>そうした本をたくさん読んで、知ってる故に、無我に偏りたい人も多いでしょう。ならばそれは、もしかして、無我を張りたい自我・・・かも知れませんね。どうしたってそれは、知ってること、では、ないからです。
そうそう。悟るには無我が必要だと思い込まされて暴走するんですね。 しかし、やっぱり知識だけで終わるのが一般的です。 無我がある時、自我はない。自我がある時、無我はない。なので。なかなか難しい。 そしてトリックに、はまり込む。 自我にとって無我は・・・分からないものであって、分からないことは怖くなるものなので、自我を持ちながら、自我が無我にならないかな〜と、やっちゃう。 そんなふうに見えます。
>> それにしても「我」のくっついたモノに対して >> 自分の価値観として大切にする人もいるし、 >> 見るに堪えないと感じる人もいるようです。
>そうなのでしょうか?peerさんは、どうなのでしょう?本当に誰かが、peerさんが感じるそのようかも、わからないでしょう。
誰かが、どう感じるかは、関係ないです。自分がどう感じるか・・・だけでしょ。 たとえば「この人は傲慢だ」と感じる。その証拠は?自分が感じるから〜しかないような気もします。 これは傲慢な状態だと。自分の傲慢と照らし合わせて、確認したりする。わけで。 (自分の中にないものを、人は、外に見ません) 中に照らし合わせるものがなかったら、どんなに人が傲慢をやろうと、関心が向かない。ということで。 人が傲慢だろうが謙虚だろうが、どうでもいいことになりそうです。
>その理解は、簡単、と安直にいえませんが、簡単に難しい、ともいえません。進む、ということ。留まるところでない場所に留まらない、ことで可能です。
うん。私の場合では、それは「終わった」という感覚。 良い事を学んだ。というものはなく。利用しよう、もなく。ただ終わった。 終わった処に、留まる事は出来ませんね。
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No.3821 - 2011/11/23(Wed) 04:39:44
| ☆ Re: / hato | | | こんにちは。
昨日は、家で仕事と、年賀状のデザインを考えていました。ubik0101さんと、なにかいいモチーフないかな・・・と探しているところです。
早いですね。もう、一年も終わりに近づきます。
> 誰かが、どう感じるかは、関係ないです。自分がどう感じるか・・・だけでしょ。
peerさんはいつも、自分の状態を書いている、ということですね。
では、peerさんの投稿をあらためて、読んでみましょう。 そうしますと、peerさんの状態が、よくわかるかも知れません。
> 人は、その人の記憶の集大成ですから・・・。 > その人の体験と記憶の裏付け・背景に必ず「社会」は > あると思いますね。 > 社会から切り離された「その人」は、いるのだろうか。 > そういう風に見ると「その人」なんてものはいなく、 > 「社会のある面」のようなことにも、なりそうな。
> これは傲慢な状態だと。自分の傲慢と照らし合わせて、確 認したりする。わけで。 > (自分の中にないものを、人は、外に見ません)
人が社会である、とは、世界の中に人があることです。それは、まだ、この世界の知識と感覚、というところを出ていない、ということです。そして、自分の中にないものを外に見ない・・・という思考。これが、世界と我々はひとつ・・・の限界でもあります。この掲示板で見ている、理解、とは、その思い込みを逸脱しても、起こり得る理解をいいます。
大事なことは、いま、その様にあることを、認め、自我や無我に偏向することのできない、正真正銘の自分を、きちんと知ることと、思います。ほかの誰でもない、peerさんが、無我に偏る自我・・・その見方であることをまず、見止め、そこから進む、ということ。
なんとなく、社会や世間の人はそのようにある・・・それを見てる自分もその様だ・・・そのすべてが我々ひとつ、ということだ・・・世界は現象であり、人は現象そのものだ・・・・と。これは、人の覚醒、その事実ではありません。
人は、無我ということを、その自分、を逃がすために使ってはならないのです。愛が愛。であるように、人は、人です。人は、その自我、無我に、偏向しないところのその自己であることを、生きることが、できるのです。
