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(No Subject) / peer
>そうした本をたくさん読んで、知ってる故に、無我に偏りたい人も多いでしょう。ならばそれは、もしかして、無我を張りたい自我・・・かも知れませんね。どうしたってそれは、知ってること、では、ないからです。

そうそう。悟るには無我が必要だと思い込まされて暴走するんですね。
しかし、やっぱり知識だけで終わるのが一般的です。
無我がある時、自我はない。自我がある時、無我はない。なので。なかなか難しい。
そしてトリックに、はまり込む。
自我にとって無我は・・・分からないものであって、分からないことは怖くなるものなので、自我を持ちながら、自我が無我にならないかな〜と、やっちゃう。
そんなふうに見えます。

>> それにしても「我」のくっついたモノに対して
>> 自分の価値観として大切にする人もいるし、
>> 見るに堪えないと感じる人もいるようです。


>そうなのでしょうか?peerさんは、どうなのでしょう?本当に誰かが、peerさんが感じるそのようかも、わからないでしょう。

誰かが、どう感じるかは、関係ないです。自分がどう感じるか・・・だけでしょ。
たとえば「この人は傲慢だ」と感じる。その証拠は?自分が感じるから〜しかないような気もします。
これは傲慢な状態だと。自分の傲慢と照らし合わせて、確認したりする。わけで。
(自分の中にないものを、人は、外に見ません)
中に照らし合わせるものがなかったら、どんなに人が傲慢をやろうと、関心が向かない。ということで。
人が傲慢だろうが謙虚だろうが、どうでもいいことになりそうです。

>その理解は、簡単、と安直にいえませんが、簡単に難しい、ともいえません。進む、ということ。留まるところでない場所に留まらない、ことで可能です。

うん。私の場合では、それは「終わった」という感覚。
良い事を学んだ。というものはなく。利用しよう、もなく。ただ終わった。
終わった処に、留まる事は出来ませんね。

No.3821 - 2011/11/23(Wed) 04:39:44

Re: / hato

こんにちは。

昨日は、家で仕事と、年賀状のデザインを考えていました。ubik0101さんと、なにかいいモチーフないかな・・・と探しているところです。

早いですね。もう、一年も終わりに近づきます。


> 誰かが、どう感じるかは、関係ないです。自分がどう感じるか・・・だけでしょ。


peerさんはいつも、自分の状態を書いている、ということですね。

では、peerさんの投稿をあらためて、読んでみましょう。
そうしますと、peerさんの状態が、よくわかるかも知れません。


> 人は、その人の記憶の集大成ですから・・・。
> その人の体験と記憶の裏付け・背景に必ず「社会」は
> あると思いますね。
> 社会から切り離された「その人」は、いるのだろうか。
> そういう風に見ると「その人」なんてものはいなく、
> 「社会のある面」のようなことにも、なりそうな。



> これは傲慢な状態だと。自分の傲慢と照らし合わせて、確 認したりする。わけで。
> (自分の中にないものを、人は、外に見ません)



人が社会である、とは、世界の中に人があることです。それは、まだ、この世界の知識と感覚、というところを出ていない、ということです。そして、自分の中にないものを外に見ない・・・という思考。これが、世界と我々はひとつ・・・の限界でもあります。この掲示板で見ている、理解、とは、その思い込みを逸脱しても、起こり得る理解をいいます。

大事なことは、いま、その様にあることを、認め、自我や無我に偏向することのできない、正真正銘の自分を、きちんと知ることと、思います。ほかの誰でもない、peerさんが、無我に偏る自我・・・その見方であることをまず、見止め、そこから進む、ということ。

なんとなく、社会や世間の人はそのようにある・・・それを見てる自分もその様だ・・・そのすべてが我々ひとつ、ということだ・・・世界は現象であり、人は現象そのものだ・・・・と。これは、人の覚醒、その事実ではありません。

人は、無我ということを、その自分、を逃がすために使ってはならないのです。愛が愛。であるように、人は、人です。人は、その自我、無我に、偏向しないところのその自己であることを、生きることが、できるのです。

どんな自分も、世界の役に立つことができるのは、世界のとても、素敵なところですね。でも、自分の状態に気付くことが難しいとき、それは、その人自身のためにならないでしょう。


> 人が傲慢だろうが謙虚だろうが、どうでもいいことになりそうです。


愛は、愛。といいました。

その愛は、なにかに無関係。にあるために、正しく関係することができますね。

もちろん、どうでも、いいのです。
でも、どうでもよくない、のです。
そのようなことです。

了解とは、文字通り、了解です。

学ぶことに、終わりはない。これは、別の話です。

No.3825 - 2011/11/24(Thu) 18:08:40

Re: / peer
>> 誰かが、どう感じるかは、関係ないです。自分がどう感じるか・・・だけでしょ。

>peerさんはいつも、自分の状態を書いている、ということですね。

この場合は、人がどう思うかを判断基準にしないで、自分の気持ちを素直に感じ切る。
という意味での「誰かが、どう感じるかは関係ない」と書きました。

>人が社会である、とは、世界の中に人があることです。

そういう方向もありますが、この場合は自分の中に社会がある。
という見方をしています。
世界が人の中にあるから、ひとりひとり、生きている場が違うわけです。
しかし、そのバラバラが世界の推進力〜というか、世界を作り成長させるエネルギー。
のような気もしています。

>これは、人の覚醒、その事実ではありません。

はい。その話をしているんです。
覚醒している人を対象にした話ではないのです。

>人は、無我ということを、その自分、を逃がすために使ってはならないのです。

それは、同感です。まったく、そのとおり。
私は自我を「自分のもの」と世界から切り取った境界内を作る事〜として
無我とは、それを開いたところ・・・境界のない無限性・・・
自我=有限、無我=無限。とシンプルにとらえる事が出来るかな〜と思います。
そしてコインの裏表のようなもの。
表だけのコインはなく、裏だけのコインもない〜と。

No.3826 - 2011/11/25(Fri) 02:43:12

Re: / hato

こんにちは、peerさん。

今日のこちらは、晴れときどき曇掛かる・・・あたたかい初冬です。これから、海にでかけます。いよいよ冷えますが、peerさんも風邪などひかないよう、ご自愛ください。


さて、こちらです。

> この場合は、人がどう思うかを判断基準にしないで、自分の気持ちを素直に感じ切る。
> という意味での「誰かが、どう感じるかは関係ない」と書きました。
> >人が社会である、とは、世界の中に人があることです。
>
> そういう方向もありますが、この場合は自分の中に社会がある。
> という見方をしています。


自分の中に社会がある・・・そのように表現されることが正に、自我、ということです。

それは、世界の中に、人がある、ことです。


> 世界が人の中にあるから、ひとりひとり、生きている場が違うわけです。

これは事実とも、いえません。自我にとっての、空想です。


> しかし、そのバラバラが世界の推進力〜というか、世界を作り成長させるエネルギー。
> のような気もしています。



ここで、このような話の運びになる、話が流れることを、自我の逃避、といいます。

自我というものはこのようにして、自分を逃そうとしますよ。それは決して、無我、ということでは、ありません。自我が、一番見たくないところの、自我なのです。もちろん、在る、わけでもない自我にとって、こうした話の流れは、あぶないことです。なぜなら、それ迄のやり方を捨てねばならないことを、自我はよく見聞きして学び、知ってるのです。


> >これは、人の覚醒、その事実ではありません。
>
> はい。その話をしているんです。
> 覚醒している人を対象にした話ではないのです。



では、まずその自分をできるだけ、正確に、話すことをしていきましょう。まずはそれだけで、いいのです。

もし、それを知らないなら、知ってるように話しては、いけません。成長、ということについては、十分注意して話さなければならないのです。でなければほかの人や、peerさん自身が、その言葉に騙されてしまうでしょう。それは、哀しいことです。

たとえば人は、社会や世間、自我無我・・・そんな自分に、嘘をつくことができます。その自分を、気付くこともなく人は、騙すことが、できるかも知れません。けれど、誰でもない誰か・・・・ということを、本気で学んだ、成就したそれに於いて、人は嘘をつくことができません。どのように言葉を繕ってみても、それでないなら、ちがうのです。

自分の中や、外・・・との、すでにその言明が、自分、という塊を想定していることにほかならない・・・・というより、もともと中道にない状態で、なにか見てるということです。

