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差の認識 3 つづき / hato

こんばんは。ubik0101さんがパート4に続けてくれたので、時間をおいての返信です。

>体感、感覚、それをある意味統括する、意識への強い依存。

>えーと。
>氷の近くに手をかざすと、冷たい冷気を感じます。
>火の傍にいると、燃えるように熱いですよね。
>そんなふうに存在を熱で感じる人もいるし
>波動のようにピリピリとしたり澄んだ透明感などのように
>重さのようなものとして感じる人もいるようです。
>そういう普通の感覚は「気のせい」と片付けて
>わざわざ意識しない人もいる。まぁ。そういう話です。


人がいつも、とくに焦点を合わせやすいのは、感じる、体感、というところですね。それしかないといえばそうとして・・・たとえば人の機能の根だとしても、感覚とは大変面白いテーマであっても、偏重されてるところでの意識の向き、といえるでしょう。そこを一旦きちんと抜けたときに、知覚自体が、道具としての位置を得るでしょう、との話ですね。世界を超える、ということ。失われる、という話を、以前しましたね。その度合いもありますが、抜ける、とはそういうことでもあります。

必ず、その意識の照準が変わるでしょう。


人は感じることを意識する、或いは、意識されますね。意識とは厳密に、単に継続の意味でなく、機能のいくつかを渡して、あるものです。人が偏りを脱してないとき、意識されてるところの世界に、過剰に依存している状態です。感覚は根にあり、人を魅了しますね。世界はその方法で、人を引き付けてやみません。けれどその感覚も、人が中道を得て、漸く、人の道具としての位置を得ることができます。

感覚が鋭敏というと、素晴らしくなった感じがあるかも知れません。見えないものを見ようとして、とても修行したりしますね。でもこの方向では、すでに偏重があるでしょう。どんなに精妙で素晴らしいとしても、あるようなないようなその自分であり、知覚過敏とは、病です。感覚的なことにとても嗜好が向くとしたら、危ういところがありますね。

そして、けれどここで尚、拘りにこだわらず、こだわらずに拘って、まずは、それであること、を学びいくとしたなら、そうしたことは、香りよきエッセンスになると思います。


>自己とは必ず、世界を超えるものであり

>えーと。えーと・・・。
>世界は超えられるようなものなのかしら?
>世界は私で、私は世界〜感覚ってありますが。



ほんとうに。感覚としては、そのようかも知れません。感覚とは、世界のこと。そして、世界を超えるとは、人です。
ここで、超えるとは、感覚が、なにかスーパーになるわけではないですね。たとえば、宇宙開闢からの過去や未来を見渡せる・・・そんな風に、考えられているのかも知れません。ロマンがあります。何歩か譲って、そうしたこともあるとして、その理解と、その先に、きちんと行き渡ることができると思います。

本当に経験されたとき、世界のなにかに照らし合わせられる必要はないでしょう。ただ、その経験が理解されやすいように、感覚と意識に、或いは知覚的なところで、人はそれぞれの形式、或いは内容でもって、見ることがあるのかも知れません。


こうしたことは、成されたとして、人生の事象として、なにが変わるかといえば、大して変わらないかも知れません。聖人でもスーパーマンでも・・・一見してとくにできた人でもなく・・・または、そうであるかも知れませんが・・・どうでもいいのでしょう。仕事の有無・・・家族の有無・・・有名無名・・・無関係です。

ただ、それはどうしても、それであることによってしか理解されることがないでしょう。ですが、その果実にあるかということは人にとって、大事なことだろうとしか、いうことはできません。

No.3575 - 2011/07/29(Fri) 00:51:29

Re: 差の認識 3 つづき / peer
たとえば「今ここ」という感覚。この瞬間。
過去でもなく未来でもなく夢でもなく。
それを「確かめられる(まぁ、陳腐な表現ですが)」としたら
頬をツネってみなさい。
痛かったら、夢じゃないですよ。
みたいなものかな〜というお話なのです。

たとえば人がウソをついている。
それを私たちは感じる。
どこで感じているんだろう。
人が元気そうだ。
人ではなく、花でも動物でも。
感じ取れるものがあります・・よね。
目が見えると、表情でとか態度でとかになりますが
後ろから人が来ていて、見ていないのに、感じる。
そういうのもあります。
視線が刺さって痛い、なんてのもあります。
それも、どこで感じますか。っと。

No.3577 - 2011/07/29(Fri) 05:14:01

Re: 差の認識 3 つづき / hato

人は、生きたい自分を生きるということ。そうしたい自分があるとき、そうでなくなる必要もないでしょう。

世界は自分には、大変いとおしいものながら、事象とは多種多様、膨大無尽蔵の様相で、多くすり替えることが可能になっている、というだけです。

そのなかを、好んでたゆたう人もいるということでしょう。

No.3579 - 2011/07/29(Fri) 20:04:09

Re: 差の認識 3 つづき / peer
生きたい自分を生きるためには、自分は何者なのか
それを知る必要がある・・・かどうか、ですね。

な〜んか、意味もなく、あるいは、こうであろうとして
または、どういう風に生きようと
こうなるべくしてこうなっているコトを。
・・・感じることがあります。
悩んだり苦しんだりしたことが、まったく意味がないことなのだ。と。
サルはサルにしかならない。ネズミはネズミにしかならない。
成功もない失敗もない。あるように、ただある。と。

No.3585 - 2011/07/31(Sun) 02:07:27

Re: 差の認識 3 つづき / hato

> 生きたい自分を生きるためには、自分は何者なのか
> それを知る必要がある・・・かどうか、ですね。


生きたい自分を生きることと、自分はなにかを知る、ということは、とくに関係がありません。何であれ、感覚する意識に耽溺したい自分があるとき、非常な発心でもなければ、それらは生きられるだけでしょう。


> サルはサルにしかならない。ネズミはネズミにしかならない。

人は人、だろうと思うのは希望的観測です。表現するとして、

「人間であっても、人ではないかも」。知れません。


> 成功もない失敗もない。あるように、ただある。と。


そうですね、世界とはそのようにあるとして。いつも、いいます。世界とは、なんでも、どうでも、あり、なのです。

世界を超えるのか?と問われるのです。こればかりは、正真正銘本気、でなければならないでしょう。意識の照準が変わるとは、なんとなくでは、有り得ません。


もしかしたら、蓮の花の蕾?とみています。

No.3587 - 2011/07/31(Sun) 22:39:03

Re: 差の認識 3 つづき / hato

いまここでもなんというわけでもない

ゴーヤ、成育中です。

No.3588 - 2011/07/31(Sun) 22:45:09

Re: 差の認識 3 つづき / suho
>
> いまここでもなんというわけでもない
>
> ゴーヤ、成育中です。



おお!これですね!

