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思考の無関係性。 / ubik0101
なんでもいいのですが・・・たとえば、ほかの人の意見で自分は左右されない、とか・・・邪魔をする自我がなくなれば、知覚からの直接行動がある、とか・・・なにものにも依存しない、とか・・・素直、とか・・・そんな思考があります。

そこで、そういう思考と。そう思考してる人が、その思考と一致してるかは、違う話です 。 たとえば、ほかの人の意見で自分は左右されない、とか、という思考に一致していて、事実としての、ほかの人の意見で自分は左右されない、とか、と一致してないかもしれません 。このことを、ふつは、思考との同一化、と呼ぶのかもしれません。

そうでなくて。また、事実としての、 ほかの人の意見で自分は左右されない、と一致しているかもしれません。これは、思考と事実との一致であり、同一化ではなく同一、とも呼べるでしょう。

というのも・・・思考は、とんでもない機能があります。それがなんであるかはともかくとして、自我だって、無我の様子を、いくらでも思考することはできるのです。自分は世界ではなくても、自分は世界と思考できたりできます。そして思考には、それの正誤を判断する機能は付属していないのです。

続きます。

No.3491 - 2011/06/02(Thu) 16:19:34

Re: 思考の無関係性。 / ubik0101
ここでは、その思考には一致しているのですが、その事実には一致してないということに、課題があると言えばあります。そこで、思考で、思考と事実の関係を思考しても解決は、困難です。それが確実にそうかどうかとか、一々検証するとしたら、決着はできないでしょう。

ここでは思考が、A=Aの思考かどうか?ということが焦点です。そしてA=Aならば、その思考の、あるない、には無関係です。つまり、なにかを思考することと、思考しないことが、どちらもAということを示します。つまり思考と、思考する事態は無関係。なのに、思考しないでも、その事態は失われることはない、ことの了解があります。

そのことが思考からの解放です。そんなことの理解なしには、A=Aであることは困難です。そしてこれは・・・たとえば、ほかの人の意見で自分は左右されない、とか・・・邪魔をする自我がなくなれば、知覚からの直接行動がある、とか・・・なにものにも依存しない、とか・・・素直、とか・・・どんな思考から学ぼうと無関係です。

ということの了解もあるでしょう。この思考の全体が、思考には正誤の判断機能は付属してないゆえに、思考と思考者は無関係ゆえに、できるとも言えます。

なんでも100円ショップで見つけた、タラの芽の根?から、タラの芽の芽がでました。

No.3492 - 2011/06/02(Thu) 16:26:30

Re: 思考の無関係性。 / hato

タラの芽は、たしかポキッと採れます。天麩羅かな・・・とか、気が早いこと。来年春の、お楽しみです。

ブライダルベールのとなりで、冬を越した風知草が、青く爽やかです。

No.3493 - 2011/06/02(Thu) 19:39:08

Re: 思考の無関係性。 / suho
> ここでは思考が、A=Aの思考かどうか?ということが焦点です。そしてA=Aならば、その思考の、あるない、には無関係です。つまり、なにかを思考することと、思考しないことが、どちらもAということを示します。つまり思考と、思考する事態は無関係。なのに、思考しないでも、その事態は失われることはない、ことの了解があります。

例えば、そのAを目の前の「りんご」とします。
A=Aの思考であるというのは「りんご」という「名」と実際の名づけられていないこれ(つまりその目の前の赤いまるい物体。事実。)が正確に一致している、という意味でしょうか?

例えば別の表現で。

目の前のりんごは、その目前の未知なる物体の様相が、記憶のものである「りんご」と近似している、と頭が判断したときに「りんご」と認識できます。
(ここでは言葉・記憶・イメージとしてのりんごを「りんご」とカッコつきで表現します。)
それで、上のような思考による認識がなくとも、目の前の未知なる物体はあります。つまりそれが事実としてのりんご。

目前のモノは、頭の中で、記憶である「モノ」との照合という思考がされても、されなくとも、そこに変わらず存在します。

このことでしょうか?

>この思考の全体が、思考には正誤の判断機能は付属してない

ここで言われている正誤の判断というのは、つまり言葉・イメージとしての「りんご」と、事実としてのりんご(モノ)の両方を知覚している、という前提がなければ、A=Aが正しいかどうかの判断ができない、ということでしょうか?

>ゆえに、思考と思考者は無関係ゆえに、できるとも言えます。

すると、その「イメージ」と「事実」の照合があっているかどうかの判断機能は、思考それ自体ではできないので(思考は記憶以外は扱えないので)知覚が行っている、ということになりますか?そうすると「知覚」が思考者ということになるのですか?
ま、ここで表現している「知覚」というのは、この言葉で表現しなくともよいものですが。

それで、A=Aが正しくないときは、たぶん「何かのトラブル」が起こります。
例えば、目の前の、事実としてのりんごに、明晰に気づいていない状態(思考への同一化)、つまり思考である「りんご」に強くとらわれている状態で、そのりんごを食べてみます。
すると思考である「りんご」と実際のそれは全く別物であることにはじめて気づきます。
事実としてのりんごは、実は本物そっくりの瀬戸物だったから。
それで「歯が欠ける」という予期せぬトラブルが起きてしまう。。

するとA=Aが正しくない状態というのは、簡単に言えば、事態に「不注意」ということでしょうか?

No.3494 - 2011/06/02(Thu) 21:04:08

Re: 思考の無関係性。 / ubik0101
>A=Aの思考であるというのは「りんご」という「名」と実際の名づけられていないこれ(つまりその目の前の赤いまるい物体。事実。)が正確に一致している、という意味でしょうか?

たとえば、思考との同一化、という場合は、どこかの誰かの言葉としての思考が主に問題になるようです。これも、なんでもいいのですが・・・見るものは見られるもの・・・野の花を見よ、空の鳥を見よ、蒔かず紡がず耕さず・・・否定の否定は肯定、とか・・・そうありたいとか、権威とかとされる人の言葉、常識・・・およそは、それとの反対意見と、天秤にかけてる場合に、そんな思考との同一化が起こる場合が濃いようです。

つまりは、自分が発見した、あるいはそうとは知らずに再発見した、思考なら、同一化は起こりにくいようです。これもなんでもいいのですが・・・いまここしかない・・・万物は流転する・・・と発見した、あるいはそうと知らずに再発見した人が、その思考に同一化することは、自分で自分の真似をするのでなければ、起こりにくいと思います。

ここでは、なにかを発見、あるいは再発見したなら人は、もうすでに、その思考には捉えられてない、いい加減な言い方では、それを超えた状態にあるともいえるのです。そして同じことですが・・・まあ、たとえば、これもなんでもいいのですが・・・思うことは実現する・・・そのままの自分でいいんだよ・・・とか。なんだかの正確でない思考、それが歪んでる誤ってるゆえに人を惹きつけ縛り得る、そんな場合もあるようです。

それで、どんな言葉にも・・・ここも、なんでもいいのですが・・・自灯明、法灯明・・・思考とは、知識とか、過去の記憶・・・とかの思考に同一化したり、できなかったり、するのではないでしょうか。もちろん、まったく思考しないでも、そのような付和雷同、ほかの人に依存する、ような人の状態も問題なのかもしれません。

それで、眼の前の、りんご、その知覚とその認識、という話でないと思います。

あとは明日に、続きます。

No.3495 - 2011/06/02(Thu) 23:05:35

Re: 思考の無関係性。 / ubik0101
A=Aの思考というのは、その思考がある場合の、その思考とその人との関係で言えば。たとえば、私は嘘つきである、と嘘つきが思考する。あるいは、私は正直だ。と正直な人が思考する。ということです。これは、どうやって、可能なのか?ちょっと理論的には判らないけど、そうできるのも事実ではないでしょうか。

>すると、その「イメージ」と「事実」の照合があっているかどうかの判断機能は、思考それ自体ではできないので(思考は記憶以外は扱えないので)知覚が行っている、ということになりますか?そうすると「知覚」が思考者ということになるのですか?

