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みどりの庭から / hato

朝、起きると、今日はゆっくり時間が流れる予感がします。

ubik0101さんと、窓を拭いて、床を掃いて、掃除に励む午前中。

ふいに涼しい風が、さっと吹き込む窓に乗り出して、何気なく見上げると、その光景に涙が込み上げました。

「ね、ね、もう、行くみたい!」

急いでubik0101さんに声かけ、一緒に見守りました。

数十から・・・百羽近くいたでしょうか。本当に大勢のツバメ達です。ちょうど庭の上空で、旅立ち前のデモンストレーションか、あるいは夏場を過ごした地に挨拶するかのように、別れを惜しむように、あるいはまるで楽しそうに、でもたしかに、緊張が伝わる風情で勇敢に舞い踊っているのです。

No.4190 - 2012/10/17(Wed) 20:37:22

Re: みどりの庭から / hato

大きなツバメたちがよく見えます。先導していくのでしょうか。

10月半ばまでいたのは、皆が準備万端の、よい時を待っていたのかも知れません。

「気をつけてね!頑張ってね!」

何度も何度も、凄い速さで舞い降り、風に乗って上昇する彼らに手を振って、何度も何度も、声かけました。

よい風に乗り

どうか無事に、南国に行き着くように、と祈りました。

No.4191 - 2012/10/17(Wed) 20:39:09
解脱 / ダークブルー
こんばんは。

>どれもが、この世界に生きながら、この世界に依存しない。ここ。焦点は、それを伝統的な仏教用語の意味で話してないかもしれませんが、解脱にあります。

7月の名無しさんの「ホームレスでも安楽でいられますか」という問いについて聞かせてください。

>すこし振り返ります。2年ほど前、胸腺腫が見つかり、医師に「何で自分だけがこんな病気になるのか?と、考えるかもしれないけど・・・」と言われました。そう考えないのです。もし、そう考えるとしたら、病気になったことで、その自分がつくられた。
そして、「何で自分だけがこんな病気になるのか?」と思考した、のです。その思考が生じる状況によって、その自分がつくられたその自分が「何で自分だけがこんな病気になるのか?」と思考してるのです。

空想が入り込まない、というのはわかるのですが・・・・・そして、愚問だとは思うのですが・・・それでも「心配だ」という気持ちにならないものなのでしょうか?

病気になったり、経済的な困難があっても「不安にならない」というのは、根本の問題を解決しているから、不安として沸いてこないということですか。

仏教的には、解脱すると苦から離れる、という説明があったように思いますが、この辺りがわかりません。

私は、本当には世界は分離していない、というのを見た経験があります。
もともと世界はひとつだ、という言い方は「分離」が前提で、その考え方からは、この分離のない世界は導き出せないと思いました。

それを見てから一年経ちますが、苦から離れません。
苦とはなんでしょう。
と、思ったのは、最近、ご近所の騒音に苦しんでいるからです(笑)

No.4179 - 2012/10/12(Fri) 20:40:36

Re: 解脱 / ダークブルー
言葉足らずなので補足なのですが、疑問としては、大きくふたつにわかれるように思います。

1.病気になったり経済的な困難があっても「不安にならない」というのは根本の問題を解決しているから。

2.自己と世界の構造として「苦は自分の構成要素」という理解により依存を解決している。

1.であれば苦そのものが沸いてこないですし、2.であれば、苦痛そのものは感じているけれども問題としていないと読めます。

7月の名無しさんも同じように感じられたのではないかと拝察するのですが(違っていたら申し訳ないのですが)、ご夫妻には、苦というものが実感から遠いように感じられ、それが独特な感じを受けていたのです。

No.4180 - 2012/10/13(Sat) 04:45:04

Re: 解脱 / ubik0101
ちょっと用事のため、たぶん明日、hatoさんと一緒に返信します。
No.4181 - 2012/10/13(Sat) 07:34:30

Re: 解脱 / ダークブルー
ご連絡をありがとうございます。
書いてみて冷静にubik0101さんの一連の投稿を拝見しなおして、たいへん失礼なことを書き込んだと反省していたところです。

私には「苦からの離脱」がすべてでした。
なにも知らずに求めもがいているうちに、自分が「解脱」したいのだとわかってきました。
愛や感謝のような方向付けも欲しくない。

ubik0101さんhatoさんは「自己を知ること」だけを言っておられて、自己を知ることにより苦しみが解消できるかどうかは結果論と言われているように読みました。

結果論というか、おそらくは、どうでもいいこと、というふうに読みました。

けれども、どのように「どうでもいいこと」なのか、腑に落ちません。
腑に落ちないだけです。

こうして、苦に足を取られているうちは解脱はできそうにないですね。

No.4182 - 2012/10/13(Sat) 21:22:46

Re: 解脱 / ubik0101
こんにちは。

もしかして、です。ダークブルーさんの言う苦とは、不安とか、心配とか、嫌悪とか、ではないかもしれません。なんでもない普通の日常の意識状態が苦なのではないでしょうか、と思いました。

つまり「本当には世界は分離していない、というのを見た」こと、そんな完全燃焼がとても素敵な体験として印象に残り、それを対象にしてしまってるその自分の普通の有り様が・・・燃焼してはいても煙が出る不完全燃焼・・・なんだか罪悪感を伴って苦なのかもしれません。

ならば、たとえば楽しく歌を歌って苦を忘れてはいてもその底に、ずっと聞こえてはいなかったにしても、通奏低音のように、苦が持続してることに気がつく、といった様子かもしれません。

そうでなくてもですが・・・ubik0101がそうだったことを話すしかないのですが・・・自分に起きたその体験を理解するほかは、解決はないように思います。そこで苦が、理解の、探究の、原動力です。とても強力な原動力です。

たとえば目の前に御馳走が見えてるということは、食べたいけど、食べてないで苦ということがあるでしょう。でも食べて消化されて、自分の血や肉になると、見えることとしては失われます。けど、それが探究して理解するということです。

そしてまた、あの体験にあって。ほかの人が、この体験に繋がる為になることをしたい、という気持が湧き上がってきたなら、それをしないことが、やはり苦と感じられます。

そんな苦にあって、苦を理解したい、ということならば。ここですることは。その自分を見る。という、それだけと言えば、それだけです。 たとえば、苦がなくなってないなら、それをそのまま認めます。

