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この世界 / peer
>この世界は、なぜ、この世界?この世界が、この世界でなくてもいい・・・それが、この世界(を不思議と呼んでいます)で可能。なぜ、これは、これ?は、そのような問いです。

普通に考えると、「この世界」を対象として見る別の世界が必要でしょうね。
「この世界」の中で、この世界を見る事は、できないでしょ?
全体を見て、始めて、理解する事が出来る。
でも、部分でしか見れない。そういう構造でしょう。
右を見たら、その瞬間に左が存在する、という相対性のループ。

ただ。
初めに思いがあって、その思いを具現化する現象界が「この世界」という次元だとは、思います。
サッカーで言えば、どうして喜ぶかと言うと、喜びたい、喜びを分かち合いたいという「思い・願い」があるように思います。
個人だけの喜びではないところが、ミソというもの。
なんというか・・・その瞬間、世界が喜んでいる。とでも言えるかも。
俗に言えば、喜びたくてその世界を作った(喜びたくて生まれてきた)と、喜ぶ本人は感じるとも言える。

No.3850 - 2011/12/05(Mon) 03:01:43

Re: この世界 / ubik0101
たとえば怒りは、なぜ、怒り?と問うとして。それは、とある感情だとしても。なぜ、怒りは、とある感情?と。たとえば、ない、はなぜ、ない?と。どんなもの、ことにも、これは、なぜ、これ?と。問えるでしょう。たとえばpeerさんの↑の投稿文の一節、一節の総てに、なぜ、これは、これ? と問えるのです。

《「この世界」を対象にして見る別の世界が必要》だとしても、でないとしても。《その思いを具現化する現象界が「この世界」という次元》だとしても、そうでないとしても・・・それは、なぜ、それ?です。でなくては、これは、この問いではないのです。

この問いの発祥するところ、なにかの思考という対象ではなく、そう問うことと、その人の有り様こそ、見ようとしてることです。なにか人が成長、変化するとして・・・世界は変わって見えたりはするし、世界に人は働きかけたりはできますが・・・それは街とか山とか、海とか思考の変化ではなくて。どんな対象でもなくて。その人のことです。

それで、なぜ、これは、これ?そいえば。もう5年くらい前に、サイト「ゴトの読書室」の掲示板「雑感」で、なぜ、意識は、意識?と質問したことがありました。また奇しくも、のりさんが、この“掲示板”で、意識って何?と質問したのですが、そんな質問です。

ここでまた。なにかの思考が正しいとしても、誤ってるとしても、その思考そのことには、正誤の判断機能はないかもしれません、ということもあります。それで、この思考は、正しい、あるいは誤り・・・または解らない・・・とか人は、思考するのではないでしょうか。

また。理論的な思考、原因と結果の思考は、あらかじめ破綻してるのです。まず破綻してなければ、思考は生起しないのです。そんなこともまた、探りがい、があるように思うのです。まあ、ある、ないを問うて、一応の形になるにも、かなりの年月がかかったし・・・ま、じっくり・・・です。

No.3853 - 2011/12/05(Mon) 21:04:26

Re: この世界 / peer
怒りに同化していると、自分が怒っている事にも気付かない。なんてこともありますね〜
しかし、怒っている。怒りと同化している。と気付くとき。
怒りからの解放があります・・ね。
そのものになることが即、解放となる。その構造。

>たとえばpeerさんの↑の投稿文の一節、一節の総てに、なぜ、これは、これ? と問えるのです。

もしかして。ですが。
これを書いたのが自分だ。と「気づいた時」には。
その「なぜ」は消えてしまう。

「なせ・なぜ」と問いを発するのは、
自分とは分離したものを見る時。
ではないかな〜と思う。
そのものになったとき、問う必要もなくなる。

私がubik0101さんの書いたものを、難しい
理解できない、これはなんだろう。
と思う時には、理解から遠いところに居るんです。
それが分離と言うモノの機能でしょうか。

だから、常に問題はそして解決は外にはない。
自分にある。そのことへの気づき。

No.3865 - 2011/12/07(Wed) 14:02:59

Re: この世界 / ubik0101
まあ、なにかとの同化に気がつくということは・・・すでに同化でないということかもしれませんが・・・その、解放ゆえの分離はないでしょうか。

これは、なぜ、これ? それが自発的なことだというのは。宇宙開闢から初めて、たとえば意識が、意識って何?と、問うのです。

ほんとーに、その自分だろうが何だろうが、まったく知らないで問うているのです。意識って何? 世界って何?

それは、意識が、世界が機能しながら、それに依存できない、ということで。なぜ?が壊滅するのは、これは質問しかない、あるいは質問がその結論、だからです。

それは明確なんですが、ここから見えることを表現することが、難しい、ということです。

No.3866 - 2011/12/07(Wed) 21:26:05

Re: この世界 / のり
ウビさん
御久しぶりです。
<意識って何?> 良く覚えてらっしゃいますね!

 釈尊の最初の疑念、の解説部分に似たようなものがありましたので載せさせて頂きます。

<何ですべてのものがこうなくてはならんのか。なぜ眼がものを見にゃならんのか。人は何故こうなのか。>
人間が問題にする前にあるものを、人間が問題にするからです。
一切の人間的な考えで云々する世界ではないように皆が出来ているのに、それ(取り扱えない世界)を取り扱おうとしている。
それじゃなにが問題にしておるのか。人があるから問題になったんで、人がなければ問題は起きんじゃないか。

No.3867 - 2011/12/08(Thu) 11:00:33

Re: この世界 / ubik0101
のりさん、ひさし振りです。
うっすらですが、話の展開も覚えてます。

その解説部分は。これは、なぜ、これ?とかの疑問も起こりようがない、ということで、それで解脱ならば、たしかに問題ないです。

でも、はじめから、その問題が起きないというのでは問題。または解脱もいらないというのでは問題。と言外に言ってる、ようにも見えます。

これは、なぜ、これ?は・・・それが起きるそのまま消滅・・・「一切」つまり世界が展開・・・これが、こう、でなくていいのに、こう、です。

No.3868 - 2011/12/08(Thu) 12:30:14

Re: この世界 / のり
> うっすらですが、話の展開も覚えてます。
→アハハ!そう私が私と思っていたものが爆発しちゃって、意識が爆発したと思ってご相談したりしてました。

> でも、はじめから、その問題が起きないというのでは問題。または解脱もいらないというのでは問題。と言外に言ってる、ようにも見えます。
→はい、無明、とかでしょう。

