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なんでもないこと。 / ubik0101
この部屋にいる、外の鳥を聞く、つまり知覚する、歩く、話す、行動する。怒る、心配する。思考する、それ、そのことに、それに依存、執着できないようにできてる機能があります。と言うより、それに執着できない機能こそ、歩く,話す、思考、見る聞く触る。怒る、です。

まずは・・・なんでもいいですが、たとえば、思考は過ぎ去る、と認識すると、それを支える、どこか空想の誰かの思考の執着状態が、どこかに現れます。総てはひとつ、と認識すると、それを支える、どこか空想の誰かの分離状態が、その背景に現れます。と一応してみます。

いまここ、と認識すると、いまここではなくどこかに、それを支える、過去未来、心理的思考が現れます。善を認識すると・・・自分とは関係ないこととして、どこかに・・・それを支える悪が現れる。と一応してみます。

No.4501 - 2014/01/26(Sun) 11:37:01

Re: なんでもないこと。 / ubik0101
そうだとして。それはなにかの認識、思考が、その反対の認識、思考と対になって・・・たとえば青色を見るとその背景からはみ出してきたように、透明に輝く黄色が現れる、そんな補色関係のように・・・その認識、思考を反対の思考が、それを強化、支えてるということです。

しかし、それは悪は隠れてるとしてもそんな悪に支えられて現われてる善は、善ではありません。いわゆる心理的な時間、葛藤、苦悩に支えられた、いまここは、いまここではありません。分離に支えられた、総てはひとつは、総てはひとつ、ではありません。自我に支えられた無我は無我ではありません。と一応してみます。

これを解決するには、なんでもいいですが、総てはひとつ、いまここ、善、無我、そんな認識、思考、真理、事態、を捨ててしまえばいいのです。と言うより日常に特に何もないことを見るだけでいいのです。それは赤でも緑でも、金でも灰紫でもなく、透明です。これほど簡単なことはないです。

No.4502 - 2014/01/26(Sun) 11:39:06

Re: なんでもないこと。 / ubik0101
この、なにもかも忘れたところで、たとえば善であることができるでしょうか?つまりです。善を忘れたところで、善でなければ、思考としての善は捨てられないでしょう?善を忘れたところで善であれば、思考としての善は、忘れていられるでしょう?

そうです、もちろん忘れる、失って、大丈夫。善の思考は壊滅していいのです。なぜなら、思考は・・・たとえば善悪の思考のあるないと・・・その善悪の事態とは無関係だからです。これは人が善なら、善という思考がなくても善です。善という思考がなければ悪。ではない、です。

もちろん無我、真我も同様です。いまここも、総てはひとつも同様です。そのように思考には、なんの根拠も、人を縛る能力もありません。もしなにか思考が人を縛る、問題だ、と言うなら、そいう人は、そいう状態だ、ということしか示しません。それも思考がその状態と関係ないから、自然にその人が気がつかないほど自然に、そう示しています。

No.4503 - 2014/01/26(Sun) 11:49:39

Re: なんでもないこと。 / ubik0101
また、思考は前提を要する、予め破綻していなければ生起しないのです。と、してみます。それも思考そのことが、それを示します。なんでもいいです。なにか思考したら、それをどこまでも広く適応します。ふつうなにか思考したら、それは芋蔓式に繋がるでしょう?あるいはあちこち飛び火するでしょう?

そこで、そんな思考を止めるのも、ただ流すのも一興です。しかし、思考の広がる性質を逆手に取って、いつもの思考の行動半径を超えて、もっと積極的に広く展開するのも無駄ではないです。なにかの思考が生起したら、ありとあらゆることに適応してみるのです。

なんであれ、無我でも、自我でも、私は世界でも・・・なにかの意見を判断を表現を、善とするなら真理とするなら、ありとあらゆることに対して、それの意見、判断、表現が善と見なして真理と見なして適応し展開するのです。それでどこまでも押し通してそれを見るのです。

No.4504 - 2014/01/26(Sun) 12:02:31

Re: なんでもないこと。 / ubik0101
なんでも、いまここで。なんでも総てはひとつで。なんでも愛で。なんでも、無我で。なんでも縁起で、整合性を付与してしまうことは・・・矛盾があるかもしれないし・・・またできもするでしょう。でもそこでは、そいうことの思考、表現そのことはすでに壊滅してるのです。

ところでまた、その思考をその思考自体に適応します。なんでもいいですが、いまここという認識は、いまここでしょうか?いまここに、いまここという思考はあるでしょうか?善という思考は善でしょうか?総ては一つ,という思考は?自分はない、は?すると、あるいはYES、あるいはNO、との結果が得られるかもしれません。そのことの意味を探ってみます。

そしてまた、その思考の由来を探ってみましょう。くり返しますが、どの思考でも、その思考はその事態を現さないのですが、その背景に、それを思考するその人の事態は現してる。あるいは思考がそれを見る人の視点をつくってる、ともいえます。そこで、たとえば思考が問題だ。と言うのは、そう言う人の状態を示します。

No.4505 - 2014/01/26(Sun) 13:01:57

Re: なんでもないこと。 / ubik0101
ならば現れた思考の陰で見えない事態を探る、その思考の奥を、積極的に探る、暴くのです。そこでは思考が狭い範囲でしか整合性がない、つまり不整合、破綻の上でしか働いていないことに気がつくかもしれません。つまり、なにかの思考を広く適応しても、その思考をその思考に適応しても、その思考の由来を探っても・・・思考は思考を維持できず雲散霧消します。

けれど、そして思考は知覚です。眼を開けていれば山や樹が見えるように、思考は見えるというだけです。山や樹に問題がないように、それそのことに何の問題もないです。問題とするなら、美しくない山や樹に、あるいはそう見る人に。つまり美しくない思考に、そう見る人にあるのかもしれません。

あるいは、善であって,善という思考は、まったく誤らず善だ、ということがあるでしょう。それは思考が、その事態と関係ないから、そうあることができます。そのように思考は根なし草なのです。そこで自由という言葉の厳密な意味ではありませんが、思考はその事態からも自由なのです。それで・・・世界の活動の総てが必要ですが・・・善であって善が認識できるのです。