どんな自分も、世界の役に立つことができるのは、世界のとても、素敵なところですね。でも、自分の状態に気付くことが難しいとき、それは、その人自身のためにならないでしょう。
> 人が傲慢だろうが謙虚だろうが、どうでもいいことになりそうです。
愛は、愛。といいました。
その愛は、なにかに無関係。にあるために、正しく関係することができますね。
もちろん、どうでも、いいのです。 でも、どうでもよくない、のです。 そのようなことです。
了解とは、文字通り、了解です。
学ぶことに、終わりはない。これは、別の話です。
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No.3825 - 2011/11/24(Thu) 18:08:40 |
| ☆ Re: / peer | | | >> 誰かが、どう感じるかは、関係ないです。自分がどう感じるか・・・だけでしょ。
>peerさんはいつも、自分の状態を書いている、ということですね。
この場合は、人がどう思うかを判断基準にしないで、自分の気持ちを素直に感じ切る。 という意味での「誰かが、どう感じるかは関係ない」と書きました。
>人が社会である、とは、世界の中に人があることです。
そういう方向もありますが、この場合は自分の中に社会がある。 という見方をしています。 世界が人の中にあるから、ひとりひとり、生きている場が違うわけです。 しかし、そのバラバラが世界の推進力〜というか、世界を作り成長させるエネルギー。 のような気もしています。
>これは、人の覚醒、その事実ではありません。
はい。その話をしているんです。 覚醒している人を対象にした話ではないのです。
>人は、無我ということを、その自分、を逃がすために使ってはならないのです。
それは、同感です。まったく、そのとおり。 私は自我を「自分のもの」と世界から切り取った境界内を作る事〜として 無我とは、それを開いたところ・・・境界のない無限性・・・ 自我=有限、無我=無限。とシンプルにとらえる事が出来るかな〜と思います。 そしてコインの裏表のようなもの。 表だけのコインはなく、裏だけのコインもない〜と。
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No.3826 - 2011/11/25(Fri) 02:43:12 |
| ☆ Re: / hato | | | こんにちは、peerさん。
今日のこちらは、晴れときどき曇掛かる・・・あたたかい初冬です。これから、海にでかけます。いよいよ冷えますが、peerさんも風邪などひかないよう、ご自愛ください。
さて、こちらです。
> この場合は、人がどう思うかを判断基準にしないで、自分の気持ちを素直に感じ切る。 > という意味での「誰かが、どう感じるかは関係ない」と書きました。 > >人が社会である、とは、世界の中に人があることです。 > > そういう方向もありますが、この場合は自分の中に社会がある。 > という見方をしています。
自分の中に社会がある・・・そのように表現されることが正に、自我、ということです。
それは、世界の中に、人がある、ことです。
> 世界が人の中にあるから、ひとりひとり、生きている場が違うわけです。
これは事実とも、いえません。自我にとっての、空想です。
> しかし、そのバラバラが世界の推進力〜というか、世界を作り成長させるエネルギー。 > のような気もしています。
ここで、このような話の運びになる、話が流れることを、自我の逃避、といいます。
自我というものはこのようにして、自分を逃そうとしますよ。それは決して、無我、ということでは、ありません。自我が、一番見たくないところの、自我なのです。もちろん、在る、わけでもない自我にとって、こうした話の流れは、あぶないことです。なぜなら、それ迄のやり方を捨てねばならないことを、自我はよく見聞きして学び、知ってるのです。
> >これは、人の覚醒、その事実ではありません。 > > はい。その話をしているんです。 > 覚醒している人を対象にした話ではないのです。
では、まずその自分をできるだけ、正確に、話すことをしていきましょう。まずはそれだけで、いいのです。
