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みどりの庭から。 / ubik0101&hato
ゴブレット仕立てのイチジク、桝井ドーフィンです。今年から本格的に実がなり始めました。
No.4739 - 2014/10/07(Tue) 12:08:09

Re: みどりの庭から。 / ubik0101&hato
4つに切ってナイフで皮を剥くと、これがなかなか、儚いような繊細な味覚です。これまで桝井ドーフィンは雑味が気になっていたのですが、これなら全然OKです。

と、思っていたのですが、近所からもらったものは、同じように皮を剥いても、うーん、でした。これは収穫時期とか、樹齢に関係あるのかもしれません。

そいえば去年の秋、木の周りをドーナツ状に掘って、たくさん藁を鋤き込んだり、微量要素だけの肥料、ハイグリーンを撒いたりした効果もあるのかもしれません。

ubik0101

ubik0101さんの今年のイチジクは,ふしぎとまったく雑味のない、スッキリさわやかに甘い、奇跡的な味わいでした。会社の舌のこえた同僚がひとつ食べ、「こんなに美味しいイチジクは初めて食べた、いままでイチジクって美味しいものだと思わなかったの。」と言ってくれました。
とても嬉しくなりました。

hato

No.4740 - 2014/10/07(Tue) 12:26:48

Re: みどりの庭から。 / ubik0101&hato

それで、お世話になってる人のいい社長さんに採りたてをお裾分けしたら、次の日、さっそくジャムにしてきてくれました。本当は、そのまま頂いてほしかったのだけど、イチジクはジャム、て決めてるようでした。

それがまた、ちょっとすてき、な出来で。ほとんど砂糖を入れないで作ったそうで、心憎いほんのり朱の色味と、イチジクのよさが活きた、ささやかに上品な味でした。よほど美味しかったんでしょう、ubik0101さんがあっ!。。という間に食べてしまいました。

hato

No.4741 - 2014/10/07(Tue) 12:42:32

Re: みどりの庭から。 / ubik0101&hato
これはナザレという種類のイチジクです。熟しても皮が黄緑です。癖のない甘さで、上品です。たぶん来年には、リサ、カドタ、セレスト、ブリジャソット・グリース、ビオレソリエスなどが結実しそうな気配があります。
No.4742 - 2014/10/07(Tue) 12:51:37

Re: みどりの庭から。 / ubik0101&hato
パッションフルーツの実、紫色になって自然に落下したのを拾って、全体にしわしわになるまで追熟しました。その間、とてもいい幸せの香り・・・ふたつに切って食べてみると、これが意外に甘くて、フルーティです。この前どこかで買ったのは、皮が黒く固かったので、食べごろを過ぎてたのかもしれません。これなら畑に棚を作って植えるのも、充分にあり、です。

ubik0101

ほんとに香るたび、気持ちも身体も華やぐようです!味はグァバのようで、でも実がやはりパッション。噛むとパチン、パチン、と鳴ります。

hato

No.4743 - 2014/10/08(Wed) 22:17:15

Re: みどりの庭から。 / ubik0101
たとえば優しさとは何だろう。どんなことなんだろう?思考してみよう。暖かく人に接することだろうか?いや厳しさが必要なら、ときに非情になることだろか?

いや、そのようなことの程度問題の関係ではなく、どのような・・・旅人に対する太陽にも北風にも拘らず・・・極端に偏らないこと、そんな思考には囚われないこと、だろうか?

いや、どこまでも許すということだろうか?いいえ、優しさとは、そのようなさまざまな状況の空想、つまり対象として思考され得ることではなく、単に、この自分が、ない、ということです。

このように、あるいは様々に思考したり、行動したり、発言したりしてる、この自分が、ない、ということ、それゆえ優しさは様々に探る思考には掴めないと、思考されます。

No.4744 - 2014/10/30(Thu) 10:07:11

Re: みどりの庭から。 / ubik0101
そいえば今年の祭典委員の集まりで、お菓子や玩具とかは50円くらいのものだし、利益を出す必要はないので、子供みんなにタダであげたら?という意見がでました。

すると祭典委員長が、それだと、あの子は貰えたのに、自分は貰えなかった、という不公平があるかもしれない。だから、公平を期すために売るほうがいい、と答えました。

祭りの射的に並ぶ子供達です。コルクの弾3発で50円です。

No.4745 - 2014/10/31(Fri) 09:30:01

Re: みどりの庭から。 / ubik0101
うーん、ある意味では納得?ある意味では納得できない?ところで公平とは何だろう。この村の祭典委員や役員を決めるのに、公平さが問題になったりすることもあります。

これも、様々な事例を思考すると結論は困難かもしれません。さらに善とは、何だろう。どれも実は、自分は、ない、その特質ではないだろうか。

今年も電飾屋台を引っ張って歩きました。

No.4746 - 2014/10/31(Fri) 09:33:20

Re: みどりの庭から。 / ubik0101
すると、優しさ=公平さ=善とか思考してしまいそうですが、それは自分が、ない、そのことそのものではありません。ない、に気がつく経緯として、それらは役に立つこともあるということです。

またたとえばさらに注意深いこと、誤摩化さないこと、それらその経緯を、一つしかない道として拘ることも、どの道を通っても結果は同じとかも、さらさら不要です。

それら優しさは、公平さは、善・・・は、その人がそうと、認識しなくても、認識しても、そう、です。この自分がない、ということも、そう認識しなくても、しても、そう、です。

この自分が、ない、ということは。自分で自分を自覚できないということは。人が完全だということです。あくまで喩えですが、部屋や庭でも手入れが行き届いてないところが目立つのです。

もちろん優しさは、公平さは、善・・・は、自分を守らないこととか、ほかの結論をだすこともできるでしょう。それで無問題。なにを誰がなんと言おうと、それはそれ。

フェイジョアの実、だんだん大きくなってきました。

No.4747 - 2014/10/31(Fri) 11:17:23

Re: みどりの庭から。 / ubik0101
たとえばフェイジョアは、どうだろう。村の秋祭りは、どうだろう。綿菓子はどうだろう。もしかしたら、好きかもしれません。嫌いかもしれません。

