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ふと思ったこと。 / ubik0101
まあ、思考は思考しか見れません。これは、思考が思考を見る、ということを言ってるのではなくて。思考は思考の外を見ることができない、ということです。ここから展開してみます。

たとえば、どうしようかこうしようかと将来のことを心配したり、ほかの誰かが自分のことを、どう評価してるか?ああでもこうでもないと、気になったりすることがあるとして。そのような思考は、その思考しか見えない、ということです。

ケールと芽キャベツの交配、プチベールです。花が咲き始めたので、観賞用です。

No.4262 - 2013/04/12(Fri) 08:09:00

Re: ふと思ったこと。 / ubik0101
つまり、いくら空想の翼を広げても、思考は思考できないことを思考できない、ということです。思考はそんな自らの限界に気がつかないので・・・でもその限界の気配を感じてるから、思考はその思考の反対、類似のこと、無関係なことを空想し・・・どこまでも広がり、おなじことを繰り返したりするのかもしれません。

このように思考は思考しか見れない・・・もとより狭い範囲にいる・・・そこから思考は思考を守りたい・・・自己保存・・・意識現象を離れて、ものごとはないという誤認・・・空想と事実との混同・・・が可能になってる、組み込まれてる、のではないでしょうか。そしてなお、このようなことを思考は見ることができるのです。

メロン農家の人が来て、この花芽は食べるものだ、切っても新しいのがすぐ生える。と言います。それで塩ゆでにしてみました。

No.4263 - 2013/04/12(Fri) 08:12:21

Re: ふと思ったこと。 / ubik0101
そこで、簡単に言ってしまえば、まずは、ただ思考の外に気がつくだけ・・・知覚・・・この早春の朝の明るい冷たい風・・・鳥の鳴き声。それだけで神秘の、不思議の、真ん中に、あることに気がつくかもしれません。これは人の機能として備わってるので、なにも求める必要はなくそうではないでしょうか。

ごま和えにしてみました。

No.4264 - 2013/04/12(Fri) 08:16:44

Re: ふと思ったこと。 / ubik0101
それで、知覚の領域にあることが、なにか素敵なこと、思考は問題と言われたりするかもしれません。それは事実ですが、説明として言われてるだけです。見る聞くも、思考も知覚です。目を開いていれば、見ようとしてもしなくても花や自動車が見えるように、思考を見ることに、なんの問題もありません。

それでも。たとえば、あれこれを望む、あるいは守りたいという欲望が解決するということは、その思考の外、が解決したということです。それが日常です。そうでないと思考しか見れない思考に依存。いわゆる葛藤、攻めたり守ったりが起こり得るかもしれません。

シバザクラの小さな花壇です。

No.4265 - 2013/04/12(Fri) 12:47:10

Re: ふと思ったこと。 / hato

休日に御前崎の海に行きました。前に訪れてから、1年半近くなるでしょうか。久しぶりの、春の海が嬉しくて。

灯台近くのひなびた大きなホテル。
正面玄関に据えられた立派な水槽に、あのクエがいました。

元気だった?

と声かけながら、再会です。

No.4266 - 2013/04/13(Sat) 21:03:02

Re: ふと思ったこと。 / ubik0101
八重桜が土手に咲いていました。ポリ袋に摘んで帰って、計ってみると500gです。よーく水で洗います。
No.4267 - 2013/04/17(Wed) 09:05:13

Re: ふと思ったこと。 / ubik0101
その八重桜を十分に乾かして、200gほどの塩をまぶして、ポリ袋に詰め掌で押して空気を抜きます。それをボウルに入れて、その上から水を入れた別のポリ袋を乗せ、冷蔵庫に。

一日たったら、去年の梅干し作りの際にできた梅酢を八重桜のポリ袋に入れて空気を抜いて、水を入れたポリ袋を乗せ、さらに3日ほど冷蔵庫で寝かせます。

No.4268 - 2013/04/17(Wed) 09:12:49

Re: ふと思ったこと。 / ubik0101
くしゃくしゃにした新聞紙を伸ばして、キッチンペーパーを被せ、その上に漬け込んだ八重桜の花の半分を並べて、扇風機で一晩ほど乾かします。桜の香りが部屋いっぱい、です。
No.4269 - 2013/04/17(Wed) 09:18:22

