なんでもいいのですが・・・たとえば、ほかの人の意見で自分は左右されない、とか・・・邪魔をする自我がなくなれば、知覚からの直接行動がある、とか・・・なにものにも依存しない、とか・・・素直、とか・・・そんな思考があります。
そこで、そういう思考と。そう思考してる人が、その思考と一致してるかは、違う話です 。 たとえば、ほかの人の意見で自分は左右されない、とか、という思考に一致していて、事実としての、ほかの人の意見で自分は左右されない、とか、と一致してないかもしれません 。このことを、ふつは、思考との同一化、と呼ぶのかもしれません。
そうでなくて。また、事実としての、 ほかの人の意見で自分は左右されない、と一致しているかもしれません。これは、思考と事実との一致であり、同一化ではなく同一、とも呼べるでしょう。
というのも・・・思考は、とんでもない機能があります。それがなんであるかはともかくとして、自我だって、無我の様子を、いくらでも思考することはできるのです。自分は世界ではなくても、自分は世界と思考できたりできます。そして思考には、それの正誤を判断する機能は付属していないのです。
続きます。
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No.3491 - 2011/06/02(Thu) 16:19:34
| ☆ Re: 思考の無関係性。 / ubik0101 | | | ここでは、その思考には一致しているのですが、その事実には一致してないということに、課題があると言えばあります。そこで、思考で、思考と事実の関係を思考しても解決は、困難です。それが確実にそうかどうかとか、一々検証するとしたら、決着はできないでしょう。
ここでは思考が、A=Aの思考かどうか?ということが焦点です。そしてA=Aならば、その思考の、あるない、には無関係です。つまり、なにかを思考することと、思考しないことが、どちらもAということを示します。つまり思考と、思考する事態は無関係。なのに、思考しないでも、その事態は失われることはない、ことの了解があります。
そのことが思考からの解放です。そんなことの理解なしには、A=Aであることは困難です。そしてこれは・・・たとえば、ほかの人の意見で自分は左右されない、とか・・・邪魔をする自我がなくなれば、知覚からの直接行動がある、とか・・・なにものにも依存しない、とか・・・素直、とか・・・どんな思考から学ぼうと無関係です。
ということの了解もあるでしょう。この思考の全体が、思考には正誤の判断機能は付属してないゆえに、思考と思考者は無関係ゆえに、できるとも言えます。
なんでも100円ショップで見つけた、タラの芽の根?から、タラの芽の芽がでました。
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No.3492 - 2011/06/02(Thu) 16:26:30 |
| ☆ Re: 思考の無関係性。 / hato | | | タラの芽は、たしかポキッと採れます。天麩羅かな・・・とか、気が早いこと。来年春の、お楽しみです。
ブライダルベールのとなりで、冬を越した風知草が、青く爽やかです。
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No.3493 - 2011/06/02(Thu) 19:39:08 |
| ☆ Re: 思考の無関係性。 / suho | | | > ここでは思考が、A=Aの思考かどうか?ということが焦点です。そしてA=Aならば、その思考の、あるない、には無関係です。つまり、なにかを思考することと、思考しないことが、どちらもAということを示します。つまり思考と、思考する事態は無関係。なのに、思考しないでも、その事態は失われることはない、ことの了解があります。
例えば、そのAを目の前の「りんご」とします。 A=Aの思考であるというのは「りんご」という「名」と実際の名づけられていないこれ(つまりその目の前の赤いまるい物体。事実。)が正確に一致している、という意味でしょうか?
例えば別の表現で。
目の前のりんごは、その目前の未知なる物体の様相が、記憶のものである「りんご」と近似している、と頭が判断したときに「りんご」と認識できます。 (ここでは言葉・記憶・イメージとしてのりんごを「りんご」とカッコつきで表現します。) それで、上のような思考による認識がなくとも、目の前の未知なる物体はあります。つまりそれが事実としてのりんご。
目前のモノは、頭の中で、記憶である「モノ」との照合という思考がされても、されなくとも、そこに変わらず存在します。
このことでしょうか?
