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世界。続。続。 / ubik0101
たとえば、です。火のついてるタバコを道にポイ捨てする誰かを見て、怒り、善悪を問う思考をしたとします。それは、自分と相手という、分離に偏ってる、そのことで感情や思考を生じさせたのかもしれません。けど、それはまるで相手を自分かのように思って・・・その分離を活用して・・・反応してるとも言えます。

また、そこで。おなじ行動を見ても、まったく知らない人と、家族、友人知人に対しては態度が違うかも知れません。善悪を問う思考をしたけど本人に発言しなかった、ほかの誰かと話して噂話にした、本人に発言した。そんなことの、それぞれの理由、前提、動機もさまざまにあるかもしれません。

なにか指摘するとしても、ふつうに丁寧に言えばいいのでもあるので、怒ることは、相手への攻撃だということもあるでしょう。自己顕示かもしれません。 そこに常識とか教育とかの拘りがあったのかもしれません。

また怒ることが、あるいは優しくなだめることが、冷静に観察することが、ほかの誰かから良い立派な人に見られるようにという偽善だったのかもしれません。自分で自分のことが知覚できる気がするためにしてる、ということなのかもしれません。

続きます。

No.4151 - 2012/09/07(Fri) 12:59:48

Re: 世界。続。続。 / ubik0101
ただ単に火の始末という危険予防の、こと。かもしれません。またそれは、自分の損得の範囲でのこと、社会、地域の範囲のこと、もあるでしょう。その奥には、 それなりの善に偏っていることがあって、またあるいは事実を変調、意味づけて、怒りや思考が反応したのかもしれません。

このように、タバコのポイ捨てを見て、反応した怒り、思考するということだけでも、含まれてるさまざまな意味が見つかります。これは、おなじことから違う結果を見つけた。のです。

また逆に、たとえば分離とか、損得とか、それなりの善とか、自己顕示とか、偽善とか、実用的な火の用心。それぞれ、おなじ結果から違う原因を・・・自分の行動、発言、思考を・・・見つける。こともできるでしょう。

ここはまた、それまでなにがなんだか自分で意味も判らず、それが有効かも分からず、ただ自分を知りたいという衝動と情熱で続けてきた否定の道の、その踊り場を見つけたようなことで、一息つけるところです。

ここで探究は、特定の個別の前提に縛られる必要がなくなり・・・そうとは意図、意識しないでも・・・結果的に思考とその事態はガチガチに接着されたものではなく、脱着可能であり、その自由度が増します。

続きます。

No.4152 - 2012/09/07(Fri) 13:04:22

Re: 世界。続。続。 / ubik0101
すこし振り返ります。2年ほど前、胸腺腫が見つかり、医師に「何で自分だけがこんな病気になるのか?と、考えるかもしれないけど・・・」と言われました。そう考えないのです。もし、そう考えるとしたら、病気になったことで、その自分がつくられた。

そして、「何で自分だけがこんな病気になるのか?」と思考した、のです。その思考が生じる状況によって、その自分がつくられたその自分が「何で自分だけがこんな病気になるのか?」と思考してるのです。

そこで「何で自分だけがこんな病気になるのか?」の答えは、ほかの原因・・・たとえば普段の行いとか、宿命とか、因果とか・・・探っても見つからないのです。それら思考は、みな空想です。ただ病気になったら治療をする、その他では・・・悩んでも、苦しんでも、平然としても・・・解決しません。

なんでも同じなのですが、どうして自分は不幸なのだろう。どうして評価が低いのだろう?どうして苦しいのだろう。そのような苦しいによってその自分が、あるかのようにつくられてるのだから、ほかのどんな理由を探っても、解決しません。

もちろん病気や仕事は、医学や経済や技術、知識で改善することができるでしょう。でもこれは、いわば外の世界を変えようとしてることで、それができない・・・苦痛・・・ならそのできない、現実においてそのできない自分がつくられる・・・それは依存です。

続きます。

ヘチマ、収穫しました。意外に、ずっしりと重く、皮は弾力があって硬く感じます。

No.4153 - 2012/09/10(Mon) 10:14:32

Re: 世界。続。続。 / ubik0101
そしてまた、たとえば、病気が治った。出世した、幸せになった、楽になった、平穏になった。それだけでは、依然として、その幸せ、楽、平穏を感じるところの・・・現実、世界に依存です。もともとの原因。なぜそう思う、その自分は何?を探究せねば、解決しません。

このようなことは、いわゆる仮の主体、自我にあってでなくては、困難です。その仮の主体を背景、前提、パソコンで言うならOSとして、その上に乗って、その日常の発言、思考がなされているのです。そして自我は、ここで学べるだけのことを徹底して学ぶことができます。

それが可能なのは、つまり言葉、思考が、その根拠とは無関係にも発生する、まるで浮き草のようなことだから・・・思考は、その根拠に切り込めるのです。ワープロソフトがOSを探査するように、自分の状態、事態を見ることができるのです。たとえばあの人は自我が強い、権力欲に囚われてる、偽善だ。卑怯だ。

と言うとき人は、その自我、権力欲、偽善、卑怯、を知りもしないで、定義できてもないのに、言ってるのではないでしょうか。なので、その定義が必要です。自分の言ってる意味を探る、ということです。

続きます。

ピーラーで皮を剥いて、輪切りにしてみました。繊維質ではなく、柔らかく、しっとりしています。そのまま齧ってみました。なんだか初めてなのに懐かしいような新鮮な味です。サラダでもいけるかもしれません。

No.4154 - 2012/09/10(Mon) 10:26:52

Re: 世界。続。続。 / ubik0101
でも、ふつう思考は、表面だけのことであり、根がない浮き草であり、その根拠を、その前提を、まったく知らないのです。ここに重心を置くなら、どんなことを思考しても、発言しても、行動しても、まったく引っ掛かることなく、躓くことなくあります。

