>太陽は、人を蒸し焼きにしてしまえますもんね。たとえば愛は、表現としていつも慈愛とは、限らないでしょう。 >比喩としての北風と太陽・・・これはどちらの働きが・・・ということでは、ないでしょうね。
愛・・・愛と言うモノは、見えているものとは違って。
むかし越後の方に眉目秀麗の若いお坊さんがいました。 周りの女たちは、ほっておきません〜 いつでもいつでも、何か困った事はないか、と 尋ねて来ては、様々な仕事をしてくれます。 周りの、誰もかれも、下に置きません。
ある日ですね。子供を身ごもった女が 「お坊さん、助けて下さい」と言ってきます。 「誰にも言えない、子供を身ごもりました」 と言うのです。
お坊さんは、何も聞かず、置いてやります。 すると、周りの人は、怪しんで 「立派なお坊様になると思っていたのに・・・」 「あの女の子は、お坊さんの子供なのね」 となって、今度は誰ひとり、尋ねて来ません。 お坊さんは乞食のようになっても世話をする。
やがて子供を産んだ女は、姿を消す。 遺された子供を抱いて、哀れに思い お坊さんは我が子のように世話をします。
で、何年かして、その女は我が子を 取り返しに来る。年老いた両親を連れて。
不自由しながらも可愛がって育てた子です〜 「今になって、そんな・・・」とは、お坊さんは 言いませんね。「どうぞ、どうぞ」と。 来るもの拒まず、去るモノも追わず〜
|
No.3802 - 2011/11/16(Wed) 12:42:15
| ☆ Re: / peer | | | 事情を知った周りの村人は、また、前のように お坊さんは、立派な人だ、言い訳もせず 哀れな女を救いとった。とほめちぎり〜 お坊さんのお世話をするようになります。
で、お坊さんは密かに思うのですね。 子供を託されて困ったと思ったけれど。 昔のまま、存分に世話を受けていたら 修行は出来なかった。その自分を子供を 与えることで、修行を深めるように〜との 阿弥陀様のハカライがあったのだ・・・と。
困ったときもハカライが陰にあり 良い事があった時にも陰にはハカライがある。 どんなことにも、ありとあらゆる与えられるもの中に 神・仏のハカライがある。 ハカライによって、活かされている人。
太陽と北風も、似たようなもので。 人に優しくするのも恐れさせるのも なにかのハカライがあり、ハカライがあるから その陰に支えられ、この世は回り続ける〜と。 その「陰」に気づかせてくれるのも、ハカライの力なのよね。 と気付くとき。 「自分」は・・・何もしていない。 ハカライに乗せられて、自力で動いている ように勘違いしている。 となるかも知れません。
|
No.3803 - 2011/11/16(Wed) 12:45:16 |
| ☆ Re: / hato | | | こんばんは。
秋のとある日に、素敵なお話を書いてくれた、peerさん。
>困ったときもハカライが陰にあり >良い事があった時にも陰にはハカライがある。 >どんなことにも、ありとあらゆる与えられるもの中に >神・仏のハカライがある。 >ハカライによって、活かされている人。
> 太陽と北風も、似たようなもので。 > 人に優しくするのも恐れさせるのも > なにかのハカライがあり、ハカライがあるから > その陰に支えられ、この世は回り続ける〜と。 > その「陰」に気づかせてくれるのも、ハカライの力なのよね。 > と気付くとき。 > 「自分」は・・・何もしていない。 > ハカライに乗せられて、自力で動いている > ように勘違いしている。 > となるかも知れません。
自分で為したと思い・・・仮定された、自我はない・・・・ですね。
そして、自我・・・或いは無我・・・、ということも、ことさらない、そこで、その不思議は、ある・・・ない・・・、どのように表現しようもなく、生きる、でしょうか。
神仏、ということを、たとえば自分は空想しないけれど、
その、不可−思議を。
人は、どこまでも、不知(知らず)。
不知・・・その畏怖は、恐れ、とは違いますね。