それは過去かも、未来かも、嬉しいかも、切ないかもしれません。また知らないことも、無関心なこともあるでしょう。もしかしてそれは人それぞれかもしれません。

ここで、さまざまなもの、こと、たとえば子供達が乗る電飾屋台、と祭り青年、あれ・・・感覚や感情、これ。その、あれと、これを結びつけてる何かを認識できるでしょうか。

No.4748 - 2014/11/02(Sun) 09:05:33

Re: みどりの庭から。 / ubik0101
つまり、あれ、と、これ、を結びつけてる、関係づけたり、関係がなかったりする、させる、その中心、その、なにかは、ある、でしょうか?これは、認識することができないかもしれません。

ない、かもしれません。逆に言うと、なにかがあって結びつけるのではなくて。あれこれを結びつけるから、結びつける中心、何かが、ある、ように感じるのではないでしょうか。

けど。この自分にあっては中心が、ある?ない?を、探ってみると、なにか、あるように感じるかもしれません。しかしそれは探る前提が、すでに、この自分があるから始まってるから、あると感じなくては変なのです。

No.4749 - 2014/11/02(Sun) 09:23:09

Re: みどりの庭から。 / ubik0101
たしかに認識できるのは、それ、と、それ。たとえば横笛、太鼓の音、夜の風、家々の明かり、そのさまざまな印象、気分、感情、さまざまな思考・・・です。それは知覚にあってはそうです。

ここで。これは関係だけがあるのです。関係づけるもの、結びつけるものがなく、関係だけがあるのです。と、いうのも思考です。すでに、そう思考する必要はありません。

もちろん、なにも結びつけなければ世界は無意味だ、とか。その自分が、ない、ということも思考するとしても、それに依拠する必要はありません。

そこで、それでも祭りの後、秋が深まり、青空が澄み渡り、隣家の娘が飼い犬に引っ張られるように笑いながら散歩する・・・この神秘、驚異。これが楽しく幸せでない人はいるでしょうか。

2年間任期の祭典委員の打ち上げに行った店のトイレに、水鉄砲がありました。

No.4750 - 2014/11/02(Sun) 09:31:17

Re: みどりの庭から。 / ubik0101
ただ、なにかと何かを結びつけることも、なにも問題はないです。不適切な、結びつけが問題?結びつける自分があるのが、問題?いいえ、なにも問題はないのです。 

ただ、なにかの結びつきがない解放を提示するために、とりあえず説明として、たとえば思考に、プロレスで言えばヒール、悪役をやっていただく、ということです。心理的な過去未来を、悪役としてキャステングする、ということです。

ところで仏陀は、縁起を説いたと思われてるかもしれません。しかし、そうではなくて縁起の生起と消滅を説いたのです。あれとこれを結びつけること、それがその形式です。

その消滅、それは、いまここ、と呼ばれ得ます。無明の撲滅は望ましく、心理的な思考だけでは人生がもったいないし辛いだろうから、そいうことを明らかにするために、あるとかないとか分離とか融合とかに、悪役を演じてもらうということです。

No.4751 - 2014/11/02(Sun) 13:15:46

Re: みどりの庭から。 / ubik0101
それで、ここ静かな岡の片田舎では、なぜだか、プロレスで言えば、総てはひとつとか、いまこことか・・・そんなこと認識してもしなくても、それはそれ・・・に悪玉をやってもらっています。

ひょっとこも祭りとなると、なかなかいいことを言うものです。

No.4752 - 2014/11/02(Sun) 19:05:16

Re: みどりの庭から。 / hato

楽しみにしていたフェイジョアの実が落ちたので、パパが早速とってきました。日付と品種を書き、2週間追塾させます。マスカットに似た香りがしています。

No.4753 - 2014/11/03(Mon) 09:58:32

Re: みどりの庭から。 / ubik0101
たとえば、誰かから嘲られたとします。そこで反対意見を言ったり、怒ったり、我慢したり、嘲り返したりするとします。それは、なんのためにするのでしょう。

まあ自然な反応とか、習慣とか、みんなそうしてるからとか、嘲る人に対する教育的指導とか、いろいろな理由はあるかもしれません。

しかし、それは嘲られた自分を守ろう・・・攻撃は最大の防御・・・それをそうだと認識しなくても・・・だということもありそうです。

No.4754 - 2014/11/05(Wed) 19:44:26

Re: みどりの庭から。 / ubik0101
そうだとして、何を守ってるのでしょう。そう、ない、を守ってるのです。反撃したり、無視したり、恨んだり、逃げたりして、ない、を守ってるのです。

でも実は、ない、なら守る必要はないのです。それが明らかならば、そこに人間関係にあって、優しさが、公平さが、善が醸し出される、です。

そうではなく、たとえば優しさが、公平さが、善が、どういうことかと具体的に対象として思考して定義しようとしても、定義できないのではないでしょうか。

No.4755 - 2014/11/05(Wed) 19:47:10

Re: みどりの庭から。 / ubik0101
また優しさは、公平さは、善は、自己犠牲とか、受動性とか、争わないこととか、それを対象にして思考するなら、その反対の、類似の、無関係の思考に紛れ込みます。

そのように思考は(実は、発言は、行動は)、定義され得ない、結着され得ない、ということにあって、そんな思考に頼ることはできない、ということを常に訴えてるのです。

あーでもない、こーでもない、どーでもないと思考する葛藤は探求ではなく、そんな思考の仕組みに依存してるだけです。ここで人がそれに顛倒してるだけです。

No.4756 - 2014/11/05(Wed) 19:52:08

Re: みどりの庭から。 / ubik0101
この自分が、ないなら、顛倒のしようもないのです。依存のしようもないのです。優しさ、公平さ、善(その思考)に、依存の必要もない、のです。

いつだって思考は予め破綻して、生起してるのです。ここでは自分は、ない、ということで説明していますが、とくにそれに拘る必要はありません。

No.4757 - 2014/11/05(Wed) 19:54:17
(No Subject) / ubik0101
もう数年前になりますが、手術の後、集中治療室で寝てると。先生、先のことを考えたことがありますか?そうか、ありますか。それで不安になって、飛び降りたのです。と、隣のベッドの高齢のCENSORED未遂患者が医師に話していました。

