[ 掲示板に戻る ]

過去ログ閲覧モード

(No Subject) / サオリン
なんだかここのところ、怒りというか悲しみが沸いてきて
子供と目が合わせられない日が続いていました。
ちょっとウツのような?

でもこの返信をいただいて心の中から湧き出るような嬉しさがこみ上げて来ました。

>この見えたり聞こえたりしてる、呼吸したり暮らしたりしてる世界を信頼していいです。

あぁそうです。
私はこの世界が信じられず、一人悲しんでいました。
一人で戦っているような気がしていたんです。
また、裏切られているような気さえしていたのかも知れません。

少し楽になりました。

ubik0101さんの掲示板の当初から拝読させていただいています。膨大な量ですが面白いです。

また質問させてくださいね。
ありがとうございました。

No.3675 - 2011/09/12(Mon) 20:44:58

Re: / ubik0101&hato

いま、hatoさんと夜のドライブから帰って、一緒に明るい庭から月を見ていました。そうですね掲示板、いろんなことがありました。いつでも、疑問、質問など、歓迎です。

ubik0101

こんばんは。きれいな月夜です。この世界、本当にさまざまあって。でもきっとどこかで、捨てたものじゃないな、て思います。ubik0101さんのhpをみつけたとき。とても切ない、声もない、満面に愛しい叫びを聴いて、まだこうしたことに意識的な理解もないまま、おかしいけど、ああ!助けなくちゃ!と思ったのでした。どういうわけか、一歩、一歩、二人三脚の旅です。

みどりの庭では、斑入りのカヤのススキが、とても爽やかです。

hato

No.3676 - 2011/09/12(Mon) 23:30:56
はじめまして / サオリン
はじめまして。

HP拝見致しました。
文章の裏側に深い意味があり噛み締めるように拝読させていただいています。

私という自分が無くなり、全てが愛で満たされているという世界を体験してみたくて、瞑想、自我のお掃除、ワークなどここ数年してきました。

数年前に比べたら、比べ物にならないくらい生きるのが楽になりました。

でも一向に自我は、なくなりません。

>ただ自分の
行動、発言、思考を学ぶのです。
そうすれば、
覚醒、悟り、光明、超意識、至高体験
などと呼ばれていることが、
日常生活の中で、
突然に起こります。 

この文面にあるようにとある一日を根気よく観察しました。
愕然としました。
今までこんなにも自分を内観してきて苦しみ、自由になってきたと思っていたのですが、全てが自我に始まり自我で終わるのです。

ひとつひとつの行動が、思考が、感情が。


結局のところ、至高体験とは恩寵でしかないのでしょうか?
自我に気づくことなくとも、自我があるということさえ知らない人でも至高体験をする人はいるのですよね。


私は本当の愛を知りません。
知っていると思っていましたが、本当の愛を知らない。
自分の子供を愛していると思っていますが、もしかしてそれは本当の愛でないかも知れない。
果たして覚醒していない人がどれだけ本当の愛を知っているのでしょうか?


何だか虚しくなって話す相手もなくつい書き込んでしまいました。

No.3663 - 2011/09/09(Fri) 09:10:10

Re: はじめまして / ubik0101
はじめまして。

それは、自我がなくなる体験というよりも。ない。その自分の構造を見る、体験でした。また、なにかの体験をしたいということで、始めた探究ではありません。 まだubik0101が子供の頃。まだ若かったのでしょう、父の弟が死にました。

それで母に訊ねて、「僕も死ぬんだ」ということを知って。死んだら死んだということも判らなくなる、と思って。それが底知れない恐怖でした。でも、もしかして、死んでも壊れない何かが、自分の中心にあるかもしれない、それを探そう。という衝動で、始まったのです。

そこで、自分の中心に向かうためには。 なにか迷ってるとして、その迷いの内容を見るのではなく、その迷ってる自分の状態の原因を探査しました。自分が自分だと思ってることの、隠れてるゆえに正当性がある前提を見つける。すると、その自分が自分だと思うことは、その正当性が保てなくなって、消える。さらに深く探る。闇雲ですが、できることも、ほかになかったのです。

たしかに・・・片思いばかりしてましたが・・・生活の基本がそこにありました。それが、いわゆる自分を知る方法として成立してるのかも顧みたこともなく、その結果、なにかが起こるということさえ知らなかったのです。その、あれこれ迷い探ったことは、その体験が起こったときに、なにが起こってるのかの自覚をもたらせてくれたと思います。

この意味で、役に立たないことはなにもない、です。たとえば、そいう体験をしたいと望むことも・・・そんな、その自分の前提を探ることもできるでしょうし・・・また、自我がなくならないならその、自我、ってなんだろう?その定義を緻密にすること・・・その思考を見つめながら同時進行で、ワープロなどで書き出すことを、お勧めしますが・・・も役に立つと、感じます。

>結局のところ、至高体験とは恩寵でしかないのでしょうか?