ある意味ですが、苦がなくなる、というのが間違いかも知れません。そして、その自分は、どんな有り様?これを見る。これはその人がすることなので、ここでubik0101の言うことは空想になりますが・・・苦がなくなるという過剰な期待・・・苦の拒否・・・が、苦。あるいはそれが・・・ゴキブリが出たら嫌でも見てしまう・・・苦に惹きつけられる原因かもしれません。

続きます。

No.4183 - 2012/10/14(Sun) 10:06:29

Re: 解脱 / ubik0101
あるいは苦を問う、そんな自分だということが、辛いながらもその自分を感じることができる状態だということもあるかもしれません。ならそれをそのまま認めます。あるいは苦を問題にしてないときには、苦でもなんでもない、苦を手放してる、その自分をそのまま認めます。そして苦についての思考が起これば、その自分との関係を検証します。

この、そのまま認めることが・・・あの体験の有無に関わらず・・・探究の要で、総てです。あとの展開は、探究が探究を導いてくれるので、注意深く見なければなりませんが、努力を要するとかいうことではないです。もしあればブログや、日記などで、書くことで明確になりやすいと思います。それに打ち込んで、書いたら忘れる、読み返す必要はないです。

これはすでに「・・・というのを見た」その見たことを表現、意識化するということでもあります。ここではそれを、自分の意識に教える、と言っています。そこで、たとえば世界は総ての意味を孕んで無意味、透明とか、ここでいう変調とか、思考とその事態とか、触媒とかを理解する、経緯を歩くかもしれません。こんな探究ほど面白いことは、ほかにないです。

いきなり心配とかをなくす道はなく、未開に分け入る楽しみ、精神の冒険、学ぶことがあるということで、世界は親切なのです。それで、たとえば、あの体験を取り戻そうとしなくても、理解することによって、あの体験は対象としては失われ、いわば血や肉になり、世界と分離してない、が常態になります。

続きます。

No.4184 - 2012/10/14(Sun) 10:08:23

Re: 解脱 / ubik0101
そんな日常には、どこを探しても自我とか無我とかもないです。ひとつとか、非ふたつとかも、ないです。それをそのまま認めます。たぶん「本当には世界は分離していない」は、ここで言う、世界は対象にならないこの日常、のことかもしれません。

その日常で、たとえば優劣感とか、劣等感とか、欲望とか、孤独感とか、悔しさとか、感じなくなっています。ほかの誰かが言った、書いた、劣等感、とかの言葉を見て。あーそうだ、そんなのなくなってた。

そいえば、そんなことも忘れてた。どこ行ったんだろう?と軽く驚くような感じです。感じなくなったことにも気がついてないことがあるのです。それは自分がどうだで解決できることだからかもしれません。

それと、ほかの人に対する心配とかが、庭作業するといったほどの意味で、面倒、苦ではないのです。心配は心配で、苦とは思わないだけかもしれませんが、心配をすることが面倒、手間がかかるという理由で心配を避けないです。もしかしてですが、心配とかを避けようとすると、ほかのあれこれにすがって、思考は飛び火して、その関係に巻き込まれ、苦と感じるかも知れません。

そして自分の病気とかだと、対人関係の問題とかだと、いくら心配しても、不安になっても、平然としていても、笑っても治りません。そいうことは効果がなく、病気という事態を治療する、対人関係という事態を修復することでしか、変わりません。

そこで、もし不安でも、心配しても、無意味で、そのことがほかのことに結びつかないのです。 心配したら、心配だけ。といっても強い心配はできないのですが、心配しては問題、ということもないです。なので、心配しても問題ないというのも、ことさらないのです。

続きます。

No.4185 - 2012/10/14(Sun) 10:10:24

Re: 解脱 / ubik0101
いつも言いますが、心配も、不安も、それがなんであるか知らないのです。そいうところが日常です。まあ、超意識なら、心配、不安もありようがなく、 死も問題ではありませんが・・・愛の放射される源、実在に向かって帰る・・・そこを持ち出す必要もありません、日常のことを話しています。

どこから来てどこに行くのか?死んだらどうなる?輪廻?とかの疑問は。なにか自分はとあるもの、ということを。あるいは、この世界、それを知ってるということを前提として、疑問になるのではないでしょうか。けど、自分。ここ、この世界が、どこなのかも知らないのです。

それで、どうでもいいと言うか・・・そこで心配とか不安が、死を考えても感じられない、というところです。こんなことを話してると、でも死ぬのは嫌だなあ、と身体は呟いているのが聞こえます。

ところで騒音も、たとえば聞き耳たてて、うるさい、うるさい、と嫌がってるとか。ほかの人に迷惑をかけてる無神経さ、自己顕示が嫌とか。おなじくらいのラジオの音量でも、近所の家のは騒音、自分の家のは平気、とかの心理的な範囲ではない騒がしさなら、自分が平穏なら済むということではないので、病気のように、その騒がしさそのことを解決しなければ。いくら心理的な思考を探っても、解決しないと思います。

それから・・・失礼、ということはありません。こちらのほうが長文大失礼。ubik0101の言うことは、ただ眼だけが読む感じで、とくに意味を汲みながら読む必要はありません。聞き流せば大丈夫です。そして、くり返しますが、ふつうのなんでもない自分の日常を、そのまま認めることが探究の要で、総てです。

No.4186 - 2012/10/14(Sun) 10:11:47

Re: 解脱 / hato

ダークブルーさん、こんにちは。今日は、祭りも終わったあとの週末。仕事もやっと一段落で、掃除でもしよかな、と思ってます。ご連絡ありがとうございます。

わたしは以前騒音のことで、お隣さんと、大変な時期がありました。数年かけて、自分を見たり、案を練って手紙を書いてみたり、とても腐心しました。そうしてる自分の問題かも知れないと、ダークブルーさんのように耐えながら、とても考えました。それで、結局、その音はおそらく、結構なものだったのですが、とある夜中、それが鳴ったとき、窓を開けて隣人に向かって一瞬、大きな声で叫んだんです。「うるさいよっ」。隣人は慌てて、その音を止めました。それから、その音はしなくなりました。

彼らは怖かったのでしょうか。或いは、世間体を気にしたでしょうか。個別の意味では、それぞれに学びがあるとして。自分にはその時点で、音が気になるその事態を見尽くして尚、できることをしました。

