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自我の研究《概観》 / ubik0101
まあ,自我を研究するのは,自我です。それから開放されても,そいう研究ができるのは,自我が削除されたのではなく・・・失われることは何もなく・・・完成だからです。

それを,たとえば,ない,と呼べます。たとえばパズルが完成したら,パズルとしては機能し,ない,です。パズルとして(部分と部分との関係が)機能すれば,まだ迷い遊ぶことができるので,ある。です。

その完成という意味での,ない・・・無我・・・から見ると,なんかわけの判らない無明とかの原因があるのではなく,自我は,心理的思考,葛藤,(まだ完成してないパズルの部分と部分との混乱した関係・・・分離)そのことに見えてしまいます。

なので,心理的思考,葛藤とかがなければ,自我がないと見えてしまいますが,それはそう見えるだけで実際とは違います。これは困ったものですが,そう見えることに自我のまま追従してしまうこともできるようです。

まあ,いわゆる心理的思考,葛藤の仕組みとは。なにか原因があって,結果があって,それを時間が繋いでる。と,自覚する自覚しないには無関係に。その範疇で運動する思考・・・それは誤った因果関係としての思考。に,ほとんど帰せられるようです。つまり自我とは,因果関係を闇の中で手探りで学んでること,とも言えます。

そして一般的に言う因果関係は,世界の総活動,縁起,中道を,思考によって捉えなおしたことです。思考による演繹であり,事実ではなく,なにかのもの、ことを世界から切り取ったとして思考されてて、空想です。もちろんそれは削除はされませんが、自我の機能です。

そしてこんなことは,完全な分離(そのものとして独立)でも,完全な融合(総ては一つ)もない,パズルの独立した部分でも完全に完成してしまってるものでもない,この世界ゆえに可能です。これ全体を,ひとつ,とは呼んでも,やはり思考による演繹です。

ところで、たしかに。この世界限定ならば・・・完全な,あるとない,は識別不可能です。この世界に生きてこの世界に依存しないなら,その,あるない,は明確です。それは,でも知覚の領域にないので,説明は困難です。

おおよそは,日常で,こんなことを思考によって辿っているのだと思います。その道すがら,思考の正確さは,あるいは、どのように曖昧かを見ることは、必要です。

この雨上がり・・・まだ青いトマトです。

No.3471 - 2011/05/30(Mon) 10:21:12

Re: 自我の研究《概観》 / suho
> まあ,自我を研究するのは,自我です。それから開放されても,そいう研究ができるのは,自我が削除されたのではなく・・・失われることは何もなく・・・完成だからです。

その自我と定義しているのも思考と感じます。
ubiさんが思考運動(断片データの運動)のなにを定義として自我としているのかが見えませんが(おそらく全体運動と連携せず、ループし、閉塞している運動のそれを指しているような気もしますが)、思考の運動は、それ自体が成長するとか、完成するようには思えません。

> それを,たとえば,ない,と呼べます。たとえばパズルが完成したら,パズルとしては機能し,ない,です。パズルとして(部分と部分との関係が)機能すれば,まだ迷い遊ぶことができるので,ある。です。

ぼくにはどうしても「ある」「ない」というのは、思考の運動の中の部分記号にしか見えません。

> その完成という意味での,ない・・・無我・・・から見ると,なんかわけの判らない無明とかの原因があるのではなく,自我は,心理的思考,葛藤,(まだ完成してないパズルの部分と部分との混乱した関係・・・分離)そのことに見えてしまいます。

うーん。言葉はデータ。記憶。現象の部分の定義、つまり名づけそのもの。ですので「無我」も「無明」も、個々によって現象のどのような状態を指しているのかによって、変わるような気がします。個々の観念世界(内部世界)までは、はっきりと見えないので、その言葉の流れから推測するしかないです。

> なので,心理的思考,葛藤とかがなければ,自我がないと見えてしまいますが,それはそう見えるだけで実際とは違います。これは困ったものですが,そう見えることに自我のまま追従してしまうこともできるようです。

葛藤や混乱はなくなることはありません。この個体の葛藤がなくなったとしても、他のあらゆる個体の精神が、葛藤し、混乱しているので、それは、そのまま感じます。精神は、個々で性質が違っていても、もとは同じものの運動です。