これは否定の道を歩いて、ある意味。始めは真っ暗闇だったところから・・・偽善を抜き、嫉妬を抜き、傲慢を抜き・・・赤を抜き、青を抜き、黄色を抜いて・・・行動の、発言の、思考の運動の場が、白く、透明に、なって・・・思考とその事態が脱着可能になり、思考は根拠なく働いて問題がない、とも言えます。

ふつうの生活にあって、実際、どちらにも傾いて思考してるのです。 ただそれが自我にあっては、楽しくても、苦しくても、平穏でも、現実。その自分は世界に依存してつくられる、ということです。

続きます。

フライパンで、サラダオイルと、ベーコンで炒めて。こんぶ出汁(粉末)を振りかけてみました。これはいけます。美味、の範疇です。

No.4155 - 2012/09/10(Mon) 10:40:31

Re: 世界。続。続。 / hato

涼しい風。朝晩の空気がすっかり、ひんやりしていて、強い日差しを薄めるかのような数日です。朝のその時間、うつくしい田圃を見渡すか、かわせみのいる、川添いを走るかを決めます。

ヘチマは、柔らかく、ふにふにと気持ちいい舌触り、やさしい菜です。炒めものや、オイルを使う料理が合います。形もユニーク、素敵です。


出かけた牧場に、小さなポニーがいました。

柵で胸を、掻いています。

No.4156 - 2012/09/10(Mon) 23:01:09

Re: 世界。続。続。 / ubik0101&hato

なんでもいいのですが、たとえば「何で自分だけがこんな病気になるのか?」「どうしてこんなに苦しいのか」「自分とは何?」と思考することで、その思考するその自分がつくられます。

なので、ほかの、あれこれの、どんな理由・・・たとえ人間関係を、善悪を、優劣を、過去を未来を、運命を、因果を、また前世を、また来世を探っても・・・その何かを特定の個別のこととして対象にすることでその自分がつくられるので。その答えはでません。

ただ、その自分・・・仮の主体・・・が、あるかのようにつくられるその仕組みを知ること、で決着します。このことは、つまり、自我に於ける、どんな探究も、どんな疑問も、どんな言葉も、どんな行動も、自分とは何?に収斂する、ということです。これが自我の機能です。

続きます。

ubik0101

中田島砂丘に行きました。日本三大砂丘のひとつ、とのことでしたが、んー、遠州灘のとある海岸との感じでしょうか。ubik0101さんも、日本に砂漠てないてことかな、日本は緑の島だなー・・・

hato

No.4157 - 2012/09/13(Thu) 21:54:48
世界。続。 / ubik0101
その行動、発言、思考によって、その自分がつくられます。それでは、たとえば、善い行動、善い発言、善い思考をすると、その善い自分がつくられます。悪いことをすると、悪い自分がつくられます。これは、依存によって、世界が人を育てようとしてる。とも言えます。

ここで、世界に依存しながら・・・いったん磁石に接近した鉄片が、磁石から離れても微かには磁気を帯びるように・・・ふつうの笑ったり泣いたり学んだり遊んだりの生活で充分であり、善いことをすると人は自然に善の特質を帯びる。とも言えます。

しかし、ここで思考に聞いてみましょう。善悪とは何でしょう。そうです。あれこれ答えるかもしれませんが、なにが善で、悪か、思考は知らないのです。なぜそれがそうなのか。その根拠は曖昧ではないでしょうか。もし知らなければ、世界や人に依存しながら育ってるのは、実際は偽善の特質かもしれません。

あるいは傲慢の特質かもしれません。善悪に隠れた損得かもしれません。というのも人は、これは偽善だと感じながら、偽善するとは限らないのです。偽善と感じないでも、偽善もあるのです。 すこし外れますが、良かれと思って害することもあるのです。

ここで、探究するならば、なにかの思考、たとえば善悪の思考のその前提、設定条件を疑わねば、曖昧なままの判断であり、探究とは言えないのではないでしょうか。それで改めて、その自分の言う、善悪を、優劣を、自由を、あるない、自我・・・意地悪・・・誠実・・・公平・・・を、定義するように努めねばなりません。そこで自分はどうあるのか、その姿勢、態度。日常どうあるか、ということが大切になります。

続きます。

No.4143 - 2012/08/31(Fri) 14:03:40

Re: 世界。続。 / ubik0101
すこし関係ない話をします。この前、ショッピングモールの中の広い通路に並べてあるソファに座っていました。すると、向こうから歩いて来る男性が、自分なのです。ん。どうしたんだろう。年齢、違います。服装、違います。表情、違います。たぶん、性格、違います。

でも、自分なんです。だんだんその男性は近づいてきて、その人が自分だという感じが濃厚になってきます。そして、通り過ぎました。すると、その男性が自分、という感じも消えました。ときに、猫が自分だった、電信柱が自分だった、道で働く労働者が自分だった、という話を聞きます。

それはまあ見えてる何かが自分、と感じるということなのでしょうか。そこで見えてない何かは、自分とは違うのでしょうか。そうだとすると、見えてる聞こえてることによって、自分はつくられるのだから、見えてる何かを自分と感じるのは、当然かも知れません。

そこで空想を逞しくします。世界は自分。総てはひとつ。みんな自分。といったことは当たり前のことで。その対象と、それによってつくられる自分・・・磁石に接近した鉄片のようなことで・・・その磁気の関係の外にはでられない、ということのようです。それはどうも、それだけなら、自我の限界を示してる現象だと思います。

続きます。

No.4144 - 2012/09/01(Sat) 09:13:27

Re: 世界。続。 / ubik0101
話を戻します。けれど依存によって、世界が育てようとしてるのは、いかなる思考でも思想でもありません。善いとか素直とかの、気持、特質でもありません。その、人、そのことです。

それこそが大事です。ここのところは、実は、なにか思考すること、その内容。その範疇のことではなくて。いわば、その思考の、発言の、行動の、運動の場(と、呼んでおきます)、の性質に関わります。

