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(No Subject) / 彷徨
投稿を間違いました!!
No.4193 - 2012/10/25(Thu) 13:50:06
新。世界。 / ubik0101
それで、依存しなくなったら、たとえば見る聞くなどの知覚、意識、世界。そのことを知らない、になります。また、この意味でですが・・・たとえば知識、過去の出来事からの判断など・・・それをあたかも知ってることと見なして、そのことには依存できるという気がするとしても・・・それは、なぜ、それなのか?知らないのであり・・・知らないことには依存できないのです。

そして、どんなことでも、知らない・・・未知・・・です。このように世界は、未知であることにおいて、人を世界に依存しないようにさせしめている・・・導いている、誘っている・・・のです。つまり世界は人を解脱させる機能がある、ということです。

ただそのためには、自分とは何か?が明確でなければ・・・自分はある、にしても、ない、にしても、知らない、にしても。また何にしても、不安定であり・・・その不安定なために自分でそうと気がつかないでも何かに根拠を求め依存してしまい・・・そうと気がつかないでもそこに留まされて・・・つまり世界は正確に機能してるということです・・・それが人の経緯としての課題、解くべき問題になります。どうしても、世界は徹底して、探究せしめ、自己を知らしめ、解脱せしめる機能があるということです。

ここで、もすこし、変調、ということについて復習します。たとえば怒りとは何でしょう。その自分を守ろうとすることでしょうか。威嚇でしょうか。叱咤激励でしょうか。ある意味の愛情表現でしょうか。心配に対抗する打ち消し作用でしょうか。

いろいろ考えられます。ということは、怒りを、それぞれさまざまなその理由で変調して、意味づけているのです。(その意味づけの変遷がその人の経緯を示すこともあります)。では、変調されてない、怒りそのこと、怒りそのもの、とは何でしょう。

もしかして、知らない、のではないでしょうか。では、 自己保存とか、激励とか、愛情表現とか、打ち消し作用とか、は何でしょう。それぞれのことはその構造を見ることはできそうな気がします。でも、なぜそれはそうでなくてはならないのでしょうか。それがそうであるのが、絶対に必然でしょうか。

続きます。

No.4168 - 2012/09/30(Sun) 09:06:28

Re: 新。世界。 / hato

夏の終わりから今頃にかけて、今年は露草がたくさん咲きました。庭のあちこちに、群生しています。

小さな、青い宝石のよう。

10月半ばまで、可憐な花を咲かせてくれます。

No.4169 - 2012/10/02(Tue) 21:08:10

Re: 新。世界。 / ubik0101
そしてなお問うことができます。思考とは何でしょう。意識とは何でしょう。もしかして、知らない、のではないでしょうか。 なのに、たとえば怒りという結果とそのさまざまな理由、原因。そして、その逆。さまざまな理由、原因と怒りなどの結果。知ってるということは、こんな変調の関係によって・・・それは一種の因果の思考・・・の範疇にあるということではないでしょうか。

このように変調は、行動、発言、思考、感情の間に働く概念として見ることができます。たとえば、です。なにかの感情、怒りや喜びによって、思考が変わり・・・思考によって、発言が変わり・・・発言によって行動が変わる。それは好ましい方向にも、好ましくない方向にも転ぶ。こんなことはよく見られることかもしれません。

が、そんな変調の概念を発見するということは、すでに変調のない行動、感情、思考、感情そんな有り様に踏み込んでるということでもあります。そして、それは、なぜ、それ?ここでも、それがどうしてそれである必要があるのでしょうか、と問います。それは、知らない、のです。

そんな変調されてない行動は、発言は、思考は、感情は・・・その背景がないのですから、なにも隠すことがない、なににも隠れることがない・・・赤裸々な日常で。因果も、自我も、無我も。ひとつも、ふたつも、非ふたつも、特定の個別のこととしてはなく・・・ほとんどですが、縁起、中道、世界の総活動に即しているのです。ここは未知、神秘、不思議の真ん中です。

ただこれは自己が明確でなければ、この現実、世界に依存することになって・・・現実に現実逃避・・・してしまう恐れがあります。また、自分がない、自分がある、知らない、にさえ依存してしまうことがあるようです。

それは自分の体験であれ、知識であれ、そいうことを対象にしてるのかもしれません。なら、対象にしても依存しない・・・対象にすることも未知ということ・・・このあたりまで未知は有効だと感じます・・・を見出せばいいのです。

ところで、怒りとは、思考とは、ただ通り過ぎていく・・・だからそれに依存しないという意見はあります。でも、そうでない感覚も・・・たとえばコーラを飲めばコーラの味覚・・・飲み終わったら、味覚は消えます・・・感情も、思考もあり得ないのです。なので、ただ通り過ぎていくというだけで、それに依存しないという理由にはならないのです。そいう世界に依存してるのかもしれません。

続きます。

No.4170 - 2012/10/03(Wed) 09:36:01

Re: 新。世界。 / ubik0101
ここは説明は微妙なのですが、人間関係の葛藤、いわゆる心理的な思考。それを探るということが、ここでいう否定の道ではありません。

ある意味、実生活の葛藤、軋轢など、そのまま葛藤、軋轢であって構いません。それを解消するための紆余曲折・・・たとえば苦痛を除こうとすること楽したいこと・・・そんなことは、自分を探究しないための、道草でもあり得るのです。

そんなことは放置する。たとえば誰かとの、社会との関係が悪化、嫌われても、馬鹿にされても、惨めでも、恥ずかしくても、そのままにして、それを弄らない。その強さも必要です。あくまで自分を探究せねばなりません。

