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ごまかし / ソルト
若いころ、大事な価値観があって、うまくいかないことが起きて、苦しみます。
ところが、あるとき、大事な価値観を捨てても、自然な生があるのを見出して、楽に生きることができることがわかります。
ところが、そこで、適当な価値観を見出して、いまの立場を利用した、いい加減に生きることを覚えます。
そして、世界を認めれば、何でもありなんだよと言います。

No.3681 - 2011/09/15(Thu) 15:35:45

Re: ごまかし / ubik0101
まずは、主語がない文章なので質問します。ソルトさんの投稿は、ソルトさんの状態を説明してるのでしょうか?

そうでなく、そんな特定の、あるいは不特定の誰かがいるよ、と話してるのでしょうか?

またはソルトさんが、ubik0101は「・・・そして、世界を認めれば、何でもありなんだよと言います。」と、思ってるのでしょうか?

ところでubik0101には。若いころ、大事な価値観があって・・・苦しみ・・・価値観を捨てても、自然な生がある・・・とかの経緯はありません。それに、世界を前提にするとしても、中道です。

No.3683 - 2011/09/15(Thu) 21:06:00

Re: ごまかし / 咆哮
なんとなくです、気になさらず
ソルトさんにちなんで

波が満ちては引きます
失って得るものはなんでしょうか?

No.3687 - 2011/09/16(Fri) 04:20:02

消えた思考 / ubik0101
ちょうど、そのテーマに移ろうとしてたところです。なにかを了解します。すると、その思考は消えていきます。その消えた思考は、どうなってるでしょう?

それは、たとえば何かを食べたら見えなくなる。それは人の血や肉になったからです。というようなことで。なにか、あれこれ思考や感情が現れては消えていくのを見ることとは、違っています。

たとえば、無我・・・その概念、その有り様、印象・・・と自分が接近して距離がなくなったら、無我が失われます。そこで、それと距離があって、無我を対象にしてた、ここでは残響のような自我とも呼んだりしますが、その自分も失われます。

それは無我の対としての、自我も一緒に失われるということです。これが、自我もなければ、無我もない、です。これは青い空、鳥の声・・・この明るい世界を見れば一目瞭然です。自我と無我の区別がないところ、です。 ほかの言い方では、自我も無我も失って、偏りなく、満遍なく、その総てを得た、とも言えます。

たとえとしては、光の三原色R(赤)、G(緑)、B(青)を重ねると透明になります。それは色が、ない、のです。けど、闇ではありません。光が満遍なく、赤や緑や青に分けられずに、ある。から特定の色としての赤や緑や青が、ない、です。

続きます。

No.3688 - 2011/09/16(Fri) 10:07:47

Re: 消えた思考 / ubik0101
けどこのことは、 もともと、自分が自分にあっては、その距離がないので、自分が自覚できない、この意味での、自分がない。という了解が奥にあります。自我が、ない。という意味での無我とは、ちょい違います。

これは、知覚できないゆえに、ある。おなじことですが、ある、ゆえに知覚できない。です。くり返しますが、自分が、ない、という無我さえ対象になり得ます。それは、距離があり、そうする自分が生じていて、自我と無我との比較があったりして、面倒なのですが意識が、それを経緯して、自分が、ある、さえ対象にする必要がなくなります。

>波が満ちては引きます
>失って得るものはなんでしょうか?


なにか知覚でき得る、もの、こと、だけを見るのなら・・・それは世界の七つの海を得るのです。でも、それよりも、それを得る、自己。それが大事です。なのに、逆は真だと見なして。では、怒りを消すには、因果を消すには、どうしたらいいでしょう。簡単です。怒りでありきれば、因果でありきればいいのです・・・としても、かなり困難なのです。

たとえば時間はありません。過去も、未来も、現在もない。その、そのことは、自分が時間、だということです。なので、概念としての時間がないのです。としても逆なので、困難なのです。もの、ことは、世界は、そうでなくてもいいのに、そう、だということです。これは、なぜ、これ、です。その見えない自分が大事です。

