それで、結局は、いったい何が問題?たとえば思考が問題だ。感情が問題だ。分離が問題だ。投影が問題だ。因果が問題だ。過去,未来が問題だ。欲望が問題だ。不公平が問題だ。嘘が問題だ。争いが問題だ。問題が問題だ。
いろいろ言われるでしょう。それはもしかして問題がないという意味で解決された日常から見て、いくつかの問題の例として説明されたりすることで。そもそも問題の核心が解決されてからの、さまざまの説明かもしれません。
なにか核心?その人?が解決されてれば、思考。感情。分離。投影。因果。欲望。不公平。好き嫌い、嘘、争い・・・などの個別なことは、それが解決されたと意識認識できないでも、また意識認識するまでもなく、解決されてる、それを探り説明するということでもあります。
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No.4914 - 2015/06/04(Thu) 15:50:24
| ☆ Re: / ubik0101 | | | ここは微妙ですが、それで、なにかそのような思考などの個別のことは。それが解決されれば総てが解決するような、問題の根源、なのでしょうか?もしかして思考の問題を解決したら、分離とか、投影とか、因果とか・・・修行法?だとしても・・・総てが解決されるよな、問題の根源ではないかもしれません。
くり返しますが、その総ての根源が解決されるので、なにか個別のことが原因として説明され得る。その思考。感情。分離。投影。因果。欲望。不公平。好き嫌い、日常・・・でもそれは、何も問題でないのに、問題だということにして、問題をつくって説明するということもあるでしょう。
でも、もしかして、思考。感情。分離。投影。因果。欲望。不公平。好き嫌い、日常、争い・・・何もかもが問題なのかもしれません。つまり、なにも問題ないかもしれないし、なにもかも問題なのかもしれません。では一体、これはどういうことなのでしょう。
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No.4915 - 2015/06/04(Thu) 15:51:58 |
| ☆ Re: / ubik0101 | | | なにかほかのことを問題と感じてしまう。なにか問題だ、と言う、その自分は自分で見えないから度外視されてしまってる。実はそれが問題、ということもあるでしょう。つまり問題と、見えない自分、ない自分、を切り離して解決、とするわけにはいきません。
たとえば投影は問題だ、と言う人は、いるかいないか解らない誰か空想の誰かをつくって、そんなことを言う・・・つまり投影してる・・・ということもあるでしょう。それは投影は問題だということを投影において主張することで、投影は、役にたってはいるのです。
あれこれ探ると、なんだか複雑で、一筋縄ではいかない、思考。感情。分離。投影。因果。欲望。不公平。好き嫌い、日常、争いなども、功罪両面が見えると、功罪の判断そのことが、判断する立場が成立しなくなります。
そして問題が起こらないこれは、ある時そうなったともいえるのですが、もともとそうだった、とも感じます。が、そう考えることは解釈で、すでに問題なくこうであるのだから、あるときそうなっても、もともとでも、どうでもいいと言えます。
ララベリーの実です。
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No.4916 - 2015/06/04(Thu) 15:53:57 |
| ☆ Re: / ubik0101 | | | そこで、その自分は何か?が大事なんだ、とするとしても、それもまた個別の項目になるなら・・・また自分で自分を知覚できず、個別のことでは自分は思考できない・・・にっちもさっちもいかない、です。
それで。思考。感情。分離。投影。因果。欲望。不公平。好き嫌い、日常、争いの、ある、ことに依存することはあるでしょう。それの、ない、ことに依存するということもあります。ここで思うのですが、なにかに依存したり、しなかったり・・・してるなにか自分は、まったく自分で自覚でき得ません。
たとえば思考。感情。分離。投影。因果。欲望。不公平。好き嫌い、日常、争い・・・生に囚われ、死に囚われ、生に囚われず、死に囚われない・・・この、それらと関りながら関らず、とくにそれらと同じとも、別のなにかとも言えない・・・まったく自覚され得ない、あるともないとも言えない、これ、とも言えない。です。
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No.4917 - 2015/06/04(Thu) 16:02:08 |
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