> まあ,いわゆる心理的思考,葛藤の仕組みとは。なにか原因があって,結果があって,それを時間が繋いでる。と,自覚する自覚しないには無関係に。その範疇で運動する思考・・・それは誤った因果関係としての思考。に,ほとんど帰せられるようです。つまり自我とは,因果関係を闇の中で手探りで学んでること,とも言えます。

ああ、これは少し感じがわかります。
自ら閉塞した空間で、延々とループしているときがそうです。で、エネルギーが、自ら圧縮しあっているので、破壊的です。場合によっては爆発です。

> そして一般的に言う因果関係は,世界の総活動,縁起,中道を,思考によって捉えなおしたことです。思考による演繹であり,事実ではなく,なにかのもの、ことを世界から切り取ったとして思考されてて、空想です。もちろんそれは削除はされませんが、自我の機能です。

うーん。ここもどのような部分をそう言語表現されているのか。。言葉は観念であり、データですので、おそらくubiさんはubiさんなりの観念・定義で、世界を見ているような気がします。

> そしてこんなことは,完全な分離(そのものとして独立)でも,完全な融合(総ては一つ)もない,パズルの独立した部分でも完全に完成してしまってるものでもない,この世界ゆえに可能です。これ全体を,ひとつ,とは呼んでも,やはり思考による演繹です。

はい。どう表現しても言葉は言葉であり、それそのものとは違います。それそのものは、どんな表現も持たないです。

>ところで、たしかに。この世界限定ならば・・・完全な,あるとない,は識別不可能です。この世界に生きてこの世界に依存しないなら,その,あるない,は明確です。それは,でも知覚の領域にないので,説明は困難です。

ここはよくわかりません。

> おおよそは,日常で,こんなことを思考によって辿っているのだと思います。その道すがら,思考の正確さは,あるいは、どのように曖昧かを見ることは、必要です。

確かに、思考は正確に機能します。が、自ら観念で領域を狭めて、データ(記憶)を蓄積し続けると、エネルギーが閉塞してしまい、バグをおこすようです。それが混乱、葛藤です。

> この雨上がり・・・まだ青いトマトです。

むむむ。青い香りがぷんぷんしてくる感じです。
あー。最近はスーパーで買える野菜が限られてきました。。

No.3472 - 2011/05/30(Mon) 23:46:30

Re: 自我の研究《概観》 / ubik0101
> その自我と定義しているのも思考と感じます。

たとえば、誰かのことを、あの言動は自己顕示欲の現れだ。と思考するとします。それは、すでに空想かもしれません。そんな空想をするというのは、自我の働きではないでしょうか。

つまり、自我を研究するなら、自我の領域にいるのです。また自分の自我な状態を研究するとして、その自分が自我な状態でなくては、それは出来ない、です。それは削除されません。愚かさが叡智に転換する、と表現しても同じです。

> ubiさんが思考運動(断片データの運動)のなにを定義として自我としているのかが見えませんが(おそらく全体運動と連携せず、ループし、閉塞している運動のそれを指しているような気もしますが)、思考の運動は、それ自体が成長するとか、完成するようには思えません。

そうです。思考の運動そのことは成長しません。あくまで喩えですが、ボートで、魚を釣ろうという意図があって、毎日のように太平洋に漕ぎ出します。

オールで漕ぎます。雨の日があります。晴れの日があります。魚は釣れたり、釣れなかったりします。喜びます、怒ります。タックル、餌は、こうじゃない、ああじゃないと、葛藤するかもしれません。おなじことに見えることを、死ぬまで繰り返すかもしれません。

その意図は、魚釣りです。なにかを求めているのです。しかし、毎日、ともかくボートを漕ぐならば、海を学び気象を学び魚との関係を学びます。しかしここで、なんであれ意図しないでも、身体には筋力がついてしまいます。

それは実際に、ボートで海に漕ぎ出したからです。この世界に生きてるからです。オールを動かす運動は、辛い苦しい、単なる運動かもしれません。海と魚の関係も、ただそれだけのことです。スコップで庭を花を植えるという意図で、地べたを掘り返しても、同様です。社会で稼ぐために辛い思いをしても同様です。でも、成長は、意図しない、そこで起こります。

ただ、これは結果です。その人が成長した、そのことがあって、ボートを漕いだからだ。社会で働いたからだ。ということです。ならば、もう、ボートだろうが、庭だろうが、社会だろうが、それまでの喜びも、怒りも、悲しみも、思考も、勤勉も、怠惰も。どんなことも必要だった。経験としては不可欠ではあったけど、それに依存することはない、ことを了解します。

