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みどりの庭から / hato
自我、というものは、現象としてない、ながら、人の生きる「未知ながらの道」に自ずから起きてくる不可思議であり、意味は過剰にありません。眼耳鼻舌 心意、その機能とは元来、相互に関係がない故に、関係作ることができます。その働きに、自ずから生じた個別性、すなわち自我を通じ、人は、自己とは、世界とは、なにか。を学ぶことができます。

自我の有無で表現される、人にとっての大事とは、人の状態が、とある有り様、たとえばなにか事象、関係にことさら依存してある様相を、「超えること」です。この場合の状態とは厳密に、人が世界で、それ、に於ける閾値にて判明されます。

そのことは、人の様子や言葉としての表現に、現れざるを得ませんが、この世界の、なにか個別の限定された様相、状態にあてはめるとしたなら、困難なことでしょう。不可逆とは、それが世界に対応する仕方は、限定され得ない、ということでもあります。


孫メダカを、3匹、ガラス瓶に移しました。

No.3661 - 2011/09/03(Sat) 23:37:41

Re: みどりの庭から / hato

目と目が合って、うれしくなります。小さな、きれいな身体です。

No.3662 - 2011/09/03(Sat) 23:38:31
直接知覚されない記憶の中の仕組み / ムー
>たとえば、自我は、ああでもない、こうでもないと争う思考、葛藤、だとします。

自我というものを、争うという動きのあるものとして、意味を定めた。

>それは思考の動きであり、知覚されることです。

はい、思考の動きのある形のもの。
思考がああでもないこうでもないと動いて意識しているだけではなくて。
そしてまた、思考が動いて、何をしているのか、その事実が知覚されることがありうるとおっしゃる。

ああでもない、こうでもないという思考の動きそのものは、まさに思考の動きであり、思考があるいは精神が意識する内容であって、事実の知覚とはまた別だと。

>そうではなくて、自我そのこと、は知覚できません。

これは、自我そのことの意味がジャンプしました。

が、言いたいことは、自我そのこととは、思考の仕組みそのものは、思考の過程は、それもまた記憶されているものであり、動いていない間は、自我も含めて思考の仕組みは、記憶そのものは、わからない、知覚できないということでしょう。

自我の仕組みも含めて、思考過程は、動き始めるとき、意識されるわけですね。
意識の内容は、動いている思考、意識だということ。

>その知覚されない自我が、生活において折に触れて、人の行動、発言、思考に現れるようになって、知覚される、です。

記憶されている思考の仕組み、自我の仕組みの部分が作動して、自我も働くし、それはああでもない、こうでもないという、思考の中の、意識される動きです。
あるいは、その自我の動きの事実も、知覚されることがありうると。

No.3646 - 2011/08/30(Tue) 07:58:20

Re: 直接知覚されない記憶の中の仕組み / ubik0101
ここでは、ひとつには、知覚されない自我。そして、もひとつには、自我は虚構、つまり機能だけあって、その中心は、ない、ということを話しています。

そして。その、ない、を見切ることは、知覚では知り得ない自己を知る、という作用がある、ということを言っています。

No.3648 - 2011/08/30(Tue) 22:12:31

Re: 直接知覚されない記憶の中の仕組み / ムー
記憶の中身としての自我は、その機構は、直接には知覚されない。
もう一つは、思考の仕組みとして動く機構はあるが、虚構、情報としてあるのであって、情報としての中心や周辺はあっても、ものとしてあるのではない、ものという意味での中心はないという話ですか。

そして、ものとしての中心はない、つまり、ものとしてのリンゴという中心はあるが、リンゴの記述、好き嫌いの記述は、ものとしての中心ではなく、情報としてあるものである、ということを見切ることは、自我の思考が、知覚では直接知りえない、記憶のものである、そういう思考があることを知る、という作用がある、ということを言っていますか。

思考、自我の情報は、ものそのものではなく、記憶としての、ものの状態の変化であるということですね。あるいは時間的には、変化して流れるもの、意識にあるものということ。
何かに応じて作動する思考、自我の情報システム。

No.3652 - 2011/08/31(Wed) 09:51:32

Re: 直接知覚されない記憶の中の仕組み / ubik0101
ちょい着眼点を変えましょう。たとえばテレビや冷蔵庫のような物質そのこと、人の眼や耳や手足など身体そのこと、見る聞く触るなどの知覚そのこと、悲しい嬉しいなどの感情そのこと、そして主に言葉などでする思考そのこと。このそのことの、どこに自我があるでしょう。世界のどこを探しても、そのことそのものは、自我、ではないのではないでしょうか。

