「これあればかれあり、これ生ずるが故にかれ生ず、これなければかれなし、これ滅するが故にかれ滅す。」
と、言われます。これは仏陀の言う、縁起の成立、そして縁起の解消の法です。この成立と解消、どちらが重要ということはないです。けど、《これあればかれあり》という、十二支縁起つまり、無明・・・行・・・識・・・・・・生死、で考えると。それぞれの項目、たとえば行の意味、内容が空想されて、それはすでに空想の縁起の成立してるほうに偏って、縁起を考える傾向にあるようです。
たとえば縁起、それぞれの項目は、それぞれ独立した存在ではない、相依性で、自性がない、それは無我、という意見があります。縁起=無我。これそのことが、しかし空想の縁起であり得ます。そしてそこで言われるそれは空想の無我かもしれません。でなくて、その事態として縁起=その事態として無我でしょうか。では、縁起でなければ無我ではないでしょうか。
違います。無我ならば、縁起であろうとなかろうと無我です。無我ということが条件によって成立、または変化することでしょうか。そうでなく、縁起の壊滅《これなければかれなし》こそ、これも縁起《これあればかれあり》=無我・・・という意見と同じように、これだけなら偏った認識傾向ですが・・・無我そのことです。
続きます。
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No.4313 - 2013/06/04(Tue) 21:40:28
| ☆ Re: 風景。 / ubik0101 | | | あるいは縁起は無条件に事態として縁起なら、無我も無条件に事態として無我です。それは縁起=無我という表現、思考を要しません。というより、まったく無関係です。しかし自我とか無我と言われることは、意味がないことではありません。
たとえば、行あるゆえに、識あり、と結びつけることが、無明です。つまり無明・・・行、行・・・識・・・・・・生死、と結びつけることが、無明です。どちらかと言えば、これが自我の機能の説明です。
もっと簡単には、たとえば、あの人が自分を無視した、どういうわけだろう、と探る思考によってそうする虚構である自分が生じることです。その思考は、生死のことにも及びます。
では行なら行、識なら識、それに何かほかの要素に結びつけないことが無我でしょうか。でも、何かと何かを、結びつけても、無我なら、無我です。結びつけなくても、自我なら自我です。では、自我と無我、どう違うのでしょう。
なんにしても、自我も無我も、世界の機能です。なにが違うでしょうか?事態としての縁起が自我で、無我です。あるいは事態としての縁起には、自我も無我もありません。あるいは自我を理解したから無我でしょうか。それも違います。自我が自我を理解することもあり得ます。
続きます。
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No.4314 - 2013/06/04(Tue) 21:51:17 |
| ☆ Re: 風景。 / ubik0101 | | | ここで、たとえば思考、発言、行動の中心、主体、の有無で、明確にこれが自我、これが無我と言われ得るでしょうか。これは結構、曖昧なのではないでしょうか。なんだかのコンセンサス、偏り、勢い、前提なしに精確に記述したら、そこに破綻が見られるのではないでしょうか。なのに、自我、無我、がなぜ言われるのでしょう。
自我とか無我とかは風景です。解脱の見る風景です。その解脱こそ大事です。なのに、なにが見える見えないと。そのことを、風景を問題にする、検討する、たとえば、縁起、自我、無我。時間。未知。そのように見える風景を言うことは意味のないこととは言えないけど、それは。解脱そのことは言ってない、です。これに思い至っても至らなくても、そんな風景が壊滅したところから、常に日常は始まるのです。
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No.4315 - 2013/06/04(Tue) 22:08:52 |
| ☆ Re: 風景。 / ubik0101 | | | もっと簡単には。この日常の風景、というより風光、それが解脱の見る風光です。いや、解脱の風光です。
hatoさんと見つけたソメイヨシノのサクランボです。
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No.4316 - 2013/06/05(Wed) 23:49:57 |
| ☆ Re: 風景。 / ubik0101 | | | ここで思考実験です。
たとえば、です。自我や無我は、思考による判断、解釈です。事実は、自我も、無我もないということです。もっと簡単には。ない、ということも解釈です。という思考を、その思考に適応します。すると、自我も無我も、ないも解釈です、というのも解釈です。と、なります。
すると。ここでその思考。つまり自我も無我も、ない、も解釈です。という思考が輝きを失い維持できず拡散します。なんて素敵な言葉・・・風と光・・・風光が、現前、その思考が壊滅します。いつの間にか思考に閉じ込められてた気がつかない狭苦しさが消滅します。
このことについて、なぜ、この2段階で済むのだ?3段階目は見つかるか?なぜ無限遡及にならないのだろう?と考えたことがあります。ま、なんであれ、なんだかの思考を、広い範囲に展開します。そして、その思考をその思考自体に適応します。これは思考の性向を見ることに役に立つと思います。
おそらくそれは人の思考という有り様が成立することができる基礎、それに思考はなかなか気がつかないけど、それをサポートしてる日常、この世界の機能に気がつくことのようです。
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No.4317 - 2013/06/07(Fri) 06:49:55 |
| ☆ Re: 風景。 / ubik0101 | | | とりあえず、スイカ、ここまでは順調のようです。子蔓を3本にして、10数節目のところに咲いた雌花の所に、支柱を立てて日付を書きました。
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No.4318 - 2013/06/09(Sun) 15:20:18 |
| ☆ Re: 風景。 / ubik0101 | | | 赤芽芋。一回目の土寄せをしたところです。
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No.4319 - 2013/06/09(Sun) 15:33:12 |
| ☆ Re: 風景。 / ubik0101 | | | キュウリがなり始めました。4株も植えたので、大量にできるかもしれません。
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No.4320 - 2013/06/09(Sun) 15:35:38 |
| ☆ Re: 風景。 / ubik0101 | | | さつまいも“紅はるか”です。6株。蔓は棚に這わせてみようと思います。
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No.4321 - 2013/06/09(Sun) 15:45:03 |
| ☆ Re: 風景。 / ubik0101 | | | たとえば、あれ、は、あれ、を何て呼んでるのだろう。そのものとしての名前は何でしょう。ここはひとつ直接、聞いてみましょう。おーい、雲。あなたの真の名前は、なんて言うんだ?教えておくれ。
おお。うーん、これのこと?そだな。これには名前なんてないよ。あなた達は、雲って、呼んでるとは。ふーん、雲?そーか、これは雲だったのか?知らなかった!
