とは解脱そのことです。なにも依存でき得ない、にも依存でき得ない・・・ごく普通の日常。

No.4889 - 2015/04/07(Tue) 09:37:39

Re: 日常。?C / ubik0101
それは高校生の時のことです。とある女子に一目惚れしました。見た瞬間に好きになってしまいました。とても内気な自分としては、ずっと片思いで2年間、寝ても覚めてもその女子のことを思い続けていました。

そんな、あるとき家のソファに寝転んでいて、はっ、として起き上がったのです。いま、その女子のことを考えてない、ということに気がついたのです。そーか、その女子のことを考えてなくても、生きてけるんだ!というくらいの驚きでした。

なにか考えなくても、生きてける。それだけのことなんですが、ぱっと世界が新しくなったような発見でした。ところで、あーでもない、こーでもない、どーでもない、という人間関係の悩みがあるとします。それはなぜ起こる?

シャリシャリとした食感のキクイモ、放置してたら芽がでていました。これも畝に植えてみることにしました。キク科ヒマワリ属の多年草だ、そうです。

No.4890 - 2015/04/08(Wed) 10:11:53

Re: 日常。?C / hato

今日は春雨が降ったり止んだりの、しずかな一日でした。

今年も桜がいまひとつ元気ないのですが、新芽は出てきているようです。

すこし前のクロッカスです。

No.4891 - 2015/04/08(Wed) 23:01:10

Re: 日常。?C / ubik0101
それはなぜ起こる?実は・・・あーでもない、こーでもない、どーでもない、という人間関係の悩みの原因は・・・解らない、のです。これ、結構、大事なことです。
No.4892 - 2015/04/12(Sun) 20:13:30

Re: 日常。?C / ubik0101
つまり人は、何がなんだか解らないことに悩まされ、何がなんだか解らないことから離脱するのです。もしかして・・・なんであれ極端はないですが極端を言うとして・・・何がなんだか解らないことでなければ、束縛と解放、は起こらないのではないでしょうか。

これ、という何か明確なことが原因だとしたら、それに囚われる、それから離れる、そんなことは起こらないでしょう。いや違う。原因が解らないのではなくて、思考が原因では?感情では?気分では?という意見はあるでしょう。

これは徹底して探ってみればいいでしょう。悩んである、その奥、その裏、そこに何かありますか?悩んでるという事実のほかに何か?なんでもいいですが、たとえば片思い、失恋。なぜそれが、苦痛であり、悩みなんでしょう?

No.4893 - 2015/04/14(Tue) 19:52:11

Re: 日常。?C / ubik0101
たとえば、誰かから貶されたこと、無視されたこと、そのことに悩むとしても、その理由、原因が、その悩みのほかに、その悩みの深い底に、何かありますか?見えますか?たとえば、なぜ蔑まれたら悩まなくてはならないのでしょう?

それとも馬鹿にされたら辛いのは自尊心?その奥は?その奥は?もし馬鹿にされて、悲しいなら、なんか寂しいなら、なんか辛いなら、それを正面から、じっと逃げずに受け止める、そんなことも出来るのではないでしょうか。

なんだか、馬鹿にされたら反発するとか、落ち込むとか、意味もなく自動的に思考したりして悩んでるだけではないでしょうか。どうして、そうしなくちゃならない?なにか確たる理由があるでしょうか?もし理由があるとしても、その理由は誰が決めたのでしょう?

No.4894 - 2015/04/14(Tue) 19:54:27

Re: 日常。?C / ubik0101
いろいろ話は展開できるでしょうが・・・ここで言いたいのは悩みは、苦痛は、葛藤は、思考の、過去、未来の出来事が原因?いいえ、そのような見えることではなく、単純に、その自分には見えない自分が原因です。と、いうことです。

もし、思考が問題なら、思考がなければ解決?感情が問題なら、感情がなければ解決?隣人が問題なら、隣人がいなければ解決?それは限りがない・・・そんなことより・・・自分が問題なら、その自分が解決、でいつでもどこでも解決。

また、なんか悩むとします。それは人が、なにか素直でない真摯でない生き方をしてて、それを誤摩化そう、取りなそう、ということではないでしょうか。それなら、現実ではなく、その思考だけを、空想の人間関係を、どうこうしようとしても難しいでしょう。