では、自我、ってどうしてあるとされるのでしょう。 なにかを見たり聞いたり触ったり、行動したり、話したり、思考したり人は、します。そこで、そのようなことをしてる、中心、があるのでなければ、そのようなことはできない、として、中心を設定されてしまいます。

つまり、なにかすることによって、そのことをする、その中心、自分が生じるのですが・・・逆に・・・まず自分がいて、なにかする、と感じるということです。そういう機能、構造があるだけで、その核、中心が、ない、です。自我は虚構です。

と、このような投稿を読んで、うんうん、と頷いたり・・・そ、かなと疑問に感じるとします。すると、そのことによって、中心が作られます。自我とは思考であるという、意見そのことでも中心が作られます。常に人のしてる、そのことで自我はつくられるので、ほとんど見つかりません。

このように、ある意味、自我は、 シンプルなのですが、数学の公式のように、疑うことさえできないほど当然に理論的にできてるので、それがどう出来てるかを見るまでは、それから解放されることは困難です。そもそも その中心、自分が、ない、のに、ある、と感じてるだけなので、それを知覚しようとしても、困難ではないでしょうか。

続きます。

No.3654 - 2011/08/31(Wed) 15:02:54

Re: 直接知覚されない記憶の中の仕組み / ubik0101
そこで、中心はない、その機能として、軋轢、葛藤、比較すること、非難と正当化、などの運動が起こります。と言うより、その機能が、中心を作ります。いわゆる心理的な思考とかも、そいうことではないでしょうか。それが発動してることを、ふつう自我と呼ぶようです。あるとき発動してなくても、発動する可能性があるなら、自我と呼べるでしょう。

ただ、ここでは、そいうことは自我とは呼ばず、自我の機能、と呼んでいます。それは人が自分で自分を知覚したいということ、とも捉えることができます。でもそれは機能であって、それをいくら調べても、中心、を知覚できるような気がするだけです。ない、は知覚は困難です。

それでは、ない、ということを知覚するためには、どうしたらいいでしょう。すくなくても、世界の総てを探査しなければ、ない、は確認できないのではないでしょうか。そして、自我は、ああでもない、こうでもないと、空想の中だとしても、世界の果てまで、時間を超えても、なにかを探り歩いてるのではないでしょうか。自我そのことに、そのような機能があります。

ところでubik0101は、なんの宗教、哲学も一般常識ほどには知らず、ほかにでき得ることはなかったし、自分が自分だと思うことの源泉を遡る、否定の道を歩きました。それを努力と呼ぶとしてですが、その努力に関係なく、関係なくもなく、でしょう。たとえば太平洋の水を一気に飲むように、世界の総活動を経験することが、起こったりしました。そこで、ない、その構造を了解します。

その、ない、の了解の効果で、知覚の範疇にない、まあ、いろんな言い方ができるのですが、自己、アートマン、真我・・・の知覚が起こります。どうも世界そのことに、そんな機能があるのでしょう。でも、自己を対象にすると、そのことによって、その中心が作られるでしょう。この意味で、自分は、ない、というのが無難です。

ところで、詳しくはないのですが。ない、を体験した人が、ほかの人にも味わってもらいたいと・・・どうやら禅では、いろんな思いが生じても、そうしてる中心に手をつけない、観察しない、自我が生じる前の世界を知覚する。という道もあるようです。また、たとえば、苦悩なら苦悩に、ありきって、自我の構造そのことを破壊する、という道もあるようです。

No.3655 - 2011/08/31(Wed) 15:04:01

Re: 直接知覚されない記憶の中の仕組み / ムー
情報のものであり、記憶のものであるもの。
それには自我のシステムも含まれますが、記憶から取り出され、何かのものとの関係で、取り出され、変えられ、表示されたり、時間変動として出てきたときに、情報、自我はわかる。
記憶のままではわからない。
情報システムや自我は、記憶が変えられて変化することが起きます。
特に意味が深いのは、記憶が消えることです。自我が消える。
何かにかかわる自我のありよう、その事実が知覚されるとき、矛盾があり、思い違いがあるとき、その自我の記憶システムが触れられない、捨てられるということが生じます。