たしかに意識できる範囲としては・・・その努力に関係なく、関係なくもなく・・・その体験が突然に起こったので。どんな理由もつけられない、できても後付けなので、恩寵、と感じました。でも、怠惰も、努力も、嘘も、誠実も、善も、悪も・・・そんな紆余曲折の経緯の総てがなければ、それは起こらない・・・そんな印象がありました。

>果たして覚醒していない人がどれだけ本当の愛を知っているのでしょうか?

もしかして、欲望のことを、愛と呼んでるのが現状かもしれません。それは愛の代用品、影、かもしれません。たしかに、それを知るまでは・・・この知るという言い方は、かなり変なんですが・・・恋のことを、愛ではないと思いもしてませんでした。

でも、そんな執着も、自我も、世界の機能なんです。そう思い切れないなら、探究の途中で諦めてはないってことだと思います。でもやはり、愛を直接に求めての探究は、困難かもしれません。これも変な言い方なのですが、自分を知る、これが総てをもたらすのだと思います。

No.3664 - 2011/09/09(Fri) 12:39:54

Re: はじめまして / ubik0101
上の投稿は、hatoではなく、ubik0101でした。なぜか勝手に表記が変わることがあります。訂正しておきました。
No.3665 - 2011/09/09(Fri) 13:47:08

Re: はじめまして / サオリン
ubik0101さん

お返事ありがとうございます。

私が至高体験を望むのは、覚醒を望むのは、
結局のところ、
自分の正しさを証明したいのだと思います。
純粋に自分を知りたいというよりも
日常の数々のトラブルから逃れたい。
もうこんな人生はいやだ、こんな世界はいやだ、
逃れたい、放棄したい、そんな気持ちからです。多分。

それであれこれ学んでいくうちに、私には愛が無いなぁと感じたのです。いつでも条件付の愛です。

すべてが愛であるという、愛しかないという世界があるなら体感してみたいと最近強く思うようになりました。

でもなかなか思うようにいきませんね。
それも執着しているからでしょうか?

あせらずじっくりですね。

No.3673 - 2011/09/11(Sun) 12:52:41

Re: はじめまして / ubik0101
>それも執着しているからでしょうか?

そうですね、そんな執着が障害であり、その同じことが道を開いてくれると思います。それから逃れるのではなく、それを飼い殺しにするのではなく・・・その執着の源を見るために・・・それに、どこまでも切り込んで行く、そんな情熱が飛躍の力を付けてくれます。

たとえば、自分の正しさを証明したいというのは、ほんとうには正しくないから?とか。どんな正しさ?とか、そもそも正しさって何?とか、その自分って何?とか・・・ほかの人からは、いろいろ言えるのでしょう。けど、その自分の探究は、その、その自分が疑問を感じてするしかないことです。とくに自我の問題は、この自分がやらねば誰がやる。です。

そして、それができます。「あせらずじっくり」の思いも不要なくらいに。この見えたり聞こえたりしてる、呼吸したり暮らしたりしてる世界を信頼していいです。自我は自我を研究できるようにできています。それさえ解決すれば、ほかの人がどうであれ、社会の現状がどうであれ、無関係に、生死の問題も、総て解決。なぜかは判りませんが、そのくらい、この自分は、この自分に任されてあります。

だからどうだということではないのですが、ubik0101の場合は、その日の思いを実況中継で総て書くつもりで日記を始めてから、たった20年でした。なにか思考が消える・・・もう一段それまでの地平を掘り進んだ。そんなことが毎日のように幸福感をもたらせてくれたりもしました。そして絶対不自由の絶望も。その瞬間前まで、なにかが起きることの予感もなく、這いずり回っていたのです。

この庭のあちこちにある、たますだれ(ゼフィランサス白花)の群生が、いっせいに咲いています。

No.3674 - 2011/09/11(Sun) 16:37:11
もくろみ / ムー
何かを、人と一緒にしていて、できて、人が喜ぶとき、自分もうれしい。
うまくできなくて、失敗して、おや、がっかりだね、と、
屈託もなく、とりくんでいる。
そこには問題がありませんが。