No.3689 - 2011/09/16(Fri) 10:12:18

Re: 消えた思考 / ubik0101
補足です。

この世界の範疇なら。総てを得ると言っても、なにも得ないと言っても、そう変わりません。どちらか片方だと見なすと、解釈になります。世界の総活動は、不増不減だからです。

それよりも、大事は自己です。それは、自分が自分であれば、距離がないので、自分が自分を知覚できない、といったことではありません。自己は、知覚の範疇にはありません。それは初めからそうだ。でも、あるとき生じる。でもありません。

No.3692 - 2011/09/18(Sun) 17:51:55
逆は真? / ubik0101
まず自我の成り立ちを振り返ってみます。たとえば歩くこと、怒ること、思考することによって、その中心が生じるのですが・・・予め・・・つまり時間を溯って・・・逆に・・・自分が歩く、自分が怒る、自分が思考する。と感じるのです。このように、機能する仕組みだけあって、その中心は実体が、ない、つまり自我は虚構です。

ここで、ない、とは思いもして、ない、ゆえの当然の誤認、自分が、ある、があります。そのことには。すでに、その自分ではない、ほかの、もの、こと・・・樹、鳥、ほかの人、なにかの思考など・・・が、対象にされ得る個別のこととして、ある、という距離(空間)が生じているのです。

そこで、たとえば自分の何かと自分の何か、自分と何か、何かと何かを較べるということが起こり得ます。すでに、そのことには。何かと何かとの関係という限定された距離(空間)と、限定された時間の要素が前提にされています。 それが、 いわゆる分離を、生じさせてるのでしょう。

続きます。

No.3668 - 2011/09/10(Sat) 22:18:26

Re: 逆は真? / ubik0101
ここで自我の構造に関する、ほとんど無意識的な、自分が、ない、ある、の問題よりも・・・葛藤、軋轢、苦痛などを生じる、騒がしい・・・世界と自分、自分と自分という、分離のほうが知覚されやすいのです。その観察され得る思考や感情を自我と見なしやすいのでしょう。

それは、ああでもない、こうでもない、という過去、未来、そこから見た現在、という空想の時間としての。またなん度も繰り返す思考、また比較、非難、正当化、として観察されます。

それは、自我そのことというよりは、その機能です。その形式としては、原因・・・時間・・・結果の、因果の思考です。自我という時間による虚構、その特性が、そうなので、それが生活に現れてるのでしょう。

それでは、まずは。そいう意味での因果をなくしてみては、どうでしょう。たとえば、明日なく、昨日なく、今日なく。もの、ことの根拠を過去に求めず、未来に求めず、理由なく、意味なく、無根拠に、なにとも較べずに、生きる。こうしてみてはどうでしょう。

続きます。

No.3669 - 2011/09/10(Sat) 22:19:16

Re: 逆は真? / ubik0101
あるいは、おなじようなことですが。ない、自我は、いまここに、ない、もの、ことを求める傾向があります。なので、いまある、もの、ことに、おいて何か無い物ねだりをせずに、生きてみましょう。

でも、もしこれを意図してすれば。そこには、時間なく、望みなく生きる。という思考が生じ、その思考が対象になり、それを対象にするという距離があります。つまり、その距離において自分が生じてある、かもしれません。これは、思考と、自分との軋轢を生じるかも知れません。では、それもなくしてみましょう。

つまり、この特定の個別の自分をなくしてみると、どうでしょう。それを、自分は、ある、の反対の、自分は、ない、ではなくて。主観の、反対の、客観的に見る、をしないで。この青空に、まったく見えない飛行機雲。ありのままとか、無選択とか、無比較とか、どのようにも呼ばずに生きてみましょう。

・・・で、これで充分でしょうか。なにか違うでしょうか。これは、自我が生じ得るその前提。限定された時間、空間ではない、つまり世界を問題にしてないかもしれません。世界は、あるとあらゆることが活動しあってる状態ではないでしょうか。それあって、自我は生じ得るのです。

もしかして、続きます。

No.3670 - 2011/09/10(Sat) 22:20:30

Re: 逆は真? / ubik0101&hato
それで、ふつうは、その限定され逆転した自我の構造のことを、時間、と呼ぶようです。そして、その仮の中心から見た距離、関係のことを、空間、と呼ぶようです。