でなければ葛藤を解決してると、自分にもほかの誰かにも、見せ掛けてるだけの結果ということも、あり得ます。そうでなく真摯な探究は この自分の、とか。誰かの、とか。楽とか苦とか。そんな特定の個別の範囲の問題を超えるのです。

なんの苦悩もなく、不安もない・・・たとえば青空を見ます。山や畑や道で遊ぶ子供達・・・この日常には、なんの問題も見つかりません・・・そこからそのなんでもない、この日常・・・その、その自分は何?と掘り下げたのです。そこから自分の奥に、いわば無意識に掘り下げることができます。

いわゆる非難や正当化は、いくらしても、かまいません。嵐のように世間に対立してる・・・それだけに留まらず・・・その、その自分は何?あるいは非難や正当化の嵐が収まるように自分を調教しても・・・その自分は何?そんなことを思いもしないでも・・・その自分は何?なんであれ問える。これしか問えないとも言えます。この、この自分は何?

続きます。

No.4171 - 2012/10/03(Wed) 11:03:04

Re: 新。世界。 / ubik0101
あるいは損得について探るなら、あるいは自由について探るなら、ほかのこと、たとえば周囲からの冷たい目を・・・軽蔑、無視、揶揄・・・一身に浴びても、そのままで堪え忍ぶ・・・捨て置いていいです。限りがなくそんな卑下や、噂話は起こり続けるわけで。それぞれに対応していると、あれやこれやに惑わされ、どのようにしたら取り組んでいる問題に対峙できる、集中できるでしょう。

たとえばほかの人が感じる、この自分に対する印象・・・軽蔑、無視、揶揄・・・尊敬、賞賛、崇拝・・・そんなことにどうして関わるのでしょう。それは寂しさや苦痛に満ちた娯楽、噂話、空想。それ以上のことではないかもしれません。そんな寂しさや苦痛がそこに繋ぎ止める・・・娯楽、噂話、空想・・・そんなのは、ひとりあっての探究において丸ごと脱落するのです。

いわゆる葛藤とか、軋轢とかは、置き去りです。 それは・・・もちろん会社で獅子奮迅のはたらきをしても、友人と遊びにでたりしても、まったく何もせずに時間の流れるのを見て楽しんでも、なんの障害にもならず・・・いわゆる心理的な思考を背後にして、世界について、自分について、日常について、より深く掘り下げる。人の基本姿勢を探ることになっていきます。

それは探究が探究を、そんな表現をするとして、さらに深い階層に導いてくれるのです。詩ができることもあるでしょう。絵になることもあるでしょう。そんな、自分とは何?が、いわゆる心理的な問題でしょうか?違います。自分とは何?との意識はなくても、総ての問いが、そうであらざるを得ないのです。ひとりあって、人と人の間にあってはできないことができるのです。それをこの日常、この世界が可能にしています。

続きます。

No.4172 - 2012/10/06(Sat) 20:29:53

Re: 新。世界。 / hato

秋祭り。電飾屋台が、帰ってきました。

夏から秋にかけて、あちこちに見られる、豊年祭りの風景です。ubik0101さんガメラ1号片手に。こちらは、携帯片手に。

涼しい夜風が吹き抜けていきます。

笛や太鼓。子供や大人たちの、拍子いい掛け声を聞きました。

明日は、神社が賑わいます。

No.4173 - 2012/10/06(Sat) 23:01:13

Re: 新。世界。 / ubik0101
たとえば、です。良心という言葉があります。それはなにか作業してて、手間を抜いたりして、そうできるのに正確にしないなら、これではいけない、という気持で、良心が頭をもたげることもあるでしょう。すこしだけ実際の行動とあるべき行動がズレてる隙間に良心、という思考が生じます。

そうでなく、やるべきことを真摯に丁寧に取り組んでるなら、良心という思考は、生じないかも知れません。それを良心がない、と表現できます。たとえば、自分には良心がないそれは作業を滞りなく問題なくやってることだ、となります。

それは良心が滞りなく機能してるから、ズレがないから、良心ということを感じられない、とも言えます。ここで良心の思考は失われます。それは、良心が生きてるからです。理解することは失うことで、それが得ることです。自分で否定の道を歩くことで、そうなり、それを学びます。

これは日常が、世界が、それを生きることによって、バックアップしてくれていると言えます。この日常がなければ、生活がなければ、たとえばですが、良心に生きることが実際に行われることがなければ、無理です。この意味ではですが、良心を失うことを恐れてはなりません。それは感謝にしても、信じることについても、同様ではないでしょうか。

おなじように。いわゆる神秘体験・・・それは起こることですが・・・をして、この日常に、この世界にあって、たとえば、ひとつ、ふたつ、非ふたつとかの印象、世界観、確信、を持つと言うことは、それが解決されてない、了解されてない、昇華されてない・・・それゆえに課題として、ひとつ、ふたつ、非ふたつとかの空想、妄想、幻想を見せられて、それが残ってしまう、ということもあります。

続きます。

No.4174 - 2012/10/08(Mon) 07:17:30

Re: 新。世界。 / hato

さっき、庭を眺めていたubik0101さんが、「ほら、おいでよー」というので行ってみると、黄色のマンジュシャゲが咲いていました。白を植えるとき、黄色のも植えていたのでしょうか。といっても、5年以上も前のことではないかしら。