> これは、なぜ、これ?は・・・それが起きるそのまま消滅・・・「一切」つまり世界が展開・・・これが、こう、でなくていいのに、こう、です。
→今まで考え方で散々やったんですけれども、その考え方が一つも役に立たない。それでも、うんうん、うんうん、考えていると落ちちゃうみたいです。

No.3869 - 2011/12/08(Thu) 14:13:21

Re: この世界 / ubik0101
そのことが、そのことを見せてくれるので、それを、よく見る日常です。すると、もっと噛み砕いて見せてくれます。

なにか疑問が生じたら、それが導いてくれるというか、それを手繰っていけばというか・・・どうも語弊はありますが・・・見ることは、自動で進む感じです。

No.3870 - 2011/12/08(Thu) 16:00:24
(No Subject) / hato
>おお。

>hatoさん、砂浜、海の写真

>素敵です。


青雀さん!!!なんて嬉しい。

行ってきたのは、竜洋の海です。ふたりで写真を撮ってるとき、青雀さんが、好きかもしれない場所だな〜、て思っていたのです。

hato

し、しまった。車にガメラ1号を置き忘れた。というわけで、携帯での撮影になってしまいました。

ubik0101

No.3855 - 2011/12/05(Mon) 22:22:28

Re: / hato
こちらは、ubik0101さん画像です。

オブジェB、だそうです。

No.3856 - 2011/12/05(Mon) 22:23:02

Re: / hato

天竜川の汽水域で、公園にもなっています。

No.3857 - 2011/12/05(Mon) 22:28:23

Re: / hato

とても大きな風力発電機。

たくさんあって、圧倒されました。

風力発電機の、発電量表示メーターは、0。

ほとんど無風です。

No.3858 - 2011/12/05(Mon) 22:33:10

Re: / hato

なんかの動物の、あしあと、だと思います、って言ってます。

No.3859 - 2011/12/05(Mon) 22:38:44

Re: / hato

竜洋海岸は、視界のほぼ190度が海です。

自転車が、きれいでした。

No.3860 - 2011/12/05(Mon) 22:44:30

Re: / 青雀
hatoさんとubiさんの写真サイト作っちゃえばいいのに。

と思いました。

お二人ともフレーミングが素晴らしいと思います。


今日、望遠レンズで鳥を撮る練習をしていたとき(なんで平日に?爆)

たまたまトビが接近してきたので撮った写真です。

トビの飛翔はどのカットを見てもバランスの破たんがなく(当たり前ですが)

とっても美しかったです。

No.3861 - 2011/12/05(Mon) 23:34:20

Re: / 青雀

複数カットをまとめて一枚にしてみました。

No.3862 - 2011/12/05(Mon) 23:43:45

Re: / ubik0101&hato

青雀さん、こんばんは。今日もお疲れ様です。

トビの画像、すごい!すごい!!!

ほんとに、素晴らしいですね。


> お二人ともフレーミングが素晴らしいと思います。


いつもありがとうございます。自分のはすっとこ画像ですが、それくらいなので、楽しめるのかも知れません。青雀さんはもしかして、本格的カメラマンに?。そういえば、このサイトを見てくださる方に、ニューヨーク在住のカメラマンがいらっしゃいました。

hato


この庭の空にも、ときどきトンビが舞ってたりします。また、けたたましい鳴声のモズが、虫をくわえて枝に止まってたりするのですが、なかなか撮影は難しい、です。

そ、いえば。神奈川に住んでる母が、青雀さんの撮った画像を、pcの壁紙にしてる。とhatoさんが言っています。

ubik0101

No.3863 - 2011/12/06(Tue) 19:51:27

Re: / 青雀
>青雀さんはもしかして、本格的カメラマンに?

いえいえ。それはないかな〜と(笑


>そ、いえば。神奈川に住んでる母が、青雀さんの撮った画像を、pcの壁紙にしてる。とhatoさんが言っています。

とってもうれしいです(*^^*)

No.3864 - 2011/12/07(Wed) 09:10:02
(No Subject) / peer
>そうした本をたくさん読んで、知ってる故に、無我に偏りたい人も多いでしょう。ならばそれは、もしかして、無我を張りたい自我・・・かも知れませんね。どうしたってそれは、知ってること、では、ないからです。

そうそう。悟るには無我が必要だと思い込まされて暴走するんですね。
しかし、やっぱり知識だけで終わるのが一般的です。
無我がある時、自我はない。自我がある時、無我はない。なので。なかなか難しい。
そしてトリックに、はまり込む。
自我にとって無我は・・・分からないものであって、分からないことは怖くなるものなので、自我を持ちながら、自我が無我にならないかな〜と、やっちゃう。
そんなふうに見えます。

>> それにしても「我」のくっついたモノに対して
>> 自分の価値観として大切にする人もいるし、
>> 見るに堪えないと感じる人もいるようです。


>そうなのでしょうか?peerさんは、どうなのでしょう?本当に誰かが、peerさんが感じるそのようかも、わからないでしょう。

誰かが、どう感じるかは、関係ないです。自分がどう感じるか・・・だけでしょ。
たとえば「この人は傲慢だ」と感じる。その証拠は?自分が感じるから〜しかないような気もします。
これは傲慢な状態だと。自分の傲慢と照らし合わせて、確認したりする。わけで。
(自分の中にないものを、人は、外に見ません)
中に照らし合わせるものがなかったら、どんなに人が傲慢をやろうと、関心が向かない。ということで。
人が傲慢だろうが謙虚だろうが、どうでもいいことになりそうです。

>その理解は、簡単、と安直にいえませんが、簡単に難しい、ともいえません。進む、ということ。留まるところでない場所に留まらない、ことで可能です。

うん。私の場合では、それは「終わった」という感覚。
良い事を学んだ。というものはなく。利用しよう、もなく。ただ終わった。
終わった処に、留まる事は出来ませんね。

No.3821 - 2011/11/23(Wed) 04:39:44

Re: / hato

こんにちは。

昨日は、家で仕事と、年賀状のデザインを考えていました。ubik0101さんと、なにかいいモチーフないかな・・・と探しているところです。

早いですね。もう、一年も終わりに近づきます。


> 誰かが、どう感じるかは、関係ないです。自分がどう感じるか・・・だけでしょ。


peerさんはいつも、自分の状態を書いている、ということですね。

では、peerさんの投稿をあらためて、読んでみましょう。
そうしますと、peerさんの状態が、よくわかるかも知れません。


> 人は、その人の記憶の集大成ですから・・・。
> その人の体験と記憶の裏付け・背景に必ず「社会」は
> あると思いますね。
> 社会から切り離された「その人」は、いるのだろうか。
> そういう風に見ると「その人」なんてものはいなく、
> 「社会のある面」のようなことにも、なりそうな。



