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みどりの庭から / hato
姫イワダレ草の花が、本当にたくさん、咲きました。
No.3506 - 2011/06/06(Mon) 20:46:15

Re: みどりの庭から / hato

白い花と思っていたら、今年はほのかにピンク色に変化して、それもまた楽しいところです。

みどりの庭は、ナナの庭。蜜蜂と紋白蝶が盛んに舞うなかを、ナナが、ニャ〜となきながら、イワダレ草を歩いてやってきます。

No.3507 - 2011/06/06(Mon) 20:51:09

Re: みどりの庭から / hato

こちら、メタボンと仲間たち。ここ半年、冬を越して、やっと大きくなりました。

なんとsuhoさんから頂いたカメラで、初撮りです。suhoさん、ありがとうございました。(すみませ〜ん使いこなせるかしらんなのですが〜、、)

でも、なんとなしにメダカらしく、見えるじゃないの。


※プレビュー画面をクリックしてください。画面いっぱいに広がってびっくりです。メタボンは中央左下に。大きいです。

No.3508 - 2011/06/06(Mon) 21:09:20

Re: みどりの庭から / suho
> ※プレビュー画面をクリックしてください。画面いっぱいに広がってびっくりです。メタボンは中央左下に。大きいです。

あまりにでかくて爆笑。モニターが一瞬にして水槽!
ちょっとhatoさん、これデカすぎないですかぁ(笑
サイズはカメラで設定できるので試してみてくださいね。

デカイといえば。。
なんで予想よりも大きいのって笑えるんでしょうね。
メタボン。笑える。

ちっちゃいの見るとやんわりした気持ちになるのに
大きいと笑ってしまうというこの不思議。。

No.3509 - 2011/06/06(Mon) 23:00:21

Re: みどりの庭から / hato

> あまりにでかくて爆笑。モニターが一瞬にして水槽!
> ちょっとhatoさん、これデカすぎないですかぁ(笑
> サイズはカメラで設定できるので試してみてくださいね。



そうなんですよねぇ〜、えっ!?そうなんですかぁ!!カメラで設定。。pcで取り込んだあと何度か縮小トライして〜。パパが300kb以下なら大ジョブて言うから、確認して、そんじゃ。ってやってみたんですけどとほほ。すみません。


> デカイといえば。。
> なんで予想よりも大きいのって笑えるんでしょうね。
> メタボン。笑える。



やっぱり〜???。こちらは、メタボン、生まれてほどなくしてから、どうみても一匹だけプチプチしてるので、あんまり可愛くて、見るたび笑えてしまうんですから。(でも泳ぐの早いです。)ダイエットもトライしたんですけど、ダメで〜。昨日なんて、自分の卵をお尻にくっつけたまま、水草にひっかかってバタバタしてるのを発見して、ひぇ〜!てな感じで救出したんでした。なんか、女子だったみたいです。

で、まだ続くんですけど、今さっき、ネットで調べてたらなんとなんと、「パンダ系ダルマメダカ」ってのがあるらしくて目が、テン。↓まるでメタボンでしょ〜。

http://medakaland.com/daruma/3-6.html


もしかして。なぜかは不明ですが、ちょっと珍しいものができてしまったのかも知れません。メタボン。

(念のため、私たちはこのメダカ、市場で見つけて買いましたが、高いものではありませんでしたよ。)


> ちっちゃいの見るとやんわりした気持ちになるのに
> 大きいと笑ってしまうというこの不思議。。



思惑を外れて期待以上というか、でも思惑内でよかったのに。。な感じって、そんな不釣合いが、思惑自体の緊張を解くというか・・・笑えてしまうのかも知れませんね。不思議の扉がパカと開いてる、な感じかも知れません。

なにしろメタボンは、とても微笑ましくて、我が家のひそかな人気ものです。

No.3510 - 2011/06/06(Mon) 23:39:35

Re: みどりの庭から / hato

そんなこんなで、ちょっと寂しいけれど、

昨年9月半ばから半年間、楽しみに様子をみてきた子メダカ50匹は昨日、メタボンと数匹を残して、珍魚好きのお兄さんに引き取って貰いました。なにしろ50匹は大混雑。家の一番大きな鉢でも、10〜20匹が適当なのだそうです。