No.4506 - 2014/01/26(Sun) 13:35:11

Re: なんでもないこと。 / ubik0101
ところで苦悩による思考、あるいは思考による苦悩、そいうことは現れることはなく、ないことが気がつきもしないのが日常です。問題がないことにも気がつかないのが普通ではないでしょうか。そこでは、その人が望まない限り、葛藤や苦悩はあり得ようがないとも、言えるのです。もしかして人はなぜか好んで苦悩するのです。

たとえば経済状態とか、人間関係に不満だとします。それなら、いまの状態、あるいは過去、未来の状態が一般的には好ましくなくても、好ましくても、なにかには不満なのです。つまり、もっといい状態、環境になったら不満は消える。と、いうのは空想妄想幻想です。それが苦痛とも言えます。

どんな状態、環境でも、不満なら不満。その不満は、その人が望んで、なにもなくても空想してさえつくってるのです。それはおおむねですが快不快、損得、好き嫌いに従属してるのです。でなければ、なにをしてもしなくても、農業でも漁業でも、社長でも窓際でも、教師でも学生でも、医師でも、患者でも・・・なんでもない・・・です。

No.4507 - 2014/01/26(Sun) 13:55:44

Re: なんでもないこと。 / ubik0101
さらに。思考には、その思考が空想か、事実かを判定する機能が付属していません。それでなんだかの思考が空想か?事実か?それを判断する思考さえ生起しますが、そのことにもその正誤を判断する機能はありません。そのためには人の日常が、経緯が、必要です。それが、なんでもなさ、です。

この何でもなさ、これは最初からだとか、あるとき獲得するとか、そんな何でもないから、それは始りも終わりもない、もないのです。国破れて山河あり、の山河があるわけではないところです。なんでもいいけど、見る、聞く、話す、働く・・・それ、そのなんでもいい、そのことに、それに執着できないようにできてる機能。歩く、笑う、走る,話す、思考する、そのことが解脱です。

たしかに思考も事態も、それが何であるか、誰も知りません。この説明そのことも、それが説明になってるとしても、それがなぜ説明なのか、知りません。かなりの長文ですけど、ここで特に何かを言ってるというわけではないです。日常が、なんでもなくある、そのことです。

No.4508 - 2014/01/26(Sun) 14:06:55

Re: なんでもないこと。 / hato

静かに楽しかったお正月の,一月。気が付けば,まだその一月で,なにかゆったりと過ぎてることに,嬉しくなってしまいます。

東京の仕事でお世話になった年長の先輩や,十代の頃の,懐かしい知人とやり取りがあったりと,今年はそんな年の始まりでした。

トネリコの木は,この辺りの風土に合ってるらしく,みどりの庭にたくさん植えられました。

画像は,この部屋のすぐ前のトネリコ。

一等はじめに2人で,ツルハシを使い,瓦礫で固められた家の基礎を掘り(昼間なのに火花が散りました),大きな石を取り除いて,植樹しました。

そんなちょっと忘れられない,大事な思い出の,トネリコ。自分たちの胸ほどだったのが,もう少しで,屋根の下端につく頃です。

No.4509 - 2014/01/26(Sun) 21:01:18

Re: なんでもないこと。 / ubik0101&hato

このトネリコは,神奈川のアパートの,玄関で,ヤブラン,ワイヤープランツなどと一緒に鉢植えにしてたものです。こちらに持ってきて,そのまま,庭植えにしました。

わさわさに茂って,とても姿がいいと思います。

ubik0101

ちょっと角度がむつかしく,この画像ではわかりにくいのですが,本当にきれいに球形に茂っています。背後に見えるのはシュロの木です。

hato

No.4510 - 2014/01/26(Sun) 21:14:40

Re: なんでもないこと。 / hato

たぶん樹齢50年近い,桜の木です。ここのところ,台風が激しいため心配ですが,この木もどの木も,元気にいてくれたらいいです。

ubik0101さんが,まるく囲むように植えかえてくれた日本水仙が,香りよく満開の冬の日です。

No.4511 - 2014/01/26(Sun) 21:50:32

Re: なんでもないこと。 / ubik0101&hato
もっと簡単に言えば・・・もしあるなら、悟りも迷いも、自我、無我、真我も捨てる。分離も、総てはひとつも、善も悪も、賢も愚も、いまここも捨てる。既知も未知も、捨てる。ということです。それが、総て、です。
No.4512 - 2014/01/28(Tue) 08:18:50

Re: なんでもないこと。 / ubik0101&hato
前に聞いた話です。いろいろな人・・・つまり学生とか、サラリーマンとか、主婦・・・衆生とかに説教します。そうではなくて説教するのなら、仏教の祖である仏陀に説教するように説教するのです。と、ある坊さんが言います。

なんか納得できる話です。けど、そこで仏陀を対象にしてるなら、対象なしに説教するのです。あえて言えば説教する自分と説教される目前の、空想の、誰かとかいうことでなく、そんな認識が生じないで、です。

そのように誰かに話すのではなく話す、話を受け止める誰もいないで話す、そのように思考するなら、それは説教でもなく、どのように始めても、自然に探求、見ること、です。自分との対話でもない、思考に任せる思考・・・思考は知覚です。

No.4513 - 2014/01/28(Tue) 09:45:00

Re: なんでもないこと。 / ubik0101&hato
うーん、売りさばき所、て看板。なんか変な感じがしました。
No.4514 - 2014/01/28(Tue) 13:24:59

Re: なんでもないこと。 / ubik0101
ふと、思いました。どんな思考も総て正しいとされる、です。たとえば樹を見ると、それを見てる視点が設定されてる。なにか思考を見ると、その見ることで、それを見る視点が設定されてる、ということでもあります。

ということは、その視点は、その思考によって生起してるのですから、どうやっても、その思考を否定不可能です。たとえ空想、事実無根であっても、誤っていても、思考は視点の源ですから、視点にとって正しいというわけです。こんなことが思考への依存です。

No.4515 - 2014/01/29(Wed) 22:37:49

Re: なんでもないこと。 / ubik0101
世界時計

たとえば世界が時計で、自分が歯車なら、ほかの部品と一緒に機能していてるのですから、自分は特定の個別なこととしては、ない、と感じるでしょう。それで時計から歯車である自分を取り去ったら、また隣の歯車を取り去ったら、それは時計でなくなる。歯車も、電池も、文字盤も、針も、それぞれの自分がなければ時計はない、と感じるでしょう。