うまく褒められよう、人を喜ばせようともくろむときは、人がうまく喜んでくれないと、それだけで、ひどい苦痛、ひどいがっかりを味わう。

言葉は同じ、がっかりでも、質、次元が全く違うもの。

No.3666 - 2011/09/10(Sat) 07:44:03

Re: もくろみ / ubik0101
その問題が起きる要因は、空想の視点を自分の外に置いて。そのことによって、見たり聞いたり、行動、発言、思考してる、対象にされ得ない自分を、自分で対象にして、自分で自分を自覚できるような気がしたい、ということでしょう。

それは、自分で自分を、分けて裂く、つまり分裂。または分けて離す、つまり分離。という不可能なことをしてるので、そのなりたちが苦痛でしょう。 ふつうは、そいうのは、なぜか自意識と呼ばれるようです。

それでも、人を喜ばせようと計画して、それが成功したら、ことさらの喜びも実感できる。この、がっかりと、喜びの落差のある状態が、辛いながらも楽しく面白い、それでその全体が空想に基づいてると言うことに気がつきたくない。って有り様もあるかもしれません。

また、その始まりは空想でもいいんだ。誰かを喜ばせるのが、嬉しいのです。それが失敗しても、とくに問題ないです。という有り様もあるかもしれません。ふつうは、そいうのは、なぜか自己満足、と呼ばれるようです。そのようなことは、いろいろなケースがあり、尽きることなく観察され得て、さまざま解釈されるでしょう。

けど、その要件である、分離分裂。それは、もともと不可能なのですから、視点を自分の外に置く空想が、ない。つまりは、自分との距離が、ない。つまりは、いわゆる自分が、ない・・・このことで一気に解決するでしょう。 ならば特に、そんな問題を観察する、検討する、必要も手放せるでしょう。

No.3667 - 2011/09/10(Sat) 16:33:35

Re: もくろみ / √咆哮
√咆哮
この名前はカッコつけてるだけの自我だと思っていました。
世界が教えてくれていたんですね。
本当にありがとうございます。

No.3671 - 2011/09/10(Sat) 22:33:45

Re: もくろみ / ubik0101
いえいえ、どういたしまして。とも言わない・・・それも、この世界の深さ、です。
No.3672 - 2011/09/10(Sat) 23:16:58
みどりの庭から / hato
自我、というものは、現象としてない、ながら、人の生きる「未知ながらの道」に自ずから起きてくる不可思議であり、意味は過剰にありません。眼耳鼻舌 心意、その機能とは元来、相互に関係がない故に、関係作ることができます。その働きに、自ずから生じた個別性、すなわち自我を通じ、人は、自己とは、世界とは、なにか。を学ぶことができます。

自我の有無で表現される、人にとっての大事とは、人の状態が、とある有り様、たとえばなにか事象、関係にことさら依存してある様相を、「超えること」です。この場合の状態とは厳密に、人が世界で、それ、に於ける閾値にて判明されます。

そのことは、人の様子や言葉としての表現に、現れざるを得ませんが、この世界の、なにか個別の限定された様相、状態にあてはめるとしたなら、困難なことでしょう。不可逆とは、それが世界に対応する仕方は、限定され得ない、ということでもあります。


孫メダカを、3匹、ガラス瓶に移しました。

No.3661 - 2011/09/03(Sat) 23:37:41

Re: みどりの庭から / hato

目と目が合って、うれしくなります。小さな、きれいな身体です。

No.3662 - 2011/09/03(Sat) 23:38:31
直接知覚されない記憶の中の仕組み / ムー
>たとえば、自我は、ああでもない、こうでもないと争う思考、葛藤、だとします。

自我というものを、争うという動きのあるものとして、意味を定めた。

>それは思考の動きであり、知覚されることです。

はい、思考の動きのある形のもの。
思考がああでもないこうでもないと動いて意識しているだけではなくて。
そしてまた、思考が動いて、何をしているのか、その事実が知覚されることがありうるとおっしゃる。

ああでもない、こうでもないという思考の動きそのものは、まさに思考の動きであり、思考があるいは精神が意識する内容であって、事実の知覚とはまた別だと。

>そうではなくて、自我そのこと、は知覚できません。

これは、自我そのことの意味がジャンプしました。

が、言いたいことは、自我そのこととは、思考の仕組みそのものは、思考の過程は、それもまた記憶されているものであり、動いていない間は、自我も含めて思考の仕組みは、記憶そのものは、わからない、知覚できないということでしょう。

自我の仕組みも含めて、思考過程は、動き始めるとき、意識されるわけですね。
意識の内容は、動いている思考、意識だということ。

>その知覚されない自我が、生活において折に触れて、人の行動、発言、思考に現れるようになって、知覚される、です。

記憶されている思考の仕組み、自我の仕組みの部分が作動して、自我も働くし、それはああでもない、こうでもないという、思考の中の、意識される動きです。
あるいは、その自我の動きの事実も、知覚されることがありうると。