中道を見た人は、そのように考えることができないでしょう。そうしたことが人の成長に於いて、殆ど意味がないことを、よく知っているからです。


> >人は、無我ということを、その自分、を逃がすために使ってはならないのです。
>
> それは、同感です。まったく、そのとおり。



peerさんは、柔軟な感性で、なにかに同化しやすいのかも知れません。やさしいのでしょう。なので、そうそう!と思えることが、多いのでしょう。けど、照らし合わせて見て、納得されることが覚醒・・・では、ないのです。

いつか、話したかも知れません。今まで親しんできたやり方・・・照らし合わせ・・・共感する・・・それも大事な体験です。けれどそれでは、本来の理解に進むことが難しい、ということを、認めなければなりません。一旦、知識や体験を、白紙に戻す、ということ。本当に失ったときに、適切な道具として、用いることができるでしょう。

徹底してそうしてみることを、始めてみることも、できると思います。

きついかも知れませんが。本当の祝事は、それからです。そして、人がその経験をしても、それが言葉として、その人を通じて語り出されるまでには、素直を生きる不屈の忍耐、或いは、相当の年月がかかることでもあることを、言わねばなりません。もちろん、これも一様にはありません。けれど、たとえば、そのようなことです。

素直とは、人が世界で 不思議 と交わせる、大事な約束です。


ひねくれもの同志のubik0101さんによれば・・・

(*わたしは、ひねくれてはいないので、その意味では、同志に、なれません。)

「peerさんは、ひねくれ方が、足りないんだよ。ぼかぁ、真摯になるほどに、ひねくれたんだよ」


山にいると、川に橋が架かっていました。奥の谷橋、と読めます。

No.3832 - 2011/11/26(Sat) 12:48:38

Re: / peer
風邪は・・・ねぇ。ひいていても気がつかない。
みたいな感じで。年中、半そでで仕事〜してます。


>自分の中に社会がある・・・そのように表現されることが正に、自我、ということです。
>それは、世界の中に、人がある、ことです。
>これは事実とも、いえません。自我にとっての、空想です。


そうです。そして、世界にあることの責任を背負う。
つまり空想の責任をとってもらおう。というのが私の言い分。
世界はひとりひとり違うよね〜だから私と貴方は違うのよね〜
それでいいのよね〜というトコロからの飛躍みたいなもの。
もちろん、この飛躍は逃避というようなものではありません。
「自分の中に社会がある」のですから、逃れられません。
社会にあることは、社会の問題であり、自分とは別に
存在している。という逃避が使えない。
社会に問題があるのではなく、自分の問題なのです。
自分の問題が社会を通してフィードバックされている。
という言い方も出来ます。

>> それは、同感です。まったく、そのとおり。

>peerさんは、柔軟な感性で、なにかに同化しやすいのかも知れません。
>やさしいのでしょう。なので、そうそう!と思えることが、多いのでしょう。


ですからね。それが、まるっきりの勘違い。
「やさしい」という解釈は・・・違うよね。
自分の中にあることなのだから、自覚するだけなのです。
「相手を肯定する・認める・同化する」のではないのよ。
社会を見て「あー嫌だな。汚いなぁ」ということが
ある、として。
うん。自分のことだな。と認めるようなものですね。
そこはまず通過するように出来ているんじゃないでしょうか。

であるのであるならば。
北風も太陽も、自分で作ったものであり〜
それにいちいち、どうのこうのも、ないでしょう。
みたいな。

No.3834 - 2011/11/29(Tue) 12:40:26

Re: / hato

こんばんは。

雨がすこし、降ったり止んだり、してるようです。

走る車中から見ると、田畑の草が金色に光り、見とれてしまいます。
9980円のナビを買って、安いがこれが使いよう。ふいに思いつき、嬉しそうにふたりして、夜中の農道をひた走り、お茶を飲みに、でかけます。


> 風邪は・・・ねぇ。ひいていても気がつかない。
> みたいな感じで。年中、半そでで仕事〜してます。



まあ、そうでしたか。
そろそろ、本格的に冷えるそうですよ。


> そうです。そして、世界にあることの責任を背負う。
> つまり空想の責任をとってもらおう。というのが私の言い分。



つまり、コインの裏表のような自我無我を生きる人が、どっちかになって、なにか言ってる・・・のでしょうか。相対にあることは、対にあることでは、解決しないと思います。


> 「自分の中に社会がある」のですから、逃れられません。
> 社会にあることは、社会の問題であり、自分とは別に
> 存在している。という逃避が使えない。
> 社会に問題があるのではなく、自分の問題なのです。
> 自分の問題が社会を通してフィードバックされている。
> という言い方も出来ます。



生きていて、なにか問題に遭遇したなら、そのとき対処するでしょうね。自分にはそれがしっくりきます。関わることがあり、できることをします。責任をもつのは、その自分の発言ということでもいいのです。ひとつひとつ、できることを、と思いますね。

人がなにか、分離らしい側から反転した、合一らしい側に拠った状態で思考されたり、或いは体験される・・・・それなら、人は奇しくも、断片です。世界が社会の出来事の範疇に収められ・・・見止められてしまうところは、中道、その総位相とは、悲しくも、似て非なるところです。

そうでない、いつでもどこでも、どのようにしても人に、真の中道、その総ての位相が、滞りなく揃われる、ということ。それはたとえば、意識されたところの、なんでもどうでもありのすべてでは、ないよ、ということです。


> ですからね。それが、まるっきりの勘違い。
> 「やさしい」という解釈は・・・違うよね。
> 自分の中にあることなのだから、自覚するだけなのです。
> 「相手を肯定する・認める・同化する」のではないのよ。
> 社会を見て「あー嫌だな。汚いなぁ」ということが
> ある、として。
> うん。自分のことだな。と認めるようなものですね。
> そこはまず通過するように出来ているんじゃないでしょうか。



事実とは、不可思議です。自分の中、ということが強調され、意識されてあらざるを得ないとき、或いはその形式にあるとき、事実を見ることは、難しいのです。

進んでいくとき、すべてを自分の中に見る・・・必要が、ただ、ないことを、見るだけです。それは、なにかの欠片、断片になる・・・・ことではありません。だいじょうぶ、ということです。


> であるのであるならば。
> 北風も太陽も、自分で作ったものであり〜
> それにいちいち、どうのこうのも、ないでしょう。
> みたいな。



たとえば人は中道の先を、知る、ことはできません。

北風も、太陽も、

真摯な人に、それを学ぶことがあるでしょうね。

成長とは、戻ることの、できない道、と思います。


あしあと。すてきです。

No.3842 - 2011/12/02(Fri) 01:46:50

Re: / peer
このところ、よく雨が降ります。

>つまり、コインの裏表のような自我無我を生きる人が、どっちかになって、なにか言ってる・・・のでしょうか。

対象を持ったら、ちょっと違うかな〜と思います。
コインは裏も表もある。と理解されたら、それしかない。
両方のどちらが本物もない平等感。と思うんですよ。

>責任をもつのは、その自分の発言ということでもいいのです。

そうそう。(と頷くと、また同調と言われるかな)
つまり、どでかく責任を・・・ということじゃないのね。
思う事と言う事と行為に矛盾が生じたら無責任でしょ?
世界が、人が、じゃなくて、まず自らの姿を・・・。

>進んでいくとき、すべてを自分の中に見る・・・必要が、ただ、ないことを、見るだけです。

うん。そういう状態の人は、それでいいんじゃないかな。
どうでしょう。自我(有為)・・無我(無為)というのは。

No.3843 - 2011/12/03(Sat) 04:03:00

Re: / hato

こんにちは。

今朝のこちらは、快晴です。

朝から、爽やかな風、ぽかぽかお日様ですよ。


> 対象を持ったら、ちょっと違うかな〜と思います。
> コインは裏も表もある。と理解されたら、それしかない。
> 両方のどちらが本物もない平等感。と思うんですよ。



表といって、裏を考える。無我、といって、自我・・・と考える、思考の形態はそのようなものですが・・・・といって、自我や無我とは、そのように、ある・・・わけでも、ない、ということです。


> つまり、どでかく責任を・・・ということじゃないのね。
> 思う事と言う事と行為に矛盾が生じたら無責任でしょ?
> 世界が、人が、じゃなくて、まず自らの姿を・・・。



