書き込みへの対応を、ありがとうございます。
>たとえばですが思考は、《さて、過去から離れ、過去・現在・未来は、意識も存在も、ひとつながりの運動をしています。》と認識し《したがって、 過去・現在・未来は実際には存在しないことが分かります。ただ、ひとつながりの運動が機能しているだけです。》と判断したりします。
ここは、私の認識とは少し違うようです。 私の場合、思考は事実に対する解釈を意味しますが、意識と存在の生の動きを、ひとつながりの運動として捉えているだけです。 事実はひとつながりの運動を、過去・現在・未来と分断して、概念として整理して記憶するのが思考です。
>これは思考が時間を度外視しながら時間に添って展開してるその様子ではないでしょうか。
思考での時間の度外視はないと思います。ここで時間が出て来るのは、思考が介入したからで、過去がある、それゆえそれを吹き消すのは、現在の不満足感が過去を引きずっており、今それを自覚したからです。 思考実験でなければ、過去は吹き消さなくてもよく、過去を自覚しなくてもいいわけではないでしょうか? 吹き消したのは、「現在」との自覚の分離が存在する、それに気づいたからではないでしょうか?
>そして知覚は、たとえば暑い、寒い、甘い、痛いとかですが常に・・・この今にあってしか感じられないのが普通です。
ここは、私の場合は知覚ではなく感覚になります。 今日は暑い、冷房が強過ぎて寒い、桃は甘い、針を刺して痛い、などが私の場合の知覚です。 暑い、寒い、甘い、痛いは、私の場合は感覚、または純粋経験です。
また、意識=私ですが、ここではまさしく意識であり、私概念です。 私は他者と触れ合って、他者の感覚、観察、反応を聞き、それと総合して私の全面的な理解に向います。つまり、私は私との本当の理解に向います。この理解も、運動的です。常に新しい触れ合いがあり、旧知の人でも新しい反応を私に示しますので、私というものの理解は絶えず運動の中にあります。
>そしてその自分が何であるかを見る(変な言い方)なら、おおかわさんの言うような不安、不満などが自分を知らない故の不安、不満であるなら、とりあえずは解決され得ます。実は《対象を持たないこと》は、平安なのです。
ここも、私の理解とは少し異なるようです。 私の場合、自分を知らないので不安なのではなく、現在起きている現象に生命の充実が完全でないので不安なのです。対象を持たないので平安なのではなく、対象がないので不安なのです。恐らく対象があれば心配でしょう。食欲がないので心配とか、彼女が遅いので心配とか。
私は生の完全性の探求を、思考による探求とはまったく思っていません。 思考無くして生きることは不可能であり、思考がなければ食物も、住居を手に入れることも、健康管理も出来ないのではないでしょうか。探求には思考が含まれます。しかし、それは思考も使うということです。 出発点は感覚であり、直接経験している現象です。もし私がいつであれ、感覚的にまったく、全面的に満足していたら、生の探求や自分の生き方を云々することはないでしょう。
ちょっと、対話になっているのかどうか、問いかけが成立しているかどうか分かりませんが、今は仕事の作業が続いていて十分に検討する時間が取れないため、全体が断片的であることをお許しください。 また、掲示板に馴れていないため、スレッドへの書き込みがおかしかったら、すみませんがそれもご容赦ください。
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No.4711 - 2014/08/18(Mon) 14:14:31
| ☆ Re: Re.Re.Re. / ubik0101 | | | うーん、たしかに言葉の意味合いも違うようですし、対話になってるか疑問を感じます。ここは、単純な質問で、再出発してみたいと思います。
> 私の場合、思考は事実に対する解釈を意味しますが、意識と存在の生の動きを、ひとつながりの運動として捉えているだけです。
どのようにして、意識と生存の動きを、ひとつながりの運動として捉えることができた、のでしょう?それはもしかして思考によるのでは?こちらは、とくにそのような認識はないです。
> 吹き消したのは、「現在」との自覚の分離が存在する、それに気づいたからではないでしょうか?