たとえば嫌な、もの、こと、と距離を置く。好きなもの、こと、と接近する。それは時間が解決する。とか表現されたりするでしょう。いわゆる心理的な時空間です。それは、この仮に切り取られたと見なされて認識される、もの、こと、自我の範疇の話です。

この時間と空間、どちらも・・・あまり境は明確ではあり得ないのですが・・・どこか始まりと終わりが仮に設定された、限られた、もの、ことの背後にあると空想されて。それは、いわゆる思考の対象になり得ると思われるだけです。

できません。それを曖昧なまま、できるとして運動してるのが・・・たとえば過去はない、未来はない、あるのは、いま・・・いわゆる知覚の範疇にある自我の機能です。

その自我の機能する限られた範疇は、人知を超えた時空とも呼べない、その何かに含まれる。その部分。と空想できるだけです。それはすでに、もの、こと、がその何かから、仮に切り取ったとして思考されています。

その、切り取られない、その何か様子を、時間がない、距離がない、と呼ばれます。始まりも終わりもない、と呼ばれたりはします。

が、それは自我の時空から見た表現です。それは、いま、そのことかどうかも、始まりもなく終わりも知覚できないというだけで、永遠かどうかも判らない、です。

もし仮に例えば、いま、それが永遠であっても、だから何でしょう。なぜ、それが、それ、なんでしょう。それは、それでなくてもいいのに、それ。というだけです。

どうなるか予想もできませんが・・・たぶん続きます。

No.3677 - 2011/09/13(Tue) 13:38:47

Re: 逆は真? / hato

今日のみどりの庭の、ナナミの木に、ナナホシテントウを見つけました。枝えだに、たくさんいました。

No.3678 - 2011/09/14(Wed) 23:54:06

Re: 逆は真? / hato

玉すだれ、ほんとうにきれいです。

No.3679 - 2011/09/14(Wed) 23:55:57

Re: 逆は真? / 青雀(suho)
ごぶさたしてます。suhoです。
青雀(アオガラ)というヨーロッパのほうに生息するかわいらしいけどきりっとした顔の小鳥がいます。
とても気に入りましたのでハンドルネームをsuhoから青雀に変えました(笑
ご参考:青雀→http://www.wildlife-photography.uk.com/blog/?p=1338

名づけや因果で構築される意味空間は、非意味空間(未知)において運動してますね。説明する場合はどうしても意味空間を通じて表現しなければならないわけですが。
精神が意味空間に閉じていることで余計な心理反応が起こるように感じますね。

全ては未知そのものとして開いているのですが、ubiさんがおっしゃるように、名づけられたもの、因果、概念が実体ではないことを日常にみないと、どうしても意味空間が「世界の前提」になってしまい精神が閉塞し、身動きがとれなくなる。がゆえに息苦しい。
これが自我の様々な反応、行為としてあらわれているように感じます。エネルギーが開こうとしてもがいている感じ。

ところで、念願の一眼レフカメラを中古で入手しつつあります。はじめての望遠レンズなのでとても楽しみです。これまでよりもいろんな画の切り取り方ができそうです^^

No.3680 - 2011/09/15(Thu) 11:19:55

Re: 逆は真? / ubik0101
なんか、半分真面目に怒ってるような、すねてるような、愛らしい表情の青雀です。嬉しくなってしまいました。

たしかに青雀さん(こう呼ぶのは変な感じ)、その通りなんですが、既知と未知の区別を失った様子を、なんとか説明したいとは思ってるのですが、なかなか困難でいます。

とりあえず、マツムシたちが虚空に銀の鈴を転がすように・・・ 聞こうとしなくても、聞こうとしても、聞くまいとしても・・・響いています。

No.3682 - 2011/09/15(Thu) 21:00:50

Re: 逆は真? / 青雀
> とりあえず、マツムシたちが虚空に銀の鈴を転がすように・・・ 聞こうとしなくても、聞こうとしても、聞くまいとしても・・・響いています。

ああ、ちょうどいまこちらも虫が鳴いてます。
(虫の名前はよく知らない。。)