> これは傲慢な状態だと。自分の傲慢と照らし合わせて、確 認したりする。わけで。
> (自分の中にないものを、人は、外に見ません)



人が社会である、とは、世界の中に人があることです。それは、まだ、この世界の知識と感覚、というところを出ていない、ということです。そして、自分の中にないものを外に見ない・・・という思考。これが、世界と我々はひとつ・・・の限界でもあります。この掲示板で見ている、理解、とは、その思い込みを逸脱しても、起こり得る理解をいいます。

大事なことは、いま、その様にあることを、認め、自我や無我に偏向することのできない、正真正銘の自分を、きちんと知ることと、思います。ほかの誰でもない、peerさんが、無我に偏る自我・・・その見方であることをまず、見止め、そこから進む、ということ。

なんとなく、社会や世間の人はそのようにある・・・それを見てる自分もその様だ・・・そのすべてが我々ひとつ、ということだ・・・世界は現象であり、人は現象そのものだ・・・・と。これは、人の覚醒、その事実ではありません。

人は、無我ということを、その自分、を逃がすために使ってはならないのです。愛が愛。であるように、人は、人です。人は、その自我、無我に、偏向しないところのその自己であることを、生きることが、できるのです。

どんな自分も、世界の役に立つことができるのは、世界のとても、素敵なところですね。でも、自分の状態に気付くことが難しいとき、それは、その人自身のためにならないでしょう。


> 人が傲慢だろうが謙虚だろうが、どうでもいいことになりそうです。


愛は、愛。といいました。

その愛は、なにかに無関係。にあるために、正しく関係することができますね。

もちろん、どうでも、いいのです。
でも、どうでもよくない、のです。
そのようなことです。

了解とは、文字通り、了解です。

学ぶことに、終わりはない。これは、別の話です。

No.3825 - 2011/11/24(Thu) 18:08:40

Re: / peer
>> 誰かが、どう感じるかは、関係ないです。自分がどう感じるか・・・だけでしょ。

>peerさんはいつも、自分の状態を書いている、ということですね。

この場合は、人がどう思うかを判断基準にしないで、自分の気持ちを素直に感じ切る。
という意味での「誰かが、どう感じるかは関係ない」と書きました。

>人が社会である、とは、世界の中に人があることです。

そういう方向もありますが、この場合は自分の中に社会がある。
という見方をしています。
世界が人の中にあるから、ひとりひとり、生きている場が違うわけです。
しかし、そのバラバラが世界の推進力〜というか、世界を作り成長させるエネルギー。
のような気もしています。

>これは、人の覚醒、その事実ではありません。

はい。その話をしているんです。
覚醒している人を対象にした話ではないのです。

>人は、無我ということを、その自分、を逃がすために使ってはならないのです。

それは、同感です。まったく、そのとおり。
私は自我を「自分のもの」と世界から切り取った境界内を作る事〜として
無我とは、それを開いたところ・・・境界のない無限性・・・
自我=有限、無我=無限。とシンプルにとらえる事が出来るかな〜と思います。
そしてコインの裏表のようなもの。
表だけのコインはなく、裏だけのコインもない〜と。

No.3826 - 2011/11/25(Fri) 02:43:12

Re: / hato

こんにちは、peerさん。

今日のこちらは、晴れときどき曇掛かる・・・あたたかい初冬です。これから、海にでかけます。いよいよ冷えますが、peerさんも風邪などひかないよう、ご自愛ください。


さて、こちらです。

> この場合は、人がどう思うかを判断基準にしないで、自分の気持ちを素直に感じ切る。
> という意味での「誰かが、どう感じるかは関係ない」と書きました。
> >人が社会である、とは、世界の中に人があることです。
>
> そういう方向もありますが、この場合は自分の中に社会がある。
> という見方をしています。


自分の中に社会がある・・・そのように表現されることが正に、自我、ということです。

それは、世界の中に、人がある、ことです。


> 世界が人の中にあるから、ひとりひとり、生きている場が違うわけです。

これは事実とも、いえません。自我にとっての、空想です。


> しかし、そのバラバラが世界の推進力〜というか、世界を作り成長させるエネルギー。
> のような気もしています。



ここで、このような話の運びになる、話が流れることを、自我の逃避、といいます。

自我というものはこのようにして、自分を逃そうとしますよ。それは決して、無我、ということでは、ありません。自我が、一番見たくないところの、自我なのです。もちろん、在る、わけでもない自我にとって、こうした話の流れは、あぶないことです。なぜなら、それ迄のやり方を捨てねばならないことを、自我はよく見聞きして学び、知ってるのです。


> >これは、人の覚醒、その事実ではありません。
>
> はい。その話をしているんです。
> 覚醒している人を対象にした話ではないのです。



では、まずその自分をできるだけ、正確に、話すことをしていきましょう。まずはそれだけで、いいのです。

もし、それを知らないなら、知ってるように話しては、いけません。成長、ということについては、十分注意して話さなければならないのです。でなければほかの人や、peerさん自身が、その言葉に騙されてしまうでしょう。それは、哀しいことです。

たとえば人は、社会や世間、自我無我・・・そんな自分に、嘘をつくことができます。その自分を、気付くこともなく人は、騙すことが、できるかも知れません。けれど、誰でもない誰か・・・・ということを、本気で学んだ、成就したそれに於いて、人は嘘をつくことができません。どのように言葉を繕ってみても、それでないなら、ちがうのです。

自分の中や、外・・・との、すでにその言明が、自分、という塊を想定していることにほかならない・・・・というより、もともと中道にない状態で、なにか見てるということです。

中道を見た人は、そのように考えることができないでしょう。そうしたことが人の成長に於いて、殆ど意味がないことを、よく知っているからです。


> >人は、無我ということを、その自分、を逃がすために使ってはならないのです。
>
> それは、同感です。まったく、そのとおり。



peerさんは、柔軟な感性で、なにかに同化しやすいのかも知れません。やさしいのでしょう。なので、そうそう!と思えることが、多いのでしょう。けど、照らし合わせて見て、納得されることが覚醒・・・では、ないのです。