そうなのでしょうが、過去未来を思考するから不安なのでしょうか?という疑問が生じます。そうでなく不安が、未来を思考したら、不安です。屈辱が、過去を思考したら、屈辱です。も、ありそうです。

たとえば明日はエンジン草刈り機で作業だ、と思考するとして。面倒が、明日は草刈りだ、と思考すると面倒で。不安が、思考すると、不安で。楽しみが、思考すると、楽しみでしょう。明日は映画だ、結婚式だ、とかでも同様です。

No.4715 - 2014/08/21(Thu) 09:51:46

Re: / ubik0101
ここで思考は、特定の個別のなにかに絞り込まれた具体的な、たとえば貯金残高がいくらだとか、過去の出来事とか、アイテムとしての思考だということ、です。たとえば不安は、その思考という拠り所をつかまえることで不安を持続できます。

そして、その拠り所、思考は・・・あーでもない、こーでもない、どーでもない、と限りなく展開でき得ます。くり返しでき得ます。その思考は空想です。

つまり、特定の個別な具体的な思考でありながら、限りがない空想です・・・そのような矛盾のループ形式にあって、いわゆる心理的思考、葛藤が成立し得ている、ということです。

No.4716 - 2014/08/21(Thu) 09:53:45

Re: / ubik0101
しかしそんな形式はその形式に根拠があるだけで、その外に、なんの根拠もありません。たとえば貧しい、嫌われてるからといって、それを根拠にして思考のループに加えなければ、それが根拠にはなりません。また、そのようなことは変化し得ます。

また、たとえば不安は、心配に変わり、怒りにかわり、憎しみに変わり・・・条件が変わるだけで、慈しみにも変わる・・・つまり、それもたしかな根拠がないのです。この根拠のなさこそ・・・いかなる根拠もない・・・実は、それだけが平安です。

どうでもいいですが手術の前日、医師と看護士に、睡眠誘導剤を出しますか?と聞かれて、とくに眠れないとも思わなかったので、いいえ、と言いました。ふつうに眠りました。

No.4717 - 2014/08/21(Thu) 10:06:54

Re: / ubik0101
あーでもない、こーでもない、どーでもないの思考は、ないことの空想です。それは数?に限りがない、です。けど、いま眼の前になし得るあることはこれ、ひとつ、です。これほど簡単なことはありません。
No.4718 - 2014/08/21(Thu) 15:30:24

Re: / ubik0101&hato

昨日,御前崎の灯台まで坂を上ってみました。

凄いパノラマが眼下に広がり,ちょっと上るだけで,けっこう景色が違うようだと驚きました。

残暑の夏の,青い海。

太陽の輝きが海に反射して,光でできた海のようでした。

No.4719 - 2014/08/21(Thu) 22:40:34

Re: ubikさんへ / 図書館閲覧者
こんにちは。お久しぶりです。
ちょっと質問してみたくなりました。


>不安が、未来を思考したら、不安です。屈辱が、過去を思考したら、屈辱です。

> 面倒が、明日は草刈りだ、と思考すると面倒で。不安が、思考すると、不安で。楽しみが、思考すると、楽しみでしょう。

>たとえば不安は、その思考という拠り所をつかまえることで不安を持続できます。


不安や面倒さや楽しみは、通常「感情」或いは「気分」という範疇にくくられ、当人にとって問題化する感情や気分は、「認知のバイアス=習慣化した思考活動によって生み出される」という文脈で語られることが多いようです。

(赤ん坊には思考からではない感情や気分がありますが、思考と結びつくことが無いので、当人にとって問題化することなくその場その場で終わってゆきますね)

ところで

ubikuさんの文脈では、「感情や気分が、感情や気分それ自身の根拠にするために思考を利用する」と語られているように思われます。

とすると

ubikuさんの中では、感情や気分の発生は、どのような経緯で発生すると思われますか?

「知覚との相互依存性」ということになるのでしょうか?

それとも知覚も感情も思考も、ただ、世界が「根拠のなさの平安」を我々に教えるために、準備してくれているもので、どのようにでも結び付けられるし、その結びつきに必然性は無く、本来それ以上でもそれ以下でもない、という感じなのでしょうか?

No.4720 - 2014/08/22(Fri) 13:21:27

Re: / ubik0101&hato
その気分や感情と、思考は・・・ループの関係・・・相互依存・・・にあって、発振状態。たとえば葛藤、その問題が解決されるまでは、間欠泉的にも持続され、解決されるとその相互依存は解散するのが普通だとします。

そのループの関係は何の上に成立してるか?と言えば、たぶん、なにもそのフィールド、基礎はないんじゃないかと、思います。あるとしたら、ふつうの日常です。なにか問題が解決したら普通の日常であるように、です。

ループが成立してなければ、この問題となる気分、感情はない、とも言えるのですが・・・あるいは気分感情はあって、怒っても、悲しんでも、不満でも、問題ない、です。そして、それらがなくても、問題ない、です。

ここです。なにか問題があるとか、なにか問題が感じられる気分、感情とか、思考・・・アイテムとしてのそれ・・・を見るのもありですが・・・探求者はそれを見て探求するのですが・・・それだけではなく、

それがないでも、問題意識がなくても問題ない、ということの活性化は望ましいかもしれません。いわばループが解散したそれ、が日常で。その日常には、初めに戻って、そのフィールド、基礎は、そのほかに必要ないです。

続きます。

No.4721 - 2014/08/22(Fri) 21:12:23

Re: / ubik0101&hato
>ubikuさんの中では、感情や気分の発生は、どのような経緯で発生すると思われますか?