家の前に「メダカ差し上げます」の張り紙する?の案や、何件か伺ってみましたが、この辺りではメダカは用水路にいっぱい。颯爽と泳いでます。わざわざ飼おうと思わないのでしょう。ただ、ここでできた友達が、喜んで数匹貰ってくれました。

メタボンが強烈だったので気がつきませんでしたが、メタボンのほかにも、子メダカには沢山、ダルマ系、半ダルマ系、がいたそうです。食べすぎで、ちょっと太めなのかと、思ってました。条件がいいのか、卵も3ミリ子メダカも、すでにわんさかいます。

珍魚のお兄さんは、僕のペットにします。とのことでしたが、売れることもあるのでと、お礼金を置いていきました。ふたりともとくに考えてなかったので、気持ちとしてすこし受け取りました。

ネットや本人を見ると、本当に魚好きな感じで大丈夫でしょう。どこにいっても、しあわせでありますように。

庭にはすこし前から、白いコスモスの花が咲いています。やさしい画像はubik0101さんから。

No.3511 - 2011/06/08(Wed) 21:55:32
続きです。 / ubik0101
これは、なぜ、これ? 意識って何?知覚て何?自分て何?世界て何?その疑問は、とくに想定され得る思考、記憶の答えを探ってるわけではないです。思考の領域に逃避、その方向には行かないでしょう。

まずは、その疑問は、それが機能しながら、それに依存してない、その不思議、そのことの表明です。これに解などない、と言ってしまってはお終いです。それでも、とても本気の疑問です。

ところで、精神(記憶・過去)そのことには、「偏り」「違和感」「抵抗感」機能は装備されてないのかもしれません。 もしかして精神(記憶・過去)ということで・・・知覚全体から離れてしまいます・・・ということを(あることがらに、ある意味を乗せる、変調)して理解してるのかもしれません。

ここで言う精神(記憶・過去)とは、いわゆる心理的思考、葛藤、つまりは自我の機能を差してるのでしょうか。ならば、ですが。その初めから、精神は記憶・過去なんでしょうか?そうだとしたら、それは始まりようがありますか?また自我そのこととは何でしょうか?という疑問が生じます。

こちらは・・・どういう意味にしても、思考領域に入ること、それに問題が感じられません。心理的思考を拒む必要が、とくにないのです。そのことによって、いわゆる中心がつくられるとは感じられません。そんな日常です。

No.3501 - 2011/06/03(Fri) 22:27:16

Re: 続きです。 / suho
> これは、なぜ、これ? 意識って何?知覚て何?自分て何?世界て何?その疑問は、とくに想定され得る思考、記憶の答えを探ってるわけではないです。思考の領域に逃避、その方向には行かないでしょう。

それは僕の過去の記憶から書いたのです。僕がそのような経験をしたということです。
ubiさんは、本や権威に頼らず、自力で考えたというか、調べたのだと思います。それは逃避ではないでしょう。むしろ直面です。
僕の場合は、いろいろな本を読み、そして空想していた時期が長くありました。で、結局、収まらなかったわけです。その経験から書いたのです。

> まずは、その疑問は、それが機能しながら、それに依存してない、その不思議、そのことの表明です。これに解などない、と言ってしまってはお終いです。それでも、とても本気の疑問です。

わかりました。

> ところで、精神(記憶・過去)そのことには、「偏り」「違和感」「抵抗感」機能は装備されてないのかもしれません。 もしかして精神(記憶・過去)ということで・・・知覚全体から離れてしまいます・・・ということを(あることがらに、ある意味を乗せる、変調)して理解してるのかもしれません。

確かに、精神の機能には「偏り」「違和感」「抵抗感」はないと思います。けれど、上にも書きましたが、逃避としての思考運動が起こると、そのような知覚が生じる、ということで書いてました。

> ここで言う精神(記憶・過去)とは、いわゆる心理的思考、葛藤、つまりは自我の機能を差してるのでしょうか。ならば、ですが。その初めから、精神は記憶・過去なんでしょうか?そうだとしたら、それは始まりようがありますか?また自我そのこととは何でしょうか?という疑問が生じます。

精神=自我ではないです。
精神(心)が記憶にとらわれて混乱している状態が自我といえます。説明不足でした。

> こちらは・・・どういう意味にしても、思考領域に入ること、それに問題が感じられません。心理的思考を拒む必要が、とくにないのです。そのことによって、いわゆる中心がつくられるとは感じられません。そんな日常です。

僕が書いた思考領域とは、精神が偏ったとき、つまり自我の状態で起こる場合の思考のことを書いていました。

No.3502 - 2011/06/03(Fri) 23:38:20

Re: 続きです。 / hato

> それともubiさんは、suhoさんならそれをどのようにイメージし、どのように名付けるのか?と聞いているのでしょうか?