いつか、話したかも知れません。今まで親しんできたやり方・・・照らし合わせ・・・共感する・・・それも大事な体験です。けれどそれでは、本来の理解に進むことが難しい、ということを、認めなければなりません。一旦、知識や体験を、白紙に戻す、ということ。本当に失ったときに、適切な道具として、用いることができるでしょう。

徹底してそうしてみることを、始めてみることも、できると思います。

きついかも知れませんが。本当の祝事は、それからです。そして、人がその経験をしても、それが言葉として、その人を通じて語り出されるまでには、素直を生きる不屈の忍耐、或いは、相当の年月がかかることでもあることを、言わねばなりません。もちろん、これも一様にはありません。けれど、たとえば、そのようなことです。

素直とは、人が世界で 不思議 と交わせる、大事な約束です。


ひねくれもの同志のubik0101さんによれば・・・

(*わたしは、ひねくれてはいないので、その意味では、同志に、なれません。)

「peerさんは、ひねくれ方が、足りないんだよ。ぼかぁ、真摯になるほどに、ひねくれたんだよ」


山にいると、川に橋が架かっていました。奥の谷橋、と読めます。

No.3832 - 2011/11/26(Sat) 12:48:38

Re: / peer
風邪は・・・ねぇ。ひいていても気がつかない。
みたいな感じで。年中、半そでで仕事〜してます。


>自分の中に社会がある・・・そのように表現されることが正に、自我、ということです。
>それは、世界の中に、人がある、ことです。
>これは事実とも、いえません。自我にとっての、空想です。


そうです。そして、世界にあることの責任を背負う。
つまり空想の責任をとってもらおう。というのが私の言い分。
世界はひとりひとり違うよね〜だから私と貴方は違うのよね〜
それでいいのよね〜というトコロからの飛躍みたいなもの。
もちろん、この飛躍は逃避というようなものではありません。
「自分の中に社会がある」のですから、逃れられません。
社会にあることは、社会の問題であり、自分とは別に
存在している。という逃避が使えない。
社会に問題があるのではなく、自分の問題なのです。
自分の問題が社会を通してフィードバックされている。
という言い方も出来ます。

>> それは、同感です。まったく、そのとおり。

>peerさんは、柔軟な感性で、なにかに同化しやすいのかも知れません。
>やさしいのでしょう。なので、そうそう!と思えることが、多いのでしょう。


ですからね。それが、まるっきりの勘違い。
「やさしい」という解釈は・・・違うよね。
自分の中にあることなのだから、自覚するだけなのです。
「相手を肯定する・認める・同化する」のではないのよ。
社会を見て「あー嫌だな。汚いなぁ」ということが
ある、として。
うん。自分のことだな。と認めるようなものですね。
そこはまず通過するように出来ているんじゃないでしょうか。

であるのであるならば。
北風も太陽も、自分で作ったものであり〜
それにいちいち、どうのこうのも、ないでしょう。
みたいな。

No.3834 - 2011/11/29(Tue) 12:40:26

Re: / hato

こんばんは。

雨がすこし、降ったり止んだり、してるようです。

走る車中から見ると、田畑の草が金色に光り、見とれてしまいます。
9980円のナビを買って、安いがこれが使いよう。ふいに思いつき、嬉しそうにふたりして、夜中の農道をひた走り、お茶を飲みに、でかけます。


> 風邪は・・・ねぇ。ひいていても気がつかない。
> みたいな感じで。年中、半そでで仕事〜してます。



まあ、そうでしたか。
そろそろ、本格的に冷えるそうですよ。


> そうです。そして、世界にあることの責任を背負う。
> つまり空想の責任をとってもらおう。というのが私の言い分。



つまり、コインの裏表のような自我無我を生きる人が、どっちかになって、なにか言ってる・・・のでしょうか。相対にあることは、対にあることでは、解決しないと思います。


> 「自分の中に社会がある」のですから、逃れられません。
> 社会にあることは、社会の問題であり、自分とは別に
> 存在している。という逃避が使えない。
> 社会に問題があるのではなく、自分の問題なのです。
> 自分の問題が社会を通してフィードバックされている。
> という言い方も出来ます。



生きていて、なにか問題に遭遇したなら、そのとき対処するでしょうね。自分にはそれがしっくりきます。関わることがあり、できることをします。責任をもつのは、その自分の発言ということでもいいのです。ひとつひとつ、できることを、と思いますね。

人がなにか、分離らしい側から反転した、合一らしい側に拠った状態で思考されたり、或いは体験される・・・・それなら、人は奇しくも、断片です。世界が社会の出来事の範疇に収められ・・・見止められてしまうところは、中道、その総位相とは、悲しくも、似て非なるところです。

そうでない、いつでもどこでも、どのようにしても人に、真の中道、その総ての位相が、滞りなく揃われる、ということ。それはたとえば、意識されたところの、なんでもどうでもありのすべてでは、ないよ、ということです。


> ですからね。それが、まるっきりの勘違い。
> 「やさしい」という解釈は・・・違うよね。
> 自分の中にあることなのだから、自覚するだけなのです。
> 「相手を肯定する・認める・同化する」のではないのよ。
> 社会を見て「あー嫌だな。汚いなぁ」ということが
> ある、として。
> うん。自分のことだな。と認めるようなものですね。
> そこはまず通過するように出来ているんじゃないでしょうか。



事実とは、不可思議です。自分の中、ということが強調され、意識されてあらざるを得ないとき、或いはその形式にあるとき、事実を見ることは、難しいのです。

進んでいくとき、すべてを自分の中に見る・・・必要が、ただ、ないことを、見るだけです。それは、なにかの欠片、断片になる・・・・ことではありません。だいじょうぶ、ということです。


> であるのであるならば。
> 北風も太陽も、自分で作ったものであり〜
> それにいちいち、どうのこうのも、ないでしょう。
> みたいな。



たとえば人は中道の先を、知る、ことはできません。

北風も、太陽も、

真摯な人に、それを学ぶことがあるでしょうね。

成長とは、戻ることの、できない道、と思います。


あしあと。すてきです。

No.3842 - 2011/12/02(Fri) 01:46:50

Re: / peer
このところ、よく雨が降ります。

>つまり、コインの裏表のような自我無我を生きる人が、どっちかになって、なにか言ってる・・・のでしょうか。

対象を持ったら、ちょっと違うかな〜と思います。
コインは裏も表もある。と理解されたら、それしかない。
両方のどちらが本物もない平等感。と思うんですよ。

>責任をもつのは、その自分の発言ということでもいいのです。

そうそう。(と頷くと、また同調と言われるかな)
つまり、どでかく責任を・・・ということじゃないのね。
思う事と言う事と行為に矛盾が生じたら無責任でしょ?
世界が、人が、じゃなくて、まず自らの姿を・・・。

