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/ 大阪
こんにちは。

だいぶすっきりしました…

ありがとうございました!

No.4846 - 2015/02/28(Sat) 14:01:39

Re: 新 / 大阪
それと。

お二人には色々ご迷惑、ご心配おかけしました。

ごめんなさい。

No.4847 - 2015/02/28(Sat) 18:07:05

Re: 新 / hato

大阪さん、こんにちは。お久しぶりですね!

いえいえ、いつもありがとう。なにより元気そうでとても、よかった。

すっきりされたのですね。

こちらも変わらず、なんとかやってますよ。
ubik0101さんも変わらず,変じー。
こちらも変わらず,変ぱーです。うふふ。

hato

ふつうの日常と、あの体験を、まったく違いのないこととして、イコールで繋げよう。それを表現できれば誰でも読むだけで、自分は何か?とか、実在とか、解ってしまうかもしれません。

ということで、探りながら話しています。でも、なんとなく一緒にならない、繫がらない、ぴったり重ならない・・・でも、その微妙な隙間に発見があって面白い・・・です。

また、ビッグバンから0.何秒のところまで解ってると物理では言うように、何回でも,何回でも、その先、その中心に向かって探ってる、という感じでもあります。

ubik0101

No.4848 - 2015/02/28(Sat) 21:31:45

Re: 新 / 大阪
ハトさん

そーですか…!

歌って下さい!踊って下さい!

うびさん

ありがとう。でも感謝しません。

ごめんなさい。でも謝りません。

No.4849 - 2015/03/01(Sun) 11:17:13

Re: 新 / ubik0101
ちょうど、どこから話を始めよう?と考えてたんだけど。たとえば大阪さんが生まれる前に、大阪はあったのだろうか。日本はあったのだろうか。地球はあったのだろうか。宇宙は、あったのだろうか?

たとえば私が生まれる前から、日本があれば、私は日本人で。世界があれば、私は世界で。その歴史や文化、過去や未来があるなら・・・全貌が掴みきれない世界があって・・・それがルーツになり、世界がないと自分はない、とかに捕われやすいかもしれません。

そんな一切の・・・行動、発言、思考・・・感謝とか、謝るとかを引き受けることは不要だけど、不要だということもまた不用。たとえば、私がいなくても世界はあるとか、自分がいないと世界はないとか、世界はなくても自分はあるとかを、忘れ・・・た。

あと、なんであれ自分の外?に、対象にしなければ、それに感謝したり謝ったりすることは不可能って、ことはある・・・な。

No.4850 - 2015/03/01(Sun) 21:04:51

Re: 新 / ubik0101
それと。とくに誰かに感謝されたいとか、謝まられたいとか、夢にも考えたことがないのに、ふと気がつきました。
No.4851 - 2015/03/02(Mon) 19:27:51

Re: 新 / 大阪
忘れるということも、違和感。だから「忘れ…た。」
言葉は口から出た瞬間に霧散しちゃう。
おぉまさに「とんぼと言う言葉はとんぼを表しません」ですね〜。

うびさんのと別件ですが。
ビッグバンがビッグバンを見てなんになる。です。もちビッグバンの研究をするビッグバンはそれはもうビッグバンです。もうやめときます笑

No.4852 - 2015/03/02(Mon) 20:24:49

Re: 新 / 大阪
また迷惑。アホですすみません。

一生の生き恥を晒しました!

これからは死んで生きます!

No.4853 - 2015/03/02(Mon) 21:40:22

Re: 新 / 大阪
気色わるな旗色不鮮明なぼくに何日もかけて料理を支度して下さったうびさんのように、ぼくもなりたい!

他人の悪に依存する上から目線、自分の悪に依存する下から目線もやめた、横から目線!

いつなれるかは分かりませんが!

右手に緯糸、左手に経糸、織り成す布で出来たハンカチを、いつもポケットに入れて、鼻が垂れたら拭いていこう、埃を払っていこうという所存です!

No.4854 - 2015/03/03(Tue) 14:06:50

Re: 新 / hato

わたしは、嬉しくなったとき、ありがとう、ていいますよ。

最近、こんなお皿を集めています。ubik0101さんが気に入って、手に取ってみる感じがとてもいいので、こんなに、増えちゃいました。

もう3月ですね。まだすこし冷えるようですが、
春の匂いがします。

No.4855 - 2015/03/03(Tue) 23:39:55

Re: 新 / 大阪
ハトさん、ありがとう!

それだけでとても素敵な、それでいてしっかり料理を引き立たせちゃうような。

お皿、ですね😇

No.4856 - 2015/03/04(Wed) 00:12:53
日常。?A / hato

それで、考えてみると大騒ぎなのにやはりなにか泰然な、この日常の不可思議です。もちろん、それは思考がよくない・・ということでない、そのようにあるということ。道具に使われず、きちんと使えること。まるで職人さんの仕事です。

昨日ubik0101さんと庭を歩いてて,思い出して見に行くと,待望のふきのとうを見つけました。嬉しくなってしまってさっそく収穫です。

こんなに寒いのに、そういえばもう一週間ほど前から、春の気配が充満中です。

No.4842 - 2015/02/11(Wed) 10:07:54

Re: 日常。?A / ubik0101
また、たとえば風速とか、雨量とか、雷とか、被害の大きさで、その台風の規模を計るようなことで実際は、その中心は、ない、ピーカン、です。それは問題があることでは、被害の大きさでは、思考では、計れないのです。

そんな台風は、風力計、雨量計、気圧計、レーダー、衛星からとかで観測できるように、この自分、ない、にもいろんな観察、探求はあるということで、そのどれかの計測器や、計測結果・・・宗教や哲学のメソッドや主張・・・経緯・・・にこだわる必要もありません。

それはそうで。この自分が自覚でき得えないということは、なにを行動しても、話しても、思考しても、食べても寝ても、なにを記憶しても、忘れても、生きても死んで(たぶん)も、そうです。どうやっても自分で自分を自覚できません。それで総てです。

No.4843 - 2015/02/11(Wed) 10:36:54

Re: 日常。?A / ubik0101
ここ、この自覚できない、に留まるというのも、留まらないというのも、これを得るというのも、守るというのも、これを捨てるというのも、どうやっても、どうやっても自覚でき得ないは、変わりありません。この日常では、これで総てです。

