[ 掲示板に戻る ]

過去ログ閲覧モード

Re.Re.Re. / おおかわ
書き込みへの対応を、ありがとうございます。

>たとえばですが思考は、《さて、過去から離れ、過去・現在・未来は、意識も存在も、ひとつながりの運動をしています。》と認識し《したがって、 過去・現在・未来は実際には存在しないことが分かります。ただ、ひとつながりの運動が機能しているだけです。》と判断したりします。

ここは、私の認識とは少し違うようです。
私の場合、思考は事実に対する解釈を意味しますが、意識と存在の生の動きを、ひとつながりの運動として捉えているだけです。
事実はひとつながりの運動を、過去・現在・未来と分断して、概念として整理して記憶するのが思考です。

>これは思考が時間を度外視しながら時間に添って展開してるその様子ではないでしょうか。

思考での時間の度外視はないと思います。ここで時間が出て来るのは、思考が介入したからで、過去がある、それゆえそれを吹き消すのは、現在の不満足感が過去を引きずっており、今それを自覚したからです。
思考実験でなければ、過去は吹き消さなくてもよく、過去を自覚しなくてもいいわけではないでしょうか?
吹き消したのは、「現在」との自覚の分離が存在する、それに気づいたからではないでしょうか?

>そして知覚は、たとえば暑い、寒い、甘い、痛いとかですが常に・・・この今にあってしか感じられないのが普通です。

ここは、私の場合は知覚ではなく感覚になります。
今日は暑い、冷房が強過ぎて寒い、桃は甘い、針を刺して痛い、などが私の場合の知覚です。
暑い、寒い、甘い、痛いは、私の場合は感覚、または純粋経験です。

また、意識=私ですが、ここではまさしく意識であり、私概念です。
私は他者と触れ合って、他者の感覚、観察、反応を聞き、それと総合して私の全面的な理解に向います。つまり、私は私との本当の理解に向います。この理解も、運動的です。常に新しい触れ合いがあり、旧知の人でも新しい反応を私に示しますので、私というものの理解は絶えず運動の中にあります。

>そしてその自分が何であるかを見る(変な言い方)なら、おおかわさんの言うような不安、不満などが自分を知らない故の不安、不満であるなら、とりあえずは解決され得ます。実は《対象を持たないこと》は、平安なのです。

ここも、私の理解とは少し異なるようです。
私の場合、自分を知らないので不安なのではなく、現在起きている現象に生命の充実が完全でないので不安なのです。対象を持たないので平安なのではなく、対象がないので不安なのです。恐らく対象があれば心配でしょう。食欲がないので心配とか、彼女が遅いので心配とか。

私は生の完全性の探求を、思考による探求とはまったく思っていません。
思考無くして生きることは不可能であり、思考がなければ食物も、住居を手に入れることも、健康管理も出来ないのではないでしょうか。探求には思考が含まれます。しかし、それは思考も使うということです。
出発点は感覚であり、直接経験している現象です。もし私がいつであれ、感覚的にまったく、全面的に満足していたら、生の探求や自分の生き方を云々することはないでしょう。

ちょっと、対話になっているのかどうか、問いかけが成立しているかどうか分かりませんが、今は仕事の作業が続いていて十分に検討する時間が取れないため、全体が断片的であることをお許しください。
また、掲示板に馴れていないため、スレッドへの書き込みがおかしかったら、すみませんがそれもご容赦ください。

No.4711 - 2014/08/18(Mon) 14:14:31

Re: Re.Re.Re. / ubik0101
うーん、たしかに言葉の意味合いも違うようですし、対話になってるか疑問を感じます。ここは、単純な質問で、再出発してみたいと思います。

> 私の場合、思考は事実に対する解釈を意味しますが、意識と存在の生の動きを、ひとつながりの運動として捉えているだけです。

どのようにして、意識と生存の動きを、ひとつながりの運動として捉えることができた、のでしょう?それはもしかして思考によるのでは?こちらは、とくにそのような認識はないです。

> 吹き消したのは、「現在」との自覚の分離が存在する、それに気づいたからではないでしょうか?