肥料をして、球根に栄養がついて、咲いたのかもしれません。

No.4175 - 2012/10/08(Mon) 15:41:39

Re: 新。世界。 / ubik0101
さすがに村祭りです。オーブです。これは小さな羽虫がフラッシュに反射して映ってるのだと思います。ちなみに、オーブ、で画像検索してみると、たいがいは夜、あるいは薄暗い室内、あるいは離島などの薄暗い森林で・・・いわゆる精神世界で売り物になったりしてることもありますが・・・フラッシュ撮影したもののようです。

ガメラ1号の使用説明書にも「フラッシュの光が空気中のほこりなどに反射して、画像の中に白い点のように写り込んでしまうことがあります」と、あります。常夜灯がある電柱とかを撮ると高確率で写ります。

そして虫の羽に光が反射して、干渉模様がでたりするのでしょう。プレビュー画像↓をクリックすれば拡大します。

No.4177 - 2012/10/09(Tue) 17:16:06

Re: 新。世界。 / hato

生地を頂くことが多いので、フィスバのカーテン生地で、20年使ってる食卓椅子の座を代えてみました。ひとつひとつ、全部変えちゃおう!というubik0101さん。あら、斬新。。まずはふたつ、交換しました。

徐々に爽やかに、涼しくなり、作業が捗ります。

No.4178 - 2012/10/10(Wed) 20:28:38

Re: 新。世界。 / 彷徨陽気な彼女の視線 開いているとは距離が無い事
陽気な彼女の視線
開いているとは距離が無い事

No.4192 - 2012/10/25(Thu) 13:47:14
みどりの庭から / hato

朝、起きると、今日はゆっくり時間が流れる予感がします。

ubik0101さんと、窓を拭いて、床を掃いて、掃除に励む午前中。

ふいに涼しい風が、さっと吹き込む窓に乗り出して、何気なく見上げると、その光景に涙が込み上げました。

「ね、ね、もう、行くみたい!」

急いでubik0101さんに声かけ、一緒に見守りました。

数十から・・・百羽近くいたでしょうか。本当に大勢のツバメ達です。ちょうど庭の上空で、旅立ち前のデモンストレーションか、あるいは夏場を過ごした地に挨拶するかのように、別れを惜しむように、あるいはまるで楽しそうに、でもたしかに、緊張が伝わる風情で勇敢に舞い踊っているのです。

No.4190 - 2012/10/17(Wed) 20:37:22

Re: みどりの庭から / hato

大きなツバメたちがよく見えます。先導していくのでしょうか。

10月半ばまでいたのは、皆が準備万端の、よい時を待っていたのかも知れません。

「気をつけてね!頑張ってね!」

何度も何度も、凄い速さで舞い降り、風に乗って上昇する彼らに手を振って、何度も何度も、声かけました。

よい風に乗り

どうか無事に、南国に行き着くように、と祈りました。

No.4191 - 2012/10/17(Wed) 20:39:09
解脱 / ダークブルー
こんばんは。

>どれもが、この世界に生きながら、この世界に依存しない。ここ。焦点は、それを伝統的な仏教用語の意味で話してないかもしれませんが、解脱にあります。

7月の名無しさんの「ホームレスでも安楽でいられますか」という問いについて聞かせてください。

>すこし振り返ります。2年ほど前、胸腺腫が見つかり、医師に「何で自分だけがこんな病気になるのか?と、考えるかもしれないけど・・・」と言われました。そう考えないのです。もし、そう考えるとしたら、病気になったことで、その自分がつくられた。
そして、「何で自分だけがこんな病気になるのか?」と思考した、のです。その思考が生じる状況によって、その自分がつくられたその自分が「何で自分だけがこんな病気になるのか?」と思考してるのです。

空想が入り込まない、というのはわかるのですが・・・・・そして、愚問だとは思うのですが・・・それでも「心配だ」という気持ちにならないものなのでしょうか?

病気になったり、経済的な困難があっても「不安にならない」というのは、根本の問題を解決しているから、不安として沸いてこないということですか。

仏教的には、解脱すると苦から離れる、という説明があったように思いますが、この辺りがわかりません。

私は、本当には世界は分離していない、というのを見た経験があります。
もともと世界はひとつだ、という言い方は「分離」が前提で、その考え方からは、この分離のない世界は導き出せないと思いました。

それを見てから一年経ちますが、苦から離れません。
苦とはなんでしょう。
と、思ったのは、最近、ご近所の騒音に苦しんでいるからです(笑)

No.4179 - 2012/10/12(Fri) 20:40:36

Re: 解脱 / ダークブルー
言葉足らずなので補足なのですが、疑問としては、大きくふたつにわかれるように思います。

1.病気になったり経済的な困難があっても「不安にならない」というのは根本の問題を解決しているから。

2.自己と世界の構造として「苦は自分の構成要素」という理解により依存を解決している。

1.であれば苦そのものが沸いてこないですし、2.であれば、苦痛そのものは感じているけれども問題としていないと読めます。

7月の名無しさんも同じように感じられたのではないかと拝察するのですが(違っていたら申し訳ないのですが)、ご夫妻には、苦というものが実感から遠いように感じられ、それが独特な感じを受けていたのです。

No.4180 - 2012/10/13(Sat) 04:45:04

Re: 解脱 / ubik0101
ちょっと用事のため、たぶん明日、hatoさんと一緒に返信します。
No.4181 - 2012/10/13(Sat) 07:34:30

Re: 解脱 / ダークブルー
ご連絡をありがとうございます。
書いてみて冷静にubik0101さんの一連の投稿を拝見しなおして、たいへん失礼なことを書き込んだと反省していたところです。