すこしくり返しますが、なにか個別のことに固着しても、その、もの、ことは、移ろうのです。それを辛いとか哀しいとか捉えるも勝手です。あるいは因果の思考をしない、つまり不吉なことは起こらない、と捉えるのも勝手です。

どれも曖昧で破綻があり、単極ではなく、どれでもいいけど、どれでもない、です。この自分が自分で自覚でき得ない、ということに乗って、あーでもない、こーでもない、あーだ、こーだ、幻のような思考が現れ得るということです。

No.4844 - 2015/02/11(Wed) 10:38:01

Re: 日常。?A / ubik0101
とりあえず、自分とは何?なんであれ、それに結論を出す必要はないんじゃない?たとえば、感情、意識、身体、世界・・・何かは自分である。そして世界、意識、感情、感覚・・・何かは自分ではない、ということがあるとします。

実際、向こうから歩いて来た人が自分だ、TVの中の女性が自分だ、温泉で見た山が自分だ、という体験もありはします。が、この、ある、ない、どちらの極端も認めて、そのどちらも採用しない。なにかである、なにかでない、どちらも自分を示せないのです。

そしてたしかに、感覚、感情、意識、身体、世界・・・それは何なのか?まったく未知、この日常。けれど、この自分は何?その中心を知らなければ、自分で自分を自覚でき得ない、ということに納得するのは困難かもしれません。

No.4845 - 2015/02/11(Wed) 10:39:46
日常。 / ubik0101
よーい・・・ドン!世界人類全員100メートル競争です。そこでは走りながら結婚したり、子供を産んだり、成功したり、失敗したり、死んだり・・・悲しんだり、怒ったり、平穏だったり・・・書を読んだり・・・戦争、平和・・・春夏秋冬・・・迷ったり、悟ったり、昼寝したりも、ありです。

ありとあらゆることと、ありとあり得ないこと、森羅万象、その活動。それをここでは縁起と呼んでいます。人はそんな体験をします。それは縁起によって起こるのではなくて、縁起、そのことです。すでにこの大運動会に参加してるので、なにか誰かの言葉とか、きっかけがあっても起こるでしょうし、なくても機が満ちて起こります。

それは、総て揃ってるから・・・いわゆる何でもありではなく・・・なにか個別のことに固着できない、偏れない・・・です。たとえば、 善と悪、優劣、喜怒哀楽、それだけではなく、あらゆる両極端があるからその中間にも依拠できない、ここではこれを中道と呼んだりします。その縁起の活動にあって、縁起を超えます。

No.4828 - 2015/01/19(Mon) 09:00:59

Re: 日常。 / ubik0101
そしてこの日常にあって、あるもないも、森羅万象が活動していて、ここ静かな岡の片田舎で、ここにこうしてる、畑仕事してる、バッハを聴いてる・・・ここにいて世界の運動を感じてる。それが、不思議,という感覚です。なにか世にも稀なことがそうではなく、このなんでもない日常が、不思議、です。

なにか真理とか、それがそれの原因である、実在、とか、真我に、それ、を求めるのではなく、それ、と、これ、その区別も失った日常、そこに。たとえば人が迷うということ、人が悟るということ、森羅万象が、これ、がこうでなくてもいいのに、これ、という神秘が実感される、です。

なぜ見えることは見えるということなのか、聞こえることはなぜ聞こえるということなのか、甘いということはなぜ甘いということなのか、思考はなぜ思考なのか?それは、なぜ、それなのか、まったく知らない、です。これは一体、どいうことなんでしょう。

No.4829 - 2015/01/19(Mon) 09:20:40

Re: 日常。 / ubik0101
ここは自分で自分を感じられないので、説明は困難ですが・・・たとえばバッハの楽器の指定のない音楽は、フルートでも、ピアノでも、バイオリンでも演奏可能・・・もしかしてですが、あれやこれやの、もの、こと、事象ではなく、その人が、そう、であるなら、あれやこれやの、もの、こと、事象がどうであれ、そう。ということが納得しやすい説明かもしれません。

たとえば、この世界はピアノです。下手に弾くのも、上手に弾くのも、ピアノの責ではありません。ピアノはニュートラルで、演奏してるのが、その人で、その状態が世界に現われる、です。ピアノは触媒です。たとえば喜怒哀楽、思考、なんであれ、どのように使う、使わないは、その人に任されてるです。

ここで注意。そこに現われたことで、その人の状態を示す、ということもあります。たとえば悟りが完全でないと、賢者と愚者、悟りと迷い、そいうことが人に現れる、です。するとほんとうに世界には賢者と愚者が見える、のです。それはその人の問題です。そいうことは、ほかの誰かの、もちろん世界の問題ではありません。

No.4830 - 2015/01/19(Mon) 09:54:27

Re: 日常。 / ubik0101
もちろんこんな思考は無限退行になり得るのですが、その解決はとても簡単なのです。たとえば卵が先か、鶏が先か?これは結論がでないということでの無限退行だとして。では、そ思考してる自分は、卵から?あるいは鶏から?ということで、終了です。この自分がどうだということ、識別、判断とか、投影を脱する道が開けています。

どこか東北?の禅の坊さんが、いっかい体験したら、も一回やるんだ。とか話してた気がしますが、そうです、その読み解きは、一回に数年かかるけど何回でもやるんです。子供の頃に見たことがあるのですが、雨の日、軒下にある石に雨だれが落ちて、くぼみができていました。曖昧を排して雨だれのようにくり返す、これは無駄ではないです。

そいえば仏陀の喩え・・・河を渡ったらもう筏を背負って歩く必要はない・・・もう悟ってるのだから、悟りを抱えて歩く必要はない、です。それで縁起には縁起はない、いまここにはいまここはない・・・悟りには悟りはない・・・自分の経緯の壊滅・・・それでいて、それ、から外れない。おおむねですが、認識作用の捕われの滅にあって、こんなことが明らかになります。

No.4831 - 2015/01/19(Mon) 10:52:47

Re: 日常。 / ubik0101
たしか中学生のとき教室にいて、机が近くの級友が、ほかの級友に話してるのが聞こえました。なにか食べ物のことでしたが、なにかは不味い、ツワブキは煮て美味い、そんなことでした。それで、うーん、美味いとか不味いとか、そんなこと考えたことがない、ということに気がつきました。

うーん、食べ物の味はするのです。でもその印象、記憶が残ったことはない・・・それを判断したことがないことに気がつきました。それでこれからは、なにか評価?判定?をしてみよう。と思ったのです。それはなんだか俯瞰的に、客観的に物事を見てるよな、大人の感覚、印象があって、それを取り入れてみよう。と思ったのです。