このなんでもない日常には欠けるものがないので、そこから始めようという提案の、導入部としての表現です。
> ここは、私の場合は知覚ではなく感覚になります。 > 今日は暑い、冷房が強過ぎて寒い、桃は甘い、針を刺して痛い、などが私の場合の知覚です。 > 暑い、寒い、甘い、痛いは、私の場合は感覚、または純粋経験です。
こちらは、知覚は、感覚と呼んでも同じです。
> また、意識=私ですが、ここではまさしく意識であり、私概念です。
意識=私ではない、と思っています。さまざま説明する必要はあるかと思いますが、とりあえず、ない=私、です。これは、ある=私でも同義です。私は私と差がないから、距離がないから知覚できず、認識できないので、ない、と呼んでいます。暑いとか甘いとかは、自分との差の認識と睨んでいます。
> 私の場合、自分を知らないので不安なのではなく、現在起きている現象に生命の充実が完全でないので不安なのです。対象を持たないので平安なのではなく、対象がないので不安なのです。恐らく対象があれば心配でしょう。食欲がないので心配とか、彼女が遅いので心配とか。
では自分を知ってる、ということでしょうか?また、生の完全性があると、どのように認識しましたか?認識したから、あるいは垣間見たから、それを探求してるのではないでしょうか?そうでなく、なにかそうあるはずの生の完全性を設定して、それを実現しよう、ということでしょうか?それとも、ただ不満があるということで、完全を求めてるのでしょうか?
> 出発点は感覚であり、直接経験している現象です。もし私がいつであれ、感覚的にまったく、全面的に満足していたら、生の探求や自分の生き方を云々することはないでしょう。
こちらは感覚的に不満とかではなくて、自分がこうである不思議さ、この世界がこの世界である不思議さ・・・神秘を感じます・・・それが探求の動機です。
※そのスレッドの一番右上にある、返信ボタンを押すと、新たに返信欄が現われて、スレッドを続けることができます。その際、返信したい投稿の右上にある引用ボタンを押しておくと、その投稿文が引用符付きで返信欄に表示されます。
返信は、ゆっくりで、興味のある部分だけでも、大丈夫です。いずれ総て繋がっていくかもしれません。こちらも今後は、ゆっくり返信になると思います。
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No.4712 - 2014/08/18(Mon) 16:28:54 |
| ☆ Re: Re.Re.Re. / おおかわ | | | >どのようにして、意識と生存の動きを、ひとつながりの運動として捉えることができた、のでしょう?
これは、「過去」を取り上げる人の言動に触れることによって、私の生の運動が明確に感じ取れたことです。
>このなんでもない日常には欠けるものがないので、そこから始めよう
分かりました! この導入部がまったく違っているんですね。 私の場合、日常の欠落感からの出発です。私は日常が欠落しているという現象に直面しなければ、探求はせずにただ仕事をして、レジャーを楽しみ、自分好みに日常生活を送るだけです。
>意識=私
欠落感を意識したことが、自覚の始まりです。それをどこまでも追求する。本質、または根源だと感じ取れるまで。そして、それを世界に投げ出す。世界に投げ出すことが生きることであることを発見しているので。
>では自分を知ってる、ということでしょうか?
自分の総体を日々知っている。この、自分の総体も知っていることも生きている現象なので、運動中にある。つまり、日々新たに発見している(表現は十分とは言えませんが)。
>生の完全性があると、どのように認識しましたか?
表現が十分ではなかったようです。欠落感の正体の全貌を完全に理解する、という意味での完全性。この完全性も、生きている現象なので、完全で終るというよりも、やはり運動中にある。花が完全に開き切れば別の現象が続く、または生まれるように。
>こちらは感覚的に不満とかではなくて、自分がこうである不思議さ、この世界がこの世界である不思議さ・・・神秘を感じます・・・それが探求の動機です。
これは、完全にubic101さんと私が立つ地平との違いです。私は、生きることを科学者が宇宙や物理を探求するようには探求していません。それは私の関心事ではありません。不思議さ、神秘感、感動ではなく、悲しみ、矛盾、虚偽を感じるからです。そして、社会的な平和や楽しみは仮象だと体験しているからです。
突然のぶしつけな問いかけに、丁寧にご対応いただきありがとうございました。見つめる地平が明確になり、助かりました。またubic101さんの発言を、ときどき見守らせてください。 ありがとうございました。
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No.4713 - 2014/08/19(Tue) 09:47:18 |
| ☆ Re: Re.Re.Re. / ubik0101 | | | たしかに・・・不安、欠落感、虚偽・・・どこを探ってもありません。おなじような空想を皆がしてるので、あるかのように機能してる、社会。そいうことに印象を感じることもなくあります。そして、知ってることなど、何もないです。こんな話ですが、いつでも、話しかけてください。そして素敵な人生を!
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No.4714 - 2014/08/19(Tue) 11:18:30 |
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