このなんでもない日常には欠けるものがないので、そこから始めようという提案の、導入部としての表現です。

> ここは、私の場合は知覚ではなく感覚になります。
> 今日は暑い、冷房が強過ぎて寒い、桃は甘い、針を刺して痛い、などが私の場合の知覚です。
> 暑い、寒い、甘い、痛いは、私の場合は感覚、または純粋経験です。


こちらは、知覚は、感覚と呼んでも同じです。

> また、意識=私ですが、ここではまさしく意識であり、私概念です。

意識=私ではない、と思っています。さまざま説明する必要はあるかと思いますが、とりあえず、ない=私、です。これは、ある=私でも同義です。私は私と差がないから、距離がないから知覚できず、認識できないので、ない、と呼んでいます。暑いとか甘いとかは、自分との差の認識と睨んでいます。

> 私の場合、自分を知らないので不安なのではなく、現在起きている現象に生命の充実が完全でないので不安なのです。対象を持たないので平安なのではなく、対象がないので不安なのです。恐らく対象があれば心配でしょう。食欲がないので心配とか、彼女が遅いので心配とか。

では自分を知ってる、ということでしょうか?また、生の完全性があると、どのように認識しましたか?認識したから、あるいは垣間見たから、それを探求してるのではないでしょうか?そうでなく、なにかそうあるはずの生の完全性を設定して、それを実現しよう、ということでしょうか?それとも、ただ不満があるということで、完全を求めてるのでしょうか?

> 出発点は感覚であり、直接経験している現象です。もし私がいつであれ、感覚的にまったく、全面的に満足していたら、生の探求や自分の生き方を云々することはないでしょう。

こちらは感覚的に不満とかではなくて、自分がこうである不思議さ、この世界がこの世界である不思議さ・・・神秘を感じます・・・それが探求の動機です。

※そのスレッドの一番右上にある、返信ボタンを押すと、新たに返信欄が現われて、スレッドを続けることができます。その際、返信したい投稿の右上にある引用ボタンを押しておくと、その投稿文が引用符付きで返信欄に表示されます。

返信は、ゆっくりで、興味のある部分だけでも、大丈夫です。いずれ総て繋がっていくかもしれません。こちらも今後は、ゆっくり返信になると思います。

No.4712 - 2014/08/18(Mon) 16:28:54

Re: Re.Re.Re. / おおかわ
>どのようにして、意識と生存の動きを、ひとつながりの運動として捉えることができた、のでしょう?

これは、「過去」を取り上げる人の言動に触れることによって、私の生の運動が明確に感じ取れたことです。

>このなんでもない日常には欠けるものがないので、そこから始めよう

分かりました! この導入部がまったく違っているんですね。
私の場合、日常の欠落感からの出発です。私は日常が欠落しているという現象に直面しなければ、探求はせずにただ仕事をして、レジャーを楽しみ、自分好みに日常生活を送るだけです。

>意識=私

欠落感を意識したことが、自覚の始まりです。それをどこまでも追求する。本質、または根源だと感じ取れるまで。そして、それを世界に投げ出す。世界に投げ出すことが生きることであることを発見しているので。

>では自分を知ってる、ということでしょうか?

自分の総体を日々知っている。この、自分の総体も知っていることも生きている現象なので、運動中にある。つまり、日々新たに発見している(表現は十分とは言えませんが)。

>生の完全性があると、どのように認識しましたか?

表現が十分ではなかったようです。欠落感の正体の全貌を完全に理解する、という意味での完全性。この完全性も、生きている現象なので、完全で終るというよりも、やはり運動中にある。花が完全に開き切れば別の現象が続く、または生まれるように。

>こちらは感覚的に不満とかではなくて、自分がこうである不思議さ、この世界がこの世界である不思議さ・・・神秘を感じます・・・それが探求の動機です。

これは、完全にubic101さんと私が立つ地平との違いです。私は、生きることを科学者が宇宙や物理を探求するようには探求していません。それは私の関心事ではありません。不思議さ、神秘感、感動ではなく、悲しみ、矛盾、虚偽を感じるからです。そして、社会的な平和や楽しみは仮象だと体験しているからです。