>進んでいくとき、すべてを自分の中に見る・・・必要が、ただ、ないことを、見るだけです。

うん。そういう状態の人は、それでいいんじゃないかな。
どうでしょう。自我(有為)・・無我(無為)というのは。

No.3843 - 2011/12/03(Sat) 04:03:00

Re: / hato

こんにちは。

今朝のこちらは、快晴です。

朝から、爽やかな風、ぽかぽかお日様ですよ。


> 対象を持ったら、ちょっと違うかな〜と思います。
> コインは裏も表もある。と理解されたら、それしかない。
> 両方のどちらが本物もない平等感。と思うんですよ。



表といって、裏を考える。無我、といって、自我・・・と考える、思考の形態はそのようなものですが・・・・といって、自我や無我とは、そのように、ある・・・わけでも、ない、ということです。


> つまり、どでかく責任を・・・ということじゃないのね。
> 思う事と言う事と行為に矛盾が生じたら無責任でしょ?
> 世界が、人が、じゃなくて、まず自らの姿を・・・。



なので、peerさんの文章は、peerさんが表現されてる・・・でいいのでしたね。

自分にとって、世界と人というところ、そのように表現することに、違和感はないのです。大げさでも、ないのです。生きること、見ること・・・、世界や人、というところ。この自分というところ。それは等価です。そして、無関係に関係される、関係無いがゆえに正しく関係される・・・・ところで用いる表現として、大変しっくりします。


>進んでいくとき、すべてを自分の中に見る・・・必要が、ただ、ないことを、見るだけです。

> うん。そういう状態の人は、それでいいんじゃないかな。


誰にとっても容易いものではないでしょうが、・・・その意味で、話すことと自分の状態が違う、という誤謬がなくてすみます。それは、幸せなこと、と思います。


そういえばもう、雪の降る季節です。

遠州灘のとある海。ほとんど無風のなかで、海岸を散歩しました。

No.3847 - 2011/12/04(Sun) 11:14:05

永くなりましたが・このへんで / peer
>なので、peerさんの文章は、peerさんが表現されてる・・・でいいのでしたね。

はい。「私」が表現したいのではなく、私を通して世界が現れる。世界が表現体として私を利用している。
みたいな感じであります。
だから、ひとりひとりの世界は、大切だと感じてます。
ひとつも、疎かには出来ない。大切なもの。誰ひとり欠けていいモノはない。
光(白色)がプリズムを通すと、様々な色に変わるように。
その生命ひとつひとつがパズルのピース。万華鏡のように、不思議な世界を見せる。のかも。

No.3851 - 2011/12/05(Mon) 03:20:05

Re: / 青雀
おお。

hatoさん、砂浜、海の写真

素敵です。

No.3852 - 2011/12/05(Mon) 19:18:09

Re: / hato

> はい。「私」が表現したいのではなく、私を通して世界が現れる。世界が表現体として私を利用している。
> みたいな感じであります。



人が本気で学ぶ、ということは、世界にたゆたい流れるその自分、を肯定しない、留まらない・・・・まずはどこまでも掘り起こす、縦方向の学びがどうしても、不可欠です。それは人であるなら、ただ、その向きに起こります。

そのとき、あらゆる思考や知識が、その自分を席巻することは、できないでしょう。

それは例外なく、誰にとっても、本当の幸せ、です。

peerさん、ではまた、よいときに。

No.3854 - 2011/12/05(Mon) 22:11:46
(No Subject) / ubik0101
>旅人は、自分が裸だと思い込んでいるから、着こみたがる。
>というか〜裸だと思い込んでいるから旅をしたがる。
>ということもあるかしら?


そのように。自分は、裸なのに、その裸と思う、そのことに囚われて、旅してしまうこともあるでしょう。

ここでは裸の自分を裸と認識することを。A=Aの思考と呼んでいますが、それが可能になるには、世界、森羅万象の活動が必要です。それは、たとえば裸と着服、二項目を 比較対照する思考、あるいは自分で自分の状態を対象化する分裂の思考とは、趣、意味、構造が違います。

(たぶん高校生の頃です。ラジオから、♪♪とても淋しい海〜。そこには誰もいなかった〜。という歌が聞こえました。なぜ自分一人しかいないのに、誰もいなかったことが判ったんだろう?そんな疑問を持ちました)。

これが明確でないと。それが思考、認識だというだけで、比較対照する思考、あるいは分裂の思考、と思いこんで、自分が裸だと認識するそのことは・・・どこか箪笥・・・無意識に服を隠し持ってないわけではないか?と思って、北風と太陽に出会ってしまうこともあり得ます。

どうでもいい話なんですが、「無我がある」なんてことを言った人に。なんですか、それは?と聞いてみました。すると・・・しばらく考えて・・・無我って状態があるんだ・・・と呟きます。

それは、そうです。でも、それは無我を対象にしてるかもしれません。そんなことより見るべきは、そんなことを言う、その日常の自分が、どうか、と言うことだけです。

続きます。

No.3835 - 2011/11/29(Tue) 17:11:13

Re: / ubik0101
まあ人の経緯としては、自分は無我ということで、どこかにいるかも知れない、まだ自我な人と自分を比較することはあるかもしれません。それなら、そいう比較対照にする思考を根拠にして、無我を確認したいこと、が問題です。

ではなく、無我ならば、どこを探しても、自我も無我もないのです。そこで無我と表現するならば、なんだかの意味もなく、どんな根拠もなく、あらゆる理由がなく・・・無我でなくて、どうして無我と言えるでしょう。

ここから、ほかにも・・・無我は無我と自覚されないでも無我・・・とか展開はできそうですが・・・無我であって、無我。この思考は、そこで表現されてることを、世界が裏付けているのでなければ。それまでの人の経緯の総てが機能してるのでなければ。それゆえ個別の理由がない、でなければ、可能とは言えません。