いぼいぼが凄い。

香りと苦味が楽しみです。

まず生でかじってみようか。。

あざ〜っす^^

No.3589 - 2011/08/01(Mon) 21:54:15

Re: 差の認識 3 つづき / ubik0101&hato

> おお!これですね!

> いぼいぼが凄い。

> 香りと苦味が楽しみです。

> まず生でかじってみようか。。


生で!わーお!


> あざ〜っす^^


はいよっ。

くれぐれも、おたのしみに〜 (~o~)/

No.3592 - 2011/08/01(Mon) 23:00:13
差の認識 3 / peer
>ホルモンが先か、人が先か、はたまた・・・
>というところはやはり、鶏と卵のような、お話でしょか。。


い〜ゃあ。まぁ。つまり何を言っているのかというと
「自然は、よくしたもので・・・」なのですね。
自然がすべて上手く行くように創っています。
それを後付けで勝手に都合のいいように人間が、
これはこうだ。と説明つけたがる。
結局何をしているかと言えば、自然を自分の思うようにしたい。
のだろうなぁ〜ってことね。

それは
>世界の何かと辻褄を無理に合わせるとしたら、
>誤謬があるというより、なにかちぐはぐになるものかも知れません。


なのよね。
人間にできるのは「こうなっている」と仮定することのみなのね。
それはもう、お砂場で、限定された道具しかない。
しかし、どう使うかだけは、自由。みたいな、処の創作劇。
どうして砂場があるのか、この道具なのかは・・・わからない。

ヨービック・・ね。乳酸菌飲み物かしらん? おいしそう〜

No.3562 - 2011/07/20(Wed) 03:07:09

Re: 差の認識 3 / hato

> 自然がすべて上手く行くように創っています。
> それを後付けで勝手に都合のいいように人間が、
> これはこうだ。と説明つけたがる。
> 結局何をしているかと言えば、自然を自分の思うようにしたい。
> のだろうなぁ〜ってことね。



peerさん独自の観点や表現は、そのあたりに・・・?

人という事態は、そうした仕組みに成立している、というだけかも知れません。自分を外し、自然を外にみることができる、その、人を含めて、仕組みとしての有り様かも知れません。自分が特別にあるから、自分の行動や考えてることが、自然とは違うと思うのかも、知れません。けれどその思考だって、自分だって、なにかすらわからないのです。

前提不明な、そのあるわけでない都合の良し悪しと自我を含め、できることしかしていない、ということ。絶対、不自由です。そして尚、なぜ、そうなのか、を探求する人にとっては、あらゆる経緯があるだろうこと、でしょうか。

自然。通常は、森羅万象の営みを指してそのように表現されますね。けれど、もちろん人の有り様をしてそのままを、ありのまま自然、といえばなにか難しいでしょうね。自ずから、とは本来、やはり人が、それであることを得てのちに、隠されることなく表現できるように思います。


> それはもう、お砂場で、限定された道具しかない。
> しかし、どう使うかだけは、自由。みたいな、処の創作劇。
> どうして砂場があるのか、この道具なのかは・・・わからない。



どう使うかの自由、すら不自由なわけです。にも係らずも尚、人は世界を超えていく可能性があること。成されたとき、道具はある程度、適宜な居場所を見つけざるを得ないでしょう。それはでも、不自由ではないのです。言葉は言葉としての、適切な位置を得ると思います。

つい先日、ミスタードーナツが近くのスーパーに出張してたので、久しぶりに食べました。ドーナツすきです。画像は長崎バージョンで、ubik0101さんのミスドスイーツメニューです。

No.3563 - 2011/07/21(Thu) 01:01:11

Re: 差の認識 3 / peer
>> 結局何をしているかと言えば、自然を自分の思うようにしたい。
>> のだろうなぁ〜ってことね。


>peerさん独自の観点や表現は、そのあたりに・・・?
>人という事態は、そうした仕組みに成立している、というだけかも知れません。


そう。それで成立するのだろうな〜です。
「自分の思うようにしたい」というのは、どういう思いなのか・・・。
関わりたい・・・そういうコトなんじゃないかなっと。
貴女は貴女、私は私。様々な状況・事態があっても、距離を置く。
他人の事は、どうなろうと知らない。
面倒そうなコトには、関わらない。
ということだと、やはり〜・・・冷たいんじゃないかな。
自分の思うようにしたい。という言葉は、ヘンなんですけど。
だから、あらゆるモノゴトと関わりたい思いがある。と。
ただ、関わり方を知らない。それぞれ様々な関わる形がある。
というような。

え〜と。各地で台風の被害が出てますけど、そちらは・・・?