たぶん善悪を思考するとき・・・あらかじめ・・・人は、それなりの善の立場に自分を置いてから始めてる、のではないでしょうか。極端に言えば、戦争、喧嘩してる両者だって・・・それぞれの周囲とは仲良く、悪を避け・・・それなりの、そんな正しさに、ずっと前からいるのです。

そんなそれなりの正しさは、昔からの連綿とした歴史、文化などで変調されて現れたりもするでしょう。それで、その正しさに強固な根拠があるように思わせられることができることもあるのでしょう。

その運動の場、いわばパソコンのOS上、で機能するワープロソフトのように、その思考は派生してるのです。そしてその運動の場を疑いの対象にしないというだけで、その上に乗って、勝手な善悪の思考、発言、行動がなされるのではないでしょうか。 いくらでも正しいという理由は見つかるでしょう。

それは敵が侵略してくるとか、誰かが自分を非難するとか、蔑ろにするとか、誰かが間違ってるとか、誰かが自我が強いとか・・・空想であっても、それが空想と気がつかないということとして・・・その自分は守らねばならないとか・・・それなりの善に立場が、根拠があるのです。

そして世界はそのような空想を事実として・・・戦争・・・喧嘩・・・軋轢・・・も見せてくれる、提供できる、機能があります。どこまでも人のために働いてるのです。

続きます。

No.4145 - 2012/09/02(Sun) 11:49:55

Re: 世界。続。 / ubik0101
そんなことに気がつかないでも、そんな争いの範疇にいて行動、発言、思考するのは、人、としての偏りです。この自然な、透明な、中道な世界にあって、たとえばそれなりの善に偏るという不可能なことを、人はなしとげようとしてるのです。

この偏りを、行動の、発言の、思考の、エネルギーの発生源にしてるのです。それは、なんでもないところからはエネルギーが発生できない、と誤解してるのかも知れません。

くり返します。このような、行動、発言、思考の前提になってる場の偏り、それは誰だって背景に、あるいは微かに、あるいは濃く感じるのですが、ふつうはそれを見えない隠れた前提・・・そうでなく顕わにされるとそれだけでその前提はもしかして正しくないかも知れないという疑いが起こるでしょう・・・にしているので、それに切り込むのは、かなりの努力を要するのが普通です。

そこで社会や世間に立ち向かう、反抗する、あるいは折り合いをつけて、隠れて愚痴を言う、傍観する・・・それで過ごしてしまう人生もあるかもしれません。どうしましょう?簡単です。どのような状態であれ、ただその自分に切り込みさえすればいいのです。思考には、それができるのです。

ここにもこんな偏った愚かな自分を守っていたいという自己保存は働くのですが、それもまた打ち壊すべき壁として役に立ちます。それは・・・衝動、情熱は必要ですが・・・もう世界が、あり得ないほどの偏りさえ用意してくれているし・・・それを探るその努力・・・それだけのことで、済むのです。

続きます。

たぶん、ヘチマの雌花です。実が20cmくらいになると食べ頃だそうです。

No.4146 - 2012/09/02(Sun) 12:50:46

Re: 世界。続。 / ubik0101
たとえば、です。善に偏ってる思考の運動の場それを明るみに出すと、その運動の場が偏りであることが顕わになります。すると、その運動の場に正当性がないことに気がつき、そこで活動してる、自分は正しいと表現しようとしてる思考は正当性を失います。

というより初めから正当性はないのですが、そのことに気がつかないというだけで、正当性があるかのように機能してたというだけですが・・・その思考だけではなく・・・雰囲気・・・たとえば、自分は正しい気持、気分、も消えます。

このことは自分の、主に思考のその基礎、立場を削っていくことであり、否定の道と呼んでいます。自分が自分と見なす自分の基礎が、どんなことであれ、失われていくのですから、これはそう望んだからというわけではなく、それを実際に歩くことで、素直にならざるを得ない道です。これは1人あらねば困難かもしれません。

続きます。

No.4147 - 2012/09/03(Mon) 11:41:52

Re: 世界。続。 / ubik0101
また、たとえば誰かを非難するとします。意地悪だ。卑怯だ。偽善だ。自我だ。そのように思考するならば・・・その意地悪、卑怯、偽善、自我・・・が、まったくこの自分にないのなら、そう思考できるだろうか?つまり、それまで気がついてなくても、思ってもなくても、意地悪、卑怯、偽善、自我な自分かも知れません。 と思考したのです。

このことは、なにかの状態であれば・・・たとえば葛藤があれば葛藤と・・・自我であれば自我と・・・必ず知覚されるはずだ。あるいは知覚されないなら、それはないのだ。という、それまで気がつかなかった、暗黙の前提、偏りの運動の場に切り込んでいることだ、とも言えます。

また。あれは自我だ、と。誰かを批判するなら、そのことによって、その自分がつくられます。その対象になってる、たとえば自我という関係からは外にでてない自分が、あるかのように設定されてしまいます。それで、その逆の誰かを批判しない生き方も生じるかも知れません。が、それは偽善かも知れません。その自分を矯正したのかもしれません。

続きます。

No.4148 - 2012/09/03(Mon) 11:56:35

Re: 世界。続。 / ubik0101
このことは、その言動そのことが、たとえば意地悪、卑怯・・・自我と見なす・・・その思考はその人の事態を現す・・・という特定の前提、条件設定によって、つまり偏りの場にあって、思考が運動、展開されてる。そこに切り込んでることだ、とも言えます。

ここで、思考はその人の事態を現すというだけではなく、その事態を現さない、ということも含めて見るなら、意地悪、卑怯・・・自我だと決めつける、判断する思考に正当性はないはず・・・でも、現す現さない両方あっても不可。善だけでも、悪だけでも、両方あっても不可。さらに探究を要する・・・ここは複雑で、無意識でさえそれは行われるので、うまく言えてるか疑問ですが・・・です。