あるいは、自我が、新たに記憶され、生じることもあります。

No.3656 - 2011/09/01(Thu) 18:52:30

Re: 直接知覚されない記憶の中の仕組み / ubik0101
ムーさんの言うことは・・・なにかの関係で、自我が顕在して、それが潜在してたことが判る。記憶が消えることで、自我が消える。とくに自我の矛盾、思い違いに気がつけば、自我の運動が顕在しないで捨てられる。でも、自我が新たに記憶され生じることもある。という意味でしょうか。

けど。自分が自分を対象にしないで、つまり特定される自分という個別のことが生じないで・・・自我が情報だとしても、記憶だとしても・・・そもそも自我は、あり得るでしょうか。

どうやっても、自分は自分で対象にできない。つまり見えたり聞いたり思考したりしてる自分は、対象にできないでしょう。ならば、どうやっても、もの、ことは、対象にできません。それなのに、見えたり聞いたり思考したりしてるでしょう。 ならば、潜在してて知覚できない、とりあえず自我と呼ぶそれも、自我として、ない。では、ありませんか。

これを日常の感覚で言えば。たとえば喜怒哀楽や思考が起こっても、そのことによって、ことさらの、中心、が作られる必要がありません。とくに自我も、無我もありません。そして、もともと喜怒哀楽や思考がなんであるか、知らないのです。

つまり、いわゆる既知も、未知です。そんな喜怒哀楽や思考、もちろん記憶も、この個別の自分がいないのですから、世界の機能です。ゆっくりと台風12号が接近、いつもと空気が違います。でも雲の隙間に青空。この日常が神秘です。そして探求は、この神秘に向かいます。

No.3657 - 2011/09/02(Fri) 09:21:58

Re: 直接知覚されない記憶の中の仕組み / ムー
人は、木でもそうですが、それ自身の状態、そして何かとのかかわりで生きています。水が体から欠乏するのを知覚すると、周りの水を知覚して手を伸ばすなど。

そして、それ自身の状態、周りの状態についての、情報を記述し、モデルを持つということですね。

モデル、思考と、実際のものは違いますが、ある意味で、対応がよく取れる面がある。
それで、思考は生活に利用できるということですね。

ところが、使い方を間違うことも生じる。
人と一緒に何かができてうれしい。それを、うれしさを得ようとして、何かをもくろむと、味の悪さ、がっかりを得るとか。

No.3658 - 2011/09/02(Fri) 17:10:48

Re: 直接知覚されない記憶の中の仕組み / ubik0101
それは、 ムーさんが、そういう「がっかりを得るとか」の有り様、だと言ってるのでしょうか?

そんな思考そのことは、原因・・・時間・・・結果の、因果の思考の一形態です。そしてそれは、自我のすることではないでしょうか。

そうでなく。ただ、がっかり、そのことであるなら、とある個別の誰かではなく、世界が、がっかり、してるのです。

No.3659 - 2011/09/03(Sat) 09:21:33
続。ある?ない? / ubik0101
>空を飛びつづける魚はいないし、海に潜りつづける鳥もいません。
>まぁ、つまりは、頭で考え空想することはどんなことも可能です。
>しかし行為は制限があります。限界を広げ続けることはできます。
>頭と行為が、どこまで一致させることが出来るか。じゃないでしょうか。
>わたしたちの冒険は。、


ところで、「どこまで一致させることが出来るか」は、どこからでた疑問なのでしょう。もしかして、まず頭があって行為を一致させるというなら、いわゆる頭と自分との分離。また行為と自分との同一化。があるのでしょうか。そうでなくても、まずある頭と行為を一致させても、冒険とは言い難いです。

もともと対話であれ、自問自答であれ、思考することは、このようである自分を、このようであると認識することから始まるのではないでしょうか。ならば、 「どこまで一致させることが出来るか」は、起こりようがない疑問に思います。

そうでなくて。なにか自分がないとか、世界との関係とかを体験しても、なかなか意識は愚かで、その了解を知識とかに依って解釈してしまって、その思考に巻き込まれてしまうことがあります。ならば、もう、その地平、その段階にはいないということで、意識に依存しない、ということを了解する必要があるかもしれません。

これは人が、なにかの有り様ということは問題なくても、その、なにかの有り様だと思考することによって、その、なにかの有り様だけが、スポットライトで照明されたように強調作用が起きる、意見が偏る、その現象に惑わされないことが大切です。そのために、思考は知覚、ということを了解する必要があるかもしれません。たとえば、

>まぁ、つまりは、頭で考え空想することはどんなことも可能です。
>しかし行為は制限があります。限界を広げ続けることはできます。
>頭と行為が、どこまで一致させることが出来るか。じゃないでしょうか。