なので、peerさんの文章は、peerさんが表現されてる・・・でいいのでしたね。

自分にとって、世界と人というところ、そのように表現することに、違和感はないのです。大げさでも、ないのです。生きること、見ること・・・、世界や人、というところ。この自分というところ。それは等価です。そして、無関係に関係される、関係無いがゆえに正しく関係される・・・・ところで用いる表現として、大変しっくりします。


>進んでいくとき、すべてを自分の中に見る・・・必要が、ただ、ないことを、見るだけです。

> うん。そういう状態の人は、それでいいんじゃないかな。


誰にとっても容易いものではないでしょうが、・・・その意味で、話すことと自分の状態が違う、という誤謬がなくてすみます。それは、幸せなこと、と思います。


そういえばもう、雪の降る季節です。

遠州灘のとある海。ほとんど無風のなかで、海岸を散歩しました。

No.3847 - 2011/12/04(Sun) 11:14:05

永くなりましたが・このへんで / peer
>なので、peerさんの文章は、peerさんが表現されてる・・・でいいのでしたね。

はい。「私」が表現したいのではなく、私を通して世界が現れる。世界が表現体として私を利用している。
みたいな感じであります。
だから、ひとりひとりの世界は、大切だと感じてます。
ひとつも、疎かには出来ない。大切なもの。誰ひとり欠けていいモノはない。
光(白色)がプリズムを通すと、様々な色に変わるように。
その生命ひとつひとつがパズルのピース。万華鏡のように、不思議な世界を見せる。のかも。

No.3851 - 2011/12/05(Mon) 03:20:05

Re: / 青雀
おお。

hatoさん、砂浜、海の写真

素敵です。

No.3852 - 2011/12/05(Mon) 19:18:09

Re: / hato

> はい。「私」が表現したいのではなく、私を通して世界が現れる。世界が表現体として私を利用している。
> みたいな感じであります。



人が本気で学ぶ、ということは、世界にたゆたい流れるその自分、を肯定しない、留まらない・・・・まずはどこまでも掘り起こす、縦方向の学びがどうしても、不可欠です。それは人であるなら、ただ、その向きに起こります。

そのとき、あらゆる思考や知識が、その自分を席巻することは、できないでしょう。

それは例外なく、誰にとっても、本当の幸せ、です。

peerさん、ではまた、よいときに。

No.3854 - 2011/12/05(Mon) 22:11:46
(No Subject) / ubik0101
>旅人は、自分が裸だと思い込んでいるから、着こみたがる。
>というか〜裸だと思い込んでいるから旅をしたがる。
>ということもあるかしら?


そのように。自分は、裸なのに、その裸と思う、そのことに囚われて、旅してしまうこともあるでしょう。

ここでは裸の自分を裸と認識することを。A=Aの思考と呼んでいますが、それが可能になるには、世界、森羅万象の活動が必要です。それは、たとえば裸と着服、二項目を 比較対照する思考、あるいは自分で自分の状態を対象化する分裂の思考とは、趣、意味、構造が違います。

(たぶん高校生の頃です。ラジオから、♪♪とても淋しい海〜。そこには誰もいなかった〜。という歌が聞こえました。なぜ自分一人しかいないのに、誰もいなかったことが判ったんだろう?そんな疑問を持ちました)。

これが明確でないと。それが思考、認識だというだけで、比較対照する思考、あるいは分裂の思考、と思いこんで、自分が裸だと認識するそのことは・・・どこか箪笥・・・無意識に服を隠し持ってないわけではないか?と思って、北風と太陽に出会ってしまうこともあり得ます。

どうでもいい話なんですが、「無我がある」なんてことを言った人に。なんですか、それは?と聞いてみました。すると・・・しばらく考えて・・・無我って状態があるんだ・・・と呟きます。

それは、そうです。でも、それは無我を対象にしてるかもしれません。そんなことより見るべきは、そんなことを言う、その日常の自分が、どうか、と言うことだけです。

続きます。

No.3835 - 2011/11/29(Tue) 17:11:13

Re: / ubik0101
まあ人の経緯としては、自分は無我ということで、どこかにいるかも知れない、まだ自我な人と自分を比較することはあるかもしれません。それなら、そいう比較対照にする思考を根拠にして、無我を確認したいこと、が問題です。

ではなく、無我ならば、どこを探しても、自我も無我もないのです。そこで無我と表現するならば、なんだかの意味もなく、どんな根拠もなく、あらゆる理由がなく・・・無我でなくて、どうして無我と言えるでしょう。

ここから、ほかにも・・・無我は無我と自覚されないでも無我・・・とか展開はできそうですが・・・無我であって、無我。この思考は、そこで表現されてることを、世界が裏付けているのでなければ。それまでの人の経緯の総てが機能してるのでなければ。それゆえ個別の理由がない、でなければ、可能とは言えません。

もともと・・・ほかの人の場合は知りませんが・・・自我は虚構。それを見る、その有り様は、自我とか、無我とか、無思考とか、呼べることではないです。総てがあるから、どれでもない、と言うのがまだ近く、中道、世界の総活動、と呼んでいます。もちろん無我も、ひとつの大切な捕らえ方です。が、それさえ命名で。 そして命名は不適切なら問題です。

hatoさんと、行った海。なんか、オブジェみたいのが、立っていました。

No.3836 - 2011/11/29(Tue) 17:27:55

Re: / peer
着なければならない。と感じる事が、裸だと気づく事じゃないかしら?
そうすると、着なくてもいいなら、着ているってことになりますか。

対象を作ることで自我は自分で自我を気づく事が出来るけど、無我は、どうやって気づけるのかな。
何かを対象にしようとしても、対象から返ってくるものがないから、意識しようもないような気もする。

No.3837 - 2011/11/30(Wed) 01:58:13

Re: / ubik0101
>着なければならない。と感じる事が、裸だと気づく事じゃないかしら?
>そうすると、着なくてもいいなら、着ているってことになりますか。


なにか着なければならないと感じるのは、すでに靴下とかを履いていて、素っ裸ではないからです。もちろん、 まったく着てることに気がつかないほど自然に着ていても、裸ではないです。また無思考状態、忘我状態を、ない、と命名してるわけではありません。 誰でも裸になったら、裸になったという実感がある、そんなことです。

>対象を作ることで自我は自分で自我を気づく事が出来るけど、無我は、どうやって気づけるのかな。

どこかに無我という何かがあって、なくした宝石のように、それは懸命に探せば見つかる、というのではありません。 それまで、ないとも、あるとも思ってもなかった見て聞いて、行動する自分が、虚構だった、です。張り子の虎のように、その構造だけあって、中身が、ない、という意味です。

つまり 自我のほかに、ない、があるわけではありません。思いっ切り思い切って言うと、自我のほかには無我はないです。その自我が正体を開かすことが起きればいいのです。そのことで、いわゆる変化が確定します。とりあえずですが、それは人為的には困難、に一票です。

>何かを対象にしようとしても、対象から返ってくるものがないから、意識しようもないような気もする。

ありとあらゆること、つまり見る聞くなどの知覚、行動、発言、思考が、これは張り子の虎だ、と言ってくれているのです。ただ、あるないは、それほど問題ではないです。解脱、それが大事です。

なにかの鳥の、踊るような足跡です。

No.3838 - 2011/11/30(Wed) 19:42:30

Re: / peer
「裸」も、すでに自分を自覚できるから、無我でもないような気がする・・・。
つまり、無我といえど、何かはある。ないはずなのに、何かある。
みたいなことかなぁ。
まぁ。確かに、目では見えないナニカが、あると感じます。
言ったり行動した事が、つながってみたら、ぜんぜん別の意味があったりする。
なにか、操られて「ここにいる」そんな感じがある。
けど、なんとなく心地よい。なるべくしてなっている。そんな感じ。

No.3839 - 2011/12/01(Thu) 02:48:45

Re: / ubik0101
まあ、ない、はブラックホールのようなことで、そこからは電波も出られず、電波による観測は不能と言われます。でも、そこに吸い込まれつつあるチリや星から出る電波は観測できる、そうです。そのように自我その、ない、は日常では知覚不能で。その、行動、発言、思考に現れます。十二縁起の「無明ありて、行あり・・・」です。それで、ない、を了解でき得るためには、自我には構造がなければ、世界の総ての活動がなければ、不可能かもしれません。

