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(No Subject) / ubik0101
>そして・・・そう。そこを、肉体の「自分感覚」から、自我という精神的(見えない世界)へと話をつなげたかったのです。・・・分かりにくかったようですね。

そーではなく、長文失礼にならないように、要点を話したのです。ふつうは、自動車の運転は練習すればできます。これは・・・無我なら練習しなくても運転できるわけでもなくて。100メートル10秒を切って走れるかは無関係で・・・ふつうの生活は自我にも無我にも、関係ないです。

どこにも実際には「一般的な、普通の人」はいないかもしれません。が、そういう人がいるとして、とりあえず、そんな人は、なにか自我、無我の問題はとくに意識になく暮らしてる人。と空想して話すとして。

たとえば、悩んだり怒ってして自我が機能してる場合は、自動車で言えば、世界との一体感がなく事故・・・葛藤・軋轢・・・に結びつくかもしれない。それは関係ない項目を関係づけてる思考で。そればかり言うのは。拘りの思考と見なされるでしょう。

そんな自我や無我に関係ない生活で。たとえば自動車免許の実技試験に落ちて悩んだとして、なぜ悩めるかのか、知らなくても、悩めるのでしょう。試験に受かって、嬉しいとか、とくに感慨がなくても・・・なぜそうできるのか知らなくても・・・そうなのでしょう。

続きます。

No.3822 - 2011/11/23(Wed) 19:28:27

Re: / ubik0101
おおよそ、 みんな人の基本の性能?は、泣いたり笑ったり食べたり寝たり思考したり・・・そのようなこと。なぜそれができるか知らなくても、みな一人一人、それぞれ、そんな生活してる。ここからも、ひとつ、は演繹できそうです。

そして、悩み、安堵、優越感、劣等感、意地悪、優しさ、怒り、自我でも、無我でも、単独でも、多様でも、総て纏めると、ひとつ、と、演繹できるでしょう。でもそれを、どう生きるかは、違います。

あくまで、どのように学んだかということの喩えですが・・・長ボウキで庭の掃除を真剣にした人、それを修行にまでした人、あるいは嫌々いい加減にした人、掃除を拒んだ人、自動車の練習をした人、しなかった人、ま、違わないかも知れないけど、違っても当たり前です。

やはり、ひとつ、はそれに帰着して済ませることではなく・・・いつか話したと思いますが・・・たとえば、ひとつの24色の絵の具の箱・・・世界・・・で描かれた絵は、その絵の具を使ってはいるけど、ひとつ、ではない、ことを醸しだしてる。です。

ところで話を戻します。そして、「一般的な、普通の人」ではなく、自我無我の経緯を通った人・・・もう無我の根拠を自我に置く必要もなくなった・・・これも、自我もなければ、無我もない・・・それで、運転したり、歩いたり、掃除したりです。

つまり、運転しても、庭を掃除しても、そんな人がいるとして「一般的な、普通の人」と、おおまかには変わりません。つまり区別するとして、同じことをしても自我は自我、無我は無我。そうだから、ことは困難と言えば困難でもあります。

続きます。

No.3823 - 2011/11/23(Wed) 19:37:16

Re: / ubik0101
くり返しますが。ここで空想されてる「一般的な、普通の人」。それは、自我に気がつかないから、自我とか無我とか問題になってないというだけかもしれません。とくに自我も無我も思考になくて、それが自我、と言うこともあり得るのです。

だけどその気がつかないということからも、気がついて学ぶこと。でなくて、なにも変わらないかもしれません。それは、ふつうの生活です。で。自我でも、無我でも、ほかの何かでも、なぜそれがそうなのか判らなくても、そうあり得ます。でも、なぜ、これは、こう?と問わないから、そこで停滞。なのかもしれません。

よーするに、どー思考するかは、その人の事態とは無関係。それなのに、拘わらされてる、そうでない。とかあります。たとえば自我な人も、自分がない、とか思考できるでしょう。いろんな経緯があるとしても、そのそこで事態と思考との関係が、探れるでしょう。

この、事態と思考との関係。ここに膠着したり、しなかったり。そうであっても、自我、無我に無関係。たぶん仏教で言う意味とは違うかもしれませんが、名称と形態、の脱着自由。そうであれば「自分感覚」から、「自我という精神的〈見えない世界〉」に繋がっても、繋がらない・・・のではないでしょうか。その繋がる場合は、どんな経緯?

No.3824 - 2011/11/23(Wed) 19:55:08

Re: / peer
>「自分感覚」から、「自我という精神的〈見えない世界〉」に繋がっても、繋がらない・・・
>のではないでしょうか。その繋がる場合は、どんな経緯?


うん。「自分感覚」って、触れたら冷たいとか熱いとか、そういう皮膚感覚のようなもの。
熱いヤカンに手を触れた事がある人は、他の人が触れた時、自分が触れているワケでもないのに「アッ熱い」と思わず声が出る。
単純に言うと、そういうことなんですが。
そんな共感性があるよね〜という話。もちろん、ない人もいるんですよ。ときどきは。
で。うん、あるよね。となったら、その先に話が進む〜と。

No.3827 - 2011/11/25(Fri) 02:51:48

Re: / ubik0101
やかんが熱くないのに、触って「アッ熱い」と、演技する人を見て、演技と判って、とくになにも感じない。また、それは演技なんだけど、その演技してる人に共感する。あるいは反発するってことも、あるでしょう。そして、なんであれ、それに膠着することも、しないで流すこともあるでしょう。

2人で一緒に同じ熱いやかんを触って、熱いと感じるなら事実。熱いやかんを触った、ほかの一人を見て、熱っ、と思うのは、空想・・・ならば、共感を根拠にする、ひとつ、は空想ってこと?そうではなく、そいう熱いやかんを触った人の感覚と、自分を切り離して、共感しないのが、自我ってこと?