Re: ふと思ったこと。 / ubik0101
カリカリに八重桜の花が乾いたら、ビンに塩と一緒に入れます。画像右です。これはお茶などにします。あと半分は、梅酢と一緒にビンに詰めます。画像左です。これは八重桜の花の漬け物です。どちらも冷蔵庫で保管します。
No.4270 - 2013/04/17(Wed) 09:26:28

Re: ふと思ったこと。 / ubik0101
続けてみます。

たとえば、ほかの誰かが自分のことを、どう評価してるか、ああでもないこうでもないと、気になったりすることがあるとして。そうならば、その逆、ほかの誰かを自分が、ああでもないこうでもないと、判断することがあるかもしれません。それは思考が対になってるというより、その自分が対立してると説明できます。

これは天秤のようにバランスをとってる、と言えます。それは、あっちこっちと揺れる、不安定です。まあ対処法としては、誰かを非難するなら、非難だけ、誉めるなら、それだけ、嫌うなら、それだけ・・・ほかのことに結びつけない・・・それで終了です。あれこれ天秤にかけるから両極が揺れて、面倒な葛藤、苦痛が忍び寄ります。そして天秤棒は・・・善悪、損得、優劣、自由、不自由・・・限りがありません。

そうでなく、リュックを背負うように、ひとつだけにすれば、荷は軽いのです。辛いなら、辛いだけ・・・それはそうで。ふつう楽しければ、楽しいだけ、ではないでしょうか。そのように悲しいなら悲しいだけ、寒いなら、それだけ、暑いなら、それだけ、です。単極。つまり無極です。それをほかのこと、損得とか、人間関係に結びつけるなら、それは面倒な、ああでもない、こうでもない、の天秤に振り回されるのではないでしょうか。

たとえば、知覚と思考。既知と未知。分離と融合。バラバラと、ひとつ。時間と時間の終焉。知覚からの直接行動。自我、無我。これはみな、事実ではあっても、説明概念です。それを対象として事実とするなら、天秤なのです。そして、対象、対象にしないも、対象にして説明概念になり得るのです。

No.4271 - 2013/04/20(Sat) 09:27:15

Re: ふと思ったこと。 / ubik0101
そんな天秤には、その支点、中心がなければ、構造として成立しません。しかしその、中心は、天秤を担ぐこと、によって生じるだけです。その天秤の両極、ああである、こうである、ああでもないこうでもないという、いわゆる心理的思考が、自我なのではありません。

そのありもしない仮定された中心、そのことが自我。その正体は、ない、です。あるいは、あれこれ対象と仮の中心で構成される・・・それは虚構ですが・・・それが自我の構造です。それはなにか問題があって、あるかのように仮説されてるのですが、ああでもないこうでもないという思考だけでは、その問題から逃げてるのです。

その天秤を担ぐその中心、その自分に目を向ける機会で、それを活用できるのです。それが一番簡単なことなのですが、見かけは天秤を担ぐことが楽だし、それが苦痛であってもその騒ぎ、葛藤に弄ばれる愉悦を感じる・・・また天秤の両極の、あああでもない、こうでもないを弄んで、中心から逃げることに愉悦を感じる・・・ということもあるのかもしれません。でなければ、どうして、そんなことを続けられるのでしょう。それだけなら自分で自分を騙してるのです。

それでリュックを担ぐということは。ああでもないこうでもない、ということは空想、つまり架空の因果であり、その虚構を拒否するということでもあります。これは生活では、ほかの人にも自分にも嘘をつかない、ということ。赤裸裸。仮の中心が成立しない、ということです。思考にあっても、行動にあっても、その場その場で全力を尽くすということ、であったりします。

このようなフィールドにあって、自分とは何?が探求されます。そして、たしかに天秤も、リュックも担いでない時、それはそれでも、自我は自我、自覚してなくても、思考してなくても、自我ならば自我なのです。そしてこれが逆転される、解放される、完成される、と表現されます。ここに世界というか、この日常のエレガンス・・・優美・・・な働きがあります。

No.4272 - 2013/04/22(Mon) 11:18:19

Re: ふと思ったこと。 / hato
毎日なかなかいそがしい日々を過ごしています。

今日はここ数年恒例のいざらい,庭まわりの用水路の掃除。二本で全長,7〜80メートルあるかしら。結構な仕事ですが,慣れたものです。
よっしゃ。
ubikさんhatoさん長靴はいて,ド根性作業スタイルで2時間頑張りました。

今年救出したのはウシガエルと,みどり色したアマガエル。

庭の空を見上げると,帰ってきたツバメが飛び交いシロサギが飛んでいき,

春だなア!