もともと・・・ほかの人の場合は知りませんが・・・自我は虚構。それを見る、その有り様は、自我とか、無我とか、無思考とか、呼べることではないです。総てがあるから、どれでもない、と言うのがまだ近く、中道、世界の総活動、と呼んでいます。もちろん無我も、ひとつの大切な捕らえ方です。が、それさえ命名で。 そして命名は不適切なら問題です。

hatoさんと、行った海。なんか、オブジェみたいのが、立っていました。

No.3836 - 2011/11/29(Tue) 17:27:55

Re: / peer
着なければならない。と感じる事が、裸だと気づく事じゃないかしら?
そうすると、着なくてもいいなら、着ているってことになりますか。

対象を作ることで自我は自分で自我を気づく事が出来るけど、無我は、どうやって気づけるのかな。
何かを対象にしようとしても、対象から返ってくるものがないから、意識しようもないような気もする。

No.3837 - 2011/11/30(Wed) 01:58:13

Re: / ubik0101
>着なければならない。と感じる事が、裸だと気づく事じゃないかしら?
>そうすると、着なくてもいいなら、着ているってことになりますか。


なにか着なければならないと感じるのは、すでに靴下とかを履いていて、素っ裸ではないからです。もちろん、 まったく着てることに気がつかないほど自然に着ていても、裸ではないです。また無思考状態、忘我状態を、ない、と命名してるわけではありません。 誰でも裸になったら、裸になったという実感がある、そんなことです。

>対象を作ることで自我は自分で自我を気づく事が出来るけど、無我は、どうやって気づけるのかな。

どこかに無我という何かがあって、なくした宝石のように、それは懸命に探せば見つかる、というのではありません。 それまで、ないとも、あるとも思ってもなかった見て聞いて、行動する自分が、虚構だった、です。張り子の虎のように、その構造だけあって、中身が、ない、という意味です。

つまり 自我のほかに、ない、があるわけではありません。思いっ切り思い切って言うと、自我のほかには無我はないです。その自我が正体を開かすことが起きればいいのです。そのことで、いわゆる変化が確定します。とりあえずですが、それは人為的には困難、に一票です。

>何かを対象にしようとしても、対象から返ってくるものがないから、意識しようもないような気もする。

ありとあらゆること、つまり見る聞くなどの知覚、行動、発言、思考が、これは張り子の虎だ、と言ってくれているのです。ただ、あるないは、それほど問題ではないです。解脱、それが大事です。

なにかの鳥の、踊るような足跡です。

No.3838 - 2011/11/30(Wed) 19:42:30

Re: / peer
「裸」も、すでに自分を自覚できるから、無我でもないような気がする・・・。
つまり、無我といえど、何かはある。ないはずなのに、何かある。
みたいなことかなぁ。
まぁ。確かに、目では見えないナニカが、あると感じます。
言ったり行動した事が、つながってみたら、ぜんぜん別の意味があったりする。
なにか、操られて「ここにいる」そんな感じがある。
けど、なんとなく心地よい。なるべくしてなっている。そんな感じ。

No.3839 - 2011/12/01(Thu) 02:48:45

Re: / ubik0101
まあ、ない、はブラックホールのようなことで、そこからは電波も出られず、電波による観測は不能と言われます。でも、そこに吸い込まれつつあるチリや星から出る電波は観測できる、そうです。そのように自我その、ない、は日常では知覚不能で。その、行動、発言、思考に現れます。十二縁起の「無明ありて、行あり・・・」です。それで、ない、を了解でき得るためには、自我には構造がなければ、世界の総ての活動がなければ、不可能かもしれません。

ところで、復習です。ない、ということは。まずは・・・あるともないとも思ってもなかった、その自分が、虚構。つまり中心が、ない、ということです。そして・・・それ自身は、それ自身を自覚できない、の、ない、です。さらに・・・自己は、知覚の範疇に、ない。の、ない、です。この、ない、は、ある、とほどんど同義。ある、ゆえに知覚でき、ない、です。

この知覚の範疇にない自己が、虚構の自我、ない、を了解します。と言うよりも、ない、を知覚することは、自己の発現を意味します。ここに、無我の意義があります。さらに、この自己を知覚の範疇にないと了解しないと、それはそれを知覚できないのに、自分が自分を知覚しようとすることという自我、の機能に見舞われます。そして、これを見ることで逆に、自我の機能としての、自覚、が了解され整合されます。

続きます。

No.3840 - 2011/12/01(Thu) 16:46:22

Re: / ubik0101
そうでなく日常の、ある、ということは・・・それが機能していて知覚される、という事態です。もちろん電波とか、超音波とか、人には見えない聞こえないものを知識では知ってはいても、 知覚されないことは、ないことだ。ある、ことは知覚される。という、ある、に暗黙裏に囚われる傾向の有り様の・・・たとえば自我だと自覚されなければ自我ではないという・・・自我もあります。それで学ぶことにおいて、ない、の知覚が関門として機能します。 ここはまた、その事態と、その思考の関係の理解に繋がるでしょう。

このように見ていくと、このようなことは意味があるように感じられます。そして意味とは、なにかの構造があって、それが知り得るということです。なにか日常から意味を読んで、その理由を求めるのなら、進化する世界、とか。神、とか。多重世界、とか。ありのままに世界は無意味、とか。を想定することになりそうです。けど、そのような意味、無意味を破壊する疑問が自発的に生じます。なぜ、これは、これ?

たぶん親子でしょう。海の公園の自動販売機です。

No.3841 - 2011/12/01(Thu) 16:48:56

Re: / peer
宇宙は、いつから存在するのか。
それはヒトが宇宙を意識して言葉にしたときから
はじまった。

言葉にしなかったら、ただのカオス的な混沌ですか。
しかし、ヒトって、言葉にして認識したいモノなのですね。
なんでもないことに意味を求めたり。
アレとコレをつなげて理由にしたり。
事実を事実だけに、とどめない。
そんなモノなのだということは、わかる。

No.3844 - 2011/12/03(Sat) 04:16:43

Re: / ubik0101

なんでも、いいのですが・・・実験、つまり実際に経験、してみたでしょうか・・・たとえば、です。

>宇宙は、いつから存在するのか。
>それはヒトが宇宙を意識して言葉にしたときから
>はじまった。


というa・・・印象、感覚、思考、言葉、に対して。では、b・・・《これは、なぜ、これ?》と問うのです。どうでしょう?