つまり自分があるから時計がある。また、ほかの部品があるから時計がある。みんな絶対です。そして時計そのことはなくならないから、何もなくなるものはない。自分は部分でもある、全体でもある、世界は関係の運動、と思考することもあるでしょう。

そしてなにか時計が故障してスムーズに機能しなくなったら、部品は不具合を感じて、その不具合さゆえに自分は、ある。さらに時計が故障して止まると、自分は、ない、そのように感じることもあるでしょう。また、たとえば歯車や電池を取り去ったあとの空虚、それを、ない、と呼ぶこともあるでしょう。

また電池の電気、それは見えないから、ない、と。その時計を組み立てた技術者、それは時計の内部にはありませんから、ない、と呼ぶことがあるでしょう。そして時間は、部品たちの運動であり実際は時間はない、秒針はその表現。とすることもあるでしょう。そんな・・・あるも、ないも、捨てる。ついでに捨てることも捨てて、2重否定で一件落着?

No.4516 - 2014/02/01(Sat) 21:35:13

Re: なんでもないこと。 / ubik0101
おおむね人間関係の苦痛は、快不快、損得、好き嫌い依存ではないでしょうか。それは自他があれば対立が起きるように設定されているようです。そこでなお、嘘を言わないこと、優しくあること、規律を守ることなどは、苦痛に逆らって、なお公平さなどを培います。

しかし、それが実現されたなら、みんな違うも、みんな同じも、自他がないも、あるも、不平等も、平等も、公平も、不公平も、捨てて大丈夫です。もちろん卑屈も傲慢も、守るも攻めるも、守らないも攻めないも、希望も絶望も、戦争も平和も捨てる、で。世界は穏やかです。

No.4517 - 2014/02/01(Sat) 21:45:12

Re: なんでもないこと。 / hato

今年は,それぞれの仕事の合間に,身体を温めに,数百円で入れる山間の,とある温泉に行きます。

その山に入り,登り行くたび,しんとした景色に静かさを思い出し,そんな穏やかな静かさが心底はなやいで,うれしいのです。

いつもの約束で,それぞれ一時間ほど湯に浸かり,たいてい,美味しい牧場ミルク味のソフトクリームや,そのあたりでおいしい,蕎麦などを食べます。持っていたみかんを食べるときもあります。

そしてあちこち用事をすませながら,緑や鳥や,猫たちの待つ家に帰ります。

No.4518 - 2014/02/01(Sat) 23:11:57
謹賀新年 / ubik0101&hato

初春のお慶びを申し上げます。
今年もよろしくお願いします。

今日はゆっくり過ごしながら、午後に車を走らせ、
福田の海に行きました。

この時期によく見るのでしたが、海沿いの空に鵜の群れが、
ひと群れまたひと群れ、西に飛んでいくのを見ました。

No.4500 - 2014/01/01(Wed) 23:17:41
差の認識。 / ubik0101
なぜ青空が見えるのだろう。なぜ風が聞こえるのだろう。
なぜ寒さが感じられるのだろう。なぜ、こう思考できるのだろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この庭には、モズが暮らしていて、わりと地面すれすれを飛ぶのを見かけます。冷たい風。明るい光・・・見る、聞く、触る、思考する・・・知覚とは、差の認識です。そこで・・・歩いたり木の枝を剪定したりしながら・・・自分は自分で知覚できないとうよりも・・・知覚され得ない、対象にできないことを、自分、と呼ぶ日常です。

たとえば、どこか秘密の森のアトリエで絵を描く画家・・・ここからは対象にできない、知覚されないけど・・・のことを空想すると、その空想を知覚してます。そこでその知覚の背後で知覚されないことを、自分、と呼ぶのでしょう。と・・・その知覚する背後の自分ということを空想しても、対象にされ得ない、自分、です。

このiMacの画面です。よくポインタを見失うので、動かし始めて1秒だけポインタの周りに丸い虹色が表示されるよう設定しました。Mouse Locatorという無料のソフトです。

No.4481 - 2013/12/12(Thu) 22:21:11

Re: 差の認識。 / ubik0101
そのようにどうしても自分は常に対象ではない、鳥ではない、風ではない、光ではない、感情ではない、思考ではない・・・なんでもない・・・透明・・・これはしかし関係であり、鳥と、風と、光と、感情と、思考と・・・自分・・・とても繊細な踊るような距離、ズレ、があって、可能なようです。

そしてまた、鳥も、木も、特定の個別のこととしては対象になりません。なのに見えたり聞こえたりする不思議。とくに風、光・・・空間も時間・・・も、対象になりません。自分も対象になりません。これはどこか戯れのような関係にあるのでしょう。もし自分が鳥なら、風なら、光なら・・・と言うより自分が世界なら・・・現象として世界が自分に飛び込んで来たら・・・世界は消えます。

・・・(ほかの掲示版への1年くらい前の投稿)・・・


どう何を書こうとの計画があるわけでもなく、
いつもよりも混迷を深めるかもしれません、が始めてみます。

カレンダーはCrisCalenで、時計はQuarsClocks、
どちらも無料のソフトです。

(この絵の男女は,向う向きにも,こちら向きにも見え,しばし注視してしまいます。hato)

No.4482 - 2013/12/12(Thu) 22:28:53

Re: 差の認識。 / ubik0101
たしかに世界が自分なら、まったく知覚不能で、知覚にとっては、世界も自分も消えてしまいます。これは均質のことは知覚がそこに生じない、からでしょう。また、この日常では、自分で自覚できない自分に、知覚できる世界が・・・見えたり聞こえたり・・・現前する、で。知覚とは、差の認識、です。

(そうでなくて見えたり聞こえたりの知覚がある場合に言われる、私は世界、とは。知覚の届かない空白・・・未知・・・に取り巻かれた見える聞こえる・・・既知・・・知覚の範疇です。未知の海に浮かんでる既知の島です。未知と既知の分離です。ここでは総てが私であり、その私は知覚できることによって生起してるだけで。私に知覚できないことは、ない、ことだ。という誤りが生起する・・・それは自意識の限界、です。)

話を戻します。たとえば、《あの誰かの言動は自我だ》という思考の背景に・・・自我の正体が何かを、暗黙裏に分かってるとして実は分かってない・・・そんな知覚の対象にはならないことがあって・・・それを背景にして、その前景に、知覚の対象として、たとえば《あの誰かの言動は自我だ》という認識が可能です。