バイアスがかかって、過去とかが基準になって・・・と、いうのはそんな説明様式で、思考のものです。が・・・それでもいいですし、気分や感情が自然発生でもループであれば、ループに変わりないです。

葛藤は現場で起きてるんだ!その怒り、不満は、捏造されもするし、過去も未来も捏造でしょう。探求はその原因を探ることでもあり得ますが、それだけではなく、葛藤がないことを目的としての探求が平穏でもないし、

とくに葛藤がないことは、ご褒美というか副作用のようなことですが・・・もともとないとも言えますが・・・犯人探しは推理小説のように面白いから、つい葛藤の原因探しをやってしまう、と睨んでいます。

>それとも知覚も感情も思考も、ただ、世界が「根拠のなさの平安」を我々に教えるために、準備してくれているもので、どのようにでも結び付けられるし、その結びつきに必然性は無く、本来それ以上でもそれ以下でもない、という感じなのでしょうか?

と、いうような認識もあるわけではないです。たとえ人は葛藤の人生を送ろうと、平穏であろうと、どうでもよいところです。そのどうでもよさが、葛藤の根拠ともならない、というだけです。

No.4722 - 2014/08/22(Fri) 21:24:56

Re: / ubik0101&hato
蛇足です。

そんな日常とは何だと言われても定義できませんが・・・たとえばですが総てはひとつながりで、ある。総てはひとつながりで、ない。このどちらか片方でも、両方を認めても誤りと気がつく、そこ。です。

あるいは、見るものは見られるもので、ある。見るものは見られるもので、ない。この片方だけでも、両方あっても、どちらも誤り・・・と、するとその思考そのことが消滅してしまう、その、これ。です。

それを言葉でいえば、この日常です。それはほかのことの根拠にもできない、また根拠にもならない・・・ループの関係が成立しない・・・それゆえ成立し得るとも言えないことはないですが、ま。そうまで考えてないです。

あるいは塩が水に溶け込んで、溶け込んでることは見えない海・・・まったく分離できない。それゆえそれが海と呼ばれるように。

もし塩と水、分離したら海とは呼べない・・・説明すればですが、解脱が分離できず溶け込んで抽出し得ない、これが日常と呼ばれるです。

ubik0101

お久しぶりですね。図書館閲覧者さん。
こちら忙しいのか暇なのかよくわからないまま、粛々と、夏の日が過ぎていくようです。昨晩は流しそうめんを出すという宴会に行きましたが、会場が混んでたので特等席になって、とくに流れないそうめんでした。

hato

No.4723 - 2014/08/22(Fri) 21:26:53

Re: / 図書館閲覧者
ubikuさん

>葛藤の人生を送ろうと、平穏であろうと、どうでもよいところです。
>そのどうでもよさが、葛藤の根拠ともならない、というだけです。



それが


>この根拠のなさこそ・・・いかなる根拠もない・・・実は、それだけが平安です。


という表現になられたのですね。
了解です。



hatoさん

ようやく昨日あたりから夏らしい日差しが戻ってきましたが、こちらは雨続き、曇り続きの8月でした。
農家の方々は日照時間不足を懸念されています。

No.4724 - 2014/08/23(Sat) 09:13:55

Re: / ubik0101
hatoさんも、とてもお気に入りの100円ショップで買った赤い目覚まし時計が動かなくなってしまいました。もう売ってないかもしれません。
No.4725 - 2014/08/27(Wed) 00:16:23

Re: / ubik0101
そこで今日、無印で、ちょっと似た感覚の時計を買ってきました。これはこれで良し、です。でも、いつもの窓枠に置くには、文字盤の角度が上を向きすぎで、見にくいです。
No.4726 - 2014/08/27(Wed) 00:24:16

Re: / ubik0101
そこで天啓のように閃きました。100円ショップの時計、じわっとガラス面を指で押してみると、なんとケースと機械は両面テープでくっつけてるだけで、外れました。
No.4727 - 2014/08/27(Wed) 00:28:39

Re: / ubik0101
そしてなんと、そのケースに、無印の時計が、すっぽり入ったので、とりあえずはセロテープで止めました。うむ。なんか高級感も醸し出しているよな気がします。
No.4728 - 2014/08/27(Wed) 00:34:04

Re: / hato

お気に入りの時計がリニューアルされたようで、とっても嬉しい!。初めに見つけたのは5、6年くらい前か、神奈川の「なんでも百円ショップ」で、たしか黒、赤、青、シルバーが揃っていました。なにしろ、100円で超かわいいミニ時計です。たしか、シルバーはその頃の仕事の時に使っていて、退職の際、同僚さんに差し上げて、青いのも家にあったと思います。

文字盤がスッキリしました。前のもすきだったけど、印象が変わって、これも素敵です。

No.4729 - 2014/08/27(Wed) 00:55:34

Re: / ubik0101
たぶん、葛藤、心理的思考は、その葛藤、心理的思考にしか、それがそれである根拠はないように思います。つまり、ほかのことに根拠はない、ということです。

この窓から見える向かいの家の屋根に、
テレビのアンテナがあります。あのアンテナの原因は、
あのアンテナにしかないです。青空の原因は、
青空にしかないです。
ここに鳴く蝉の声の原因は蝉の声にしかないです、ん?

で、ここで言いたいのは・・・葛藤の原因探し・・・たとえば犯人探しの推理小説を読み進めても、犯人は見つからない、ということです。その人のほかに・・・つまり、その小説に登場しない、その小説を読んでる、その見えない自分が犯人だ、です。

No.4730 - 2014/09/05(Fri) 12:01:03

Re: / ubik0101
たとえば貧乏だからといって、誹謗され悩むことはありそうです。でも裕福だからといって、あるいは平均的だからといって、そんなことに関らないといって、誹謗され得ます。おなじ事態で尊敬され得たりもします。

その人が事実誹謗され得る状態がどうかというよりも、誰かから誹謗される、誹謗する、という事実が打撃。理由はなんであれ、その自分が、その誰かが、悩むということが悩む、誇るなら誇るということでもあります。

くり返します。あらゆる推理小説を読んで、犯人探しをしても、そのどれもが実は、犯人は読んでるその人です。それで探求は、どこから始めてもいいです。そんな人間関係があれば、それから始めればいいです。

No.4731 - 2014/09/05(Fri) 12:07:48

Re: / ubik0101
そこで葛藤の思考(アプリケーション)には・・・たとえば自分が嫌いな人からも好かれたいとかいうこと・・・それは思考としては見えないけど・・・が背景(OS)として前提にされ隠れてるかもしれません。