ところで、復習です。ない、ということは。まずは・・・あるともないとも思ってもなかった、その自分が、虚構。つまり中心が、ない、ということです。そして・・・それ自身は、それ自身を自覚できない、の、ない、です。さらに・・・自己は、知覚の範疇に、ない。の、ない、です。この、ない、は、ある、とほどんど同義。ある、ゆえに知覚でき、ない、です。

この知覚の範疇にない自己が、虚構の自我、ない、を了解します。と言うよりも、ない、を知覚することは、自己の発現を意味します。ここに、無我の意義があります。さらに、この自己を知覚の範疇にないと了解しないと、それはそれを知覚できないのに、自分が自分を知覚しようとすることという自我、の機能に見舞われます。そして、これを見ることで逆に、自我の機能としての、自覚、が了解され整合されます。

続きます。

No.3840 - 2011/12/01(Thu) 16:46:22

Re: / ubik0101
そうでなく日常の、ある、ということは・・・それが機能していて知覚される、という事態です。もちろん電波とか、超音波とか、人には見えない聞こえないものを知識では知ってはいても、 知覚されないことは、ないことだ。ある、ことは知覚される。という、ある、に暗黙裏に囚われる傾向の有り様の・・・たとえば自我だと自覚されなければ自我ではないという・・・自我もあります。それで学ぶことにおいて、ない、の知覚が関門として機能します。 ここはまた、その事態と、その思考の関係の理解に繋がるでしょう。

このように見ていくと、このようなことは意味があるように感じられます。そして意味とは、なにかの構造があって、それが知り得るということです。なにか日常から意味を読んで、その理由を求めるのなら、進化する世界、とか。神、とか。多重世界、とか。ありのままに世界は無意味、とか。を想定することになりそうです。けど、そのような意味、無意味を破壊する疑問が自発的に生じます。なぜ、これは、これ?

たぶん親子でしょう。海の公園の自動販売機です。

No.3841 - 2011/12/01(Thu) 16:48:56

Re: / peer
宇宙は、いつから存在するのか。
それはヒトが宇宙を意識して言葉にしたときから
はじまった。

言葉にしなかったら、ただのカオス的な混沌ですか。
しかし、ヒトって、言葉にして認識したいモノなのですね。
なんでもないことに意味を求めたり。
アレとコレをつなげて理由にしたり。
事実を事実だけに、とどめない。
そんなモノなのだということは、わかる。

No.3844 - 2011/12/03(Sat) 04:16:43

Re: / ubik0101

なんでも、いいのですが・・・実験、つまり実際に経験、してみたでしょうか・・・たとえば、です。

>宇宙は、いつから存在するのか。
>それはヒトが宇宙を意識して言葉にしたときから
>はじまった。


というa・・・印象、感覚、思考、言葉、に対して。では、b・・・《これは、なぜ、これ?》と問うのです。どうでしょう?




それ、a・・・bが自発的なら、そこで問われたことも、問うことも瞬時に壊滅します。そして、たとえば「事実を事実だけに」という思考も生起することはできないのです。

説明ですが・・・どんなことも、こう、である必要がないのに、こう。たとえば、見る聞くが、こう、である必要はないのに、見る聞く。怒りが喜び平穏が、こうである必要がないのに、怒り喜び平穏で。思考が、時間が、空間が、世界が・・・こう・・・でなくていいのに。こう。

ここは、不思議の真っただ中、です。さらに説明ですが・・・これを言葉にしなくても、言葉にしても、思考しなくても、思考しても、意味を汲み取らないでも、意味を汲み取っても、この事態、です。

海の公園の自動販売機の近くの排水溝です。

No.3845 - 2011/12/03(Sat) 09:44:05

Re: / peer
わからないけれど。
「こうである必要がないのに」であるのは、本当でしょうか。
ヒトは自分の見たいように見るし、聞きたいように聞くし。
愛なんてない。と見ることもできるし。
すべてが愛。と見ることもできる。
となると、必要があるから、そうなる。
のではないかなぁ〜と思うんです。

異性がこちらを見てニッコリした。
もしかしたら、顔が引きつって笑ったように見えたのかもしれない。
でも、何か都合良く解釈してしまう。
「好意を持っているのかな」とか。
そういうふうに見たい、何かが・・・ある。
みたいな。
俗な例えで、すみません。

No.3846 - 2011/12/04(Sun) 03:32:27

Re: / ubik0101
>「こうである必要がないのに」であるのは、本当でしょうか。

ほんとうです。

サッカー選手が、サポーターの大声援を受けてゴールを決めて。嬉しさ爆発。しかし、この、この嬉しさは、いったい何なんだ?嬉しさは、なぜ、嬉しさなんだ?なぜ芝生は芝生なんだ?そもそも、サッカーて何だ。なぜ、こんなルールでなくちゃいけない?この自分は何?その、あまりに当然の、基礎のところを問うた、その問い得るということは、スタジアムの外に出た証。のようなことです。

たとえば・・・愛なんてない・・・また総てが愛・・・異性の笑顔を解釈する・・・泣いたり笑ったり思考したりの日常。そのような、この世界の有り様を前提にしてることでなくて。この世界は、なぜ、この世界?この世界が、この世界でなくてもいい・・・それが、この世界(を不思議と呼んでいます)で可能。なぜ、これは、これ?は、そのような問いです。

ところで仏陀は縁起を説いたと言われています。けど。もしかして仏教者にとっては、とんでも話かもしれませんが・・・「 これありて、かれあり」これは仏陀の縁起の概要です。そして「かれなくて、これなし」これは縁起の消滅です。この世界にいながら縁起の壊滅こそ、解脱。そんな話です。

続きます。

No.3848 - 2011/12/04(Sun) 21:51:19

Re: / ubik0101
まあ、なかなか全体は理解できないですが、十二縁起の順観「無明・・・行・・・識・・・」つまり、知覚され得ない愚かな自我があって、それが人の、愚かな、囚われた、迷いの行動、発言、思考に現れて観測され得ます。そのことで識、つまり迷いの思考、いわゆる心理的思考、葛藤、苦痛、が起こります。ここのあたりを検討したり観察したりすることが掲示板で見られるようです。

が、次の項目「・・・名称と形態(名色)・・・」これは、さっき、ざっとネットで探ってみたら、身体と精神、のことされてるようですが、これはたぶん誤解。ほとんど思考の限界、その事態とその思考、に囚われてる、縛られてる、迷ってる、ことと睨んでいます。これが明確でないと、識の理解も不明確でしょう。

ま、ともかく、十二縁起の逆観、無明がなくなる・・・無我の自覚・・・と、迷いの行もなくなり・・・迷いの識もなくなり・・・迷いの名称と形態もなくなり・・・(ここは、総てはひとつ、を突破しないと見えません)・・・つまり縁起の消滅。この世界に生きながら輪廻からの解脱。そんな話です。

No.3849 - 2011/12/04(Sun) 22:06:05
(No Subject) / ubik0101
>そして・・・そう。そこを、肉体の「自分感覚」から、自我という精神的(見えない世界)へと話をつなげたかったのです。・・・分かりにくかったようですね。

そーではなく、長文失礼にならないように、要点を話したのです。ふつうは、自動車の運転は練習すればできます。これは・・・無我なら練習しなくても運転できるわけでもなくて。100メートル10秒を切って走れるかは無関係で・・・ふつうの生活は自我にも無我にも、関係ないです。

どこにも実際には「一般的な、普通の人」はいないかもしれません。が、そういう人がいるとして、とりあえず、そんな人は、なにか自我、無我の問題はとくに意識になく暮らしてる人。と空想して話すとして。

たとえば、悩んだり怒ってして自我が機能してる場合は、自動車で言えば、世界との一体感がなく事故・・・葛藤・軋轢・・・に結びつくかもしれない。それは関係ない項目を関係づけてる思考で。そればかり言うのは。拘りの思考と見なされるでしょう。

そんな自我や無我に関係ない生活で。たとえば自動車免許の実技試験に落ちて悩んだとして、なぜ悩めるかのか、知らなくても、悩めるのでしょう。試験に受かって、嬉しいとか、とくに感慨がなくても・・・なぜそうできるのか知らなくても・・・そうなのでしょう。