ここで、素直さ、真摯で正確なこと、悪いことをせず、善いことをする・・・獲得した良い特質が・・・それを思考しても、思考しなくても・・・機能します。思考からの解放です。

> ぼくにはどうしても「ある」「ない」というのは、思考の運動の中の部分記号にしか見えません。

> うーん。言葉はデータ。記憶。現象の部分の定義、つまり名づけそのもの。ですので「無我」も「無明」も、個々によって現象のどのような状態を指しているのかによって、変わるような気がします。個々の観念世界(内部世界)までは、はっきりと見えないので、その言葉の流れから推測するしかないです。

ではまず、言葉が、どのようなことなのか?です。じっと青空を凝視します。あるいは歩いていて意識に昇らず、なんとなく、爽快さを感じてるだけです。ここで、それ、を意図的に認識します。そのとき・・・青空、という名付け得ないことに、青空、という名前が付けられたのです。庭、男、女、僕、酒、思考、観念、時間。みな、そうです。

たとえば庭は、庭と呼ぶ必要もなく、庭と呼んでいるのです。庭という言葉は、庭を現さないのです。なので、庭を正確に現すのです。そうでないなら、庭と庭という言葉は影響し、言葉は正確に機能できません。そうならば、人は言葉を使ってる、というより、言葉に使われてる・・・言葉の訳の話からなさの直中で、それが何か?学ばせて貰ってる、養育させて貰ってる、のかもしれません。

> 葛藤や混乱はなくなることはありません。この個体の葛藤がなくなったとしても、他のあらゆる個体の精神が、葛藤し、混乱しているので、それは、そのまま感じます。精神は、個々で性質が違っていても、もとは同じものの運動です。

それで、です。そういうことを葛藤と呼ぶとして・・・ちょっとシフトしてください・・・それは世界の機能なのではないでしょうか。つまり、個人、その独特の、個別の、特定の、ことではない、でしょう。それを排除しようとすると、それも葛藤になり得るでしょう。そして、それも世界の機能でしょう。

どうして、それがこの自分のことなのか?・・・世界が、その自分にそうしてあげてるのを、その自分が、そうしてる。と思い違うこと、その自分がある。それも自我の機能の、ひとつの現れです。また、そのように葛藤して、騒いで、自分が自分を自覚しようとする・・・それも 自我の機能の、ひとつの現れです。

> はい。どう表現しても言葉は言葉であり、それそのものとは違います。それそのものは、どんな表現も持たないです。

と、suhoさんは表現できてるのでしょう?また。それそのことは、それそのことでしか、それそのことを表現できない。とも言えそうです。繰り返しですが・・・それそのことと言葉は無関係。ゆえに言葉は正確に機能します

No.3473 - 2011/05/31(Tue) 09:49:13

Re: 自我の研究《概観》 / suho
> > その自我と定義しているのも思考と感じます。
>
> たとえば、誰かのことを、あの言動は自己顕示欲の現れだ。と思考するとします。それは、すでに空想かもしれません。そんな空想をするというのは、自我の働きではないでしょうか。


もしかしてubiさんは、僕が使う「精神」のことを「自我」と表現されているのかなと感じました。
上で書かれたものが、感情をともなった「重い反応」として生じているのであれば、確かに空想というか、1つの葛藤反応です。

> つまり、自我を研究するなら、自我の領域にいるのです。また自分の自我な状態を研究するとして、その自分が自我な状態でなくては、それは出来ない、です。それは削除されません。愚かさが叡智に転換する、と表現しても同じです。

やっぱりubiさんの言う「自我」は「精神」とは違うのかな?
ちなみに僕が使う精神とは「心」と言い換えてもいいものです。
上でかかれていることは、わかります。

> それは実際に、ボートで海に漕ぎ出したからです。この世界に生きてるからです。オールを動かす運動は、辛い苦しい、単なる運動かもしれません。海と魚の関係も、ただそれだけのことです。スコップで庭を花を植えるという意図で、地べたを掘り返しても、同様です。社会で稼ぐために辛い思いをしても同様です。でも、成長は、意図しない、そこで起こります。

はい。成長は意図しない。自己拡大の欲望はそこにはない。はい。

> ただ、これは結果です。その人が成長した、そのことがあって、ボートを漕いだからだ。社会で働いたからだ。ということです。ならば、もう、ボートだろうが、庭だろうが、社会だろうが、それまでの喜びも、怒りも、悲しみも、思考も、勤勉も、怠惰も。どんなことも必要だった。経験としては不可欠ではあったけど、それに依存することはない、ことを了解します。