八重桜の花塩漬は春の味。

春の彩りがなんとも素敵です。

No.4273 - 2013/04/23(Tue) 21:55:30
お知らせ / ubik0101&hato

インターネットを、ADSLから光回線に切り替えます。1〜2週間ほど接続が切れるかもしれません。またメールアドレスも変わります。復帰したら、ここで連絡します。

No.4260 - 2013/02/28(Thu) 22:02:04

Re: お知らせ / ubik0101&hato

やっと接続できました。3月のはじめにいったん工事に来たのですが、ケーブルを引くために梅の木を切る必要がでて、延期になったりして、時間がかかりました。中古のimacと、新品のwinが届いてきて、どちらも2万7千円のいい買いものです。

静岡も一面春の様子。みどりの庭のふたり、二羽二匹。あれこれしながら、なんとかやってます。ナナははやくもかなりいい青年になりつつあり、臆病なμを助けたり、なんか威風堂々の感があります。

メールアドレスは、

midorinoharappaアットマークrx.tnc.ne.jp

です。送信時は、アットマークの部分を半角の@に直してください。

ubik0101&hato

No.4261 - 2013/03/19(Tue) 12:53:57
続・知覚と思考 / ubik0101
ところで、です。その人の状態、たとえば欲望によって変調される思考、発言、行動。その思考、発言、行動を自分で見て。つまり何か外に対象をたぐる欲望にあって、その逆、その自分の奥の闇をたぐって、そこをさらけだして見ること。

それは、自分ということが、実際に、ない、だけだったら、その日常には思考、発言、行動があるだけなので、 探究は不可能なのです。自我、欲望は、ありようがないのです。

続きます。

枯れたユーカリ・・・直系20cmくらいの幹なら、誰かが物置に残しておいてくれた、手動のノコで簡単に切れることを発見しました。

No.4253 - 2013/02/22(Fri) 09:58:29

Re: 続・知覚と思考 / ubik0101
それで11尺のアルミ三脚に乗って、放置状態だった柿の木を、剪定しました。これから、どのように芽が吹くのか?楽しみです。
No.4254 - 2013/02/22(Fri) 10:21:45

Re: 続・知覚と思考 / ubik0101
ふだん人は実際、常に自我や欲望は手放している・・・というよりも、そんなことは、この瞬間に壊滅しているのです。この冷たい風、冬の花、青空、飛行機雲、それだけで満たされているのです。

そのことに気が付くだけで、いや、気づくまでもなくそうでしかありません。あまりに簡単で、当たり前なので、つまらなくて、なにかが問題で、そして気づくことが必要なのでしょうか。

そうでなく、見ようとしてもしなくても見え、聞こうとしなくてもしても聞こえ、思考しようとしてもしなくても思考する知覚にあって、 楽しければ楽しく、辛ければ辛く、熟慮に熟慮を重ね、そのことに執着するわけでなく、自我の問題なく生きることができます。

とくに自分は、ある、ない、を了解してなくても、知覚の機能は、たとえば車、家、地位、銀行貯金、名誉などの変調されることに、何の関係もなく、見たり聞いたり思考したり日常そのように人は生きてるのです。

続きます。

No.4255 - 2013/02/23(Sat) 12:03:56

Re: 続・知覚と思考 / ubik0101
ここから、経緯、について説明します。ひとつには、自分が、事実、ただない、だけなら、なにか問題があるとして、それは騒がしい心理的思考、葛藤・・・時間・・・にあると展開されるようです。それはありもしない空想を事実と誤認してるその機構の解明に向かうかもしれません。

ここでは、その道を、よこいと《緯》系と呼んでいます。それで、いわゆる自我の問題が解決した場合、心理的な思考からの解放、時間がない、いまここ、分離がない、いわゆる《すべては、ひとつ》の方向になるのではないでしょうか。これは、どちらかといえば分離を嫌い、融合を好む・・・また、たとえば自分は、ない、に偏る傾向にあるようです。