悩むときは、相手のこと、自分のこととして、なにか考えるかも知れません。その上でお互いにとっていい方向を、と思うでしょう。でも叫んだその瞬間は、対処そのものだったのかも知れません。その事態ははいいとも、わるいもないとして、そういう表現があるとして、世界に伝わったのかも知れません。

どうしたって、人はひとつともふたつとも、どうともいえないところ・・・として、なので時に、それぞれの事情でしょう。それは、別にある、とも別にない、とも言えないところの事情です。なにもないことも・・・或いは苦痛にあることも、あるとして・・・そして、生きる上で都度、意識され、対処することが起きることは、それはとてもとても面倒なこととして

ダークブルーさんが言われたように、そのこととして苦にしない・・苦にできない・・・それを、苦から離れる、と言うことができます。たとえば、幻想をむやみに作り出さないことは、その意味での、毒矢がどこから来るかを、詮索できない、こと。詮索してる、まやかしの力は、幻想です。幻想に迷うことは苦であり、それを作り出すのは、幻想の自己であり、そこに喜びを見出して気付くことがないことを、苦といいます。

人生はいつも、安易に楽ちんなどということは、できません。でも、どうしたわけか、だいじょうぶ、です。

さまざな機微があり、それぞれの道なりと思いますが、

きっと、大丈夫です。

No.4187 - 2012/10/14(Sun) 10:21:15

Re: 解脱 / ダークブルー
ご返信をありがとうございます。

>ほかの人に迷惑をかけてる無神経さ、自己顕示が嫌とか。おなじくらいのラジオの音量でも、近所の家のは騒音、自分の家のは平気、とかの心理的な範囲

ubik0101さんは千里眼ですね。
実際にそんなことをいくつも考えました。
少しは心が軽くなったところで、また大音量に一撃されたりして、なんといっても現実はインパクトがあります。

「本当には世界は分離していない」というのは、書きながら自分の内面を探っているときに経験したものです。
あれやこれ、あの人この人、と当たり前に感じている普段の生活がぐにゃりと曲がって、本当には、あれもこれも、あの人もこの人もなかった、なかった、ということが理解されました。
根源的にとか別の世界の話ではなく、この日常の中の存在が「他のもの」でなくなって「すべて私。イエスも釈迦も、この私だった」と思いました。
神や大我のような存在になったということもなく、この自我が、そのままの自分をそういう存在だと認識しました。
あまりにそれが当たり前の世界に、普段自分の見ている分離の世界のほうが幻覚に違いない、とさえ思いました。

そのときは「他人はいない、というのはこういう意味なのか」と思いましたが通常の意識状態に戻ると「経験」の記憶はあるのですが実感は失われて、どうやっても「他人はいない」と思えませんでした。
ただ、自分が自分を認識するように、他の人も自分を自分と認識するなら、私であっても他の人であっても、そこに差異はないと思うようになりました。

けれども「すべては自分」と思う経験があっても、世界はなにも動かない。
そのぶんだけ生きやすくなったとか楽になったということは、ほとんどなくて、騒音ひとつで取り乱します。

以前と違うことがあるとしたら、この世界がなんとも表現できないものになったということです。
もどかしくて困ってしまうのですが、表現しようとして言葉をひとつ選ぶと、それからはみ出して溢れてしまう。
ですから以前ご返信で「どういっても上手く言い得ませんが」と書いていただいたとき、あ、はみ出している、と思って少し嬉しくなってました。

はみ出しまくっている世界だから、苦しくてもいいかと思いました。
自分が苦をいやがっているだけで、苦しいのも十分に「アリ」なのだと、ご返信を見てわかりました。

hatoさん。
騒音に悩まれたエピソードをありがとうございます。

窓を開けて隣人さんに叫ばれたエピソードは、どこか豪快感があっておかしみがありますけど、それに至る経緯やご心情を慮るに涙が出そうです。
同じように悩まれたというお話は励みになります。

人生はいつも楽ちんというわけにはいかない、というのも、本当ですね。
きっと大丈夫だと思いますが、大丈夫でなくなったときは、それが現実になるので案外大丈夫とも聞きます。
言われるとおり幻想が一番怖いのかもしれません。

めげたり他のことに巻き込まれて「自分は何だろうか」という問いに戻っていくのが難しいとき、こちらのサイトに伺います。
いつもお二人の姿勢に触発されます。
感謝です。

No.4188 - 2012/10/15(Mon) 00:06:23

Re: 解脱 / ubik0101&hato

まるで自分が体験してるように、読ませてもらいました。それはもしかして、ここで世界の総活動、縁起と呼んでることかな、と思います。そして人によっては、そのことを、真の自分とすることもあるようです。

「あの人もこの人もなかった、なかった、」とは、特定の個別のこととしては、いない、それは分離がない有り様で、だから「すべて私。イエスも釈迦も、この私だった」。 という意味なのでしょうか。

たしかに素材としては、みんな世界という一緒の絵の具で、ここで言う自己は、それで描かれた、そこから醸しだされる絵。泥沼に咲いた蓮華、という感じです。それは、 この世界でなくあると感じるのは、かなりの苦痛でした。

でも、ふつうの日常、自我も無我も自己も区別がなくなって・・・そのせいか、自己について、ある、ない・・・また様々な意見があっても、それはそれ、と気にならなくなっています。でも、あるないの探究は、知覚と対象について・・などの意味で、とても役に立ちました。。

どんなこととも、自分は言えないので、笑ったり怒ったり思考したりの普通の生活で、問題ないでしょう。また、この現実は、もし自分を知ったら、心理的な騒音も、物理的な騒音もないというのでは・・・それを実現してる人もいるとして・・・ちょっと堅苦しいかなとも思うけど、

それも、それはそれです。

No.4189 - 2012/10/15(Mon) 21:48:34
世界。続。続。続。 / ubik0101
つまり、自我は自我を了解すべくして、見破るべくして、完成すべくして、機能してるということです。そのために、あらゆることが活動しています。たとえば小さな木の芽が成長するためには全世界が働くことが必要で、そのように世界が働いています。

くり返しますが、その自我の仕組みは、次のようです。 このことは、それを見る、それを聞く、というよりも。それが、それを自ら開示する、ことです。しかし、それは思考され得て。このように言葉として、そのままを表現できます。