それは思っただけで、できなかったかもしれませんが、認識とか、判断は、とても難しいことに思えます。単にそんなことがあった、ということなんですが、ツワブキ、そいえば食べたことがないです。庭にあるので、そのうち食べてみてもいい、な。

No.4832 - 2015/01/19(Mon) 18:47:04

Re: 日常。 / hato

ほんとうに,その根拠の全貌といえるかどうかも知ってもいないそのことを,知らないのにも関わらず,本気で生きることができる,この不思議。

いったい,なんなんでしょう。

ノンちゃんは最近,母の手製の,大きな壺にはまっています。きっと,とてもワクワクしながら,羽はたきの柄につかまって,用心して降りていくのです。臆病なチュリルはこわくていけないのだけれど,そんなノンノンを,興味津々でながめています。

No.4833 - 2015/01/23(Fri) 21:01:20

Re: 日常。 / ubik0101
ふと思いました。私とは何?・・・もしかして、心?たぶん、精神?魂?きっと、身体?空間?時間?あるいは、それら総て?世界?・・・どうでしょう。

そのようなどんな意識の対象になる、ならない、どんなことも一切、採用しないでいることはできないでしょうか?これが日常であり、これほど簡単なことはないと思います。

No.4834 - 2015/01/31(Sat) 11:26:46

Re: 日常。 / ubik0101
たとえば学校とか、地域の一員であること、それを嫌うというか、馴染めないことがあります。そこで自分の精神、心、身体とかに固着して・・・あるいはまた感覚、感情、意識、世界それが自分ではない、ということで。

ほかの何か、なにが何だか解らない何かを、自分だ、としてしまうことで・・・それが逃避とも知らず・・・そのような。なにかは自分ではない、何かは自分、という極端なループの、範疇の中で生きてしまう。そのようにして自分を守る、ということもありそうです。

No.4835 - 2015/02/01(Sun) 10:07:33

Re: 日常。 / ubik0101
あるとき何か悔しい思いをしたとして、それがわだかまりになって。また何か楽しかったことを再び望むとかしようとすると・・・あやとり・・・もつれた糸のように・・・時間のあやとり・・・そこに空虚感が生じるかもしれません。

こんなことを書いてて、たしかに子供の頃、なんか部屋に親戚が集まって笑い騒ぎ楽しかったけど、それはいまはない、この部屋の空虚感。それを埋めようとして、そこで過去と未来の架空の関係ができてしまう、そんな経験を思い出しました。

No.4836 - 2015/02/02(Mon) 11:52:39

Re: 日常。 / ubik0101
それは傍からは、過去や未来という時間、どこかという空間の、何か対象に固着して、自分との距離を認識して、その対象を引き寄せようとしてる運動に見えます。そこで、その距離、そのありもしない・・・あやとり・・・英語では猫のゆりかご、と言うそうです。

そんな、はしご、ホウキ、東京タワー・・・架空と事実との混同にあって、さまざま空想をしてるこっちが自分、あっちは、自分でない、あるいはその運動範囲が自分、範囲外は自分ではないと複雑に縺れてしまった、あやとり、で自他が生まれるかもしれません。

そこで、ひとつには、あそこ、と、ここ、過去と未来とか、何かを対象にすることで、距離をつくらなければいいのです。すると自分が自分だと思う自分ということも、生じてないのではないでしょうか。

No.4837 - 2015/02/07(Sat) 13:13:08

Re: 日常。 / ubik0101
つまり、いま、ここ、には距離がないのです。でも、それさえ思考は、言葉によって対象にして距離を、生じさせ得るのです。(また自分に密着が問題、もあるでしょう)。どうやっても人は、いまここにしか生きてない・・・というのも思考です。けどまた、いま、ここ、には、いま、ここ、はないです。

しかし、いまここという思考があっても、ないにしても、事態は変わらない、というのが・・・人は思考に左右され得ない・・・が、実情ではないでしょうか。では、距離を否定することも、いま、ここ、を真実と見なすことも、必要ない?

ここで。いま、ここ、から逆に辿ってみて、過去,未来、あそこ、ここ、どこ・・・のことを思考してみるのです。どうでしょう?それでそう思考しても、そのことが何か問題だ、というわけではないのです。問題がなければ、どう思考しても問題はない、です。

No.4838 - 2015/02/07(Sat) 13:17:10

Re: 日常。 / ubik0101
そろそろ、ジャガイモ、インカのめざめだ。というわけで、日光に当てて芽出しをして、植える算段です。小さいけど、収穫量も少ないけど、種芋も高価でこれで約1000円もするけど、たしかに栗のよな食感です。
No.4839 - 2015/02/08(Sun) 08:52:25

Re: 日常。 / ubik0101
たとえば、なにか悔しかったこと、楽しかったこと、そんな過去が幻のように現われると、幻のように未来が現れ・・・どこか、が現われると、あそこが・・・N極が現われるとS極が予めあったかのように現れて・・・磁石のように・・・ものごとを引きつけよう、引き離そうとする、その関係。

あれが現われると、これが現れる。それならば、過去は過去、未来は未来、それだけで。あそこはあそこ、ここはここ。その、それだけで、一件落着。単極の磁石は成立しないように、問題は起こらない、ということです。

でも実は思考には、なにが問題なのか、解らないのです。思考には、自我とか、無知とか、名前をつけることはできますが、それで誰かに伝えることもできますが、その思考の中心、主体、始源、が解らない、見えないのです。

No.4840 - 2015/02/08(Sun) 17:06:54

Re: 日常。 / ubik0101
それは思考が無能なのではなく、問題と無関係なほど超えてるからとも言えます。思考を悪者にするのは、海で魚が釣れないといって、竿や糸や餌や風や海や温度の責にするようなこと・・・未熟なのはその、人・・・ということでもあります。

それは、自分が、ない、自分で自分で見えないから、なんだか不安で、ほかの人や、海や、過去や、未来や、感情、感覚、思考・・・おおむね何か特定の個別のもの、ことに、拠り所、頼りを求めて、固着するのかもしれません。

そこで、その自分、それは、ない、でも、ある、でも、透明でも、完璧でも、なんでもいいのですが、自分で自覚でき得ないということが明確なら、なにかに固着もできないし・・・空想の縁起・・・因果も起こらず・・・単極で、問題ない、ということです。

No.4841 - 2015/02/10(Tue) 08:43:27
謹賀新年 / ubik0101&hato

新年あけましておめでとうございます。

本年もよろしくお願いいたします。

さまざま忙しい年末でしたが,一段落のお正月。会社のご褒美に届いたおせちが豪華で,嬉しく頂きました。

ubik0101&hato

No.4806 - 2015/01/02(Fri) 13:27:08

Re: 謹賀新年 / ubik0101
みんな今年は功徳を積んで、仏陀になりましょう。OK?では、功徳、とはなんだろう?それが解って始めましょう。たとえば電車で立ってる老人、妊婦に、席を譲ってあげること?うーん、争ってる人々に、つまらないから止めろと言うこと?