それは知覚者とは何?という、また違う問題に繋がります。とりあえず結論を言います。知覚されること/思考されること(見られるもの)と、そうすること(見るもの)は同じではありません。そして、違うのでもありません。

すでに2500年前に・・・同じでも違うのでもない、わたしは中道を説く・・・と仏陀が(阿含経で)言ってるそのことです。これは、知覚者は、そんな相にはないという意味です。ここでは、自己は知覚の領域にはないので、自分で自分を知覚不能と言います。無相の自己、とか。どうして舌が無味でなくて味が分かるだろう、という表現もあります。

それで知覚といっても、それは、たとえば蝶や蜂ではなく人としての知覚です。もし客観というものがあるとしても、それが主観となり得るほどの完全な知覚ではないのではないでしょうか。それが、照合できるのか、正確なものなのか?ということも、不明です。これは探るほどに混迷を深めるかも知れません。その、不確定ゆえに・・・人は世界に生きていながら、世界に依存しない・・・ことが可能ということを感じます。

ほとんどKの書は読んでいませんが・・・見るものは見られるもの、意識とはその内容・・・という表現があります。これは・・・その中心がない、主体がない・・・無我を前提にしています。これは、ほとんどA=Aです。これも無我が前提です。でも、その、主体がない、ということは主体は主体を知覚できない、というような意味でしかない、と捉えています。

ここは自我がない、ということを見破る、察知する。のは、何者?という疑問でもあります。もちろん、ないがないを察知する、というのもありなんですが。ここでは、無我を察知するのは、自覚できない自己。それを見逃してはならない、というのが主旨といえば主旨です。

たとえば見る聞くという・・・知覚とその対象・・・だけの範疇なら、見るものは見られるもの、意識はその内容。それだけです。自分は世界、です。知覚を離れて世界はありません。そうでなく・・・意識とその対象・・・も含めた一切・・・は、それだけとは言えない、です。

もちろん、知覚とその対象、意識とその対象・・・一切・・・は、どちらも知覚です。それで、りんごとその認識、という疑問が成立するのかもしれません。ここでは、意識とその対象、よりの疑問を探ってる、とも言えそうです。

> するとA=Aが正しくない状態というのは、簡単に言えば、事態に「不注意」ということでしょうか?

それがどうして起こり得るか、という意味での不注意は、とても微妙な問題です。ここで言ってる、反応、つまり自我と自覚できないでも自我。そのあたりまで探る必要を感じます。

No.3496 - 2011/06/03(Fri) 08:53:06

Re: 思考の無関係性。 / suho
> A=Aの思考というのは、その思考がある場合の、その思考とその人との関係で言えば。たとえば、私は嘘つきである、と嘘つきが思考する。あるいは、私は正直だ。と正直な人が思考する。ということです。これは、どうやって、可能なのか?ちょっと理論的には判らないけど、そうできるのも事実ではないでしょうか。

うむむむ。。これは理解できそうで理解できません。
「思考」と「思考をする人の性質」の関係、というのは、概念上で思考できることは確かに事実ですが。。たぶん僕が使っているのとは違う意味で「事実」を使われているのでしょう。

> それは知覚者とは何?という、また違う問題に繋がります。とりあえず結論を言います。知覚されること/思考されること(見られるもの)と、そうすること(見るもの)は同じではありません。そして、違うのでもありません。
> すでに2500年前に・・・同じでも違うのでもない、わたしは中道を説く・・・と仏陀が(阿含経で)言ってるそのことです。これは、知覚者は、そんな相にはないという意味です。ここでは、自己は知覚の領域にはないので、自分で自分を知覚不能と言います。無相の自己、とか。どうして舌が無味でなくて味が分かるだろう、という表現もあります。


それを「中道」と表現されていたのですね。
確か前にも書きましたが僕は「自己」という言葉は持っていません。表現不能です。以前にこの問題(つまり究極の主体・客体関係)に取り組んだことがありますが、思考・解釈では無理というか、それは思考の域を出ないと心底実感したので、そこを探るエネルギーはすっかりなくなりました。たしかブッダは「不記」とも表現されていませんでしたか?
※追記:すみません「不記」ではなく「無記」が正しいようでした。

> ほとんどKの書は読んでいませんが・・・見るものは見られるもの、意識とはその内容・・・という表現があります。これは・・・その中心がない、主体がない・・・無我を前提にしています。これは、ほとんどA=Aです。これも無我が前提です。でも、その、主体がない、ということは主体は主体を知覚できない、というような意味でしかない、と捉えています。

眼球は眼球それ自体を見ることはできないと。。
やっぱりここは思考では無理と感じます。

>自覚できない自己。それを見逃してはならない、というのが主旨といえば主旨です。

素朴な疑問としては、「自覚できないもの」を見逃してはならない、という意味がよくわかりません。「自覚できないことの自覚」でしたらわかりますが。。
> たとえば見る聞くという・・・知覚とその対象・・・だけの範疇なら、見るものは見られるもの、意識はその内容。それだけです。自分は世界、です。知覚を離れて世界はありません。そうでなく・・・意識とその対象・・・も含めた一切・・・は、それだけとは言えない、です。
> もちろん、知覚とその対象、意識とその対象・・・一切・・・は、どちらも知覚です。それで、りんごとその認識、という疑問が成立するのかもしれません。ここでは、意識とその対象、よりの疑問を探ってる、とも言えそうです。


僕にとっては、知覚、意識を超えたところ、というのは、全く知らない、知り得ないとしか言えません。そして「知覚とその対象、意識とその対象」という主客にわけた表現は、僕にとっては思考、概念、であるのが事実です。

主体と客体というのはないから、見る者は見られるものという表現も違和感がありますし、かといって主体は自覚できないけどあるのだ、という表現も違和感があり、よって僕の場合そこは「・・・」です。

No.3497 - 2011/06/03(Fri) 09:57:26

Re: 思考の無関係性。 / ubik0101
>それを「中道」と表現されていたのですね。
>確か前にも書きましたが僕は「自己」という言葉は持っていません。表現不能です。以前にこの問題(つまり究極の主体・客体関係)に取り組んだことがありますが、思考・解釈では無理というか、それは思考の域を出ないと心底実感したので、そこを探るエネルギーはすっかりなくなりました。たしかブッダは「不記」とも表現されていませんでしたか?