No.4895 - 2015/04/14(Tue) 19:56:03

Re: 日常。?C / ubik0101
またそれは、そう悩もうとして勝手に、つまんないことで悩む、つまらない人であり続けるだけのために、悩んでるのです。悩むということは真摯であるということではありません。逆です。真摯でないゆえに、始まるのが葛藤です。

これは何回でもくり返します。そこで見える思考の所為とかにするのは、責任逃れです。そこで見えない、その人の所為です。なのに、思考の所為、感情の所為、過去未来の所為、分離の所為、誰かの所為・・・というのは、そんな愚かな自分であり続けるための方法です。

とても簡単な話をしたと思います。が、こんな意見には、いくらでも反対できるでしょう。いくらでも違うという事例や理由は見つかるでしょう。その人がどのようであるか?ということしか、誰にも、どうしようもないのです。

No.4896 - 2015/04/14(Tue) 19:58:25
日常。?B / ubik0101
けっ。誰が誰のことを、どう思ってもどうでもいいです。それは限りがない道草です。なぜかは知らないけど、ただ自分は、こう、であることを、こう、と認めることからしか何も始まりません。

つまり、ほかの人から自分がどう見られるか?自分が誰かをどう見るか?なんだかんだの人間関係、複雑で面倒で遠回りなことは必要なくて、ストレートで単純で簡単、それが道です。

一年間、植木鉢で過ごしたブルーベリーの苗、庭植えにしました。まず大きめの穴を掘ります。そこにピートモス、腐葉土、庭の土、同じ割合で3種混合したものを埋め戻し、バケツ一杯の水を加えて、スコップなどでかき回し、ドロドロにします。

その真ん中に、植木鉢から抜いた苗を押し込んで(画像)、軽くゆすって馴染ませます。そしてその穴が全部埋まってなければ、さらに3種混合した土を隙間に入れて、スコップや棒などでつついて、馴染ませます。この辺りは強風が吹くので、支柱をして、出来上がりです。

No.4871 - 2015/03/18(Wed) 08:05:01

Re: 日常。?B / hato

きれいに植わったブルーベリーが素敵です。はやく大きくなって、たくさんの葉と実をつけるといいな。

数日前から、庭の入口あたりに土筆が出始めていて,今年はすこし細身でしたが、朝から一緒に摘みました。

No.4872 - 2015/03/18(Wed) 08:44:06

Re: 日常。?B / ubik0101
ところで人間関係では。なんか嫌な人がいるとして、表面は仲良くするというのも、喧嘩するというのも、無視するというのも、どれも間違ってるのではないでしょうか?そこに正しい対応を探そうとしても、それは、ない、のではないでしょうか。

たとえば気が合う人だけと仲良くすればいいでしょうか?嫌なら遠ざけるだけでいいでしょうか?嫌な人とも仲良くすれば、なにか相手とか誰かが、その人自身を知る、そのための役に立つと決まってるでしょうか?

このことだけでも、どうやっても後悔に繫がり得るし、正解はないということだけでも、そんな空想の人間関係から自然に離れて、あーでもない、こーでもない、どーでもない、ということは生起しなのではないでしょうか?

No.4873 - 2015/03/20(Fri) 13:33:56

Re: 日常。?B / ubik0101
また、この自分でさえ自分が自覚でき得ない、ない、のに。ただ思考や行動や発言が、ある、だけなのに。その、ある、ことだけを、たとえば貶された、誉められた、なぜ?と、探っても、どーにもならないかもしれません。

このように誰がどうした、彼がどう言った、ということで相手から自分がどう見られる?とかの関係を推し量るとしても、結局、それは娯楽か、苦痛か、です。どちらも、ない、の上に、ある、遊戯、です。苦楽がそれに繋ぎ止める、だけです。

そんなとこでは、なにを考えても空想だとするなら、事実が大事、となりやすいかもしれませんが、それも空想。苦痛が、過去や未来を思考させしめるから問題なら、過去や未来を捨ててしまえばいい、というのも空想。

No.4874 - 2015/03/20(Fri) 13:36:11

Re: 日常。?B / ubik0101
そこで、どうせ人は誰も自分が自分で自覚できないから、なんでもあり、なのではなく。たとえ誰が知らなくても、神や仏が見てなくても、自分の行動は自分でわかる、発言は自分に聞こえる、思考は自覚されるのです。