私には「苦からの離脱」がすべてでした。
なにも知らずに求めもがいているうちに、自分が「解脱」したいのだとわかってきました。
愛や感謝のような方向付けも欲しくない。

ubik0101さんhatoさんは「自己を知ること」だけを言っておられて、自己を知ることにより苦しみが解消できるかどうかは結果論と言われているように読みました。

結果論というか、おそらくは、どうでもいいこと、というふうに読みました。

けれども、どのように「どうでもいいこと」なのか、腑に落ちません。
腑に落ちないだけです。

こうして、苦に足を取られているうちは解脱はできそうにないですね。

No.4182 - 2012/10/13(Sat) 21:22:46

Re: 解脱 / ubik0101
こんにちは。

もしかして、です。ダークブルーさんの言う苦とは、不安とか、心配とか、嫌悪とか、ではないかもしれません。なんでもない普通の日常の意識状態が苦なのではないでしょうか、と思いました。

つまり「本当には世界は分離していない、というのを見た」こと、そんな完全燃焼がとても素敵な体験として印象に残り、それを対象にしてしまってるその自分の普通の有り様が・・・燃焼してはいても煙が出る不完全燃焼・・・なんだか罪悪感を伴って苦なのかもしれません。

ならば、たとえば楽しく歌を歌って苦を忘れてはいてもその底に、ずっと聞こえてはいなかったにしても、通奏低音のように、苦が持続してることに気がつく、といった様子かもしれません。

そうでなくてもですが・・・ubik0101がそうだったことを話すしかないのですが・・・自分に起きたその体験を理解するほかは、解決はないように思います。そこで苦が、理解の、探究の、原動力です。とても強力な原動力です。

たとえば目の前に御馳走が見えてるということは、食べたいけど、食べてないで苦ということがあるでしょう。でも食べて消化されて、自分の血や肉になると、見えることとしては失われます。けど、それが探究して理解するということです。

そしてまた、あの体験にあって。ほかの人が、この体験に繋がる為になることをしたい、という気持が湧き上がってきたなら、それをしないことが、やはり苦と感じられます。

そんな苦にあって、苦を理解したい、ということならば。ここですることは。その自分を見る。という、それだけと言えば、それだけです。 たとえば、苦がなくなってないなら、それをそのまま認めます。

ある意味ですが、苦がなくなる、というのが間違いかも知れません。そして、その自分は、どんな有り様?これを見る。これはその人がすることなので、ここでubik0101の言うことは空想になりますが・・・苦がなくなるという過剰な期待・・・苦の拒否・・・が、苦。あるいはそれが・・・ゴキブリが出たら嫌でも見てしまう・・・苦に惹きつけられる原因かもしれません。

続きます。

No.4183 - 2012/10/14(Sun) 10:06:29

Re: 解脱 / ubik0101
あるいは苦を問う、そんな自分だということが、辛いながらもその自分を感じることができる状態だということもあるかもしれません。ならそれをそのまま認めます。あるいは苦を問題にしてないときには、苦でもなんでもない、苦を手放してる、その自分をそのまま認めます。そして苦についての思考が起これば、その自分との関係を検証します。

この、そのまま認めることが・・・あの体験の有無に関わらず・・・探究の要で、総てです。あとの展開は、探究が探究を導いてくれるので、注意深く見なければなりませんが、努力を要するとかいうことではないです。もしあればブログや、日記などで、書くことで明確になりやすいと思います。それに打ち込んで、書いたら忘れる、読み返す必要はないです。

これはすでに「・・・というのを見た」その見たことを表現、意識化するということでもあります。ここではそれを、自分の意識に教える、と言っています。そこで、たとえば世界は総ての意味を孕んで無意味、透明とか、ここでいう変調とか、思考とその事態とか、触媒とかを理解する、経緯を歩くかもしれません。こんな探究ほど面白いことは、ほかにないです。

いきなり心配とかをなくす道はなく、未開に分け入る楽しみ、精神の冒険、学ぶことがあるということで、世界は親切なのです。それで、たとえば、あの体験を取り戻そうとしなくても、理解することによって、あの体験は対象としては失われ、いわば血や肉になり、世界と分離してない、が常態になります。

続きます。

No.4184 - 2012/10/14(Sun) 10:08:23

Re: 解脱 / ubik0101
そんな日常には、どこを探しても自我とか無我とかもないです。ひとつとか、非ふたつとかも、ないです。それをそのまま認めます。たぶん「本当には世界は分離していない」は、ここで言う、世界は対象にならないこの日常、のことかもしれません。

その日常で、たとえば優劣感とか、劣等感とか、欲望とか、孤独感とか、悔しさとか、感じなくなっています。ほかの誰かが言った、書いた、劣等感、とかの言葉を見て。あーそうだ、そんなのなくなってた。

そいえば、そんなことも忘れてた。どこ行ったんだろう?と軽く驚くような感じです。感じなくなったことにも気がついてないことがあるのです。それは自分がどうだで解決できることだからかもしれません。

それと、ほかの人に対する心配とかが、庭作業するといったほどの意味で、面倒、苦ではないのです。心配は心配で、苦とは思わないだけかもしれませんが、心配をすることが面倒、手間がかかるという理由で心配を避けないです。もしかしてですが、心配とかを避けようとすると、ほかのあれこれにすがって、思考は飛び火して、その関係に巻き込まれ、苦と感じるかも知れません。

そして自分の病気とかだと、対人関係の問題とかだと、いくら心配しても、不安になっても、平然としていても、笑っても治りません。そいうことは効果がなく、病気という事態を治療する、対人関係という事態を修復することでしか、変わりません。