虫の声や鳥の声は本当に気持ちがいいですね。

熱いコーヒーをすすりたくなってきました。。

No.3684 - 2011/09/15(Thu) 21:56:05

Re: 逆は真? / hato

青雀って、はじめて見ました。素敵な青。かわいいですね。賢そうな目。回転が早そうな感じがします。

非意味、という言葉が、あるのを知りませんでした。それ、を言葉にするなら、非意味だったのです。ずっとあとで、言葉としては、既にさまざまな場所で使われてることを知りました。

それで、hpのハンドルネームがhiimi(ひいみ)・・・。とても可愛くないです。これは、プロバイダーにネーム登録しようとしたら、hato0101・・・himi0101・・・ubik0101さんと考えてみたけれど、すでに誰かに登録されていて。hiimi0101、しかなかったのです。それしかなかったのです。

0101。時期でいえばちょうどubik0101さんがhpの下地を暖めていた頃に、母から貰ったダイヤの刻印がそれで。刻印はだいぶ後に見つけて、あらフシギ。そんな不思議。夫婦や親しい仲に、よくあるのでは、と思います。

青雀さんの熱い珈琲に惹かれて、ubik0101さんに熱い珈琲をおねだりしました。マツムシ、鈴虫、クツワムシ・・・絶妙な合唱を耳に、秋の夜長の珈琲です。そういえば最近、ナナがいきなりバッタに飛びつき、バリバリ食べるのを見て、仰天しました。

No.3685 - 2011/09/15(Thu) 23:01:33

Re: 逆は真? / 青雀
> 非意味、という言葉が、あるのを知りませんでした。それ、を言葉にするなら、非意味だったのです。ずっとあとで、言葉としては、既にさまざまな場所で使われてることを知りました。

非意味という表現はしっくりきますね。
否定系の表現が正確と感じます。

> それで、hpのハンドルネームがhiimi(ひいみ)・・・。とても可愛くないです。これは、プロバイダーにネーム登録しようとしたら、hato0101・・・himi0101・・・ubik0101さんと考えてみたけれど、すでに誰かに登録されていて。hiimi0101、しかなかったのです。それしかなかったのです。
>
> 0101。時期でいえばちょうどubik0101さんがhpの下地を暖めていた頃に、母から貰ったダイヤの刻印がそれで。刻印はだいぶ後に見つけて、あらフシギ。そんな不思議。夫婦や親しい仲に、よくあるのでは、と思います。


ほんと、ご縁は不思議っす。。
不思議と思っても思わなくとも、ご縁は起こる。。

> 青雀さんの熱い珈琲に惹かれて、ubik0101さんに熱い珈琲をおねだりしました。マツムシ、鈴虫、クツワムシ・・・絶妙な合唱を耳に、秋の夜長の珈琲です。そういえば最近、ナナがいきなりバッタに飛びつき、バリバリ食べるのを見て、仰天しました。

わははは。自然は美しさと同じくらい残虐な側面がありますね。
以前、アフリカのヌーの大移動のドキュメント番組で、川をうまく泳げずにのろのろしていたヌーの子供が大きなワニに頭をかみつかれて水面下にひきこまれるシーンを視て全身凍りついてしまったことがありました。。

現象は問答無用に"全部のせ"ですね。。

No.3686 - 2011/09/16(Fri) 00:04:59

Re: 逆は真? / ubik0101&hato

> 非意味という表現はしっくりきますね。
> 否定系の表現が正確と感じます。


もちろん、経験としてそこに言葉はありませんが、それは、なにかとてつもない断絶のあと、と表現できます。

> ほんと、ご縁は不思議っす。。
> 不思議と思っても思わなくとも、ご縁は起こる。。


総て総てが起きてるのに、なぜ、その縁、なのか?それが問題です。おもしろいですね。なぜ、これは、こう、なのか?
なぜ、そう、でなくてもいいのに、そう、なのか。

> わははは。自然は美しさと同じくらい残虐な側面がありますね。

ナナがバッタを食べてるのを見たときは、こちらふたりはどちらかといえば、食われてるバッタに憐憫というよりも、ナナの、なにしろ凄い勢いで食する様相に仰天したのでした。たんぱく質が必要だったのでしょうか。