それは、たとえば食物が食べると消化されて、見えなくなるけど、人の血や肉になったから・・・たとえば香水を着けて慣れると自分では匂わなくなるように、思考は一般化して消えること、や。それが、ほんとうに、ない、から知覚されないのだ。という思考にかからない微妙な違い・・・この日常に、誰に頼ることなく、そのありかたを生きることになります。

続きます。

100円ショップで買ったカゴに乗るチュリルを、横目で見てる、ノンノンです。

No.4149 - 2012/09/03(Mon) 12:21:22

Re: 世界。続。 / hato

ねえ、ノンノン。チュリルと仲良くね。

チュリルはノンちゃんの、友だちになりにきてくれたよ。


秋すこし前の日、知人が つるむらさき、あげる、と言って、苗を二本くれました。根が落ち着くまで水差しに入れて、玄関に置いたのを眺め、七日後の昨日、ubik0101さんが、庭に植えてくれました。知人はその後、摘み採った葉を一掴みくれたので、鶏がらスープと、刻んだニンニクと一緒に炒めたつるむらさきを、美味しく頂きました。

つるむらさきには、紫の茎と、緑の茎のタイプがあるそうです。緑の茎のが美味しいよ、ということで、緑の茎のつるむらさきです。

No.4150 - 2012/09/03(Mon) 23:05:50
世界。 / ubik0101
なにかを思考しようとするのですが、思考する前に思考が打ち消されてしまうのを感じます。そこに世界が現前・・・見たり聞いたり・・・歩いたり・・・それでまったく問題が生じず安定して楽で。どうも、そういうことが日常の機能としてあるようです。

それがなぜそうなのか思考しようとしても、なかなか困難です。が、それは世界が対象でない、からかもしれません。たとえば意識には、その対象としての限定された内容が付き物で・・・それを思考と呼ぶとして・・・その内容は仮に世界から切り取ったこととして、生起するようです。

なんでもいいのですが、たとえば花と蜂。それぞれの関係を考えるということは。すでに花と蜂を世界から切り取って、特定の個別のこととして、関係を探ってるのではないでしょうか。その、花と蜂は、空想です。実際の、花と蜂ではないのです。それが実際の花と蜂ではないから、なんであれ関係が思考できるのではないでしょうか。

続きます。

No.4132 - 2012/08/18(Sat) 10:56:25

Re: 世界。 / ubik0101
それでも思考は実情に合っているように感じるかもしれません。思考は空想だとしても、実際には、花の蜜を蜂が求めて受粉する、のです。これは事実でしょうか?このこれも、特定の個別のこととしての空想ではないでしょうか。

ここは、思考のないところでは、つまりそれを対象にしないところでは、花と蜂は、そのような事実の関係にある・・・と、思考する前、空想するその前に、事実が曖昧なまま前提にされてるかもしれません。

どうやら、ここは混沌としていて。思考は、対象にして切り取った空想と、そうでない事実を識別する機能がないことにおいて成立しているのではないでしょうか。

おおまかに言って、思考は空想です。そして対象とするということは、こっちと、あっち、なにか特定の個別のもの、こととの距離があるのではないでしょうか。そこに気がつかないと、ことさら空想と事実の区別は、ないがしろにされる傾向にあるようです。

ところで。その、特定の個別のという意味での、内容がない意識・・・なにかを対象にしない・・・距離がない・・・あるいは内容だけで意識がない・・・それを、ほかに言いようがなく、日常と呼びます。

その日常ということは、対象としての思考ができず、人は誰も同じだからとか、誰も違うからとかいうことも生じないので。もともと表現して伝えられることではないのかもしれません。けど、そこを無理を承知で、探ってみようと思います。

というのは、世界を対象にできない、この日常。これで楽なのですが、これがどうも、そのままだと地球の重力圏というか、それを突破できないように罠としても働いてもいるようなのです。

そいえば詳しくは知りませんが東山寺、せったん和尚が・・・200パーセント元の木阿弥・・・とか言ってたようです。100パーセントの天真爛漫、知覚からの直接行動、それじゃ足りないんだよ。という真意があったのかもしれません。

続きます。

No.4133 - 2012/08/18(Sat) 12:23:58

Re: 世界。 / hato

夜、外に出てみると、もう空気がひやりと肌に涼しいのに驚きます。

夏の終わりの星空を見ようと外に出て、ライトを消して、暗いなかを見上げると、大きな杉の木の背後に満天の星星の、数え切れない小さな粒が、薄い光を放っていました。

天の川の粒子が微かに広がるのを、頭上にじっと見ていると

ふくろうがギャオ・・・と鳴いてどこかにいきました。


そのとき世界は

まったく自然の様相を繰り広げており

これに、この感覚器官に触れないところの泉から

見ることと言葉は起きていて

生は個々の事象や問題に

まったく携わりながらかかわらず

その星空に、

見ることは初秋夜半の風のように

涼やかに

過ぎるようです。

No.4134 - 2012/08/19(Sun) 23:11:12

Re: 世界。 / ubik0101
ところで、世界から切り取った特定の個別のとある、もの、こととして・・・花と蜂であれ、人間関係、噂話であれ・・・思考されてるのです。これは実は空想ですが、特定の個別のことだからという理由で、事実として見なされているのではないでしょうか。

そんなことができるのは、思考には思考と事実の区別は備わってはないからです。が、それは、いつも思考は、ここにないこととして思考してる。思考対象との距離があることに気がつくだけで、気がつきます。

ちょい余談ですが。たとえば誰かから、褒められたり卑下されたり無視されたりしたとします。その誰かの言動の真意を探る・・・それは歩きながら寝ながら仲間と談笑しながら憤慨しながら1人悩みながら・・・ここに実際にない関係を空想してるのです。

それもいいでしょう。けど、この自分が、どうしてたとえば卑下されたと感じるのか、どのようにそれから逃げてるか、その自分の奥を探らねば、ここに実際にある、空想でない探究は始まりようがないのではないでしょうか。そして、たったそれだけですむようになっています。