> であるならば、こう言います。

> 「ただただ創造。ただただ愛。」です。


それは、なにかイメージに関わりようがありません。想像、創造、不可能です。そのときに初めて、愛は、愛。です。


人はきっと、どこにいても、十分にその人であって、よいのだと思います。愛すべき、愛しい、人です。

もし人が、本気なら、どうしても、生涯を懸け、命を懸け、人生をある意味捨てるほどの情熱が必要でしょう。というよりは、どうしようもなく、そのようであったでしょう。意味妙味も得ず、そのようにあらざるを、得なかった、としかいいようがありません。

全身全霊。とは、正真正銘本気。そう、あらざるを得ず、ということです。その姿勢を得て、それになって、初めて、人は本来の意味で、素直に在ることができる、機を得ることができます。


ナナミの木に花が咲きました。ubik0101さんと、とても嬉しく見ました。

No.3504 - 2011/06/04(Sat) 21:56:49

Re: 続きです。 / suho
> それは、なにかイメージに関わりようがありません。想像、創造、不可能です。

はい。全くです。

No.3505 - 2011/06/04(Sat) 23:56:16
「ビジネスマンへの宣教」 / あだち
    聖 名 讃 美

      「ビジネスマンへの宣教」 はいかがですか。

「企業人」(ビジネスマン)にとって神のコトバ「聖書」は「「異言」
 なのです。なぜなら彼らは「世のシステム」に捉えられ、「カネ」をこの
 世の神としているからです。
  主が「荒野」で試みられその「誘惑」に打ち克たれた「信仰」を
 彼らは受け入れ・理解しようとはしません。カネをこの世の「神」とする
「滅びの戦略」にいのちを売り払っているからです。 
       さて、その「宣教」をどうするかです。  
         そこで
   伝道・宣教のための資料として 「こころのマーケティング」
   (30ページ冊子)を制作いたしました。
    無料提供いたします。 氏名・年齢・職業 明記のうえ
   お申込みください。 (添付メール)にて送付
       
 
       こころを強くする「メッセージ」のご案内
      http://www4.ocn.ne.jp/~kokoro/
     
        ご笑覧ください。     安達三郎

No.3503 - 2011/06/04(Sat) 09:26:52
思考の無関係性。 / ubik0101
なんでもいいのですが・・・たとえば、ほかの人の意見で自分は左右されない、とか・・・邪魔をする自我がなくなれば、知覚からの直接行動がある、とか・・・なにものにも依存しない、とか・・・素直、とか・・・そんな思考があります。

そこで、そういう思考と。そう思考してる人が、その思考と一致してるかは、違う話です 。 たとえば、ほかの人の意見で自分は左右されない、とか、という思考に一致していて、事実としての、ほかの人の意見で自分は左右されない、とか、と一致してないかもしれません 。このことを、ふつは、思考との同一化、と呼ぶのかもしれません。

そうでなくて。また、事実としての、 ほかの人の意見で自分は左右されない、と一致しているかもしれません。これは、思考と事実との一致であり、同一化ではなく同一、とも呼べるでしょう。

というのも・・・思考は、とんでもない機能があります。それがなんであるかはともかくとして、自我だって、無我の様子を、いくらでも思考することはできるのです。自分は世界ではなくても、自分は世界と思考できたりできます。そして思考には、それの正誤を判断する機能は付属していないのです。

続きます。

No.3491 - 2011/06/02(Thu) 16:19:34

Re: 思考の無関係性。 / ubik0101
ここでは、その思考には一致しているのですが、その事実には一致してないということに、課題があると言えばあります。そこで、思考で、思考と事実の関係を思考しても解決は、困難です。それが確実にそうかどうかとか、一々検証するとしたら、決着はできないでしょう。