《そこで、なにかを、たとえば鳥や樹や時計や親やほかの人を対象として見聞きすることによって・・・予め・・・まるで時間線を遡って。見聞きする主体が初めからあったかのように、僕、私、俺が、特定の個別のこととして、仮に構築されるのです 》。

この関係から外れるにはどうすればいいいでしょう。それは・・・その対象である世界が消えればいいのです。あるいは自分が、ない、ならいいのです。

あるいは、なにか対象と完全に同一化すれば。あるいは、まったくどんなこととも同一化しなければ・・・どちらにしても対象との空間の関係ができず・・・いいのです。あるいはこの今にあれば・・・時間の関係ができず・・・いいのです。

あるいは、ありとあらゆる、もの、こと森羅万象が総て活動すれば、いいのです。そこで、なにか特定の個別のもの、こととの関係を凌駕するのです。これはここでは縁起、世界の総活動、あるいは中道、と呼んでいます。

続きます。

お隣さんが自分の家の、お茶の垣根からこぼれた種から芽生えた苗をくれました。しばらくは植木鉢で、大きくなったら庭植えにするつもりです。

No.4158 - 2012/09/15(Sat) 09:38:03

Re: 世界。続。続。続。 / ubik0101
あるいは、なにかを対象にすることによって、その自分が、つくられなければ、いいのです。たとえば子供の頃はつまらないことにも気になって執着させられていたかも知れません。ニキビ、髪の癖とか、つむじの巻き方とか、それにまつわる自尊心とか、劣等感とか・・・でも大人になるとその事態は同じでも、そんなことには執着させられなくなります。

たとえば噂話、それにまつわる友達関係、スポーツ、勉強、服装、趣味、食事、嗜好・・・それにまつわる苦痛や快楽の心理的依存・・・そいうことから自然に卒業する。つまり、たとえば社会に生きて、おなじ雰囲気に暮らしても・・・ほかに興味が移った、そいうことを忘れた、というのは別問題ですが・・・執着してる主体がつくられなくなります。これは変化としては意識できないこともあるでしょう。というより意識の範疇で起こらないこともあります。それは自我を解決しないで、その範疇でも起こります。

それは、いわゆる平穏で、これといったことでない幸せ感をもたらせたりもするでしょう。けど。そんな平穏、安楽を求めたり、基準にしたりする必要はありません。なんか束縛の苦しさが解放の楽を求めた、その範囲のことなのかもしれません。

あるいは、たとえば誰か賢者と見なされるイメージを追って、平穏、安楽という見える結果を求めてるだけ、かもしれません。それは自分を知ることの(変な言い方)副作用、そのイメージとしての結果を、努力を省いて先に求めてるということもあり得ます。

続きます。

No.4159 - 2012/09/17(Mon) 10:43:12

Re: 世界。続。続。続。 / ubik0101
そのように、副作用、結果だけを求めては、探究ではなくて、単なる稽古事です。自分を知ったら安楽、平穏だ。というのは、イメージです。いや。逆に、平穏、安楽なら、自分を知った、とはならないのです。

あくまで、自分とは何?を解明しなければ、それは対症療法に終わります。それで一生すごせても、それは依然として、平和な、平穏な、安楽な自分・・・がつくられてる・・・どこか見えないところに苦痛を隠し持ってる、わきにどけてる・・・その苦楽の有無は基準になりませんが・・・自我の範疇、ということもあり得ます。

ところで、自我の仕組みですが、それはとても危うい関係です。かなりの無理をして、ほとんど不可能な偏りによって、あっちとこっちに分裂して、やっと仮につくられているだけです。自我の仕組みは、この瞬間、この瞬間に壊滅しているのです。そんな仮の主体、そんなもの、始めからありようがないのです。

ただそれは、その仕組みを、自我は自我を了解すべくして、見破るべくして、完成すべくして、機能してるということです。それは意味なくそうなのではありません。たとえば否定の道を歩いて、嫉妬の、偽善の、優越感の、劣等感の前提に切り込んで、消していく・・・そんなことができるのは。

なにか思考する、発言する、行動することに隠れた前提がある自我にあってでなくては困難なことです。それは安楽、平穏ではなく、この世界が、意識の範疇にない、ない、から、意識の範疇にない、ある、つまり自己、をつくろうとしてる、ことだと言えます。自我にはその機能があるので、それを働かせないのは、自我はただなくなればいいというのでは、自我を充分に活用してはいません。

続きます。

No.4160 - 2012/09/17(Mon) 10:46:25

Re: 世界。続。続。続。 / ubik0101
もし平穏、安楽などの副作用、結果だけを求めるなら、簡単です。1人あるなら、ただ世界を見ればいいのです。どうでしょう。部屋ではカーテンや壁とかで視界は限られますが・・・その色彩に満ちた部屋の空間・・・それが自分ではないでしょうか。その空間と自分、素通しではないでしょうか。その空間は洪水のごとく・・・わが胸に及び・・・です。

さらに窓から世界を見ます。そこ・・・世界と自分、素通しではないでしょうか。これは美しいのです。あるいは鳥の声、虫の音、風の音を聞いてるだけでいいのです。どうでしょう。音は、どこか外からではなく、自分の中心が響いてはいないでしょうか。これは静か、なのです。

ここには自我も、無我も、ひとつも、ふたつも、みっつも、非ふたつも、分離も融合もなく、今も、過去も、未来も、ありません。こういうことは意識をとある特定の、個別のもの、ことに向けないということ、それだけです。とりあえずは世界がそこまでは誰もに準備してくれています。

続きます。

No.4161 - 2012/09/17(Mon) 10:48:56

Re: 世界。続。続。続。 / hato

雨が降ったり止んだりした昨晩から、ゆっくりした時を過ごしました。今日は銀行や、いつもの店に買出し、散歩などしました。とくになにかないときは、殆どふたりで過ごします。

その風景は、もし、仕組みが了解されていないとき、本当には、見ることができないかも知れません。虚構の自我に陥ってるとき、人は、しずかにあることはできないからです。

けれど、この世界。それは人に、あらゆる事象とともに言葉という、不思議の国の杖を与え、闇夜に浮かぶ、真昼の夢を与え続けるかのようです。


初秋の海は、浜松です。

No.4162 - 2012/09/19(Wed) 21:16:01

Re: 世界。続。続。続。 / ubik0101
ところで、自分の事態を定義してみたでしょうか。なんでもいいのですが、優越感。劣等感。依存。葛藤。嫉妬。偽善。善悪。どうでしょう。それをよく見て、できるだけその仕組みの正確な記述をしたとして。

たとえば優越感とは・・・で・・・・で・・・でその自分とは・・・で。それから解放された。とかと定義したとします。では 、なぜそれが、そうなのか、解るでしょうか?知ってるでしょうか?