などと言ってる、この思考の背景、それは、まったく何も、ない、です。こう思考してる自分は自分で知覚できないという意味で、そうです。くり返しますが、これは自分で自分を知覚できない、そこにあって、見えたり聞こえたり,思考されたりの、知覚される、日常ということです。

スクリーンセーバーは、画面いっぱいにも数字を大きくできる、
ぱたぱた時計のFLIQLOです。これも無料です。

No.4483 - 2013/12/14(Sat) 10:41:25

Re: 差の認識。 / hato

師走という,12月。寒くなりました。

昨日は幼馴染の誕生日で,どうしてか,必ずその日に思い出して「今年もひとつ,年を重ねましたね」,と簡単に近況を伝えあいます。わたしの誕生月の頃には必ず,もうふた昔以上前から,思い出したように手書きのカードが届くのです。

結婚したり,子供ができたり。隣人,学校,仕事,祭り。日々出来事は,とりとめない泡沫のように起きて過ぎるようです。

お弁当はときどき頼みます。一口頂きかけですが,今日は,桜の花びらの塩漬け,柚子の香り飯。ほんのり初春の味,一足お先にいただきました。

No.4484 - 2013/12/15(Sun) 22:35:19

Re: 差の認識。 / ubik0101
ここで、探ってみませんか?あなたは、ない、を知覚できるでしょうか。どうでしょう?いくら真剣に頑張っても、なぜ知覚できないのか?とか、探ってる思考は知覚できるだけで、ない、そのことは、知覚不可能ではないでしょうか?

つまり、です。ない、は、ない、を認識できない、です。つまり、です。自分は、ない、ので、そこになんの差もない、ない、そのことを認識できない、です。

いろんな立ち位置があります。自分の立場、根拠という意味ではなくて、たとえば歩いてると見える風景が変わります。そして風景を見るためには風景との距離、差をつくるための視点を要します。ひとつの立ち位置では、こういうことです。

No.4485 - 2013/12/16(Mon) 09:51:01

Re: 差の認識。 / ubik0101
さらに探ってみます。あなたは、ある、を知覚できるでしょうか。ここで言う、ある、とは。それが、それの原因である、ある、です。第一原因、実在、神とも呼ばれる、ある、です。絶対の、究極の、ある、です。これは、ある、を空想できるとしてその空想してることを知覚できるとしても、ある、そのことは、日常では知覚できない、のではないでしょうか。

これは自分は、ある、と差がないから知覚できないのだとして、ならば、私は、ある、ということでしょうか。または、まったく差がないほど完全に違うから知覚できない?ということでしょうか。つまり完全に差がない、完全に差があるということは、ある、でも、ない、でも知覚できない、という意味では、等しい、です。

くり返しますが、ない、が知覚されないというのは、私は、ない、からです。と、完全に、ある、からです、です。知覚にとってはですが、ある、も、ない、も知覚不可能という意味では、等しい、ということになります。それは、なぜでしょう。

ふつう日常では、ここに時計が、ある、と言われます。それは時計が時計として機能してて、それがそう知覚される、という意味です。これが日常での、ある、の定義です。それは、体験としては縁起・・・思考としては因果・・・相互依存・・・で説明できますが、この世界は、絶対の、ある、でも、絶対の、ない、でもない、ので知覚できる、です。

(ミッキーマウスは、生まれてもいなければ、死にもしません。だって、それはウォルト・ディズニーの空想なんだから画面の中で、歌ったり踊ったりするのですが、生きても死んでもいません。で、ウォルト・ディズニーは、生まれてもなければ、死にもしなかった、のでしょうか?)

こんな、あるでもないでもない世界、それが人にあって完全に活性すると、絶対の、ない、ある、は体験され得る、です。つまり人は、ある、ない、を凌駕してるのではないでしょうか。でないと、知覚するということが、できないのではないでしょうか。

No.4486 - 2013/12/18(Wed) 20:50:37

Re: 差の認識。 / hato

たしかに絶対の,ない・・ある・・は経験され得るのです。

或はそれを見た人はどうしても,なにがなんでもそのことを,究明せざるを,あるいはされざるを・・得ないのです。

そのとき,まったく,この意識でもあの意識でも,ないところで人は,それを知覚,見,あるいは見られます。

人は,その意味で世界を超えるしかないかのように

ただそうなのだとしか,言えないのです。


今年の春,掛川のとある田園カフェで,美味しいスープと手作りパンを食べ,珈琲を飲みました。

No.4487 - 2013/12/21(Sat) 00:25:12

Re: 差の認識。 / ubik0101
たとえば、いまここ。それは、とても単純なことです。けど、あるいは知覚の働く、いまここと、そうでない思考してる様子と較べたりして複雑に。あるいはなにか無思考の境地のように言われたりしますが、ふつうのことです。それを一つのケースで説明してみます。

たとえば花を植えたり、野菜を煮たり、そのことを、いまここ、と認識したら、認識された、いまここ・・・庭作業とか料理・・・とは、いわば違う時間線に切り替わります。そこで、あの畑作業とか料理の、いまここは、いまここであって、それをいまここと思考してる、このことは、いまここではない。という感覚が生じます。

これは、あの、いまここ、は思考以前の知覚だけが機能してた・・・この、いまここ、には、いまここ、という思考の要素がある。という誤解を生じます。でも実際は、あの庭作業とか料理の、いまここ、にも思考は、もちろん無思考も、まったく問題にならずに機能してる、です。

ただそのことを改めて対象にして、いまここ、と命名したその自分を注視してるので、あの、いまここから外れた、と思ってしまう、です。しかし、それも、いまここです。それは、いまここ、と認識するために、あのいまここと時間の距離をつくって、認識できるようになるのですが、それはそれだけのことです。

くり返します。なのになぜか、いまここという思考、あるいは、なにかの思考をする。あるいは、いまここであった自分を対象にすると、そこで思考の有無が問題になってしまい、知覚の機能だけが働いてる、あの、いまここ、を尊重する、ということになる。その必要はないです。

No.4488 - 2013/12/23(Mon) 07:58:14

Re: 差の認識。 / ubik0101
それは認識するためには、ここでは、あのいまここと、このいまここに、時間の距離を要するということでもあり、却ってその思考する時こそ、また世界は新しい相で現前します。