たとえば一冊の書を開いて。隣にいる友人も、おなじその書の同じ行を同じ速度で視線が辿ってる、と感じながら一緒に読み進む。とか。電話で感情が伝わります。とか。事実もあるでしょう。 空想もあるでしょう。みんな同じような空想をしてるので、そうだそうだ、違う違う、と話あえることもあるでしょう。

こんな映像を見て、それぞれ同じような印象だと共感?違う印象だと、共感ではない?いろんな意見や、意見がある場、そこには共感はない?また、とくに映像を見ない無関心は自我?

マイケル・ジャクソン スーダラ節

http://www.youtube.com/watch?v=JGf_gs2320o&feature=related

なにかの経験とか、なんかの感覚の有無で、話を進められないとして。それに共感するのが、自我?または自我ではない?あるいは、話を進められないというのは、わけ判らないよ?と共感しないのが、自我?または自我でないってこと?どこかに区別があるということ?なんであれ、その自分にしか判らないってこと?

また、そのどこか一定のことに膠着するのが自我?あるいは、自我でない?どこか一定のことに膠着しないのが自我?あるいは、自我でない?またTPOで変わると自我?

でも、もともと、こいうことどれもが、自我とか関係ない範疇で、と設定して始めている話なので、共感と自我、どうやったら繋がるか判らないけど?そもそも、これは自我だと、人の生活、と関係あるとしては説明できないって話?

この秋の台風12号で倒れた樹の根っこの前に、誰かが自転車を置いていました。

No.3828 - 2011/11/25(Fri) 11:28:06

Re: / peer
>やかんが熱くないのに、触って「アッ熱い」と、演技する人を見て

わたし・・・ヤカンが熱くないとは書いてませんよね。
湯気が立ってるような熱いヤカンなのです。
演技している場合の事は、想定していませんでした。
うーむ。
はい。わかりました。
ときどきいる共感しない人・・・のようです。
共感はコミュニケーションの基本なのですし・・。
共感能力は、女性性の方が高いのかも。
モノ言わぬ赤ん坊が、何をして欲しいのか
何に興味があるのか、様々に共感して
自分の事のように感じて、察して要求を満たす。
それが出来ないと、子育てのようなものは
なかなか難しいんですよねぇ。・・・。

No.3829 - 2011/11/26(Sat) 02:36:35

Re: / peer
>こんな映像を見て、それぞれ同じような印象だと共感?違う印象だと、共感ではない?いろんな意見や、意見がある場、そこには共感はない?また、とくに映像を見ない無関心は自我?


まぁ・・・なんと言いましょうか。
スーダラ節世代の私には、スーダラ節自体が懐かしい・・・、歌とフリが良くあってますね。
と思う所です。
これ、スーダラ節を知らない世代は、なんと思うのかしら?
タモリの「ききみみアワー」なんかも、面白いと思う人は面白いだろうし。
暇人だな。と思う無関心な人もいそうです。
ホントに興味というのは、人それぞれで。
同じモノを見ても、まったく感じるものは違って。
そんなもんですね。

No.3830 - 2011/11/26(Sat) 02:49:31

Re: / ubik0101
とても簡単なのです。北風が吹いてきたら、旅人は、裸になればいいのです。
No.3831 - 2011/11/26(Sat) 07:40:45

Re: / peer
旅人は、自分が裸だと思い込んでいるから、着こみたがる。
というか〜裸だと思い込んでいるから旅をしたがる。
ということもあるかしら?

No.3833 - 2011/11/29(Tue) 10:07:30
(No Subject) / peer
>>わたし独りでは、わたしを認識することができない。
>>こんな構造があるため、他者がいてくれる。


>それはそうです。
>でも、それは、なぜ、そう?


んんーつ。自我があるから、そうなっているんでしょ?
自我がなければ、我々はすべてで1つですから。

>>何かの動作をしていてピタリと合う瞬間。

>それは、劣等感、優越感、とかがないのなら、なにかの動作をしてなくても、ないのでは?

たとえば、渡り鳥は、ぶつかりあわないで飛びますね。
イワシの群れなんて、よくぶつからないなあと思う程一体になってます。
このとき、思考が入ると、一体感がなくなり混乱する。と思います。
この場合のように、劣等感とか優越感とは違う次元の行動の話だったのです。

>たとえば傲慢な人がいるとします。

本当にそんな人、いますか。傲慢な場合があるだけで、
相手によって場所によって変わるんじゃないですか?
まっ。傲慢も素直も、どちらも自分本位じゃないかしら。
そして「この社会(ルール)に置いて」という条件が付く。
違う社会に行ったら、何をどうしたらいいか、わからない。
傲慢も素直も、そんな土台の上にあるものじゃないでしょうか。

共通の言語・共通の価値観世界観があって、表現されて伝わって理解されて・・・
何かを見た時、必ず「これに似ている」というふうになって
認識されちゃうわけで〜
むしろ表現できてしまう場合、過去を持ち出して
新たなモノにクッツケてしまうから違和感が残る。
(それこそ、新しい酒は、新しい革袋にいれること)みたいな〜
これまでにないモノなら、これまでにない表現になるし。
そしてほとんど当人にしか理解できない。ということが起きる。
だから無理やり表現しようとしないで「味わう」という関係になる
んじゃないかしら。

No.3813 - 2011/11/20(Sun) 02:22:18

Re: / hato

> んんーつ。自我があるから、そうなっているんでしょ?
> 自我がなければ、我々はすべてで1つですから。


なぜ、人は、無我に偏りたい、のでしょうか。

それほどまでに、思考を掴んで存在しようとする自我とは、重いもの、かも知れません。でも、自我がなくても、もし人が無我に留まるなら、その世界と一体・・・自然に生きる・・・を見て、その思考や自身の流れ方を問題にしないことで、ありのままひとつ・・・かも知れません。世界は、それ自身のやり方で進んでいるとして、でも人は、世界を一体一様に流れていく・・・ではないと、思います。