ここで、とくに問題がない日常ということは、自我は知覚されないということだからかもしれません。いわゆる葛藤、心理的思考を自我と呼ぶならば、そいうことが発動しなければ、自我はないということです。

が、これは違います。もっと根が深いのです。この自我と気が付かないでも自我。ここを疑うことなくては、自分を掘り下げなくては、たていと《経》の探究は困難です。

なぜか探究の経緯としては、緯は、自我は初めから、ない。経は、自我は、あるとき消えてなくなる。自我は自己として完成する。自分は、ある。そんなことがあるようです。

どちらかだけでは完全ではなく、 どちらかだけでは辛いものがあります。でも、どちらにしても、日常にあって、それは真摯に、微細に見ることで、統合されます。というより、この世界、それが経緯の統合された姿です。

たぶん続きます。

No.4257 - 2013/02/23(Sat) 13:02:34

Re: 続・知覚と思考 / ubik0101
ところで自我とは、よこいと《緯》では、世界と自分、また自分と自分との分離、と認識される傾向にあるようです。たていと《経》では、ありもしない空想と事実と区別できない思考の特性に乗って。その葛藤などの騒ぎにあって、自分で自分を自覚しようとすること、とも言えます。

その自我がある理由は、いわゆる《自分自身を知れ》ということです。その衝動、それが自我です。しかし問題は、というか、これは馬鹿馬鹿しいのですが、自分の行動、発言、思考の奥を探ることでは、知り得ない、のです。知り得ないゆえに、いわゆる自分を知ろうとする葛藤は、いつまでも騒がしく続き得るのです。

とても、とても自分を知り得ない・・・なんかそんな自我とか欲望の探究で自分自身が知り得るとしたら、自己とは、なにか宝物のような、何かと較べられるような、とある特定の個別のことかもしれません。そうだとしたら、それは誤認です。

その自己が、その自己を知ろうとしてる。でもその知りようもないことに 気が付くには・・・必ず自己を知らなくてはならない・・・ここに自我の問題があります。それでも探究を頑張るのです。 この世界がそれを可能にします。

続きます。

No.4258 - 2013/02/25(Mon) 11:33:29

Re: 続・知覚と思考 / ubik0101
あくまで譬え話です。夜の暗い池の底に沈んだ大事なものを手探りでさぐると、泥で濁って、ますます見つかりません。静かにしてると月明かりでそれは見えるような気がしても、掴めません。そこに特定の個別の何かがあるというわけでもないからです。

ある人がほかの誰かの畑で宝物を見つけ、急いで家に帰って家財道具を売り払い、その畑を買った・・・うろ憶えですが、そんなイエス・キリストの喩え話があります。

これはなにか世界の中にある宝物を得たのではありません。自分の労苦、怠惰、喜び、悲しみの総てを・・・畑・・・つまり世界ごと役立てる。宝を得るには、この世界が必要だ、ということです。

また。プールで、こっちから向こうに行ったり戻ったり泳いで、スタート点に戻ります。どこかに行くということでは、まったく無意味です。でも、その人に、その自覚がなくても、海峡を泳ぎ渡る力がつくのです。バケツで太平洋を汲み出すのです。

No.4259 - 2013/02/28(Thu) 21:56:41
知覚と思考 / ubik0101
この世界の裏側は何だろう・・・見たい・・・どうしても見えない・・・そうだ・・・この光、風、樹、鳥の鳴き声その裏側は自分なんだ・・・じゃ・・・この自分がなくなれば、世界はなくなる・・・で・・・この自分の裏側は・・・ない、が沸騰してる?

ない、がクシャミをした。ない、が風邪をひいて。ない、が発熱した。ない、が回復して、カレーを食べた。ない、がみゃーみゃー言って庭を走り廻っている。ない、が羽をひろげて青空を飛んでる・・・どーしたんだろう何の神秘も消え失せた・・・ずーと世界の奥で、ない、と、ある、は同義のように見えるこの日常。見る、聞く。光、風が吹きます。

で。この世界の裏側は何だろう・・・どうしても見えない・・・そうだ・・・この光、風、樹、鳥の鳴き声その裏側は自分なんだ・・・で・・・この自分が、ある、から世界は、ある・・・じゃ・・・この自分の裏側は・・・ある、 が収斂してる?