続きます。

No.3822 - 2011/11/23(Wed) 19:28:27

Re: / ubik0101
おおよそ、 みんな人の基本の性能?は、泣いたり笑ったり食べたり寝たり思考したり・・・そのようなこと。なぜそれができるか知らなくても、みな一人一人、それぞれ、そんな生活してる。ここからも、ひとつ、は演繹できそうです。

そして、悩み、安堵、優越感、劣等感、意地悪、優しさ、怒り、自我でも、無我でも、単独でも、多様でも、総て纏めると、ひとつ、と、演繹できるでしょう。でもそれを、どう生きるかは、違います。

あくまで、どのように学んだかということの喩えですが・・・長ボウキで庭の掃除を真剣にした人、それを修行にまでした人、あるいは嫌々いい加減にした人、掃除を拒んだ人、自動車の練習をした人、しなかった人、ま、違わないかも知れないけど、違っても当たり前です。

やはり、ひとつ、はそれに帰着して済ませることではなく・・・いつか話したと思いますが・・・たとえば、ひとつの24色の絵の具の箱・・・世界・・・で描かれた絵は、その絵の具を使ってはいるけど、ひとつ、ではない、ことを醸しだしてる。です。

ところで話を戻します。そして、「一般的な、普通の人」ではなく、自我無我の経緯を通った人・・・もう無我の根拠を自我に置く必要もなくなった・・・これも、自我もなければ、無我もない・・・それで、運転したり、歩いたり、掃除したりです。

つまり、運転しても、庭を掃除しても、そんな人がいるとして「一般的な、普通の人」と、おおまかには変わりません。つまり区別するとして、同じことをしても自我は自我、無我は無我。そうだから、ことは困難と言えば困難でもあります。

続きます。

No.3823 - 2011/11/23(Wed) 19:37:16

Re: / ubik0101
くり返しますが。ここで空想されてる「一般的な、普通の人」。それは、自我に気がつかないから、自我とか無我とか問題になってないというだけかもしれません。とくに自我も無我も思考になくて、それが自我、と言うこともあり得るのです。

だけどその気がつかないということからも、気がついて学ぶこと。でなくて、なにも変わらないかもしれません。それは、ふつうの生活です。で。自我でも、無我でも、ほかの何かでも、なぜそれがそうなのか判らなくても、そうあり得ます。でも、なぜ、これは、こう?と問わないから、そこで停滞。なのかもしれません。

よーするに、どー思考するかは、その人の事態とは無関係。それなのに、拘わらされてる、そうでない。とかあります。たとえば自我な人も、自分がない、とか思考できるでしょう。いろんな経緯があるとしても、そのそこで事態と思考との関係が、探れるでしょう。

この、事態と思考との関係。ここに膠着したり、しなかったり。そうであっても、自我、無我に無関係。たぶん仏教で言う意味とは違うかもしれませんが、名称と形態、の脱着自由。そうであれば「自分感覚」から、「自我という精神的〈見えない世界〉」に繋がっても、繋がらない・・・のではないでしょうか。その繋がる場合は、どんな経緯?

No.3824 - 2011/11/23(Wed) 19:55:08

Re: / peer
>「自分感覚」から、「自我という精神的〈見えない世界〉」に繋がっても、繋がらない・・・
>のではないでしょうか。その繋がる場合は、どんな経緯?


うん。「自分感覚」って、触れたら冷たいとか熱いとか、そういう皮膚感覚のようなもの。
熱いヤカンに手を触れた事がある人は、他の人が触れた時、自分が触れているワケでもないのに「アッ熱い」と思わず声が出る。
単純に言うと、そういうことなんですが。
そんな共感性があるよね〜という話。もちろん、ない人もいるんですよ。ときどきは。
で。うん、あるよね。となったら、その先に話が進む〜と。

No.3827 - 2011/11/25(Fri) 02:51:48

Re: / ubik0101
やかんが熱くないのに、触って「アッ熱い」と、演技する人を見て、演技と判って、とくになにも感じない。また、それは演技なんだけど、その演技してる人に共感する。あるいは反発するってことも、あるでしょう。そして、なんであれ、それに膠着することも、しないで流すこともあるでしょう。

2人で一緒に同じ熱いやかんを触って、熱いと感じるなら事実。熱いやかんを触った、ほかの一人を見て、熱っ、と思うのは、空想・・・ならば、共感を根拠にする、ひとつ、は空想ってこと?そうではなく、そいう熱いやかんを触った人の感覚と、自分を切り離して、共感しないのが、自我ってこと?

たとえば一冊の書を開いて。隣にいる友人も、おなじその書の同じ行を同じ速度で視線が辿ってる、と感じながら一緒に読み進む。とか。電話で感情が伝わります。とか。事実もあるでしょう。 空想もあるでしょう。みんな同じような空想をしてるので、そうだそうだ、違う違う、と話あえることもあるでしょう。

こんな映像を見て、それぞれ同じような印象だと共感?違う印象だと、共感ではない?いろんな意見や、意見がある場、そこには共感はない?また、とくに映像を見ない無関心は自我?

マイケル・ジャクソン スーダラ節

http://www.youtube.com/watch?v=JGf_gs2320o&feature=related

なにかの経験とか、なんかの感覚の有無で、話を進められないとして。それに共感するのが、自我?または自我ではない?あるいは、話を進められないというのは、わけ判らないよ?と共感しないのが、自我?または自我でないってこと?どこかに区別があるということ?なんであれ、その自分にしか判らないってこと?

また、そのどこか一定のことに膠着するのが自我?あるいは、自我でない?どこか一定のことに膠着しないのが自我?あるいは、自我でない?またTPOで変わると自我?

でも、もともと、こいうことどれもが、自我とか関係ない範疇で、と設定して始めている話なので、共感と自我、どうやったら繋がるか判らないけど?そもそも、これは自我だと、人の生活、と関係あるとしては説明できないって話?

この秋の台風12号で倒れた樹の根っこの前に、誰かが自転車を置いていました。

No.3828 - 2011/11/25(Fri) 11:28:06

Re: / peer
>やかんが熱くないのに、触って「アッ熱い」と、演技する人を見て

わたし・・・ヤカンが熱くないとは書いてませんよね。
湯気が立ってるような熱いヤカンなのです。
演技している場合の事は、想定していませんでした。
うーむ。
はい。わかりました。
ときどきいる共感しない人・・・のようです。
共感はコミュニケーションの基本なのですし・・。
共感能力は、女性性の方が高いのかも。
モノ言わぬ赤ん坊が、何をして欲しいのか
何に興味があるのか、様々に共感して
自分の事のように感じて、察して要求を満たす。
それが出来ないと、子育てのようなものは
なかなか難しいんですよねぇ。・・・。

No.3829 - 2011/11/26(Sat) 02:36:35

Re: / peer
>こんな映像を見て、それぞれ同じような印象だと共感?違う印象だと、共感ではない?いろんな意見や、意見がある場、そこには共感はない?また、とくに映像を見ない無関心は自我?


まぁ・・・なんと言いましょうか。
スーダラ節世代の私には、スーダラ節自体が懐かしい・・・、歌とフリが良くあってますね。
と思う所です。
これ、スーダラ節を知らない世代は、なんと思うのかしら?
タモリの「ききみみアワー」なんかも、面白いと思う人は面白いだろうし。
暇人だな。と思う無関心な人もいそうです。
ホントに興味というのは、人それぞれで。
同じモノを見ても、まったく感じるものは違って。
そんなもんですね。

No.3830 - 2011/11/26(Sat) 02:49:31

Re: / ubik0101
とても簡単なのです。北風が吹いてきたら、旅人は、裸になればいいのです。
No.3831 - 2011/11/26(Sat) 07:40:45

Re: / peer
旅人は、自分が裸だと思い込んでいるから、着こみたがる。
というか〜裸だと思い込んでいるから旅をしたがる。
ということもあるかしら?

No.3833 - 2011/11/29(Tue) 10:07:30
(No Subject) / peer
>>わたし独りでは、わたしを認識することができない。
>>こんな構造があるため、他者がいてくれる。


>それはそうです。
>でも、それは、なぜ、そう?


んんーつ。自我があるから、そうなっているんでしょ?
自我がなければ、我々はすべてで1つですから。

>>何かの動作をしていてピタリと合う瞬間。

>それは、劣等感、優越感、とかがないのなら、なにかの動作をしてなくても、ないのでは?