うーん。こいうことは、たとえば親切でも、教育の結果でも、信念でも、そうしなければ世間から白い目で見られるからとかいう理由でも、でき得るかもしれません。どの動機でも功徳でしょうか?どの動機でも、しないよりいい、かもしれません。

では偽善で、自己顕示で、権力誇示でするのは、誰かにそうせしめるのは、どうでしょう。それでも誰かの役に立つかもしれません。逆かもしれません。またそれをしないのは、勇気がない?人の目線を受けたくない・・・とか・・・さまざま考えられるかもしれません。

No.4807 - 2015/01/04(Sun) 10:38:36

Re: 謹賀新年 / ubik0101
ここで注意。これらの思考は、思考がなにかの対象、出来事とか、人にくっつくこと、固着しています。たとえば葛藤の原因は過去の出来事だ。というなら、もう原因を過去に落とし込んで、その責にして納得したい、という姿勢かもしれません。

これでは正確に思考することは困難です。それはここで言うアイテムとしての思考、空想です。またそれは、どこかの誰かを観察した結論かもしれません。それはそのように見えるという空想です。空想することは自由ですが、それを事実と見なして受入れる必要はありません。

おおむねですが、一番簡単なことが、一番いいことです。そうです、いろいろ探ったりしてる、この自分がどうだ?ということを・・・さんざん人のことを、架空のことを探ってるのですから・・・その自分のことを探るのが、一番簡単なことです。それができないのは、自分がないから?NO!です。・・・と、hatoさんも言っています。

No.4808 - 2015/01/04(Sun) 10:40:54

Re: 謹賀新年 / ubik0101
すこし振り返ると。ここまでなにかの理由、原因、動機があって、世界の出来事、周囲の出来事に、それが現われてる、ということ、そんな雰囲気中で思考していたのです。たとえば親切が、電車で立ってる老人,妊婦という出来事に現われる、です。

たとえば、自己顕示が、争ってる人と人の間に現われる。です。あるいは、そこで勇気が現われる、勇気がないことが現れる。あるいは勇気が現われない、です。ではその、勇気とかは、現れる現われないはともかく、その出来事がなければ、ないのでしょうか?

そいえば村祭りの打ち上げで、来年の配給係の青年が・・・飲み物とか食事とかを通して、自分を表現したい・・・と抱負を語りました。たしかに動機と出来事、そのレイヤー構造にあるのですが、それが不可分なら、それがなんでもない日常です。

No.4809 - 2015/01/04(Sun) 10:43:59

Re: 謹賀新年 / ubik0101
それは、ともかく分けて考えるならば。なにかの出来事があっても、なくても、真摯ならば、真摯ではないでしょうか。素直なら、素直ではないでしょうか。なので、なにかをするとかしないとかによって功徳を積むとかいうことではなく、その自分の有り様を浄化?すること、それが大事です。

くり返します。ここでいう理由、原因、動機の理を解するということ。説明ですが、人の素直さ、真摯さは、なにかの出来事の、あるない、に依存しません。それは出来事と、固着してる必要はありません。

また自己顕示とか、権力誇示とか、偽善とか、嘘とか・・・愚かさを前提にすること・・・の理を解することによって、そう意図しないでも、その人にあって素直さ、真摯さが育つことになります。ただそれが出来事にあって、現れる、です。

No.4810 - 2015/01/04(Sun) 11:39:09

Re: 謹賀新年 / ubik0101
ですから、功徳は積むということではなくて、かえって自分都合とか、欲とか、執着とか、余計なことをなくす・・・なにかを捨てる、なにかを残す、何かを得る、ことはこんなところで言い得る・・・ということです。

この世界の総ての活動は・・・捨てるも残すも得るもないのですが・・・なにかの立場にあっての視野の狭さは、その人の偏りをつくるので、万遍なく思考すること、どうせ思考を始めてるのだから・・・徹底して踏み込むこと、を試すことは無駄ではないです。

そこで、これも簡単なことですが、なんだかんだ言ったり行動したり思考したりしてる、その自分を覗き込むと、まったく何も知らない、そして世界には何も知り得るものはない。ということには直ぐ気がつくのではないでしょうか。

No.4811 - 2015/01/04(Sun) 11:48:33

Re: 謹賀新年 / ubik0101
ところで、その自分は何?と問うことは、空想を事実と混同しないこと、空想を空想と認知すること、に繫がります。それは意図しないでも、投影から脱する道を歩いてることでもあります。もしかしてですが、総ては投影、という主張は、この経緯がなかったのではないかと思います。

そうだとして、ここで言いたいのは、その人に不足なことがその人に現われる。ということです。それは世界が総てそのように見えて、その人に課題として現われる。それは真理というほどのことではなくて、課題、ということです。

でもま、たとえば・・・暑い、寒い、痛い・・・雨が降る・・・も投影なら、総ては投影ではあります。。そして、総ては一つも、その人に現われた課題ではないでしょうか。もしかして、縁起、の言い換えかもしれませんが、漠然とした表現で、縁起の生滅も言われないようで、好みではないです。

では、ついでに誰かを悲しませない人になりましょう。では悲しませない、ということは、どういうことか知ってから始めましょう。それは、自我の完成、自我の撲滅、自我の死、なんとでも言えるとして、そのようなことです。

それは・・・自我ということは、悲しみを誘うのです。人が何かをするとかしないとか、なんかを言うとか言わないとか、なにかを考えるとか考えない、とかではなくて、自我は、悲しみを誘うのです。その悲しみを隠して、しっかりしろと、たぶん阿修羅は怒るのです。それだけのことです。