もし、それを知らないなら、知ってるように話しては、いけません。成長、ということについては、十分注意して話さなければならないのです。でなければほかの人や、peerさん自身が、その言葉に騙されてしまうでしょう。それは、哀しいことです。
たとえば人は、社会や世間、自我無我・・・そんな自分に、嘘をつくことができます。その自分を、気付くこともなく人は、騙すことが、できるかも知れません。けれど、誰でもない誰か・・・・ということを、本気で学んだ、成就したそれに於いて、人は嘘をつくことができません。どのように言葉を繕ってみても、それでないなら、ちがうのです。
自分の中や、外・・・との、すでにその言明が、自分、という塊を想定していることにほかならない・・・・というより、もともと中道にない状態で、なにか見てるということです。
中道を見た人は、そのように考えることができないでしょう。そうしたことが人の成長に於いて、殆ど意味がないことを、よく知っているからです。
> >人は、無我ということを、その自分、を逃がすために使ってはならないのです。 > > それは、同感です。まったく、そのとおり。
peerさんは、柔軟な感性で、なにかに同化しやすいのかも知れません。やさしいのでしょう。なので、そうそう!と思えることが、多いのでしょう。けど、照らし合わせて見て、納得されることが覚醒・・・では、ないのです。
いつか、話したかも知れません。今まで親しんできたやり方・・・照らし合わせ・・・共感する・・・それも大事な体験です。けれどそれでは、本来の理解に進むことが難しい、ということを、認めなければなりません。一旦、知識や体験を、白紙に戻す、ということ。本当に失ったときに、適切な道具として、用いることができるでしょう。
徹底してそうしてみることを、始めてみることも、できると思います。
きついかも知れませんが。本当の祝事は、それからです。そして、人がその経験をしても、それが言葉として、その人を通じて語り出されるまでには、素直を生きる不屈の忍耐、或いは、相当の年月がかかることでもあることを、言わねばなりません。もちろん、これも一様にはありません。けれど、たとえば、そのようなことです。
素直とは、人が世界で 不思議 と交わせる、大事な約束です。
ひねくれもの同志のubik0101さんによれば・・・
(*わたしは、ひねくれてはいないので、その意味では、同志に、なれません。)
「peerさんは、ひねくれ方が、足りないんだよ。ぼかぁ、真摯になるほどに、ひねくれたんだよ」
山にいると、川に橋が架かっていました。奥の谷橋、と読めます。
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No.3832 - 2011/11/26(Sat) 12:48:38 |
| ☆ Re: / peer | | | 風邪は・・・ねぇ。ひいていても気がつかない。 みたいな感じで。年中、半そでで仕事〜してます。
>自分の中に社会がある・・・そのように表現されることが正に、自我、ということです。 >それは、世界の中に、人がある、ことです。 >これは事実とも、いえません。自我にとっての、空想です。
そうです。そして、世界にあることの責任を背負う。 つまり空想の責任をとってもらおう。というのが私の言い分。 世界はひとりひとり違うよね〜だから私と貴方は違うのよね〜 それでいいのよね〜というトコロからの飛躍みたいなもの。 もちろん、この飛躍は逃避というようなものではありません。 「自分の中に社会がある」のですから、逃れられません。 社会にあることは、社会の問題であり、自分とは別に 存在している。という逃避が使えない。 社会に問題があるのではなく、自分の問題なのです。 自分の問題が社会を通してフィードバックされている。 という言い方も出来ます。
>> それは、同感です。まったく、そのとおり。
>peerさんは、柔軟な感性で、なにかに同化しやすいのかも知れません。 >やさしいのでしょう。なので、そうそう!と思えることが、多いのでしょう。
ですからね。それが、まるっきりの勘違い。 「やさしい」という解釈は・・・違うよね。 自分の中にあることなのだから、自覚するだけなのです。 「相手を肯定する・認める・同化する」のではないのよ。 社会を見て「あー嫌だな。汚いなぁ」ということが ある、として。 うん。自分のことだな。と認めるようなものですね。 そこはまず通過するように出来ているんじゃないでしょうか。