突然のぶしつけな問いかけに、丁寧にご対応いただきありがとうございました。見つめる地平が明確になり、助かりました。またubic101さんの発言を、ときどき見守らせてください。
ありがとうございました。

No.4713 - 2014/08/19(Tue) 09:47:18

Re: Re.Re.Re. / ubik0101
たしかに・・・不安、欠落感、虚偽・・・どこを探ってもありません。おなじような空想を皆がしてるので、あるかのように機能してる、社会。そいうことに印象を感じることもなくあります。そして、知ってることなど、何もないです。こんな話ですが、いつでも、話しかけてください。そして素敵な人生を!
No.4714 - 2014/08/19(Tue) 11:18:30
Re. / おおかわ
初めまして。たまたま通りかかったので、感じたところを書き込みます。

>ここで、ふっと
>過去を
>吹き消してみることにします。


これは面白いですね。
過去は記録ですから、吹き消せません。
それに関する自分の印象、感覚、執着から、一旦離れてみることは可能でしょう。
なぜ私はそうするのか。
その記憶は、現在の私の心に重いと感じるか、
現在の実存との直面を不完全にさせると感じたからです。
過去の自分の行動や、人に対して取った行動は不完全で、後悔するか、現在を正当化する理屈を探そうとするからです。
しかし、実際は、過去はすでに過ぎ去っています。
基本的には、物質としての時間は逆行しないので、存在的には終っています。

さて、過去から離れ、過去・現在・未来は、意識も存在も、ひとつながりの運動をしています。
したがって、 過去・現在・未来は実際には存在しないことが分かります。
ただ、ひとつながりの運動が機能しているだけです。
この運動は世界との関係であり、変化です。
私と私を取り巻くすべては、運動の中にあるからです。
そして、運動は変化です。
私は変化において存在しています。
意識がこの変化から離れるとき、私に思考または過去が介入してくるのです。
では、なぜ意識は変化の運動から離れるのでしょうか?
刻々の運動、刻々の変化から意識を離すのは何でしょうか?

それは、何となく不安だからです。
それは、ありのままが何となく不満足だからです。
突き詰めると、根源的に不満足だからです。
この不満足は生の最初から存在していたものだろうか?
それとも、どこかの時点から生まれてきたものだろうか?

空を見上げて美しいと思い、海を見て日常以上の気持になれ、夕日に感動します。
旅をして良かったと思いますが、間もなく、何となく退屈が襲ってきます。
何となく何かが欠落しています。
刺激の追求は、刺激が過ぎ去った後に欠落感を更に強くしてしまいます。
そこで、この欠落感の中に留まります。
不満足感とともにいます。

そして、この掲示板が目に止まります。
なぜ掲示板を見たのでしょう?
何が私にブログや掲示板を検索させたのだろう?
底知れない退屈さ、対象を持たない不安であることが分かります。
堂々巡りですが、堂々巡りをここで吹き消してみることにします。

No.4708 - 2014/08/17(Sun) 21:51:46

Re: Re. / ubik0101
はじめまして。

そうですね、おおかわさんの投稿・・・とりあえずの印象ですが、知覚と思考の機能の違いの整合性の疑問のように感じました。そしてそれは、それは自分とか何?という疑問の上に起こってるようです。

たとえばですが思考は、《さて、過去から離れ、過去・現在・未来は、意識も存在も、ひとつながりの運動をしています。》と認識し《したがって、 過去・現在・未来は実際には存在しないことが分かります。ただ、ひとつながりの運動が機能しているだけです。》と判断したりします。

これは思考が時間を度外視しながら時間に添って展開してるその様子ではないでしょうか。そして知覚は、たとえば暑い、寒い、甘い、痛いとかですが常に・・・この今にあってしか感じられないのが普通です。思考は暑いときに、暑い、寒い、快適、まったく無関係なこと、を思考できるので、そのことで混乱を孕んでるとも言えそうです。

それでも微妙ですが、暑い、寒い、甘い、痛い、とかは知覚ですが・・・思考もある意味・・・それは見えること・・・言葉で見ることであり・・・知覚でありどちらも・・・意識をフィールドとするという意味で共通で・・・機能としては知覚と思考には明確な区分は困難なところもあります。これも人に混乱を起こさせ得るようです。