No.4812 - 2015/01/06(Tue) 11:16:14

Re: 謹賀新年 / hato

ゆっくりしているのに,とても早く,多くのことがあっという間の高速です。

そんなことも,あんなことも,とくに問題なしの我が家の2猫。相変わらず,ケージの上や寝床で,いつかのこんな具合に,くっついています。

No.4813 - 2015/01/10(Sat) 23:55:02

Re: 謹賀新年 / ubik0101
では、これまで見て見ない振りをしていた、電車で立ってる老人、妊婦に、勇気を奮い起こして席を譲ったとします。あるいは道で転んだ、どこかの子供を思わず助け起こした、とします。これは功徳に勘定されるでしょうか。

そ、かもしれません。けど。これは自分に起こってることの明細が解らないのです。そこでヤカンが熱っ、と手を引っ込める、思考なし、動機なし、が素敵なことになってしまうかもしれません。しかしそれは世界がそのように見えるという、やはり人に現われた課題です。

そしてそれは思考と思考でないことを分離してしまうかもしれません。なるべくですが、なにか行動したり、発言したり、思考したりしてる、その奥を探査する、その自分は何?を推奨します。なぜかは知りませんが、それが思考の性質を見て、それに振り回されない、特質を育てるからです。

No.4814 - 2015/01/11(Sun) 09:48:54

Re: 謹賀新年 / ubik0101
ずっと前TVで見た、アフリカあたりの原住民?は、村の誰かが病気になったり死んだりすると、これには原因がある、呪いに違いない・・・つまり因果の思考です・・・と、いうわけで犯人探しをして、とりあえずみんなで槍を持って隣村を攻撃して仕返しをするのだそうです。

そのように思考というのは、あまりに自由で、空想と事実との違いもなく、落としどころがなく、何か対象を、結果・・・時間を遡って原因・・・を求めて、固着しやすいのです。たとえば葛藤の、自我の苦しみを、過去の責にするのは、責任転嫁かもしれません。

たとえば人類が大昔に道を誤ったとか、宇宙130何億年の因果の結果、このような人、社会になってる。いつかこんな意見を見たことがあります。こんな意見の愚かさに不快を憶えます。そんなこと、この風光の、どこにあるのでしょう。

No.4815 - 2015/01/11(Sun) 09:50:34

Re: 謹賀新年 / ubik0101
なにか対象に固着して責を押し付ける姿勢。問題は、そこにあるかもしれません。それでは、こう言ってるこの意見、はどうなのでしょう。無限退行でしょうか?もしここで、思考は自在だけど、空想だけど、それ自身の拠り所を求めて、対象に固着する性質がある、に気がつけばいいだけです。

それを、どうしてもどうしても思考が届かない、この自覚でき得ない自分に、思考が教えてる、です。それで思考のそんな性質を見ると、思考と思考でないことを分離することも不要です。また、狭い思考の領域にいると、その思考はそれを思考する人の根拠をつくってしまう傾向にもあります。

その思考にはその破綻が見つかります。予め破綻して生起する性質もあります。くり返しますが、もう思考を始めてるのです。ならば徹底的に思考するのです。そう特別なことでも、困難なことでもなく、思考そのことが導くので、それを見ればいいだけです。

No.4816 - 2015/01/11(Sun) 10:12:04

Re: 謹賀新年 / hato

一番寒いこの時期には,ubik0101さんが,庭のあちこちから集めて植え替えた水仙がたくさん,大きな桜の木の周りを丸く囲って咲き揃います。

日本水仙は,可愛らしく香りよく,お正月の季節にとても合います。

No.4817 - 2015/01/11(Sun) 21:50:01

Re: 謹賀新年 / ナツメ
あけましておめでとうございます。
すっかりご無沙汰していました。
お元気そうでなによりです。

> 一番寒いこの時期には,ubik0101さんが,庭のあちこちから集めて植え替えた水仙がたくさん,大きな桜の木の周りを丸く囲って咲き揃います。

もう水仙が咲いているのですね。
綺麗ですね〜。
凛としたところが好きです。
画面からこちらまでいい香りが漂いそうです。

今年もよろしくお願いします。

No.4818 - 2015/01/12(Mon) 12:06:17

Re: 謹賀新年 / ubik0101&hato
こんにちは。ナツメさんもお元気でしたでしょうか。軽やかな感じの投稿,こちらとても嬉しく拝見しております。

水仙は毎年,11月後半から12月になると咲き始めます。春,3月あたりまで咲きますね。小さいけれど香りがとてもいいので,すこしだけ切り花にして,玄関に飾っています。

今日は日中,日差しは暖かでしたが,遠州の風が吹き,乾燥した冬らしい寒さです。業者さんが来たり買い物したりで一息ついて。温かい湯豆腐で晩御飯をいただきました。

そういえば安納芋。ストーブで焼き芋にすると,ジャムのようでした。

ノンノンもチュリルも
お陰様で元気にしています。
こちらこそ,今年もよろしくお願いします。

No.4819 - 2015/01/12(Mon) 19:50:20

Re: 謹賀新年 / ubik0101
たとえば絵の具について、それはどういう印象があるでしょう?それで絵を描けます。ゴッホも、ダビンチも、北斎も、幼稚園児も・・・色で絵を描いています。いろんな印象をもたらす絵ですが、その色については、どんな印象があるでしょう。

また、音についてはどうでしょう?・・・一日中同じ曲を聞いてまったく飽きませんが・・・バッハ・・・それから時にはモーツアルト、宮城道雄、プレスリー、アルバート・アイラー、いろんな印象の音楽があります。その音、については、どのような印象があるでしょう。

では味についてはどうでしょう。触った感覚はどうでしょう。そして、言葉については、どうでしょう。詩。小説、報告書。掲示版の投稿。いろんな形式、内容とか、印象とかがあるでしょう。では、言葉そのこと。あるいは言葉による思考については、どのような印象があるでしょう。

No.4820 - 2015/01/13(Tue) 12:17:48

Re: 謹賀新年 / ubik0101
どうでしょう?たとえば金色、赤い色、甲高い音、大きな音、ささやくような音、熱い感覚、いい香り。美しい言葉。そいうのは、それだけでなんだかの印象を感じるかもしれません。でもこれはそれぞれの分野の僅かな部分にスポットをあてて、そのほかは度外視ではないでしょか?