話を戻します。この知覚できない自分、そして見たり触ったり聞いたりできる・・・鳥や樹や時計や親や他の人。観念。概念。これを特定の個別の対象として見なすならば、こっちの知覚されないことと、あっちの知覚されることに距離があって、そうとは気がついてなくても、世界との分離とも言えるでしょう。

続きます。

ジャリ道に、庭のダイカンドラが、こぼれ繁っています。

No.4135 - 2012/08/20(Mon) 10:59:33

Re: 世界。 / ubik0101
そこで、なにかを、たとえば鳥や樹や時計や親やほかの人を対象として見聞きすることによって・・・予め・・・まるで時間線を遡って。見聞きする主体が初めからあったかのように、僕、私、俺が、特定の個別のこととして、仮に構築されるのです。

それは、この見聞きする主体がなければ、見聞きすることはできないという、とても当然で理論的なことを背景にしています。けど、それは誤りです。なにか特定の個別の主体があれば、見聞きできないのです。見聞きすることは、その中心が、どんなことでも何でもないので、見聞きができるのです。

くり返します。なにかを見聞きすることで構築される仮の主体、僕、私、俺と呼ばれる自分。これはまず初めに、その主体があって、なにかを見聞きするのではありません。見聞きされることで、そんな関係、虚構としての僕、私、俺。そんなこととしての、あなた、君、わたし達が、仮定されるのです。

けど、これは、そもそも自分よりも世界が先立って、ある、です。そうとは気がついてなくても、そうと夢にも思わないでも、世界に依存してる状態です。たぶんこれは過去・・・古生代も・・・明治も大正も昭和もあった。世界は自分が生まれる前からある、死んだ後にも未来はある。という雰囲気にあるのではないでしょうか。

続きます。

桜の木の下に置かれた、屁糞葛の絡まる白い椅子です。

No.4136 - 2012/08/20(Mon) 11:21:04

Re: 世界。 / ubik0101
これは、たとえば自分が山に登る、のではないです。自分が書を読む、ではないです。自分が泳ぐ、ではないです。まったくの逆です。山に登ったのが、その自分です。書を読むことでその自分がつくられた、です。泳いだ、そのことに反応してつくられたのが、その自分です。

これは磁石に接近した鉄片が、磁気を帯びるように。そうと気がつく気がつかないに無関係に。世界に、まったく依存しています。その世界は、おそらく時間的にも、空間的にも、始まりも終わりもなく無限、と感じられるかもしれません。それは重いのです。

そのような雰囲気で、一般的にも、山に登ったり、書を読んだり、遊んだり、怒ったり、仕事をしたりして経験を積んでるその経歴で自分がつくられてる、と言うのです。

このようになんだかの経験に、見たこと聞いたことに、思考に、自分はつくってもらってるのです。 なのに人は、まず自分があって、なにかをしてると思い違う・・・それは顛倒、倒錯・・・です。

そこで、それらなんだかの見たこと聞いたこと、感情、思考、行動、経験を、誰かから蔑ろにされると。そのことによってできる自分が傷ついたと勘違いもできるでしょう。・・・なんだかつまんない説明の連続です。けど、ここも総てを見なくてはなりません・・・。それは大雑把な表現では、自分の経験に同一化してる、とも言えます。しかし、なにに、なにが同一化してる、というのでしょう。

なにかを対象にすることによって、あるかのように生じる仮の主体。それは虚構であり、生じてもいないのですが・・・その対象になってる経験などが蔑ろにされることで、その自分の発生する原因が傷がつき・・・それから派生してるその自分が傷つくと感じる、のではないでしょうか。 その傷つく、ということ、その、ないことにさえ耐えられない、なにもないことに恐れることもあり得るでしょう。

続きます。

No.4137 - 2012/08/23(Thu) 15:09:02

Re: 世界。 / ubik0101
これはそうと意識してなくても、ほかの人、また人一般への依存です。それから派生して、ほとんど自動で、ほかの誰かの意見に反対する、追従するということも起こったりします。そこでは人は、そうとまったく気がついてなくても、その仮の自分がつくられる虚構の範疇にしか、いないのです。

その虚構を、堅い構造であるかのように支える材料として、見たり触ったり聞いたりだけではなく、喜怒哀楽、不安。心配。さらに、 思考、行動。性別、年齢、家柄、地位、名誉、学歴、知識、そして優劣、損得、善悪などの概念、観念など、ありとあらゆる、もの、ことが使われます。

よく言われるようには、思考だけが問題ではありません。それは、あっちとこっちという空間的な距離。また時間的な距離に依って可能になっていて、その対象は選びません。

そして、それら知覚、感情、思考、行動、概念、観念は実際は。自分という、あるいは自他の区別という虚構を支える材料としては、これでしかないということでの個別性がなく・・・そもそも虚構であり・・・根拠として役には立たないのです。

けど、対象になるどれをとってもその仮の主体をつくりだす・・・かのように見えるので・・・支離滅裂に転々と対象を変えながら、その虚構が、確かな構造として成立してるように思わされる。そんな傾向にあります。そして、たとえばこのような説明ができるということは。思考が、その人の事態とは無関係ということを示します。

ここで、たとえば、ですけど。自分は、ない、と言うならば。その、ない、という思考、表現と、ない、という事態が一致してるかを検証。ある、と言うならば、おなじように検証。そして、ない、ある、という意味を正確に定義しようと努めねばなりません。でなければ、ある、ない、の無知に乗って、あるないと思考、発言、してるのです。このように探究が展開していくのは必然ではないでしょうか。

続きます。

No.4138 - 2012/08/23(Thu) 15:27:14

Re: 世界。 / ubik0101

なんて巨大!でも意外にみずみずしい、

つぶつぶ光って健康な、とてもきれいな苦瓜です。


体長35センチ強。明日、知人にお裾分けします。

No.4139 - 2012/08/25(Sat) 21:44:16

Re: 世界。 / 彷徨
ビター、コーヒーゼリーにもメープルシロップ入れてしまう、僕には…、よし、勝手な理由で好きになって見よう。苦いは苦手、苦手は得意、ではなく、苦いは苦い。味覚は味覚。
その裏で甘いが好きな自分は苦いのが平気な人は大人を演じてる、本当は我慢してると、嘲るから、
甘いが、好きな自分は、子供心、とか素直とか、まあ、こんな感じの優越感ですか。
続、楽しみです。