続きます。

No.4241 - 2013/02/03(Sun) 09:08:55

Re: 知覚と思考 / ubik0101
この庭には、モズが暮らしていて、地面から樹の枝に跳ねるように飛ぶのを見かけます。この冷たい風。明るい光・・・見る、聞く、触る、思考する・・・満開の水仙の群生・・・青空に乱舞する飛行機雲・・・知覚とは、どこかに基点、基準があるわけではない差の認識です。

なんでもいいのですが、たとえば慈しみとか、喜びは、差の認識です。が、その差の背景、自分、には、どこにも基点、基準があるわけではありません。

そのあるとかないとかもない、なんでもないもない・・・ない、に偏った説明をするならば・・・空に、喜び、悲しみ、善悪、鳥、猫、気温、体温が差として浮かんでる、そんな感じです。これは知覚の風景です。

続きます。

たぶん、ムカデの類でしょう。玄関の前のトネリコの枝の先端に、モズが刺したのだと思います。

No.4242 - 2013/02/05(Tue) 18:43:19

Re: 知覚と思考 / ubik0101
これは、たぶん蛙です。サルスベリの枝を青いビニール紐で結んで姿を整えようとしてて見つけました。
No.4243 - 2013/02/05(Tue) 18:46:52

Re: 知覚と思考 / ubik0101
これは、アシナガバチでしょう。あちこちに刺して、忘れてしまうのでしょうか。庭を飛び回り、樹の枝に止まっては、シッポを縦に振ったり回転させたりしています。
No.4244 - 2013/02/05(Tue) 18:54:32

Re: 知覚と思考 / ubik0101
すこし寄り道です。もしかして、なんの基点、基準もないから、たとえば慈しみと憎しみは対に、暖かいと冷たいは対に。善と悪。優と劣。平和と暴力。そんな必要はどこにもないのに、なにかとなにかは程度の差として認識されることもあるでしょう。

それは、そう認識するその人の状態を現す、と見ることもできます。それは基点、基準が、どこにもないので基点、基準を設けたいという状態で、自分は不安だぞ、と不安感を知覚してるわけではない不安かもしれません。

ついでに。なにかの行動、発言、思考が、わたしは、自我です。わたしは欲望です。わたしは嫉妬です、偽善です、依存です、自縛です。と、名刺を差し出し、自己紹介しながら、現れるばかりではないので、自分を探究しようとするなら、そこで見える行動、発言、思考だけではなく、その奥の気配、名刺の裏を探ることが、役に立つと思います。

たとえば欲望その対象は、車、家、地位、銀行貯金、名誉であったりするとして、それぞれの人によっても、年齢によっても、時代によっても違うでしょう。とすると、それはなんでも構わないということで。つまり対象には何の問題もなくて(車、家、地位、銀行貯金、名誉に何の問題があるでしょう)。その人の状態が欲望です。

そのような欲望は人が、対象を求めてるだけではなく、そうしてる、その自分を知ろうとしてることとしても機能させることができます。また欲望は選択でもあり、選択が問題と言われ、無選択が薦められたりもしますが、そうではありません。選択、無選択に何の問題があるでしょう。

なにか問題があるとしたら、その状態、その何だかの問題がある、その自分です。たとえば、欲望、自由、不自由、善、悪・・・対、程度の思考・・・そのことには何の問題もない思考に関わり囚われながらも人は、その、その自分・・・その自分もまた何の問題もないかも知れませんが・・・を求めるのです。また、たとえば何かが欲しいという思考がなくても人は、その状態なら、その状態、欲望です。

また、ほかの人から見た、この自分の印象、ほかの人の裏を探ることは、総て空想です。そうでなく、この自分の裏を探ること・・・それは自我でなければできないことですが・・・それは自分が不完全だと認めることなので・・・おそらく自我と気が付きたくない自我が最も嫌うのが、その探究です。