たとえば、です。まず自分が先立ってあってそれが、思考し、発言し、行動するのではありません。思考し、発言し、行動することによって、その自分が、予め・・・あたかも時間線を遡って・・・あるかのように仮定されます。これが、ここで言う、自我の仕組みです。けど。

なぜこれは、こうなんでしょう。このように開示されたそのこと、その思考。それは見て、話すことができます。それから展開することもできます。

けど、なぜそれがそうなのか?知らないのです。これはなんであれ、知識はなぜ知識?過去はなぜ過去?知覚はなぜ知覚?思考はなぜ思考?葛藤はなぜ葛藤?なぜ楽は楽。なぜ苦は苦?世界はなぜ世界?つまり、なぜ、これは、これ?

これは、まったく知らない、のです。これがこうである必要さえ、どこにも見つからない、のです。どこかで言いましたが、知ってることが何かを知らず,知らないということも何かを知らないのです。

これは、ひとりあって探究する、よく見る。理解する。その必然ではないでしょうか。今日は雨上がりの青空です。庭を歩いて昼間のコオロギの音。風。この見えること、聞こえるということ、思考・・・日常・・・この知らないの、不思議の真ん中です。

続きます。

No.4163 - 2012/09/20(Thu) 11:36:47

Re: 世界。続。続。続。 / ubik0101
つまり、森羅万象が未知なのです。でないなら、そうだと自覚がなくても誰かが言ったことを基にした思考、あるいは言葉の意味に依存してることを背景にした思考、かもしれません。とあるなにか、たとえば過去とか知識とかは、既知で。たとえば過去や知識がない事態、朝の草原の輝きとか、とあるなにかは未知というように。既知と未知に分けられる可能性があります。

ではなく、ここでは、たとえば・・・自我そのことが未知、怒りそのことが未知、なにかを対象にしないこともすることも未知・・・ありとあらゆること、ありとありえないこと森羅万象が・・・朝も昼も夜も・・・未知です。これは未知を未知と思考しないでも未知。未知を未知と思考しても、思考することも未知。思考とその事態に違いはないのです。

そのようでないならば。ここでなんでもいいのですが、とくに2項対立たとえば、ある、ない。優越感、劣等感。葛藤、解放。善、悪。既知と未知。(その思考とその事態は。それを思考することと、しないことは。事態が違うかも知れません)それをよく見て、できるだけその仕組みを正確に探査、その思考の奥(その自分の奥)を探ると、そこは破綻してないでしょうか?

続きます。

No.4164 - 2012/09/24(Mon) 09:58:01

Re: 世界。続。続。続。 / ubik0101
つまり、その思考は、完全にそれとして、個別の特定のこととして、それだけで独立してあるのではないのです。そうです、なにかについての空想。思考の構造、概念は始めから破綻して、見かけ上だけ成立してる、ということです。

あるいはそこに変調・・・とあること《知識や気分や感情や立場》で、とあること《概念》に意味づけて思考する・・・を見つけるかもしれません。 これは事態とその思考が無関係なのに、関係づけてる、ということです。もし関係づけなければ、その思考は正当性を失い、成立は困難です。

この思考の破綻に気がつくということは。その特定の個別の内容に、意識は閉鎖されることはできないということです。思考の構造、概念は密室ではなく、奥に非常階段。そこに日常は収まりきっていないのです。たとえ知識を基にした思考、空想でも、それ自らが、よく見ること、理解すること、それからの拘りに留まらないように導きます。

続きます。

No.4165 - 2012/09/24(Mon) 10:01:20

Re: 世界。続。続。続。 / ubik0101
くり返します。たとえば怒りや悲しみが、怒りや悲しみである必要がないのに、怒りや悲しみです。自我が自我である必要がないのに、自我です。喜びが喜びである必要がないのに、喜びです。ここに例外はありません。これは、なぜ、これ?ありとあらゆることが、未知です。既知はあり得ないのです。

これを説明すればですけど。もうそれが束縛せず、それを対象にしてもその仮の主体がつくられないなら、それに依存しなくなったら、それは固有の意味がある必要がなくなる・・・これはそうと思考、自覚しないでもそうなので、そうだという認識は困難です・・・ということです。問題は問題としての意味を失います。

たとえば、なぜ、意識は意識?意識に依存しなくなったら、この疑問が自発的に生じます。ここでも意識は機能してるのです。が・・・ 意識が機能してるのでなくて、どうしてそれに依存しない、ということが可能でしょうか。問題は、特定の個別の意識の内容、なにかに依存してる依存してない、ではありません。

なぜ、怒りは、怒り?なぜ、葛藤は葛藤?知覚は知覚?なぜ、世界は世界?つまり、なぜ、これは、これ?これは疑問で、そして答えのない疑問です。それが、すでに、それからの自由ということを示します。これは超意識とか、なにかの瞑想状態で成立すると言ってるのではありません。ふつうのこの日常がそうだ、ということです。

続きます。

No.4166 - 2012/09/24(Mon) 10:04:01

Re: 世界。続。続。続。 / hato

仕事が終わって、今日はちょっと気に入ってる、安い居酒屋に行きました。ノンちゃんパパはレモンチューハイ、お代わりはお茶割りの焼酎、こちら冷たいカルピスが夏の名残です。店のご主人が持っきてくれた突き出しは、フグのから揚げでした。塩味の効いた熱々が、舌に浸み、とてもいけました。シメサバを頼んでみたら、これも身がきっちり締まっていて、美味しいのです。常連さんか、お仲間で賑わった店内で、頼んだ皿は次々出てきて、さっと頂いて店を出ました。もう、夜気が肌に冷えます。

何年も前に植えられたらしい、白いマンジュシャゲが咲きました。赤いマンジュシャゲは例年通り、庭の西側に咲き揃っており、白いマンジュシャゲは、これから増えていくのかも知れません。