ここでは思考が、A=Aの思考かどうか?ということが焦点です。そしてA=Aならば、その思考の、あるない、には無関係です。つまり、なにかを思考することと、思考しないことが、どちらもAということを示します。つまり思考と、思考する事態は無関係。なのに、思考しないでも、その事態は失われることはない、ことの了解があります。

そのことが思考からの解放です。そんなことの理解なしには、A=Aであることは困難です。そしてこれは・・・たとえば、ほかの人の意見で自分は左右されない、とか・・・邪魔をする自我がなくなれば、知覚からの直接行動がある、とか・・・なにものにも依存しない、とか・・・素直、とか・・・どんな思考から学ぼうと無関係です。

ということの了解もあるでしょう。この思考の全体が、思考には正誤の判断機能は付属してないゆえに、思考と思考者は無関係ゆえに、できるとも言えます。

なんでも100円ショップで見つけた、タラの芽の根?から、タラの芽の芽がでました。

No.3492 - 2011/06/02(Thu) 16:26:30

Re: 思考の無関係性。 / hato

タラの芽は、たしかポキッと採れます。天麩羅かな・・・とか、気が早いこと。来年春の、お楽しみです。

ブライダルベールのとなりで、冬を越した風知草が、青く爽やかです。

No.3493 - 2011/06/02(Thu) 19:39:08

Re: 思考の無関係性。 / suho
> ここでは思考が、A=Aの思考かどうか?ということが焦点です。そしてA=Aならば、その思考の、あるない、には無関係です。つまり、なにかを思考することと、思考しないことが、どちらもAということを示します。つまり思考と、思考する事態は無関係。なのに、思考しないでも、その事態は失われることはない、ことの了解があります。

例えば、そのAを目の前の「りんご」とします。
A=Aの思考であるというのは「りんご」という「名」と実際の名づけられていないこれ(つまりその目の前の赤いまるい物体。事実。)が正確に一致している、という意味でしょうか?

例えば別の表現で。

目の前のりんごは、その目前の未知なる物体の様相が、記憶のものである「りんご」と近似している、と頭が判断したときに「りんご」と認識できます。
(ここでは言葉・記憶・イメージとしてのりんごを「りんご」とカッコつきで表現します。)
それで、上のような思考による認識がなくとも、目の前の未知なる物体はあります。つまりそれが事実としてのりんご。

目前のモノは、頭の中で、記憶である「モノ」との照合という思考がされても、されなくとも、そこに変わらず存在します。

このことでしょうか?

>この思考の全体が、思考には正誤の判断機能は付属してない

ここで言われている正誤の判断というのは、つまり言葉・イメージとしての「りんご」と、事実としてのりんご(モノ)の両方を知覚している、という前提がなければ、A=Aが正しいかどうかの判断ができない、ということでしょうか?

>ゆえに、思考と思考者は無関係ゆえに、できるとも言えます。

すると、その「イメージ」と「事実」の照合があっているかどうかの判断機能は、思考それ自体ではできないので(思考は記憶以外は扱えないので)知覚が行っている、ということになりますか?そうすると「知覚」が思考者ということになるのですか?
ま、ここで表現している「知覚」というのは、この言葉で表現しなくともよいものですが。

それで、A=Aが正しくないときは、たぶん「何かのトラブル」が起こります。
例えば、目の前の、事実としてのりんごに、明晰に気づいていない状態(思考への同一化)、つまり思考である「りんご」に強くとらわれている状態で、そのりんごを食べてみます。
すると思考である「りんご」と実際のそれは全く別物であることにはじめて気づきます。
事実としてのりんごは、実は本物そっくりの瀬戸物だったから。
それで「歯が欠ける」という予期せぬトラブルが起きてしまう。。

するとA=Aが正しくない状態というのは、簡単に言えば、事態に「不注意」ということでしょうか?

No.3494 - 2011/06/02(Thu) 21:04:08

Re: 思考の無関係性。 / ubik0101
>A=Aの思考であるというのは「りんご」という「名」と実際の名づけられていないこれ(つまりその目の前の赤いまるい物体。事実。)が正確に一致している、という意味でしょうか?