hato

ところで《素カメラ》も、改名しなければ。というわけで《アオガラカメラ》略して《ガメラ》と、しました。

ubik0101


青い露草が、庭のあちこちで満開です。

No.3690 - 2011/09/16(Fri) 23:00:14

Re: 逆は真? / 青雀
> 総て総てが起きてるのに、なぜ、その縁、なのか?それが問題です。おもしろいですね。なぜ、これは、こう、なのか?
> なぜ、そう、でなくてもいいのに、そう、なのか。


手の甲をじっと見つめていると、手の甲じゃなくなる。
なにかしわしわの得たいの知れない有機物が現れます。

> ところで《素カメラ》も、改名しなければ。というわけで《アオガラカメラ》略して《ガメラ》と、しました。

あはははっ。流石です♪
明日はいよいよガメラ3号(中古カメラ)と初顔合わせd(*^0^*)d
ドキドキ♥♥♥

No.3691 - 2011/09/17(Sat) 00:30:02
(No Subject) / サオリン
なんだかここのところ、怒りというか悲しみが沸いてきて
子供と目が合わせられない日が続いていました。
ちょっとウツのような?

でもこの返信をいただいて心の中から湧き出るような嬉しさがこみ上げて来ました。

>この見えたり聞こえたりしてる、呼吸したり暮らしたりしてる世界を信頼していいです。

あぁそうです。
私はこの世界が信じられず、一人悲しんでいました。
一人で戦っているような気がしていたんです。
また、裏切られているような気さえしていたのかも知れません。

少し楽になりました。

ubik0101さんの掲示板の当初から拝読させていただいています。膨大な量ですが面白いです。

また質問させてくださいね。
ありがとうございました。

No.3675 - 2011/09/12(Mon) 20:44:58

Re: / ubik0101&hato

いま、hatoさんと夜のドライブから帰って、一緒に明るい庭から月を見ていました。そうですね掲示板、いろんなことがありました。いつでも、疑問、質問など、歓迎です。

ubik0101

こんばんは。きれいな月夜です。この世界、本当にさまざまあって。でもきっとどこかで、捨てたものじゃないな、て思います。ubik0101さんのhpをみつけたとき。とても切ない、声もない、満面に愛しい叫びを聴いて、まだこうしたことに意識的な理解もないまま、おかしいけど、ああ!助けなくちゃ!と思ったのでした。どういうわけか、一歩、一歩、二人三脚の旅です。

みどりの庭では、斑入りのカヤのススキが、とても爽やかです。

hato

No.3676 - 2011/09/12(Mon) 23:30:56
はじめまして / サオリン
はじめまして。

HP拝見致しました。
文章の裏側に深い意味があり噛み締めるように拝読させていただいています。

私という自分が無くなり、全てが愛で満たされているという世界を体験してみたくて、瞑想、自我のお掃除、ワークなどここ数年してきました。

数年前に比べたら、比べ物にならないくらい生きるのが楽になりました。

でも一向に自我は、なくなりません。

>ただ自分の
行動、発言、思考を学ぶのです。
そうすれば、
覚醒、悟り、光明、超意識、至高体験
などと呼ばれていることが、
日常生活の中で、
突然に起こります。 

この文面にあるようにとある一日を根気よく観察しました。
愕然としました。
今までこんなにも自分を内観してきて苦しみ、自由になってきたと思っていたのですが、全てが自我に始まり自我で終わるのです。

ひとつひとつの行動が、思考が、感情が。


結局のところ、至高体験とは恩寵でしかないのでしょうか?
自我に気づくことなくとも、自我があるということさえ知らない人でも至高体験をする人はいるのですよね。


私は本当の愛を知りません。
知っていると思っていましたが、本当の愛を知らない。
自分の子供を愛していると思っていますが、もしかしてそれは本当の愛でないかも知れない。
果たして覚醒していない人がどれだけ本当の愛を知っているのでしょうか?