ではなく、24色の絵の具セット、ドレミファソラシド、辞書、それが一揃いだとして・・・一部ではなく欠けるのがなければ・・・それは印象がない素材?ではないでしょうか?そして、たとえば色や音階でもそれを制限して表現する、セピア写真、水墨画、日本のヨナ抜き音階、ジャズとか、独特の印象がある気がします。

ここで何を言いたいかと言えば、素材が欠けることなく満たされてるなら、それは独特な意味をもつのではなく、ニュートラルに、自然に、透明に表現の、実用の、説明の、連絡の、役に立つ・・・それはただ素材なので、さまざまな印象を表示でき得るのではないでしょうか。このように素材と表現の区別の必要もないのですが・・・です。

No.4821 - 2015/01/13(Tue) 12:19:38

Re: 謹賀新年 / ubik0101
たとえば思考の回路も万遍なく機能するようになったら、それは、ニュートラルで、思考だからといって非難の対象にはならない、ということです。有害?な思考は自然に起きなくなっています。もしかして思考に問題を見るというのは、その人にあって、思考が未開発、ことさら思考の有害さを確認したい、ことかもしれません。

またたとえば、おなじ24色の絵の具セット、セザンヌ、ダビンチ・・・さまざまな表現。おなじ、ドの音、バッハ、テレマン、ほかの誰かも使っています。17文字の俳句、意味のある言葉の組み合わせだけでも、ほとんど無限の数?ができ得るそうです。あまりに表現を超えてる、あまりに自由かもしれません。

そしてその使い方が未熟ならば、その非難の理由は素材にではなく、その人自身にあります。それは素材に使われてるのかもしれません。そのあたりの絶妙さが面白いかもしれませんが、赤や、ドレミや、言葉に使われ、使ってる、ということもありそうです。

No.4822 - 2015/01/13(Tue) 12:24:40

Re: 謹賀新年 / ubik0101
そして、無思考状態、思考しないとか、無音とか、透明とか、それはとても大事な意味を持つこともあります。そして人の見える,聞こえる・・・帯域は、たぶん生まれつき狭い幅にあるようです。そいうことに何か面白さを感じます。

ところで、このように見てくると・・・見る聞く触る嗅ぐ、それも好きなこと嫌なことがあったりするでしょうし、思考もそうでしょう。見る聞く触る嗅ぐことと思考ともに知覚であり、とくに分ける必要もなくなるのではないでしょうか。

No.4823 - 2015/01/13(Tue) 12:31:38

Re: 謹賀新年 / ubik0101
くり返します。ピアノを上手に弾けないのは、ピアノの責ではないです。水彩、油絵の具、画素、を使いこなせないのは、やはり人が未熟だからです。いや違う、ピアノの所為、というのはおおむねですが、未熟ではないでしょうか。それで、思考が、なにか問題として、なぜそれを見る人の所為ではないのでしょう?

なんとなく思考は知覚で、受動的なことである、赤が赤であるのは自分の所為ではなく、赤が赤であるからである。そんなふうに、そこでは、もしかして思考を隔離して自分の外に見てる自分が生じてるのかもしれません。ゴキブリを見ると、どうしても嫌なのだけど凝視してしまうようなことかもしれません。

それは嫌なこと、問題であること、不快なこと、見たくないこと、それにスポットをあてて、それに依存してるのではないでしょうか?またそいう自分を守ってるのではないでしょうか?なんか気がつかないでも格好をつけてるのかもしれません?それは狭い帯域にいるのでは?こいうのも単なる一つの意見ですが、どうでしょう。

No.4824 - 2015/01/16(Fri) 07:47:58

Re: 謹賀新年 / ubik0101
もしピアノで不協和音を奏でたら、それでいいじゃないでしょうか。調子はずれ、でいいじゃないでしょうか。くすんだ濁った色でいいじゃないですか。つまんない、くだらない思考をしたら、頓珍漢なことしたら、自分で受ければいいじゃないですか。こんな簡単なことがほかにあるでしょうか。

それで、たとえば酸っぱい味が、好きでも嫌いでも、ホンキートンクが好きでも嫌いでも、なんか映画が好きでも嫌いでも、無関心でも、無関係でも。なにか思考が、好き嫌いが、好ましくても、好ましくなくても、それ、は、それ。それでピアノの達人が意図して下手に弾こうとしても困難、ということもあるでしょう。

よーい・・・どん。で世界人類全員100メートル競争をするとして、トップからビリまで、不参加者まで、総て揃います。たとえば努力、怠惰、美、醜、真実、嘘、誕生、臨終、整合、不整合、矛盾、ある、ない・・・森羅万象が、揃っています。この総て揃ってるゆえに、人は解脱します。なにかが欠けるゆえにではないです。

No.4825 - 2015/01/16(Fri) 07:49:48

Re: 謹賀新年 / ubik0101
ドレミファソラシド・・・ピアノ、バイオリン、フルート、その総ての音階が揃ってたら、奏でられる音楽は、その音としてのドレミファソラシド、楽器を超えます。単に何だかの情景とか、印象とかを現すのではなく、です。そのように、森羅万象、一切が活動するなら、世界を超えます。それが解脱です。
No.4826 - 2015/01/16(Fri) 12:44:55

Re: 謹賀新年 / hato

焼きジャムチーズトースト。

すこし前に,久しぶりに冷蔵庫にあるもので作ってみたら,パパも思い出したように気に入ってしまって,ただいま我が家のいいメニュー,です。

No.4827 - 2015/01/17(Sat) 21:12:22
なんでもない、ない、私。3 / ubik0101
おおむね思考とは空想です。たとえば2500年前の仏陀が、私は仏陀である、と言ったかどうか知りませんが、もし言ったとしたら、それは空想です。このことが分かっていたのでなければ、言い得ないです。

このこととは、思考、言葉が空想です。それゆえ、事実の表現ができるということです。どこかに書いたかと思いますが・・・たとえばトンボという言葉はトンボを現しません。それゆえトンボという言葉は,トンボを現します。

トンボと、トンボという言葉が、まったく影響を与えあわないから正確に言葉は機能します。もし僅かでもトンボとトンボという言葉が影響を与えあうなら、トンボという言葉はトンボを現し得ません。

なんでもいいですが、もし私は仏陀である、総てはひとつ、いまここ、総ては無意味、私はある、私はない、なんであれ、確かな事実・・・真理・・・と見なされるということを言うならば、この言葉の機能の理解は必須です。

でなければ、そんな人が世界にいるかどうか知りませんが・・・世人、仏陀ではない人という意味合いでの衆生・・・でも、私は仏陀、と言い得るのです。そして実際、言い得ます。なんでもいいですが、私は神、も言い得ます。

どうでもいいですが、私はナポレオン、も言い得ます。こうでもいいですが、私は、有栖川宮、とも言い得ます。まあ説明なんですが、まったく嘘と事実、言葉は同じです。では、真実はどこにあるでしょう?