そんなことにかまわず自分で自分に切り込むなら、探究に、どんな哲学も、宗教も、師も不要です。これも何度でも言いますが、ここに自分の行動が自分にわかる、自分の発言が自分に聞こえる、自分の思考が自分でわかる。これ以上の秘密はありません。

続きます。

No.4245 - 2013/02/10(Sun) 15:59:21

Re: 知覚と思考 / ubik0101
そ、いえば。この前、自転車に乗ってる人が、横断歩道を横切ろうとしている通行人に向かって、ぶつかるほどには危なくないのに・・・危ないっ、と叫び怒っていました。その怒りの、あれこれの理由が考えられはします。

ひとつには、この自転車に乗ってる俺を無視するな、ここに自分は、ある、と主張してるのかもしれません。そうだとして、ほんとうに、自分は、ある、で問題解決です。この、ある、は知覚の領域にはなく、それで決着すれば・・・あるいは、ある、でありきれば・・・日常では、ない、と同義です。

続きます。

ふと思いついて、なつかしの喫茶店ナポリタンをつくってみました。けっこう、いけます。

No.4246 - 2013/02/10(Sun) 16:11:01

Re: 知覚と思考 / hato

朝晩はまだまだ冷えますが、夕方の日の入が遅くなり、春を感じます。

庭にいくつか芽が吹いた、ふきのとう。

No.4247 - 2013/02/13(Wed) 21:50:42

Re: 知覚と思考 / hato

河原に採りに行ったものと合わせて、
ubik0101十八番の、天麩羅にしてくれました。

サクッと軽い歯応えに、
春のほろにがい味覚がなつかしいようです。

もうすぐ、春。

一足はやい春、美味しく頂きました。

No.4248 - 2013/02/13(Wed) 21:58:17

Re: 知覚と思考 / ubik0101
このように、知覚の領域にないことを・・・また、その、それ自身がそれ自身を知覚できない、そのことを・・・ない、とも呼ぶこともあります。まあ、2月の青空に見えない2月の星座。雲に溶けこんでる飛行機雲です。

たとえば、また、ぽっかりと空っぽの、ない、自分。人が素直なら、素直の概念が、ない、で素直。また・・・ある、とも思いだにしなかった、自我が、ない・・・自我は虚構の了解・・・ある・・・さまざまの、ない、を人は経緯します。

エスキモーの言葉には、いろいろな白があると聞いたことがあります。たぶん、冷たい白、堅い白、危険な白、暖かい白、柔らかい白、強い白・・・とかがあるのかもしれません。その白を見てる自分が、どこに立ってるか?その位置。

そのように、さまざまな、ない、の意味を探ることで、ない、と表現するその自分の立ち位置を明確にでき、なにか特定の、ない、に固定されることを払拭できるのではないでしょうか。

そしてこれを理解する思考は、差の認識の制限がありません。とても自由度が高いのです。その思考する事態にさえ関わらないので、思考は、その事態を正確に表現できます。たとえば、人が素直であって、素直、との認識が可能です。

続きます。

No.4249 - 2013/02/14(Thu) 21:37:00

Re: 知覚と思考 / ubik0101
もちろん、人が素直でなくても、素直、との思考が可能です。また、人が素直であって、素直の思考が、ない、もあります。そしてなお、人が素直であって、素直、との認識ができるのです。

これは知覚と思考の関係に混乱があっては、奇妙に感じるかもしれません。また思考には、その思考、ほかの思考、発言、行動の正誤を判断する機能は付いていません。まったく誤ることもできる、それゆえ思考は正確に機能します。

このようなことの理解は、人の経緯、人生、この世界にあっての日常が必要です。 知覚と、思考の機能の混乱に躓く、留まる、振り回されることもありますが、見ることで、思考とその事態の関係を探ることで、解決するでしょう。その学ぶことは冬から春と季節が変わるように自然に進行します。

続きます。

No.4250 - 2013/02/14(Thu) 21:52:00

Re: 知覚と思考 / hato

それで、ナナちゃんです・・・

なんとなんと、

とても美人の猫友ができました。

朝から晩まで、外で木に登ってあそぶのも、こうして眠るときもほとんど一緒。じゃれたり遊んだり、仲良しなのです。

No.4251 - 2013/02/15(Fri) 22:14:10

Re: 知覚と思考 / hato

もしかすると、ナナの異母きょうだいあたり・・かも知れないね、と話しています。ナナより半年ほど先に生まれ、小さなときから、この庭にも来ていました。声をかけてもすぐ逃げて、人に懐きませんでしたが、古家でひとりで寝たりしていたのでしょう。