まず、中道、とは。世界の総活動のことです。ありとあらゆること、怒り、悲しみ、慈しみ、優。劣、好き、嫌い、善、悪・・・あることと、その類似のことと、その反対のことと、無関係なこと・・が一気に活動してるならどうでしょう。その、どこか個別のことには偏ることができません。

そのことを説明するのに、たとえば善悪の両極端にも、その中間にも偏ることができません・・・その意味で善悪はない・・・と言えるということです。もちろん因果の概念も成立しません。そして、その世界の総活動を察知してるのが、自己です。それは、世界の総活動の相・・・それは普通の日常とほとんど変わりませんが・・・そこにはない、と言います。

それで、中道を理解したうえで、見られるものは見るものでも、でもないでもない、両極端ではない、と言えます。「不記」?無記という言葉を、 いまネットで検索したら、仏陀は答えなかった、という意味だそうです。

>眼球は眼球それ自体を見ることはできないと。。
>やっぱりここは思考では無理と感じます。


ここは思考では無理と、思考が感じたのでしょうか?無理と感じたのは、思考でないなら、なんでしょう?

>僕にとっては、知覚、意識を超えたところ、というのは、全く知らない、知り得ないとしか言えません。

おなじことですが、その「僕」って何?ということです。「全く知らない、知り得ない」と、感じたのは、何?です。思考で無理なら、なんなら可能?です。

これに、まったく手掛かりがないというわけではないです。とりあえずは、ここで言う、反応、です。

たとえばsuhoさんの投稿に返信を書いてる、この反応、です。パソコンを打ってる、なにか知覚してる、思考してる、そこで生起してる、反応、です。

>そして「知覚とその対象、意識とその対象」という主客にわけた表現は、僕にとっては思考、概念、であるのが事実です。
>主体と客体というのはないから、見る者は見られるものという表現も違和感がありますし、かといって主体は自覚できないけどあるのだ、という表現も違和感があり、よって僕の場合そこは「・・・」です。


それは、知覚と、その対象。が同じでも違うでもない、ほかの言い方では、主客に分ける、分けられない、どちらでもある、どっちでもない、も言えない、ゆえに思考できるということです。主客にわけた表現ではないと思います。

ここは、主体だけ、客体だけ、どちらかなら思考もできない・・・とも言えます。この世界は、 完全な融合、完全な分離もない、です。 そして、こう理解できるのはなぜ?こう理解してるのは何?です。

No.3498 - 2011/06/03(Fri) 14:32:37

Re: 思考の無関係性。 / suho
>ここは思考では無理と、思考が感じたのでしょうか?無理と感じたのは、思考でないなら、なんでしょう?
>おなじことですが、その「僕」って何?ということです。「全く知らない、知り得ない」と、感じたのは、何?です。思考で無理なら、なんなら可能?です。


「僕」というのは「これ」の記号です。で「僕(これ)って何?」という疑問は、精神(思考・記憶)が問うのです。それは、その「分からない状態」にそのまま落ち着けないので、何かをつかみたくて、落ち着きたくて、問うのです。
つまり「わからない不安」からの逃避です。
で、答えを求め、いかようにでも考えられる思考領域に入り、知覚全体からはなれてしまいます。この思考運動にとらわれることで生じる「偏り」「違和感」「抵抗感」を体験したので、もう自然とそこには入れない、という感じです。
それは目にゴミが入りそうになったときに、咄嗟に瞼がゴミをはらう類の感じです。

>これに、まったく手掛かりがないというわけではないです。とりあえずは、ここで言う、反応、です。
>たとえばsuhoさんの投稿に返信を書いてる、この反応、です。パソコンを打ってる、なにか知覚してる、思考してる、そこで生起してる、反応、です。


反応は、知覚の一部です。その反応が起きていることは事実です。
で、その反応、それだけです。

>それは、知覚と、その対象。が同じでも違うでもない、ほかの言い方では、主客に分ける、分けられない、どちらでもある、どっちでもない、も言えない、ゆえに思考できるということです。主客にわけた表現ではないと思います。

うーん。なぜ思考できるかの理由はわかりません。僕にとって、それは「指がなぜ5本あるのか?」という問いと同じ質のものです。思考は既に機能しているもの、としか言えません。

>ここは、主体だけ、客体だけ、どちらかなら思考もできない・・・とも言えます。この世界は、 完全な融合、完全な分離もない、です。 そして、こう理解できるのはなぜ?こう理解してるのは何?です。

ここで問われることも、上記と同様です。
その「問い」が湧かないし、ubi さんに問われても、それを考える運動に入れない、というのが実際です。

それともubiさんは、suhoさんならそれをどのようにイメージし、どのように名付けるのか?と聞いているのでしょうか?

No.3499 - 2011/06/03(Fri) 19:27:54

Re: 思考の無関係性。 / suho
> それともubiさんは、suhoさんならそれをどのようにイメージし、どのように名付けるのか?と聞いているのでしょうか?

であるならば、こう言います。

「ただただ創造。ただただ愛。」です。

No.3500 - 2011/06/03(Fri) 19:40:35
(No Subject) / suho

「ある」と「ない」をまぜるとすごいことになります。。

No.3480 - 2011/05/31(Tue) 23:28:41

Re: / ubik0101&hato
もう、混じってるんですけど・・・だま・・・があります。

ubik0101

ある・・・ない・・・そう・・・でもない。表現不可能、不確実膨大無尽蔵のその様相は、全体。として一括りにすることが、ときに可能・・・ときに不可能・・・そもそも、無理・・・と、思いました。

hato

金芽柘植に、クリーム色の、小さな花が咲いてます。

No.3482 - 2011/06/01(Wed) 01:37:24

Re: / suho
たしかubiさんは前提の前提を掘り起す、というようなことを書かれていましたね。。

頭は思っている以上に石頭のようで。。
頭で自ら頭突きしながら頭を掘り進んでいくと、見つけてはいけなかったウラン鉱石のようなものを見つけてしまうのかもしれません。。

なので、まずは、この思っている以上のこの石頭を、腰をすえて素直に味わっちゃうのがいいのか?

見えるの不思議。。
聞こえるの不思議。。
考えるの不思議。。
出てくるの不思議。。
知りたいの不思議。。

不思議と、不思議それ自体に素直に語らせるほうがオモロイのは間違いない。。

あ、それが人か。。

No.3483 - 2011/06/01(Wed) 07:01:18

Re: / suho
改めて。。

> これだけと言えば、これだけです。既知も、未知です。

これ、やっぱり、凄いですね。。

No.3484 - 2011/06/01(Wed) 10:15:17

Re: / ubik0101
ま、それはそれとして・・・「このカレーには人参が入っています」。という表現に、奇妙さを感じないでしょうか?

このカレーは、たとえば人参だけを個別のこととして取り出すと、もうそのカレーではなくなります。

なので、その人参がその部分ではありません。でも、人参が全部でもないような気がします。そんな不可能を可能にした宇宙のような、奇跡のカレーです。

No.3485 - 2011/06/01(Wed) 12:33:05

Re: / suho

それは奇跡です。

「このカレーにはカレーが入っていません」くらいの奇跡です!