これはここそこと探っても見つからないかもしれません。これは、嘘も真実もひっくるめて、森羅万象が機能する、そこで、それが、それを、それと言い得る、です。A=Aの思考と呼んでいます。なにかを言うなら、こいう理解は必須と思います。

No.4790 - 2014/12/10(Wed) 09:16:10

Re: なんでもない、ない、私。3 / ubik0101&hato

子供のころ、母が買ってくれてよく読んでいた、ブルーナさん。
ubik0101さんがみつけて、写真を撮ってくれていました。

「手がちいさいね」

と話しかけたら、にっこり微笑んでくれました。

ubik0101&hato

No.4791 - 2014/12/10(Wed) 10:14:11

Re: なんでもない、ない、私。3 / ubik0101&hato

このところ晴天が続いて畑が乾いたので、やっと芋掘りをしました。安納芋の畝です。黄色い芋のはずですが、あれ、赤いのも混じっています。

これはほかの芋の苗が混じって売られていたのでしょうか?でも、黄色と赤の中間のピンク芋もあります。うーん、赤いのはun-nown芋と呼ぶことにしました。

ubik0101

わーぃ、芋掘り〜!!畝半分くらいの場所に、ちょこっとサツマイモの茎が出ていました。初冬12月。柔らかな日だまりのなか、スコップとシャベルで掘り出してみると、なんかいとしいお芋さんたちが、「やぁ、出てきましたよ、こんにちは〜。。」な感じでした。

hato

No.4792 - 2014/12/10(Wed) 20:12:12

Re: なんでもない、ない、私。3 / ubik0101
この頃の子供はどうか知りませんが、鉛筆の側頭部をナイフで削って、自分の名前を書くという習慣?遊び?がありました。そこで鉛筆箱・・・そこ・・・に1本しか鉛筆がないなら、その鉛筆には名前を書けません。

そこで、その鉛筆を切って、つまり分離して、ほかの鉛筆をつくって、互いに名前を書くことができます。または鉛筆箱・・・そこ・・・ではないとこから違う鉛筆とか、赤とか緑とか青のサインペンとか、万年筆とかを探してくることになります。

おおむね言葉とは、そのようなこと、とも説明できます。メタ言語という言葉があるそうです。が、そもそも言葉は、最初の1本の鉛筆を超えた・・・それが、この日常とも言えますが・・・メタ《超》なのです。時間も空間も、特に言葉による思考を制約することはできません。

あまりに思考は制約を超えてるので、それに気がつかないと人がそれに振り回されて、過去や未来の空想に巻き込まれてしまい、それに気がつかない、もありそうです。この自分が自分を掘り下げることにあって、そのようなことに気がつく経緯が機能します。

No.4793 - 2014/12/12(Fri) 09:20:05

Re: なんでもない、ない、私。3 / ubik0101
つまり人が思考の過去や未来に囚われるのではなく、思考の自在さに、人の有り様が付いて行けずに、思考は過去のことだとか、未来のことだからといって、拒否反応をしてる、ということでもあります。

たとえば過去が人を縛るでしょうか?なにかの出来事が問題になるとしたら、その問題になる原因は、その出来事そのことではなく・・・たとえ同じことでも人によって反応が違います・・・問題を問題として現わにする人の有り様ではないでしょうか。

たとえば葛藤の原因を過去に求めるのは、とても曖昧な思考ではないでしょうか?問題が、いまこの現場で起きてるのだとしたら、過去の出来事に原因を求めるのではなく、この現場で解決すればいいだけのことではないでしょうか。

No.4794 - 2014/12/12(Fri) 20:21:31

Re: なんでもない、ない、私。3 / ubik0101
たとえば雪の日に寒い思いをして辛かった。それで雪が嫌いになったとします。その雪は嫌いというのは、過去についての思考です。太陽、夏、雨、風、猫、犬、鳥、虫なんでも出来事として、そのようにあり得ます。

なんだかの言葉、人間関係でも、同様です。それは、なにかの出来事、あれ、と嫌いという、これ、が繫がってるだけです。その、あれとこれ、が繫がる原因は、快不快、損得、好き嫌いに依存してること、かもしれません。つまりは因果の関係が、その快不快、損得、好き嫌いによって生じてる、です。

そこで前提にされてるためにあまりに当然で見えなくなってる、快不快、損得、好き嫌い、を基準にしないで、その基準を疑うということ、その理を解するということ・・・その簡単なことが探求です。

No.4795 - 2014/12/13(Sat) 09:35:59

Re: なんでもない、ない、私。3 / ubik0101
それは快不快、損得、好き嫌いを拒否するということではないです。雪が寒いというのは当たり前です。夏が暑いというのは当たり前です。風が困るというのは当たり前です。嫌な言葉、人間関係が辛いのも当たり前です。

もちろん猫が嫌い、好き、犬が、鳥が、虫が・・・好き嫌いどっちでもない・・・いろいろあって当たり前です。ただ辛いこと,嫌なことは、快不快、損得、好き嫌い、を曝け出しやすいので理解し、因果の壊滅、として使うと言えば言えます。

すこし話を戻します。鉛筆箱・・・世界・・・に一本しか鉛筆がないなら、その鉛筆には名前を書けません。それは、自分で自分を自覚でき得ない、ということでもあります。この、自覚でき得ない、ということを、自分はない、と呼ぶことがあります。

No.4796 - 2014/12/13(Sat) 09:38:08

Re: なんでもない、ない、私。3 / ubik0101
これに気がつくには、ほかの鉛筆・・・世界の総てが必要です。それが、知覚です。見る,聞く、触る、思考する、です。見る、聞く、触る、思考するその総ての活動こそ、自分はない、です。これは凄く簡単なことです。

どんなことでも見聞き思考でき得るけど、見聞き思考してるその自分は見聞き思考でき得ない・・・知覚とは差の認識・・・です。たぶん完全に空想ですが、犬や猫や鳥も、自分は自分で自覚できない、ない、です。

ただ人は、自分で自分を自覚できない、ない、ということを自覚でき得る、ということかもしれません。ときに知覚が研ぎ澄まされ、その活動に何も支障もないということにあって、ない、が起こる、です。