であるのであるならば。 北風も太陽も、自分で作ったものであり〜 それにいちいち、どうのこうのも、ないでしょう。 みたいな。
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No.3834 - 2011/11/29(Tue) 12:40:26 |
| ☆ Re: / hato | | | こんばんは。
雨がすこし、降ったり止んだり、してるようです。
走る車中から見ると、田畑の草が金色に光り、見とれてしまいます。 9980円のナビを買って、安いがこれが使いよう。ふいに思いつき、嬉しそうにふたりして、夜中の農道をひた走り、お茶を飲みに、でかけます。
> 風邪は・・・ねぇ。ひいていても気がつかない。 > みたいな感じで。年中、半そでで仕事〜してます。
まあ、そうでしたか。 そろそろ、本格的に冷えるそうですよ。
> そうです。そして、世界にあることの責任を背負う。 > つまり空想の責任をとってもらおう。というのが私の言い分。
つまり、コインの裏表のような自我無我を生きる人が、どっちかになって、なにか言ってる・・・のでしょうか。相対にあることは、対にあることでは、解決しないと思います。
> 「自分の中に社会がある」のですから、逃れられません。 > 社会にあることは、社会の問題であり、自分とは別に > 存在している。という逃避が使えない。 > 社会に問題があるのではなく、自分の問題なのです。 > 自分の問題が社会を通してフィードバックされている。 > という言い方も出来ます。
生きていて、なにか問題に遭遇したなら、そのとき対処するでしょうね。自分にはそれがしっくりきます。関わることがあり、できることをします。責任をもつのは、その自分の発言ということでもいいのです。ひとつひとつ、できることを、と思いますね。
人がなにか、分離らしい側から反転した、合一らしい側に拠った状態で思考されたり、或いは体験される・・・・それなら、人は奇しくも、断片です。世界が社会の出来事の範疇に収められ・・・見止められてしまうところは、中道、その総位相とは、悲しくも、似て非なるところです。
そうでない、いつでもどこでも、どのようにしても人に、真の中道、その総ての位相が、滞りなく揃われる、ということ。それはたとえば、意識されたところの、なんでもどうでもありのすべてでは、ないよ、ということです。
> ですからね。それが、まるっきりの勘違い。 > 「やさしい」という解釈は・・・違うよね。 > 自分の中にあることなのだから、自覚するだけなのです。 > 「相手を肯定する・認める・同化する」のではないのよ。 > 社会を見て「あー嫌だな。汚いなぁ」ということが > ある、として。 > うん。自分のことだな。と認めるようなものですね。 > そこはまず通過するように出来ているんじゃないでしょうか。
事実とは、不可思議です。自分の中、ということが強調され、意識されてあらざるを得ないとき、或いはその形式にあるとき、事実を見ることは、難しいのです。
進んでいくとき、すべてを自分の中に見る・・・必要が、ただ、ないことを、見るだけです。それは、なにかの欠片、断片になる・・・・ことではありません。だいじょうぶ、ということです。
> であるのであるならば。 > 北風も太陽も、自分で作ったものであり〜 > それにいちいち、どうのこうのも、ないでしょう。 > みたいな。
たとえば人は中道の先を、知る、ことはできません。
北風も、太陽も、
真摯な人に、それを学ぶことがあるでしょうね。
成長とは、戻ることの、できない道、と思います。
あしあと。すてきです。
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No.3842 - 2011/12/02(Fri) 01:46:50 |
| ☆ Re: / peer | | | このところ、よく雨が降ります。
>つまり、コインの裏表のような自我無我を生きる人が、どっちかになって、なにか言ってる・・・のでしょうか。
対象を持ったら、ちょっと違うかな〜と思います。 コインは裏も表もある。と理解されたら、それしかない。 両方のどちらが本物もない平等感。と思うんですよ。
>責任をもつのは、その自分の発言ということでもいいのです。