No.4167 - 2012/09/26(Wed) 00:31:59
世界。続。続。 / ubik0101
たとえば、です。火のついてるタバコを道にポイ捨てする誰かを見て、怒り、善悪を問う思考をしたとします。それは、自分と相手という、分離に偏ってる、そのことで感情や思考を生じさせたのかもしれません。けど、それはまるで相手を自分かのように思って・・・その分離を活用して・・・反応してるとも言えます。

また、そこで。おなじ行動を見ても、まったく知らない人と、家族、友人知人に対しては態度が違うかも知れません。善悪を問う思考をしたけど本人に発言しなかった、ほかの誰かと話して噂話にした、本人に発言した。そんなことの、それぞれの理由、前提、動機もさまざまにあるかもしれません。

なにか指摘するとしても、ふつうに丁寧に言えばいいのでもあるので、怒ることは、相手への攻撃だということもあるでしょう。自己顕示かもしれません。 そこに常識とか教育とかの拘りがあったのかもしれません。

また怒ることが、あるいは優しくなだめることが、冷静に観察することが、ほかの誰かから良い立派な人に見られるようにという偽善だったのかもしれません。自分で自分のことが知覚できる気がするためにしてる、ということなのかもしれません。

続きます。

No.4151 - 2012/09/07(Fri) 12:59:48

Re: 世界。続。続。 / ubik0101
ただ単に火の始末という危険予防の、こと。かもしれません。またそれは、自分の損得の範囲でのこと、社会、地域の範囲のこと、もあるでしょう。その奥には、 それなりの善に偏っていることがあって、またあるいは事実を変調、意味づけて、怒りや思考が反応したのかもしれません。

このように、タバコのポイ捨てを見て、反応した怒り、思考するということだけでも、含まれてるさまざまな意味が見つかります。これは、おなじことから違う結果を見つけた。のです。

また逆に、たとえば分離とか、損得とか、それなりの善とか、自己顕示とか、偽善とか、実用的な火の用心。それぞれ、おなじ結果から違う原因を・・・自分の行動、発言、思考を・・・見つける。こともできるでしょう。

ここはまた、それまでなにがなんだか自分で意味も判らず、それが有効かも分からず、ただ自分を知りたいという衝動と情熱で続けてきた否定の道の、その踊り場を見つけたようなことで、一息つけるところです。

ここで探究は、特定の個別の前提に縛られる必要がなくなり・・・そうとは意図、意識しないでも・・・結果的に思考とその事態はガチガチに接着されたものではなく、脱着可能であり、その自由度が増します。

続きます。

No.4152 - 2012/09/07(Fri) 13:04:22

Re: 世界。続。続。 / ubik0101
すこし振り返ります。2年ほど前、胸腺腫が見つかり、医師に「何で自分だけがこんな病気になるのか?と、考えるかもしれないけど・・・」と言われました。そう考えないのです。もし、そう考えるとしたら、病気になったことで、その自分がつくられた。

そして、「何で自分だけがこんな病気になるのか?」と思考した、のです。その思考が生じる状況によって、その自分がつくられたその自分が「何で自分だけがこんな病気になるのか?」と思考してるのです。

そこで「何で自分だけがこんな病気になるのか?」の答えは、ほかの原因・・・たとえば普段の行いとか、宿命とか、因果とか・・・探っても見つからないのです。それら思考は、みな空想です。ただ病気になったら治療をする、その他では・・・悩んでも、苦しんでも、平然としても・・・解決しません。

なんでも同じなのですが、どうして自分は不幸なのだろう。どうして評価が低いのだろう?どうして苦しいのだろう。そのような苦しいによってその自分が、あるかのようにつくられてるのだから、ほかのどんな理由を探っても、解決しません。

もちろん病気や仕事は、医学や経済や技術、知識で改善することができるでしょう。でもこれは、いわば外の世界を変えようとしてることで、それができない・・・苦痛・・・ならそのできない、現実においてそのできない自分がつくられる・・・それは依存です。

続きます。

ヘチマ、収穫しました。意外に、ずっしりと重く、皮は弾力があって硬く感じます。

No.4153 - 2012/09/10(Mon) 10:14:32

Re: 世界。続。続。 / ubik0101
そしてまた、たとえば、病気が治った。出世した、幸せになった、楽になった、平穏になった。それだけでは、依然として、その幸せ、楽、平穏を感じるところの・・・現実、世界に依存です。もともとの原因。なぜそう思う、その自分は何?を探究せねば、解決しません。

このようなことは、いわゆる仮の主体、自我にあってでなくては、困難です。その仮の主体を背景、前提、パソコンで言うならOSとして、その上に乗って、その日常の発言、思考がなされているのです。そして自我は、ここで学べるだけのことを徹底して学ぶことができます。

それが可能なのは、つまり言葉、思考が、その根拠とは無関係にも発生する、まるで浮き草のようなことだから・・・思考は、その根拠に切り込めるのです。ワープロソフトがOSを探査するように、自分の状態、事態を見ることができるのです。たとえばあの人は自我が強い、権力欲に囚われてる、偽善だ。卑怯だ。

と言うとき人は、その自我、権力欲、偽善、卑怯、を知りもしないで、定義できてもないのに、言ってるのではないでしょうか。なので、その定義が必要です。自分の言ってる意味を探る、ということです。

続きます。

ピーラーで皮を剥いて、輪切りにしてみました。繊維質ではなく、柔らかく、しっとりしています。そのまま齧ってみました。なんだか初めてなのに懐かしいような新鮮な味です。サラダでもいけるかもしれません。

No.4154 - 2012/09/10(Mon) 10:26:52

Re: 世界。続。続。 / ubik0101
でも、ふつう思考は、表面だけのことであり、根がない浮き草であり、その根拠を、その前提を、まったく知らないのです。ここに重心を置くなら、どんなことを思考しても、発言しても、行動しても、まったく引っ掛かることなく、躓くことなくあります。

これは否定の道を歩いて、ある意味。始めは真っ暗闇だったところから・・・偽善を抜き、嫉妬を抜き、傲慢を抜き・・・赤を抜き、青を抜き、黄色を抜いて・・・行動の、発言の、思考の運動の場が、白く、透明に、なって・・・思考とその事態が脱着可能になり、思考は根拠なく働いて問題がない、とも言えます。

ふつうの生活にあって、実際、どちらにも傾いて思考してるのです。 ただそれが自我にあっては、楽しくても、苦しくても、平穏でも、現実。その自分は世界に依存してつくられる、ということです。