そこで、もし不安でも、心配しても、無意味で、そのことがほかのことに結びつかないのです。 心配したら、心配だけ。といっても強い心配はできないのですが、心配しては問題、ということもないです。なので、心配しても問題ないというのも、ことさらないのです。

続きます。

No.4185 - 2012/10/14(Sun) 10:10:24

Re: 解脱 / ubik0101
いつも言いますが、心配も、不安も、それがなんであるか知らないのです。そいうところが日常です。まあ、超意識なら、心配、不安もありようがなく、 死も問題ではありませんが・・・愛の放射される源、実在に向かって帰る・・・そこを持ち出す必要もありません、日常のことを話しています。

どこから来てどこに行くのか?死んだらどうなる?輪廻?とかの疑問は。なにか自分はとあるもの、ということを。あるいは、この世界、それを知ってるということを前提として、疑問になるのではないでしょうか。けど、自分。ここ、この世界が、どこなのかも知らないのです。

それで、どうでもいいと言うか・・・そこで心配とか不安が、死を考えても感じられない、というところです。こんなことを話してると、でも死ぬのは嫌だなあ、と身体は呟いているのが聞こえます。

ところで騒音も、たとえば聞き耳たてて、うるさい、うるさい、と嫌がってるとか。ほかの人に迷惑をかけてる無神経さ、自己顕示が嫌とか。おなじくらいのラジオの音量でも、近所の家のは騒音、自分の家のは平気、とかの心理的な範囲ではない騒がしさなら、自分が平穏なら済むということではないので、病気のように、その騒がしさそのことを解決しなければ。いくら心理的な思考を探っても、解決しないと思います。

それから・・・失礼、ということはありません。こちらのほうが長文大失礼。ubik0101の言うことは、ただ眼だけが読む感じで、とくに意味を汲みながら読む必要はありません。聞き流せば大丈夫です。そして、くり返しますが、ふつうのなんでもない自分の日常を、そのまま認めることが探究の要で、総てです。

No.4186 - 2012/10/14(Sun) 10:11:47

Re: 解脱 / hato

ダークブルーさん、こんにちは。今日は、祭りも終わったあとの週末。仕事もやっと一段落で、掃除でもしよかな、と思ってます。ご連絡ありがとうございます。

わたしは以前騒音のことで、お隣さんと、大変な時期がありました。数年かけて、自分を見たり、案を練って手紙を書いてみたり、とても腐心しました。そうしてる自分の問題かも知れないと、ダークブルーさんのように耐えながら、とても考えました。それで、結局、その音はおそらく、結構なものだったのですが、とある夜中、それが鳴ったとき、窓を開けて隣人に向かって一瞬、大きな声で叫んだんです。「うるさいよっ」。隣人は慌てて、その音を止めました。それから、その音はしなくなりました。

彼らは怖かったのでしょうか。或いは、世間体を気にしたでしょうか。個別の意味では、それぞれに学びがあるとして。自分にはその時点で、音が気になるその事態を見尽くして尚、できることをしました。

悩むときは、相手のこと、自分のこととして、なにか考えるかも知れません。その上でお互いにとっていい方向を、と思うでしょう。でも叫んだその瞬間は、対処そのものだったのかも知れません。その事態ははいいとも、わるいもないとして、そういう表現があるとして、世界に伝わったのかも知れません。

どうしたって、人はひとつともふたつとも、どうともいえないところ・・・として、なので時に、それぞれの事情でしょう。それは、別にある、とも別にない、とも言えないところの事情です。なにもないことも・・・或いは苦痛にあることも、あるとして・・・そして、生きる上で都度、意識され、対処することが起きることは、それはとてもとても面倒なこととして

ダークブルーさんが言われたように、そのこととして苦にしない・・苦にできない・・・それを、苦から離れる、と言うことができます。たとえば、幻想をむやみに作り出さないことは、その意味での、毒矢がどこから来るかを、詮索できない、こと。詮索してる、まやかしの力は、幻想です。幻想に迷うことは苦であり、それを作り出すのは、幻想の自己であり、そこに喜びを見出して気付くことがないことを、苦といいます。

人生はいつも、安易に楽ちんなどということは、できません。でも、どうしたわけか、だいじょうぶ、です。

さまざな機微があり、それぞれの道なりと思いますが、

きっと、大丈夫です。

No.4187 - 2012/10/14(Sun) 10:21:15

Re: 解脱 / ダークブルー
ご返信をありがとうございます。

>ほかの人に迷惑をかけてる無神経さ、自己顕示が嫌とか。おなじくらいのラジオの音量でも、近所の家のは騒音、自分の家のは平気、とかの心理的な範囲

ubik0101さんは千里眼ですね。
実際にそんなことをいくつも考えました。
少しは心が軽くなったところで、また大音量に一撃されたりして、なんといっても現実はインパクトがあります。

「本当には世界は分離していない」というのは、書きながら自分の内面を探っているときに経験したものです。
あれやこれ、あの人この人、と当たり前に感じている普段の生活がぐにゃりと曲がって、本当には、あれもこれも、あの人もこの人もなかった、なかった、ということが理解されました。
根源的にとか別の世界の話ではなく、この日常の中の存在が「他のもの」でなくなって「すべて私。イエスも釈迦も、この私だった」と思いました。
神や大我のような存在になったということもなく、この自我が、そのままの自分をそういう存在だと認識しました。
あまりにそれが当たり前の世界に、普段自分の見ている分離の世界のほうが幻覚に違いない、とさえ思いました。