一歩、踏み込みます。そんな自我、無我、でもないところの、その自分、その自己、であるとき、人は必ず、この世界で、我々総てはひとつ・・・になりようが、ないことを知ります。なりようがない、という事実を見ます。

たとえば森羅万象とは、総てはひとつ、として収斂されてしまうには、あまりに不可−思議です。だれがそれを、知っている、でしょうか。ここで総て、とは、なんでしょう。とても簡単に、人は、すべて、と言います。自分が知ってるところ、意識され、感じられるところの総てが、すべて・・・というとき、人は、道具である感覚、意識の焦点化、という機能をまったく前提に据えたまま、そのように表現します。ここでも人は、不可−思議ということを、世界のなにかに照らし合わせて考えようとします。空想なら、可能かも知れません。でも、事実では、ないかも知れません。

空想不能・・・というとき、なにかが世界を創り出し、私たちを分身として表現している・・・と、言えません。この世界がすべて・・・とも、世界のほかに何かがある・・・とも、言えません。それが不可思議ということです。なぜ、総てはひとつ、と言えるでしょう。畏敬を知るとは、まったく不可知であることを、その腑の深く深くに染み入らせ、落とし込むように知った、とき、初めて本当の意味で、畏れることを知る、ということでもあります。そのとき、知ってる、との傲慢さを捨て、人は新たに、進むことができます。

総てはひとつ、という概念が、極上のツールとして役立ってくれたとして、人は、方便に留まることはありません。方便に留まるとき、進むことが難しいでしょう。留まるところでない場所に留まることは、人が無我であっても、仕合せとはいえないでしょう。



> 本当にそんな人、いますか。傲慢な場合があるだけで、
> 相手によって場所によって変わるんじゃないですか?



なにを知る、とし、なにを知らない、とするか、それが判らないのに知ってる、と思うとき、人は傲慢です。

それは自我なのでしょう。相手によって、場所によって、出たり出なかったりするなら、それを嘘付きとも、いうかも知れません。


> まっ。傲慢も素直も、どちらも自分本位じゃないかしら。
> そして「この社会(ルール)に置いて」という条件が付く。
> 違う社会に行ったら、何をどうしたらいいか、わからない。
> 傲慢も素直も、そんな土台の上にあるものじゃないでしょうか。



この社会に置いてでなく、その人に於いて、ということかと思いますね。けれど、人が素直であることは、自分本位では難しいでしょう。ほとんど、無理でしょう。なぜなら、素直とは、人が自我の頑さを固持していたら、ほとんど、保つことができない資質です。

人が成長して与えられる、このような「特質」は、もちろん、世界・・・ことに社会を基準に置くことは難しいのです。世界の現象や社会の、なにかに素直・・・という表現が通常、されるとしても、適当でないと、思います。素直とは、文字通り、素に直結することと言えます。人が進むために、恩寵として与えられる特質のことを言います。

人が素直であるとき、意識がどんなに迷っても、かろうじて道を進んでいくことができます。それは決して、頑固とは違います。なにか守りたい信条や見解、体裁その自我、また、なにか関係を固持することより、優先されるそれがあることを、素直という事態は知らせ、また、人がそのようにあることを言います。

太古の昔から、人は素直でありなさい。
と、いわれるのは、

文字通り、なにより、大事だからです。


peerさんの投稿は、読む人に共通のテーマがあるかも、とのことで、2通の返信になりました。随所に鍛えられてるpeerさんなら、だいじょうぶ。ということで一致して、それっ、と投稿しますね。

No.3814 - 2011/11/20(Sun) 22:17:43

Re: / ubik0101

peerさんが、それをどのようにして了解したのか、まだ知らないので。「自我がなければ、我々はすべてでひとつ」、これだけを聞いて思うこと、を話してみます。

どうやっても人は、その自分の、見る聞く、行動、発言、思考に関わっています。その関わりから離れて自分はないでしょう。ということは、どうやっても自分の関わることの外にでられないことを示しています。と、いうそのことが「我々はすべてでひとつ」とは断定できない、そうかどうかは解らない、ということを示してるのではないでしょうか。意地悪に言うならばですが、なにか見る聞く、行動、発言、思考に関わって反応して生じる自分なら、その外は、あり得ない。それは世界に依存してる自我、でないとは言えません。

それに、世界や人、それと自分を分離させるということだけが自我なのでしょうか。つまり自我を、全体から分離する、されることと捉えると、自我がなければ、ひとつ、と帰着せざるを得ないかもしれません。ほかにも自我は、自分で自分を自覚したいこととか・・・それは分離ではない、ただ独りある、に繋がるでしょうし・・・み〜んな揃って。ない。ってことで、一緒。だとしても、ない、の意味を問うとか・・・ひとつ、で終わるわけではないでしょうし、学べることがあります。

どのようにまあ、世界を捉えてもいいのですが・・・どうでもいい話なんですが・・・書店で斜め読みしたので、いい加減な記憶ですが、ある人にハイヤーセルフが話します。みんな繋がってるんだよ。大根一本だって、太陽の恵み、空気、水、肥料とかで育つんだ。それを育てる人だって、みんな、ほかのことや人と繋がってるんだ・・・とか話します。

それは、大根とか、人とか、仮に世界から個別のこととして切り取ったことを隠れた前提として空想すると、そうでない逆の、繋がってる。が見えるだけです。それはループになってるので、その外が見えない・・・で、ひとつ・・・それで納得なら、それでいいのですが・・・ほかにもある世界の一つの解釈ではないでしょうか。まあ、縁起、世界の総活動のことを、ひとつ、と呼べないことはないのですが、そう呼ぶと不適切な命名だと感じます。

ところで傲慢、素直さは、TPOに応じて、あったりなかったりするということ?傲慢、素直を「この社会(ルール)に於いて」として捉えるとして、優越感、劣等感と、どう違う? これは自我だと自覚できない自我は、問題にはならない?たとえば一体感があって、その時は優越感、劣等感が自覚できない、それだけで違う次元なのでしょうか。また自我は、あったりなかったりするのでしょうか。