No.3486 - 2011/06/01(Wed) 14:29:29

Re: / ubik0101
きゃはは。じゃ。 これは、なぜ、これ?
No.3487 - 2011/06/01(Wed) 17:21:19

Re: / suho
あ、これですかぁ?うーん。
たぶんそれほどでもないと思いますよぉ〜。
ただ、ちょっとギリかぁ〜。
あ、イテッ。噛むなよぉ。

No.3488 - 2011/06/01(Wed) 18:13:40

Re: / ubik0101
ちょっと居留守します。
No.3489 - 2011/06/01(Wed) 18:36:44

Re: / hato

人は、片腹痛いところは、つい無視したくなるものかも知れません。でも、なぜ、そうか。の、そこを避けてしまうと、どうしても、いけません。

人は、素直。
これが一番大事。なのでした。


今日は、二十日大根がふたつ、収穫されました。とても可愛い具合に、大喜び。食べてみたらすこし柔らかめ、優しい、歯ざわりでした。

No.3490 - 2011/06/01(Wed) 20:34:12
自我の研究《概観》 / ubik0101
まあ,自我を研究するのは,自我です。それから開放されても,そいう研究ができるのは,自我が削除されたのではなく・・・失われることは何もなく・・・完成だからです。

それを,たとえば,ない,と呼べます。たとえばパズルが完成したら,パズルとしては機能し,ない,です。パズルとして(部分と部分との関係が)機能すれば,まだ迷い遊ぶことができるので,ある。です。

その完成という意味での,ない・・・無我・・・から見ると,なんかわけの判らない無明とかの原因があるのではなく,自我は,心理的思考,葛藤,(まだ完成してないパズルの部分と部分との混乱した関係・・・分離)そのことに見えてしまいます。

なので,心理的思考,葛藤とかがなければ,自我がないと見えてしまいますが,それはそう見えるだけで実際とは違います。これは困ったものですが,そう見えることに自我のまま追従してしまうこともできるようです。

まあ,いわゆる心理的思考,葛藤の仕組みとは。なにか原因があって,結果があって,それを時間が繋いでる。と,自覚する自覚しないには無関係に。その範疇で運動する思考・・・それは誤った因果関係としての思考。に,ほとんど帰せられるようです。つまり自我とは,因果関係を闇の中で手探りで学んでること,とも言えます。

そして一般的に言う因果関係は,世界の総活動,縁起,中道を,思考によって捉えなおしたことです。思考による演繹であり,事実ではなく,なにかのもの、ことを世界から切り取ったとして思考されてて、空想です。もちろんそれは削除はされませんが、自我の機能です。

そしてこんなことは,完全な分離(そのものとして独立)でも,完全な融合(総ては一つ)もない,パズルの独立した部分でも完全に完成してしまってるものでもない,この世界ゆえに可能です。これ全体を,ひとつ,とは呼んでも,やはり思考による演繹です。

ところで、たしかに。この世界限定ならば・・・完全な,あるとない,は識別不可能です。この世界に生きてこの世界に依存しないなら,その,あるない,は明確です。それは,でも知覚の領域にないので,説明は困難です。

おおよそは,日常で,こんなことを思考によって辿っているのだと思います。その道すがら,思考の正確さは,あるいは、どのように曖昧かを見ることは、必要です。

この雨上がり・・・まだ青いトマトです。

No.3471 - 2011/05/30(Mon) 10:21:12

Re: 自我の研究《概観》 / suho
> まあ,自我を研究するのは,自我です。それから開放されても,そいう研究ができるのは,自我が削除されたのではなく・・・失われることは何もなく・・・完成だからです。

その自我と定義しているのも思考と感じます。
ubiさんが思考運動(断片データの運動)のなにを定義として自我としているのかが見えませんが(おそらく全体運動と連携せず、ループし、閉塞している運動のそれを指しているような気もしますが)、思考の運動は、それ自体が成長するとか、完成するようには思えません。

> それを,たとえば,ない,と呼べます。たとえばパズルが完成したら,パズルとしては機能し,ない,です。パズルとして(部分と部分との関係が)機能すれば,まだ迷い遊ぶことができるので,ある。です。

ぼくにはどうしても「ある」「ない」というのは、思考の運動の中の部分記号にしか見えません。

> その完成という意味での,ない・・・無我・・・から見ると,なんかわけの判らない無明とかの原因があるのではなく,自我は,心理的思考,葛藤,(まだ完成してないパズルの部分と部分との混乱した関係・・・分離)そのことに見えてしまいます。

うーん。言葉はデータ。記憶。現象の部分の定義、つまり名づけそのもの。ですので「無我」も「無明」も、個々によって現象のどのような状態を指しているのかによって、変わるような気がします。個々の観念世界(内部世界)までは、はっきりと見えないので、その言葉の流れから推測するしかないです。

> なので,心理的思考,葛藤とかがなければ,自我がないと見えてしまいますが,それはそう見えるだけで実際とは違います。これは困ったものですが,そう見えることに自我のまま追従してしまうこともできるようです。

葛藤や混乱はなくなることはありません。この個体の葛藤がなくなったとしても、他のあらゆる個体の精神が、葛藤し、混乱しているので、それは、そのまま感じます。精神は、個々で性質が違っていても、もとは同じものの運動です。

> まあ,いわゆる心理的思考,葛藤の仕組みとは。なにか原因があって,結果があって,それを時間が繋いでる。と,自覚する自覚しないには無関係に。その範疇で運動する思考・・・それは誤った因果関係としての思考。に,ほとんど帰せられるようです。つまり自我とは,因果関係を闇の中で手探りで学んでること,とも言えます。

ああ、これは少し感じがわかります。
自ら閉塞した空間で、延々とループしているときがそうです。で、エネルギーが、自ら圧縮しあっているので、破壊的です。場合によっては爆発です。

> そして一般的に言う因果関係は,世界の総活動,縁起,中道を,思考によって捉えなおしたことです。思考による演繹であり,事実ではなく,なにかのもの、ことを世界から切り取ったとして思考されてて、空想です。もちろんそれは削除はされませんが、自我の機能です。

うーん。ここもどのような部分をそう言語表現されているのか。。言葉は観念であり、データですので、おそらくubiさんはubiさんなりの観念・定義で、世界を見ているような気がします。

> そしてこんなことは,完全な分離(そのものとして独立)でも,完全な融合(総ては一つ)もない,パズルの独立した部分でも完全に完成してしまってるものでもない,この世界ゆえに可能です。これ全体を,ひとつ,とは呼んでも,やはり思考による演繹です。

はい。どう表現しても言葉は言葉であり、それそのものとは違います。それそのものは、どんな表現も持たないです。

>ところで、たしかに。この世界限定ならば・・・完全な,あるとない,は識別不可能です。この世界に生きてこの世界に依存しないなら,その,あるない,は明確です。それは,でも知覚の領域にないので,説明は困難です。

ここはよくわかりません。

> おおよそは,日常で,こんなことを思考によって辿っているのだと思います。その道すがら,思考の正確さは,あるいは、どのように曖昧かを見ることは、必要です。

確かに、思考は正確に機能します。が、自ら観念で領域を狭めて、データ(記憶)を蓄積し続けると、エネルギーが閉塞してしまい、バグをおこすようです。それが混乱、葛藤です。