という、この思考はpeerさんが知覚したことです。この青空に、途切れ途切れの飛行機雲。ことさら言うまでもないのですが、それを見るのが、誰というわけでもなく、現れては消えること、です。思考は知覚であり、それに依存できないようにできているのです。 とりあえず知覚されたことを、ある、と呼んでるだけです。そして、なくなることは、なにもないです。

続きます。

No.3649 - 2011/08/30(Tue) 22:13:32

Re: 続。ある?ない? / ubik0101
また 、あくまで喩えですけど。進化論が確かな事実かどうか知りませんが・・・まず海に暮らす魚が、陸にあがり、両棲類や哺乳動物になり、それが海に帰れば、イルカや鯨にもなり・・・ また魚は爬虫類になり、 鳥になり、あるいは海に潜る鳥にもなり・・・生き物はその環境から脱したり、戻ったりします。

もちろん、ずっと魚、ずっと鳥、もいるでしょう。そして、ヤゴが羽化してトンボになると、もう水には帰れない、もあるのです。これは世界の様相です。それは、世界があるから生き物(自分)がある。でも、生き物(自分)があるから世界がある。でも、ないでしょう。

それを、環境が先にあると見なすのは、ありとあらゆる解釈の中の、とある解釈かもしれません。そうすると、世界も、そう思考する人がそう思考してることを明確にするかのように、その思考する通りに見えてしまいます。けど、思考には、その破綻があるし、それが教えてくれることもあるし、満遍なく思考することが賢明ではないでしょうか。

それをこの自分、この状態、なにもない、から始める、それしかできないと思います。そして。人は、意識がありながら意識に依存しないように、世界に生きながら世界に依存しなくあり得るのです。それは理論で追うよりも、自我の仕組みを見てから、思考に、意識に依存しない、そんな経緯が遙かに簡単だとは感じます。

くり返しますが、どうして生の真っ直中になければ、生に依存しないことが、あり得るでしょう。どうして死がなければ、生死に依存しないことが、あり得るでしょう。なぜかは知りませんが、こんな解脱の機能が世界です。ほかの使い方もいいですが、こう世界は使えます。という話です。

No.3650 - 2011/08/30(Tue) 22:14:12

Re: 続。ある?ない? / peer
話がドンドン進んじゃうので・・・

>もともと対話であれ、自問自答であれ、思考することは、
>このようである自分を、このようであると認識することから
>始まるのではないでしょうか。


そうなのですが〜
このようである自分を、このようだと認識出来ていない
場合の話なんです。私が書いているのは。
認識できていれば、一致しているのです。
だからその場合一致させようとする必要はないのです。
一致している、していないも問題なしでしょう。

>それをこの自分、この状態、なにもない、から始める、
>それしかできないと思います。


そして認識できていないから「なにもない」にも
到達できないワケでして。
「始める」以前にかなり問題がある。ということ。
認識する前に「なにもない」をやると、単なる逃避になりがち。
かな〜と。

No.3651 - 2011/08/31(Wed) 01:46:32

Re: 続。ある?ない? / ubik0101
たとえば誰かが、ほかの誰かの言った言葉「なにもない」を目標にする。つまり「なにもない」を知識として自分の対象にしてるので「一致してない」って意味でしょうか。そうなら、そういう自分があること。そして、自分で言葉を使えないで、言葉に使われながら、言葉から学ばせてもらってる状態かもしれません。

そうならば「なにもない」を「なにもない」として認識する、その意識の強調作用を見るかもしれません。 なんであれ、そうしてる自分が、そうしてる自分、と認識するしかないかもしれません。ということも、知識にすると、その分、余計に困難と感じるかもしれません。

そいう問題は掃いて捨てるほどあるのですが、芋蔓式に思考が続いて定まらない、このことも大切、でしょう。でも、こういうことは、自我は虚構、の了解で、一気に決着します。

それで、それまでの紆余曲折が、その人の経緯として意味をなします。 そうでないなら、その人は、そうでないというだけで、とくに知識として対象にすることに、その責を総て負わせるわけにもいきません。その責を知識に負わせることは、そういう自分であること、からの逃避でもあり得ます。

No.3653 - 2011/08/31(Wed) 15:00:19
ある?ない? / ubik0101
たとえば自分がいなくても、世界は、ある?自分がいないと世界は、ない?という疑問は、世界と自分、その関係を前提としてなされる相対的な問題です。そうでなくて、この世界がなくても、自分は、ある、でしょうか?