その人のことは、その人に任されてるのです。ほかの誰かの愚かさをあてにする、人と人の間に隠れる人は愚かなのです。そうでないなら、自分からも隠れようがないなら、1人あるなら、そこでなにか猾いこと、愚かなこと、嘘をついたりすることができるでしょうか。

ところで、もしかして、どこかの掲示版では、総てはひとつ、という趣旨で話し合われてるかもしれません。またほかでは、神はいるのか?とか、いまここ、とか。とあることと、反対のことと、類似のことと、無関係なこと、なんだかんだ話し合われているかもしれません。

No.4875 - 2015/03/21(Sat) 09:26:18

Re: 日常。?B / ubik0101
どうでもいい、です。それぞれ、人の思うところにあって、行動、思考、発言すればいいです。資本主義、共産主義、私は悟ったとか、戦争反対とか、音楽、仏教、キリスト教とか・・・ほかにもあるでしょうが、みんなそれぞれ、バラバラでいいです。

ひとつには、バラバラなら、誰が誰とも徒党を組まなければ、それはほとんど平和の実現なのです。そうだとして、このように完全に個人がバラバラということ、それは思考として、あるいは事実として、成立するでしょうか?

では逆に、総てはひとつ、これは思考として、また事実として、それだけとして整合性があるという意味で、成立するでしょうか?それがどちらでも、ほとんど究極では近似値では、同じことで。しかも完全な意味では、どちらも成立しないのです。これ、これは、どいうことなんでしょう?

No.4876 - 2015/03/21(Sat) 09:44:20

Re: 日常。?B / ubik0101
スイスイバを、庭の雑草地帯で見つけました。これは赤くなって、食べられる。と子供の頃に聞いて、1度むしって食べたことを思い出しました。雑味なく酸っぱいのです。

まったく忘れてたのですが、噛んでみるとあの味です。スイバ(酸い葉?)とも呼ばれ、日本では山菜らしいのですが、ヨーロッパには栽培種もあった、とネットにありました。

No.4877 - 2015/03/22(Sun) 11:51:53

Re: 日常。?B / ubik0101
そーいえば、チガヤの未熟な甘い穂、ガム、と呼んでいました。子供の頃は、道草を食ったものです。ちょい話の道草ですが、たとえば道徳ということ、それは空想の人間関係であり、そこには善と悪があるでしょう。

みんな自分で自分のことが自覚できないので、誰かから見た自分、誰かを見る自分。そのようにしようとして人はするわけではないけど。そこで牽制しあって、社会生活を逸脱しないように。そんな仕組みもあるでしょう。

そこには、善と悪が、対立してある、程度の問題とかもある、でしょう。しかし人がただ一人あって、善も悪もないなら、平和で、幸福です。それはそう自分があろうとするのではないです。世界がそう望んでるとしか思えないのです。

つまり、よーするに、空想の人間関係は、見かけの道徳、倫理です。つまり反道徳、反倫理です。つまり未熟なそれです。そうでなくあること、なにものにも、とくに人と人の間に隠れないこと、隠さないこと。あからさまであること、あらわにあること。そうすれば、世界が望んでる善そのことです。

これは人類の総意とか、個人とか、数の問題ではなく、どちらからも接近はでき得るけど、行き着きはしない、ことです。ただ1人がそうであること、露であること、それだけ、です。これは実は忘れやすいのですが、何らかの体験をした人はこれをそこで経緯しています。

No.4878 - 2015/03/24(Tue) 08:36:34

Re: 日常。?B / ubik0101
その、たとえば善悪は、小さな苗に添える、2本の支柱です。大事なのは、その材質や組み方を工夫したりでき得えるとしても、その支柱ではなくて、その苗です。支柱は見え、苗は苗を見えないけど、それが丈夫に育つと、その支柱は不要になります。善い実がなるのです。
No.4879 - 2015/03/24(Tue) 09:36:48