>この思考の全体が、思考には正誤の判断機能は付属してない
ここで言われている正誤の判断というのは、つまり言葉・イメージとしての「りんご」と、事実としてのりんご(モノ)の両方を知覚している、という前提がなければ、A=Aが正しいかどうかの判断ができない、ということでしょうか?
>ゆえに、思考と思考者は無関係ゆえに、できるとも言えます。
すると、その「イメージ」と「事実」の照合があっているかどうかの判断機能は、思考それ自体ではできないので(思考は記憶以外は扱えないので)知覚が行っている、ということになりますか?そうすると「知覚」が思考者ということになるのですか? ま、ここで表現している「知覚」というのは、この言葉で表現しなくともよいものですが。
それで、A=Aが正しくないときは、たぶん「何かのトラブル」が起こります。 例えば、目の前の、事実としてのりんごに、明晰に気づいていない状態(思考への同一化)、つまり思考である「りんご」に強くとらわれている状態で、そのりんごを食べてみます。 すると思考である「りんご」と実際のそれは全く別物であることにはじめて気づきます。 事実としてのりんごは、実は本物そっくりの瀬戸物だったから。 それで「歯が欠ける」という予期せぬトラブルが起きてしまう。。
するとA=Aが正しくない状態というのは、簡単に言えば、事態に「不注意」ということでしょうか?
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No.3494 - 2011/06/02(Thu) 21:04:08 |
| ☆ Re: 思考の無関係性。 / ubik0101 | | | >A=Aの思考であるというのは「りんご」という「名」と実際の名づけられていないこれ(つまりその目の前の赤いまるい物体。事実。)が正確に一致している、という意味でしょうか?
たとえば、思考との同一化、という場合は、どこかの誰かの言葉としての思考が主に問題になるようです。これも、なんでもいいのですが・・・見るものは見られるもの・・・野の花を見よ、空の鳥を見よ、蒔かず紡がず耕さず・・・否定の否定は肯定、とか・・・そうありたいとか、権威とかとされる人の言葉、常識・・・およそは、それとの反対意見と、天秤にかけてる場合に、そんな思考との同一化が起こる場合が濃いようです。
つまりは、自分が発見した、あるいはそうとは知らずに再発見した、思考なら、同一化は起こりにくいようです。これもなんでもいいのですが・・・いまここしかない・・・万物は流転する・・・と発見した、あるいはそうと知らずに再発見した人が、その思考に同一化することは、自分で自分の真似をするのでなければ、起こりにくいと思います。
ここでは、なにかを発見、あるいは再発見したなら人は、もうすでに、その思考には捉えられてない、いい加減な言い方では、それを超えた状態にあるともいえるのです。そして同じことですが・・・まあ、たとえば、これもなんでもいいのですが・・・思うことは実現する・・・そのままの自分でいいんだよ・・・とか。なんだかの正確でない思考、それが歪んでる誤ってるゆえに人を惹きつけ縛り得る、そんな場合もあるようです。
それで、どんな言葉にも・・・ここも、なんでもいいのですが・・・自灯明、法灯明・・・思考とは、知識とか、過去の記憶・・・とかの思考に同一化したり、できなかったり、するのではないでしょうか。もちろん、まったく思考しないでも、そのような付和雷同、ほかの人に依存する、ような人の状態も問題なのかもしれません。
それで、眼の前の、りんご、その知覚とその認識、という話でないと思います。
あとは明日に、続きます。
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No.3495 - 2011/06/02(Thu) 23:05:35 |
| ☆ Re: 思考の無関係性。 / ubik0101 | | | A=Aの思考というのは、その思考がある場合の、その思考とその人との関係で言えば。たとえば、私は嘘つきである、と嘘つきが思考する。あるいは、私は正直だ。と正直な人が思考する。ということです。これは、どうやって、可能なのか?ちょっと理論的には判らないけど、そうできるのも事実ではないでしょうか。
>すると、その「イメージ」と「事実」の照合があっているかどうかの判断機能は、思考それ自体ではできないので(思考は記憶以外は扱えないので)知覚が行っている、ということになりますか?そうすると「知覚」が思考者ということになるのですか?