たぶん迷走しながら続きます。

オクラの花です。ムクゲとか、芙蓉とかに似てると思います。

No.3626 - 2011/08/22(Mon) 09:43:39

Re: ある?ない? / ubik0101
ちょうど雨上がり、ムクゲが咲いていたので撮ってきました。
No.3627 - 2011/08/22(Mon) 09:59:09

Re: ある?ない? / peer
どれを主体にしたのか。だけのような気がする。
自分を主体にすると、世界は従属したモノになって
「自分がいないと世界はない」となり
世界を主体にすると、自分は従属するモノになって
「自分がいなくても世界はある」となる。

この世界がなくても、自分は、ある
というときの「世界」は何を指しますか?
「自分」とは、何ですか?

No.3628 - 2011/08/22(Mon) 15:02:03

Re: ある?ない? / ubik0101
ふつうの日常では、世界がどうだろうと、いい加減で適当で大雑把な言い方ですが、自分は、ない、です。これは、(a)自分を、自分で知覚・・・自覚でき、ない・・・さらに(b)自分は知覚の範疇にないので・・・ない、と呼んでおこう、という意味。(c)あるいは、ないとは思いもしなかった自分はない、という自我の了解体験、の意味です。

とりあえずは(a)・・・青空、積乱雲、蝉の声・・・見たり聞いたり思考したすること、知覚、は差の認識です。たとえば青空の知覚は、青空でないなにか自分、この認識できない何か、との差を認識しています。これは、関係、が前提です。

つまり、差を認識するそれ自身は、それ自身とは差が認識できず、関係が生じず、関係を前提にする、ない、ある、の範疇では捉えられません。これを、ふつう、自分、と呼んでいます。これは、知覚できないので、なにか個別な特定なことだと表現できないです。あるとか、ないとか言うことさえ、正確には、誤りです。

そして、この世界には、まったく関係のないことはありません。たとえば仮にそれを個別のこととして取り出すとしてですが、なにかと、ほかの何かは繋がって(どんなことであれ関係を概念として解釈すると、因果、と呼ばれ得)ます。この知覚できるなにか・・・物質、身体、知覚、感情、思考・・・を世界と呼びます。それも実際、なにがなんだか分からない、こと、です。

ところで、なにか関係があるということは、(なにかと、ほかの何かが)同じでも、違うででもない、という意味です。 どちらかでもあるなら、関係が生じ得ないということです。 この意味で、世界は、まったくの融合も、逆に、まったくの分離、個別の独立したこともありません。あれば、関係が生じません。

続きます。

ゴミ捨て場に発生して、ネーブルの木に這い登って実をつけた南瓜です。これは2週間ほど前の画像です。

No.3629 - 2011/08/22(Mon) 18:09:41

Re: ある?ない? / ubik0101
そして、それ自体がそれ自体を認識できないという(a)とは意味合いが違うのですが・・・知覚の範疇にないという意味での、ない、(b)は、この自分・・・これを自己と呼んでいます。それも比較できず、特定な個別のこととしては表現できません。

そしてまた、まったくの虚無も、まったくの実在も、同様に知覚できません。つまり世界は虚無でも実在でもない、だから関係があり得て知覚できる、ということです。そしてなぜ、そうだと、また関係があると、知覚できるのか、という疑問は、あります。

そして(c)・・・自我はない体験。これもさまざまですが、ふつうに考えても、ない、ということは、総てを見なければ、確定しません。自我が生じる仕組みを見るということは、世界の総活動・・・縁起とか中道とか呼んでいます・・・を要します。そこで、知覚の範疇を超えます。

でなければ、知覚の範疇にない、とかいうことの認識はできないでしょう。この、わけのわからない世界が、知覚の範疇にない、ない、から、知覚の範疇にない、ある。を創ろうとしてる、とも言えます。この、ある、には因果がありません。これは、ふつうの日常がそうです。

今日の南瓜です。

No.3630 - 2011/08/22(Mon) 18:22:24

Re: ある?ない? / peer
「この世界がなくても、自分は、ある」

この世界は関係によるもので、それを知覚・認識できないから「世界はなくても」ということ?
で、自分を、自分で知覚・・・自覚でき、なくて・・・さらに(b)自分は知覚の範疇にないので・・・ない、なら「自分は、ある」とならないようで・・・。うーーむ。どういうこと?
結局、あるかないか分からないと書いてあるようですが。