No.3564 - 2011/07/21(Thu) 02:24:43

Re: 差の認識 3 / hato

> 「自分の思うようにしたい」というのは、どういう思いなのか・・・。
> 関わりたい・・・そういうコトなんじゃないかなっと。



関わりたい、という思い、その欲望が、世界と人の、機能としての接触作用に要因したとして、けれども、思うようにしたい、とは違いますね。そこは、機能に逃げず正直に、素直にみていく必要があるかも知れません。


> 貴女は貴女、私は私。様々な状況・事態があっても、距離を置く。
> 他人の事は、どうなろうと知らない。
> 面倒そうなコトには、関わらない。
> ということだと、やはり〜・・・冷たいんじゃないかな。



面倒そうだから、関わらない、という・・・だから、・・・する、しない、という下りがあるとき、自分に囚われた思考といえますね。あるわけでもなさそうな、理由が前提にされるでしょう。人がそれであるとは、とくにその辺が問題になるでもなく、関わる、或いは、関わらない、だけです。

冷たいか暖かいか。感覚とは知覚であり、たとえば感覚、たとえば感情。それをもって人や、ものごとの状態のよしあしを判断するのは、ある意味、困難かも知れません。人がそれであるとき、道具は道具としての位置に置かれるでしょう。思うこと然り、感じること然り。そして、この位置とはもしかすると、他人から冷たいとみられることも、多いかも知れません。無関係に関係し、関わっても拘わらず、ということなのです。といって、冷たそうな関係が総て、そうであるとも限りません。単に冷酷な人なのかも知れません。そうした観点からものごとは、測れないとしか、いえないでしょう。


> 自分の思うようにしたい。という言葉は、ヘンなんですけど。
> だから、あらゆるモノゴトと関わりたい思いがある。と。
> ただ、関わり方を知らない。それぞれ様々な関わる形がある。
> というような。



なぜ、あらゆる物事と関わりたいと思うのでしょうね。peerさんはやはり、愛 を表現したいのかも知れません、と思います。peerさんのなかで整理されたら、また聞かせてください。


> え〜と。各地で台風の被害が出てますけど、そちらは・・・?

いつもご心配、ありがとうございます。peerさんも、大事ないように、と思います。

hato

トマトが、大量の水を吸って、実が割れてしまいました。ホームセンターに行ったら、トマトと茄子の苗が98円で売ってたので、3本買いました。

ubik0101

画像は、長崎ミスドメニュー2です。美味しそうな、ドーナツ。

No.3565 - 2011/07/21(Thu) 23:39:43

Re: 差の認識 3 / peer
トマトには、あまり水を与えないほうがいいらしい。
そうすると、身がしまって、甘みも強くなるんですよね。
そんな水の豊かではない土地の植物ではないのでしょうか。

さてと。。。冷たい。温かい。
これは感じるものだと思いますね。体感できます。
熱を放射しているみたいに温かい状態があったり
ひんやりと冷えた重〜い状態は、感知できますから。
つまり、心理的なものではないようです。

そして作用と反作用があり。
人に対して冷たい時は、自分に対して冷たい仕打ちをしている。
人を傷つけると同時に自分をも傷つける。
それも、体感できるんですよね。
全ては同時ですから〜「あっ冷たくしてる」と感じ取れるんですが
そこをシャットアウトしていると、反対に相手が冷たい態度でいる
と錯覚してしまう。なんてことになるような。

むかしむかし、小さな姪(一人っ子)が、寝床から起きてきて
「お父さんもお母さんも死んでしまったら、私はひとりぽっち」
なんて言い出しましてね。切なそうに泣くんです。
なんでそんなことを思いついたのか、分かりませんが。
ヘンな夢でも見たのか・・・
「大丈夫。二人が死んでも、伯父さんも叔母さんも
ほかに沢山、お前を愛して、見守る人がいる〜から」
くらいしか、言えませんでした。

関わりたい。それは生る物の根本じゃないかなぁ。
それがあるから、自分が生まれる前の世界、死んでからの世界・・
なんてものに思いを馳せるのかなぁと思うんですね。
元々の命がひとつ。
そこから分かれて、いま、ここに。ひとり。
結びつきたい、関わりたい。引力が働いて。
そんな願いもありそうな。

No.3566 - 2011/07/22(Fri) 04:09:05

Re: 差の認識 3 / hato

こうして話すのは、自分には真剣に楽しくて、互いに役立つこともあるのではと思います。もちろん、いっぺんにはなかなかわかりにくい話ですが、それでもよいのでしょう。きっと何度も同じことを、言葉を変えて言ってみます。

体感、感覚、それをある意味統括する、意識への強い依存。人がここを抜けることは、簡単ではないでしょう。なぜなら、それは文字通り、心身に滲み入るところだから、なのかも知れません。けれどそれは、道具です。

人は道具を使いますが、その道具は人では、ありません。


> それも、体感できるんですよね。
> 全ては同時ですから〜「あっ冷たくしてる」と感じ取れるんですが
> そこをシャットアウトしていると、反対に相手が冷たい態度でいる
> と錯覚してしまう。なんてことになるような。



こうした学びもありますね。けど、知覚過敏に陥らぬよう、この辺りはさっさと駒を進めるのが、肝要でしょうか。


> 関わりたい。それは生る物の根本じゃないかなぁ。
> それがあるから、自分が生まれる前の世界、死んでからの世界・・
> なんてものに思いを馳せるのかなぁと思うんですね。
> 元々の命がひとつ。
> そこから分かれて、いま、ここに。ひとり。
> 結びつきたい、関わりたい。引力が働いて。
> そんな願いもありそうな。



ひとつであるものが、別々に分かれ、元に戻る・・・との物語は、どこからくるのでしょう。意識とは機能として焦点を当てるために、ひとつ、とみてしまうだけかも知れません。あるいは自我という、あるというわけでもない、とある分離状態がみる、夢、かも知れません。


長崎の思い出メニューから、モーニングセット。椅子やテーブル、天井のランプが懐かしい、昭和初期の感じのある喫茶店でした。長崎にいる間、2度ほど連れていってもらいました。

No.3567 - 2011/07/23(Sat) 00:02:06

Re: 差の認識 3 / hato

自己とは必ず、世界を超えるものであり、といってそのとき、世界を自分から分離させる、自我(エゴ)だ・・・とは、なりません。不可逆、の話です。

長崎シリーズは、西瓜です。ひとりで、半分の西瓜をペロリのニコニコダーリンから貰った画像です。そういえば今日は良心市で、500円の西瓜を買ったそうで、あした頂くのが楽しみ〜。。

No.3569 - 2011/07/24(Sun) 00:39:15

Re: 差の認識 3 / peer
>体感、感覚、それをある意味統括する、意識への強い依存。

えーと。
氷の近くに手をかざすと、冷たい冷気を感じます。
火の傍にいると、燃えるように熱いですよね。
そんなふうに存在を熱で感じる人もいるし
波動のようにピリピリとしたり澄んだ透明感などのように
重さのようなものとして感じる人もいるようです。
そういう普通の感覚は「気のせい」と片付けて
わざわざ意識しない人もいる。まぁ。そういう話です。