それは知覚者とは何?という、また違う問題に繋がります。とりあえず結論を言います。知覚されること/思考されること(見られるもの)と、そうすること(見るもの)は同じではありません。そして、違うのでもありません。
すでに2500年前に・・・同じでも違うのでもない、わたしは中道を説く・・・と仏陀が(阿含経で)言ってるそのことです。これは、知覚者は、そんな相にはないという意味です。ここでは、自己は知覚の領域にはないので、自分で自分を知覚不能と言います。無相の自己、とか。どうして舌が無味でなくて味が分かるだろう、という表現もあります。
それで知覚といっても、それは、たとえば蝶や蜂ではなく人としての知覚です。もし客観というものがあるとしても、それが主観となり得るほどの完全な知覚ではないのではないでしょうか。それが、照合できるのか、正確なものなのか?ということも、不明です。これは探るほどに混迷を深めるかも知れません。その、不確定ゆえに・・・人は世界に生きていながら、世界に依存しない・・・ことが可能ということを感じます。
ほとんどKの書は読んでいませんが・・・見るものは見られるもの、意識とはその内容・・・という表現があります。これは・・・その中心がない、主体がない・・・無我を前提にしています。これは、ほとんどA=Aです。これも無我が前提です。でも、その、主体がない、ということは主体は主体を知覚できない、というような意味でしかない、と捉えています。
ここは自我がない、ということを見破る、察知する。のは、何者?という疑問でもあります。もちろん、ないがないを察知する、というのもありなんですが。ここでは、無我を察知するのは、自覚できない自己。それを見逃してはならない、というのが主旨といえば主旨です。
たとえば見る聞くという・・・知覚とその対象・・・だけの範疇なら、見るものは見られるもの、意識はその内容。それだけです。自分は世界、です。知覚を離れて世界はありません。そうでなく・・・意識とその対象・・・も含めた一切・・・は、それだけとは言えない、です。
もちろん、知覚とその対象、意識とその対象・・・一切・・・は、どちらも知覚です。それで、りんごとその認識、という疑問が成立するのかもしれません。ここでは、意識とその対象、よりの疑問を探ってる、とも言えそうです。
> するとA=Aが正しくない状態というのは、簡単に言えば、事態に「不注意」ということでしょうか?
それがどうして起こり得るか、という意味での不注意は、とても微妙な問題です。ここで言ってる、反応、つまり自我と自覚できないでも自我。そのあたりまで探る必要を感じます。
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No.3496 - 2011/06/03(Fri) 08:53:06 |
| ☆ Re: 思考の無関係性。 / suho | | | > A=Aの思考というのは、その思考がある場合の、その思考とその人との関係で言えば。たとえば、私は嘘つきである、と嘘つきが思考する。あるいは、私は正直だ。と正直な人が思考する。ということです。これは、どうやって、可能なのか?ちょっと理論的には判らないけど、そうできるのも事実ではないでしょうか。
うむむむ。。これは理解できそうで理解できません。 「思考」と「思考をする人の性質」の関係、というのは、概念上で思考できることは確かに事実ですが。。たぶん僕が使っているのとは違う意味で「事実」を使われているのでしょう。
> それは知覚者とは何?という、また違う問題に繋がります。とりあえず結論を言います。知覚されること/思考されること(見られるもの)と、そうすること(見るもの)は同じではありません。そして、違うのでもありません。 > すでに2500年前に・・・同じでも違うのでもない、わたしは中道を説く・・・と仏陀が(阿含経で)言ってるそのことです。これは、知覚者は、そんな相にはないという意味です。ここでは、自己は知覚の領域にはないので、自分で自分を知覚不能と言います。無相の自己、とか。どうして舌が無味でなくて味が分かるだろう、という表現もあります。