No.4797 - 2014/12/17(Wed) 17:14:18

Re: なんでもない、ない、私。3 / ubik0101
そして世界の総活動。縁起。どのような事象との関係にあってもその自分・・・自我は、ない、です。そして、実在との関係にあって、その自分・・・自己は、ある、です。それ、ある、ない、が引き続いて同時に起こったのが、あの体験です。

その読み解き・・・自我も無我も自己・真我もない、にありきるなら・・・自分で自分を自覚不可能、表現するならばですが、ない、がこの日常に確定します。なんであれ、たとえ私は神であっても、私は、ない、です。

ところで、ひとつには、この自分で自分が認識できないこと、ない、を悪用すること、たとえ自分が悪魔であっても、その自分はない、です。これが諸悪の根源です。

No.4798 - 2014/12/17(Wed) 17:16:05

Re: なんでもない、ない、私。3 / ubik0101
この自分で自分が分からないくらいだから、なにか誤摩化しても、嘘をついても、ほかの人には解らないだろう。そう思わなくても、そう、だということはあり得ます。それはいくら道の途中でも、

そいう人は悲しい、自分を誤摩化す人は、ほかの人に嘘をつく人は悲しい・・・それはその悲しさをどうこうすればいいのではなく、その愚かさが悲しい・・・♪この果てしない悲しみに救いはないだろか。

またその、ない、が善の根源です。この悪と善の根源、ない、、、まったく認識でき得る範疇のことではないのですが、それでも、たしかにそうです。これはなにかの理由を言えるようなことではなく、絶対の違いです。ない、にあっての転換。

No.4799 - 2014/12/17(Wed) 17:17:15

Re: なんでもない、ない、私。3 / ubik0101
ふつうの日常で、人は同じことを嫌いになったり好きになったり、懸命に頑張ったり、成功したり,失敗したり、飽きたり、忘れたり、泣いたり笑ったり怒ったり、また様々なことを経験しています。

それがそれです。生まれることが因果の始り、死ぬことが因果の終わりこの日常。あるない、快不快、損得、好き嫌いも、仮のものです。そいうことを設定して、因果の生起と壊滅を経緯。探求してるだけです。

いつも言うことですが、人は自分の言ったことを聞くことができます。思考したことが分かります。行動したことが自覚できます。なにか大事なことがあるとして、これだけです。探求とは、この日常です。

No.4800 - 2014/12/17(Wed) 17:18:34

Re: なんでもない、ない、私。3 / hato

いい,わるいでない,善いを。

この日常に

それは,なぜそうなんでしょう。


この休日は,掃除をしたり,検診に行ったり,クリスマスの小さなサンタさんを買いに行ったりしました。庭のもみじが今までになく紅葉しているので,こちら雪はないけれど,空気が冷たいのでしょう。

No.4801 - 2014/12/17(Wed) 21:57:22

Re: なんでもない、ない、私。3 / ubik0101&hato

我が家に来てくれた,

小さなサンタさんたちです。

No.4802 - 2014/12/18(Thu) 22:37:44

Re: なんでもない、ない、私。3 / ubik0101
もっと普通の生活で言うと・・・たとえば悪事をする人に、なぜそんなことをする?と聞いたとします。すると、理由なんかない、と答えるかもしれません。そして善を行う人に、なぜそんなことをする?と聞いたとします。

すると、理由なんかない、と答えるかもしれません。どちらも、善も悪も、理由なんかない、という同じ答えです。なにが違うのでしょう?理由が、ない、と言いながら何か理由を隠してる?心根が違う?言動そのことが違う?ほんとは善悪などない?

あるいは・・・それは人のために、自分のために、それを世界が望むから・・・なんとでも、悪をする人と、善をする人と、まったく同じ答えをするかもしれません。まったく同じ言動でも、違う言動でも、善悪はあるかもしれません。ではその違いは、どこにあるのでしょう?

これを、ここでなんと思考しても、それは限りがなく続き、総てが誤りで、総てが空想です。そうでなく、ただ大事は、そう思考してる自分がどうであるか?だけ、です。空想ではなく、事実、真実を探求する心根は、そう意図しないでも、そういう姿勢になります。

No.4803 - 2014/12/27(Sat) 09:15:53

Re: なんでもない、ない、私。3 / ubik0101
いろいろ考えたり探ったりしてるその自分は何?これより簡単なことはなく、これが総てを壊滅させます。そしてその自分はない、そこで、理由が、ない、善と悪の説明として、なぜそんなことをする?と聞く、そんな説明ができ得る、ということです。

たとえば世間のこと、それは自分で自分を自覚でき得ない、自分、を管理するために、空想の人間関係を構築する・・・それを脱して、周囲に人がいない、孤独、とかいうことではなく・・・一人あること。も、そのようなこととして説明でき得る、ということです。

たとえば自我・・・それは知り得ない、ない、自分を、台風のように周囲を騒がせて知ろうとして、ある、こと。静かな湖をかき回して、その静かさを知ろうとすること。として、説明でき得ます。ならば自分は何?と問うのも問題。でも探求しないこと、静かなことが、自我、もあり得る。というほどのことです。

ここにあって、なにかを残し、なにかを捨てる、ということではありません。この総ての活動が、世界の総ての活動が、それ、です。その総ての活動ゆえに、なにか特定の、個別の物事であることが、不可能だ、にも関らず、これはこれ。ということです。世界とは、こんな不可能を日常にしてるのです。 

No.4804 - 2014/12/27(Sat) 09:19:44

Re: なんでもない、ない、私。3 / ubik0101
たとえば、たしかに世界には、静かな自我の人が配置されています。そいう人に向かって、静かさが増せば悟りに近いと言っても、無駄というか、逆効果かもしれません。だからといって、適時適時に助言するのではなく、なんであれその人が生きる。ということです。 

それで言えることは、なにかを捨て、なにかを得るということ、そのような選択の範疇にないことです。なにかを、たとえば情を、空想の人間関係を捨てることは、1人あることを反映したことであり、なんだかの修行の経緯としてはあるけども。

説明としては、総てを捨てることが得ることとは、なにかを捨てる何か得ることの範疇にない、です。そいうことを簡単とか困難だとか思うのは、もう空想です。ただ何であれ、たとえそいう空想をする自分を問うならば、道と道でないことがあるわけではないけれど、迷うことは困難な傾向にあります。

No.4805 - 2014/12/27(Sat) 12:27:19
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