>自己とは必ず、世界を超えるものであり

えーと。えーと・・・。
世界は超えられるようなものなのかしら?
世界は私で、私は世界〜感覚ってありますが。
自己と世界が、ぴったりと一致して相対がない。みたいな。
つまりは、超えるとか超えないとかと分けられないもの。
のような気がする。

No.3570 - 2011/07/27(Wed) 02:50:20
差の認識 2 / peer
>たとえば親や友人の言うこと、また、なんだかの知識から・・・
>つまり自分の外から自分が見れない・・・
>その何が何だか判らないままの自分、それはなくしちゃいけない
>ような気がして、それを守るために、世間が嫌いとか、
>常識が嫌いとか、けっこう軋轢がありました。
>でも、ほかの人と価値観が違うというより、価値観そのことが
>持てない、なので何かを立場にして社会に反抗する
>こともできない・・・もとより価値観とかは初めからあるわけ
>ではないし学ばなくてはならないのでしょうし・・・
>支離滅裂・・・でした。


全体的に感じることは。守るという感覚は。
価値観とか世界観への違和感ではなく
「そこに愛はあるか」ということへの違和感。
なのではないかと〜感じます。
人がどんな価値観を持っても良くも悪くもない。
ただ、そこに愛があるかどうか。
愛は、教えられるものではなく、もともとある。
だから学ぶようなモノでないワケで〜
誰もが、それを指標とする。真理。表現は様々で。
その様々に惑わされてしまうかどうか。かなと。

No.3547 - 2011/07/11(Mon) 12:17:28

Re: 差の認識 2 / ubik0101
>「そこに愛はあるか」ということへの違和感。

ほかの人を信じてると言えば、客観的な認識が必要ですが、そうでなく根っから疑わないところがありました。 たとえば虐められても、すぐ忘れて、なついていって変な奴と思われたりしました。

なにか嫌なことされたから苦しくて、その相手を仲間じゃないとか思う、そういう何だかの立場の自分をつくれない、でもやはり傷ついてばかりいたように思います。ほかの誰かが自他を区別するのが辛い、という傾向もありました。

みんな、そうなんでしょう。でも、なにかを対象にしてしまうだけで、そこに好き嫌い損得などの意味が生じ、それはもう仲間と、仲間じゃないの区別が生じてるかもしれません。そんなことが恥ずかしい、それでそこに飛び込めない、そんな世間知らずの自覚はありました。

続きます。

No.3548 - 2011/07/11(Mon) 16:09:30

Re: 差の認識 2 / ubik0101
>誰もが、それを指標とする。真理。表現は様々で。
>その様々に惑わされてしまうかどうか。かなと。


まあ真理と言うより、単なる事実ですけど。そのテーマでもあります。いつの頃までか、世界は重かった。それは自分が死んでも継続するような確固としたものでした。でも、知ってるということが何かを知らず、知らないということがなにかを知らない・・・意識には知る機能はない・・・そうなると、世界は重いということはなくなります。

これが、たとえば知覚/意識の範囲内と外の境界のなくなったこと。つまり、意識の範囲内のことも、未知、つまり、意識の内も外も、未知、です。満遍なく未知。によって起こった。といえば、それは、とても説明なんです。

というのも、それを意識の経緯として辿ったわけではないからです。これ、はなぜ、これ?とか、変調とか、A=Aとか、知覚の経路を、そう意図したわけではないけど辿った。それは経緯の外で起こって、そう感じられました。それで世界は軽くなったことを・・・結果的に説明できるだけです。

それは、世界に自分しかいないから、人は意識の外に出られないから、というわけではないのです。ここでは、自分が死んでも世界は持続するも、その反対の、自分が死ぬと世界もなくなる。どちらの思考も、立場も、感覚も、不要なんです。ふつうの言い方では、ない、です。

もしかしてですが、世界の重さから軽さに、直接に辿ってしまうと、無我なのに独我とか、自分がないと世界もないとか、表現の偏り、歪みというか断層が、説明としても、なんだかの対立関係を要するかもしれません。

その説明を事実と見なすと困ったことにもなりそうです。でも自分で歩く探究者なら、そこからも学べるし解決できます。

あと課題としては・・・思考も差の認識なんですが、見る聞くの知覚の差の認識・・・それも直接の経緯を辿らないかもしれませんが・・・それを見ることは面白そうだ、とは思います。

No.3549 - 2011/07/11(Mon) 16:26:56

Re: 差の認識 2 / peer
>なにか嫌なことされたから苦しくて、その相手を仲間じゃないとか思う、
>そういう何だかの立場の自分をつくれない、


それは、たとえば〜
嫌がらせに対して嫌がらせで抵抗する
暴力に対して暴力で抵抗する・・・
それが普通の人の反応なのだと思うのですが、
それは
自分と他人が違う。ということに原因がある
かも知れないという気がしています。
つまり、自分は他者とは違う。自分は特別な存在。
と自分で区別したい思いが、そうさせる。ような。

もし相手と自分を区別しなくていいなら
相手と自分が同じモノとして捉えていたら
嫌がらせを嫌がらせと感じない
暴力を暴力と感じない
(つまり抵抗する〜から、嫌がらせや暴力と見る)
自然な交流がある、かも知れないと思います。

No.3550 - 2011/07/12(Tue) 01:43:29

Re: 差の認識 2 / ubik0101
たぶん特別感というのは、たとえ「自分は特別」という感情や思考がなくても、そういう人は、そういう状態。ということもあるかもしれません。

それが、その人の行動、発言、思考に現れて、やっと気がつくかもしれないことになる、ということもあるかもしれません。

たとえば、あの人は自分を特別だと思ってる、と見るその人が、そう自分を感じなくても「自分は特別」かもしれません。

かもしれません、ばかりですが・・・自分と、ほかの人が違うとか、同じとか、どちらもないところで。つまり、どちらもある可能性があるところで、とくに子供とかは、どちらにも転ばず生きてるのではないでしょうか。