そして思考とか、知覚、そして行動があれば、それが活動するフィールドと感じられる意識があることは前提にされてしまって、疑うのが困難になってるかもしれません。そこに意識=私という、同一化もあるかもしれません。

続きます。

No.4709 - 2014/08/18(Mon) 09:38:08

Re: Re. / ubik0101
けど、ちょっと視点を変えれば、予め自分があって知覚、思考、行動するのではなく、もしかして思考したりするから、自分が起き上がる、ということに気がつく亊もあるかもしれません。この自分を起き上がらせる、という点で見ると、知覚も思考も行動も、同じ機能をする場合があります。

ところで見える、聞こえる、まったく知覚だけが機能する、無思考状態を体験することがあります。それはある意味、見える聞こえると、言葉による思考との分離です。その機能の違いが、判明する・・・と、判断するのは思考ですが・・・そんな亊でもあります。

いろんな経緯があるようですが、それは自分とは何?に繋がる体験であったりします。そしてその自分が何であるかを見る(変な言い方)なら、おおかわさんの言うような不安、不満などが自分を知らない故の不安、不満であるなら、とりあえずは解決され得ます。実は《対象を持たないこと》は、平安なのです。

もし不安などが世界の仕組みとして仕方ないなら、なぜそれを感じることができるのか?先に引用した《ただ、ひとつながりの運動が機能しているだけです》も、それがそうなら、なぜそれが思考できるのか?また、なぜ、それ、は、そう、なのか?という疑問は起こります。

ところで思考による探求をする場合、それはそれで役に立つし思考の堂々巡りは気にすることはないでしょう。また思考の姿を整えようとする必要はありません。それよりも、どこか思考は変調されていて、事実、そう、であることを、そう、だと思考するのはあまり得意ではない思考の、微細なとこを、厳密に見ることが役に立ちます。

たとえばこのubik0101の投稿、そしておおかわさん自身の言葉、それは確かに、そう、ありのまま、なのか?思考は予め破綻して生起してるようであり、それを見ることで、そのような思考を成立させている前提を探るための非常口が見つかると思います。

No.4710 - 2014/08/18(Mon) 09:54:09
(No Subject) / ubik0101
ここで、ふっと
過去を
吹き消してみることにします。

あの時の、あの失敗とか、
あの悔しさとか、あるいは楽しい、辛い
あらゆる思い出・・・自分の誕生日、性別、年齢、学歴、職歴、
隣人、友人、家族、とかも、
思い出さないで、過去を吹き消してみます。
その、なにもない
ところから始めます。

でも過去の出来事を想起して、それを消すというのは
その過去という前提がなければできないので、消そうとすることが、
その前提があり続ける一連の運動にあるので、
過去を消すのは困難に思えるかもしれません。

No.4701 - 2014/08/14(Thu) 08:46:25

Re: / ubik0101
しかし・・・そうではなく
過去の出来事を思考した時だけ過去は見えるのですから
意識が何かの過去の出来事に接着してない、
♪ここに幸あり、青い空・・・なんの変哲もない、普通の日常。
ここから始めるということです。
これより簡単なことはない、です。

たとえば、あっ、地震だ、というとき過去は吹き飛んでいるでしょう。でなくても普通のなんでもない日常。ここで、過去から決別してる、それだけです。ここにこうしてる、たとえば顔を洗う、歯を磨く、草むしりする、文字を打つ・・・そのことが、すでに過去の消去です。

では、未来も
消してみましょう。
というより過去がないなら、すでに
未来は消えてる、です。

No.4702 - 2014/08/14(Thu) 08:47:27

Re: / ubik0101
たとえば冷たい水を一気に飲むとき、過去も未来もないです。いまここ、ということもないです。そのように、この夏の夜、部屋にいて、ここで聞こえるのは夜の蝉の声・・・なにかそれでありながら、知ることのできない、これがそれ、です。

では逆に、始りもない遥かな過去に向かって・・・江戸時代・・・紫式部・・・
イエスキリスト・・・ジュラ紀・・・宇宙開闢・・・に
思いを馳せてみます。

そして終わりのない遥かな未来を肯定してみましょう。
東京オリンピック、リニア新幹線、宇宙植民時代・・・
エイリアンとの遭遇、宇宙の再収縮?・・・果てしない時間の果てを肯定してみます。