この12月の朝、その冷たい風を知覚するということは、知覚できない自分の体温との差の認識。あの遠くの山々を、このように見るためには、こことの距離を要するということで。知覚が時間と空間に距離を要する、思考とは知覚で距離を要する、ということです。

そこで・・・なにか思考しただけで世界が変わってしまう。なにか、あるいは一瞬前の自分を対象にしただけで世界が変わってしまう。どこかの掲示版に投稿しただけで、しないだけで、隣の人と挨拶して立ち話するだけで、空に飛ぶ鳥を見るだけで、世界が変わってしまいます。

たとえばこの投稿を読んで、そうなんだ、とか。間違ってる、とか。自分とは違う、とか。結構複雑、とか。なーんだ、つまんない、興味ない、とか。そう思っても思わないでも、そこで世界は変わってるのです。

これで無問題です。これはその背景に、自我無我、迷悟、苦悩平穏、あるない、に拘らないことを要するかもしれません。いまここ、は、いまここ、に、あってもなくても、構いません。なにか特定な,特別な、いまここ、なんてないです。

そんな、この世界は軽い・・・けろろん、としてる・・・のです。たとえば庭作業、料理、歩く,話す、過去のことを思考し、未来を空想する、そのことになんの問題もでようがないです。

マスクメロンは糖度が17度くらいだそうですが、糖度が30度になるというイチジク、ヌアールド・カロンの苗を植えて、防寒のために近くの田んぼから貰って来た藁を敷きました。

No.4489 - 2013/12/23(Mon) 08:04:30

Re: 差の認識。 / ubik0101
ここ2年ほどかけて、庭のあちこちから集めて、桜の木を丸く囲うように植えた水仙が咲き始めました。
No.4490 - 2013/12/23(Mon) 11:57:01

Re: 差の認識。 / ubik0101
その桜の木の元には、鳥が運んだのでしょう、万両が赤い実をつけています。
No.4491 - 2013/12/23(Mon) 11:58:45

Re: 差の認識。 / ubik0101
ほかの言い方では・・・このように指がキーボードを打つ、文字の映る画面が見える、窓からの光熱、呼吸、思考、ということが、ある・・・それがそう機能していて、そう知覚される・・・だけです。どこにも、いまここは、ありません。いまここ、というのはそれらの抽象概念。命名された幻想です。

こういう言い方では、時間もありません。世界もありません。それは命名です。しかもそれは、歩く、走る、見える,聞こえる、思考する、呼吸、空気、光・・・そんな、ある意味よく知ってること、ある意味なにがなんだか知らないこと、ないまぜ既知未知を、時間とか、世界とか、そう呼んでるだけです。

ここで提案です。たとえば知覚の届く範疇を仮に、既知、と名付けます。知覚の届かない範疇を仮に、未知、と名付けます。そして、そのことが明確に認識されずあることを、暗い未知と既知の分離と呼ぶとして。そこで、それが明るく既知、未知の分離が明確になってなお・・・また既知=未知であってなお・・・私は世界・・・は認識としても成立する?でしょうか。

No.4492 - 2013/12/26(Thu) 09:54:03

Re: 差の認識。 / ubik0101
ところで、知覚は受動的です、見ようとしなくても、聞こうとしなくても、すでに見え,聞こえています。ここで、見よう、聞こう、としても、見え,聞こえます。つまり、受動でも、能動でも機能します。思考もそうです。さらに、知覚はそのようだとして、行動はどうでしょう。この関係を見てみましょう。

たとえばキーボードを打ちます。スコップで庭を掘り苗を植えます。これは能動でしょう。でも、絶対に?それはただ自分ごとではなく世界の働きに乗ってするのであれば、受動とも呼べるのです。能動、受動、その判断も曖昧です。

また、能動、受動、どちらかだけ、ではそれはない、です。これは線引きはできないけど、それが明確でなければ。そこで受動は無我、能動は自我、という暗く隠れた判定基準が、その人の経緯として、機能するかもしれません。。

No.4493 - 2013/12/26(Thu) 09:59:44

Re: 差の認識。 / ubik0101
ここで、知覚は受動、行動は能動。このように曖昧なまま分離が暗く偏ると、たとえば知覚からの直接行動、という姿勢が起きたりします。それは知覚は受動、行動も受動でありたい、偏りの姿勢かもしれません。それはもちろん、さまざまな立ち位置で、まんべんなく滞らなければ、そのようにありたいことの問題は生じません。

そのように、知覚と行動の、受動と能動を明確にしたら、いまここ、という認識の成立が必要か?それを試してみるのもいいかもしれません。つまり、受動と能動の分離。あるいはその分離を明確に見たならば、いまここ、という認知そのことが生じるでしょうか?

このように見ることは。どこからでも、なにからでも、始めれば、正確に、それがそれを開示します。このふつうの日常、このようなこともなにもないところから、始めているのです。説明すれば、総てがあるゆえに、どんなこともない、透明、そこから、です。

No.4494 - 2013/12/26(Thu) 10:04:48

Re: 差の認識。 / ubik0101
もちろん人は、知覚からの直接行動、しかしていないのです。なんでもいいですが、誰かから馬鹿にされたとします。それで怒る、とします。これは、馬鹿にする誰かを見て、怒るという行動を起こしたのです。思考するということも同様です。

なのに、ヤカンが熱っ。転んだ子供を思わず助け起こす、そんなことを知覚からの直接行動だとすると、思考することは知覚からの直接行動から外れると見なし、そのことで知覚からの直接行動とは、なにか思考のない?特定のことだと設定されてしまいます。

ただそこで。たとえば怒りの、その奥になにかの理由が設定されてるのか?ということを探るのかもしれません。すると、その設定は、威嚇、攻撃、自己顕示、叱咤激励、愛情表現、たんなる習慣・・・人の数だけあるでしょう。馬鹿にするほうの理由も、星の数だけあるし、たとえば共に愛情表現ということもあり得ます。

そしてなお、両者の関係は、馬鹿にする,怒る、怒られるの関係でしかない、というわけでもないのです。尊敬するとか、誉めるとか、友達とか、親子とか、恋人とか、こんなあまりにも、取り留めのないことに迷い込んでしまう必要もありません。そのへんは何だっていいのですが、