はい。経験のあらゆることが、それの理解へのきっかけであったことが理解される。はい。
依存することはない、とも表現できるし、自ずと捨てられる、あるいは、その経験(記憶)に翻弄されることがなくなる。

> ここで、素直さ、真摯で正確なこと、悪いことをせず、善いことをする・・・獲得した良い特質が・・・それを思考しても、思考しなくても・・・機能します。思考からの解放です。

獲得した、という表現がちょっと違和感がありますが。。精神が獲得した、というよりも、それは、非個人的に、すでにそうであるのもであって、ただ、精神が混乱していたために、それに気づけなかった、という表現のほうが僕はしっくりきます。それは、ひとしく、すべてに、常に、働いているもの。

> ではまず、言葉が、どのようなことなのか?です。じっと青空を凝視します。あるいは歩いていて意識に昇らず、なんとなく、爽快さを感じてるだけです。ここで、それ、を意図的に認識します。そのとき・・・青空、という名付け得ないことに、青空、という名前が付けられたのです。庭、男、女、僕、酒、思考、観念、時間。みな、そうです。

はい。わかります。

> たとえば庭は、庭と呼ぶ必要もなく、庭と呼んでいるのです。庭という言葉は、庭を現さないのです。

はい。わかります。

>なので、庭を正確に現すのです。そうでないなら、庭と庭という言葉は影響し、言葉は正確に機能できません。そうならば、人は言葉を使ってる、というより、言葉に使われてる・・・言葉の訳の話からなさの直中で、それが何か?学ばせて貰ってる、養育させて貰ってる、のかもしれません。

ああ、わかりました。それは僕が言葉を「記号」と表現している意味と同じです。
記号自体は、単なる無機質な「名」「データ」ですので、それそのものと干渉しません。はい。

No.3474 - 2011/05/31(Tue) 11:55:48

Re: 自我の研究《概観》 / suho
> それで、です。そういうことを葛藤と呼ぶとして・・・ちょっとシフトしてください・・・それは世界の機能なのではないでしょうか。つまり、個人、その独特の、個別の、特定の、ことではない、でしょう。それを排除しようとすると、それも葛藤になり得るでしょう。そして、それも世界の機能でしょう。

はい。それは非個人的なものです。
世界の機能。。そうとも言えますか。はい。
先の話ではないけれど、起きてくる経験も、世界の機能。はい。

> どうして、それがこの自分のことなのか?・・・世界が、その自分にそうしてあげてるのを、その自分が、そうしてる。と思い違うこと、その自分がある。それも自我の機能の、ひとつの現れです。また、そのように葛藤して、騒いで、自分が自分を自覚しようとする・・・それも 自我の機能の、ひとつの現れです。

その「自分」「自分の」というのが、破壊を生む根本的な要因である観念です。
これに同化すると、中心化すると、あらゆるもの、経験が、偽物になります。
ありもしない「分離」を生み「比較」を生み「対立」を生み、結果「破壊」を生んでいます。けれど、その経験の苦痛、苦しみが、それ自体の構造の理解の契機です。

> > はい。どう表現しても言葉は言葉であり、それそのものとは違います。それそのものは、どんな表現も持たないです。
>
> と、suhoさんは表現できてるのでしょう?また。それそのことは、それそのことでしか、それそのことを表現できない。とも言えそうです。繰り返しですが・・・それそのことと言葉は無関係。ゆえに言葉は正確に機能します


はい。今回は、ubiさんの言われてることが、理解できたと思います。

No.3475 - 2011/05/31(Tue) 11:56:59

Re: 自我の研究《概観》 / suho
もうちょっと、ここを詳しく書いてみます。

> > どうして、それがこの自分のことなのか?・・・世界が、その自分にそうしてあげてるのを、その自分が、そうしてる。と思い違うこと、その自分がある。それも自我の機能の、ひとつの現れです。また、そのように葛藤して、騒いで、自分が自分を自覚しようとする・・・それも 自我の機能の、ひとつの現れです。
>
> その「自分」「自分の」というのが、破壊を生む根本的な要因である観念です。


「自分」という言葉は言葉そのものです。ただ、この個体である肉体を指す「名」「データ」です。同じく、実名もそうです。「私」でもそうです。

そして、そこに自分「の」、という「所有の観念」が生じます。あるいは自分「が」という「主体観念」。
これも日常生活上の、実用上の「名」として機能していれば、特に問題がありません。