たとえば、思考との同一化、という場合は、どこかの誰かの言葉としての思考が主に問題になるようです。これも、なんでもいいのですが・・・見るものは見られるもの・・・野の花を見よ、空の鳥を見よ、蒔かず紡がず耕さず・・・否定の否定は肯定、とか・・・そうありたいとか、権威とかとされる人の言葉、常識・・・およそは、それとの反対意見と、天秤にかけてる場合に、そんな思考との同一化が起こる場合が濃いようです。

つまりは、自分が発見した、あるいはそうとは知らずに再発見した、思考なら、同一化は起こりにくいようです。これもなんでもいいのですが・・・いまここしかない・・・万物は流転する・・・と発見した、あるいはそうと知らずに再発見した人が、その思考に同一化することは、自分で自分の真似をするのでなければ、起こりにくいと思います。

ここでは、なにかを発見、あるいは再発見したなら人は、もうすでに、その思考には捉えられてない、いい加減な言い方では、それを超えた状態にあるともいえるのです。そして同じことですが・・・まあ、たとえば、これもなんでもいいのですが・・・思うことは実現する・・・そのままの自分でいいんだよ・・・とか。なんだかの正確でない思考、それが歪んでる誤ってるゆえに人を惹きつけ縛り得る、そんな場合もあるようです。

それで、どんな言葉にも・・・ここも、なんでもいいのですが・・・自灯明、法灯明・・・思考とは、知識とか、過去の記憶・・・とかの思考に同一化したり、できなかったり、するのではないでしょうか。もちろん、まったく思考しないでも、そのような付和雷同、ほかの人に依存する、ような人の状態も問題なのかもしれません。

それで、眼の前の、りんご、その知覚とその認識、という話でないと思います。

あとは明日に、続きます。

No.3495 - 2011/06/02(Thu) 23:05:35

Re: 思考の無関係性。 / ubik0101
A=Aの思考というのは、その思考がある場合の、その思考とその人との関係で言えば。たとえば、私は嘘つきである、と嘘つきが思考する。あるいは、私は正直だ。と正直な人が思考する。ということです。これは、どうやって、可能なのか?ちょっと理論的には判らないけど、そうできるのも事実ではないでしょうか。

>すると、その「イメージ」と「事実」の照合があっているかどうかの判断機能は、思考それ自体ではできないので(思考は記憶以外は扱えないので)知覚が行っている、ということになりますか?そうすると「知覚」が思考者ということになるのですか?

それは知覚者とは何?という、また違う問題に繋がります。とりあえず結論を言います。知覚されること/思考されること(見られるもの)と、そうすること(見るもの)は同じではありません。そして、違うのでもありません。

すでに2500年前に・・・同じでも違うのでもない、わたしは中道を説く・・・と仏陀が(阿含経で)言ってるそのことです。これは、知覚者は、そんな相にはないという意味です。ここでは、自己は知覚の領域にはないので、自分で自分を知覚不能と言います。無相の自己、とか。どうして舌が無味でなくて味が分かるだろう、という表現もあります。

それで知覚といっても、それは、たとえば蝶や蜂ではなく人としての知覚です。もし客観というものがあるとしても、それが主観となり得るほどの完全な知覚ではないのではないでしょうか。それが、照合できるのか、正確なものなのか?ということも、不明です。これは探るほどに混迷を深めるかも知れません。その、不確定ゆえに・・・人は世界に生きていながら、世界に依存しない・・・ことが可能ということを感じます。

ほとんどKの書は読んでいませんが・・・見るものは見られるもの、意識とはその内容・・・という表現があります。これは・・・その中心がない、主体がない・・・無我を前提にしています。これは、ほとんどA=Aです。これも無我が前提です。でも、その、主体がない、ということは主体は主体を知覚できない、というような意味でしかない、と捉えています。

ここは自我がない、ということを見破る、察知する。のは、何者?という疑問でもあります。もちろん、ないがないを察知する、というのもありなんですが。ここでは、無我を察知するのは、自覚できない自己。それを見逃してはならない、というのが主旨といえば主旨です。

たとえば見る聞くという・・・知覚とその対象・・・だけの範疇なら、見るものは見られるもの、意識はその内容。それだけです。自分は世界、です。知覚を離れて世界はありません。そうでなく・・・意識とその対象・・・も含めた一切・・・は、それだけとは言えない、です。

もちろん、知覚とその対象、意識とその対象・・・一切・・・は、どちらも知覚です。それで、りんごとその認識、という疑問が成立するのかもしれません。ここでは、意識とその対象、よりの疑問を探ってる、とも言えそうです。

> するとA=Aが正しくない状態というのは、簡単に言えば、事態に「不注意」ということでしょうか?