たとえば、渡り鳥は、ぶつかりあわないで飛びますね。
イワシの群れなんて、よくぶつからないなあと思う程一体になってます。
このとき、思考が入ると、一体感がなくなり混乱する。と思います。
この場合のように、劣等感とか優越感とは違う次元の行動の話だったのです。

>たとえば傲慢な人がいるとします。

本当にそんな人、いますか。傲慢な場合があるだけで、
相手によって場所によって変わるんじゃないですか?
まっ。傲慢も素直も、どちらも自分本位じゃないかしら。
そして「この社会(ルール)に置いて」という条件が付く。
違う社会に行ったら、何をどうしたらいいか、わからない。
傲慢も素直も、そんな土台の上にあるものじゃないでしょうか。

共通の言語・共通の価値観世界観があって、表現されて伝わって理解されて・・・
何かを見た時、必ず「これに似ている」というふうになって
認識されちゃうわけで〜
むしろ表現できてしまう場合、過去を持ち出して
新たなモノにクッツケてしまうから違和感が残る。
(それこそ、新しい酒は、新しい革袋にいれること)みたいな〜
これまでにないモノなら、これまでにない表現になるし。
そしてほとんど当人にしか理解できない。ということが起きる。
だから無理やり表現しようとしないで「味わう」という関係になる
んじゃないかしら。

No.3813 - 2011/11/20(Sun) 02:22:18

Re: / hato

> んんーつ。自我があるから、そうなっているんでしょ?
> 自我がなければ、我々はすべてで1つですから。


なぜ、人は、無我に偏りたい、のでしょうか。

それほどまでに、思考を掴んで存在しようとする自我とは、重いもの、かも知れません。でも、自我がなくても、もし人が無我に留まるなら、その世界と一体・・・自然に生きる・・・を見て、その思考や自身の流れ方を問題にしないことで、ありのままひとつ・・・かも知れません。世界は、それ自身のやり方で進んでいるとして、でも人は、世界を一体一様に流れていく・・・ではないと、思います。

一歩、踏み込みます。そんな自我、無我、でもないところの、その自分、その自己、であるとき、人は必ず、この世界で、我々総てはひとつ・・・になりようが、ないことを知ります。なりようがない、という事実を見ます。

たとえば森羅万象とは、総てはひとつ、として収斂されてしまうには、あまりに不可−思議です。だれがそれを、知っている、でしょうか。ここで総て、とは、なんでしょう。とても簡単に、人は、すべて、と言います。自分が知ってるところ、意識され、感じられるところの総てが、すべて・・・というとき、人は、道具である感覚、意識の焦点化、という機能をまったく前提に据えたまま、そのように表現します。ここでも人は、不可−思議ということを、世界のなにかに照らし合わせて考えようとします。空想なら、可能かも知れません。でも、事実では、ないかも知れません。

空想不能・・・というとき、なにかが世界を創り出し、私たちを分身として表現している・・・と、言えません。この世界がすべて・・・とも、世界のほかに何かがある・・・とも、言えません。それが不可思議ということです。なぜ、総てはひとつ、と言えるでしょう。畏敬を知るとは、まったく不可知であることを、その腑の深く深くに染み入らせ、落とし込むように知った、とき、初めて本当の意味で、畏れることを知る、ということでもあります。そのとき、知ってる、との傲慢さを捨て、人は新たに、進むことができます。

総てはひとつ、という概念が、極上のツールとして役立ってくれたとして、人は、方便に留まることはありません。方便に留まるとき、進むことが難しいでしょう。留まるところでない場所に留まることは、人が無我であっても、仕合せとはいえないでしょう。



> 本当にそんな人、いますか。傲慢な場合があるだけで、
> 相手によって場所によって変わるんじゃないですか?



なにを知る、とし、なにを知らない、とするか、それが判らないのに知ってる、と思うとき、人は傲慢です。

それは自我なのでしょう。相手によって、場所によって、出たり出なかったりするなら、それを嘘付きとも、いうかも知れません。


> まっ。傲慢も素直も、どちらも自分本位じゃないかしら。
> そして「この社会(ルール)に置いて」という条件が付く。
> 違う社会に行ったら、何をどうしたらいいか、わからない。
> 傲慢も素直も、そんな土台の上にあるものじゃないでしょうか。



この社会に置いてでなく、その人に於いて、ということかと思いますね。けれど、人が素直であることは、自分本位では難しいでしょう。ほとんど、無理でしょう。なぜなら、素直とは、人が自我の頑さを固持していたら、ほとんど、保つことができない資質です。

人が成長して与えられる、このような「特質」は、もちろん、世界・・・ことに社会を基準に置くことは難しいのです。世界の現象や社会の、なにかに素直・・・という表現が通常、されるとしても、適当でないと、思います。素直とは、文字通り、素に直結することと言えます。人が進むために、恩寵として与えられる特質のことを言います。

人が素直であるとき、意識がどんなに迷っても、かろうじて道を進んでいくことができます。それは決して、頑固とは違います。なにか守りたい信条や見解、体裁その自我、また、なにか関係を固持することより、優先されるそれがあることを、素直という事態は知らせ、また、人がそのようにあることを言います。

太古の昔から、人は素直でありなさい。
と、いわれるのは、

文字通り、なにより、大事だからです。


peerさんの投稿は、読む人に共通のテーマがあるかも、とのことで、2通の返信になりました。随所に鍛えられてるpeerさんなら、だいじょうぶ。ということで一致して、それっ、と投稿しますね。

No.3814 - 2011/11/20(Sun) 22:17:43

Re: / ubik0101

peerさんが、それをどのようにして了解したのか、まだ知らないので。「自我がなければ、我々はすべてでひとつ」、これだけを聞いて思うこと、を話してみます。

どうやっても人は、その自分の、見る聞く、行動、発言、思考に関わっています。その関わりから離れて自分はないでしょう。ということは、どうやっても自分の関わることの外にでられないことを示しています。と、いうそのことが「我々はすべてでひとつ」とは断定できない、そうかどうかは解らない、ということを示してるのではないでしょうか。意地悪に言うならばですが、なにか見る聞く、行動、発言、思考に関わって反応して生じる自分なら、その外は、あり得ない。それは世界に依存してる自我、でないとは言えません。

それに、世界や人、それと自分を分離させるということだけが自我なのでしょうか。つまり自我を、全体から分離する、されることと捉えると、自我がなければ、ひとつ、と帰着せざるを得ないかもしれません。ほかにも自我は、自分で自分を自覚したいこととか・・・それは分離ではない、ただ独りある、に繋がるでしょうし・・・み〜んな揃って。ない。ってことで、一緒。だとしても、ない、の意味を問うとか・・・ひとつ、で終わるわけではないでしょうし、学べることがあります。

どのようにまあ、世界を捉えてもいいのですが・・・どうでもいい話なんですが・・・書店で斜め読みしたので、いい加減な記憶ですが、ある人にハイヤーセルフが話します。みんな繋がってるんだよ。大根一本だって、太陽の恵み、空気、水、肥料とかで育つんだ。それを育てる人だって、みんな、ほかのことや人と繋がってるんだ・・・とか話します。

それは、大根とか、人とか、仮に世界から個別のこととして切り取ったことを隠れた前提として空想すると、そうでない逆の、繋がってる。が見えるだけです。それはループになってるので、その外が見えない・・・で、ひとつ・・・それで納得なら、それでいいのですが・・・ほかにもある世界の一つの解釈ではないでしょうか。まあ、縁起、世界の総活動のことを、ひとつ、と呼べないことはないのですが、そう呼ぶと不適切な命名だと感じます。

ところで傲慢、素直さは、TPOに応じて、あったりなかったりするということ?傲慢、素直を「この社会(ルール)に於いて」として捉えるとして、優越感、劣等感と、どう違う? これは自我だと自覚できない自我は、問題にはならない?たとえば一体感があって、その時は優越感、劣等感が自覚できない、それだけで違う次元なのでしょうか。また自我は、あったりなかったりするのでしょうか。

もしかして、それを自覚できないでも、無自覚な優越感、劣等感・・・自我に、支配されてるということもあります。そんな自覚の、ない、ことからの解放がなければ自覚の、ある、ことからの解放は困難です。その解放を自我からは学ぶこともできます。 おたがいに衝突しないかどうかも鳥や魚の群れに聞いて確かめたことはないのですが、一体感だけでも、分離だけでもないような気がします。

こんなものを?・・・見つけました。

No.3815 - 2011/11/20(Sun) 22:18:25

Re: / peer
>なぜ、人は、無我に偏りたい、のでしょうか。

んんんー。無我に偏りたくないんじゃないでしょうか。
だから、これだけ昔から大量の悟りについての本が
出ていても、知る人は知る、知らない人は知らない
「自分には関係ない」として、自我の確立を目指す。

それにしても「我」のくっついたモノに対して
自分の価値観として大切にする人もいるし、
見るに堪えないと感じる人もいるようです。

>それほどまでに、思考を掴んで存在しようとする
>自我とは、重いもの、かも知れません。


「そうしよう」としているわけではなく、
そのように人は作られているだけでしょう。
自我。なんてものがあると認識できるのは
人とチンパンジーくらいのものでは?