> これに同化すると、中心化すると、あらゆるもの、経験が、偽物になります。

この「自分」「自分の」「自分が」という名と、この個体である肉体・精神(心)を同一化すると、つまり、この観念を実体として錯覚すると、分離という錯覚・思い込みが起こります。

> ありもしない「分離」を生み「比較」を生み「対立」を生み、結果「破壊」を生んでいます。けれど、その経験の苦痛、苦しみが、それ自体の構造の理解の契機です。

あらゆるものは、物理的に分かれていますが、現象全体の中で連動して起きている全体運動です。同じく、個々の精神も、その表れ方、性質に違いがあっても、これも同じものの、異なる表れ、運動です。
そこには「個別の表れ・違い」という現象は生じているものの、だから「個々に分離した実体」である、ということではありません。

「個々に分離した実体」という観念(データ)への同一化によって(これは、生まれ育った環境で条件付けられることも要因)、そのエネルギーの閉塞から「苦しみ」という知覚が生じるため、精神はこれを嫌がり、避けようとし、別な「観念」を生み出し、の逃避を試みます。それが願望であり、動機。「あるべきもの」とも言います。
この現行から「願望・動機」への逃避運動の衝動が「欲望」と呼ばれるエネルギーであり、混乱、葛藤を生む原因。

しかし、まさにこの心理運動が、その構造全体を理解する直接の機会であり「世界の機能」といえば、そうとも言えると思いますが、そのへんは、まだ調べている途中です。

No.3476 - 2011/05/31(Tue) 14:50:39

Re: 自我の研究《概観》 / ubik0101
>やっぱりubiさんの言う「自我」は「精神」とは違うのかな?
>ちなみに僕が使う精神とは「心」と言い換えてもいいものです。


まあ、精神とか心とか、その言葉で考えることは、滅多にないです。用語の違いかもしれません。

ところで、ここでいう自我とは、かなり広義で、意味としては希薄です。たとえば、死んでしまっては、見る聞く思考しない、と(仮定)します。なにも、その人において反応が生じない、と(仮定)します。

そうでなく生きていて、 なにか見る聞く思考する、知覚に、反応、して創られる、自分を自我と呼べるだろう、という意味です。なにか見る聞く思考する、意識が機能してる、そのこと、とも言えます。ふつうに言う、僕、俺、私、です。

それで、とくに感情を伴った重い反応でなくても、ただほかの人の有り様を思考する、その事態が空想だ。という意味です。もちろん、重い反応、激しい反応、も空想です。

それと、自我な自分が、自我な自分を研究することができるのも、いわゆる世界との分離、自分と自分との分離、ゆえに可能だと・・・そう近似値的には説明される、ことだと思います。

それは、

>その「自分」「自分の」というのが、破壊を生む根本的な要因である観念です。
>これに同化すると、中心化すると、あらゆるもの、経験が、偽物になります。
>ありもしない「分離」を生み「比較」を生み「対立」を生み、結果「破壊」を生んでいます。けれど、その経験の苦痛、苦しみが、それ自体の構造の理解の契機です。


と働くのでしょう。

ここは、それぞれの経緯によっての表現があるのでしょう。問題や対立を引き起こすのは、同化、中心化、というより、完全同一、完全中心でないという意味での、半反同化、半反中心化とも言えそうです。 けど、どうも正確な説明は困難なようです 。

あるいは、すでに暗い深い淵を飛び越えて、その淵の手前で迷ってた状態を、同化とか、中心化とか、分離とかとして、説明してるので。 これはたぶん、観測位置によって、さまざま解されるのでしょう。

それで、心理的思考、葛藤、分離、心理的時間、とかだけではなく。自我そのことは自覚できないけど、それが行動、発言、思考によって自覚できるようになる・・・自我とは、自分で自分を自覚したいこととか。反応、とかが見える、ということだと思います。

それで、こんなことを思考してる自分の経緯とか有り様とかを探ると、どうも世界が、美しくなるのを望んでる。善い、を望んでる。真であることを望んでる。人は、それに参画してる。というところが感じられます。

それゆえ、たとえば自我とか、原子力発電所の有り様とかのことを、なんとか明確に理解したい表現したい、そのことで・・・ことさらには役に立ちたいと思わないけど・・・役に立ちたい・・・そんな気持があるのではないでしょうか。