でも、ほかの人との関係では、どちらに転ばず生きる範囲の限界を超えることがあります。とても期待されることも含めて、極度に虐められると、その反動で 「自分は特別」と感じることもあるでしょう。

続きます。

No.3551 - 2011/07/12(Tue) 15:25:13

Re: 差の認識 2 / ubik0101
それを正当化するために、理由なしの「自分は特別」と自分で設定して気がつかないこともあるでしょう。また、その反動として。みんな平等。みんな特別。とかも起こったりする、かもしれません。

あるいは、あんまり特別ではないのに、「自分は特別」と思考するのが、変なのかもしれません。まったく特別なら「自分は特別」の思考は生じても生じなくても無問題かもしれません。それに、ほかの人と、自分。それは違うとか同じとかいうものではないです。

でも、このように、いろいろ思考するということは、とくにどこにも転んでない何でもないところから偏ることによって、生起しています。思考も、差の認識、かもしれません。

なにか思考してるその状態と、その思考をしてないその状態を見ることは、無意味ではないと思いました。

このあたりでは道端に小さな無人の小屋があって、野菜を売っています。ビニール袋にトマト7つで、100円でした。

No.3552 - 2011/07/12(Tue) 15:32:17

Re: 差の認識 2 / peer
ほかの誰かが死んでも自分は生きてる、また自分が死んでも誰かは生きてるでしょう。
生まれる前からの過去があって、死んでからの未来がある。

↑この感覚自体が「自分は特別」であり「自分がすべての基準・中心」感覚だろうな〜と思います。
ということで「思考すること」には、常にその意識しない基準があって、それを取っ払えない・・・。
まぁ。そうして、一人ひとりが世界という構造が永遠に続いているワケですね。

No.3553 - 2011/07/13(Wed) 11:21:12

Re: 差の認識 2 / ubik0101
まあ分析すれば、です。ほかの誰かが死んでも、自分は生きてる、これだけなら、「自分は特別」かもしれません。そして、自分が死んでも誰かは生きてる。これは自分の儚さ、「自分は凡庸」ではないでしょうか。

つまり、自分は特別と、自分は凡庸、が入り交じって混乱してるのかもしれません。その混乱の基礎として、たぶん自分が生まれる前からも、死んだ後でも、世界は継続してる。という気分、感覚、観念、があるのかもしれません。

そこで実に、その思考をしてるのに気がつかない、過去、未来とかの時間の観念が「その意識しない基準」暗黙の前提になってる。つまり因果。ってこととも見れます。だって、そんなことに縛られなければ、自分だろうが誰だろうが、その生きる前とか後とか、どうでもいいです。になります。

ここも、いろいろ表現はあるでしょう。必ずしも誰かが言った表現を辿る必要はないです。それを意識化してなくても、解ってる、ということもあります。意識化する途上で、思考の性質とかを学んで、それも大切。もあります。

それで、ナスをサラダオイルで炒めて、トマトを投入、醤油、コンソメ顆粒を散らして、ちょい煮てみました。これが、なかなか、です。パスタソースみたいですが、ご飯にも合います。

No.3554 - 2011/07/13(Wed) 12:46:02

Re: 差の認識 2 / hato

今日の晩御飯は、香ばしい醤油の香り、生姜入り茄子ステーキにしました。トロトロ茄子は、なんて美味しいんでしょう。秋茄子でもいいかな・・と思いました。

自分の死んだあとに、世界が継続してる・・・してない・・・ということを、殆ど考えることができません。どうしようもなく、ある意味、そこは断絶していながら、なにか継続は、今ここで機能として辿られる・・・との感じです。

それはまったく、意識に及びようがないのだけれど、その意味での、有無の、無。とは違います。


すこし前の暑い日、森林公園に行きました。ホトトギスが鳴いて飛ぶのを初めて見て、わりと大きいのに驚きました。能楽堂のような、森林に囲まれた休憩所があって、今度は、お弁当を持っていこうといってます。

No.3555 - 2011/07/13(Wed) 23:41:05

Re: 差の認識 2 / peer
>それはまったく、意識に及びようがないのだけれど、その意味での、有無の、無。とは違います。

うんうん。
えーと。たとえば「無知」という言葉があります。
アンタは無知だ。と言われると、反応したくなるようですが・・・
侮られた〜みたいに。でも、違うんですね。
無知と言うのは、あんがい素晴らしいコトで〜状態で〜
無知だからこそ、どれほどの可能性を秘めているか。です。
無知だからこそ、無茶が出来る。なんでも出来る。無限大。

まっ。長く生きていくと、経験と知識に凝り固まって
「この程度だ」と、自分のすることが狭まります。
する前から「これは無駄だ」とかね。「失敗する」とか。
計算して、自分は賢い、と自惚れるのみで・・・。

子供の頃はナスは好きじゃなかったです。味がない。
ダイコンもそうですけど。でも、味がないから〜
どんな味にも成れるんですね。どんな料理にも使える。
アッサリも美味しい。コッテリも美味しい。
しっかりした主役にも成れるし、脇役としても貴重。

No.3556 - 2011/07/14(Thu) 02:49:34

Re: 差の認識 2 / hato

こんにちは。昨晩は、久しぶりに海に行きました。満月の夜風は、さやさやと心地よく、仕事のあとですこし疲れましたが、気持ちよかったです。隣の親子がタコを釣って、「魚釣りにきたのにタコが釣れちゃったよー」と言ってました。


>それはまったく、意識に及びようがないのだけれど、その意味での、有無の、無。とは違います。
>
> 無知と言うのは、あんがい素晴らしいコトで〜状態で〜
> 無知だからこそ、どれほどの可能性を秘めているか。



無知。たとえばその「知」、たとえばその「無」、をどこに見るか、それを言った人、受け取る人、同じでないとして、ほかの人とのやりとりでは茶飯事でしょう。そこで、もし、ほかの人の意図にことさら、関係ある・・ない・・でもなく、折々自在に受け取って役立てられるなら、とても幸せなことでは、と思います。