もしかして、それを自覚できないでも、無自覚な優越感、劣等感・・・自我に、支配されてるということもあります。そんな自覚の、ない、ことからの解放がなければ自覚の、ある、ことからの解放は困難です。その解放を自我からは学ぶこともできます。 おたがいに衝突しないかどうかも鳥や魚の群れに聞いて確かめたことはないのですが、一体感だけでも、分離だけでもないような気がします。

こんなものを?・・・見つけました。

No.3815 - 2011/11/20(Sun) 22:18:25

Re: / peer
>なぜ、人は、無我に偏りたい、のでしょうか。

んんんー。無我に偏りたくないんじゃないでしょうか。
だから、これだけ昔から大量の悟りについての本が
出ていても、知る人は知る、知らない人は知らない
「自分には関係ない」として、自我の確立を目指す。

それにしても「我」のくっついたモノに対して
自分の価値観として大切にする人もいるし、
見るに堪えないと感じる人もいるようです。

>それほどまでに、思考を掴んで存在しようとする
>自我とは、重いもの、かも知れません。


「そうしよう」としているわけではなく、
そのように人は作られているだけでしょう。
自我。なんてものがあると認識できるのは
人とチンパンジーくらいのものでは?

>我々総てはひとつ・・・になりようが、ないことを知ります。
>なりようがない、という事実を見ます。


という見方しか出来ない状態に居る。
ということでしょうね。

>この社会に置いてでなく、その人に於いて、ということかと思いますね。

人は、その人の記憶の集大成ですから・・・。
その人の体験と記憶の裏付け・背景に必ず「社会」は
あると思いますね。
社会から切り離された「その人」は、いるのだろうか。
そういう風に見ると「その人」なんてものはいなく、
「社会のある面」のようなことにも、なりそうな。

No.3816 - 2011/11/21(Mon) 01:59:45

Re: / peer
>おたがいに衝突しないかどうかも鳥や魚の群れに聞いて
>確かめたことはないのですが、一体感だけでも、
>分離だけでもないような気がします。


大根とか世界とかの繋がり関係性の説明は
思考の範疇じゃないかしら。
そう言われればそうだよね。というようなコト。
潜在意識の表面にあって、意識すると意識できる。

群れにリーダーがいて「こうしよう」としなくても
「こうしたら、こうなる」と思考しなくても
そうなることと決まっている。ように動く。
そんな話なんですけど、ね。

そんなふうに、群れ全体が自分感覚として広がる。
境界線の限界はない、という構造もありまして。

私たちには、肉体の限界・境界線があります。
ここで、長ボウキを持つと、その限界は
長ボウキにまで広がります。
手を使うように、細かい作業が可能になります。
車に乗って自分の体のごとく自由自在に動かすこと
ができるのは、体の限界が車を含むから〜です。
ギリギリの車庫入れも簡単。
これは、実感できることかなぁ〜と思います。

No.3817 - 2011/11/21(Mon) 02:21:36

Re: / ubik0101
> これは、実感できることかなぁ〜と思います。

それで、自我があると、たとえば自動車の運転が上手にはできないで。自我がなければ、自動車、それが走る世界と、一体感があるということでしょうか。

ふと思いついて、ネットで検索したら、太古の不二一元論は《アートマンはブラフマン》ということらしくて、今風の、ひとつ、とは少し違うようでした。

ま、ともかく、「自我がなければ、我々はすべてで1つですから」、それはpeerさんにとって、あるいは誰にとっても、究極?

No.3818 - 2011/11/21(Mon) 21:01:29

Re: / hato

こんばんは。こちらは、ようやく冬将軍のようです。
木々の枝が冷たい。冬の気配がします。


> >なぜ、人は、無我に偏りたい、のでしょうか。
>
> んんんー。無我に偏りたくないんじゃないでしょうか。
> だから、これだけ昔から大量の悟りについての本が
> 出ていても、知る人は知る、知らない人は知らない
> 「自分には関係ない」として、自我の確立を目指す。



そうした本をたくさん読んで、知ってる故に、無我に偏りたい人も多いでしょう。ならばそれは、もしかして、無我を張りたい自我・・・かも知れませんね。どうしたってそれは、知ってること、では、ないからです。


> それにしても「我」のくっついたモノに対して
> 自分の価値観として大切にする人もいるし、
> 見るに堪えないと感じる人もいるようです。



そうなのでしょうか?peerさんは、どうなのでしょう?本当に誰かが、peerさんが感じるそのようかも、わからないでしょう。


> 「そうしよう」としているわけではなく、
> そのように人は作られているだけでしょう。
> 自我。なんてものがあると認識できるのは
> 人とチンパンジーくらいのものでは?



要はするに、学ばなければ消化もない・・・であり、無我もやはり、学ばなければ昇華もない・・・でしょう。ちょち冗談まじりですが、そんな感じです。


> という見方しか出来ない状態に居る。
> ということでしょうね。



そうです。それはたとえば、皮肉になり得ない・・・ほど、当然なことなのです。なぜなら、そうしたなにか、総ては・・・などの信条は、理解され得るのであり、理解したなら、理解していないところに、その意味で戻ることはできません。用いることはできても、留まることはないでしょう。

その理解は、簡単、と安直にいえませんが、簡単に難しい、ともいえません。進む、ということ。留まるところでない場所に留まらない、ことで可能です。


> 人は、その人の記憶の集大成ですから・・・。
> その人の体験と記憶の裏付け・背景に必ず「社会」は
> あると思いますね。
> 社会から切り離された「その人」は、いるのだろうか。
> そういう風に見ると「その人」なんてものはいなく、
> 「社会のある面」のようなことにも、なりそうな。