Re: 日常。?B / hato

数日ぽかぽか日和でしたが、冬に戻ったかのような外気です。遠州らしい強風のなか、すこしだけ、一緒に草むしりをしました。春先のはやいうちからすると、いいみたいです。

晩ご飯には、タラの芽の天ぷらを頂きました。一年、はやいですね。もう春の味覚です。

こんなお皿も、我が家で静かにヒット中。美しくて、お値段も大変リズナブルです。

No.4880 - 2015/03/24(Tue) 22:22:54

Re: 日常。?B / ubik0101
あーでもない、こーでもない、どーでもない、ということは。たとえば、ああ!ここから見える3つ先の交差点の信号が黄色だ。止まるか?走るか?どうしようか?こうしようか?と悩むようなことです。それは危険です。

いま自動車を運転してて、いま渡ってるこの交差点を、よそ見をしないという意味で注意して渡る・・・4つ先も5つ先も、1つ前も、2つ前の交差点もなく走る、必要なら止まる・・・なんて、ことさらに構えることも不要、それだけです。

No.4881 - 2015/03/27(Fri) 07:33:01

Re: 日常。?B / ubik0101
NHKのアーカイブをhatoさんが見てるので、一緒に見てると、なんとかという人が、臨死体験の研究をしていました。意識不明の患者が、知るはずのない周りの状況を見た、幽体離脱の事例とかを探っていました。

これはその場にいた誰かが後で話して、その話した誰かも話した事実を忘れてること、を聞いて自分の記憶と思い違った。ということに近いようです。そして、脳には記憶担当の部位はあるけれど、意識担当の部位は見つからない、ということでした。

ここで疑問です。幽体離脱、夢、思い込みの記憶だろうが、そんなことを探るしかないのだとしても・・・ところで現実って何?脳との関係を探るとしても・・・ところで意識って何?そんなもん、ないのかも?と思いました。

No.4882 - 2015/03/31(Tue) 08:33:04

Re: 日常。?B / ubik0101
いろんな意見はあるでしょう。しかし、現実って何?意識って何?それを知らないことも知らない、ということもありそうです。なのに、研究の前提にしてしまうと、なんだかそれを予め知ってることにしてしまって、それに向かってあれこれを結びつけることもありそうです。

そしてなお、見る聞くとか、脳とか、記憶とか、人とか、何でもいいですが日常、それ事態も、それがなぜそれかは知らないのに、知ってるつもりになって、その機能を研究したりするのではないでしょうか。

たとえば何でもいいですが、世界は私だ、としても、その世界とは何?、私とは何?、それ、そのことは何か解るでしょうか?でなければ、世界は私と言っても、なにも言ってないのと同じです。

なんとなく関係づけて、猫のゆりかご、毛糸の東京タワー、意味が紡ぎだされるような気がします。それはまた、なんとなく世界と分離した私という幻想に対応してるという、猫のゆりかご、毛糸の梯子、幻想を紡ぎだしてるのでしょう。

No.4883 - 2015/03/31(Tue) 08:39:31

Re: 日常。?B / ubik0101
また逆に、現実とは何、意識とは何、が解ってれば、なにも臨死体験とか研究する必要さえない、かもしれません。どこかで、真理、真実を知らないことに、気がつくから、臨死体験とかの研究が成立するのでしょう。

また、この日常にあって、なにも知らないと徹底すると。なんか知ってる知らないの間にある、ああだ、こうだの問題は起きようがない、思考は予め破綻して生起します。ということもあります。たとえば、知るということが、知らないということが何かさえ、誰か知ってるでしょうか?

なにか知ってるとか知らないとか、あるとかないとか・・・どこか偏ったあり方の勢いを借りてなければ・・・ある種の意見、主張、姿勢は成立しないところがあります。さまざま万遍なく見れば、とくに特定の立場の主張は雲散霧消します。

No.4884 - 2015/03/31(Tue) 13:20:29

Re: 日常。?B / ubik0101
それで、こんな話とは関係なく、たとえば臨死体験の研究をしたければ、することになんの障害もありません。ここでは、そんなNHKの番組に乗せて、なにか思うことを言ってるだけです。

たとえば国は国と分離し、人は人と分離して、なにも問題はありません。問題があるのだとしたら、そこに対立する、争う、反目する,ということがある場合です。それは分離に必然的に備わった特質ではありません。

たとえば分離ということに、葛藤とか、苦痛とか、争いとか、愚かさとかを乗せて、変調して、分離は問題だ。とかいう思考が生起したりするのではないでしょうか。それはそんな経緯だということです。

No.4885 - 2015/03/31(Tue) 13:27:51
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