そうそう。(と頷くと、また同調と言われるかな) つまり、どでかく責任を・・・ということじゃないのね。 思う事と言う事と行為に矛盾が生じたら無責任でしょ? 世界が、人が、じゃなくて、まず自らの姿を・・・。
>進んでいくとき、すべてを自分の中に見る・・・必要が、ただ、ないことを、見るだけです。
うん。そういう状態の人は、それでいいんじゃないかな。 どうでしょう。自我(有為)・・無我(無為)というのは。
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No.3843 - 2011/12/03(Sat) 04:03:00 |
| ☆ Re: / hato | | | こんにちは。
今朝のこちらは、快晴です。
朝から、爽やかな風、ぽかぽかお日様ですよ。
> 対象を持ったら、ちょっと違うかな〜と思います。 > コインは裏も表もある。と理解されたら、それしかない。 > 両方のどちらが本物もない平等感。と思うんですよ。
表といって、裏を考える。無我、といって、自我・・・と考える、思考の形態はそのようなものですが・・・・といって、自我や無我とは、そのように、ある・・・わけでも、ない、ということです。
> つまり、どでかく責任を・・・ということじゃないのね。 > 思う事と言う事と行為に矛盾が生じたら無責任でしょ? > 世界が、人が、じゃなくて、まず自らの姿を・・・。
なので、peerさんの文章は、peerさんが表現されてる・・・でいいのでしたね。
自分にとって、世界と人というところ、そのように表現することに、違和感はないのです。大げさでも、ないのです。生きること、見ること・・・、世界や人、というところ。この自分というところ。それは等価です。そして、無関係に関係される、関係無いがゆえに正しく関係される・・・・ところで用いる表現として、大変しっくりします。
>進んでいくとき、すべてを自分の中に見る・・・必要が、ただ、ないことを、見るだけです。
> うん。そういう状態の人は、それでいいんじゃないかな。
誰にとっても容易いものではないでしょうが、・・・その意味で、話すことと自分の状態が違う、という誤謬がなくてすみます。それは、幸せなこと、と思います。
そういえばもう、雪の降る季節です。
遠州灘のとある海。ほとんど無風のなかで、海岸を散歩しました。
![]() |
No.3847 - 2011/12/04(Sun) 11:14:05 |
| ☆ 永くなりましたが・このへんで / peer | | | >なので、peerさんの文章は、peerさんが表現されてる・・・でいいのでしたね。
はい。「私」が表現したいのではなく、私を通して世界が現れる。世界が表現体として私を利用している。 みたいな感じであります。 だから、ひとりひとりの世界は、大切だと感じてます。 ひとつも、疎かには出来ない。大切なもの。誰ひとり欠けていいモノはない。 光(白色)がプリズムを通すと、様々な色に変わるように。 その生命ひとつひとつがパズルのピース。万華鏡のように、不思議な世界を見せる。のかも。
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No.3851 - 2011/12/05(Mon) 03:20:05 |
| ☆ Re: / 青雀 | | | No.3852 - 2011/12/05(Mon) 19:18:09 |
| ☆ Re: / hato | | | > はい。「私」が表現したいのではなく、私を通して世界が現れる。世界が表現体として私を利用している。 > みたいな感じであります。
人が本気で学ぶ、ということは、世界にたゆたい流れるその自分、を肯定しない、留まらない・・・・まずはどこまでも掘り起こす、縦方向の学びがどうしても、不可欠です。それは人であるなら、ただ、その向きに起こります。
そのとき、あらゆる思考や知識が、その自分を席巻することは、できないでしょう。
それは例外なく、誰にとっても、本当の幸せ、です。
peerさん、ではまた、よいときに。
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No.3854 - 2011/12/05(Mon) 22:11:46 |
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