それ、a・・・bが自発的なら、そこで問われたことも、問うことも瞬時に壊滅します。そして、たとえば「事実を事実だけに」という思考も生起することはできないのです。

説明ですが・・・どんなことも、こう、である必要がないのに、こう。たとえば、見る聞くが、こう、である必要はないのに、見る聞く。怒りが喜び平穏が、こうである必要がないのに、怒り喜び平穏で。思考が、時間が、空間が、世界が・・・こう・・・でなくていいのに。こう。

ここは、不思議の真っただ中、です。さらに説明ですが・・・これを言葉にしなくても、言葉にしても、思考しなくても、思考しても、意味を汲み取らないでも、意味を汲み取っても、この事態、です。

海の公園の自動販売機の近くの排水溝です。

No.3845 - 2011/12/03(Sat) 09:44:05

Re: / peer
わからないけれど。
「こうである必要がないのに」であるのは、本当でしょうか。
ヒトは自分の見たいように見るし、聞きたいように聞くし。
愛なんてない。と見ることもできるし。
すべてが愛。と見ることもできる。
となると、必要があるから、そうなる。
のではないかなぁ〜と思うんです。

異性がこちらを見てニッコリした。
もしかしたら、顔が引きつって笑ったように見えたのかもしれない。
でも、何か都合良く解釈してしまう。
「好意を持っているのかな」とか。
そういうふうに見たい、何かが・・・ある。
みたいな。
俗な例えで、すみません。

No.3846 - 2011/12/04(Sun) 03:32:27

Re: / ubik0101
>「こうである必要がないのに」であるのは、本当でしょうか。

ほんとうです。

サッカー選手が、サポーターの大声援を受けてゴールを決めて。嬉しさ爆発。しかし、この、この嬉しさは、いったい何なんだ?嬉しさは、なぜ、嬉しさなんだ?なぜ芝生は芝生なんだ?そもそも、サッカーて何だ。なぜ、こんなルールでなくちゃいけない?この自分は何?その、あまりに当然の、基礎のところを問うた、その問い得るということは、スタジアムの外に出た証。のようなことです。

たとえば・・・愛なんてない・・・また総てが愛・・・異性の笑顔を解釈する・・・泣いたり笑ったり思考したりの日常。そのような、この世界の有り様を前提にしてることでなくて。この世界は、なぜ、この世界?この世界が、この世界でなくてもいい・・・それが、この世界(を不思議と呼んでいます)で可能。なぜ、これは、これ?は、そのような問いです。

ところで仏陀は縁起を説いたと言われています。けど。もしかして仏教者にとっては、とんでも話かもしれませんが・・・「 これありて、かれあり」これは仏陀の縁起の概要です。そして「かれなくて、これなし」これは縁起の消滅です。この世界にいながら縁起の壊滅こそ、解脱。そんな話です。

続きます。

No.3848 - 2011/12/04(Sun) 21:51:19

Re: / ubik0101
まあ、なかなか全体は理解できないですが、十二縁起の順観「無明・・・行・・・識・・・」つまり、知覚され得ない愚かな自我があって、それが人の、愚かな、囚われた、迷いの行動、発言、思考に現れて観測され得ます。そのことで識、つまり迷いの思考、いわゆる心理的思考、葛藤、苦痛、が起こります。ここのあたりを検討したり観察したりすることが掲示板で見られるようです。

が、次の項目「・・・名称と形態(名色)・・・」これは、さっき、ざっとネットで探ってみたら、身体と精神、のことされてるようですが、これはたぶん誤解。ほとんど思考の限界、その事態とその思考、に囚われてる、縛られてる、迷ってる、ことと睨んでいます。これが明確でないと、識の理解も不明確でしょう。

ま、ともかく、十二縁起の逆観、無明がなくなる・・・無我の自覚・・・と、迷いの行もなくなり・・・迷いの識もなくなり・・・迷いの名称と形態もなくなり・・・(ここは、総てはひとつ、を突破しないと見えません)・・・つまり縁起の消滅。この世界に生きながら輪廻からの解脱。そんな話です。

No.3849 - 2011/12/04(Sun) 22:06:05
(No Subject) / ubik0101
>そして・・・そう。そこを、肉体の「自分感覚」から、自我という精神的(見えない世界)へと話をつなげたかったのです。・・・分かりにくかったようですね。

そーではなく、長文失礼にならないように、要点を話したのです。ふつうは、自動車の運転は練習すればできます。これは・・・無我なら練習しなくても運転できるわけでもなくて。100メートル10秒を切って走れるかは無関係で・・・ふつうの生活は自我にも無我にも、関係ないです。

どこにも実際には「一般的な、普通の人」はいないかもしれません。が、そういう人がいるとして、とりあえず、そんな人は、なにか自我、無我の問題はとくに意識になく暮らしてる人。と空想して話すとして。

たとえば、悩んだり怒ってして自我が機能してる場合は、自動車で言えば、世界との一体感がなく事故・・・葛藤・軋轢・・・に結びつくかもしれない。それは関係ない項目を関係づけてる思考で。そればかり言うのは。拘りの思考と見なされるでしょう。

そんな自我や無我に関係ない生活で。たとえば自動車免許の実技試験に落ちて悩んだとして、なぜ悩めるかのか、知らなくても、悩めるのでしょう。試験に受かって、嬉しいとか、とくに感慨がなくても・・・なぜそうできるのか知らなくても・・・そうなのでしょう。

続きます。

No.3822 - 2011/11/23(Wed) 19:28:27

Re: / ubik0101
おおよそ、 みんな人の基本の性能?は、泣いたり笑ったり食べたり寝たり思考したり・・・そのようなこと。なぜそれができるか知らなくても、みな一人一人、それぞれ、そんな生活してる。ここからも、ひとつ、は演繹できそうです。

そして、悩み、安堵、優越感、劣等感、意地悪、優しさ、怒り、自我でも、無我でも、単独でも、多様でも、総て纏めると、ひとつ、と、演繹できるでしょう。でもそれを、どう生きるかは、違います。

あくまで、どのように学んだかということの喩えですが・・・長ボウキで庭の掃除を真剣にした人、それを修行にまでした人、あるいは嫌々いい加減にした人、掃除を拒んだ人、自動車の練習をした人、しなかった人、ま、違わないかも知れないけど、違っても当たり前です。

やはり、ひとつ、はそれに帰着して済ませることではなく・・・いつか話したと思いますが・・・たとえば、ひとつの24色の絵の具の箱・・・世界・・・で描かれた絵は、その絵の具を使ってはいるけど、ひとつ、ではない、ことを醸しだしてる。です。

ところで話を戻します。そして、「一般的な、普通の人」ではなく、自我無我の経緯を通った人・・・もう無我の根拠を自我に置く必要もなくなった・・・これも、自我もなければ、無我もない・・・それで、運転したり、歩いたり、掃除したりです。