>我々総てはひとつ・・・になりようが、ないことを知ります。
>なりようがない、という事実を見ます。


という見方しか出来ない状態に居る。
ということでしょうね。

>この社会に置いてでなく、その人に於いて、ということかと思いますね。

人は、その人の記憶の集大成ですから・・・。
その人の体験と記憶の裏付け・背景に必ず「社会」は
あると思いますね。
社会から切り離された「その人」は、いるのだろうか。
そういう風に見ると「その人」なんてものはいなく、
「社会のある面」のようなことにも、なりそうな。

No.3816 - 2011/11/21(Mon) 01:59:45

Re: / peer
>おたがいに衝突しないかどうかも鳥や魚の群れに聞いて
>確かめたことはないのですが、一体感だけでも、
>分離だけでもないような気がします。


大根とか世界とかの繋がり関係性の説明は
思考の範疇じゃないかしら。
そう言われればそうだよね。というようなコト。
潜在意識の表面にあって、意識すると意識できる。

群れにリーダーがいて「こうしよう」としなくても
「こうしたら、こうなる」と思考しなくても
そうなることと決まっている。ように動く。
そんな話なんですけど、ね。

そんなふうに、群れ全体が自分感覚として広がる。
境界線の限界はない、という構造もありまして。

私たちには、肉体の限界・境界線があります。
ここで、長ボウキを持つと、その限界は
長ボウキにまで広がります。
手を使うように、細かい作業が可能になります。
車に乗って自分の体のごとく自由自在に動かすこと
ができるのは、体の限界が車を含むから〜です。
ギリギリの車庫入れも簡単。
これは、実感できることかなぁ〜と思います。

No.3817 - 2011/11/21(Mon) 02:21:36

Re: / ubik0101
> これは、実感できることかなぁ〜と思います。

それで、自我があると、たとえば自動車の運転が上手にはできないで。自我がなければ、自動車、それが走る世界と、一体感があるということでしょうか。

ふと思いついて、ネットで検索したら、太古の不二一元論は《アートマンはブラフマン》ということらしくて、今風の、ひとつ、とは少し違うようでした。

ま、ともかく、「自我がなければ、我々はすべてで1つですから」、それはpeerさんにとって、あるいは誰にとっても、究極?

No.3818 - 2011/11/21(Mon) 21:01:29

Re: / hato

こんばんは。こちらは、ようやく冬将軍のようです。
木々の枝が冷たい。冬の気配がします。


> >なぜ、人は、無我に偏りたい、のでしょうか。
>
> んんんー。無我に偏りたくないんじゃないでしょうか。
> だから、これだけ昔から大量の悟りについての本が
> 出ていても、知る人は知る、知らない人は知らない
> 「自分には関係ない」として、自我の確立を目指す。



そうした本をたくさん読んで、知ってる故に、無我に偏りたい人も多いでしょう。ならばそれは、もしかして、無我を張りたい自我・・・かも知れませんね。どうしたってそれは、知ってること、では、ないからです。


> それにしても「我」のくっついたモノに対して
> 自分の価値観として大切にする人もいるし、
> 見るに堪えないと感じる人もいるようです。



そうなのでしょうか?peerさんは、どうなのでしょう?本当に誰かが、peerさんが感じるそのようかも、わからないでしょう。


> 「そうしよう」としているわけではなく、
> そのように人は作られているだけでしょう。
> 自我。なんてものがあると認識できるのは
> 人とチンパンジーくらいのものでは?



要はするに、学ばなければ消化もない・・・であり、無我もやはり、学ばなければ昇華もない・・・でしょう。ちょち冗談まじりですが、そんな感じです。


> という見方しか出来ない状態に居る。
> ということでしょうね。



そうです。それはたとえば、皮肉になり得ない・・・ほど、当然なことなのです。なぜなら、そうしたなにか、総ては・・・などの信条は、理解され得るのであり、理解したなら、理解していないところに、その意味で戻ることはできません。用いることはできても、留まることはないでしょう。

その理解は、簡単、と安直にいえませんが、簡単に難しい、ともいえません。進む、ということ。留まるところでない場所に留まらない、ことで可能です。


> 人は、その人の記憶の集大成ですから・・・。
> その人の体験と記憶の裏付け・背景に必ず「社会」は
> あると思いますね。
> 社会から切り離された「その人」は、いるのだろうか。
> そういう風に見ると「その人」なんてものはいなく、
> 「社会のある面」のようなことにも、なりそうな。



人と社会は、同じ土俵に見ることができないでしょう。世界は人を育ててくれます。けれど、社会とは世間。多く自我によって作られた、虚構ですね。人がこうしたことを本気で学ぼう、というとき、社会、その世間に裏打ちして貰えることはないでしょう。たとえば社会を背負った人が、本気で学ぶ人を愛することは、おそらく、できないでしょう。その意味で、感謝されることも、ないでしょう。

その人は、社会に生きてるように見えるかもしれません。でも違います。ただ、それ、を生きる、だけなのです。


庭に小さな、可愛いビオラがたくさん、咲くといいね、と言ってます。増えたら、とてもすてきです。

No.3819 - 2011/11/22(Tue) 00:33:36

Re: / peer
>それで、自我があると、たとえば自動車の運転が上手にはできないで。自我がなければ、自動車、それが走る世界と、一体感があるということでしょうか。

ふうむ。そんなふうに聞こえますか?
そこは、あえて自我と話を絡めないで欲しいのですが?
自分としての肉体感覚の空間の幅が、自由に広がったり縮んだりする話、なのです。
この感覚が乏しいと、車庫入れが下手。ということは、あると思います。
まっ。そういう一般的な、普通の人の感覚のことです。

>ま、ともかく、「自我がなければ、我々はすべてで1つですから」、それはpeerさんにとって、あるいは誰にとっても、究極?

どうなんでしょうね。わかりません。私には、そんな感じがする。ということね。
そして・・・そう。そこを、肉体の「自分感覚」から、自我という精神的(見えない世界)へと話をつなげたかったのです。・・・分かりにくかったようですね。

No.3820 - 2011/11/23(Wed) 04:21:46
(No Subject) / peer
>苦しんでる人を力付けたりするときは、なにか見越してものを言うことも、あるかも知れませんね。そんなことも、あんなことも、あるかも知れません。痛みや苦しみを、介抱したい、ということ。

>そしてまた、そうである必要もない・・・が、あるかも知れません。

苦しんでいる人の傷口に手を突っ込んで、グリグリすることだって
・・・あります。
だから〜本当には、優しい人でないかも・・・ですね。
でも、まぁ。なんか、それで、変わるものがあれば
面白いと思ってしまう。ヒネクレモノなんです。
世界が膠着しているのが、一番〜ツマラナイ。
そんなときに特にグリグリしたがる。
自分もろとも、膠着をたたき壊す。。。ような。。

No.3791 - 2011/11/11(Fri) 11:32:22

Re: / peer
なんか・・・ツマラナイなぁ〜と
そして「人を褒めCENSORED見よう」と思いつく。
褒め殺したつもりなのに、壊れた残骸の中から
ポーンとピカピカ光るものが立ち現れる。
あぁ〜人はみんな、そんなものを隠している。

No.3792 - 2011/11/11(Fri) 11:36:25

Re: / ubik0101&hato
>苦しんでいる人の傷口に手を突っ込んで、グリグリすることだって・・・あります。
>だから〜本当には、優しい人でないかも・・・ですね。