そこでは貧乏だから裕福になればいいとか、誹謗されるなら尊敬されればいいとか思うなら、それは依然、葛藤の思考の範疇です。たとえ尊敬されたいと望んでいることも、また尊敬されても、なんの解決にならないで、葛藤の状態にあるということ、

その実は葛藤を通じて、自分とは何か?を探求してるのだからです。でないなら、なんの葛藤も起きようがないのです。また葛藤が、自分は何?ということでなければ、葛藤になんの意味もない無駄なことです。

No.4732 - 2014/09/05(Fri) 12:19:02

Re: / ubik0101
とりあえず何だかの思考の
背景を探るということは
探求になり得ます。ただその背景は単純ではなく
たとえば自分が嫌いな人からも
好かれたいとかいうこと、だけではなく、
自分は完全でありたいとか、権力欲とか、
自分を守りたいとか、素直でないとか、
複合されてることが多々あります。
それはその人にとっての背景であり、
その人がその人を探ることに意味があります。
ほかの人、また人一般を探っても、探求ではありません。

そして実際は、そのような探求は、そんな葛藤、心理的な思考の探求の狭い範疇には収まることができません。ときに詩となり、ときに絵となり、日々新しい展開が進みます。

ならば、嫌いな人は、ただ嫌いでいいです。嫌いな人からも好かれたいというようなことはなくていいです。また、自分は完全であろうとする、そのままでいいも、必要はありません。

No.4733 - 2014/09/05(Fri) 12:26:54

Re: / ubik0101
たとえば嫌いと好き、損と得、快と不快、
それは相互依存にあって成立します。ただ、嫌いなら、
嫌いでいいです。ただ嫌いは、その反対がなくては、
たとえばN極だけの磁石が見つからないように、
成立も持続も困難で、痕跡も残せません。

ところで葛藤と探求。その思考になんの違いも見いだせないです。このことについて、その原因、架空の自分が解消されると、思考の区別はなくなるので、なんの違いも見いだせなくなるのかもしれません。だとすると、やはり犯人はその自分です。

No.4734 - 2014/09/05(Fri) 12:29:32

Re: / ubik0101
ちょっと気になって、犯人が読者の推理小説を、ネットで探してみました。いくつかあるようです。それから探偵が犯人とか。実は犯人なんて誰もいなくて、主人公の思い込みだった、とか。関係者全員が犯人、とかもあるようです。もしかして被害者が犯人、運命が犯人とかもあるかもしれません。
No.4735 - 2014/09/05(Fri) 17:13:36

Re: / hato

たとえば戦争と平和などという

平和が,なにか対ごとで考えられているとしたなら,それはまったく,見つけられていない,と思います。

そしてもし,どこかの修行者が,修行者であるために,世間から出離する,とかいうことを考えていても,そのことを売りものにするなら,その人はまったく,世間の人。と思います。

休日,となりの町の図書館に行きました。

書類を書くためでしたが,そこから近い市場に歩いていく途中,なんとたわわな粟の穂を見つけ,目が釘づけです。

ノンちゃんとチュリルが,喜びそう!

ubik0101さんとふたり,思ったのでした。

No.4736 - 2014/09/05(Fri) 22:39:19

日常。 / ubik0101

この日常。誰かが悟った、誰かが悟らない、ということはないです。悟りが悟るのです。日常が悟るのです。

ある意味、人は世界を覚醒させる触媒です。私が悟った、誰かが悟った、誰かが悟ってない、そのように思うのは人の勝手です。

そもそも、その体験にあって、私は悟った、誰かは悟ってない、とかいうことはなくあります。悟りが悟る、です。

なのに、私は悟った、誰かは悟ってない、などというのは、後付けの判断であり空想です。

No.4737 - 2014/09/21(Sun) 11:28:27

Re: / hato

ほんとうに。

そして尚,たとえばだれかは悟り,だれかは悟らないとして

この日常。

なにか如来・・・対する衆生・・・という物語が,起きようもない,日常です。

完全にそれにあるとき,そうした物語に浸かっていることはできません。

必ず,できません。

そうならまだ,それにないだけです。


肌に涼しい朝起きて,鳥とあそび,お茶を飲みます。

庭に出て,会社に出て,仕事をします。

メダカの産卵がひと段落で,水場がすこし空き,とてもかわいい金魚にきてもらいました。金ちゃん!と呼ぶとふわり浮き上がってきて,大きな目でこっちを見てます。


よかったね。今日もよい一日でした。夕食は,頂きものの秋刀魚です。

No.4738 - 2014/09/23(Tue) 01:01:43
Re.Re.Re. / おおかわ
書き込みへの対応を、ありがとうございます。

>たとえばですが思考は、《さて、過去から離れ、過去・現在・未来は、意識も存在も、ひとつながりの運動をしています。》と認識し《したがって、 過去・現在・未来は実際には存在しないことが分かります。ただ、ひとつながりの運動が機能しているだけです。》と判断したりします。

ここは、私の認識とは少し違うようです。
私の場合、思考は事実に対する解釈を意味しますが、意識と存在の生の動きを、ひとつながりの運動として捉えているだけです。
事実はひとつながりの運動を、過去・現在・未来と分断して、概念として整理して記憶するのが思考です。

>これは思考が時間を度外視しながら時間に添って展開してるその様子ではないでしょうか。

思考での時間の度外視はないと思います。ここで時間が出て来るのは、思考が介入したからで、過去がある、それゆえそれを吹き消すのは、現在の不満足感が過去を引きずっており、今それを自覚したからです。
思考実験でなければ、過去は吹き消さなくてもよく、過去を自覚しなくてもいいわけではないでしょうか?
吹き消したのは、「現在」との自覚の分離が存在する、それに気づいたからではないでしょうか?