>はい。成長は意図しない。自己拡大の欲望はそこにはない。はい。

これは。その人の努力に関係なく、関係ないのでもなく、成長は起こります。うろ覚えですが聖書の言葉、「種を蒔くと発芽して夜も昼も成長します。そして収穫は一気です。なぜそれが育つのか、収穫できるのか人は知らない」に近い感じです。

No.3477 - 2011/05/31(Tue) 18:00:12

Re: 自我の研究《概観》 / ubik0101
>あらゆるものは、物理的に分かれていますが、現象全体の中で連動して起きている全体運動です。同じく、個々の精神も、その表れ方、性質に違いがあっても、これも同じものの、異なる表れ、運動です。
>そこには「個別の表れ・違い」という現象は生じているものの、だから「個々に分離した実体」である、ということではありません。


もしかしたら、ここで世界の総活動、と言ってることに相当するかもしれません。ただ、そのことに、なにか原因があるという意味でならば、「同じものの、異なる表れ、運動」、とは感じないです。

とあることと、その類似のことと、その反対のこと、無関係なこと・・・ありとあらゆることと、ありとありえないこと・・・総てが機能してる。それだけで・・・原因は探ったこともないんです。

ここは、なぜ、これは、これ?という疑問が生じます。その疑問が生じるそのことが・・・たとえば意識って何?と自問が生じる・・・それこそ、それからの解脱・・・意識が機能しながら、それに依存しない・・・そのことの表明のようです。

No.3478 - 2011/05/31(Tue) 20:43:46

Re: 自我の研究《概観》 / suho
> ここは、なぜ、これは、これ?という疑問が生じます。その疑問が生じるそのことが・・・たとえば意識って何?と自問が生じる・・・それこそ、それからの解脱・・・意識が機能しながら、それに依存しない・・・そのことの表明のようです。

先ほど丸美屋のマーボナスの素を買って家に帰り、マーボつながりだからいいかっと、ナスと豆腐を炒めて、何せはじめての感じなので、若干の期待をしつつ食べてみたところ。。

ところで「世界の総活動」ですか。うむむむ。
意識が機能しながら、意識に依存しない。。
わけがわからんのがポっポっポポンと。。

で、口に入れたわけですが。
予想を超えて残念な味でした。。

つーか丸美屋あまり合わないかも。

なぜ?

No.3479 - 2011/05/31(Tue) 21:36:07

Re: 自我の研究《概観》 / ubik0101&hato
それが機能してるのでなくて、どうして
それに依存しない、ということが完成するしょう。

と、いうことで、

クックドウーの、チンジャオロースの素は、キャベツ炒めても、白菜炒めても、なんでもいけます。

ubik0101


世界は人にそれ自身を、「理解」とのかたちで与えますが、その世界とは、ことさら、全体、ともいえません。それは厳然と「世界として不可分」ながら、ことさらに全体、ひとつ、との、趣意を得ているわけでも、ないようです。

意識に依存して・・・というとき、その意識には偏重があります。その意識で世界を見るとき、偏重された向きでの内容探査に向かうことがあります。

それで、でーも、

ハトポッポは、クックドゥのチンジャオロースは、チンジャオロースが美味しかったのよね。と思いました。

hato

No.3481 - 2011/06/01(Wed) 01:36:16
みどりの庭から / hato
デッキのブライダルベール。

ブライダルブーケともいわれるようです。昼は白い小さな花がたくさん開いて、夜はまあるく閉じます。とても素敵です。

No.3467 - 2011/05/29(Sun) 21:52:44

Re: みどりの庭から / hato

四つ葉のクローバー。こういう品種があるそうです。ubik0101さんが庭に植えてくれましたが、華奢な感じです。なんとか、土に定着したならいいな。と思います。

No.3468 - 2011/05/29(Sun) 21:55:42

Re: みどりの庭から / hato

すこし前の、茶摘直前の光る茶畑です。茶畑は、目に映るだけで、とたんに嬉しくなってしまうのです。なかなか表現しきれません。

No.3469 - 2011/05/29(Sun) 21:57:29

Re: みどりの庭から / hato

イボタの木に、花が咲きました。ネズミモチに、似ているそうです。

No.3470 - 2011/05/29(Sun) 21:58:57
思考は正確2 / suho
もしかしてubiさんは直感というか体験のことを言ってるのかなと感じました。
たとえば何かの思考、イメージが湧いて、それがなんの知的検討も介入せず、即、腑に落ちるというか、納得というか、自明で迷いのない絶対感というか。。