ナナがこの庭の住人になった頃、遠くから、ナナに愛しげに声をかけ、ナナも応えてこの猫にトコトコ近寄り、なついていました。ナナが気に入ってるので仕方ない・・・と、庭にいるときは、μ(ミュー)と呼んで、ナナと一緒にごはんをやるようになりました。小さかったナナが育ち、もうすっかり、ナナはμと同じくらいの大きさです。

鼻筋の通った、顔の小さなきれいな子で、そのうち、わたしたちにも安心してくれたら楽しそうです。

そんなμも、実は男の子。。。

ナナとμ、ちょっとあやしい・・・仲良しさんです。

No.4252 - 2013/02/15(Fri) 22:41:06
謹賀新年 / ubik0101&hato
新年あけましておめでとうございます。

皆様に幸せ多き一年でありますように。

2013 元旦

ubik&hato
  0101

No.4236 - 2013/01/01(Tue) 21:01:34

Re: 謹賀新年 / hato

新年5日目、遠州は福田の海に行きました。

釣り糸を垂れる音。澄んだ海水に、針についたオキアミがゆっくり沈むのを見ます。

向こう岸から、あちこち釣り人たちの語らいが聞こえ、

寒い季節に嬉しい小春日和。ゆっくり時が過ぎるようです。

No.4237 - 2013/01/05(Sat) 23:35:05

Re: 謹賀新年 / hato

朝から、ほぼ無風の正月一日(いちじつ)。

春のように穏やかで、澄んだ水がたっぷりたゆたう海でした。

No.4238 - 2013/01/05(Sat) 23:35:57

Re: 謹賀新年 / hato

昨日、僅かながら今年届いた年賀状を、ふたりで一緒にスクラップブックに綴じました。

なんでしょう。ほとんど、とくに律儀でないけれど、一年に一度、互いの無事を渡し合う。「元日に着くといいね、」と思うほんのすこしの気持ちのゆとりは、もしかすると、人生も中盤を過ぎてのことかも知れません。

さまざまなことがきっと、互いにあったでしょう。それでもこの世界で、無事に元気で、隠れず、挨拶を交わします。「よかったね、元気そうだね!」「相変わらず、忙しそうだね」。

そんなほんの些細なこと。それはとても、嬉しいこと。

No.4239 - 2013/01/10(Thu) 23:27:05

Re: 謹賀新年 / hato

すこし前、どこかのサイトに、「君は僕のツインソウルさん。心配しなくてもいつか会えるからね、」という記述があって。当人同士、それを信じているのでしょう。きっと、一般的にみて、いい人なのでしょう。とりわけ情の厚い、思いやり深い、頑張って生きてる人たちのようです。そんなこと・・・あんなこと・・・夢見たっていいじゃない、なんでもいい、当人がよければそれで、ということに、なるのかも知れません。

精神とはまことに、事実でないことを、多く多く作り出せるとして・・・想像、できるとして・・・歪曲されてるだけとしたなら、それは創造なのでしょうか。

対世界、あるいは、自他の分別がことさら、ないとしても、それはただひとつ、ということではない・・・・たとえば事象とは、その意味での信条的理由を見ることができないでしょう。

もし、生きる理由をみつける、理由があるとしたなら

神・・・どこかの世界、という、なにか精神世界の夢ごとが、雲散霧消した、果ての、自己であるときに、はじめて。幼い子供のそれでない、無知でも、野放図に不躾な自己中心でもないところで、新たに、生に専心するものかも、知れません。

それはまるで、なにか罰を受けたくないからそのようである・・ようなことに、無関係に。そんな良い、悪い、にない、けれど断じて、なんでもどうでもありの雑踏にないそれは、意識世界の多様さに無関係に、ただそのように。

生の取り組みという、新たなチャレンジを蔑ろにすることない・・・けれど、どこか人混みに沈滞することもない・・・といって変哲ない不思議という

そのことは。

No.4240 - 2013/01/10(Thu) 23:57:54
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