グリグリが、その人のためになってる場合は、究極的に優しい〜〜かも、知れませんもんね。まあわたしとしては、peerさんが優しくても、そうでなくても、どっちでもいいんですけど〜。


> 褒め殺したつもりなのに、壊れた残骸の中から
> ポーンとピカピカ光るものが立ち現れる。
> あぁ〜人はみんな、そんなものを隠している。



そう。

peerさんを褒めCENSOREDみたら、

ピカピカな、なにかが、立ち現れたのですよ。

わかりましたですか???

hato


>苦しんでいる人の傷口に手を突っ込んで、グリグリすることだって
>・・・あります。



それ、それ。それです。ここだけの話ですが、ubik0101も、実は、得意技です。

みなし児のバラード

http://www.youtube.com/watch?v=5-TIjY-9qzU

ストーリーなんかどうでもよくて、エンディングテーマが、愛唱歌でした。とくに、♪強ければそれでいいんだー♪ひねくれて星を睨んだ僕なのさー。ってところが、とても響いたのです。

ubik0101

No.3794 - 2011/11/11(Fri) 21:55:20

Re: / peer
だからね。やっぱり〜ね。
北風より太陽なのです。
相手の幸せを一番に願うって、自分も気持ちいいじゃない。
願える自分である事を発見する。ような感じなのだなぁ。

ただ、こんなアタシなんかに褒められてもねぇ〜
嬉しくもなんともないだろう・・・
みたいなことが、、、昔は、ありましたね。
まっ。そんなの関係ないのだ。
どうでもいいのだ。

No.3795 - 2011/11/12(Sat) 03:25:06

Re: / ubik0101&hato

> だからね。やっぱり〜ね。
> 北風より太陽なのです。



太陽は、人を蒸し焼きにしてしまえますもんね。たとえば愛は、表現としていつも慈愛とは、限らないでしょう。比喩としての北風と太陽・・・これはどちらの働きが・・・ということでは、ないでしょうね。人はいつも、優しいものが好き、気分のよくなることが好き・・・でも、成長とは、あらゆる機微を通して起こると思います。

そして尚、愛は、愛。と思いますね。


> 相手の幸せを一番に願うって、自分も気持ちいいじゃない。
> 願える自分である事を発見する。ような感じなのだなぁ。



愛は、愛。それは、こういう仕方・・・ああいう仕方・・・或いはその、感じ・・・にとくに関係するもない・・・愛。

ピカリと光ったなにかは、大切なテーマです。たとえば愛は、どれかの状態、だけのものではないのに、人はその形式と内容をくっつけておきたい、或いは、くっついてる・・・と思い込んでいる、かも知れません。けれどそれは本当は、とてもとても、膠着ない、フレキシブルなものでしょう。

神奈川に行ってきましたが、やはり関東のほうが、すこし冷えるかも知れません。もう11月なのにこちら、昼間は半袖でいます。

hato

たぶん怒りは、愚かさへの攻撃反応で。ほかの人に顕れてる愚かさと闘わなくてはならない、という理由がありそうです。それにしても、その理由(思考)そのことには、その理由(思考)が正当か不当かを判断する機能はない。とか。自分は自分と距離がなく、自分を怒ることは困難。とか。そこにも気がつくことがあるようです。

それと劣等感とかは。その言葉を、ほかの人が話してるのを聞くまでは、それが自分にないことにも、まったく気がついてなかった。ということに気がついて、なぜなくなったんだろうと。たとえば自我とかが、あるとかないとかいう自覚できる思考とは違っていて、ちょっと驚き、ということがあります。

ubik0101

玄関の、小さなプリペットです。葉が大きくて、生長が楽しみです。

No.3797 - 2011/11/12(Sat) 21:26:34

Re: / peer
>それと劣等感とかは。その言葉を、ほかの人が話してるのを聞くまでは、それが自分にないことにも、まったく気がついてなかった。

ほーほー。いつのまにか、なくなっていた。
え〜と。劣等感とか優越感とか。
こう感じるのは、間違いよね。
比較対照するのは、この世の常。
比較したから、貴方がいて、私がいる。
私が見た、私の中の貴方がいるだけ・・・。
それに意味づけして、泣いたり笑ったり。
そんな必要はないのにね。

そうでなかったら、
私と貴方が、まったく同じなら
ドッペルゲンガーを見た者は数日のうちに必ず死ぬ、
といわれているように、私は消えてしまう。
と・・・思います。

No.3801 - 2011/11/16(Wed) 01:51:29

Re: / ubik0101
ほかの人には、なんか自分とは違う、意地悪な性格、優しい性格、狡い性格、など。自分とは異なってる特定できる個別の、行動、発言、思考の傾向、型とかがあるようにしておかないと、掴み所がなくて、ああいう人は、ああいう人だと空想すること、判断すること、意味づけること、もできないのでしょう。

そいう比較できるということは、距離が必要で。そうしてる、ほかの人から分離されてると意識させられる、自分。それは、特定の、個別の自分で。そこで、ほかの人と比較して感じる・・・劣等感・優越感・・・ともに。距離の状態から派生した、特定の個別のことを掴むことが空想、とも言えます。また、自分と自分との距離で。どこか似たような人を好んだり、嫌ったり、もあるかもしれません。

それで、空想一般をしなくなってると・・・つまりは、ほかの人との意味づけられた距離、自分と自分との意味づけられた距離もないということで・・・ほかの人との違いが、ことさらの違いとして意味づけられず・・・・自分で自分を自覚しようともしてないと。劣等感、優越感、疎外感とかをなくそうという道筋を辿らなくても、それがなくなって。そのことにも気がつかない、ってことかもしれません。

No.3805 - 2011/11/16(Wed) 21:23:43

Re: / peer
わたし独りでは、わたしを認識することができない。
こんな構造があるため、他者がいてくれる。
のだと思います。

それは、同じ意味で、他者の為に自分が
存在している。とも言えることでしょう。
相互に、自分として存在する理由。

何かの動作をしていてピタリと合う瞬間。
右手と左手のように、寄り添う感覚。
だから卑下したり優越感を持ったり
する必要はない〜わけです。
協力関係があるだけなのですね。

No.3806 - 2011/11/17(Thu) 01:46:35

Re: / ubik0101
>わたし独りでは、わたしを認識することができない。

それはそうです。
でも、それは、どうして、そう?

>こんな構造があるため、他者がいてくれる。

それはそうです。
でも、それは、なぜ、そう?

たぶん単一なら認識できない、多様なら差が認識。
でも、それは、どうして、そう?

>何かの動作をしていてピタリと合う瞬間。

それは、劣等感、優越感、とかがないのなら、なにかの動作をしてなくても、ないのでは?また、単独でも、みんな一緒でも、多様でも、劣等感、優越感、とかはないのでは? でも、それは、なぜ、そう?

たとえば傲慢な人がいるとします。その人は、道で会ったら笑顔で近所の人に挨拶したりします。そのように、まったく自分は傲慢だと思考しないでも、傲慢です。そして自分は謙ってると思考できたりします。つまり、その人の事態と、その思考は無関係です。なので誤認できます。事態と思考は無関係、だからまた、自分が傲慢だと認識できます。

また、たとえば素直な人は、自分が素直だと思考してもしなくても、素直です。その思考と、その事態は無関係。なので素直な人が素直と認識して、正確です。なのですが、これは、人の事態と思考の関係です。これはもともと傲慢とか素直とか、認識でき得る、評価でき得る範疇として探ってる。だから、かもしれません。

でも世界とか、現実とかを・・・ 認識の、意味の、思考の、生じるそのことの源?そのあたりを探りたいと感じています。そのことを思考、表現してしまえば、もう意味を汲み取る前?の事態が、こういうことだと意味づけられて表現されてしまって、それでは不可。どうにも思考、表現は不可。

ちょっとそれに近いのは・・・たとえば、自分が消えるとか、距離がどうとか。そいう事態と、そいう事態の思考、表現、との関係 。その事態は、表現そのことは違ってて、どう表現しても表現できない・・・に近いのです。このあたり、なにもないかもしれないけど、なにかありそうな気はするのです。

ルンルンは下駄箱で遊ぶのが大好きで、スニーカーを食い破ったりする困ったちゃんです。ここにも何かありそうだな、と格子の穴から中を覗いて廻ります。

No.3812 - 2011/11/18(Fri) 17:34:58
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