続きます。

フライパンで、サラダオイルと、ベーコンで炒めて。こんぶ出汁(粉末)を振りかけてみました。これはいけます。美味、の範疇です。

No.4155 - 2012/09/10(Mon) 10:40:31

Re: 世界。続。続。 / hato

涼しい風。朝晩の空気がすっかり、ひんやりしていて、強い日差しを薄めるかのような数日です。朝のその時間、うつくしい田圃を見渡すか、かわせみのいる、川添いを走るかを決めます。

ヘチマは、柔らかく、ふにふにと気持ちいい舌触り、やさしい菜です。炒めものや、オイルを使う料理が合います。形もユニーク、素敵です。


出かけた牧場に、小さなポニーがいました。

柵で胸を、掻いています。

No.4156 - 2012/09/10(Mon) 23:01:09

Re: 世界。続。続。 / ubik0101&hato

なんでもいいのですが、たとえば「何で自分だけがこんな病気になるのか?」「どうしてこんなに苦しいのか」「自分とは何?」と思考することで、その思考するその自分がつくられます。

なので、ほかの、あれこれの、どんな理由・・・たとえ人間関係を、善悪を、優劣を、過去を未来を、運命を、因果を、また前世を、また来世を探っても・・・その何かを特定の個別のこととして対象にすることでその自分がつくられるので。その答えはでません。

ただ、その自分・・・仮の主体・・・が、あるかのようにつくられるその仕組みを知ること、で決着します。このことは、つまり、自我に於ける、どんな探究も、どんな疑問も、どんな言葉も、どんな行動も、自分とは何?に収斂する、ということです。これが自我の機能です。

続きます。

ubik0101

中田島砂丘に行きました。日本三大砂丘のひとつ、とのことでしたが、んー、遠州灘のとある海岸との感じでしょうか。ubik0101さんも、日本に砂漠てないてことかな、日本は緑の島だなー・・・

hato

No.4157 - 2012/09/13(Thu) 21:54:48
世界。続。 / ubik0101
その行動、発言、思考によって、その自分がつくられます。それでは、たとえば、善い行動、善い発言、善い思考をすると、その善い自分がつくられます。悪いことをすると、悪い自分がつくられます。これは、依存によって、世界が人を育てようとしてる。とも言えます。

ここで、世界に依存しながら・・・いったん磁石に接近した鉄片が、磁石から離れても微かには磁気を帯びるように・・・ふつうの笑ったり泣いたり学んだり遊んだりの生活で充分であり、善いことをすると人は自然に善の特質を帯びる。とも言えます。

しかし、ここで思考に聞いてみましょう。善悪とは何でしょう。そうです。あれこれ答えるかもしれませんが、なにが善で、悪か、思考は知らないのです。なぜそれがそうなのか。その根拠は曖昧ではないでしょうか。もし知らなければ、世界や人に依存しながら育ってるのは、実際は偽善の特質かもしれません。

あるいは傲慢の特質かもしれません。善悪に隠れた損得かもしれません。というのも人は、これは偽善だと感じながら、偽善するとは限らないのです。偽善と感じないでも、偽善もあるのです。 すこし外れますが、良かれと思って害することもあるのです。

ここで、探究するならば、なにかの思考、たとえば善悪の思考のその前提、設定条件を疑わねば、曖昧なままの判断であり、探究とは言えないのではないでしょうか。それで改めて、その自分の言う、善悪を、優劣を、自由を、あるない、自我・・・意地悪・・・誠実・・・公平・・・を、定義するように努めねばなりません。そこで自分はどうあるのか、その姿勢、態度。日常どうあるか、ということが大切になります。

続きます。

No.4143 - 2012/08/31(Fri) 14:03:40

Re: 世界。続。 / ubik0101
すこし関係ない話をします。この前、ショッピングモールの中の広い通路に並べてあるソファに座っていました。すると、向こうから歩いて来る男性が、自分なのです。ん。どうしたんだろう。年齢、違います。服装、違います。表情、違います。たぶん、性格、違います。

でも、自分なんです。だんだんその男性は近づいてきて、その人が自分だという感じが濃厚になってきます。そして、通り過ぎました。すると、その男性が自分、という感じも消えました。ときに、猫が自分だった、電信柱が自分だった、道で働く労働者が自分だった、という話を聞きます。

それはまあ見えてる何かが自分、と感じるということなのでしょうか。そこで見えてない何かは、自分とは違うのでしょうか。そうだとすると、見えてる聞こえてることによって、自分はつくられるのだから、見えてる何かを自分と感じるのは、当然かも知れません。

そこで空想を逞しくします。世界は自分。総てはひとつ。みんな自分。といったことは当たり前のことで。その対象と、それによってつくられる自分・・・磁石に接近した鉄片のようなことで・・・その磁気の関係の外にはでられない、ということのようです。それはどうも、それだけなら、自我の限界を示してる現象だと思います。

続きます。

No.4144 - 2012/09/01(Sat) 09:13:27

Re: 世界。続。 / ubik0101
話を戻します。けれど依存によって、世界が育てようとしてるのは、いかなる思考でも思想でもありません。善いとか素直とかの、気持、特質でもありません。その、人、そのことです。

それこそが大事です。ここのところは、実は、なにか思考すること、その内容。その範疇のことではなくて。いわば、その思考の、発言の、行動の、運動の場(と、呼んでおきます)、の性質に関わります。

たぶん善悪を思考するとき・・・あらかじめ・・・人は、それなりの善の立場に自分を置いてから始めてる、のではないでしょうか。極端に言えば、戦争、喧嘩してる両者だって・・・それぞれの周囲とは仲良く、悪を避け・・・それなりの、そんな正しさに、ずっと前からいるのです。

そんなそれなりの正しさは、昔からの連綿とした歴史、文化などで変調されて現れたりもするでしょう。それで、その正しさに強固な根拠があるように思わせられることができることもあるのでしょう。

その運動の場、いわばパソコンのOS上、で機能するワープロソフトのように、その思考は派生してるのです。そしてその運動の場を疑いの対象にしないというだけで、その上に乗って、勝手な善悪の思考、発言、行動がなされるのではないでしょうか。 いくらでも正しいという理由は見つかるでしょう。