空想不可能なそこで、本当に人は正しく尊び、畏れることができるでしょう。それはまったく空想不可、なところで、そのようにあることができると思います。
>愛・・・愛と言うモノは、見えているものとは違って。
ほんとうに。
愛は、知ってる事象に無関係・・・にあるからこそ、正しく関係することができますね。なにか形式や、その内容・・・とも、言えません。膠着しない・・・に膠着することさえ、することもできない、それでしょう。
愛は、愛。
畏日(いじつ)、とは夏の日。激しい太陽。
それは、人が知っては焼け死んでしまうかも知れません。でも、畏敬しても、恐れる必要はない、と思います。
'O sore mio(オ、ソレ、ミオ) わたしの太陽、わたしの恋人・・・・という意味だそうです。
誰でもない、その、わたしの・・・・・
みどりの庭の、クリスマスツリー。 姫柊(ひめひいらぎ)です。
![]() |
No.3808 - 2011/11/17(Thu) 23:14:36 |
| ☆ 6 カエル 印 / 咆哮 | | | 悔い改めだと思っていた卑屈は傲慢を根拠にしたものでした。聖書には自分を上に立たせる者は低くされるとあります、peerさんに感謝です 太陽の話が大変興味深いです。 自分の神秘体験を少しだけ、血管を伝って流れでた神経、後に暗闇の中にポカンと浮かぶ光の玉。色は緑色でした。これは一体? 数日後に横になっていると光が後頭部から現れ、視点が消えるといった事もありました。愛とはもしかして羊?『今はまだ愛が概念としてあり知覚出来ないのかもしれません。』←この発想が違う様な気がします。確かubikさんが神は距離があると消えるといっていましたが愛は神?なのでしょうか?
|
No.3809 - 2011/11/18(Fri) 03:35:56 |
| ☆ Re: / ubik0101 | | | >確かubikさんが神は距離があると消えるといっていましたが愛は神?なのでしょうか?
それは、神は距離がないと消える、です。説明ですが、神を感じる、というのは、自分と神の距離があって可能です。そして、その距離がなくなると・・・それは神と自分との一致というより、自分がない、に近いです・・・たとえば「私は神」も消えます。つまり神との距離が、神の概念です。
そして距離を繋ごうとするのが信仰です。なので距離がなくなると信仰も消えます。それは、神は実在(それの原因がそれ)であり・・・それは自分の外とか、中とか、それの中に自分がいるとかの思考、判断、解釈、印象の、必要も消え・・・ことさら信じる信じない関係ないほどの距離があるも、不要です。
あくまで人から見ての印象ですが、神は愛です。でも、愛は神ではない、です。
|
No.3810 - 2011/11/18(Fri) 09:09:47 |
| ☆ Re: / peer | | | こんにちは。咆哮さん。
まぁ。お坊さんの話のような語りつがれた物語は、どこにでもあるようで。 この話も原型はエデンの園で安心して暮らしている人が追い出されて苦難を背負うモノと似ていると思います。 人にとっては苦難ですけど、これも成長の為のハカライなのだなぁ〜。 と思うと、なんでも与えられたものは、愛でしかないワケで。 どう人は受け止めるか。そこだけなんでしょうね。
>悔い改めだと思っていた卑屈は傲慢を根拠にしたものでした。
懺悔とは。本当に悔い改めることです。 そこで本当の自分とコンタクトできるチャンスが来ている。 のですが・・・どうしても架空の自分を手放せないんですね。 で、卑屈を使って、このままでいようと・・・する。 「こんな自分なんです、ダメなんです」って〜〜。
んんーと。それに。現象に囚われないこと。 だから、常に「外を探すな」と言われるんですね。 特別なことが起きているのだと思ったら囚われる。 囚われると、やはり、そこに留まってしまいます。
|
No.3811 - 2011/11/18(Fri) 10:15:29 |
|