> この雨上がり・・・まだ青いトマトです。

むむむ。青い香りがぷんぷんしてくる感じです。
あー。最近はスーパーで買える野菜が限られてきました。。

No.3472 - 2011/05/30(Mon) 23:46:30

Re: 自我の研究《概観》 / ubik0101
> その自我と定義しているのも思考と感じます。

たとえば、誰かのことを、あの言動は自己顕示欲の現れだ。と思考するとします。それは、すでに空想かもしれません。そんな空想をするというのは、自我の働きではないでしょうか。

つまり、自我を研究するなら、自我の領域にいるのです。また自分の自我な状態を研究するとして、その自分が自我な状態でなくては、それは出来ない、です。それは削除されません。愚かさが叡智に転換する、と表現しても同じです。

> ubiさんが思考運動(断片データの運動)のなにを定義として自我としているのかが見えませんが(おそらく全体運動と連携せず、ループし、閉塞している運動のそれを指しているような気もしますが)、思考の運動は、それ自体が成長するとか、完成するようには思えません。

そうです。思考の運動そのことは成長しません。あくまで喩えですが、ボートで、魚を釣ろうという意図があって、毎日のように太平洋に漕ぎ出します。

オールで漕ぎます。雨の日があります。晴れの日があります。魚は釣れたり、釣れなかったりします。喜びます、怒ります。タックル、餌は、こうじゃない、ああじゃないと、葛藤するかもしれません。おなじことに見えることを、死ぬまで繰り返すかもしれません。

その意図は、魚釣りです。なにかを求めているのです。しかし、毎日、ともかくボートを漕ぐならば、海を学び気象を学び魚との関係を学びます。しかしここで、なんであれ意図しないでも、身体には筋力がついてしまいます。

それは実際に、ボートで海に漕ぎ出したからです。この世界に生きてるからです。オールを動かす運動は、辛い苦しい、単なる運動かもしれません。海と魚の関係も、ただそれだけのことです。スコップで庭を花を植えるという意図で、地べたを掘り返しても、同様です。社会で稼ぐために辛い思いをしても同様です。でも、成長は、意図しない、そこで起こります。

ただ、これは結果です。その人が成長した、そのことがあって、ボートを漕いだからだ。社会で働いたからだ。ということです。ならば、もう、ボートだろうが、庭だろうが、社会だろうが、それまでの喜びも、怒りも、悲しみも、思考も、勤勉も、怠惰も。どんなことも必要だった。経験としては不可欠ではあったけど、それに依存することはない、ことを了解します。

ここで、素直さ、真摯で正確なこと、悪いことをせず、善いことをする・・・獲得した良い特質が・・・それを思考しても、思考しなくても・・・機能します。思考からの解放です。

> ぼくにはどうしても「ある」「ない」というのは、思考の運動の中の部分記号にしか見えません。

> うーん。言葉はデータ。記憶。現象の部分の定義、つまり名づけそのもの。ですので「無我」も「無明」も、個々によって現象のどのような状態を指しているのかによって、変わるような気がします。個々の観念世界(内部世界)までは、はっきりと見えないので、その言葉の流れから推測するしかないです。

ではまず、言葉が、どのようなことなのか?です。じっと青空を凝視します。あるいは歩いていて意識に昇らず、なんとなく、爽快さを感じてるだけです。ここで、それ、を意図的に認識します。そのとき・・・青空、という名付け得ないことに、青空、という名前が付けられたのです。庭、男、女、僕、酒、思考、観念、時間。みな、そうです。

たとえば庭は、庭と呼ぶ必要もなく、庭と呼んでいるのです。庭という言葉は、庭を現さないのです。なので、庭を正確に現すのです。そうでないなら、庭と庭という言葉は影響し、言葉は正確に機能できません。そうならば、人は言葉を使ってる、というより、言葉に使われてる・・・言葉の訳の話からなさの直中で、それが何か?学ばせて貰ってる、養育させて貰ってる、のかもしれません。

> 葛藤や混乱はなくなることはありません。この個体の葛藤がなくなったとしても、他のあらゆる個体の精神が、葛藤し、混乱しているので、それは、そのまま感じます。精神は、個々で性質が違っていても、もとは同じものの運動です。

それで、です。そういうことを葛藤と呼ぶとして・・・ちょっとシフトしてください・・・それは世界の機能なのではないでしょうか。つまり、個人、その独特の、個別の、特定の、ことではない、でしょう。それを排除しようとすると、それも葛藤になり得るでしょう。そして、それも世界の機能でしょう。

どうして、それがこの自分のことなのか?・・・世界が、その自分にそうしてあげてるのを、その自分が、そうしてる。と思い違うこと、その自分がある。それも自我の機能の、ひとつの現れです。また、そのように葛藤して、騒いで、自分が自分を自覚しようとする・・・それも 自我の機能の、ひとつの現れです。

> はい。どう表現しても言葉は言葉であり、それそのものとは違います。それそのものは、どんな表現も持たないです。

と、suhoさんは表現できてるのでしょう?また。それそのことは、それそのことでしか、それそのことを表現できない。とも言えそうです。繰り返しですが・・・それそのことと言葉は無関係。ゆえに言葉は正確に機能します

No.3473 - 2011/05/31(Tue) 09:49:13

Re: 自我の研究《概観》 / suho
> > その自我と定義しているのも思考と感じます。
>
> たとえば、誰かのことを、あの言動は自己顕示欲の現れだ。と思考するとします。それは、すでに空想かもしれません。そんな空想をするというのは、自我の働きではないでしょうか。


もしかしてubiさんは、僕が使う「精神」のことを「自我」と表現されているのかなと感じました。
上で書かれたものが、感情をともなった「重い反応」として生じているのであれば、確かに空想というか、1つの葛藤反応です。

> つまり、自我を研究するなら、自我の領域にいるのです。また自分の自我な状態を研究するとして、その自分が自我な状態でなくては、それは出来ない、です。それは削除されません。愚かさが叡智に転換する、と表現しても同じです。

やっぱりubiさんの言う「自我」は「精神」とは違うのかな?
ちなみに僕が使う精神とは「心」と言い換えてもいいものです。
上でかかれていることは、わかります。

> それは実際に、ボートで海に漕ぎ出したからです。この世界に生きてるからです。オールを動かす運動は、辛い苦しい、単なる運動かもしれません。海と魚の関係も、ただそれだけのことです。スコップで庭を花を植えるという意図で、地べたを掘り返しても、同様です。社会で稼ぐために辛い思いをしても同様です。でも、成長は、意図しない、そこで起こります。

はい。成長は意図しない。自己拡大の欲望はそこにはない。はい。

> ただ、これは結果です。その人が成長した、そのことがあって、ボートを漕いだからだ。社会で働いたからだ。ということです。ならば、もう、ボートだろうが、庭だろうが、社会だろうが、それまでの喜びも、怒りも、悲しみも、思考も、勤勉も、怠惰も。どんなことも必要だった。経験としては不可欠ではあったけど、それに依存することはない、ことを了解します。

はい。経験のあらゆることが、それの理解へのきっかけであったことが理解される。はい。
依存することはない、とも表現できるし、自ずと捨てられる、あるいは、その経験(記憶)に翻弄されることがなくなる。