No.3646 - 2011/08/30(Tue) 07:58:20

Re: 直接知覚されない記憶の中の仕組み / ubik0101
ここでは、ひとつには、知覚されない自我。そして、もひとつには、自我は虚構、つまり機能だけあって、その中心は、ない、ということを話しています。

そして。その、ない、を見切ることは、知覚では知り得ない自己を知る、という作用がある、ということを言っています。

No.3648 - 2011/08/30(Tue) 22:12:31

Re: 直接知覚されない記憶の中の仕組み / ムー
記憶の中身としての自我は、その機構は、直接には知覚されない。
もう一つは、思考の仕組みとして動く機構はあるが、虚構、情報としてあるのであって、情報としての中心や周辺はあっても、ものとしてあるのではない、ものという意味での中心はないという話ですか。

そして、ものとしての中心はない、つまり、ものとしてのリンゴという中心はあるが、リンゴの記述、好き嫌いの記述は、ものとしての中心ではなく、情報としてあるものである、ということを見切ることは、自我の思考が、知覚では直接知りえない、記憶のものである、そういう思考があることを知る、という作用がある、ということを言っていますか。

思考、自我の情報は、ものそのものではなく、記憶としての、ものの状態の変化であるということですね。あるいは時間的には、変化して流れるもの、意識にあるものということ。
何かに応じて作動する思考、自我の情報システム。

No.3652 - 2011/08/31(Wed) 09:51:32

Re: 直接知覚されない記憶の中の仕組み / ubik0101
ちょい着眼点を変えましょう。たとえばテレビや冷蔵庫のような物質そのこと、人の眼や耳や手足など身体そのこと、見る聞く触るなどの知覚そのこと、悲しい嬉しいなどの感情そのこと、そして主に言葉などでする思考そのこと。このそのことの、どこに自我があるでしょう。世界のどこを探しても、そのことそのものは、自我、ではないのではないでしょうか。

では、自我、ってどうしてあるとされるのでしょう。 なにかを見たり聞いたり触ったり、行動したり、話したり、思考したり人は、します。そこで、そのようなことをしてる、中心、があるのでなければ、そのようなことはできない、として、中心を設定されてしまいます。

つまり、なにかすることによって、そのことをする、その中心、自分が生じるのですが・・・逆に・・・まず自分がいて、なにかする、と感じるということです。そういう機能、構造があるだけで、その核、中心が、ない、です。自我は虚構です。

と、このような投稿を読んで、うんうん、と頷いたり・・・そ、かなと疑問に感じるとします。すると、そのことによって、中心が作られます。自我とは思考であるという、意見そのことでも中心が作られます。常に人のしてる、そのことで自我はつくられるので、ほとんど見つかりません。

このように、ある意味、自我は、 シンプルなのですが、数学の公式のように、疑うことさえできないほど当然に理論的にできてるので、それがどう出来てるかを見るまでは、それから解放されることは困難です。そもそも その中心、自分が、ない、のに、ある、と感じてるだけなので、それを知覚しようとしても、困難ではないでしょうか。

続きます。

No.3654 - 2011/08/31(Wed) 15:02:54

Re: 直接知覚されない記憶の中の仕組み / ubik0101
そこで、中心はない、その機能として、軋轢、葛藤、比較すること、非難と正当化、などの運動が起こります。と言うより、その機能が、中心を作ります。いわゆる心理的な思考とかも、そいうことではないでしょうか。それが発動してることを、ふつう自我と呼ぶようです。あるとき発動してなくても、発動する可能性があるなら、自我と呼べるでしょう。

ただ、ここでは、そいうことは自我とは呼ばず、自我の機能、と呼んでいます。それは人が自分で自分を知覚したいということ、とも捉えることができます。でもそれは機能であって、それをいくら調べても、中心、を知覚できるような気がするだけです。ない、は知覚は困難です。

それでは、ない、ということを知覚するためには、どうしたらいいでしょう。すくなくても、世界の総てを探査しなければ、ない、は確認できないのではないでしょうか。そして、自我は、ああでもない、こうでもないと、空想の中だとしても、世界の果てまで、時間を超えても、なにかを探り歩いてるのではないでしょうか。自我そのことに、そのような機能があります。

ところでubik0101は、なんの宗教、哲学も一般常識ほどには知らず、ほかにでき得ることはなかったし、自分が自分だと思うことの源泉を遡る、否定の道を歩きました。それを努力と呼ぶとしてですが、その努力に関係なく、関係なくもなく、でしょう。たとえば太平洋の水を一気に飲むように、世界の総活動を経験することが、起こったりしました。そこで、ない、その構造を了解します。