No.4140 - 2012/08/25(Sat) 23:36:10

Re: 世界。 / ubik0101
たとえば、ふと。しょぱい塩と、甘い砂糖は、逆の味なんだろうか?さらに、酸っぱいとの、辛いとの、その関係はどうなってる?ということに気がついて。そーだ、たとえば慈しみと憎しみは。楽しさと苦しさは。好きと嫌いは、対になった、逆の感情ではないのだ。

もしそれが対として固定されてるなら、どうして、いろんな感情を感じることができる?つまり対になってると思うのは人の味覚や感情に対する、印象。変調。概念。と考えたことがあります。

このように味覚ということからも、そこから人それぞれの意味を汲み取ることができて。それを勝手に人が意味をつけるだけで、はじめから、もの、ことは無意味だと見なしてはしょーもない・・・無意味と言うならば、無意味ということを定義するように努めればいいのです。

とか・・・そんな思考も食物のように消化されて見えなくなって。見えないから機能してないわけではない、とか。結果的にはそんな思考の内容もですが、そんな思考の運動をしたことが大事だ。と了解される、です。

No.4141 - 2012/08/26(Sun) 09:51:56

Re: 世界。 / hato

森羅万象。

鳥が鳴き・・・魚が泳ぎ・・・流れる風に、雲間の日。

限りなく、並び連なる一切その万象に、まったく近く、同化しない、興味と言い難いところの見ることに、けれど、貶めることないその世界は、まったく、畏怖そのものなのにいとおしい、小さな、なにかで、その風は、

つい瞬くときに、去ってしまって残る、永遠です。


すこし遠出して、あたりを見渡すと、夏の終わりの風景が広がっていました。

つい最近、田植えをしてるところを見かけたはずが、もう収穫してる家もあり、はやいはやい。稲穂は黄金いろ、たわわに豊かに、実っています。

No.4142 - 2012/08/29(Wed) 22:39:47
知恵について / 彷徨
こんにちは愚か者です!
ジョーストラマーの言葉に
『月に届かなくても手を伸ばせ』とあります。っで実際にやってみます。僕は月には手を伸ばしても届かない事を見ました。これは知恵ですか?

No.4117 - 2012/08/01(Wed) 06:39:03

Re: 知恵について / ubik0101
ジョーストラマーって、初めて聞いた名前です。もしかして、どんなことをしても手は月には届かないけど、掴もうと努力すれば、たとえ虚空を掴んだとしても。その、その掴もうとしてる、その自分を学ぶことになる。ということを言ってるのでしょうか。

その月とは、自分を知る、その喩えでしたら、たしかに『月に届かなくても手を伸ばせ』です。これは最初から諦めてて、そのことにさえ気がつかないので不満も感じないで一生を終わるかも知れない、そんな人に対して、頑張れ。やるだけのことはあるぞ。と言ってるようにも思えます。

また、それが月だとしても、星だとしても、花だとしても、真理だと思われることだとしても・・・あくまで例えばですが、自分が自分に落ち着くとか、決着するとか・・・野の花を見よ、空の鳥を見よ・・・とか・・・一つとか二つとか三つととか・・・何かを掴んで、そんな何か掴めばすむようなもんではないんだよ。という意味もあるかも知れません。

この普通の、泣いたり笑ったりの日常。この世界。それが月に伸ばす手、月そのこと。そうだとすると、もうすでに月なので、月を掴むことはできない、それが『僕は月には手を伸ばしても届かない事を見ました』という意味でしょうか?ふつうの日常、この世界は、すでに掴むも掴まないもなく、そう、なのです。が、さて。これをどうしましょう?

No.4118 - 2012/08/01(Wed) 08:43:02

Re: 知恵について / 彷徨
月は手を伸ばしても届かないんだという認識は知識ですか。
手を伸ばした自分『身体』が前提にされて月は自分という認識はありません。
例えの話で始めから諦めない事だと自分が初めて聞いた時は思ってました、が、月を掴めない事を知らなかったら、掴めないという認識が恵みなのかな?と思い。
これは知恵ですか?と聞いてみました。
既知、未知と混合して書き込んだと後になってふわふわと違和感を感じました
あっ!知識は知るとは呼べないですね。

No.4119 - 2012/08/01(Wed) 11:31:10

Re: 知恵について / ubik0101
この世界(を取り敢えず既知の領域と呼ぶとしても)そこでジタバタやって、月(を未知の領域と呼ぶとしても)それを掴めるのです。すると、どんなことだって既知と未知の領域にない未知・・・いかなる既知も未知・・・です。

どうしたって、空の月を掴もうとして掴めない前提にされてる(既知とされてる)地上の自分の身体、喜び悲しみ、思考、この世界。これ、そもそもが・・・月を掴めば明確に認識できると思いますが・・・(既知、未知の区別がない)未知ではないでしょうか。

No.4120 - 2012/08/01(Wed) 14:35:50

Re: 知恵について / hato

窓に入る月明かりに目をやると、今宵はうつくしい満月です。

夜風が涼しく吹いて、夏盛りの満月は、くっきりとした輪郭が鮮やかです。

身体やすめに、今日はほど近くの温泉に行きました。まだ人も少ない昼時でしたが、これから、子供たちや家族連れで賑わいそうです。

夏の疲れは、ubik0101さんお手製トマトジュース。

今まで飲んできたトマトジュースにない風味、絶品ではないか・・・と盛り上がってます。

No.4121 - 2012/08/01(Wed) 23:55:44

Re: 知恵について / ubik0101
すこし説明します。

ある意味、自分で自分を知覚できないというのは、ただ事実です。そこにあって、鳥や樹や時計や他の人は知覚できます。それで、それら鳥や樹や他の人は、自分ではない。という認識が生じるのかもしれません。このことが、いわゆる自他との隔たり、分離の原因として機能したりすることもあるでしょう。