> ここで、素直さ、真摯で正確なこと、悪いことをせず、善いことをする・・・獲得した良い特質が・・・それを思考しても、思考しなくても・・・機能します。思考からの解放です。

獲得した、という表現がちょっと違和感がありますが。。精神が獲得した、というよりも、それは、非個人的に、すでにそうであるのもであって、ただ、精神が混乱していたために、それに気づけなかった、という表現のほうが僕はしっくりきます。それは、ひとしく、すべてに、常に、働いているもの。

> ではまず、言葉が、どのようなことなのか?です。じっと青空を凝視します。あるいは歩いていて意識に昇らず、なんとなく、爽快さを感じてるだけです。ここで、それ、を意図的に認識します。そのとき・・・青空、という名付け得ないことに、青空、という名前が付けられたのです。庭、男、女、僕、酒、思考、観念、時間。みな、そうです。

はい。わかります。

> たとえば庭は、庭と呼ぶ必要もなく、庭と呼んでいるのです。庭という言葉は、庭を現さないのです。

はい。わかります。

>なので、庭を正確に現すのです。そうでないなら、庭と庭という言葉は影響し、言葉は正確に機能できません。そうならば、人は言葉を使ってる、というより、言葉に使われてる・・・言葉の訳の話からなさの直中で、それが何か?学ばせて貰ってる、養育させて貰ってる、のかもしれません。

ああ、わかりました。それは僕が言葉を「記号」と表現している意味と同じです。
記号自体は、単なる無機質な「名」「データ」ですので、それそのものと干渉しません。はい。

No.3474 - 2011/05/31(Tue) 11:55:48

Re: 自我の研究《概観》 / suho
> それで、です。そういうことを葛藤と呼ぶとして・・・ちょっとシフトしてください・・・それは世界の機能なのではないでしょうか。つまり、個人、その独特の、個別の、特定の、ことではない、でしょう。それを排除しようとすると、それも葛藤になり得るでしょう。そして、それも世界の機能でしょう。

はい。それは非個人的なものです。
世界の機能。。そうとも言えますか。はい。
先の話ではないけれど、起きてくる経験も、世界の機能。はい。

> どうして、それがこの自分のことなのか?・・・世界が、その自分にそうしてあげてるのを、その自分が、そうしてる。と思い違うこと、その自分がある。それも自我の機能の、ひとつの現れです。また、そのように葛藤して、騒いで、自分が自分を自覚しようとする・・・それも 自我の機能の、ひとつの現れです。

その「自分」「自分の」というのが、破壊を生む根本的な要因である観念です。
これに同化すると、中心化すると、あらゆるもの、経験が、偽物になります。
ありもしない「分離」を生み「比較」を生み「対立」を生み、結果「破壊」を生んでいます。けれど、その経験の苦痛、苦しみが、それ自体の構造の理解の契機です。

> > はい。どう表現しても言葉は言葉であり、それそのものとは違います。それそのものは、どんな表現も持たないです。
>
> と、suhoさんは表現できてるのでしょう?また。それそのことは、それそのことでしか、それそのことを表現できない。とも言えそうです。繰り返しですが・・・それそのことと言葉は無関係。ゆえに言葉は正確に機能します


はい。今回は、ubiさんの言われてることが、理解できたと思います。

No.3475 - 2011/05/31(Tue) 11:56:59

Re: 自我の研究《概観》 / suho
もうちょっと、ここを詳しく書いてみます。

> > どうして、それがこの自分のことなのか?・・・世界が、その自分にそうしてあげてるのを、その自分が、そうしてる。と思い違うこと、その自分がある。それも自我の機能の、ひとつの現れです。また、そのように葛藤して、騒いで、自分が自分を自覚しようとする・・・それも 自我の機能の、ひとつの現れです。
>
> その「自分」「自分の」というのが、破壊を生む根本的な要因である観念です。


「自分」という言葉は言葉そのものです。ただ、この個体である肉体を指す「名」「データ」です。同じく、実名もそうです。「私」でもそうです。

そして、そこに自分「の」、という「所有の観念」が生じます。あるいは自分「が」という「主体観念」。
これも日常生活上の、実用上の「名」として機能していれば、特に問題がありません。

> これに同化すると、中心化すると、あらゆるもの、経験が、偽物になります。

この「自分」「自分の」「自分が」という名と、この個体である肉体・精神(心)を同一化すると、つまり、この観念を実体として錯覚すると、分離という錯覚・思い込みが起こります。

> ありもしない「分離」を生み「比較」を生み「対立」を生み、結果「破壊」を生んでいます。けれど、その経験の苦痛、苦しみが、それ自体の構造の理解の契機です。

あらゆるものは、物理的に分かれていますが、現象全体の中で連動して起きている全体運動です。同じく、個々の精神も、その表れ方、性質に違いがあっても、これも同じものの、異なる表れ、運動です。
そこには「個別の表れ・違い」という現象は生じているものの、だから「個々に分離した実体」である、ということではありません。

「個々に分離した実体」という観念(データ)への同一化によって(これは、生まれ育った環境で条件付けられることも要因)、そのエネルギーの閉塞から「苦しみ」という知覚が生じるため、精神はこれを嫌がり、避けようとし、別な「観念」を生み出し、の逃避を試みます。それが願望であり、動機。「あるべきもの」とも言います。
この現行から「願望・動機」への逃避運動の衝動が「欲望」と呼ばれるエネルギーであり、混乱、葛藤を生む原因。

しかし、まさにこの心理運動が、その構造全体を理解する直接の機会であり「世界の機能」といえば、そうとも言えると思いますが、そのへんは、まだ調べている途中です。

No.3476 - 2011/05/31(Tue) 14:50:39

Re: 自我の研究《概観》 / ubik0101
>やっぱりubiさんの言う「自我」は「精神」とは違うのかな?
>ちなみに僕が使う精神とは「心」と言い換えてもいいものです。


まあ、精神とか心とか、その言葉で考えることは、滅多にないです。用語の違いかもしれません。

ところで、ここでいう自我とは、かなり広義で、意味としては希薄です。たとえば、死んでしまっては、見る聞く思考しない、と(仮定)します。なにも、その人において反応が生じない、と(仮定)します。

そうでなく生きていて、 なにか見る聞く思考する、知覚に、反応、して創られる、自分を自我と呼べるだろう、という意味です。なにか見る聞く思考する、意識が機能してる、そのこと、とも言えます。ふつうに言う、僕、俺、私、です。

それで、とくに感情を伴った重い反応でなくても、ただほかの人の有り様を思考する、その事態が空想だ。という意味です。もちろん、重い反応、激しい反応、も空想です。

それと、自我な自分が、自我な自分を研究することができるのも、いわゆる世界との分離、自分と自分との分離、ゆえに可能だと・・・そう近似値的には説明される、ことだと思います。

それは、

>その「自分」「自分の」というのが、破壊を生む根本的な要因である観念です。
>これに同化すると、中心化すると、あらゆるもの、経験が、偽物になります。
>ありもしない「分離」を生み「比較」を生み「対立」を生み、結果「破壊」を生んでいます。けれど、その経験の苦痛、苦しみが、それ自体の構造の理解の契機です。