それを「中道」と表現されていたのですね。 確か前にも書きましたが僕は「自己」という言葉は持っていません。表現不能です。以前にこの問題(つまり究極の主体・客体関係)に取り組んだことがありますが、思考・解釈では無理というか、それは思考の域を出ないと心底実感したので、そこを探るエネルギーはすっかりなくなりました。たしかブッダは「不記」とも表現されていませんでしたか? ※追記:すみません「不記」ではなく「無記」が正しいようでした。
> ほとんどKの書は読んでいませんが・・・見るものは見られるもの、意識とはその内容・・・という表現があります。これは・・・その中心がない、主体がない・・・無我を前提にしています。これは、ほとんどA=Aです。これも無我が前提です。でも、その、主体がない、ということは主体は主体を知覚できない、というような意味でしかない、と捉えています。
眼球は眼球それ自体を見ることはできないと。。 やっぱりここは思考では無理と感じます。
>自覚できない自己。それを見逃してはならない、というのが主旨といえば主旨です。
素朴な疑問としては、「自覚できないもの」を見逃してはならない、という意味がよくわかりません。「自覚できないことの自覚」でしたらわかりますが。。 > たとえば見る聞くという・・・知覚とその対象・・・だけの範疇なら、見るものは見られるもの、意識はその内容。それだけです。自分は世界、です。知覚を離れて世界はありません。そうでなく・・・意識とその対象・・・も含めた一切・・・は、それだけとは言えない、です。 > もちろん、知覚とその対象、意識とその対象・・・一切・・・は、どちらも知覚です。それで、りんごとその認識、という疑問が成立するのかもしれません。ここでは、意識とその対象、よりの疑問を探ってる、とも言えそうです。
僕にとっては、知覚、意識を超えたところ、というのは、全く知らない、知り得ないとしか言えません。そして「知覚とその対象、意識とその対象」という主客にわけた表現は、僕にとっては思考、概念、であるのが事実です。
主体と客体というのはないから、見る者は見られるものという表現も違和感がありますし、かといって主体は自覚できないけどあるのだ、という表現も違和感があり、よって僕の場合そこは「・・・」です。
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No.3497 - 2011/06/03(Fri) 09:57:26 |
| ☆ Re: 思考の無関係性。 / ubik0101 | | | >それを「中道」と表現されていたのですね。 >確か前にも書きましたが僕は「自己」という言葉は持っていません。表現不能です。以前にこの問題(つまり究極の主体・客体関係)に取り組んだことがありますが、思考・解釈では無理というか、それは思考の域を出ないと心底実感したので、そこを探るエネルギーはすっかりなくなりました。たしかブッダは「不記」とも表現されていませんでしたか?
まず、中道、とは。世界の総活動のことです。ありとあらゆること、怒り、悲しみ、慈しみ、優。劣、好き、嫌い、善、悪・・・あることと、その類似のことと、その反対のことと、無関係なこと・・が一気に活動してるならどうでしょう。その、どこか個別のことには偏ることができません。
そのことを説明するのに、たとえば善悪の両極端にも、その中間にも偏ることができません・・・その意味で善悪はない・・・と言えるということです。もちろん因果の概念も成立しません。そして、その世界の総活動を察知してるのが、自己です。それは、世界の総活動の相・・・それは普通の日常とほとんど変わりませんが・・・そこにはない、と言います。
それで、中道を理解したうえで、見られるものは見るものでも、でもないでもない、両極端ではない、と言えます。「不記」?無記という言葉を、 いまネットで検索したら、仏陀は答えなかった、という意味だそうです。
>眼球は眼球それ自体を見ることはできないと。。 >やっぱりここは思考では無理と感じます。
ここは思考では無理と、思考が感じたのでしょうか?無理と感じたのは、思考でないなら、なんでしょう?