No.4703 - 2014/08/14(Thu) 08:48:17

Re: / ubik0101
これは、極限まで進めることができるでしょうか?
できる範疇も、自分の知ってる範囲の思考ではないでしょうか?
そのずっと過去も未来も不明の
自分を中心とするこの狭い時間帯にあって
あれこれ空想、思考してるだけと気がつくのではないでしょうか。すると、

どうしようもなく、この・・・ここには
なにか、これ、このことしかないことに気がつくでしょう。
たとえば、
夏の夜の静かな虚空に虫の声。

これはどういうことでしょう。

まとめると、過去、未来を否定しても、
また逆に肯定しても、
どちらも結果は同じです。
それはその思考が空想であると気がつき、自分で自分を閉じて
世界を開いてしまいます。
そいうことがなにもない、ここから始まるということです。

なにか問題だとすれば
いまここでないことを、いまここだと思うこと。
自分でないものを自分だと思うこと、
そのようなことが問題です。

No.4704 - 2014/08/14(Thu) 08:49:11

Re: / ubik0101
このなんでもない、なにも知らない、これがそれ。
ここは総ての問題が解決されてる、というより
解決されるべき問題が起きようがないです。
これが日常というフィールドで
たとえば野球でショートの選手がボールを捌いてすぐ
その定位置に戻るように、これの
いつもの定位置で、そのまま静寂です。

けど、これで、いい?

そうです。過去未来を思考しても、そこで嫌な感情が起きても、なんの問題もありません。ここの説明は困難ですが、そいうことは理解して巻き込まれなければ、それでなにが問題なのでしょう。

という理由だけではなく・・・迷いと覚醒、なんの違いも見つからない、のです。すくなくても、自分のことを検討したら・・・ほかの誰かの状態を想定して検討、判断したら違うかもしれませんが、なんの違いも見つかりません。

No.4705 - 2014/08/14(Thu) 08:50:41

Re: / ubik0101
これはたぶん認識でき得ること、意識でき得ることの問題ではないのだと思います。なにか問題に巻き込まれること・・・問題があっても、なにも問題がないです。それは世界の運動です。自我も無我も世界の機能です。

しかし、真我は、そうではありません。と、言ってしまえば、それは実在との関係にある、ということで結着してしまいます。人としてはこれが限界です。しかし、その先に、

ずっと先に・・・♪どこまでも行こう、道は果てなくても・・・この世界では、真我と自我となんの違いも説明できず、正しさということは示せないように思います。でもま、♪口笛を吹きながら、どこまでも行こう。

No.4706 - 2014/08/14(Thu) 08:58:44

Re: / hato

長空白雲の飛ぶを礙えず

という偈があるそうです。

世界では多くのことが日々起き,語られ,攻防されるのを見ます。
そんな夏の夜は,半分ずっこにして,冷たいアイスを食べます。

わたしは十分休息し,遊び,食べ,仕事をします。

日常の泣き笑い,そんなことや,あんな言葉は多く流れ,過ぎていき

わたしはそれらを,つと置き去って

それというところのこれに,

いそしむのです。


静岡はメロンの産地で,夏場になると
ご近所さんから美味しいメロンをいただきます。

No.4707 - 2014/08/15(Fri) 22:51:03
その読み解き・・・自然の道。 / ubik0101
この日常、自分は自分で知覚できません。たとえば何でもいいですが、青空、飛ぶ鳥、道を走る車、信号機・・・世界・・・が映ってる映画の銀幕、その銀幕は銀幕に映らないのです。

おそらく自分は自分と同質だから知覚できないのでしょう。そして自分に自分は距離がないから知覚できないのでしょう。知覚とは、差の認識です。

この世界は舞台だとして・・・私は俳優だとしても、俳優じゃないとしても、どちらでないとしても、観客だとしても、自分は自分で、見ることはできないのです。

No.4681 - 2014/07/23(Wed) 08:52:06

Re: その読み解き・・・自然の道。 / ubik0101
たしかに、見てる人が画面の中に入って行くとか、その逆の画面から飛び出す映画はありそうですが、それをくり返しても結着するなら結局、自分が自分で知覚できないところになります。