人と社会は、同じ土俵に見ることができないでしょう。世界は人を育ててくれます。けれど、社会とは世間。多く自我によって作られた、虚構ですね。人がこうしたことを本気で学ぼう、というとき、社会、その世間に裏打ちして貰えることはないでしょう。たとえば社会を背負った人が、本気で学ぶ人を愛することは、おそらく、できないでしょう。その意味で、感謝されることも、ないでしょう。

その人は、社会に生きてるように見えるかもしれません。でも違います。ただ、それ、を生きる、だけなのです。


庭に小さな、可愛いビオラがたくさん、咲くといいね、と言ってます。増えたら、とてもすてきです。

No.3819 - 2011/11/22(Tue) 00:33:36

Re: / peer
>それで、自我があると、たとえば自動車の運転が上手にはできないで。自我がなければ、自動車、それが走る世界と、一体感があるということでしょうか。

ふうむ。そんなふうに聞こえますか?
そこは、あえて自我と話を絡めないで欲しいのですが?
自分としての肉体感覚の空間の幅が、自由に広がったり縮んだりする話、なのです。
この感覚が乏しいと、車庫入れが下手。ということは、あると思います。
まっ。そういう一般的な、普通の人の感覚のことです。

>ま、ともかく、「自我がなければ、我々はすべてで1つですから」、それはpeerさんにとって、あるいは誰にとっても、究極?

どうなんでしょうね。わかりません。私には、そんな感じがする。ということね。
そして・・・そう。そこを、肉体の「自分感覚」から、自我という精神的(見えない世界)へと話をつなげたかったのです。・・・分かりにくかったようですね。

No.3820 - 2011/11/23(Wed) 04:21:46
(No Subject) / peer
>苦しんでる人を力付けたりするときは、なにか見越してものを言うことも、あるかも知れませんね。そんなことも、あんなことも、あるかも知れません。痛みや苦しみを、介抱したい、ということ。

>そしてまた、そうである必要もない・・・が、あるかも知れません。

苦しんでいる人の傷口に手を突っ込んで、グリグリすることだって
・・・あります。
だから〜本当には、優しい人でないかも・・・ですね。
でも、まぁ。なんか、それで、変わるものがあれば
面白いと思ってしまう。ヒネクレモノなんです。
世界が膠着しているのが、一番〜ツマラナイ。
そんなときに特にグリグリしたがる。
自分もろとも、膠着をたたき壊す。。。ような。。

No.3791 - 2011/11/11(Fri) 11:32:22

Re: / peer
なんか・・・ツマラナイなぁ〜と
そして「人を褒めCENSORED見よう」と思いつく。
褒め殺したつもりなのに、壊れた残骸の中から
ポーンとピカピカ光るものが立ち現れる。
あぁ〜人はみんな、そんなものを隠している。

No.3792 - 2011/11/11(Fri) 11:36:25

Re: / ubik0101&hato
>苦しんでいる人の傷口に手を突っ込んで、グリグリすることだって・・・あります。
>だから〜本当には、優しい人でないかも・・・ですね。



グリグリが、その人のためになってる場合は、究極的に優しい〜〜かも、知れませんもんね。まあわたしとしては、peerさんが優しくても、そうでなくても、どっちでもいいんですけど〜。


> 褒め殺したつもりなのに、壊れた残骸の中から
> ポーンとピカピカ光るものが立ち現れる。
> あぁ〜人はみんな、そんなものを隠している。



そう。

peerさんを褒めCENSOREDみたら、

ピカピカな、なにかが、立ち現れたのですよ。

わかりましたですか???

hato


>苦しんでいる人の傷口に手を突っ込んで、グリグリすることだって
>・・・あります。



それ、それ。それです。ここだけの話ですが、ubik0101も、実は、得意技です。

みなし児のバラード

http://www.youtube.com/watch?v=5-TIjY-9qzU

ストーリーなんかどうでもよくて、エンディングテーマが、愛唱歌でした。とくに、♪強ければそれでいいんだー♪ひねくれて星を睨んだ僕なのさー。ってところが、とても響いたのです。

ubik0101

No.3794 - 2011/11/11(Fri) 21:55:20

Re: / peer
だからね。やっぱり〜ね。
北風より太陽なのです。
相手の幸せを一番に願うって、自分も気持ちいいじゃない。
願える自分である事を発見する。ような感じなのだなぁ。

ただ、こんなアタシなんかに褒められてもねぇ〜
嬉しくもなんともないだろう・・・
みたいなことが、、、昔は、ありましたね。
まっ。そんなの関係ないのだ。
どうでもいいのだ。

No.3795 - 2011/11/12(Sat) 03:25:06

Re: / ubik0101&hato

> だからね。やっぱり〜ね。
> 北風より太陽なのです。



太陽は、人を蒸し焼きにしてしまえますもんね。たとえば愛は、表現としていつも慈愛とは、限らないでしょう。比喩としての北風と太陽・・・これはどちらの働きが・・・ということでは、ないでしょうね。人はいつも、優しいものが好き、気分のよくなることが好き・・・でも、成長とは、あらゆる機微を通して起こると思います。

そして尚、愛は、愛。と思いますね。


> 相手の幸せを一番に願うって、自分も気持ちいいじゃない。
> 願える自分である事を発見する。ような感じなのだなぁ。



愛は、愛。それは、こういう仕方・・・ああいう仕方・・・或いはその、感じ・・・にとくに関係するもない・・・愛。

ピカリと光ったなにかは、大切なテーマです。たとえば愛は、どれかの状態、だけのものではないのに、人はその形式と内容をくっつけておきたい、或いは、くっついてる・・・と思い込んでいる、かも知れません。けれどそれは本当は、とてもとても、膠着ない、フレキシブルなものでしょう。

神奈川に行ってきましたが、やはり関東のほうが、すこし冷えるかも知れません。もう11月なのにこちら、昼間は半袖でいます。

hato

たぶん怒りは、愚かさへの攻撃反応で。ほかの人に顕れてる愚かさと闘わなくてはならない、という理由がありそうです。それにしても、その理由(思考)そのことには、その理由(思考)が正当か不当かを判断する機能はない。とか。自分は自分と距離がなく、自分を怒ることは困難。とか。そこにも気がつくことがあるようです。