No.3631 - 2011/08/24(Wed) 04:56:29

Re: ある?ない? / ubik0101
それでは、まずは。ある、ない、の定義をすることから初めてみます。たとえば、冷蔵庫が、ある、という場合。それは、それが、それとして機能していて、それとして知覚できる、という意味です。 そこで、それが機能してない、知覚できないなら、ない、と言います。

たとえば冷蔵庫が壊れた、とします。すると、食品を冷やす機能としての冷蔵庫としては、ない。壊れた冷蔵庫としては、ある、です。そして。壊れた冷蔵庫を捨てたら、知覚としても、ない、です。そこで。うーん、このままでは困る。という感情や思考が、機能して知覚されてるなら、その感情や思考が、ある、です。

くり返しますが、ない、とは。それが、それとして機能してないで、知覚されない、という意味です。たとえば、新しい冷蔵庫を買うお金が、ない、ということは。お金として機能する、知覚される紙幣がない、です。冷蔵庫がある便利さ、余裕、安心が、ない、です。これは見える範疇の世界でのことです。

ところで、です。そうでない、機能してないで、知覚されないこと、もあります。たとえばpeerさんが、彫刻の技術に熟練したとします。そうだとして、映画を見ていたりして、その技術を思いだにしてないとき、その技術は、ない、とは言えないでしょう。

というのは、彫刻刀を握りしめた瞬間に、いきなり熟練した技術が、そこで発生するわけではないでしょう。そして実際に仏像とかを彫ってるとき、その技術が、あるとかないとかの、意識さえない(まったく彫刻に打ち込んで、ある、ことを、その自分が、ない、技術が、ない、と言うことも)あるかもしれません。それは、人、ならではのこと、ではないでしょうか。

続きます。

完熟ゴーヤです。

No.3632 - 2011/08/24(Wed) 21:09:19

Re: ある?ない? / ubik0101
この、この人、その、まったく人間関係でなく、個人のこと。その人が、その人であること。これこそが焦点です。この掲示板とかで言う、獲得された良い特質、たとえば素直・・・真摯で正確・・・なことは、そのようなことです。素直なら、人が自分が素直と思考しても、思考しないでも、そういう知覚に無関係に、素直なんです。素直で、ある、ないの思考に依存せず、素直にある、です。

たとえばまた「悪いことをしない、良いことをしよう」ということも、善悪の思考の、あるない、に依存しないことです。これはもう、思考の範疇にないことであり、さんざん自我において学んだことであり、変な言い方ですが、半分解脱です。これは(ほかの誰かとの)関係から学ぶことの。世界の、知覚の、範疇には収まりません。

これは、たとえば「見るものは見られるもの」、「世界は自分」。と見なしてしまっては、そのことは自分はない、に拘り偏りすぎていて、この探求は続けられないかもしれません。自分の、あるない、は関係の、知覚の、世界の範疇の、ある、ない、ではありません。 もっと深く、深く、その学ぶ自分の、その、ある、ない、の問題です。

これは、自我を、無我を、自己を、生きる。さらに理解することによって自我と無我と自己の区別を失って。この、なにが何だか知りようがない日常に埋没して、因果を失って、知覚の範疇にない、ある、は醸し出されるように確信できるという経緯を踏む必要があるかもしれません。

半分に切った完熟ゴーヤです。その熟れた種を包んでるゼラチン質は、まったく癖のない甘みがあります。

No.3633 - 2011/08/24(Wed) 21:39:29

Re: ある?ない? / peer
{たとえば、冷蔵庫が、ある、という場合。}
この冷蔵庫は、世界。という意味になりますか。
それを見る自分という視点。それが自分であり
見られているモノすべてを世界とする。のかな。
とすると、彫刻の技術というのも、世界。
獲得された良い特質、たとえば素直・・・真摯で正確
というのも世界と言えそうです。
・・・ちがうかなぁ。
獲得された良い特質、という視点でモノゴトを見る。
素直・・・真摯で正確・・・という視点で見る。
そんなこともありそうですし。
つまり、自分と言う確定したモノもない。
視点が変わるから全体を見ることができる
という機能がありそうな。

完熟した、中身・・・初めて見ました。可愛い〜

No.3634 - 2011/08/25(Thu) 12:11:45

Re: ある?ない? / ubik0101
たとえば冷蔵庫、身体、感情、思考・・・どのような、もの、ことも・・・世界の範疇にある機能してて知覚され得ることです。そして、あるいは善、あるいは素直さなどの良い特質の始まりは、そのような世界の範疇にある概念、としてあるのだとしても、獲得された結果は、ほとんど知覚の範疇には、ありません。知覚されなくても、機能してることです。