>そして知覚は、たとえば暑い、寒い、甘い、痛いとかですが常に・・・この今にあってしか感じられないのが普通です。

ここは、私の場合は知覚ではなく感覚になります。
今日は暑い、冷房が強過ぎて寒い、桃は甘い、針を刺して痛い、などが私の場合の知覚です。
暑い、寒い、甘い、痛いは、私の場合は感覚、または純粋経験です。

また、意識=私ですが、ここではまさしく意識であり、私概念です。
私は他者と触れ合って、他者の感覚、観察、反応を聞き、それと総合して私の全面的な理解に向います。つまり、私は私との本当の理解に向います。この理解も、運動的です。常に新しい触れ合いがあり、旧知の人でも新しい反応を私に示しますので、私というものの理解は絶えず運動の中にあります。

>そしてその自分が何であるかを見る(変な言い方)なら、おおかわさんの言うような不安、不満などが自分を知らない故の不安、不満であるなら、とりあえずは解決され得ます。実は《対象を持たないこと》は、平安なのです。

ここも、私の理解とは少し異なるようです。
私の場合、自分を知らないので不安なのではなく、現在起きている現象に生命の充実が完全でないので不安なのです。対象を持たないので平安なのではなく、対象がないので不安なのです。恐らく対象があれば心配でしょう。食欲がないので心配とか、彼女が遅いので心配とか。

私は生の完全性の探求を、思考による探求とはまったく思っていません。
思考無くして生きることは不可能であり、思考がなければ食物も、住居を手に入れることも、健康管理も出来ないのではないでしょうか。探求には思考が含まれます。しかし、それは思考も使うということです。
出発点は感覚であり、直接経験している現象です。もし私がいつであれ、感覚的にまったく、全面的に満足していたら、生の探求や自分の生き方を云々することはないでしょう。

ちょっと、対話になっているのかどうか、問いかけが成立しているかどうか分かりませんが、今は仕事の作業が続いていて十分に検討する時間が取れないため、全体が断片的であることをお許しください。
また、掲示板に馴れていないため、スレッドへの書き込みがおかしかったら、すみませんがそれもご容赦ください。

No.4711 - 2014/08/18(Mon) 14:14:31

Re: Re.Re.Re. / ubik0101
うーん、たしかに言葉の意味合いも違うようですし、対話になってるか疑問を感じます。ここは、単純な質問で、再出発してみたいと思います。

> 私の場合、思考は事実に対する解釈を意味しますが、意識と存在の生の動きを、ひとつながりの運動として捉えているだけです。

どのようにして、意識と生存の動きを、ひとつながりの運動として捉えることができた、のでしょう?それはもしかして思考によるのでは?こちらは、とくにそのような認識はないです。

> 吹き消したのは、「現在」との自覚の分離が存在する、それに気づいたからではないでしょうか?

このなんでもない日常には欠けるものがないので、そこから始めようという提案の、導入部としての表現です。

> ここは、私の場合は知覚ではなく感覚になります。
> 今日は暑い、冷房が強過ぎて寒い、桃は甘い、針を刺して痛い、などが私の場合の知覚です。
> 暑い、寒い、甘い、痛いは、私の場合は感覚、または純粋経験です。


こちらは、知覚は、感覚と呼んでも同じです。

> また、意識=私ですが、ここではまさしく意識であり、私概念です。

意識=私ではない、と思っています。さまざま説明する必要はあるかと思いますが、とりあえず、ない=私、です。これは、ある=私でも同義です。私は私と差がないから、距離がないから知覚できず、認識できないので、ない、と呼んでいます。暑いとか甘いとかは、自分との差の認識と睨んでいます。

> 私の場合、自分を知らないので不安なのではなく、現在起きている現象に生命の充実が完全でないので不安なのです。対象を持たないので平安なのではなく、対象がないので不安なのです。恐らく対象があれば心配でしょう。食欲がないので心配とか、彼女が遅いので心配とか。

では自分を知ってる、ということでしょうか?また、生の完全性があると、どのように認識しましたか?認識したから、あるいは垣間見たから、それを探求してるのではないでしょうか?そうでなく、なにかそうあるはずの生の完全性を設定して、それを実現しよう、ということでしょうか?それとも、ただ不満があるということで、完全を求めてるのでしょうか?

> 出発点は感覚であり、直接経験している現象です。もし私がいつであれ、感覚的にまったく、全面的に満足していたら、生の探求や自分の生き方を云々することはないでしょう。

こちらは感覚的に不満とかではなくて、自分がこうである不思議さ、この世界がこの世界である不思議さ・・・神秘を感じます・・・それが探求の動機です。

※そのスレッドの一番右上にある、返信ボタンを押すと、新たに返信欄が現われて、スレッドを続けることができます。その際、返信したい投稿の右上にある引用ボタンを押しておくと、その投稿文が引用符付きで返信欄に表示されます。

返信は、ゆっくりで、興味のある部分だけでも、大丈夫です。いずれ総て繋がっていくかもしれません。こちらも今後は、ゆっくり返信になると思います。

No.4712 - 2014/08/18(Mon) 16:28:54

Re: Re.Re.Re. / おおかわ
>どのようにして、意識と生存の動きを、ひとつながりの運動として捉えることができた、のでしょう?

これは、「過去」を取り上げる人の言動に触れることによって、私の生の運動が明確に感じ取れたことです。

>このなんでもない日常には欠けるものがないので、そこから始めよう

分かりました! この導入部がまったく違っているんですね。
私の場合、日常の欠落感からの出発です。私は日常が欠落しているという現象に直面しなければ、探求はせずにただ仕事をして、レジャーを楽しみ、自分好みに日常生活を送るだけです。

>意識=私

欠落感を意識したことが、自覚の始まりです。それをどこまでも追求する。本質、または根源だと感じ取れるまで。そして、それを世界に投げ出す。世界に投げ出すことが生きることであることを発見しているので。

>では自分を知ってる、ということでしょうか?

自分の総体を日々知っている。この、自分の総体も知っていることも生きている現象なので、運動中にある。つまり、日々新たに発見している(表現は十分とは言えませんが)。

>生の完全性があると、どのように認識しましたか?