そのときは「他人はいない、というのはこういう意味なのか」と思いましたが通常の意識状態に戻ると「経験」の記憶はあるのですが実感は失われて、どうやっても「他人はいない」と思えませんでした。
ただ、自分が自分を認識するように、他の人も自分を自分と認識するなら、私であっても他の人であっても、そこに差異はないと思うようになりました。

けれども「すべては自分」と思う経験があっても、世界はなにも動かない。
そのぶんだけ生きやすくなったとか楽になったということは、ほとんどなくて、騒音ひとつで取り乱します。

以前と違うことがあるとしたら、この世界がなんとも表現できないものになったということです。
もどかしくて困ってしまうのですが、表現しようとして言葉をひとつ選ぶと、それからはみ出して溢れてしまう。
ですから以前ご返信で「どういっても上手く言い得ませんが」と書いていただいたとき、あ、はみ出している、と思って少し嬉しくなってました。

はみ出しまくっている世界だから、苦しくてもいいかと思いました。
自分が苦をいやがっているだけで、苦しいのも十分に「アリ」なのだと、ご返信を見てわかりました。

hatoさん。
騒音に悩まれたエピソードをありがとうございます。

窓を開けて隣人さんに叫ばれたエピソードは、どこか豪快感があっておかしみがありますけど、それに至る経緯やご心情を慮るに涙が出そうです。
同じように悩まれたというお話は励みになります。

人生はいつも楽ちんというわけにはいかない、というのも、本当ですね。
きっと大丈夫だと思いますが、大丈夫でなくなったときは、それが現実になるので案外大丈夫とも聞きます。
言われるとおり幻想が一番怖いのかもしれません。

めげたり他のことに巻き込まれて「自分は何だろうか」という問いに戻っていくのが難しいとき、こちらのサイトに伺います。
いつもお二人の姿勢に触発されます。
感謝です。

No.4188 - 2012/10/15(Mon) 00:06:23

Re: 解脱 / ubik0101&hato

まるで自分が体験してるように、読ませてもらいました。それはもしかして、ここで世界の総活動、縁起と呼んでることかな、と思います。そして人によっては、そのことを、真の自分とすることもあるようです。

「あの人もこの人もなかった、なかった、」とは、特定の個別のこととしては、いない、それは分離がない有り様で、だから「すべて私。イエスも釈迦も、この私だった」。 という意味なのでしょうか。

たしかに素材としては、みんな世界という一緒の絵の具で、ここで言う自己は、それで描かれた、そこから醸しだされる絵。泥沼に咲いた蓮華、という感じです。それは、 この世界でなくあると感じるのは、かなりの苦痛でした。

でも、ふつうの日常、自我も無我も自己も区別がなくなって・・・そのせいか、自己について、ある、ない・・・また様々な意見があっても、それはそれ、と気にならなくなっています。でも、あるないの探究は、知覚と対象について・・などの意味で、とても役に立ちました。。

どんなこととも、自分は言えないので、笑ったり怒ったり思考したりの普通の生活で、問題ないでしょう。また、この現実は、もし自分を知ったら、心理的な騒音も、物理的な騒音もないというのでは・・・それを実現してる人もいるとして・・・ちょっと堅苦しいかなとも思うけど、

それも、それはそれです。

No.4189 - 2012/10/15(Mon) 21:48:34
世界。続。続。続。 / ubik0101
つまり、自我は自我を了解すべくして、見破るべくして、完成すべくして、機能してるということです。そのために、あらゆることが活動しています。たとえば小さな木の芽が成長するためには全世界が働くことが必要で、そのように世界が働いています。

くり返しますが、その自我の仕組みは、次のようです。 このことは、それを見る、それを聞く、というよりも。それが、それを自ら開示する、ことです。しかし、それは思考され得て。このように言葉として、そのままを表現できます。

《そこで、なにかを、たとえば鳥や樹や時計や親やほかの人を対象として見聞きすることによって・・・予め・・・まるで時間線を遡って。見聞きする主体が初めからあったかのように、僕、私、俺が、特定の個別のこととして、仮に構築されるのです 》。

この関係から外れるにはどうすればいいいでしょう。それは・・・その対象である世界が消えればいいのです。あるいは自分が、ない、ならいいのです。

あるいは、なにか対象と完全に同一化すれば。あるいは、まったくどんなこととも同一化しなければ・・・どちらにしても対象との空間の関係ができず・・・いいのです。あるいはこの今にあれば・・・時間の関係ができず・・・いいのです。

あるいは、ありとあらゆる、もの、こと森羅万象が総て活動すれば、いいのです。そこで、なにか特定の個別のもの、こととの関係を凌駕するのです。これはここでは縁起、世界の総活動、あるいは中道、と呼んでいます。

続きます。

お隣さんが自分の家の、お茶の垣根からこぼれた種から芽生えた苗をくれました。しばらくは植木鉢で、大きくなったら庭植えにするつもりです。

No.4158 - 2012/09/15(Sat) 09:38:03

Re: 世界。続。続。続。 / ubik0101
あるいは、なにかを対象にすることによって、その自分が、つくられなければ、いいのです。たとえば子供の頃はつまらないことにも気になって執着させられていたかも知れません。ニキビ、髪の癖とか、つむじの巻き方とか、それにまつわる自尊心とか、劣等感とか・・・でも大人になるとその事態は同じでも、そんなことには執着させられなくなります。