そんな良い特性は、自覚できない自分と分離できないこと、その意味での属性・・・いい加減な言い方では、身に浸みたこと・・・とも呼べます。それは、世界の範疇の善とかの思考があっても、なくても、そもそも思考として失われても、なくなることはなにもない、です。それで、なにかを見ても見なくても、それを捕まえておかなくても、無問題です。

そういえば彫刻の技術・・・そこで学ぶ、あるいは大胆にして繊細・・・そんな注意深さ・・・とかもそうかもしれません。これは不注意、大雑把の、対極にあることでない、良い特質かもしれません。これは彫刻の技術から、というより、仕事からでも、遊びからでも、ふつうの生活からでも、傲慢、謙虚の概念からでも、この世界を通じて、世界に収まらないことが醸しだされてる、のではないでしょうか。

それにしても、この世界、それは、それを対象にしなくても、見たり聞いたり触ったりされる。という不思議さに、やはり驚嘆してしまいます。

もう稲穂ができている、たんぼもあります。

No.3635 - 2011/08/25(Thu) 21:12:02

Re: ある?ない? / hato

完熟ゴーヤは、とてもまろやかな、やさしい甘みがしました。果物のようでふしぎでした。

それで、こちらはもう、すこし前から鈴虫のいい音が。
夏も終わります。

入り口の、扉の前のプリペットの葉が気に入ってるのか、トンボ。こうして休んでるのを、よく見かけます。

No.3636 - 2011/08/27(Sat) 23:12:54

Re: ある?ない? / hato

夜には、列になって眠っています。きれいに揃って。

アキアカネ・・・または、オオキトンボでしょうか・・・種類はよくわかりません。アキアカネは日本を代表するトンボで、オオキトンボは、絶滅危惧種だそうです。

この辺りでは、さまざまな種類のトンボを見かけます。

No.3637 - 2011/08/27(Sat) 23:15:15

Re: ある?ない? / peer
>たとえば冷蔵庫、身体、感情、思考・・・どのような、もの、ことも
>・・・世界の範疇にある機能してて知覚され得ることです。


知覚されても、されなくても、出来ても出来なくても
魚は水の中でしか生きられない〜もので〜
魚が最初にあって環境が合わせるのでもなく、始まりに
環境があって、それに適するように生物は変化している、のね。
おのおの、状況に合うように。

>完熟ゴーヤは、とてもまろやかな、やさしい甘みがしました。
>果物のようでふしぎでした。


おぉ。やっぱり果物のようでしたか。そうかな〜と思ったけど。
今日、お客さんに完熟ゴーヤの話をしたら
実がはじけて中から赤いタネが飛び出しているのが
「気持ち悪い」と言ってました。
それで完熟する前に切り取ってしまうのだとか。
人それぞれで色々な思いがありますね。

No.3638 - 2011/08/28(Sun) 02:53:30

Re: ある?ない? / ubik0101&hato

あくまでたとえですけど。空を飛ぶ魚も、海に潜る鳥も、いるってことです。なにか、こうだ、と定義したら、そうでないことが現れるようです。

ubik0101

>環境があって、それに適するように生物は変化している、のね。

たとえば、環境がはじめにあって・・・と順序だてて思考されるのは、世界の機能の故かも、知れません。人の脳が認識しやすい順序立てや、筋道があるでしょう。その意味での解釈とは多く、機能の範疇といえます。単なる癖、かも知れないし、知覚されざる自我、かも・・・知れません。

膨大無尽蔵の、掴みどころもない様相は、なんとか手懐けて整理しておきたいもの、なのかも、知れません。

hato

メダカの餌の容器の上に、すこし大きくなったアマガエルが、ちょこんと乗っていました。

No.3642 - 2011/08/28(Sun) 22:26:25

Re: ある?ない? / peer
空を飛びつづける魚はいないし、海に潜りつづける鳥もいません。
まぁ、つまりは、頭で考え空想することはどんなことも可能です。
しかし行為は制限があります。限界を広げ続けることはできます。
頭と行為が、どこまで一致させることが出来るか。じゃないでしょうか。
わたしたちの冒険は。、