それがどうして起こり得るか、という意味での不注意は、とても微妙な問題です。ここで言ってる、反応、つまり自我と自覚できないでも自我。そのあたりまで探る必要を感じます。

No.3496 - 2011/06/03(Fri) 08:53:06

Re: 思考の無関係性。 / suho
> A=Aの思考というのは、その思考がある場合の、その思考とその人との関係で言えば。たとえば、私は嘘つきである、と嘘つきが思考する。あるいは、私は正直だ。と正直な人が思考する。ということです。これは、どうやって、可能なのか?ちょっと理論的には判らないけど、そうできるのも事実ではないでしょうか。

うむむむ。。これは理解できそうで理解できません。
「思考」と「思考をする人の性質」の関係、というのは、概念上で思考できることは確かに事実ですが。。たぶん僕が使っているのとは違う意味で「事実」を使われているのでしょう。

> それは知覚者とは何?という、また違う問題に繋がります。とりあえず結論を言います。知覚されること/思考されること(見られるもの)と、そうすること(見るもの)は同じではありません。そして、違うのでもありません。
> すでに2500年前に・・・同じでも違うのでもない、わたしは中道を説く・・・と仏陀が(阿含経で)言ってるそのことです。これは、知覚者は、そんな相にはないという意味です。ここでは、自己は知覚の領域にはないので、自分で自分を知覚不能と言います。無相の自己、とか。どうして舌が無味でなくて味が分かるだろう、という表現もあります。


それを「中道」と表現されていたのですね。
確か前にも書きましたが僕は「自己」という言葉は持っていません。表現不能です。以前にこの問題(つまり究極の主体・客体関係)に取り組んだことがありますが、思考・解釈では無理というか、それは思考の域を出ないと心底実感したので、そこを探るエネルギーはすっかりなくなりました。たしかブッダは「不記」とも表現されていませんでしたか?
※追記:すみません「不記」ではなく「無記」が正しいようでした。

> ほとんどKの書は読んでいませんが・・・見るものは見られるもの、意識とはその内容・・・という表現があります。これは・・・その中心がない、主体がない・・・無我を前提にしています。これは、ほとんどA=Aです。これも無我が前提です。でも、その、主体がない、ということは主体は主体を知覚できない、というような意味でしかない、と捉えています。

眼球は眼球それ自体を見ることはできないと。。
やっぱりここは思考では無理と感じます。

>自覚できない自己。それを見逃してはならない、というのが主旨といえば主旨です。

素朴な疑問としては、「自覚できないもの」を見逃してはならない、という意味がよくわかりません。「自覚できないことの自覚」でしたらわかりますが。。
> たとえば見る聞くという・・・知覚とその対象・・・だけの範疇なら、見るものは見られるもの、意識はその内容。それだけです。自分は世界、です。知覚を離れて世界はありません。そうでなく・・・意識とその対象・・・も含めた一切・・・は、それだけとは言えない、です。
> もちろん、知覚とその対象、意識とその対象・・・一切・・・は、どちらも知覚です。それで、りんごとその認識、という疑問が成立するのかもしれません。ここでは、意識とその対象、よりの疑問を探ってる、とも言えそうです。


僕にとっては、知覚、意識を超えたところ、というのは、全く知らない、知り得ないとしか言えません。そして「知覚とその対象、意識とその対象」という主客にわけた表現は、僕にとっては思考、概念、であるのが事実です。

主体と客体というのはないから、見る者は見られるものという表現も違和感がありますし、かといって主体は自覚できないけどあるのだ、という表現も違和感があり、よって僕の場合そこは「・・・」です。

No.3497 - 2011/06/03(Fri) 09:57:26

Re: 思考の無関係性。 / ubik0101
>それを「中道」と表現されていたのですね。
>確か前にも書きましたが僕は「自己」という言葉は持っていません。表現不能です。以前にこの問題(つまり究極の主体・客体関係)に取り組んだことがありますが、思考・解釈では無理というか、それは思考の域を出ないと心底実感したので、そこを探るエネルギーはすっかりなくなりました。たしかブッダは「不記」とも表現されていませんでしたか?


