初めまして。たまたま通りかかったので、感じたところを書き込みます。
>ここで、ふっと >過去を >吹き消してみることにします。
これは面白いですね。 過去は記録ですから、吹き消せません。 それに関する自分の印象、感覚、執着から、一旦離れてみることは可能でしょう。 なぜ私はそうするのか。 その記憶は、現在の私の心に重いと感じるか、 現在の実存との直面を不完全にさせると感じたからです。 過去の自分の行動や、人に対して取った行動は不完全で、後悔するか、現在を正当化する理屈を探そうとするからです。 しかし、実際は、過去はすでに過ぎ去っています。 基本的には、物質としての時間は逆行しないので、存在的には終っています。
さて、過去から離れ、過去・現在・未来は、意識も存在も、ひとつながりの運動をしています。 したがって、 過去・現在・未来は実際には存在しないことが分かります。 ただ、ひとつながりの運動が機能しているだけです。 この運動は世界との関係であり、変化です。 私と私を取り巻くすべては、運動の中にあるからです。 そして、運動は変化です。 私は変化において存在しています。 意識がこの変化から離れるとき、私に思考または過去が介入してくるのです。 では、なぜ意識は変化の運動から離れるのでしょうか? 刻々の運動、刻々の変化から意識を離すのは何でしょうか?
それは、何となく不安だからです。 それは、ありのままが何となく不満足だからです。 突き詰めると、根源的に不満足だからです。 この不満足は生の最初から存在していたものだろうか? それとも、どこかの時点から生まれてきたものだろうか?
空を見上げて美しいと思い、海を見て日常以上の気持になれ、夕日に感動します。 旅をして良かったと思いますが、間もなく、何となく退屈が襲ってきます。 何となく何かが欠落しています。 刺激の追求は、刺激が過ぎ去った後に欠落感を更に強くしてしまいます。 そこで、この欠落感の中に留まります。 不満足感とともにいます。
そして、この掲示板が目に止まります。 なぜ掲示板を見たのでしょう? 何が私にブログや掲示板を検索させたのだろう? 底知れない退屈さ、対象を持たない不安であることが分かります。 堂々巡りですが、堂々巡りをここで吹き消してみることにします。
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No.4708 - 2014/08/17(Sun) 21:51:46
| ☆ Re: Re. / ubik0101 | | | はじめまして。
そうですね、おおかわさんの投稿・・・とりあえずの印象ですが、知覚と思考の機能の違いの整合性の疑問のように感じました。そしてそれは、それは自分とか何?という疑問の上に起こってるようです。
たとえばですが思考は、《さて、過去から離れ、過去・現在・未来は、意識も存在も、ひとつながりの運動をしています。》と認識し《したがって、 過去・現在・未来は実際には存在しないことが分かります。ただ、ひとつながりの運動が機能しているだけです。》と判断したりします。
これは思考が時間を度外視しながら時間に添って展開してるその様子ではないでしょうか。そして知覚は、たとえば暑い、寒い、甘い、痛いとかですが常に・・・この今にあってしか感じられないのが普通です。思考は暑いときに、暑い、寒い、快適、まったく無関係なこと、を思考できるので、そのことで混乱を孕んでるとも言えそうです。
それでも微妙ですが、暑い、寒い、甘い、痛い、とかは知覚ですが・・・思考もある意味・・・それは見えること・・・言葉で見ることであり・・・知覚でありどちらも・・・意識をフィールドとするという意味で共通で・・・機能としては知覚と思考には明確な区分は困難なところもあります。これも人に混乱を起こさせ得るようです。
そして思考とか、知覚、そして行動があれば、それが活動するフィールドと感じられる意識があることは前提にされてしまって、疑うのが困難になってるかもしれません。そこに意識=私という、同一化もあるかもしれません。
続きます。
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No.4709 - 2014/08/18(Mon) 09:38:08 |
| ☆ Re: Re. / ubik0101 | | | けど、ちょっと視点を変えれば、予め自分があって知覚、思考、行動するのではなく、もしかして思考したりするから、自分が起き上がる、ということに気がつく亊もあるかもしれません。この自分を起き上がらせる、という点で見ると、知覚も思考も行動も、同じ機能をする場合があります。
ところで見える、聞こえる、まったく知覚だけが機能する、無思考状態を体験することがあります。それはある意味、見える聞こえると、言葉による思考との分離です。その機能の違いが、判明する・・・と、判断するのは思考ですが・・・そんな亊でもあります。
いろんな経緯があるようですが、それは自分とは何?に繋がる体験であったりします。そしてその自分が何であるかを見る(変な言い方)なら、おおかわさんの言うような不安、不満などが自分を知らない故の不安、不満であるなら、とりあえずは解決され得ます。実は《対象を持たないこと》は、平安なのです。
もし不安などが世界の仕組みとして仕方ないなら、なぜそれを感じることができるのか?先に引用した《ただ、ひとつながりの運動が機能しているだけです》も、それがそうなら、なぜそれが思考できるのか?また、なぜ、それ、は、そう、なのか?という疑問は起こります。
ところで思考による探求をする場合、それはそれで役に立つし思考の堂々巡りは気にすることはないでしょう。また思考の姿を整えようとする必要はありません。それよりも、どこか思考は変調されていて、事実、そう、であることを、そう、だと思考するのはあまり得意ではない思考の、微細なとこを、厳密に見ることが役に立ちます。
たとえばこのubik0101の投稿、そしておおかわさん自身の言葉、それは確かに、そう、ありのまま、なのか?思考は予め破綻して生起してるようであり、それを見ることで、そのような思考を成立させている前提を探るための非常口が見つかると思います。
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No.4710 - 2014/08/18(Mon) 09:54:09 |
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