それと劣等感とかは。その言葉を、ほかの人が話してるのを聞くまでは、それが自分にないことにも、まったく気がついてなかった。ということに気がついて、なぜなくなったんだろうと。たとえば自我とかが、あるとかないとかいう自覚できる思考とは違っていて、ちょっと驚き、ということがあります。

ubik0101

玄関の、小さなプリペットです。葉が大きくて、生長が楽しみです。

No.3797 - 2011/11/12(Sat) 21:26:34

Re: / peer
>それと劣等感とかは。その言葉を、ほかの人が話してるのを聞くまでは、それが自分にないことにも、まったく気がついてなかった。

ほーほー。いつのまにか、なくなっていた。
え〜と。劣等感とか優越感とか。
こう感じるのは、間違いよね。
比較対照するのは、この世の常。
比較したから、貴方がいて、私がいる。
私が見た、私の中の貴方がいるだけ・・・。
それに意味づけして、泣いたり笑ったり。
そんな必要はないのにね。

そうでなかったら、
私と貴方が、まったく同じなら
ドッペルゲンガーを見た者は数日のうちに必ず死ぬ、
といわれているように、私は消えてしまう。
と・・・思います。

No.3801 - 2011/11/16(Wed) 01:51:29

Re: / ubik0101
ほかの人には、なんか自分とは違う、意地悪な性格、優しい性格、狡い性格、など。自分とは異なってる特定できる個別の、行動、発言、思考の傾向、型とかがあるようにしておかないと、掴み所がなくて、ああいう人は、ああいう人だと空想すること、判断すること、意味づけること、もできないのでしょう。

そいう比較できるということは、距離が必要で。そうしてる、ほかの人から分離されてると意識させられる、自分。それは、特定の、個別の自分で。そこで、ほかの人と比較して感じる・・・劣等感・優越感・・・ともに。距離の状態から派生した、特定の個別のことを掴むことが空想、とも言えます。また、自分と自分との距離で。どこか似たような人を好んだり、嫌ったり、もあるかもしれません。

それで、空想一般をしなくなってると・・・つまりは、ほかの人との意味づけられた距離、自分と自分との意味づけられた距離もないということで・・・ほかの人との違いが、ことさらの違いとして意味づけられず・・・・自分で自分を自覚しようともしてないと。劣等感、優越感、疎外感とかをなくそうという道筋を辿らなくても、それがなくなって。そのことにも気がつかない、ってことかもしれません。

No.3805 - 2011/11/16(Wed) 21:23:43

Re: / peer
わたし独りでは、わたしを認識することができない。
こんな構造があるため、他者がいてくれる。
のだと思います。

それは、同じ意味で、他者の為に自分が
存在している。とも言えることでしょう。
相互に、自分として存在する理由。

何かの動作をしていてピタリと合う瞬間。
右手と左手のように、寄り添う感覚。
だから卑下したり優越感を持ったり
する必要はない〜わけです。
協力関係があるだけなのですね。

No.3806 - 2011/11/17(Thu) 01:46:35

Re: / ubik0101
>わたし独りでは、わたしを認識することができない。

それはそうです。
でも、それは、どうして、そう?

>こんな構造があるため、他者がいてくれる。

それはそうです。
でも、それは、なぜ、そう?

たぶん単一なら認識できない、多様なら差が認識。
でも、それは、どうして、そう?

>何かの動作をしていてピタリと合う瞬間。

それは、劣等感、優越感、とかがないのなら、なにかの動作をしてなくても、ないのでは?また、単独でも、みんな一緒でも、多様でも、劣等感、優越感、とかはないのでは? でも、それは、なぜ、そう?

たとえば傲慢な人がいるとします。その人は、道で会ったら笑顔で近所の人に挨拶したりします。そのように、まったく自分は傲慢だと思考しないでも、傲慢です。そして自分は謙ってると思考できたりします。つまり、その人の事態と、その思考は無関係です。なので誤認できます。事態と思考は無関係、だからまた、自分が傲慢だと認識できます。

また、たとえば素直な人は、自分が素直だと思考してもしなくても、素直です。その思考と、その事態は無関係。なので素直な人が素直と認識して、正確です。なのですが、これは、人の事態と思考の関係です。これはもともと傲慢とか素直とか、認識でき得る、評価でき得る範疇として探ってる。だから、かもしれません。

でも世界とか、現実とかを・・・ 認識の、意味の、思考の、生じるそのことの源?そのあたりを探りたいと感じています。そのことを思考、表現してしまえば、もう意味を汲み取る前?の事態が、こういうことだと意味づけられて表現されてしまって、それでは不可。どうにも思考、表現は不可。

ちょっとそれに近いのは・・・たとえば、自分が消えるとか、距離がどうとか。そいう事態と、そいう事態の思考、表現、との関係 。その事態は、表現そのことは違ってて、どう表現しても表現できない・・・に近いのです。このあたり、なにもないかもしれないけど、なにかありそうな気はするのです。

ルンルンは下駄箱で遊ぶのが大好きで、スニーカーを食い破ったりする困ったちゃんです。ここにも何かありそうだな、と格子の穴から中を覗いて廻ります。

No.3812 - 2011/11/18(Fri) 17:34:58
(No Subject) / peer
>太陽は、人を蒸し焼きにしてしまえますもんね。たとえば愛は、表現としていつも慈愛とは、限らないでしょう。
>比喩としての北風と太陽・・・これはどちらの働きが・・・ということでは、ないでしょうね。


愛・・・愛と言うモノは、見えているものとは違って。

むかし越後の方に眉目秀麗の若いお坊さんがいました。
周りの女たちは、ほっておきません〜
いつでもいつでも、何か困った事はないか、と
尋ねて来ては、様々な仕事をしてくれます。
周りの、誰もかれも、下に置きません。