たとえば噂話、それにまつわる友達関係、スポーツ、勉強、服装、趣味、食事、嗜好・・・それにまつわる苦痛や快楽の心理的依存・・・そいうことから自然に卒業する。つまり、たとえば社会に生きて、おなじ雰囲気に暮らしても・・・ほかに興味が移った、そいうことを忘れた、というのは別問題ですが・・・執着してる主体がつくられなくなります。これは変化としては意識できないこともあるでしょう。というより意識の範疇で起こらないこともあります。それは自我を解決しないで、その範疇でも起こります。

それは、いわゆる平穏で、これといったことでない幸せ感をもたらせたりもするでしょう。けど。そんな平穏、安楽を求めたり、基準にしたりする必要はありません。なんか束縛の苦しさが解放の楽を求めた、その範囲のことなのかもしれません。

あるいは、たとえば誰か賢者と見なされるイメージを追って、平穏、安楽という見える結果を求めてるだけ、かもしれません。それは自分を知ることの(変な言い方)副作用、そのイメージとしての結果を、努力を省いて先に求めてるということもあり得ます。

続きます。

No.4159 - 2012/09/17(Mon) 10:43:12

Re: 世界。続。続。続。 / ubik0101
そのように、副作用、結果だけを求めては、探究ではなくて、単なる稽古事です。自分を知ったら安楽、平穏だ。というのは、イメージです。いや。逆に、平穏、安楽なら、自分を知った、とはならないのです。

あくまで、自分とは何?を解明しなければ、それは対症療法に終わります。それで一生すごせても、それは依然として、平和な、平穏な、安楽な自分・・・がつくられてる・・・どこか見えないところに苦痛を隠し持ってる、わきにどけてる・・・その苦楽の有無は基準になりませんが・・・自我の範疇、ということもあり得ます。

ところで、自我の仕組みですが、それはとても危うい関係です。かなりの無理をして、ほとんど不可能な偏りによって、あっちとこっちに分裂して、やっと仮につくられているだけです。自我の仕組みは、この瞬間、この瞬間に壊滅しているのです。そんな仮の主体、そんなもの、始めからありようがないのです。

ただそれは、その仕組みを、自我は自我を了解すべくして、見破るべくして、完成すべくして、機能してるということです。それは意味なくそうなのではありません。たとえば否定の道を歩いて、嫉妬の、偽善の、優越感の、劣等感の前提に切り込んで、消していく・・・そんなことができるのは。

なにか思考する、発言する、行動することに隠れた前提がある自我にあってでなくては困難なことです。それは安楽、平穏ではなく、この世界が、意識の範疇にない、ない、から、意識の範疇にない、ある、つまり自己、をつくろうとしてる、ことだと言えます。自我にはその機能があるので、それを働かせないのは、自我はただなくなればいいというのでは、自我を充分に活用してはいません。

続きます。

No.4160 - 2012/09/17(Mon) 10:46:25

Re: 世界。続。続。続。 / ubik0101
もし平穏、安楽などの副作用、結果だけを求めるなら、簡単です。1人あるなら、ただ世界を見ればいいのです。どうでしょう。部屋ではカーテンや壁とかで視界は限られますが・・・その色彩に満ちた部屋の空間・・・それが自分ではないでしょうか。その空間と自分、素通しではないでしょうか。その空間は洪水のごとく・・・わが胸に及び・・・です。

さらに窓から世界を見ます。そこ・・・世界と自分、素通しではないでしょうか。これは美しいのです。あるいは鳥の声、虫の音、風の音を聞いてるだけでいいのです。どうでしょう。音は、どこか外からではなく、自分の中心が響いてはいないでしょうか。これは静か、なのです。

ここには自我も、無我も、ひとつも、ふたつも、みっつも、非ふたつも、分離も融合もなく、今も、過去も、未来も、ありません。こういうことは意識をとある特定の、個別のもの、ことに向けないということ、それだけです。とりあえずは世界がそこまでは誰もに準備してくれています。

続きます。

No.4161 - 2012/09/17(Mon) 10:48:56

Re: 世界。続。続。続。 / hato

雨が降ったり止んだりした昨晩から、ゆっくりした時を過ごしました。今日は銀行や、いつもの店に買出し、散歩などしました。とくになにかないときは、殆どふたりで過ごします。

その風景は、もし、仕組みが了解されていないとき、本当には、見ることができないかも知れません。虚構の自我に陥ってるとき、人は、しずかにあることはできないからです。

けれど、この世界。それは人に、あらゆる事象とともに言葉という、不思議の国の杖を与え、闇夜に浮かぶ、真昼の夢を与え続けるかのようです。


初秋の海は、浜松です。

No.4162 - 2012/09/19(Wed) 21:16:01

Re: 世界。続。続。続。 / ubik0101
ところで、自分の事態を定義してみたでしょうか。なんでもいいのですが、優越感。劣等感。依存。葛藤。嫉妬。偽善。善悪。どうでしょう。それをよく見て、できるだけその仕組みの正確な記述をしたとして。

たとえば優越感とは・・・で・・・・で・・・でその自分とは・・・で。それから解放された。とかと定義したとします。では 、なぜそれが、そうなのか、解るでしょうか?知ってるでしょうか?

たとえば、です。まず自分が先立ってあってそれが、思考し、発言し、行動するのではありません。思考し、発言し、行動することによって、その自分が、予め・・・あたかも時間線を遡って・・・あるかのように仮定されます。これが、ここで言う、自我の仕組みです。けど。

なぜこれは、こうなんでしょう。このように開示されたそのこと、その思考。それは見て、話すことができます。それから展開することもできます。

けど、なぜそれがそうなのか?知らないのです。これはなんであれ、知識はなぜ知識?過去はなぜ過去?知覚はなぜ知覚?思考はなぜ思考?葛藤はなぜ葛藤?なぜ楽は楽。なぜ苦は苦?世界はなぜ世界?つまり、なぜ、これは、これ?