と働くのでしょう。

ここは、それぞれの経緯によっての表現があるのでしょう。問題や対立を引き起こすのは、同化、中心化、というより、完全同一、完全中心でないという意味での、半反同化、半反中心化とも言えそうです。 けど、どうも正確な説明は困難なようです 。

あるいは、すでに暗い深い淵を飛び越えて、その淵の手前で迷ってた状態を、同化とか、中心化とか、分離とかとして、説明してるので。 これはたぶん、観測位置によって、さまざま解されるのでしょう。

それで、心理的思考、葛藤、分離、心理的時間、とかだけではなく。自我そのことは自覚できないけど、それが行動、発言、思考によって自覚できるようになる・・・自我とは、自分で自分を自覚したいこととか。反応、とかが見える、ということだと思います。

それで、こんなことを思考してる自分の経緯とか有り様とかを探ると、どうも世界が、美しくなるのを望んでる。善い、を望んでる。真であることを望んでる。人は、それに参画してる。というところが感じられます。

それゆえ、たとえば自我とか、原子力発電所の有り様とかのことを、なんとか明確に理解したい表現したい、そのことで・・・ことさらには役に立ちたいと思わないけど・・・役に立ちたい・・・そんな気持があるのではないでしょうか。

>はい。成長は意図しない。自己拡大の欲望はそこにはない。はい。

これは。その人の努力に関係なく、関係ないのでもなく、成長は起こります。うろ覚えですが聖書の言葉、「種を蒔くと発芽して夜も昼も成長します。そして収穫は一気です。なぜそれが育つのか、収穫できるのか人は知らない」に近い感じです。

No.3477 - 2011/05/31(Tue) 18:00:12

Re: 自我の研究《概観》 / ubik0101
>あらゆるものは、物理的に分かれていますが、現象全体の中で連動して起きている全体運動です。同じく、個々の精神も、その表れ方、性質に違いがあっても、これも同じものの、異なる表れ、運動です。
>そこには「個別の表れ・違い」という現象は生じているものの、だから「個々に分離した実体」である、ということではありません。


もしかしたら、ここで世界の総活動、と言ってることに相当するかもしれません。ただ、そのことに、なにか原因があるという意味でならば、「同じものの、異なる表れ、運動」、とは感じないです。

とあることと、その類似のことと、その反対のこと、無関係なこと・・・ありとあらゆることと、ありとありえないこと・・・総てが機能してる。それだけで・・・原因は探ったこともないんです。

ここは、なぜ、これは、これ?という疑問が生じます。その疑問が生じるそのことが・・・たとえば意識って何?と自問が生じる・・・それこそ、それからの解脱・・・意識が機能しながら、それに依存しない・・・そのことの表明のようです。

No.3478 - 2011/05/31(Tue) 20:43:46

Re: 自我の研究《概観》 / suho
> ここは、なぜ、これは、これ?という疑問が生じます。その疑問が生じるそのことが・・・たとえば意識って何?と自問が生じる・・・それこそ、それからの解脱・・・意識が機能しながら、それに依存しない・・・そのことの表明のようです。

先ほど丸美屋のマーボナスの素を買って家に帰り、マーボつながりだからいいかっと、ナスと豆腐を炒めて、何せはじめての感じなので、若干の期待をしつつ食べてみたところ。。

ところで「世界の総活動」ですか。うむむむ。
意識が機能しながら、意識に依存しない。。
わけがわからんのがポっポっポポンと。。

で、口に入れたわけですが。
予想を超えて残念な味でした。。

つーか丸美屋あまり合わないかも。

なぜ?

No.3479 - 2011/05/31(Tue) 21:36:07

Re: 自我の研究《概観》 / ubik0101&hato
それが機能してるのでなくて、どうして
それに依存しない、ということが完成するしょう。

と、いうことで、

クックドウーの、チンジャオロースの素は、キャベツ炒めても、白菜炒めても、なんでもいけます。

ubik0101


世界は人にそれ自身を、「理解」とのかたちで与えますが、その世界とは、ことさら、全体、ともいえません。それは厳然と「世界として不可分」ながら、ことさらに全体、ひとつ、との、趣意を得ているわけでも、ないようです。

意識に依存して・・・というとき、その意識には偏重があります。その意識で世界を見るとき、偏重された向きでの内容探査に向かうことがあります。

それで、でーも、

ハトポッポは、クックドゥのチンジャオロースは、チンジャオロースが美味しかったのよね。と思いました。

hato

No.3481 - 2011/06/01(Wed) 01:36:16
みどりの庭から / hato
デッキのブライダルベール。

ブライダルブーケともいわれるようです。昼は白い小さな花がたくさん開いて、夜はまあるく閉じます。とても素敵です。

No.3467 - 2011/05/29(Sun) 21:52:44

Re: みどりの庭から / hato

四つ葉のクローバー。こういう品種があるそうです。ubik0101さんが庭に植えてくれましたが、華奢な感じです。なんとか、土に定着したならいいな。と思います。

No.3468 - 2011/05/29(Sun) 21:55:42

Re: みどりの庭から / hato

すこし前の、茶摘直前の光る茶畑です。茶畑は、目に映るだけで、とたんに嬉しくなってしまうのです。なかなか表現しきれません。

No.3469 - 2011/05/29(Sun) 21:57:29

Re: みどりの庭から / hato

イボタの木に、花が咲きました。ネズミモチに、似ているそうです。

No.3470 - 2011/05/29(Sun) 21:58:57
思考は正確2 / suho
もしかしてubiさんは直感というか体験のことを言ってるのかなと感じました。
たとえば何かの思考、イメージが湧いて、それがなんの知的検討も介入せず、即、腑に落ちるというか、納得というか、自明で迷いのない絶対感というか。。

その思考・イメージを絶対的な体験を、無知でない状態としていて、それとの比較から以下のようなコメントをされているとすれば。。

>ここは、予め「ある」「ない」の定義があるのではなく、定義が明確ではないのに、あるないを思考してるのではないでしょうか。あるないに無知ゆえの思考が、「自分は、ある、ない」、なのではないでしょうか。

>たとえば、なにかについて無知なら、そう思考してなくても、その無知が機能して。自分について無知なら、無知だと思考しても、そう思考しなくても、賢いと思考しても、その無知は機能してるかもしれません。

> たとえばsuhoさんが虚偽でなく、そのあり方のままを思考します。それしか思考はできないかもしれません。それ自体に思考には判断機能がないから、なんでも思考できる。その思考そのことが、過去を参照するというのではないけど、判断といも言える。ってことでしょうか。これは、

上のコメントで、ubiさんが体験された、その直感的「絶対感」を伴ったイメージを「定義」あるいは「虚偽の根拠」あるいは「事実」だとしているのであれば、上のようにコメントをされたことは理解できます。

suhoさんはそれを知ってなければ、無知が機能しているでしょうと。

そういう意味だとして。。

しかしこの場合、その絶対感を伴ったイメージは、ubiさんが体験されたものであって、僕がそれを知りえないのは当然ではないでしょうか?

そしてその体験があるので「知っている」とし、その体験が無い人を「無知」と判断されているのであれば、それは単にubiさんの思考が、そう判断している、というのがお互いに共有できる事実ではないでしょうか?