ある日ですね。子供を身ごもった女が
「お坊さん、助けて下さい」と言ってきます。
「誰にも言えない、子供を身ごもりました」
と言うのです。

お坊さんは、何も聞かず、置いてやります。
すると、周りの人は、怪しんで
「立派なお坊様になると思っていたのに・・・」
「あの女の子は、お坊さんの子供なのね」
となって、今度は誰ひとり、尋ねて来ません。
お坊さんは乞食のようになっても世話をする。

やがて子供を産んだ女は、姿を消す。
遺された子供を抱いて、哀れに思い
お坊さんは我が子のように世話をします。

で、何年かして、その女は我が子を
取り返しに来る。年老いた両親を連れて。

不自由しながらも可愛がって育てた子です〜
「今になって、そんな・・・」とは、お坊さんは
言いませんね。「どうぞ、どうぞ」と。
来るもの拒まず、去るモノも追わず〜

No.3802 - 2011/11/16(Wed) 12:42:15

Re: / peer
事情を知った周りの村人は、また、前のように
お坊さんは、立派な人だ、言い訳もせず
哀れな女を救いとった。とほめちぎり〜
お坊さんのお世話をするようになります。

で、お坊さんは密かに思うのですね。
子供を託されて困ったと思ったけれど。
昔のまま、存分に世話を受けていたら
修行は出来なかった。その自分を子供を
与えることで、修行を深めるように〜との
阿弥陀様のハカライがあったのだ・・・と。

困ったときもハカライが陰にあり
良い事があった時にも陰にはハカライがある。
どんなことにも、ありとあらゆる与えられるもの中に
神・仏のハカライがある。
ハカライによって、活かされている人。

太陽と北風も、似たようなもので。
人に優しくするのも恐れさせるのも
なにかのハカライがあり、ハカライがあるから
その陰に支えられ、この世は回り続ける〜と。
その「陰」に気づかせてくれるのも、ハカライの力なのよね。
と気付くとき。
「自分」は・・・何もしていない。
ハカライに乗せられて、自力で動いている
ように勘違いしている。
となるかも知れません。

No.3803 - 2011/11/16(Wed) 12:45:16

Re: / hato

こんばんは。

秋のとある日に、素敵なお話を書いてくれた、peerさん。


>困ったときもハカライが陰にあり
>良い事があった時にも陰にはハカライがある。
>どんなことにも、ありとあらゆる与えられるもの中に
>神・仏のハカライがある。
>ハカライによって、活かされている人。


> 太陽と北風も、似たようなもので。
> 人に優しくするのも恐れさせるのも
> なにかのハカライがあり、ハカライがあるから
> その陰に支えられ、この世は回り続ける〜と。
> その「陰」に気づかせてくれるのも、ハカライの力なのよね。
> と気付くとき。
> 「自分」は・・・何もしていない。
> ハカライに乗せられて、自力で動いている
> ように勘違いしている。
> となるかも知れません。



自分で為したと思い・・・仮定された、自我はない・・・・ですね。

そして、自我・・・或いは無我・・・、ということも、ことさらない、そこで、その不思議は、ある・・・ない・・・、どのように表現しようもなく、生きる、でしょうか。


神仏、ということを、たとえば自分は空想しないけれど、

その、不可−思議を。

人は、どこまでも、不知(知らず)。

不知・・・その畏怖は、恐れ、とは違いますね。


空想不可能なそこで、本当に人は正しく尊び、畏れることができるでしょう。それはまったく空想不可、なところで、そのようにあることができると思います。


>愛・・・愛と言うモノは、見えているものとは違って。


ほんとうに。

愛は、知ってる事象に無関係・・・にあるからこそ、正しく関係することができますね。なにか形式や、その内容・・・とも、言えません。膠着しない・・・に膠着することさえ、することもできない、それでしょう。

愛は、愛。


畏日(いじつ)、とは夏の日。激しい太陽。

それは、人が知っては焼け死んでしまうかも知れません。でも、畏敬しても、恐れる必要はない、と思います。

'O sore mio(オ、ソレ、ミオ)
 
わたしの太陽、わたしの恋人・・・・という意味だそうです。


誰でもない、その、わたしの・・・・・


みどりの庭の、クリスマスツリー。
姫柊(ひめひいらぎ)です。

No.3808 - 2011/11/17(Thu) 23:14:36

6 カエル 印 / 咆哮
悔い改めだと思っていた卑屈は傲慢を根拠にしたものでした。聖書には自分を上に立たせる者は低くされるとあります、peerさんに感謝です
太陽の話が大変興味深いです。
自分の神秘体験を少しだけ、血管を伝って流れでた神経、後に暗闇の中にポカンと浮かぶ光の玉。色は緑色でした。これは一体?
数日後に横になっていると光が後頭部から現れ、視点が消えるといった事もありました。愛とはもしかして羊?『今はまだ愛が概念としてあり知覚出来ないのかもしれません。』←この発想が違う様な気がします。確かubikさんが神は距離があると消えるといっていましたが愛は神?なのでしょうか?

No.3809 - 2011/11/18(Fri) 03:35:56

Re: / ubik0101
>確かubikさんが神は距離があると消えるといっていましたが愛は神?なのでしょうか?