何だか虚しくなって話す相手もなくつい書き込んでしまいました。

No.3663 - 2011/09/09(Fri) 09:10:10

Re: はじめまして / ubik0101
はじめまして。

それは、自我がなくなる体験というよりも。ない。その自分の構造を見る、体験でした。また、なにかの体験をしたいということで、始めた探究ではありません。 まだubik0101が子供の頃。まだ若かったのでしょう、父の弟が死にました。

それで母に訊ねて、「僕も死ぬんだ」ということを知って。死んだら死んだということも判らなくなる、と思って。それが底知れない恐怖でした。でも、もしかして、死んでも壊れない何かが、自分の中心にあるかもしれない、それを探そう。という衝動で、始まったのです。

そこで、自分の中心に向かうためには。 なにか迷ってるとして、その迷いの内容を見るのではなく、その迷ってる自分の状態の原因を探査しました。自分が自分だと思ってることの、隠れてるゆえに正当性がある前提を見つける。すると、その自分が自分だと思うことは、その正当性が保てなくなって、消える。さらに深く探る。闇雲ですが、できることも、ほかになかったのです。

たしかに・・・片思いばかりしてましたが・・・生活の基本がそこにありました。それが、いわゆる自分を知る方法として成立してるのかも顧みたこともなく、その結果、なにかが起こるということさえ知らなかったのです。その、あれこれ迷い探ったことは、その体験が起こったときに、なにが起こってるのかの自覚をもたらせてくれたと思います。

この意味で、役に立たないことはなにもない、です。たとえば、そいう体験をしたいと望むことも・・・そんな、その自分の前提を探ることもできるでしょうし・・・また、自我がなくならないならその、自我、ってなんだろう?その定義を緻密にすること・・・その思考を見つめながら同時進行で、ワープロなどで書き出すことを、お勧めしますが・・・も役に立つと、感じます。

>結局のところ、至高体験とは恩寵でしかないのでしょうか?

たしかに意識できる範囲としては・・・その努力に関係なく、関係なくもなく・・・その体験が突然に起こったので。どんな理由もつけられない、できても後付けなので、恩寵、と感じました。でも、怠惰も、努力も、嘘も、誠実も、善も、悪も・・・そんな紆余曲折の経緯の総てがなければ、それは起こらない・・・そんな印象がありました。

>果たして覚醒していない人がどれだけ本当の愛を知っているのでしょうか?

もしかして、欲望のことを、愛と呼んでるのが現状かもしれません。それは愛の代用品、影、かもしれません。たしかに、それを知るまでは・・・この知るという言い方は、かなり変なんですが・・・恋のことを、愛ではないと思いもしてませんでした。

でも、そんな執着も、自我も、世界の機能なんです。そう思い切れないなら、探究の途中で諦めてはないってことだと思います。でもやはり、愛を直接に求めての探究は、困難かもしれません。これも変な言い方なのですが、自分を知る、これが総てをもたらすのだと思います。

No.3664 - 2011/09/09(Fri) 12:39:54

Re: はじめまして / ubik0101
上の投稿は、hatoではなく、ubik0101でした。なぜか勝手に表記が変わることがあります。訂正しておきました。
No.3665 - 2011/09/09(Fri) 13:47:08

Re: はじめまして / サオリン
ubik0101さん

お返事ありがとうございます。

私が至高体験を望むのは、覚醒を望むのは、
結局のところ、
自分の正しさを証明したいのだと思います。
純粋に自分を知りたいというよりも
日常の数々のトラブルから逃れたい。
もうこんな人生はいやだ、こんな世界はいやだ、
逃れたい、放棄したい、そんな気持ちからです。多分。

それであれこれ学んでいくうちに、私には愛が無いなぁと感じたのです。いつでも条件付の愛です。

すべてが愛であるという、愛しかないという世界があるなら体感してみたいと最近強く思うようになりました。

でもなかなか思うようにいきませんね。
それも執着しているからでしょうか?

あせらずじっくりですね。

No.3673 - 2011/09/11(Sun) 12:52:41

Re: はじめまして / ubik0101
>それも執着しているからでしょうか?