それは敵が侵略してくるとか、誰かが自分を非難するとか、蔑ろにするとか、誰かが間違ってるとか、誰かが自我が強いとか・・・空想であっても、それが空想と気がつかないということとして・・・その自分は守らねばならないとか・・・それなりの善に立場が、根拠があるのです。

そして世界はそのような空想を事実として・・・戦争・・・喧嘩・・・軋轢・・・も見せてくれる、提供できる、機能があります。どこまでも人のために働いてるのです。

続きます。

No.4145 - 2012/09/02(Sun) 11:49:55

Re: 世界。続。 / ubik0101
そんなことに気がつかないでも、そんな争いの範疇にいて行動、発言、思考するのは、人、としての偏りです。この自然な、透明な、中道な世界にあって、たとえばそれなりの善に偏るという不可能なことを、人はなしとげようとしてるのです。

この偏りを、行動の、発言の、思考の、エネルギーの発生源にしてるのです。それは、なんでもないところからはエネルギーが発生できない、と誤解してるのかも知れません。

くり返します。このような、行動、発言、思考の前提になってる場の偏り、それは誰だって背景に、あるいは微かに、あるいは濃く感じるのですが、ふつうはそれを見えない隠れた前提・・・そうでなく顕わにされるとそれだけでその前提はもしかして正しくないかも知れないという疑いが起こるでしょう・・・にしているので、それに切り込むのは、かなりの努力を要するのが普通です。

そこで社会や世間に立ち向かう、反抗する、あるいは折り合いをつけて、隠れて愚痴を言う、傍観する・・・それで過ごしてしまう人生もあるかもしれません。どうしましょう?簡単です。どのような状態であれ、ただその自分に切り込みさえすればいいのです。思考には、それができるのです。

ここにもこんな偏った愚かな自分を守っていたいという自己保存は働くのですが、それもまた打ち壊すべき壁として役に立ちます。それは・・・衝動、情熱は必要ですが・・・もう世界が、あり得ないほどの偏りさえ用意してくれているし・・・それを探るその努力・・・それだけのことで、済むのです。

続きます。

たぶん、ヘチマの雌花です。実が20cmくらいになると食べ頃だそうです。

No.4146 - 2012/09/02(Sun) 12:50:46

Re: 世界。続。 / ubik0101
たとえば、です。善に偏ってる思考の運動の場それを明るみに出すと、その運動の場が偏りであることが顕わになります。すると、その運動の場に正当性がないことに気がつき、そこで活動してる、自分は正しいと表現しようとしてる思考は正当性を失います。

というより初めから正当性はないのですが、そのことに気がつかないというだけで、正当性があるかのように機能してたというだけですが・・・その思考だけではなく・・・雰囲気・・・たとえば、自分は正しい気持、気分、も消えます。

このことは自分の、主に思考のその基礎、立場を削っていくことであり、否定の道と呼んでいます。自分が自分と見なす自分の基礎が、どんなことであれ、失われていくのですから、これはそう望んだからというわけではなく、それを実際に歩くことで、素直にならざるを得ない道です。これは1人あらねば困難かもしれません。

続きます。

No.4147 - 2012/09/03(Mon) 11:41:52

Re: 世界。続。 / ubik0101
また、たとえば誰かを非難するとします。意地悪だ。卑怯だ。偽善だ。自我だ。そのように思考するならば・・・その意地悪、卑怯、偽善、自我・・・が、まったくこの自分にないのなら、そう思考できるだろうか?つまり、それまで気がついてなくても、思ってもなくても、意地悪、卑怯、偽善、自我な自分かも知れません。 と思考したのです。

このことは、なにかの状態であれば・・・たとえば葛藤があれば葛藤と・・・自我であれば自我と・・・必ず知覚されるはずだ。あるいは知覚されないなら、それはないのだ。という、それまで気がつかなかった、暗黙の前提、偏りの運動の場に切り込んでいることだ、とも言えます。

また。あれは自我だ、と。誰かを批判するなら、そのことによって、その自分がつくられます。その対象になってる、たとえば自我という関係からは外にでてない自分が、あるかのように設定されてしまいます。それで、その逆の誰かを批判しない生き方も生じるかも知れません。が、それは偽善かも知れません。その自分を矯正したのかもしれません。

続きます。

No.4148 - 2012/09/03(Mon) 11:56:35

Re: 世界。続。 / ubik0101
このことは、その言動そのことが、たとえば意地悪、卑怯・・・自我と見なす・・・その思考はその人の事態を現す・・・という特定の前提、条件設定によって、つまり偏りの場にあって、思考が運動、展開されてる。そこに切り込んでることだ、とも言えます。

ここで、思考はその人の事態を現すというだけではなく、その事態を現さない、ということも含めて見るなら、意地悪、卑怯・・・自我だと決めつける、判断する思考に正当性はないはず・・・でも、現す現さない両方あっても不可。善だけでも、悪だけでも、両方あっても不可。さらに探究を要する・・・ここは複雑で、無意識でさえそれは行われるので、うまく言えてるか疑問ですが・・・です。

それは、たとえば食物が食べると消化されて、見えなくなるけど、人の血や肉になったから・・・たとえば香水を着けて慣れると自分では匂わなくなるように、思考は一般化して消えること、や。それが、ほんとうに、ない、から知覚されないのだ。という思考にかからない微妙な違い・・・この日常に、誰に頼ることなく、そのありかたを生きることになります。

続きます。

100円ショップで買ったカゴに乗るチュリルを、横目で見てる、ノンノンです。

No.4149 - 2012/09/03(Mon) 12:21:22

Re: 世界。続。 / hato

ねえ、ノンノン。チュリルと仲良くね。

チュリルはノンちゃんの、友だちになりにきてくれたよ。


秋すこし前の日、知人が つるむらさき、あげる、と言って、苗を二本くれました。根が落ち着くまで水差しに入れて、玄関に置いたのを眺め、七日後の昨日、ubik0101さんが、庭に植えてくれました。知人はその後、摘み採った葉を一掴みくれたので、鶏がらスープと、刻んだニンニクと一緒に炒めたつるむらさきを、美味しく頂きました。

つるむらさきには、紫の茎と、緑の茎のタイプがあるそうです。緑の茎のが美味しいよ、ということで、緑の茎のつるむらさきです。

No.4150 - 2012/09/03(Mon) 23:05:50
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