No.3647 - 2011/08/30(Tue) 09:39:41
知覚されない機能。 / ubik0101
では、素直さ、注意深さなどの、良い特質は、どうして機能していて知覚されない、と認識できるのか?という疑問があるかもしれません。それは、自我に関係します。たとえば、自我は、ああでもない、こうでもないと争う思考、葛藤、だとします。

それは思考の動きであり、知覚されることです。そうではなくて、自我そのこと、は知覚できません。その知覚されない自我が、生活において折に触れて、人の行動、発言、思考に現れるようになって、知覚される、です。

たとえば、自我の機能である、自分は特別だという感覚も、それが自覚される場合があります。また特別感だとは、自覚されずに、現状が不満で、過去や未来に逃げて、それを作りかえること・・・として現れることがあります。それは、苦痛を伴うかもしれません。

でも、空想だとしても、神のように世界を作りかえてるという愉悦でもあり、そうだとは知覚されない特別感だということもあり得ます。それは現実と空想の区別ができない自分を作ってるかもしれません。それは、その人が、そう望んでるほかではありません。

続きます。

No.3639 - 2011/08/28(Sun) 15:31:30

Re: 知覚されない機能。 / ubik0101
また、たとえば「思いは実現する」。あるいは「引き寄せの法則」。それは、知覚できる何かと何かを・・・たとえば思考と、物質や環境・・・など、まったく関係ないことは世界にはないのですが・・・そのさほど関係のないことを、殊更に関係づけて捉える思考です。

それは、形式として因果です。そして、因果は、世界の総活動、縁起の理解のつもりの誤解でしかありません。それは欲望に迷う自分を作ってるかもしれません。それは、その人が、そう望んでるほかではありません。

こういうことに芋蔓式に逐一気がつくことは役に立つとは思います。けど単純に、たとえば自覚でき得る葛藤を観察することも・・・自我としての思考が知覚されずに静かということも・・・それは、まさに始まりも終わりもない迷いで・・・自我の範疇で・・・それでは自我を解決することは直接的には不可能です。

くり返しますが、自我は、その殻だけが知覚にとってあるのです。その核は、ない、です。その知覚されない自我こそ、自覚される自我より、根が深い問題です。しかし、それだからこそ自我は、役に立ちます。

続きます。

No.3640 - 2011/08/28(Sun) 15:36:31

Re: 知覚されない機能。 / ubik0101
それはまず、機能として、ああでもない、こうでもないと世界中を迷い探っています。ああだ、こうだと過去に未来に不可能な時間旅行をしているのです。そのように自我は迷いながら学んでいる、そのことでしかありません。 そして、この世界にある、どんなことも、自我ではないのです。

たとえば冷蔵庫のような物質も、身体も、知覚も、感情も、思考も、自我そのこと、ではないのです。でも、それを使って、それに使われて機能してた、自我は虚構、と了解することには、世界の範疇に、ない、ことの知覚を発現させる機能があります。そこには変化があらざるを得ないのです。

それは、とりあえずは、良い特質です。日常でいえば、10年間も自転車に乗ってなくても、乗れるのです。それは、それを転びながらでも練習した人、練習しなかった人、違って当たり前です。

それは個人のことであり、ほかの誰かがどうだということには、一切、無関係です。たとえば、分離がある。にも、分離がない。にも、無関係です。そして、良い特性を属性とする、自己。それは世界の範疇の、あるない、にはない、です。

まだ小さいけれど、デッキの上の、ヤマホロシです。

No.3641 - 2011/08/28(Sun) 15:54:07

Re: 知覚されない機能。 / 咆哮
ヤマホロシ
薄紫と黄色の色合いは朝日が昇る直前と月の様で、幻想的に感じています
その植物、始めて見ました。
形状が特に好きです、斬新。

No.3643 - 2011/08/29(Mon) 08:08:01

Re: 知覚されない機能。 / ubik0101&hato

ヤマホロシは、垣根なんかに好適な常緑の蔓性植物で、花も5月ころから10月過ぎまで、次々と咲き続けます。通りかかると、なんか嬉しくなります。山を滅ぼすほどに繁るので、その名前がついてるそうです。ツルハナナス、とも呼ばれます。

ubik0101

前のアパートに住んでるときに、まわりの住宅にあるのを見つけて、ふたりともすきになりました。近くの花屋さんで買って、アパートの入り口の垣根に絡ませて、今年はそこでもきっと、花をつけてるでしょう。

hato

アパートで撮りました。地植えがよいのですが、植木鉢でも、大丈夫です。

No.3645 - 2011/08/29(Mon) 11:30:12
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