これは自分を自覚できないということが愚かさとして機能してるのでしょう。あるいは愚かさがそのような自分を自覚できないこととして現れてるのでしょう。この自分で自分を知覚できない、これこそ諸悪の根元とも言えるのです。自分が知覚できず不明確だから、そのことにも気がつかずに、嘘をついたり、盗んだり、できるのではないでしょうか。

そこで、まあ世間を空想してその眼から自分を見張る、虚構なんだけど自分で自分を見張るということもするのかもしれません。これは端から見ると、自分で自分が分裂して、自分を知覚できるような気がする。自分と自分で闘ってる。どうも人は本能的にそんなことをするようです。これが自我と呼ばれることがあるようです。こんなことに一生を費やすのは。もったいないです。

(これに逆らって、この自分、この自分の奥を探究するということも、可能になっています。そしてまた、自他の境界をなくそう、という方向の探究もないとはいえません)。

続きます。

No.4122 - 2012/08/03(Fri) 12:32:37

Re: 知恵について / ubik0101
まずは、そうとも気がついてもないけど、自分が自分を知覚できない、その愚かさが課題です。(また自分を自覚できないゆえの、自他の区別がない、その愚かさ、幼さもあり得ます)。そうではなく、自我が完成されたことでの、自分を自分では知覚できない。ということもあります。

これはもしかして智慧と呼んでもいいかもしれません。でもこれもまた、自分が自分を知覚できないということは、ただ事実です。でも、これはまず、自分は知覚されるのです。そこから道は始まるのです。ここでは至高体験とか覚醒体験とか呼んでいます。

すこしまとめます。ある意味、愚かさによる分離を利用しながら押し進めて、・・・鳥ではない・・・樹ではない・・・身体ではない・・・感情ではない・・・思考ではない・・・自分はどんなことでもない・・・自分は自分ではない・・・という経緯もあるでしょう。

その逆、自分は自分・・・である・・・思考である・・・感情である、身体である、樹である、鳥である・・・自分は世界である。自分はどんなことでもあるという経緯もあるでしょう。おそらくそう意図するからというわけではなく、そういう経緯を辿るでしょう。

この日常、世界がそいうことを可能にしています。このどちらも良いではあるでしょう。自分はない、も、自分もあるも、自分は総ても、どれも経緯として良いでしょう。ありのまま、という経緯もあるでしょう。

けど、 どれかを採用するということはできません。問題は、自分がどういうことかとか、自覚できるかとか、自覚できないとか、そこにはないのです。これはどうしても、そのことだけでは成立してない、曖昧さがあります。どれかだけでは学びきれてはいません。

どれもが、この世界に生きながら、この世界に依存しない。ここ。焦点は、それを伝統的な仏教用語の意味で話してないかもしれませんが、解脱にあります。

No.4123 - 2012/08/03(Fri) 13:09:52

Re: 知恵について / hato

蜜蜂も賑やかですが、大きめの蜂、よく見かけます。今日は作業中、ubik0101さんが首のうしろあたりを刺されて、病院に行きました。幸い軽い程度で、薬局で軟膏を貰って家で休み、今はときどきしか痛まないようです。田舎の草なかは、要注意です。首にタオルを巻いたり、充分、気をつけていきましょうね。

元気になって、夕飯に、美味しいしゃぶしゃぶを用意してくれました。カットトマトもありました。

ミキサーにかけた、きれいなトマトです。

No.4124 - 2012/08/04(Sat) 22:23:39

(No Subject) / 彷徨
悲哀はもしかして、劣等感が対象にした無知を正当化していると教えていますか?
感情を長い間、無視してました。毒矢の詮索は不要、それを聞き間違って、その毒の内容事、無視してました。
しかも感情が無い、がいない自分の事、いつか堕落を選んだのに、全く機能は怠けるなんてしない。
蜂の毒は未経験です、クマバチが毎年一匹程度ですが、太い羽の音をたてて玄関辺りを横切ります、今風でいうとガクブルです、いやブルガクか、

神経毒に障ったらすいません。

No.4125 - 2012/08/09(Thu) 22:59:32

Re: 知恵について / ubik0101
そうですね。悲哀とは・・・劣等感にまみれて、執着してることに気がついてないで執着してる、ということの信号・・・そんなこともあった。と、思いあたることがあります。

そして、ふつうに暮らしていて悲哀、劣等感を感じないことが、悲哀、劣等感を解決してるわけではないこともあります。また執着してないとも思いもしないで、執着してない、もあります。

そのように。その人が《このような状態》と認識しなくても、《このような状態》であること・・・世界は正確に機能してることに気がつくのは探究者と思います。

たしかに毒矢の喩えは。通常の矢ではなく、たとえ抜いても深く効く毒矢なのですから、苦痛を感じなければいいというわけではない、という含みもあるのでしょう。

たぶんアシナガバチだったのでしょう。子供の頃にも一度、刺されました。神経に沿って走る、瞬間的な電気ショックのようでした。

No.4126 - 2012/08/10(Fri) 12:54:35

Re: 知恵について / hato

お盆の頃ですね。

暑中お見舞いから早、残暑の景色です。

あんな坂、こんな坂、と、小さな車でちょっとした坂を上り、川を見下ろすと、青い宝石、かわせみが飛んでいました。かわせみは車と同じ速度で、ほんのつかの間一緒に走行し、その背は、朝の日差しに青く白く輝き、嬉しくなります。

昨晩、近くでやってる花火を見ようと、母と外に出たら、小さなカエルが、足元から飛び込んできたようでした。しばらくして、部屋で跳んでるのを見つけて、こわくないよ、大丈夫だよ、と話しかけて見やると、床埃がカエルの小さな身体を覆うようにくっついていて。その風情に黒い大きな目が、また可愛い。ティッシュで包むように掴んで、外に出しました。