つまり、運転しても、庭を掃除しても、そんな人がいるとして「一般的な、普通の人」と、おおまかには変わりません。つまり区別するとして、同じことをしても自我は自我、無我は無我。そうだから、ことは困難と言えば困難でもあります。

続きます。

No.3823 - 2011/11/23(Wed) 19:37:16

Re: / ubik0101
くり返しますが。ここで空想されてる「一般的な、普通の人」。それは、自我に気がつかないから、自我とか無我とか問題になってないというだけかもしれません。とくに自我も無我も思考になくて、それが自我、と言うこともあり得るのです。

だけどその気がつかないということからも、気がついて学ぶこと。でなくて、なにも変わらないかもしれません。それは、ふつうの生活です。で。自我でも、無我でも、ほかの何かでも、なぜそれがそうなのか判らなくても、そうあり得ます。でも、なぜ、これは、こう?と問わないから、そこで停滞。なのかもしれません。

よーするに、どー思考するかは、その人の事態とは無関係。それなのに、拘わらされてる、そうでない。とかあります。たとえば自我な人も、自分がない、とか思考できるでしょう。いろんな経緯があるとしても、そのそこで事態と思考との関係が、探れるでしょう。

この、事態と思考との関係。ここに膠着したり、しなかったり。そうであっても、自我、無我に無関係。たぶん仏教で言う意味とは違うかもしれませんが、名称と形態、の脱着自由。そうであれば「自分感覚」から、「自我という精神的〈見えない世界〉」に繋がっても、繋がらない・・・のではないでしょうか。その繋がる場合は、どんな経緯?

No.3824 - 2011/11/23(Wed) 19:55:08

Re: / peer
>「自分感覚」から、「自我という精神的〈見えない世界〉」に繋がっても、繋がらない・・・
>のではないでしょうか。その繋がる場合は、どんな経緯?


うん。「自分感覚」って、触れたら冷たいとか熱いとか、そういう皮膚感覚のようなもの。
熱いヤカンに手を触れた事がある人は、他の人が触れた時、自分が触れているワケでもないのに「アッ熱い」と思わず声が出る。
単純に言うと、そういうことなんですが。
そんな共感性があるよね〜という話。もちろん、ない人もいるんですよ。ときどきは。
で。うん、あるよね。となったら、その先に話が進む〜と。

No.3827 - 2011/11/25(Fri) 02:51:48

Re: / ubik0101
やかんが熱くないのに、触って「アッ熱い」と、演技する人を見て、演技と判って、とくになにも感じない。また、それは演技なんだけど、その演技してる人に共感する。あるいは反発するってことも、あるでしょう。そして、なんであれ、それに膠着することも、しないで流すこともあるでしょう。

2人で一緒に同じ熱いやかんを触って、熱いと感じるなら事実。熱いやかんを触った、ほかの一人を見て、熱っ、と思うのは、空想・・・ならば、共感を根拠にする、ひとつ、は空想ってこと?そうではなく、そいう熱いやかんを触った人の感覚と、自分を切り離して、共感しないのが、自我ってこと?

たとえば一冊の書を開いて。隣にいる友人も、おなじその書の同じ行を同じ速度で視線が辿ってる、と感じながら一緒に読み進む。とか。電話で感情が伝わります。とか。事実もあるでしょう。 空想もあるでしょう。みんな同じような空想をしてるので、そうだそうだ、違う違う、と話あえることもあるでしょう。

こんな映像を見て、それぞれ同じような印象だと共感?違う印象だと、共感ではない?いろんな意見や、意見がある場、そこには共感はない?また、とくに映像を見ない無関心は自我?

マイケル・ジャクソン スーダラ節

http://www.youtube.com/watch?v=JGf_gs2320o&feature=related

なにかの経験とか、なんかの感覚の有無で、話を進められないとして。それに共感するのが、自我?または自我ではない?あるいは、話を進められないというのは、わけ判らないよ?と共感しないのが、自我?または自我でないってこと?どこかに区別があるということ?なんであれ、その自分にしか判らないってこと?

また、そのどこか一定のことに膠着するのが自我?あるいは、自我でない?どこか一定のことに膠着しないのが自我?あるいは、自我でない?またTPOで変わると自我?

でも、もともと、こいうことどれもが、自我とか関係ない範疇で、と設定して始めている話なので、共感と自我、どうやったら繋がるか判らないけど?そもそも、これは自我だと、人の生活、と関係あるとしては説明できないって話?

この秋の台風12号で倒れた樹の根っこの前に、誰かが自転車を置いていました。

No.3828 - 2011/11/25(Fri) 11:28:06

Re: / peer
>やかんが熱くないのに、触って「アッ熱い」と、演技する人を見て

わたし・・・ヤカンが熱くないとは書いてませんよね。
湯気が立ってるような熱いヤカンなのです。
演技している場合の事は、想定していませんでした。
うーむ。
はい。わかりました。
ときどきいる共感しない人・・・のようです。
共感はコミュニケーションの基本なのですし・・。
共感能力は、女性性の方が高いのかも。
モノ言わぬ赤ん坊が、何をして欲しいのか
何に興味があるのか、様々に共感して
自分の事のように感じて、察して要求を満たす。
それが出来ないと、子育てのようなものは
なかなか難しいんですよねぇ。・・・。

No.3829 - 2011/11/26(Sat) 02:36:35

Re: / peer
>こんな映像を見て、それぞれ同じような印象だと共感?違う印象だと、共感ではない?いろんな意見や、意見がある場、そこには共感はない?また、とくに映像を見ない無関心は自我?


まぁ・・・なんと言いましょうか。
スーダラ節世代の私には、スーダラ節自体が懐かしい・・・、歌とフリが良くあってますね。
と思う所です。
これ、スーダラ節を知らない世代は、なんと思うのかしら?
タモリの「ききみみアワー」なんかも、面白いと思う人は面白いだろうし。
暇人だな。と思う無関心な人もいそうです。
ホントに興味というのは、人それぞれで。
同じモノを見ても、まったく感じるものは違って。
そんなもんですね。

No.3830 - 2011/11/26(Sat) 02:49:31

Re: / ubik0101
とても簡単なのです。北風が吹いてきたら、旅人は、裸になればいいのです。
No.3831 - 2011/11/26(Sat) 07:40:45

Re: / peer
旅人は、自分が裸だと思い込んでいるから、着こみたがる。
というか〜裸だと思い込んでいるから旅をしたがる。
ということもあるかしら?

No.3833 - 2011/11/29(Tue) 10:07:30
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