その思考・イメージを絶対的な体験を、無知でない状態としていて、それとの比較から以下のようなコメントをされているとすれば。。

>ここは、予め「ある」「ない」の定義があるのではなく、定義が明確ではないのに、あるないを思考してるのではないでしょうか。あるないに無知ゆえの思考が、「自分は、ある、ない」、なのではないでしょうか。

>たとえば、なにかについて無知なら、そう思考してなくても、その無知が機能して。自分について無知なら、無知だと思考しても、そう思考しなくても、賢いと思考しても、その無知は機能してるかもしれません。

> たとえばsuhoさんが虚偽でなく、そのあり方のままを思考します。それしか思考はできないかもしれません。それ自体に思考には判断機能がないから、なんでも思考できる。その思考そのことが、過去を参照するというのではないけど、判断といも言える。ってことでしょうか。これは、

上のコメントで、ubiさんが体験された、その直感的「絶対感」を伴ったイメージを「定義」あるいは「虚偽の根拠」あるいは「事実」だとしているのであれば、上のようにコメントをされたことは理解できます。

suhoさんはそれを知ってなければ、無知が機能しているでしょうと。

そういう意味だとして。。

しかしこの場合、その絶対感を伴ったイメージは、ubiさんが体験されたものであって、僕がそれを知りえないのは当然ではないでしょうか?

そしてその体験があるので「知っている」とし、その体験が無い人を「無知」と判断されているのであれば、それは単にubiさんの思考が、そう判断している、というのがお互いに共有できる事実ではないでしょうか?

これはあくまでも推測ですので、違っていたらすみません。
ubiさんは、たびたび「覚醒体験」?の重要性を書かれていたので、そのように推測してみました。

No.3460 - 2011/05/28(Sat) 21:30:04

Re: 思考は正確2 / ubik0101
> では再び、ubiさんの言う「事実」とはなんですか?

それは、なにかの思考が、自分の実情に合ってないか?、合ってるか?という意味です。合ってるなら、事実と呼びます。

ほかの誰かがする思考と、その人自身の有り様の関係とか・・・ほかの誰かと、この自分との人間関係とか・・・なにかの具体的な経験できることと、経験ではない空想との関係とか・・・の範疇の話ではありません。それでは、おそらく空想が混じります。

なにかの思考と、この自分の有り様との関わりです。ほとんど、この範疇でしか思考していません。

それで。なんでもいいのですが、たとえば自分がない、と思考します。それは、そう思考するのはいいのですが・・・たぶん知識から・・・自分があっても・・・そのことに気がつかず・・・自分がない、と思考できるかもしれません。

もちろん実際に自分がないなら、そこから見える風景は表現できるのです。が、それよりも、この自分がない、の「ない」、ということを明確にしなければならない、と感じるのです。

そうでなくて見える風景だけで、自分が納得できるなら、曖昧な納得、ということです。曖昧なゆえに、なんだかの思考、表現、主張がある。そこからの風景が見えるかもしれません。

ここで、自分がない、と思考してる、この自分がないなら、それを事実、と呼びます。これはA=Aの思考です。Aな自分がAと思考するのです。これは現象としては、その思考だけが知覚されているのです。

そんな思考は、知覚されてない、これまでの経緯が、大袈裟に言えば世界の総てが、機能してなければ不可能、ということを了解して、可能です。こうならば、その思考は、その思考だけ、隠し持ってるほかのことがありません。素直・・・真摯で正確・・・とも呼びます。

ここで、なにかの思考は、それがその人にとっての事実かどうか判断する機能は付属してないのではないか?ということに気がつきます。それは裏から言えば、思考が正確に機能してる、ということがあってのことです。

また、あるとかないとかも日常で、どうでもいいのですが、なんでもないここから、たとえば、ある、ない、ということが、どいうことか?探ることしかしていません。ことさら意識してませんが、世界を信頼してるのでしょう。

また、正確に思考すれば、その思考の構造つまり概念、の破綻が見えてきます。それゆえ人は思考に依存しないことができますが、それはもともと思考の構造の機能のようです。ということも思考できるほどの思考の正確さは驚異です。

ここは、さっき言ったことと反対ですが、曖昧さがなければ思考は不成立なようです。とある概念と、ほかの概念との関係も気になるのです。

こんなことは、まったく個人的なことなんですが・・・なにも思考しなくても問題ないのですが・・・そのくらいしか惹かれることもない、ということもあります。ここも、どこもですが、手探り状態です。いくら迷ってもかまわないと覚悟して、闇夜を懐中電灯で歩いてるような感じです。

それで、そうと無自覚でも無知が機能してる、というのも・・・もしかして一般的に適応できるかも知れませんが、ほかの人とかに適応すると、空想です・・・自分の経緯です。

> そしてその体験があるので「知っている」とし、その体験が無い人を「無知」と判断されているのであれば、それは単にubiさんの思考が、そう判断している、というのがお互いに共有できる事実ではないでしょうか?