ここ数日から、鈴虫の声がします。

チュリルが大きくなりました。

No.4127 - 2012/08/12(Sun) 21:58:14

Re: 知恵について / ubik0101
結局。そのまま塩分18パーセントで漬けた、完熟梅干しです。とても意外、ちょどいい塩梅です。辛すぎるということはなく、甘みさえ感じます。しかも2ヶ月も漬けたからでしょうか、とろとろの柔らかさです。減塩にこだわることはない、と思いました。

ネットで見たら、梅干しに土用干しは必須ではないとのこと。重石として使った、念のために2重にして塩を投入したポリ袋の中の水は、さすがに濁っていますが無問題。6月頃、たまにスーパーなどでも完熟梅を売ってることがあるので、みなさんにお勧めします。

No.4128 - 2012/08/14(Tue) 14:43:41

Re: 知恵について / 彷徨
イザヤ書を読んで、ダメージが深刻ですが、チェリルの画像を見た時、普段は無い、『尊い』がいました。何か健気、純真な。
ホワイト、グレーのツートン、足元のオレンジが映える。特に謙る訳じゃ無い、特徴を発見しただけなのに、チェリルが先生みたいです。

で、最近は堕落が進むのです。きっと質問したいけど、答が書いてありそうです、自分で調べてみます。って言う投稿も既にありそうですね。遡るならアインシュタインが言ってた。うん、そんな記憶を『忘れた』事にして、確信犯的、投稿。あっ!『忘れた』さえ、自分を騙している。キリが無いな。独り言みたいになってしまいました。

No.4129 - 2012/08/16(Thu) 23:30:19

Re: 知恵について / 彷徨
チェリル×
チュリル◎失礼しました。二重丸で。

No.4130 - 2012/08/16(Thu) 23:55:59

Re: 知恵について / ubik0101&hato

ちゅりるるる、と鳴くんです。で、チュリルという名前になりました。とても優しい表情をしてて、賢いです。部屋で遊んでるノンノンが鳥籠に入れられると、自分で自分の鳥籠に入ります。

ubik0101

名前、随分考えたのですが、やっぱりチュリルになりました。ほんとにそんな感じで鳴くときがあるんです。もの静かで賢くて、鳥にもいろいろなのね〜と思うんですよ。生まれた頃の環境からか、野性味を残して育ってるので、わたし達が大きいのがどうしても苦手みたいで 。。少々気の毒ですが、こちらの生活に、だいぶ慣れてきました。

hato

ノンノンも、元気ですよ!

No.4131 - 2012/08/17(Fri) 10:25:39
みどりの庭から 夏野菜 / hato
見事な夏野菜です。

ノンちゃんパパの、汗と涙の作品です。茄子は黒光り、胡瓜も大きいのにみずみずしい、青い香りと味がします。赤いトマトはきれいに、こちらもひとつまみ、食べてみると、甘くて、おいしい。

先の台風の塩害で、農家は痛手でしたが、庭の畑は家の裏手にあったので、潮風を逃れました。茄子や胡瓜と、さっそく仕事場の人にお裾分けして、喜んでいただきました。


あわただしい、どこか優雅にひなびた田舎の日。

ひぐらしの鳴く夕方、川沿いを一緒に車で走っていると、川辺に飛ぶ、かわせみを見ました。ubik0101さんが「あ、かわせみ!」と言い、急いでそちらに目をやると、碧い小さな姿が、川辺の緑から、素早く飛び出ていきました。

こうしていると、裏庭のあたりでフクロウが鳴いています。夏の夜に通りがかるのか、毎年この時期になると、ホーホー・・・という声を聞きます。

No.4111 - 2012/07/22(Sun) 19:42:02

Re: みどりの庭から 夏野菜 / イルカ
なんておいしそう!な野菜でしょう。
若い頃は、野菜作りなんて全く興味なかったのに近頃は楽しみになっています。

夫の実家が農家なので、義理の両親にアドレスと言うか、ダメ出しと言うか、色々言われながら作っています(汗)

我が家はスイカが豊作となりました。

No.4112 - 2012/07/22(Sun) 22:56:14

Re: みどりの庭から 夏野菜 / ubik0101&hato

こんにちは。ありがとうございます、ubik0101さんの野菜、ちょっと素敵なんですよ。イルカさんも作っていらっしゃるんですね。スイカの豊作、なんてすてきな!

hato

スイカが豊作とは!かなりの技術、だと思います。この庭でも、姫イワダレ草の中に埋もれるように2株あるのですが、実が大きくなりません。蔓の長さも2mもないくらいだし、今後の課題になっています。

物置で勝手に芽を出した里芋を植えたついでに、八頭、セルベス(赤芽芋)も植えてみました。こちらは葉が大きいというだけで、なんだか嬉しくなってしまいます。

ubik0101

No.4113 - 2012/07/23(Mon) 10:24:17

Re: みどりの庭から 夏野菜 / ubik0101&hato

こちらは牛糞堆肥を多めに鋤き込んで、キュウリ、ゴーヤ、ヘチマを、ごちゃ混ぜに植えてる棚?です。これから摘葉しなければならない?ほど、わさわさ繁っています。

No.4114 - 2012/07/23(Mon) 10:30:14

Re: みどりの庭から 夏野菜 / ubik0101&hato
これは空芯菜(エンサイ)です。切っても切っても、わき芽が出て、10回ほども収穫できるそうです。ニンニクと鶏ガラスープの素で油炒めにすると、パリパリ&シャキシャキの食感が楽しいです。
No.4115 - 2012/07/23(Mon) 10:43:55

Re: みどりの庭から 夏野菜 / ubik0101&hato

ところで、キュウリとプチトマトは。乱切りにして、オリーブオイルをまぶして塩を振るだけ、というのが最近の気に入りです。

No.4116 - 2012/07/23(Mon) 10:47:56
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