しかし世界を見てるのだから、見てる自分がいる、自分が自分を見てる、とするのは、おおむね自我の機能です。この自分を知ろうとする、それが自我の機能です。

そんな自我が完成するとき自我の仕組みを、それ、に開示します。それ、は・・・真我は、愛の源・・・神、第一原因、実在・・・との関係にあることを認識され認識します。それ、とは解脱です。

No.4682 - 2014/07/23(Wed) 09:08:19

Re: その読み解き・・・自然の道。 / ubik0101
ところで、この日常、真我を自覚するなら、それは残響のような自我です。それは真我とそれを知覚する自分が分離してるために、ふつうは苦痛です。

その事態の読み解きは、その事態が行い、自然に進みます。そして見るものと見られるものが同質で、差がなく、自分は自分で自覚できない、ない、に落ち着きます。この日常がそうです。

その読み解きは、自分と自分との距離にも分離にも影響されない言葉、思考が司ります。思考とは、分離させたり、距離をとったりするものではありません。それはそう思考する人の状態を表すだけです。

No.4683 - 2014/07/23(Wed) 09:35:09

Re: その読み解き・・・自然の道。 / ubik0101
たとえば思考は、それがそれと同質だと、また距離がないと、知覚できない、ということも思考できます。こういう思考に責があるのではなく、あるとしたら思考に責を置くその人の状態はそうだ、です。

たとえば思考はそれが知覚されてるときだけ、知覚されています。たとえばバケツを手に持ったときだけ、水の重さを感じます。食物が舌に乗ったときだけ、甘い酸っぱいを感じます。

では、感じなくなってしまった思考は、どうなってるのでしょう?なぜそれが感じられるときだけを問題とするのでしょう。もし問題がないなら、思考があろうがなかろうが、問題がないです。

No.4684 - 2014/07/23(Wed) 09:43:55

Re: その読み解き・・・自然の道。 / ubik0101
そのとき、甘い酸っぱいを感じる自分、重いバケツを持つ自分、それは接触にあって起きてるだけです。その自分に問題がないなら、どうして、バケツや食物や思考に問題があるでしょう。

すこし話を戻して。この日常、自覚できない、ない、と呼ばれる自分は、ある、でも、ない、でも、それと等質。またなんであれ自分と距離がないなら自分は、ない、と呼ばれます。

そして世界とは、ない、との差とも言えます。世界と自分、その距離がなくなると、世界と自分、ともに消えます。なんだか人というのは、自我とか真我とか言ってられない、とんでもない何かです。

No.4685 - 2014/07/23(Wed) 10:00:46

Re: その読み解き・・・自然の道。 / ubik0101
とても不思議ですが、その自分で自分を知覚できない自分は、何も知り得ないです。星空、月、風・・・世界・・・が見えていながら、聞こえていながら、それが何であるか知らない、のです。

そして、その見て聞いてるこの自分を、知り得ません。たしかに知ってることが何かを知らず、知らないことが何かを知りません。これは、因果と等質であるための因果の消滅、かもしれません。

また、たとえば、ある、とはそれが機能してて知覚されるということ。知覚とは差の認識。それはそう定義すると、そんな状況を空想。それで判った気になるだけです。

このころ暑いので、ノンノンとチュリル、週に1〜2回は、一緒に水浴びです。

No.4686 - 2014/07/23(Wed) 10:16:30

Re: その読み解き・・・自然の道。 / hato

誕生月というので,ubik0101さんが,美味しそうな桃をふたつプレゼントしてくれました。

とてもきれいで,みずみずしい桃。

No.4687 - 2014/07/23(Wed) 21:34:10

Re: その読み解き・・・自然の道。 / hato

先日ふと思い立ち,ubik0101さんと浜松のフルーツパークに遠出して,果樹園を見たり,採れたて果物の店に立ち寄りました。上のスレッドの桃や、ほかにちょっと変わった果実もあって,食べたことがなかったのでそれも買ってみました。