それでも人は、それなりにすることで失敗だらけでも、真善美を求めるようです。これは自分がそうしたくて、そうする理由は自分に見つかりません。それはこの世界、それは、なにがなんだかわからないけど、これが、そう望んでるのだと思います。

No.4495 - 2013/12/26(Thu) 17:42:34

Re: 差の認識。 / ubik0101
ついでに・・・2、3の掲示版くらいしか見ないのですが、なぜか思考を悪者にする向きもあるようです。たぶんですが、ああでもないこうでもない、という思考の葛藤を自我と見て、それさえなければ、自我がないと空想してるのかもしれません。

そんなに思考に責任を押し付けて自分は逃げてはいけません。思考が問題、と言ってるのも思考です。そうでなく、どんな思考があろうとなかろうと、自我なら、自我。自我がないなら、自我がない、です。それに、自我も無我も壊滅するのが自然の道です。

たとえばなにか他の人の思考、言葉で、なにか心理的に傷つくのが嫌なのでしょうか。また自分の思考が汚くて、大声で騒ぐので、それが嫌で傷つくのでしょうか。でも、いくらでも傷つけばいいです。

その傷をどこまでも引き受けること。自分の奥まで浸透させること。そうすれば傷それは速やかに治癒され去るとか。忍耐力、金剛力がつくとか、なんの期待することもなく、どんなことにも助けを求めず、たった1人で、です。これは姿勢です。

あるいは、劣等感、疎外感は、自分の無意識への通路でもあります。これは人にそう用意されています。また、たとえば思考は悪者、というそんな先入観があれば、そいうその自分に自分で切り込むこと。ひとつには、これを生かさない手はないと思います。

赤ネギです。土寄せが浅かったので短く、たぶん肥料も遅かったので細いようですが、鍋です。

No.4496 - 2013/12/28(Sat) 09:13:07

Re: 差の認識。 / hato

赤ネギを入れた鍋は,豚しゃぶでいただき,神奈川からきた母に好評でした。

この白ネギは,先ほどの晩ご飯に,はた鍋にしていただきました。

年の締め括りのお魚は,ubik0101パパの見立てで,はた,と,こち。
はたもこちも,プリプリした肉厚の刺身が大変美味でした。

No.4497 - 2013/12/31(Tue) 22:38:56

Re: 差の認識。 / hato

山の上の青い空に,栴檀の白い実。

年末の寒波冷えを,静岡でも感じます。

No.4498 - 2013/12/31(Tue) 22:40:56

Re: 差の認識。 / hato

ubik0101さんが植えてくれた,

おたふく南天の朱がきれいな,今日の庭景色です。

No.4499 - 2013/12/31(Tue) 22:42:59
(No Subject) / ubik0101
ない、が私たちの本性です。という言葉を聞いたことがあります。では、ない、ということは、どいうことなんでしょう?そして、なぜ、ない、は、ない、なのでしょう?

もし、ないが、自分の本性と自分で見たのなら・・・その不思議さに・・・それが、そう見える。この自分の不思議さに。なぜ、と問うことは必然です。

ではなく、もしかして、どこかで聞いたことを受入れたのなら、それが確定された真理と見なすなら、その見たこの自分に、問わないかもしれません。ない、それで解決済みとするかもしれません。

なんでもいいのですが、自分は、ある。時間はない、私は世界、いまここ、現象界、実在界・・・なぜ、それは、それ?これはなにか答えがでるとか、でないとか、そんなことではなく、姿勢です。

たとえば、なんでもいいですが、バラの花を望むとします。どうしましょう?あるいは、花壇をつくる必要があるかもしれません。そのためにはスコップが、腕の力が、適した靴、服、あるいは肥料。

あるいは天気、あるいは光、水、風の感覚。時間の感覚。あるいは植物の病気の学習。なにより、それに取り組む自分の姿勢、それを見る必要があるでしょう。

No.4472 - 2013/11/25(Mon) 09:51:26

Re: / ubik0101
この、なんでもいいですが、魚でも、友人でも、料理でも、それを見るためには、ありとあらゆることが必要になります。つまり、世界が、それそのことのために総て機能することのほかに道があるでしょうか。

そして、このようなバラとか魚とか天気とか。どんなことも、この自分に収束しています。その、わたしは、何?ここは、どんなことを問うても、問わないでも、この私は何?から外れません。

そでなくて、なんでもいいですが、バラの花を買うのであれば・・・その金額をどうすれば?というのを度外視するなら・・・それは簡単かもしれません。人に聞いたこと、真理を確定したアイテムとして、自分にだって問わないなら、

それを簡単に買うようなものかもしれません。買うことができるなら、買えばいいのですけど。誰かの言うことを受入れたりすることは、とても馬鹿馬鹿しい、と思います。

ところで、私は何?というのは、いわゆる自我の機能でもあり得ます。自分を・・・知る知らないではないのですが・・・自分で知ろうとすること、それが自我とも言えます。それで問わないことも正当化できます。

しかし知ろうとするのは、知らないからで、知ろうとしなければ、すでに知ってる。それは誤解でもあり得る。と、いうことも了解する経緯があります。

No.4473 - 2013/11/25(Mon) 10:36:45

Re: / ubik0101
また。ない、から、自分は生まれてもいません。ない、から、自分は死にもしません。という説明があります。それはそうです。しかし、その、ない、は。それを、ある、と言い換えても成立するのではないでしょうか。

あるいは、あるでもないでもない、と言い換えても成立するのではないでしょうか。さらに、なんであっても、たとえば私は世界、でも成立するのではないでしょうか。

それで、理由なんて、なんの意味もなく、そうなのではないでしょうか。もし自分は生まれてもなければ、死にもしない、というのが事実なら、その理由には依存しないのです。

なにかを思考しても,思考しなくても、理由があっても、なくても、その事態が変わるのは変なのです。とか、で・・・なにか見たなら・・・それは、なぜ、それ?問うことができます。

そいえば、私は世界、というのは。自分で自分を知覚できないから、知覚できる、これ、風、光、世界、思考、感情を、自分だと・・・とにかく藁をも掴むように・・・代替・・・して感じるのではないでしょうか。

ない、ならそもそも、私は世界、は成り立たない、とも・・・世界は世界、ということで、それに囚われた自己認識としては成り立つとも言えます。微細なとことから、まだまだ、突破口が見つかるのではないでしょうか。

No.4474 - 2013/11/26(Tue) 07:06:05

Re: / ubik0101
ところで、このように、ここで話してることは、誰かが言ったことについて、他人であるubik0101が話してるわけで、それはレクレーションとして以外、あんまり意味のあることではないです。

なかなか難しいもので、誰かが言ったことを前提にして展開すると、そのことが悪いということではないけれど、娯楽になりやすいです。これだけ、というのも変ですが、何か見て、これは、なぜ、これ?