> まっ。長く生きていくと、経験と知識に凝り固まって


そうですかー。その意味では、否応なく凝り固まれず・・・否応なく是新たに人生です。忙しくなく忙しい・・・な具合でしょうか。

森林公園の能楽堂のような休憩所からの景色です。山中の静けさがとても気に入って、ひと休みしました。

No.3557 - 2011/07/15(Fri) 11:18:42

Re: 差の認識 2 / peer
>無知。たとえばその「知」、たとえばその「無」、をどこに見るか・・・

最近、晩婚の友人に子供が誕生しまして。
子供って無知の究極でしょう〜
それなのに、ただニコッと笑うだけで周りに幸福感を与えます。
というか〜もともと沢山〜与えるモノを持って生まれてくる。
知識で、豊富な体験で・・・とリキまなくても充分なのだわ。
な〜んて感じた次第。
ヘンに智慧がつくと、ただただ小賢しい〜みたいな〜
まっ。そこから争いみたいなものが生じるのね。というのも。

No.3558 - 2011/07/17(Sun) 03:07:28

Re: 差の認識 2 / hato

> 子供って無知の究極でしょう〜
> それなのに、ただニコッと笑うだけで周りに幸福感を与えます。
> というか〜もともと沢山〜与えるモノを持って生まれてくる。



生まれたての赤ちゃんは、ミルクの甘い香りがして、本当にかわいいですね。無知というよりは、無垢、がぴったりな感じがしますね。そうした体感に、日々の自分との差をみて、癒されたり、気付かされることがあるのかも知れません。

といって、我が家はふたりとも、子供に殆ど興味がありません。とくに子きらいでも、苦手でもないと思いますが、子供がほしい、と思ったことがないのです。自分は、とあるお母さんが、とてもかわいい子供を育んでるのをみても、その子がとても自分に懐いて、互いに大好きになって、膝に乗せて遊んでも、自分の子がほしい、とは思いませんでした。羨ましいと思うこともないのです。

夫がいなくても、妻がいなくても、子供はほしい、という人もいるのに、生物学的には問題かも知れませんね。皆がそうなら、絶滅してしまうのでしょうか。人生いろいろですが、きっと、自分がこどものようだからでしょう。

そうですね。子供は、溢れる可能性や、無垢ということを、しみじみ気付かせてくれるとしても、やはり人は成長して、その子供に帰る、ということではないと思います。知恵がついてる自分がないなら、知恵があっても、無垢でしょう。

ブライダルベールが、ハート型に見えました。

No.3559 - 2011/07/17(Sun) 23:10:33

Re: 差の認識 2 / peer
>無知というよりは、無垢、がぴったりな感じがしますね。

んんーーーと。
無垢では、面白くないんだなぁ。
無垢だと、純真とか天真爛漫とか、肯定的に受け取りやすい。
無知と見ることで、違うものが見えて来るワケで〜

子供と母親の関係は、なかなか複雑です。
赤ちゃんをジッと見ながら授乳すると五分に一度。
母体血中にオキシトシンというホルモンが分泌。
このホルモンは「特定の相手に対して愛着の形成を
促進するホルモン」とされています。
これによって「人の信頼度を高める」ことになるようでして。
他にはアルギニン、バソプレシンというものも。
たとえば、これを人工的に止めると、夫婦円満で知られる
ハツカネズミの一夫一婦制が、壊れるらしいんですね。
つまり信頼感が失われ、愛着が形成できなくなる。

オキシトシンは他にストレスホルモン分泌を抑制する
作用がありまして、赤ちゃんに授乳させているお母さんが
幸せそうに見えるのは、ここにも原因はありそうです。
夜泣きしようと、ダダをこねようと〜
ストレスを感じないように。自然は、よくしたもので・・・。

まっ。人間って、動物って〜
ホントにホルモンによって左右されるのだわ。と感じます。

No.3560 - 2011/07/19(Tue) 02:57:09

Re: 差の認識 2 / hato
> んんーーーと。
> 無垢では、面白くないんだなぁ。
> 無垢だと、純真とか天真爛漫とか、肯定的に受け取りやすい。
> 無知と見ることで、違うものが見えて来るワケで〜



なるほど、笑えました〜。peerさんはつねにチャレンジャー精神なのかも知れません。


微妙に繊細なところですが、たとえば先の話の、有無の無、でない・・・とは、この世界のなにか状態、なにか状況に照らし合わせて見ることが、とても難しいところです。世界の何かと辻褄を無理に合わせるとしたら、誤謬があるというより、なにかちぐはぐになるものかも知れません。

そして、言葉。たとえば、無明無知と、不可知或いは、未知。指し示すところは違うこと。いつかのお話ですが、言葉は摩訶不思議で、言葉自身がすでに、自ずと意味を得ているでしょう。熟語としてもそのようです。人が使ってこそ、意義を成すけれども、適正な意味が、自ずから備わっていますね。とても不思議です。

その上で、人の趣意に多く拠って利用可能なところ、そうでないところがあるでしょう。そんな感じです。


> まっ。人間って、動物って〜
> ホントにホルモンによって左右されるのだわ。と感じます。



ホルモンが先か、人が先か、はたまた・・・
というところはやはり、鶏と卵のような、お話でしょか。。

ubik(ユービック)ならぬ、yobick(ヨービック)。ubik0101さんと笑ってしまいました。ときどき、飲みます。

No.3561 - 2011/07/20(Wed) 01:34:05
差の認識 / ubik0101
いつの頃までのことだったのでしょう・・・世界は確固としたもので、たとえ自分が死んだ後でも、存続するのだと感じていたと思います。たとえば石器時代とか弥生時代とかを経て現代に至っています。そんな、知覚できない知りようがない過去によって、現代があるなら、まだ知りようのないけど未来だってあるのでしょう。

そして誰か、ソクラテスや宮沢賢治が死んでも、自分は生きています。この世界のどこかで、人は、ぽっと生じては、ぽっと消えていく、そんな雰囲気に取り巻かれて生活していたと思います。 つまり人が生きることよりも世界のほうが、どっしりと基礎にあると感じていました。