表現が十分ではなかったようです。欠落感の正体の全貌を完全に理解する、という意味での完全性。この完全性も、生きている現象なので、完全で終るというよりも、やはり運動中にある。花が完全に開き切れば別の現象が続く、または生まれるように。

>こちらは感覚的に不満とかではなくて、自分がこうである不思議さ、この世界がこの世界である不思議さ・・・神秘を感じます・・・それが探求の動機です。

これは、完全にubic101さんと私が立つ地平との違いです。私は、生きることを科学者が宇宙や物理を探求するようには探求していません。それは私の関心事ではありません。不思議さ、神秘感、感動ではなく、悲しみ、矛盾、虚偽を感じるからです。そして、社会的な平和や楽しみは仮象だと体験しているからです。

突然のぶしつけな問いかけに、丁寧にご対応いただきありがとうございました。見つめる地平が明確になり、助かりました。またubic101さんの発言を、ときどき見守らせてください。
ありがとうございました。

No.4713 - 2014/08/19(Tue) 09:47:18

Re: Re.Re.Re. / ubik0101
たしかに・・・不安、欠落感、虚偽・・・どこを探ってもありません。おなじような空想を皆がしてるので、あるかのように機能してる、社会。そいうことに印象を感じることもなくあります。そして、知ってることなど、何もないです。こんな話ですが、いつでも、話しかけてください。そして素敵な人生を!
No.4714 - 2014/08/19(Tue) 11:18:30
Re. / おおかわ
初めまして。たまたま通りかかったので、感じたところを書き込みます。

>ここで、ふっと
>過去を
>吹き消してみることにします。


これは面白いですね。
過去は記録ですから、吹き消せません。
それに関する自分の印象、感覚、執着から、一旦離れてみることは可能でしょう。
なぜ私はそうするのか。
その記憶は、現在の私の心に重いと感じるか、
現在の実存との直面を不完全にさせると感じたからです。
過去の自分の行動や、人に対して取った行動は不完全で、後悔するか、現在を正当化する理屈を探そうとするからです。
しかし、実際は、過去はすでに過ぎ去っています。
基本的には、物質としての時間は逆行しないので、存在的には終っています。

さて、過去から離れ、過去・現在・未来は、意識も存在も、ひとつながりの運動をしています。
したがって、 過去・現在・未来は実際には存在しないことが分かります。
ただ、ひとつながりの運動が機能しているだけです。
この運動は世界との関係であり、変化です。
私と私を取り巻くすべては、運動の中にあるからです。
そして、運動は変化です。
私は変化において存在しています。
意識がこの変化から離れるとき、私に思考または過去が介入してくるのです。
では、なぜ意識は変化の運動から離れるのでしょうか?
刻々の運動、刻々の変化から意識を離すのは何でしょうか?

それは、何となく不安だからです。
それは、ありのままが何となく不満足だからです。
突き詰めると、根源的に不満足だからです。
この不満足は生の最初から存在していたものだろうか?
それとも、どこかの時点から生まれてきたものだろうか?

空を見上げて美しいと思い、海を見て日常以上の気持になれ、夕日に感動します。
旅をして良かったと思いますが、間もなく、何となく退屈が襲ってきます。
何となく何かが欠落しています。
刺激の追求は、刺激が過ぎ去った後に欠落感を更に強くしてしまいます。
そこで、この欠落感の中に留まります。
不満足感とともにいます。

そして、この掲示板が目に止まります。
なぜ掲示板を見たのでしょう?
何が私にブログや掲示板を検索させたのだろう?
底知れない退屈さ、対象を持たない不安であることが分かります。
堂々巡りですが、堂々巡りをここで吹き消してみることにします。

No.4708 - 2014/08/17(Sun) 21:51:46

Re: Re. / ubik0101
はじめまして。

そうですね、おおかわさんの投稿・・・とりあえずの印象ですが、知覚と思考の機能の違いの整合性の疑問のように感じました。そしてそれは、それは自分とか何?という疑問の上に起こってるようです。

たとえばですが思考は、《さて、過去から離れ、過去・現在・未来は、意識も存在も、ひとつながりの運動をしています。》と認識し《したがって、 過去・現在・未来は実際には存在しないことが分かります。ただ、ひとつながりの運動が機能しているだけです。》と判断したりします。

これは思考が時間を度外視しながら時間に添って展開してるその様子ではないでしょうか。そして知覚は、たとえば暑い、寒い、甘い、痛いとかですが常に・・・この今にあってしか感じられないのが普通です。思考は暑いときに、暑い、寒い、快適、まったく無関係なこと、を思考できるので、そのことで混乱を孕んでるとも言えそうです。

それでも微妙ですが、暑い、寒い、甘い、痛い、とかは知覚ですが・・・思考もある意味・・・それは見えること・・・言葉で見ることであり・・・知覚でありどちらも・・・意識をフィールドとするという意味で共通で・・・機能としては知覚と思考には明確な区分は困難なところもあります。これも人に混乱を起こさせ得るようです。

そして思考とか、知覚、そして行動があれば、それが活動するフィールドと感じられる意識があることは前提にされてしまって、疑うのが困難になってるかもしれません。そこに意識=私という、同一化もあるかもしれません。

続きます。

No.4709 - 2014/08/18(Mon) 09:38:08

Re: Re. / ubik0101
けど、ちょっと視点を変えれば、予め自分があって知覚、思考、行動するのではなく、もしかして思考したりするから、自分が起き上がる、ということに気がつく亊もあるかもしれません。この自分を起き上がらせる、という点で見ると、知覚も思考も行動も、同じ機能をする場合があります。

ところで見える、聞こえる、まったく知覚だけが機能する、無思考状態を体験することがあります。それはある意味、見える聞こえると、言葉による思考との分離です。その機能の違いが、判明する・・・と、判断するのは思考ですが・・・そんな亊でもあります。

いろんな経緯があるようですが、それは自分とは何?に繋がる体験であったりします。そしてその自分が何であるかを見る(変な言い方)なら、おおかわさんの言うような不安、不満などが自分を知らない故の不安、不満であるなら、とりあえずは解決され得ます。実は《対象を持たないこと》は、平安なのです。

もし不安などが世界の仕組みとして仕方ないなら、なぜそれを感じることができるのか?先に引用した《ただ、ひとつながりの運動が機能しているだけです》も、それがそうなら、なぜそれが思考できるのか?また、なぜ、それ、は、そう、なのか?という疑問は起こります。