これはあくまでも推測ですので、違っていたらすみません。
ubiさんは、たびたび「覚醒体験」?の重要性を書かれていたので、そのように推測してみました。

No.3460 - 2011/05/28(Sat) 21:30:04

Re: 思考は正確2 / ubik0101
> では再び、ubiさんの言う「事実」とはなんですか?

それは、なにかの思考が、自分の実情に合ってないか?、合ってるか?という意味です。合ってるなら、事実と呼びます。

ほかの誰かがする思考と、その人自身の有り様の関係とか・・・ほかの誰かと、この自分との人間関係とか・・・なにかの具体的な経験できることと、経験ではない空想との関係とか・・・の範疇の話ではありません。それでは、おそらく空想が混じります。

なにかの思考と、この自分の有り様との関わりです。ほとんど、この範疇でしか思考していません。

それで。なんでもいいのですが、たとえば自分がない、と思考します。それは、そう思考するのはいいのですが・・・たぶん知識から・・・自分があっても・・・そのことに気がつかず・・・自分がない、と思考できるかもしれません。

もちろん実際に自分がないなら、そこから見える風景は表現できるのです。が、それよりも、この自分がない、の「ない」、ということを明確にしなければならない、と感じるのです。

そうでなくて見える風景だけで、自分が納得できるなら、曖昧な納得、ということです。曖昧なゆえに、なんだかの思考、表現、主張がある。そこからの風景が見えるかもしれません。

ここで、自分がない、と思考してる、この自分がないなら、それを事実、と呼びます。これはA=Aの思考です。Aな自分がAと思考するのです。これは現象としては、その思考だけが知覚されているのです。

そんな思考は、知覚されてない、これまでの経緯が、大袈裟に言えば世界の総てが、機能してなければ不可能、ということを了解して、可能です。こうならば、その思考は、その思考だけ、隠し持ってるほかのことがありません。素直・・・真摯で正確・・・とも呼びます。

ここで、なにかの思考は、それがその人にとっての事実かどうか判断する機能は付属してないのではないか?ということに気がつきます。それは裏から言えば、思考が正確に機能してる、ということがあってのことです。

また、あるとかないとかも日常で、どうでもいいのですが、なんでもないここから、たとえば、ある、ない、ということが、どいうことか?探ることしかしていません。ことさら意識してませんが、世界を信頼してるのでしょう。

また、正確に思考すれば、その思考の構造つまり概念、の破綻が見えてきます。それゆえ人は思考に依存しないことができますが、それはもともと思考の構造の機能のようです。ということも思考できるほどの思考の正確さは驚異です。

ここは、さっき言ったことと反対ですが、曖昧さがなければ思考は不成立なようです。とある概念と、ほかの概念との関係も気になるのです。

こんなことは、まったく個人的なことなんですが・・・なにも思考しなくても問題ないのですが・・・そのくらいしか惹かれることもない、ということもあります。ここも、どこもですが、手探り状態です。いくら迷ってもかまわないと覚悟して、闇夜を懐中電灯で歩いてるような感じです。

それで、そうと無自覚でも無知が機能してる、というのも・・・もしかして一般的に適応できるかも知れませんが、ほかの人とかに適応すると、空想です・・・自分の経緯です。

> そしてその体験があるので「知っている」とし、その体験が無い人を「無知」と判断されているのであれば、それは単にubiさんの思考が、そう判断している、というのがお互いに共有できる事実ではないでしょうか?

それは、「知っている」ではないです。なにも知らない、ということ・・・未知がまま・・・そのことです。

No.3461 - 2011/05/29(Sun) 09:43:15

Re: 思考は正確2 / suho
> なにかの思考と、この自分の有り様との関わりです。ほとんど、この範疇でしか思考していません。

ubiさんが何をもって「自分」とされているのかがわかりませんが。。
少なくとも「思考でないもの」を自分とし、思考と関係を持たれていることはわかりました。

> また、あるとかないとかも日常で、どうでもいいのですが、なんでもないここから、たとえば、ある、ない、ということが、どいうことか?探ることしかしていません。ことさら意識してませんが、世界を信頼してるのでしょう。
>
> また、正確に思考すれば、その思考の構造つまり概念、の破綻が見えてきます。それゆえ人は思考に依存しないことができますが、それはもともと思考の構造の機能のようです。ということも思考できるほどの思考の正確さは驚異です。
>
> ここは、さっき言ったことと反対ですが、曖昧さがなければ思考は不成立なようです。とある概念と、ほかの概念との関係も気になるのです。


そうなんですね。
僕は今は思考の機能探求にはあまり関心がわいていません。
むしろ全体(現象)の部分として生じている思考が、全体に分離をもたらし、破壊をもたらす場合のありように関心というか、危機感を持っています。
これは単に特定の記憶が中心化、絶対化された場合に起こる現象なのですが。
記憶からの解放、に関心があります。

> こんなことは、まったく個人的なことなんですが・・・なにも思考しなくても問題ないのですが・・・そのくらいしか惹かれることもない、ということもあります。ここも、どこもですが、手探り状態です。いくら迷ってもかまわないと覚悟して、闇夜を懐中電灯で歩いてるような感じです。
>
> それで、そうと無自覚でも無知が機能してる、というのも・・・もしかして一般的に適応できるかも知れませんが、ほかの人とかに適応すると、空想です・・・自分の経緯です。
>
> > そしてその体験があるので「知っている」とし、その体験が無い人を「無知」と判断されているのであれば、それは単にubiさんの思考が、そう判断している、というのがお互いに共有できる事実ではないでしょうか?
>
> それは、「知っている」ではないです。なにも知らない、ということ・・・未知がまま・・・そのことです。


僕は「未知がまま」と使っているのは、記憶から、つまり既知のものと関係を持っていない精神のことを言っています。
つまりあらゆる概念(断片の情報)との関係を「継続しない」「継続できない」ありようです。
そして僕が今、調べているのは「未知がまま」でないありよう。つまり、中心化された概念(記憶)が全体(いまここ)になにをもたらしているのか、という「事実確認」です。
例えば、今進行中の原発事故も、まさに集団的に中心化された概念(部分利益への執着)が全体に及ぼしている破壊であるとみていますし、内容はどうであれ、そのような破壊は、日々の自分、個々の日常にもあふれているな、という実感です。
ですので、ubiさんが今探求されていることとは、違うのかなと感じました。

No.3462 - 2011/05/29(Sun) 10:43:31

Re: 思考は正確2 / ubik0101
これだけと言えば、これだけです。既知も、未知です。
No.3463 - 2011/05/29(Sun) 10:55:01

Re: 思考は正確2 / suho
> これだけと言えば、これだけです。既知も、未知です。

確かにそう。
関心の向きの違い、でしょうか。

どうもでした。

No.3464 - 2011/05/29(Sun) 11:26:10

Re: 思考は正確2 / hato

土手を散歩すると、道端にたくさんの、桜草が咲いています。ハッとするほど綺麗に見えます。

No.3465 - 2011/05/29(Sun) 15:39:22

Re: 思考は正確2 / hato

この牡丹も、散歩のときに見つけました。農家の畑の傍らに植わっています。

No.3466 - 2011/05/29(Sun) 15:41:56
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