珍しい タマリンドに,パッションフルーツです。

No.4688 - 2014/07/23(Wed) 21:35:54

Re: その読み解き・・・自然の道。 / hato

これがパッションフルーツ。

わたしははじめて味わいましたが,本当にパッション!!でびっくりしました。

種を噛むとパチンパチン,と大きな音をたてるのです。ちょっとふしぎで,ビタミンCが豊富そうなすっぱさが峻烈。

ubik0101さんの感想は「とても濃いポン酢あじ」。。

No.4689 - 2014/07/23(Wed) 21:37:10

Re: その読み解き・・・自然の道。 / hato

こちらは,タマリンド。

パパいわく「鍋の底で煮詰まった,イチジクジャムのよう」

とのことで うーんなるほどね。それに加え,あぶったスルメを噛んだなごり風味が一瞬と,よく似てるといわれる干し柿よりは,干したイチジク風な味がしました。

No.4690 - 2014/07/23(Wed) 21:38:41

Re: その読み解き・・・自然の道。 / hato

フルーツパークの日は,とても暑くなりましたが,かわいらしいチューチュートレインに乗って,果樹園をすこし見てまわりました。

No.4691 - 2014/07/23(Wed) 21:41:01

Re: その読み解き・・・自然の道。 / hato

今日は夏の海を見に,ひと走り。このとき雲が出ていて,暑気が軽かったおかげで,海岸まで歩きました。

遠州灘は水平にどこまでも広がっており,来るたびに目を見張る光景です。

No.4692 - 2014/07/23(Wed) 21:43:37

Re: その読み解き・・・自然の道。 / hato

ノンちゃんパパは、砂浜の自然をオブジェに撮影したり、

こちらは、ちょい足。

あったかい,夏の砂浜でした。

No.4693 - 2014/07/23(Wed) 21:44:54

Re: その読み解き・・・自然の道。 / ubik0101
なぜ、それは、それ?と疑問して・・・感情、思考、実在、虚無、縁起、世界・・・知ってることなど皆無です。なんであれ・・・ほかであっても、なにもなくてももいいのに・・・これ、がこれである必要がないのに、これ、です。

ところで自分のことを、ない、とか沈黙とか、銀幕とか、解脱とか、自分とか、命名して、それでわかった気になるなら、名称を対象として空想して掴んだ、それに掴まれたのかもしれません。

たとえば、それ、のことを解脱と命名したら、解脱は解脱を知り得る気分になって。解脱が歩き、解脱が自転車に乗り、解脱が歌います。と解脱は解脱を認識できる気になります。命名の魔術です。

No.4694 - 2014/07/24(Thu) 09:35:19

Re: その読み解き・・・自然の道。 / ubik0101

また、なんであれ自分の経緯に拘るなら・・・意識されない・・・そう、だとの認識がなくても、そう、だという・・・形態にまだ囚われてるのかもしれません。

その認識されるでないことは、なにかを判断、批判する基準として自分の経緯を正当化することによって、そのあることが雰囲気として感じられる、です。けど、人の経緯は触媒です。

なにかに拘るということは、まだ解決すべきことがあるというその事態の訴えです。しかしその道は、ただ1人いま生まれた瞬間のように世界を見ることで開けます。世界もとんでもない何かです。

No.4695 - 2014/07/24(Thu) 09:59:09

Re: その読み解き・・・自然の道。 / ubik0101
また、なにも知らないは。知るに対する知らないの関係・・・知ってるということは、それは空想の因果を要する・・・ではない、知らない、と説明できそうです。

たとえば九州に住んでて北海道に行ったことがないなら、九州は知ってる、北海道は知らない、です。これは、知る知らないの、知ってる知らないです。

あるとき学んで知った言葉、知識、技術、またAさんは知ってるけど、Bさんは知らない、というのも同様に、知る知らないが互いの隠れた根拠になって成立してる関係です。そんなことの壊滅が日常です。

No.4696 - 2014/07/24(Thu) 10:15:15

Re: その読み解き・・・自然の道。 / ubik0101
くり返します。思考が問題というのは、実は問題を抱えてるけど自分を自覚できない自分のする責任転嫁です。思考が問題、というそのことが問題、ということもあります。