これは経緯としては。もしかして側から見ると曲がりくねった道、あるいは行き止まりかもしれないけど、アイテム、対象としての思考の範疇に収まらないことを要求する。必要なことが総て揃う、迷いようがない道です。

No.4475 - 2013/11/26(Tue) 07:16:54

Re: / ubik0101
もういいだろう、ということでサツマイモ紅はるか、を収穫しました。5株分です。うーん、すこし数が少ないのかな?蔓を植えるとき大きな芋にしたくて、3節しか埋めなかったからかもしれません。
No.4476 - 2013/11/26(Tue) 07:58:56

Re: / ubik0101
ランタナの花と、実(画像中央上)です。青紫の実は美味しいけど、種には毒があるそうです。種ごと噛み砕く動物ではなく、飲み込む鳥に遠くまで運んでもらう作戦のようです。種を噛まないようにして、実だけを食べてみました。ほんのり甘みです。
No.4477 - 2013/11/27(Wed) 17:53:18

Re: / hato

すっかり冷え込んできたここ数日,冬到来の様子です。

天の川を上から見下ろすようにして,天竜川を西に走り走り,気賀を抜け,浜名湖周遊の小さな旅です。

浜名湖景勝地にて湖を眺め,

二百円の小さな三ヶ日みかんを買って帰りました。

No.4478 - 2013/11/28(Thu) 23:04:24

Re: / ubik0101
大野いもを収穫してみました。ふつうより小さいのでしょうが、種いもを遅く植えたにしては、青虫に葉を食べられたにしては、いいのかもしれません。
No.4479 - 2013/11/29(Fri) 10:59:29

Re: / ubik0101&hato

これは、なぜ、これ?
これが、自我も無我も壊滅させます。

たとえば、あの誰かの言動は自我だ、と思うことがあるとします。多くの場合は、そのように誰かの言動が自我、と思うことが自我の一つの機能です。あるいはそう思うことに、自覚できない自我が現れ、投影とも言いますが、他人事として自覚されるでしょう。

それはおおむね、誰かの言動を自我だと、そう思うこの自分はなんだろう?自我の正体ってなんだろう?これは、なぜ、これ?この疑問の解を暗黙裏に知ってるつもりで、回避して、あの誰かの言動は自我だ、という思考が可能になっているのです。

そこで微かな感覚かもしれないけれど、そういう自分の様子に自分で違和感があり、そのようなことを思考してるその自分は何?という疑問が自発します。このように自分の奥に向かうことは真摯であれば、人の自然の道です。そうでないということは、どういうことでしょう。

この自然の道は、ほかの誰かではなくて、この自分にあってその様子を探査する・・・しかできないこと・・・それで必要十分・・・そのために世界が総て機能する・・・です。ということは、誰かのこと、あるいは、誰かから見た自分のことを探るだけでは、この自然の道を、すでに自分で閉じ回避してるのです。

それは、ああでもない、こうでもない・・ああである、こうである・・・その架空の人間関係の騒がしさに、決して得ることのできないなにか満足を求める、始りも終わりもない限りない迷いと言えます。

それはその人が、そうありたくてそうしてるのだから、ほかの誰には、どうしようがないことです。ほかの誰かのことを、どう探っても空想であり、ただ自分で自分のことを探るのは、空想でない、というより、自分を探る,自分に尋ねることは、空想をも役立たせるのです。

そして自我の仕組みを見てそれから解放されたら、さらに、これはなぜ、これ?・・ない、ということは、ある、ということは、どういうこと?何?・・ということ。これはすでになにか質問ごとでない、姿勢です。

いわゆる自我も無我も、そうでなくてもいいのにそうであり、そのことが壊滅します。たとえば私は世界・・時間はない・・自己、いまここ、神秘。それらは、これは、なぜ、これ?にあって、生き残ることができません。

しかし、しかし、この風は冷たく光は・・・透明な世界です。それは眼を通じてでなく直接に胸に・・・浸透しています。この、これ。なぜ見えるのだろう?なぜ、聞こえるのだろう。なぜ感じるのだろう。なぜ、思考できるのだろう?・・・こんな疑問が、たとえば自我、無我が壊滅すると自然に浮かんできます。

いまここにあって,なぜ,これは,これ?

No.4480 - 2013/12/07(Sat) 22:33:26
日常 3 / ubik0101
ここに、言葉、という、言葉、があります。これは、これそのことが、そのことの表現です。説明すれば、です。ここに、言葉、という言葉があります。と・・・ここに、言葉、という言葉があります。が表現した、された、のです。

またたとえば、青、と言えば、青。そして、空、と言えば、空、が表現されます。と、いえば、またたとえば、青、と言えば、青。そして、空、と言えば、空、が表現されます。と表現されています。と、言えば、、、。です。

これを、なんでもいいですが、たとえば、言葉、青、空、という言葉だけを見てみましょう。ここに、言葉、青、空、が、言葉、青、空、として、それそのことを、それそのことが表現した、表現された、のです。

すでに、言葉は生起してる、その、いまここ。で、その表現されたことの表現です。そこで言葉も、それ、そのことにしか、その根拠はないのです。それで、言葉は、いまここ、にあって正確無比なその、そのことの表現です。けど、架空の時間にあって、日常、さまざまな言葉(思考)とその事態との関係が起こります。

続きます。

ふと思いついて、鍋の残りの白菜を主に、きのこ類、と冷蔵庫にあったもので、お好み焼きをつくってみました。

No.4467 - 2013/11/16(Sat) 09:22:50

Re: 日常 3 / ubik0101
たとえば、青春、ということは、青春、にあって認識できない。幸福、ということは、幸福、にあって、認識できない。と、言われることがあります。それは、もしかしたら、なにかの時代、期間、状態、のことを、たとえば青春、幸福、と名付けた、その青春、幸福、かもしれません。