まず、中道、とは。世界の総活動のことです。ありとあらゆること、怒り、悲しみ、慈しみ、優。劣、好き、嫌い、善、悪・・・あることと、その類似のことと、その反対のことと、無関係なこと・・が一気に活動してるならどうでしょう。その、どこか個別のことには偏ることができません。

そのことを説明するのに、たとえば善悪の両極端にも、その中間にも偏ることができません・・・その意味で善悪はない・・・と言えるということです。もちろん因果の概念も成立しません。そして、その世界の総活動を察知してるのが、自己です。それは、世界の総活動の相・・・それは普通の日常とほとんど変わりませんが・・・そこにはない、と言います。

それで、中道を理解したうえで、見られるものは見るものでも、でもないでもない、両極端ではない、と言えます。「不記」?無記という言葉を、 いまネットで検索したら、仏陀は答えなかった、という意味だそうです。

>眼球は眼球それ自体を見ることはできないと。。
>やっぱりここは思考では無理と感じます。


ここは思考では無理と、思考が感じたのでしょうか?無理と感じたのは、思考でないなら、なんでしょう?

>僕にとっては、知覚、意識を超えたところ、というのは、全く知らない、知り得ないとしか言えません。

おなじことですが、その「僕」って何?ということです。「全く知らない、知り得ない」と、感じたのは、何?です。思考で無理なら、なんなら可能?です。

これに、まったく手掛かりがないというわけではないです。とりあえずは、ここで言う、反応、です。

たとえばsuhoさんの投稿に返信を書いてる、この反応、です。パソコンを打ってる、なにか知覚してる、思考してる、そこで生起してる、反応、です。

>そして「知覚とその対象、意識とその対象」という主客にわけた表現は、僕にとっては思考、概念、であるのが事実です。
>主体と客体というのはないから、見る者は見られるものという表現も違和感がありますし、かといって主体は自覚できないけどあるのだ、という表現も違和感があり、よって僕の場合そこは「・・・」です。


それは、知覚と、その対象。が同じでも違うでもない、ほかの言い方では、主客に分ける、分けられない、どちらでもある、どっちでもない、も言えない、ゆえに思考できるということです。主客にわけた表現ではないと思います。

ここは、主体だけ、客体だけ、どちらかなら思考もできない・・・とも言えます。この世界は、 完全な融合、完全な分離もない、です。 そして、こう理解できるのはなぜ?こう理解してるのは何?です。

No.3498 - 2011/06/03(Fri) 14:32:37

Re: 思考の無関係性。 / suho
>ここは思考では無理と、思考が感じたのでしょうか?無理と感じたのは、思考でないなら、なんでしょう?
>おなじことですが、その「僕」って何?ということです。「全く知らない、知り得ない」と、感じたのは、何?です。思考で無理なら、なんなら可能?です。


「僕」というのは「これ」の記号です。で「僕(これ)って何?」という疑問は、精神(思考・記憶)が問うのです。それは、その「分からない状態」にそのまま落ち着けないので、何かをつかみたくて、落ち着きたくて、問うのです。
つまり「わからない不安」からの逃避です。
で、答えを求め、いかようにでも考えられる思考領域に入り、知覚全体からはなれてしまいます。この思考運動にとらわれることで生じる「偏り」「違和感」「抵抗感」を体験したので、もう自然とそこには入れない、という感じです。
それは目にゴミが入りそうになったときに、咄嗟に瞼がゴミをはらう類の感じです。

>これに、まったく手掛かりがないというわけではないです。とりあえずは、ここで言う、反応、です。
>たとえばsuhoさんの投稿に返信を書いてる、この反応、です。パソコンを打ってる、なにか知覚してる、思考してる、そこで生起してる、反応、です。


反応は、知覚の一部です。その反応が起きていることは事実です。
で、その反応、それだけです。

>それは、知覚と、その対象。が同じでも違うでもない、ほかの言い方では、主客に分ける、分けられない、どちらでもある、どっちでもない、も言えない、ゆえに思考できるということです。主客にわけた表現ではないと思います。