>僕にとっては、知覚、意識を超えたところ、というのは、全く知らない、知り得ないとしか言えません。
おなじことですが、その「僕」って何?ということです。「全く知らない、知り得ない」と、感じたのは、何?です。思考で無理なら、なんなら可能?です。
これに、まったく手掛かりがないというわけではないです。とりあえずは、ここで言う、反応、です。
たとえばsuhoさんの投稿に返信を書いてる、この反応、です。パソコンを打ってる、なにか知覚してる、思考してる、そこで生起してる、反応、です。
>そして「知覚とその対象、意識とその対象」という主客にわけた表現は、僕にとっては思考、概念、であるのが事実です。 >主体と客体というのはないから、見る者は見られるものという表現も違和感がありますし、かといって主体は自覚できないけどあるのだ、という表現も違和感があり、よって僕の場合そこは「・・・」です。
それは、知覚と、その対象。が同じでも違うでもない、ほかの言い方では、主客に分ける、分けられない、どちらでもある、どっちでもない、も言えない、ゆえに思考できるということです。主客にわけた表現ではないと思います。
ここは、主体だけ、客体だけ、どちらかなら思考もできない・・・とも言えます。この世界は、 完全な融合、完全な分離もない、です。 そして、こう理解できるのはなぜ?こう理解してるのは何?です。
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No.3498 - 2011/06/03(Fri) 14:32:37 |
| ☆ Re: 思考の無関係性。 / suho | | | >ここは思考では無理と、思考が感じたのでしょうか?無理と感じたのは、思考でないなら、なんでしょう? >おなじことですが、その「僕」って何?ということです。「全く知らない、知り得ない」と、感じたのは、何?です。思考で無理なら、なんなら可能?です。
「僕」というのは「これ」の記号です。で「僕(これ)って何?」という疑問は、精神(思考・記憶)が問うのです。それは、その「分からない状態」にそのまま落ち着けないので、何かをつかみたくて、落ち着きたくて、問うのです。 つまり「わからない不安」からの逃避です。 で、答えを求め、いかようにでも考えられる思考領域に入り、知覚全体からはなれてしまいます。この思考運動にとらわれることで生じる「偏り」「違和感」「抵抗感」を体験したので、もう自然とそこには入れない、という感じです。 それは目にゴミが入りそうになったときに、咄嗟に瞼がゴミをはらう類の感じです。
>これに、まったく手掛かりがないというわけではないです。とりあえずは、ここで言う、反応、です。 >たとえばsuhoさんの投稿に返信を書いてる、この反応、です。パソコンを打ってる、なにか知覚してる、思考してる、そこで生起してる、反応、です。
反応は、知覚の一部です。その反応が起きていることは事実です。 で、その反応、それだけです。
>それは、知覚と、その対象。が同じでも違うでもない、ほかの言い方では、主客に分ける、分けられない、どちらでもある、どっちでもない、も言えない、ゆえに思考できるということです。主客にわけた表現ではないと思います。
うーん。なぜ思考できるかの理由はわかりません。僕にとって、それは「指がなぜ5本あるのか?」という問いと同じ質のものです。思考は既に機能しているもの、としか言えません。
>ここは、主体だけ、客体だけ、どちらかなら思考もできない・・・とも言えます。この世界は、 完全な融合、完全な分離もない、です。 そして、こう理解できるのはなぜ?こう理解してるのは何?です。
ここで問われることも、上記と同様です。 その「問い」が湧かないし、ubi さんに問われても、それを考える運動に入れない、というのが実際です。
それともubiさんは、suhoさんならそれをどのようにイメージし、どのように名付けるのか?と聞いているのでしょうか?
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No.3499 - 2011/06/03(Fri) 19:27:54 |
| ☆ Re: 思考の無関係性。 / suho | | | > それともubiさんは、suhoさんならそれをどのようにイメージし、どのように名付けるのか?と聞いているのでしょうか?
であるならば、こう言います。
「ただただ創造。ただただ愛。」です。
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No.3500 - 2011/06/03(Fri) 19:40:35 |
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