ところで思考による探求をする場合、それはそれで役に立つし思考の堂々巡りは気にすることはないでしょう。また思考の姿を整えようとする必要はありません。それよりも、どこか思考は変調されていて、事実、そう、であることを、そう、だと思考するのはあまり得意ではない思考の、微細なとこを、厳密に見ることが役に立ちます。

たとえばこのubik0101の投稿、そしておおかわさん自身の言葉、それは確かに、そう、ありのまま、なのか?思考は予め破綻して生起してるようであり、それを見ることで、そのような思考を成立させている前提を探るための非常口が見つかると思います。

No.4710 - 2014/08/18(Mon) 09:54:09
(No Subject) / ubik0101
ここで、ふっと
過去を
吹き消してみることにします。

あの時の、あの失敗とか、
あの悔しさとか、あるいは楽しい、辛い
あらゆる思い出・・・自分の誕生日、性別、年齢、学歴、職歴、
隣人、友人、家族、とかも、
思い出さないで、過去を吹き消してみます。
その、なにもない
ところから始めます。

でも過去の出来事を想起して、それを消すというのは
その過去という前提がなければできないので、消そうとすることが、
その前提があり続ける一連の運動にあるので、
過去を消すのは困難に思えるかもしれません。

No.4701 - 2014/08/14(Thu) 08:46:25

Re: / ubik0101
しかし・・・そうではなく
過去の出来事を思考した時だけ過去は見えるのですから
意識が何かの過去の出来事に接着してない、
♪ここに幸あり、青い空・・・なんの変哲もない、普通の日常。
ここから始めるということです。
これより簡単なことはない、です。

たとえば、あっ、地震だ、というとき過去は吹き飛んでいるでしょう。でなくても普通のなんでもない日常。ここで、過去から決別してる、それだけです。ここにこうしてる、たとえば顔を洗う、歯を磨く、草むしりする、文字を打つ・・・そのことが、すでに過去の消去です。

では、未来も
消してみましょう。
というより過去がないなら、すでに
未来は消えてる、です。

No.4702 - 2014/08/14(Thu) 08:47:27

Re: / ubik0101
たとえば冷たい水を一気に飲むとき、過去も未来もないです。いまここ、ということもないです。そのように、この夏の夜、部屋にいて、ここで聞こえるのは夜の蝉の声・・・なにかそれでありながら、知ることのできない、これがそれ、です。

では逆に、始りもない遥かな過去に向かって・・・江戸時代・・・紫式部・・・
イエスキリスト・・・ジュラ紀・・・宇宙開闢・・・に
思いを馳せてみます。

そして終わりのない遥かな未来を肯定してみましょう。
東京オリンピック、リニア新幹線、宇宙植民時代・・・
エイリアンとの遭遇、宇宙の再収縮?・・・果てしない時間の果てを肯定してみます。

No.4703 - 2014/08/14(Thu) 08:48:17

Re: / ubik0101
これは、極限まで進めることができるでしょうか?
できる範疇も、自分の知ってる範囲の思考ではないでしょうか?
そのずっと過去も未来も不明の
自分を中心とするこの狭い時間帯にあって
あれこれ空想、思考してるだけと気がつくのではないでしょうか。すると、

どうしようもなく、この・・・ここには
なにか、これ、このことしかないことに気がつくでしょう。
たとえば、
夏の夜の静かな虚空に虫の声。

これはどういうことでしょう。

まとめると、過去、未来を否定しても、
また逆に肯定しても、
どちらも結果は同じです。
それはその思考が空想であると気がつき、自分で自分を閉じて
世界を開いてしまいます。
そいうことがなにもない、ここから始まるということです。

なにか問題だとすれば
いまここでないことを、いまここだと思うこと。
自分でないものを自分だと思うこと、
そのようなことが問題です。

No.4704 - 2014/08/14(Thu) 08:49:11

Re: / ubik0101
このなんでもない、なにも知らない、これがそれ。
ここは総ての問題が解決されてる、というより
解決されるべき問題が起きようがないです。
これが日常というフィールドで
たとえば野球でショートの選手がボールを捌いてすぐ
その定位置に戻るように、これの
いつもの定位置で、そのまま静寂です。

けど、これで、いい?

そうです。過去未来を思考しても、そこで嫌な感情が起きても、なんの問題もありません。ここの説明は困難ですが、そいうことは理解して巻き込まれなければ、それでなにが問題なのでしょう。

という理由だけではなく・・・迷いと覚醒、なんの違いも見つからない、のです。すくなくても、自分のことを検討したら・・・ほかの誰かの状態を想定して検討、判断したら違うかもしれませんが、なんの違いも見つかりません。

No.4705 - 2014/08/14(Thu) 08:50:41

Re: / ubik0101
これはたぶん認識でき得ること、意識でき得ることの問題ではないのだと思います。なにか問題に巻き込まれること・・・問題があっても、なにも問題がないです。それは世界の運動です。自我も無我も世界の機能です。

しかし、真我は、そうではありません。と、言ってしまえば、それは実在との関係にある、ということで結着してしまいます。人としてはこれが限界です。しかし、その先に、

ずっと先に・・・♪どこまでも行こう、道は果てなくても・・・この世界では、真我と自我となんの違いも説明できず、正しさということは示せないように思います。でもま、♪口笛を吹きながら、どこまでも行こう。

No.4706 - 2014/08/14(Thu) 08:58:44

Re: / hato

長空白雲の飛ぶを礙えず

という偈があるそうです。

世界では多くのことが日々起き,語られ,攻防されるのを見ます。
そんな夏の夜は,半分ずっこにして,冷たいアイスを食べます。

わたしは十分休息し,遊び,食べ,仕事をします。

日常の泣き笑い,そんなことや,あんな言葉は多く流れ,過ぎていき

わたしはそれらを,つと置き去って

それというところのこれに,

いそしむのです。


静岡はメロンの産地で,夏場になると
ご近所さんから美味しいメロンをいただきます。

No.4707 - 2014/08/15(Fri) 22:51:03
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