それは、でも、ほかの誰かが死んでも自分は生きてる、また自分が死んでも誰かは生きてるでしょう。と、そう思ってる自分が、とりあえずは生きてるというだけのことで、とくに世界の確固なことの根拠にはならないのです。が、なんとなく世界は不可侵の圧倒的な存在感がありました。

続きます。

No.3531 - 2011/07/06(Wed) 09:02:48

Re: 差の認識 / ubik0101
それはまず、知覚には限界があることによって、そうなのかもしれません。たとえばニュースとかを見ると、それまで名前も知らなかった外国で、知らなかった出来事が起こってたりします。見たり聞こえたりできなかったことが、見たり聞いたりできるようになったりします。そのことに気がついてる意識は自らの届く範囲の限界を感じます。

つまり、限界があるからには、その外が見えないけど・・・過去、未来という時間的にも、地理としての空間的にも・・・意識の外の世界があるんだろう、と感じていたのかもしれません。そうならば、自分が知り得る知覚できる範囲と、知り得ない、知覚できない範囲の世界があるのです。そいうことが、知覚してる自分がいなくても、世界はあるんだろう。と感じさせてたのかもしれません。

続きます。

No.3532 - 2011/07/06(Wed) 09:05:44

Re: 差の認識 / peer
ソクラテスや宮沢賢治は記録が残っているから、今も生きているように実感されます。
記録がない膨大な様々な人々・先人が、そのように生きているのを実感します。

No.3533 - 2011/07/07(Thu) 11:36:36

Re: 差の認識 / ubik0101
それで・・・知りようのない過去、未来に挟まれた、いま経験して知ることのできる、この時間。そして・・・意識の届かない知りようのない世界に囲まれた、知ることのできてる、この空間。また、知りようもない人に囲まれた、知ることのできてる自分が生きてる、そんな感じがしてたのでしょう。

そんなこともあって未知な過去や未来を知りたい、どこか遠くの未知な世界を知りたい、ほかの人のことを知りたい、そこに浪漫、好奇心を感じて、なにか科学を、数学を学びたい・・・とか思うこともあるのかもしれません。

けど、そんな気持には、この意識の範囲の中の、つまり自分の周囲の時間空間は知ってる、ということが前提にされて・・・その以前に、あるいは自分を知らないとは気づいてもいない自分・・・それが疑われてないので、自分を知ってると暗黙に誤解してることにも気がついてない自分・・・そんな有り様が、探求が意識の外に向かうあり方を成立させてるのかもしれません。

続きます。

No.3534 - 2011/07/07(Thu) 12:43:01

Re: 差の認識 / ubik0101
そこで、その自分なんですが、たとえば「自分のことは自分で判る」。というのが、どうも怪しい・・・心理的な意味の自分の気質とか性格を知るのだって、客観的な判断を要しますが、それができない。なぜできないのかも解らない、そんなもどかしさを、誰しも感じたことがあるのではないでしょうか。

そいうこともあって、自分の知らない・・・時間、空間、技術、知識、ほかの人・・・意識の外の未知を探索したい、という方向には行きませんでした。ただ自分のことを知りたい、ほとんどそのことしか人生がありませんでした。

また、おそらくは、その知りようのない意識の届かない過去や未来、知りようもない世界。を既存のこととして、いわゆる世間、社会常識、伝統、人間関係など、概念にすぎないことが、事実と見なされる、ということもありそうです。けど、そういうことを容認することにも向かいませんでした。

たぶん
ゆっくり、続きます。

No.3535 - 2011/07/07(Thu) 12:47:03

Re: 差の認識 / ubik0101
> ソクラテスや宮沢賢治は記録が残っているから、今も生きているように実感されます。
> 記録がない膨大な様々な人々・先人が、そのように生きているのを実感します。


そこで。peer・・・凝視って意味のようですが・・・さんは、自分が生きてるのを、実感しますか?

No.3536 - 2011/07/07(Thu) 12:55:46

Re: 差の認識 / peer
生きているかどうか・・・どうでしょうね。
それはそれとして。ソクラテスやイエスの言葉などは
自分で書き遺したのでなく、弟子とかが遺したのよね。
遺したい。遺さねば・・・という思いがありますね。
宮沢賢治は、自分で遺したかったのか、伝えたい強い
苦しいほどの想いがあるのを、感じます。
現代はブログなどで、誰でも自分の想いを伝えられる。
人間って〜なにか共有したい想いというものがある。
それに支えられる。生きていることを表現したい・・・?

No.3540 - 2011/07/08(Fri) 11:49:23

Re: 差の認識 / ubik0101
て、いうか。なにか言葉にするってことは、その一連の文書に、そうする動機も、おおむねですが完結されています。

なので、その投稿のほかに、なにか理由を探しても・・・ひとつふたつの個別のこととしては・・・見つからないようです。

たとえば思いを誰かに伝えたい、とか。生きてる表現、とかが動機だとしたら、それはそのまま、そう表現されるでしょう。

それに、なんでもプライベートなので、誰にも見せない秘かな日記だとしても、掲示板とかで公開しても、それで変わるようなことはないはずです。

でも気持としては・・・《ね、こんなこと見つけました。どう、面白い?》というのが、ほのかにあるように思います。

植木鉢で育ってる、ペピーノです。

No.3541 - 2011/07/08(Fri) 17:26:35

Re: 差の認識 / peer
>「自分のことは自分で判る」。というのが、どうも怪しい・・・

まぁ。そこで、そうなる。
「自分」と言うのは、何もなしでは何もない。
箱庭療法とか絵画療法・音楽療法。
なにか表現しながら、自分を見る。
ということが必要なようで。
誰かに伝えたいの根本は、自分に。だろうな〜って。

No.3542 - 2011/07/09(Sat) 09:38:08

Re: 差の認識 / ubik0101
たしかに子供の頃からそうだったのですが、たとえば親や友人の言うこと、また、なんだかの知識から・・・つまり自分の外から自分が見れない・・・そんな状態だとの認識のないまま、訳が分からまいまま生きていました。