そーだったのか。驚いた、知らなかった。それは光に。風に。青空に。夜に。星に。静寂に、幸福に、ポテトチップスに、聞いてみても異口同音でした。では、言葉ってなんだろう。これは聞くのが必然だ。森羅万象と呼ばれる何かが言いました。
うん。わたしは・・・わたしは、命名です。ありとありうる、ありとありえないことに、真実にも、嘘にも、名前を付けると、その通りに呼ばれます。そして、これ自らにも言葉と命名する私は、言葉です。
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No.4322 - 2013/06/11(Tue) 09:19:32 |
| ☆ Re: 風景。 / ubik0101 | | | では思考とは何でしょう?それは言葉の関係の運動です。それは動いてる、機能してることしか見れません。静けさそのことは、事象そのことは、思考できません。
事象について話せても、事象そのことは話せません。言葉そのこと、それは思考できません。それでやむなく星、月、夜、朝、嘘、真実、関係、無関係、解脱、言葉、と命名できるだけです。そんな言葉はその命名されたことと無関係です。
そして思考は思考を見ます。これしか原理的にできません。なにかの思考が、ほかの思考を見るという意味ではありません。言葉による思考は、言葉に変調された関係。映像による思考は、映像に変調された関係。音による思考は、音に変調された関係の展開。です。
繰り返します。その、そのこと、事象そのこと・・・言葉は、沈黙が困難です。言葉は、星、月、夜、朝、嘘、真実、関係、無関係、解脱、言葉その、そのこととは無関係で、思考できないで、その変調された関係、展開しか思考できないのです。
そしてその思考はその思考しか見れません。その思考の外を見れません。そして、これ、その関係の運動を思考が見いだします。思考とは、これそのことが、これそのことを見いだそうとしてる関係の運動です。
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No.4323 - 2013/06/11(Tue) 09:24:27 |
| ☆ Re: 風景。 / ubik0101 | | | なんと、399円の高額な双子里芋の種。一個だけ買って植えることにしました。
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No.4324 - 2013/06/11(Tue) 11:39:17 |
| ☆ Re: 風景。 / ubik0101 | | | ところで昨日の夜、食卓で。hatoさんに、箸を使わずに食べてみなよ、と言ってみました。すると。フォークで食べる。と答えます。
でもそれだと、フォークを使わずに食べてご覧、になるだろう?それじゃ、答えにならないよ。どう?
・・・うーん。
じゃしかたない、僕が箸を使わずに食べるよ、こうだよ。
それって、禅でしょ?これでも解ってない振りをするのも大変なのよ。それで、この食卓に、ご飯がなくても、お箸がなくても、お箸を使わずに食べれるの?と言います。
まあ馬鹿と天才は紙一重。この風光も、思考もですが、それがそう機能しててこそ、それがその解脱です。そしてそれは、それそのことが明示しています。さて。
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No.4325 - 2013/06/14(Fri) 09:16:45 |
| ☆ Re: 風景。 / hato | | | そのある日。
「言ってないことを,言ったように言われてもー」
と言ったら
「これは,創作なんだよ。きっと誰も,本当の意味はわからないよ・・」
と,ubik0101さんが言います。
本当に?
人は本当に,その,身体・・・その,心 でしょうか。
それはたしかに,機能されるそのこと,その世界といい
そして人は,ただ身体,でも意識,でも,心,でもないのです。
じゃ,なんだ?
心は,人が世界にあるとき,感覚,思考,出来合いの感情が反応し, 反芻し,干渉し合い・・・
それは,自我です。その心とは,関係して起きること。
そして,人がそこから逸脱されることを,解脱といいます。
それ,とは,知られることがなく
知られ得るなにか心というものが,機能する余地があるでしょうか。
えっ。人は,心じゃない?
じゃ,なんなんだ?
それはどこまでも,たぶん知られることもないなら
なぜこの人生でしょう。
なぜ,生きるでしょう。なぜ,働くでしょう。
と思うものかもしれません。
そうでなくてもいいのに,自己を知る
その探求が人生で,
生きてはたらき,それを学び,十全に生きるのです。
解脱したなら働かないと,誰が言ったのでしょう。 解脱は,きっと安楽なのだから,働くこともないのだって 解脱は,浮世に関わらないから,お金も稼がないのだって
でもね,それ,とはまことに,まったくもって関係ないから,なにかそうした関連付けに無関係に,できることが,できるのです。
その不思議。
解釈された安楽とか・・・なにか形式に,こだわってみてもことさら,拘ることもない
拘れないから,その意味で,安らかでしょう。
それは解脱です。
たしかにそれは,
箸を使うことなく,食べるのです。或いは,食べないのです。それは働き,庭作業します。
それは見出し,それを尽くして,生きるのです。
そして,その目は見てるのに
一体
なにが,見てるのでしょう。
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No.4326 - 2013/06/16(Sun) 08:48:22 |
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