これは、まったく知らない、のです。これがこうである必要さえ、どこにも見つからない、のです。どこかで言いましたが、知ってることが何かを知らず,知らないということも何かを知らないのです。

これは、ひとりあって探究する、よく見る。理解する。その必然ではないでしょうか。今日は雨上がりの青空です。庭を歩いて昼間のコオロギの音。風。この見えること、聞こえるということ、思考・・・日常・・・この知らないの、不思議の真ん中です。

続きます。

No.4163 - 2012/09/20(Thu) 11:36:47

Re: 世界。続。続。続。 / ubik0101
つまり、森羅万象が未知なのです。でないなら、そうだと自覚がなくても誰かが言ったことを基にした思考、あるいは言葉の意味に依存してることを背景にした思考、かもしれません。とあるなにか、たとえば過去とか知識とかは、既知で。たとえば過去や知識がない事態、朝の草原の輝きとか、とあるなにかは未知というように。既知と未知に分けられる可能性があります。

ではなく、ここでは、たとえば・・・自我そのことが未知、怒りそのことが未知、なにかを対象にしないこともすることも未知・・・ありとあらゆること、ありとありえないこと森羅万象が・・・朝も昼も夜も・・・未知です。これは未知を未知と思考しないでも未知。未知を未知と思考しても、思考することも未知。思考とその事態に違いはないのです。

そのようでないならば。ここでなんでもいいのですが、とくに2項対立たとえば、ある、ない。優越感、劣等感。葛藤、解放。善、悪。既知と未知。(その思考とその事態は。それを思考することと、しないことは。事態が違うかも知れません)それをよく見て、できるだけその仕組みを正確に探査、その思考の奥(その自分の奥)を探ると、そこは破綻してないでしょうか?

続きます。

No.4164 - 2012/09/24(Mon) 09:58:01

Re: 世界。続。続。続。 / ubik0101
つまり、その思考は、完全にそれとして、個別の特定のこととして、それだけで独立してあるのではないのです。そうです、なにかについての空想。思考の構造、概念は始めから破綻して、見かけ上だけ成立してる、ということです。

あるいはそこに変調・・・とあること《知識や気分や感情や立場》で、とあること《概念》に意味づけて思考する・・・を見つけるかもしれません。 これは事態とその思考が無関係なのに、関係づけてる、ということです。もし関係づけなければ、その思考は正当性を失い、成立は困難です。

この思考の破綻に気がつくということは。その特定の個別の内容に、意識は閉鎖されることはできないということです。思考の構造、概念は密室ではなく、奥に非常階段。そこに日常は収まりきっていないのです。たとえ知識を基にした思考、空想でも、それ自らが、よく見ること、理解すること、それからの拘りに留まらないように導きます。

続きます。

No.4165 - 2012/09/24(Mon) 10:01:20

Re: 世界。続。続。続。 / ubik0101
くり返します。たとえば怒りや悲しみが、怒りや悲しみである必要がないのに、怒りや悲しみです。自我が自我である必要がないのに、自我です。喜びが喜びである必要がないのに、喜びです。ここに例外はありません。これは、なぜ、これ?ありとあらゆることが、未知です。既知はあり得ないのです。

これを説明すればですけど。もうそれが束縛せず、それを対象にしてもその仮の主体がつくられないなら、それに依存しなくなったら、それは固有の意味がある必要がなくなる・・・これはそうと思考、自覚しないでもそうなので、そうだという認識は困難です・・・ということです。問題は問題としての意味を失います。

たとえば、なぜ、意識は意識?意識に依存しなくなったら、この疑問が自発的に生じます。ここでも意識は機能してるのです。が・・・ 意識が機能してるのでなくて、どうしてそれに依存しない、ということが可能でしょうか。問題は、特定の個別の意識の内容、なにかに依存してる依存してない、ではありません。

なぜ、怒りは、怒り?なぜ、葛藤は葛藤?知覚は知覚?なぜ、世界は世界?つまり、なぜ、これは、これ?これは疑問で、そして答えのない疑問です。それが、すでに、それからの自由ということを示します。これは超意識とか、なにかの瞑想状態で成立すると言ってるのではありません。ふつうのこの日常がそうだ、ということです。

続きます。

No.4166 - 2012/09/24(Mon) 10:04:01

Re: 世界。続。続。続。 / hato

仕事が終わって、今日はちょっと気に入ってる、安い居酒屋に行きました。ノンちゃんパパはレモンチューハイ、お代わりはお茶割りの焼酎、こちら冷たいカルピスが夏の名残です。店のご主人が持っきてくれた突き出しは、フグのから揚げでした。塩味の効いた熱々が、舌に浸み、とてもいけました。シメサバを頼んでみたら、これも身がきっちり締まっていて、美味しいのです。常連さんか、お仲間で賑わった店内で、頼んだ皿は次々出てきて、さっと頂いて店を出ました。もう、夜気が肌に冷えます。

何年も前に植えられたらしい、白いマンジュシャゲが咲きました。赤いマンジュシャゲは例年通り、庭の西側に咲き揃っており、白いマンジュシャゲは、これから増えていくのかも知れません。

No.4167 - 2012/09/26(Wed) 00:31:59
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