そして、その何が何だか判らないままの自分、それはなくしちゃいけないような気がして、それを守るために、世間が嫌いとか、常識が嫌いとか、けっこう軋轢がありました。

でも、ほかの人と価値観が違うというより、価値観そのことが持てない、なので何かを立場にして社会に反抗することもできない・・・もとより価値観とかは初めからあるわけではないし学ばなくてはならないのでしょうし・・・支離滅裂・・・でした。

それで。どんなことでもない自分は、どんなことでもない自分だと表現してもそれが確定はできませんでした。たまたまですが詩を書いたり絵を描いたりしました。とくに絵は、どう描いても自画像にしかならない、とかに気がついたり、でした。

まあ、どんなことでもない自分を忘れるというか、自分を他から見るというか、自分が分裂するというか、そいうことは、けっこう思い切りというか、技術がいるようです。

ほかの人は、たやすくそうしてるように見えても、それは、みんなが互いにそう見えるだけ、ということもあるかもしれません。また、そこで終わるわけにもいかないのですが、どうやったって自分を学んでることでしょうし、そんなことも無駄ではないです。

今晩は、竹輪カレー、にしました。

No.3543 - 2011/07/09(Sat) 19:57:14

Re: 差の認識 / hato

peerさんの、「竹輪カレー」を思い出して作ってくれたみたいです。懐かしい、うまっ。なカレー。いずれにしてもカレー、いけますね。暑い夏に熱いカレーです。

No.3544 - 2011/07/09(Sat) 23:38:00

Re: 差の認識 / peer
おおっ。竹輪カレーですか。うん、美味しそう〜
かなり竹輪そのものが好きですっ。
焼いてそのままワサビ醤油をつけてアツアツを食べたり。
カレーね、昨日も今日も、昼はカレー食べました。
な〜んかカレーだけは、毎日食べても飽きません。

No.3545 - 2011/07/10(Sun) 02:45:22

Re: 差の認識 / hato

ねえ、ほんとに。我が家も3日続けてカレーでした。上の画像みたら、また食べられます。焼茄子をたっぷり入れた、野菜カレーもすきです。

暑い夏が到来。今年は蝉の声が少ない気がしますが、昨日、夏の入道雲を見ました。夜は、北斗七星展開の、夏の夜空を見ます。

暑い夏といえば、長崎からもう一枚。ubik0101さんが、お気に入りの花屋さんを撮りました。この花屋さんは、長崎に行った折、わたしも見にいきました。図書館さんと3人で行った、中華街のそばにありました。

ちょっと、素敵な風景です。

No.3546 - 2011/07/10(Sun) 23:11:32
みどりの庭から / ubik0101&hato

この庭には、とてもたくさんの、アマガエルがいます。

No.3524 - 2011/06/30(Thu) 21:46:52

Re: みどりの庭から / ubik0101&hato

上の画像は、親メダカの鉢の蓮の葉にいた、アマガエル。

こちらは、メタボンや子メダカたちのいる、大きな鉢の蓮の葉です。

No.3525 - 2011/06/30(Thu) 21:48:37

Re: みどりの庭から / ubik0101&hato

なんでも100円ショップで買った、茗荷の葉の上に、沢山の小さなアマガエルをみつけました。

居心地がよいのか?も知れません。10匹くらいはいたでしょうか。

No.3526 - 2011/06/30(Thu) 21:50:44

Re: みどりの庭から / ubik0101&hato

胡瓜の葉上にも、見つけました。皆、同じくらいの大きさなので、同じくらいに生まれた子ガエルだと思います。

No.3527 - 2011/06/30(Thu) 21:52:32

Re: みどりの庭から / ubik0101&hato

ペピーノという果物を、栽培してみました。どんな実ができるのか楽しみです。

ここにも、いました。

No.3528 - 2011/06/30(Thu) 21:54:07

Re: みどりの庭から / ubik0101&hato

車を出そうとしたら、桃の葉から、フロントガラスに落ちてきました。

小さなアマガエル、かわいいです。

No.3529 - 2011/06/30(Thu) 21:56:38

Re: みどりの庭から / ubik0101&hato

不思議の国のアマガエルです。

No.3530 - 2011/06/30(Thu) 22:01:39

Re: みどりの庭から / √咆哮
ubik0101さん
hatoさん

カエル<隠し持った虚偽>
まだいっぱいいます。
自分の『探せば見付かる』この言葉に虚偽を感じました
『誠実と不誠実
『責任と無責任』は反対の意味だと思いました。根拠にしない。

居心地がよいカエルは葉っぱ<裏表>にいました、つまりその知恵、表裏に依存してると<無知の類いに>喰われてしまうと。

目に映るソレは耳にするソレは、全部自分の成長の為にあると実感します。まだその『自分』に執着しています。
また、言います。日々精進します。

No.3537 - 2011/07/07(Thu) 13:33:07

Re: みどりの庭から / ubik0101
たしかに。探して見つかる、とある何か、ではないでしょう。そして、叩くということは開けられてないということですが、それでもたぶん叩かなければ開けられないでしょう。

そして結果としてですけど、誠実も不誠実も、責任も無責任も、怠惰も精進も、否定も肯定も、ありとあらゆる経緯の総てが不可欠だった。です。

ところで。この自分の中心に向かうに当たって、なにか頑張ったと言えるとしたら、ただ嘘を言わない、それだけだったように思います。

たしかに。どんな気分や感情に対して正直、ではない正直。どんな思考に対しての正直、ではない正直。つまり拠り所のない、根拠のない正直。その日々を白紙から始める、その『自分』に切り込む、それが求める衝動でした。

No.3538 - 2011/07/07(Thu) 15:50:32

Re: みどりの庭から / hato

今日は、七夕ですね。こちらは朝から、雨がたくさん降りました。

そういえば結婚する前に、長崎×神奈川間で毎日メールしていた頃、ubik0101さんは、長崎の街の素敵な風景をたくさん送ってくれました。七夕の頃に貰った画像でしょうか。街角で見つけたという、「ミッキーに会えますように」と書かれた短冊が、とてもほほえましいのです。


そのカエルが、きっと

不思議の国のカエルで、ありますように。

No.3539 - 2011/07/07(Thu) 22:19:55
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