その、ない、の了解の効果で、知覚の範疇にない、まあ、いろんな言い方ができるのですが、自己、アートマン、真我・・・の知覚が起こります。どうも世界そのことに、そんな機能があるのでしょう。でも、自己を対象にすると、そのことによって、その中心が作られるでしょう。この意味で、自分は、ない、というのが無難です。

ところで、詳しくはないのですが。ない、を体験した人が、ほかの人にも味わってもらいたいと・・・どうやら禅では、いろんな思いが生じても、そうしてる中心に手をつけない、観察しない、自我が生じる前の世界を知覚する。という道もあるようです。また、たとえば、苦悩なら苦悩に、ありきって、自我の構造そのことを破壊する、という道もあるようです。

No.3655 - 2011/08/31(Wed) 15:04:01

Re: 直接知覚されない記憶の中の仕組み / ムー
情報のものであり、記憶のものであるもの。
それには自我のシステムも含まれますが、記憶から取り出され、何かのものとの関係で、取り出され、変えられ、表示されたり、時間変動として出てきたときに、情報、自我はわかる。
記憶のままではわからない。
情報システムや自我は、記憶が変えられて変化することが起きます。
特に意味が深いのは、記憶が消えることです。自我が消える。
何かにかかわる自我のありよう、その事実が知覚されるとき、矛盾があり、思い違いがあるとき、その自我の記憶システムが触れられない、捨てられるということが生じます。

あるいは、自我が、新たに記憶され、生じることもあります。

No.3656 - 2011/09/01(Thu) 18:52:30

Re: 直接知覚されない記憶の中の仕組み / ubik0101
ムーさんの言うことは・・・なにかの関係で、自我が顕在して、それが潜在してたことが判る。記憶が消えることで、自我が消える。とくに自我の矛盾、思い違いに気がつけば、自我の運動が顕在しないで捨てられる。でも、自我が新たに記憶され生じることもある。という意味でしょうか。

けど。自分が自分を対象にしないで、つまり特定される自分という個別のことが生じないで・・・自我が情報だとしても、記憶だとしても・・・そもそも自我は、あり得るでしょうか。

どうやっても、自分は自分で対象にできない。つまり見えたり聞いたり思考したりしてる自分は、対象にできないでしょう。ならば、どうやっても、もの、ことは、対象にできません。それなのに、見えたり聞いたり思考したりしてるでしょう。 ならば、潜在してて知覚できない、とりあえず自我と呼ぶそれも、自我として、ない。では、ありませんか。

これを日常の感覚で言えば。たとえば喜怒哀楽や思考が起こっても、そのことによって、ことさらの、中心、が作られる必要がありません。とくに自我も、無我もありません。そして、もともと喜怒哀楽や思考がなんであるか、知らないのです。

つまり、いわゆる既知も、未知です。そんな喜怒哀楽や思考、もちろん記憶も、この個別の自分がいないのですから、世界の機能です。ゆっくりと台風12号が接近、いつもと空気が違います。でも雲の隙間に青空。この日常が神秘です。そして探求は、この神秘に向かいます。

No.3657 - 2011/09/02(Fri) 09:21:58

Re: 直接知覚されない記憶の中の仕組み / ムー
人は、木でもそうですが、それ自身の状態、そして何かとのかかわりで生きています。水が体から欠乏するのを知覚すると、周りの水を知覚して手を伸ばすなど。

そして、それ自身の状態、周りの状態についての、情報を記述し、モデルを持つということですね。

モデル、思考と、実際のものは違いますが、ある意味で、対応がよく取れる面がある。
それで、思考は生活に利用できるということですね。

ところが、使い方を間違うことも生じる。
人と一緒に何かができてうれしい。それを、うれしさを得ようとして、何かをもくろむと、味の悪さ、がっかりを得るとか。

No.3658 - 2011/09/02(Fri) 17:10:48

Re: 直接知覚されない記憶の中の仕組み / ubik0101
それは、 ムーさんが、そういう「がっかりを得るとか」の有り様、だと言ってるのでしょうか?

そんな思考そのことは、原因・・・時間・・・結果の、因果の思考の一形態です。そしてそれは、自我のすることではないでしょうか。

そうでなく。ただ、がっかり、そのことであるなら、とある個別の誰かではなく、世界が、がっかり、してるのです。

No.3659 - 2011/09/03(Sat) 09:21:33
全1072件 [ ページ : << 1 ... 123 124 125 126 127 128 129 130 131 132 133 134 135 136 137 ... 215 >> ]