>空を飛びつづける魚はいないし、海に潜りつづける鳥もいません。 >まぁ、つまりは、頭で考え空想することはどんなことも可能です。 >しかし行為は制限があります。限界を広げ続けることはできます。 >頭と行為が、どこまで一致させることが出来るか。じゃないでしょうか。 >わたしたちの冒険は。、
ところで、「どこまで一致させることが出来るか」は、どこからでた疑問なのでしょう。もしかして、まず頭があって行為を一致させるというなら、いわゆる頭と自分との分離。また行為と自分との同一化。があるのでしょうか。そうでなくても、まずある頭と行為を一致させても、冒険とは言い難いです。
もともと対話であれ、自問自答であれ、思考することは、このようである自分を、このようであると認識することから始まるのではないでしょうか。ならば、 「どこまで一致させることが出来るか」は、起こりようがない疑問に思います。
そうでなくて。なにか自分がないとか、世界との関係とかを体験しても、なかなか意識は愚かで、その了解を知識とかに依って解釈してしまって、その思考に巻き込まれてしまうことがあります。ならば、もう、その地平、その段階にはいないということで、意識に依存しない、ということを了解する必要があるかもしれません。
これは人が、なにかの有り様ということは問題なくても、その、なにかの有り様だと思考することによって、その、なにかの有り様だけが、スポットライトで照明されたように強調作用が起きる、意見が偏る、その現象に惑わされないことが大切です。そのために、思考は知覚、ということを了解する必要があるかもしれません。たとえば、
>まぁ、つまりは、頭で考え空想することはどんなことも可能です。 >しかし行為は制限があります。限界を広げ続けることはできます。 >頭と行為が、どこまで一致させることが出来るか。じゃないでしょうか。
という、この思考はpeerさんが知覚したことです。この青空に、途切れ途切れの飛行機雲。ことさら言うまでもないのですが、それを見るのが、誰というわけでもなく、現れては消えること、です。思考は知覚であり、それに依存できないようにできているのです。 とりあえず知覚されたことを、ある、と呼んでるだけです。そして、なくなることは、なにもないです。
続きます。
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No.3649 - 2011/08/30(Tue) 22:13:32
| ☆ Re: 続。ある?ない? / ubik0101 | | | また 、あくまで喩えですけど。進化論が確かな事実かどうか知りませんが・・・まず海に暮らす魚が、陸にあがり、両棲類や哺乳動物になり、それが海に帰れば、イルカや鯨にもなり・・・ また魚は爬虫類になり、 鳥になり、あるいは海に潜る鳥にもなり・・・生き物はその環境から脱したり、戻ったりします。
もちろん、ずっと魚、ずっと鳥、もいるでしょう。そして、ヤゴが羽化してトンボになると、もう水には帰れない、もあるのです。これは世界の様相です。それは、世界があるから生き物(自分)がある。でも、生き物(自分)があるから世界がある。でも、ないでしょう。
それを、環境が先にあると見なすのは、ありとあらゆる解釈の中の、とある解釈かもしれません。そうすると、世界も、そう思考する人がそう思考してることを明確にするかのように、その思考する通りに見えてしまいます。けど、思考には、その破綻があるし、それが教えてくれることもあるし、満遍なく思考することが賢明ではないでしょうか。
それをこの自分、この状態、なにもない、から始める、それしかできないと思います。そして。人は、意識がありながら意識に依存しないように、世界に生きながら世界に依存しなくあり得るのです。それは理論で追うよりも、自我の仕組みを見てから、思考に、意識に依存しない、そんな経緯が遙かに簡単だとは感じます。
くり返しますが、どうして生の真っ直中になければ、生に依存しないことが、あり得るでしょう。どうして死がなければ、生死に依存しないことが、あり得るでしょう。なぜかは知りませんが、こんな解脱の機能が世界です。ほかの使い方もいいですが、こう世界は使えます。という話です。
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No.3650 - 2011/08/30(Tue) 22:14:12 |
| ☆ Re: 続。ある?ない? / peer | | | 話がドンドン進んじゃうので・・・
>もともと対話であれ、自問自答であれ、思考することは、 >このようである自分を、このようであると認識することから >始まるのではないでしょうか。
そうなのですが〜 このようである自分を、このようだと認識出来ていない 場合の話なんです。私が書いているのは。 認識できていれば、一致しているのです。 だからその場合一致させようとする必要はないのです。 一致している、していないも問題なしでしょう。
>それをこの自分、この状態、なにもない、から始める、 >それしかできないと思います。
そして認識できていないから「なにもない」にも 到達できないワケでして。 「始める」以前にかなり問題がある。ということ。 認識する前に「なにもない」をやると、単なる逃避になりがち。 かな〜と。
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No.3651 - 2011/08/31(Wed) 01:46:32 |
| ☆ Re: 続。ある?ない? / ubik0101 | | | たとえば誰かが、ほかの誰かの言った言葉「なにもない」を目標にする。つまり「なにもない」を知識として自分の対象にしてるので「一致してない」って意味でしょうか。そうなら、そういう自分があること。そして、自分で言葉を使えないで、言葉に使われながら、言葉から学ばせてもらってる状態かもしれません。
そうならば「なにもない」を「なにもない」として認識する、その意識の強調作用を見るかもしれません。 なんであれ、そうしてる自分が、そうしてる自分、と認識するしかないかもしれません。ということも、知識にすると、その分、余計に困難と感じるかもしれません。
そいう問題は掃いて捨てるほどあるのですが、芋蔓式に思考が続いて定まらない、このことも大切、でしょう。でも、こういうことは、自我は虚構、の了解で、一気に決着します。
それで、それまでの紆余曲折が、その人の経緯として意味をなします。 そうでないなら、その人は、そうでないというだけで、とくに知識として対象にすることに、その責を総て負わせるわけにもいきません。その責を知識に負わせることは、そういう自分であること、からの逃避でもあり得ます。
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No.3653 - 2011/08/31(Wed) 15:00:19 |
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