そうですね、そんな執着が障害であり、その同じことが道を開いてくれると思います。それから逃れるのではなく、それを飼い殺しにするのではなく・・・その執着の源を見るために・・・それに、どこまでも切り込んで行く、そんな情熱が飛躍の力を付けてくれます。

たとえば、自分の正しさを証明したいというのは、ほんとうには正しくないから?とか。どんな正しさ?とか、そもそも正しさって何?とか、その自分って何?とか・・・ほかの人からは、いろいろ言えるのでしょう。けど、その自分の探究は、その、その自分が疑問を感じてするしかないことです。とくに自我の問題は、この自分がやらねば誰がやる。です。

そして、それができます。「あせらずじっくり」の思いも不要なくらいに。この見えたり聞こえたりしてる、呼吸したり暮らしたりしてる世界を信頼していいです。自我は自我を研究できるようにできています。それさえ解決すれば、ほかの人がどうであれ、社会の現状がどうであれ、無関係に、生死の問題も、総て解決。なぜかは判りませんが、そのくらい、この自分は、この自分に任されてあります。

だからどうだということではないのですが、ubik0101の場合は、その日の思いを実況中継で総て書くつもりで日記を始めてから、たった20年でした。なにか思考が消える・・・もう一段それまでの地平を掘り進んだ。そんなことが毎日のように幸福感をもたらせてくれたりもしました。そして絶対不自由の絶望も。その瞬間前まで、なにかが起きることの予感もなく、這いずり回っていたのです。

この庭のあちこちにある、たますだれ(ゼフィランサス白花)の群生が、いっせいに咲いています。

No.3674 - 2011/09/11(Sun) 16:37:11
もくろみ / ムー
何かを、人と一緒にしていて、できて、人が喜ぶとき、自分もうれしい。
うまくできなくて、失敗して、おや、がっかりだね、と、
屈託もなく、とりくんでいる。
そこには問題がありませんが。

うまく褒められよう、人を喜ばせようともくろむときは、人がうまく喜んでくれないと、それだけで、ひどい苦痛、ひどいがっかりを味わう。

言葉は同じ、がっかりでも、質、次元が全く違うもの。

No.3666 - 2011/09/10(Sat) 07:44:03

Re: もくろみ / ubik0101
その問題が起きる要因は、空想の視点を自分の外に置いて。そのことによって、見たり聞いたり、行動、発言、思考してる、対象にされ得ない自分を、自分で対象にして、自分で自分を自覚できるような気がしたい、ということでしょう。

それは、自分で自分を、分けて裂く、つまり分裂。または分けて離す、つまり分離。という不可能なことをしてるので、そのなりたちが苦痛でしょう。 ふつうは、そいうのは、なぜか自意識と呼ばれるようです。

それでも、人を喜ばせようと計画して、それが成功したら、ことさらの喜びも実感できる。この、がっかりと、喜びの落差のある状態が、辛いながらも楽しく面白い、それでその全体が空想に基づいてると言うことに気がつきたくない。って有り様もあるかもしれません。

また、その始まりは空想でもいいんだ。誰かを喜ばせるのが、嬉しいのです。それが失敗しても、とくに問題ないです。という有り様もあるかもしれません。ふつうは、そいうのは、なぜか自己満足、と呼ばれるようです。そのようなことは、いろいろなケースがあり、尽きることなく観察され得て、さまざま解釈されるでしょう。

けど、その要件である、分離分裂。それは、もともと不可能なのですから、視点を自分の外に置く空想が、ない。つまりは、自分との距離が、ない。つまりは、いわゆる自分が、ない・・・このことで一気に解決するでしょう。 ならば特に、そんな問題を観察する、検討する、必要も手放せるでしょう。

No.3667 - 2011/09/10(Sat) 16:33:35

Re: もくろみ / √咆哮
√咆哮
この名前はカッコつけてるだけの自我だと思っていました。
世界が教えてくれていたんですね。
本当にありがとうございます。

No.3671 - 2011/09/10(Sat) 22:33:45

Re: もくろみ / ubik0101
いえいえ、どういたしまして。とも言わない・・・それも、この世界の深さ、です。
No.3672 - 2011/09/10(Sat) 23:16:58
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