うーん。なぜ思考できるかの理由はわかりません。僕にとって、それは「指がなぜ5本あるのか?」という問いと同じ質のものです。思考は既に機能しているもの、としか言えません。

>ここは、主体だけ、客体だけ、どちらかなら思考もできない・・・とも言えます。この世界は、 完全な融合、完全な分離もない、です。 そして、こう理解できるのはなぜ?こう理解してるのは何?です。

ここで問われることも、上記と同様です。
その「問い」が湧かないし、ubi さんに問われても、それを考える運動に入れない、というのが実際です。

それともubiさんは、suhoさんならそれをどのようにイメージし、どのように名付けるのか?と聞いているのでしょうか?

No.3499 - 2011/06/03(Fri) 19:27:54

Re: 思考の無関係性。 / suho
> それともubiさんは、suhoさんならそれをどのようにイメージし、どのように名付けるのか?と聞いているのでしょうか?

であるならば、こう言います。

「ただただ創造。ただただ愛。」です。

No.3500 - 2011/06/03(Fri) 19:40:35
(No Subject) / suho

「ある」と「ない」をまぜるとすごいことになります。。

No.3480 - 2011/05/31(Tue) 23:28:41

Re: / ubik0101&hato
もう、混じってるんですけど・・・だま・・・があります。

ubik0101

ある・・・ない・・・そう・・・でもない。表現不可能、不確実膨大無尽蔵のその様相は、全体。として一括りにすることが、ときに可能・・・ときに不可能・・・そもそも、無理・・・と、思いました。

hato

金芽柘植に、クリーム色の、小さな花が咲いてます。

No.3482 - 2011/06/01(Wed) 01:37:24

Re: / suho
たしかubiさんは前提の前提を掘り起す、というようなことを書かれていましたね。。

頭は思っている以上に石頭のようで。。
頭で自ら頭突きしながら頭を掘り進んでいくと、見つけてはいけなかったウラン鉱石のようなものを見つけてしまうのかもしれません。。

なので、まずは、この思っている以上のこの石頭を、腰をすえて素直に味わっちゃうのがいいのか?

見えるの不思議。。
聞こえるの不思議。。
考えるの不思議。。
出てくるの不思議。。
知りたいの不思議。。

不思議と、不思議それ自体に素直に語らせるほうがオモロイのは間違いない。。

あ、それが人か。。

No.3483 - 2011/06/01(Wed) 07:01:18

Re: / suho
改めて。。

> これだけと言えば、これだけです。既知も、未知です。

これ、やっぱり、凄いですね。。

No.3484 - 2011/06/01(Wed) 10:15:17

Re: / ubik0101
ま、それはそれとして・・・「このカレーには人参が入っています」。という表現に、奇妙さを感じないでしょうか?

このカレーは、たとえば人参だけを個別のこととして取り出すと、もうそのカレーではなくなります。

なので、その人参がその部分ではありません。でも、人参が全部でもないような気がします。そんな不可能を可能にした宇宙のような、奇跡のカレーです。

No.3485 - 2011/06/01(Wed) 12:33:05

Re: / suho

それは奇跡です。

「このカレーにはカレーが入っていません」くらいの奇跡です!

No.3486 - 2011/06/01(Wed) 14:29:29

Re: / ubik0101
きゃはは。じゃ。 これは、なぜ、これ?
No.3487 - 2011/06/01(Wed) 17:21:19

Re: / suho
あ、これですかぁ?うーん。
たぶんそれほどでもないと思いますよぉ〜。
ただ、ちょっとギリかぁ〜。
あ、イテッ。噛むなよぉ。

No.3488 - 2011/06/01(Wed) 18:13:40

Re: / ubik0101
ちょっと居留守します。
No.3489 - 2011/06/01(Wed) 18:36:44

Re: / hato

人は、片腹痛いところは、つい無視したくなるものかも知れません。でも、なぜ、そうか。の、そこを避けてしまうと、どうしても、いけません。

人は、素直。
これが一番大事。なのでした。


今日は、二十日大根がふたつ、収穫されました。とても可愛い具合に、大喜び。食べてみたらすこし柔らかめ、優しい、歯ざわりでした。

No.3490 - 2011/06/01(Wed) 20:34:12
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