その名付けたということに気づかないままそれに重きを置くならば、なにかの人の時代、期間、状態を・・・時間としては後になって・・・また空間としてはほかの位置から・・・名付けたのですから、もうまったく外れようのないはずの、いまここから外れています。

そいうことで、とある時代、期間、状態を切り取って対象にして、それに名付けて、その名付けをさらに対象にして、そうしていながら、なんだこれは?言葉は事実を示さない!とか、と感じてる。いまここが、架空の時間、架空の因果にマスクされてる、変調されてる場合の特質です。

なにか問題があるとして、言葉ではなく、その架空の時間に気がついてないことかもしれません。つまり、いまここから外れたことを前提にして、たとえば、青春、ということは、青春、にあって認識できない、となる。それは、架空の時間、架空の因果に迷い込んだ。と、これがこのように、表現、説明されます。

ここで、もちろん、なんでもいいですが、認識する必要もなく、まったく青春、幸福、絶望・・・ということもあるでしょう。ここで、それを拒んでるのではありません。架空の時間、架空の因果、名付けることも、そのこと事態がとくに問題でもありません。そいうことがある、ということです。

これを強いて言うなら、万遍なく明るみに出さないで、隠れてる、未開発の分野があれば、そこは機能が滞り・・・そこが暗黙裏に注目されるために、そこに偏って・・・なんか障害として意識に投射され、問題として提起されやすいということです。

でもまあ、なんかドラマなんかで、青春してる人が、これは青春だ、とか。絶望してる人が、これは絶望だ。とか叫ぶと、なんか滑稽な感じがしたりしそうです。けど、そしてまた、まったくそうであって、そうと認識されることもあります。これをここではA=Aの思考と呼んでいます。

続きます。

ひっくり返すと、フライパンに最初に敷いたベーコンが、すこし焦げていました。

No.4468 - 2013/11/16(Sat) 11:01:40

Re: 日常 3 / ubik0101
くり返しますが、あるときテレビか雑誌で、《幸福は認識できないのに、なぜ不幸は認識できるのでしょう》という言葉を聞いたことがあります。そうです。不幸は、おおむね幸福を求め、すでに架空の時間、架空の因果に迷い込み・・・名付け、対象化に迷わされ・・・それを認識できるような気がするということ、です。

ところで、あなた、この掲示版を読んでる、あなた。こうして、この文字を追って、ここを、こう読み進んでる、と思います。ここで思考実験&実験です。これを読んでる、その、そのことが、時間ではないでしょうか。この、この文章を、ゆっくり読む。素早く読む。飛ばし読みする。また、たとえば、そして言葉も、それ、そのことにしか、その根拠はないのです。という文章の、

その、根拠、根拠、根拠、と針が飛ぶレコード盤、キズがあるCDのように、同じところを、ところを、ところを、ところを、くり返し読んでみると、まるで時間が飛んでは戻りするかのように、飛んでは、飛んでは、飛んでは、戻るのではないでしょうか。

と・・・このような文章を、時間・・・いまここ・・・として過ごしたのではないでしょうか。ここ、読んでる、ここ。すでに読み終わったところではなく、いまだ読んでないところではなく、ここ。この、ここ。それ。

たぶん続きます。

焼けたところで皿に盛って、ソースとマヨネーズをかけて、花鰹を盛ってみました。これは、いけます。ふかふか、です。いずれ楽天レシピに投稿するかもしれません。

No.4469 - 2013/11/17(Sun) 09:40:24

Re: 日常 3 / ubik0101
このようなubik0101が書いた文章は面倒なので。なにか、あなたが書いた文章を、飽きるまで、飽きるまで、飽きるまで、読んでみるのもいい方法です。そこに隠されてたことが、見えざるを得なくなるということもあります。これは自動的に進みます。そしてそのときは気がつかなかったかもしれませんが、その文章の構成、それを見ることでも、見えなかったことが見えてきます。

ところで、なにかを書き読むということもそうですが、誰かと話したり、働いたり遊んだり・・・ゴンベが種まきゃ、カラスがほじくる、この日常・・・こそ、そのなんでもない、いまここ。それは、なんであれ、探ってみましょう。そのこと事態にしか、その事態の根拠はない、です。歩いたり、見たり、思考したり、そのことが、そのことの根拠です。

と、いうことは、探ってみましょう、どんなことにも、根拠がない、に等しいです。いまここ、その根拠は、いまここ、です。そして、いまここ、歩いたり、見たり、聞いたり、その、いまここに根拠が、ない、です。ここで、対消滅のように、日常や言葉の、それがそれに根拠があるとか、ないとか、が壊滅です。

たとえば、いまここは、いまここも、どうでもいい、のです。なんでもいいですが、世界は一つ、私は世界、時間のあるない、その事態も、その思考も、たとえば自我、無我、どちらかに偏ると重きを置くことになりますが、その必要は、まったくない、です。

すこし振り返ると。この、いまここに、この、いまここに迷い込める機能があるのです。いわゆる心理的思考も、技術的な思考も、そのことには違いはありません。たとえば自我、無我の区別の偏りが、その思考を区別するのかもしれません。しかし、自我は無我です。または、自我もなければ、無我もないです。さて。

庭作業してて、抜いた雑草の穴から、2つ落花生がでてきました。ん?暫くして見に行ったら、なくなっていました。ん?カラスが埋めて、それが掘り出されるのを上空から見ていて、またどこかに持って行った?

No.4470 - 2013/11/18(Mon) 12:05:58

Re: 日常 3 / hato

それで,それはどういうことか,信じることに無関係にあるのです。

そういえば昨日の朝,ubik0101さんが呼ぶので行ってみると,窓外,庭の姫イワダレ草の上を,一羽のカラスが一所懸命なにか探して歩いています。「やっぱりカラスだったんだね」と2人頷きながら見ました。暫く探してから見つからず,そのカラスは諦めて飛んでいきました。

探しものはなんだったのでしょう。あのカラスは落花生を隠した主だったのでしょうか。なら,持って行ったのは,別の鳥だったのでしょうか。

すこし前,お世話になってる知人が,川根の標高1400mの山に連れて行ってくれました。

No.4471 - 2013/11/20(Wed) 22:50:20
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