それは、神は距離がないと消える、です。説明ですが、神を感じる、というのは、自分と神の距離があって可能です。そして、その距離がなくなると・・・それは神と自分との一致というより、自分がない、に近いです・・・たとえば「私は神」も消えます。つまり神との距離が、神の概念です。

そして距離を繋ごうとするのが信仰です。なので距離がなくなると信仰も消えます。それは、神は実在(それの原因がそれ)であり・・・それは自分の外とか、中とか、それの中に自分がいるとかの思考、判断、解釈、印象の、必要も消え・・・ことさら信じる信じない関係ないほどの距離があるも、不要です。

あくまで人から見ての印象ですが、神は愛です。でも、愛は神ではない、です。

No.3810 - 2011/11/18(Fri) 09:09:47

Re: / peer
こんにちは。咆哮さん。

まぁ。お坊さんの話のような語りつがれた物語は、どこにでもあるようで。
この話も原型はエデンの園で安心して暮らしている人が追い出されて苦難を背負うモノと似ていると思います。
人にとっては苦難ですけど、これも成長の為のハカライなのだなぁ〜。
と思うと、なんでも与えられたものは、愛でしかないワケで。
どう人は受け止めるか。そこだけなんでしょうね。

>悔い改めだと思っていた卑屈は傲慢を根拠にしたものでした。

懺悔とは。本当に悔い改めることです。
そこで本当の自分とコンタクトできるチャンスが来ている。
のですが・・・どうしても架空の自分を手放せないんですね。
で、卑屈を使って、このままでいようと・・・する。
「こんな自分なんです、ダメなんです」って〜〜。

んんーと。それに。現象に囚われないこと。
だから、常に「外を探すな」と言われるんですね。
特別なことが起きているのだと思ったら囚われる。
囚われると、やはり、そこに留まってしまいます。

No.3811 - 2011/11/18(Fri) 10:15:29
否定の道・初級編 2 / ubik0101&hato

(第5日)ところで。嘘、とは何でしょう?


これまでなんとなく、嘘、という言葉の意味が
判ってることとして進めてきましたが・・・
ここで、ほかの誰かの言うことによらず、常識によらず、
辞書によらず、自分で、日常の言葉で、
これだ!と実感するまで、
嘘、を正確に定義してみてください。

(                        )


それを一般的に展開し、さらに自分に適応しましょう。

あなたの嘘の定義に、ほかの人がついた嘘は、
ぴったり合うでしょうか。広く照らし合わせてみましょう。
そしてその定義を、
その定義をした、あなた自身の生活(行動、発言、思考)に、
厳密に適応してみましょう。
どんな印象でしょう。

(                        )

さて、ところで。理由、とは何でしょう?

さらに、まったく誰かの言うことによらず、
辞書によらず、自分で、日常の言葉で、理由、を
定義してみてください。それはどんな
仕組みで機能してるでしょう。

(                        )

No.3793 - 2011/11/11(Fri) 18:47:01

Re: 否定の道・初級編 2 / ubik0101&hato

(第6日 ) ここで、これまでの自己探査を
フィールドバックします。


たとえば何か嘘をつく、その理由(前提・動機・根拠)、を
嘘と独立した思考の姿、概念として扱いましょう。
そして、その概念そのことに、
正当性はあるか、を調べましょう。

これは、常識、良心、道徳・・・
ほかのどのようなこととも、
照らし合わせる必要はありません。
ただ、あなたが、その理由(前提・動機・根拠)を
思考してるそのことだけから、
判断してください。

その嘘の理由に、正当性がないなら、
その嘘に正当性があるでしょうか。

(                        )

そして、嘘に正当性がないとしたら
これから、ほかの誰かや自分に、
嘘をつくことができるでしょうか?

(                        )

もし嘘に正当性があるなら、それは、
どんなことでしょう。
たとえば、あなたが相手の人のために、嘘をつく。
これには正当性があるでしょうか?

(                        )

No.3796 - 2011/11/12(Sat) 19:26:57

Re: 否定の道・初級編 2 / ubik0101&hato

(第7日)ではここで、
     質問1の、嘘、の部分を、
     ほかのことに置き変えて考えてみましょう。


これは ●あなたは今日、誰かに嘘をつきましたか?
から始めた探査です。
これを、誰かを傷つけましたか?・・・
自分が傷つきましたか?・・・
噂話をしましたか?・・・怒りましたか?・・・にして、
再度、再々度、トライしてみてください。
つまり、形式は同じです。
ただ内容が、違うだけです。このことは、
なにを意味するでしょう?
ここは大事なところです。

(                        )

ところで、この日常、
《こういうことは実は、こういう意味だ》という
いろんな思考が生じます。
その奥にあってその思考を成立させてる
理由を探る・・・つまり思考する・・・言葉で見るのです。

そのような言葉・・・思考・・・は両刃の剣です。
むこう向きの刃だけを使うのではなく、
そのこちら向きの刃で
冷徹に自分で自分に切り込むのです。
もしかすると、それ以外のことは、
総て空想かもしれません。

くり返します。
なにかの思考のその理由に正当性は、根拠は、
あるかないか?探ってみましょう。
正当性がないなら、その思考がどうなるか、
見てみましょう。
そして、その自分はどうなってるか、
感じましょう。

あなた自身の探究の方法は、正に、
その事態が教えてくれます。

今日、どう行動しましたか?
なにを、発言しましたか?なにを、思考しましたか?

そうしてる、その自分とは、なんでしょう。


自分とは、一体、何?


これを呼吸のように・・・考えても、
考えていないとしても、このことを、常に基礎に。
さあ、始めましょう。

No.3798 - 2011/11/13(Sun) 22:12:56

Re: 否定の道・初級編 2 / ubik0101&hato

オオスカシバという蛾です。ときどき、庭にきてくれます。

最初、見つけたときは、ふたりとも「なにこれ!えーっ、もしかしてハチドリ???」といって大騒ぎ。体長3センチほどで、目がまんまるくて、なんてかわいい!!

飛ぶのが早くてよく写りませんでしたが、身体は全体的にオレンジですが、上半身がメジロのような鶯色をしていて、メジロのような顔なんです。

No.3799 - 2011/11/13(Sun) 22:46:26

Re: 否定の道・初級編 2 / ubik0101&hato

ホバリングしながら、スポイトのような細い口で、花の蜜を吸います。大井川のあたりで発見されてるらしいですが、珍しくて、なにしろ、鳥のようで可愛いので、手に乗せたり、飼う人もいるそうです。

No.3800 - 2011/11/13(Sun) 22:47:38
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