この自分が自分を自覚できないで問題ないということは、自我つまり、ない。真我つまり、ある。それ、を自覚。どちらとも差がなくなり消える経緯なしに、納得は困難かもしれません。

チャック付きのポリ袋に入ったぬか床を、農家の店で見つけました。これは便利、野菜を入れて、袋を揉んで冷蔵庫に置いておくだけです。

No.4697 - 2014/07/24(Thu) 10:32:06

Re: その読み解き・・・自然の道。 / ubik0101
これはパッションフルーツの花。可愛い?というより不気味?です。売れ残って、半額で売ってた苗を一本だけ買って、植木鉢で行灯仕立てにしたものです。一日しか咲いてないし、なかなか結実しないというので、人工授粉してみました。
No.4698 - 2014/07/26(Sat) 15:05:31

Re: その読み解き・・・自然の道。 / ubik0101
それから一週間もたってないのに人工授粉した5個総て、なんだか大きくなるのが早いですが、結実しています。これは熟すと紫色になる品種だそうです。
No.4699 - 2014/07/26(Sat) 15:10:47

Re: その読み解き・・・自然の道。 / ubik0101
その事態はその事態が認識します。こうして文字を打ってる、そのことが、そのことを認識しています。蝉の声は蝉の声というその事態が認識しています。
No.4700 - 2014/07/27(Sun) 15:50:33
(No Subject) / ubik0101
たとえば静かで、幸せで、満たされてるなら、そのことの理由や原因、経緯など、持ち出す必要がありません。なぜなら、いまここに静かであること、幸せであること、そう、なのですから、どうやってそれを手にした経緯とか、その理由、根拠であっても、そう、であるそのことのほかのことで、まったく不要です。

しかし、不幸であること、満たされてないなら、その原因や結果を探るかもしれません。そのように探ることが、整ってないこと、不吉なこと、不満なこと、その現れです。これは思考は空想と気がつく機能はないようですが、空想の因果の思考と呼べます。それは、あーでもない、こーでもない、どーでもないの、空想です。

No.4677 - 2014/07/16(Wed) 08:30:22

Re: / ubik0101
その静かであること、幸せであること、満たされてること、それは空想が壊滅した、ということです。しかし、空想が壊滅したから静かだというのは、不要な説明概念です。そんな説明さえ、その静かさ、幸せ、満たされてる、とは別のことです。

そこで一般的な不都合、たとえば貧乏、友人、親が死ぬこと、四苦八苦。そこで、その原因や結果を探る空想の因果を立ち上げる必要があるでしょうか。あるいは空想をしないと頑張る、自分には悪いことは起こらないと思考する必要があるでしょうか。いいえ。悲しければ、悲しめばいいです。悲しくないなら、そのままです。

No.4678 - 2014/07/16(Wed) 08:33:16

Re: / ubik0101
さて思考は・・・なにかを思考しても、思考しなくても、こう、だという、こう、を引き出すというだけかもしれません。たとえば自分が死ぬことを考えると、恐怖でした。それはそういう思考がある、その思考がないなら、恐怖はない、と判断でき得ます。思考が問題だ、というわけです。

しかし今は、自分が死ぬことを思考しても、それも楽しみなのです。思考してなければ、もちろん何も感じていません。ということは、思考は起きると、その背後にあって見えない、その人の状態を一緒に引き出す、吊り上げる、そんな働きをしてるのかもしれません。

No.4679 - 2014/07/16(Wed) 08:35:11

Re: / ubik0101
もしなにか問題としたら、その思考というより、思考することができないその人の状態、と言えるかもしれません。で、最初に戻って、たとえば空想の因果の思考があろうがなかろうが、問題は思考ではなく、あるとしたら、その人の状態、と言えるかもしれません。


フェイジョア 「ジェミニ」に幼果がつきました。まだ木が小さいので、大きく育つかわかりませんが、最初の実、楽しみです。

ubik0101&hato

No.4680 - 2014/07/16(Wed) 08:36:41
全1075件 [ ページ : << 1 ... 103 104 105 106 107 108 109 110 111 112 113 114 115 116 117 ... 215 >> ]