それは、「知っている」ではないです。なにも知らない、ということ・・・未知がまま・・・そのことです。

No.3461 - 2011/05/29(Sun) 09:43:15

Re: 思考は正確2 / suho
> なにかの思考と、この自分の有り様との関わりです。ほとんど、この範疇でしか思考していません。

ubiさんが何をもって「自分」とされているのかがわかりませんが。。
少なくとも「思考でないもの」を自分とし、思考と関係を持たれていることはわかりました。

> また、あるとかないとかも日常で、どうでもいいのですが、なんでもないここから、たとえば、ある、ない、ということが、どいうことか?探ることしかしていません。ことさら意識してませんが、世界を信頼してるのでしょう。
>
> また、正確に思考すれば、その思考の構造つまり概念、の破綻が見えてきます。それゆえ人は思考に依存しないことができますが、それはもともと思考の構造の機能のようです。ということも思考できるほどの思考の正確さは驚異です。
>
> ここは、さっき言ったことと反対ですが、曖昧さがなければ思考は不成立なようです。とある概念と、ほかの概念との関係も気になるのです。


そうなんですね。
僕は今は思考の機能探求にはあまり関心がわいていません。
むしろ全体(現象)の部分として生じている思考が、全体に分離をもたらし、破壊をもたらす場合のありように関心というか、危機感を持っています。
これは単に特定の記憶が中心化、絶対化された場合に起こる現象なのですが。
記憶からの解放、に関心があります。

> こんなことは、まったく個人的なことなんですが・・・なにも思考しなくても問題ないのですが・・・そのくらいしか惹かれることもない、ということもあります。ここも、どこもですが、手探り状態です。いくら迷ってもかまわないと覚悟して、闇夜を懐中電灯で歩いてるような感じです。
>
> それで、そうと無自覚でも無知が機能してる、というのも・・・もしかして一般的に適応できるかも知れませんが、ほかの人とかに適応すると、空想です・・・自分の経緯です。
>
> > そしてその体験があるので「知っている」とし、その体験が無い人を「無知」と判断されているのであれば、それは単にubiさんの思考が、そう判断している、というのがお互いに共有できる事実ではないでしょうか?
>
> それは、「知っている」ではないです。なにも知らない、ということ・・・未知がまま・・・そのことです。


僕は「未知がまま」と使っているのは、記憶から、つまり既知のものと関係を持っていない精神のことを言っています。
つまりあらゆる概念(断片の情報)との関係を「継続しない」「継続できない」ありようです。
そして僕が今、調べているのは「未知がまま」でないありよう。つまり、中心化された概念(記憶)が全体(いまここ)になにをもたらしているのか、という「事実確認」です。
例えば、今進行中の原発事故も、まさに集団的に中心化された概念(部分利益への執着)が全体に及ぼしている破壊であるとみていますし、内容はどうであれ、そのような破壊は、日々の自分、個々の日常にもあふれているな、という実感です。
ですので、ubiさんが今探求されていることとは、違うのかなと感じました。

No.3462 - 2011/05/29(Sun) 10:43:31

Re: 思考は正確2 / ubik0101
これだけと言えば、これだけです。既知も、未知です。
No.3463 - 2011/05/29(Sun) 10:55:01

Re: 思考は正確2 / suho
> これだけと言えば、これだけです。既知も、未知です。

確かにそう。
関心の向きの違い、でしょうか。

どうもでした。

No.3464 - 2011/05/29(Sun) 11:26:10

Re: 思考は正確2 / hato

土手を散歩すると、道端にたくさんの、桜草が咲いています。ハッとするほど綺麗に見えます。

No.3465 - 2011/05/29(Sun) 15:39:22

Re: 思考は正確2 / hato

この牡丹も、散歩のときに見つけました。農家の畑の傍らに植わっています。

No.3466 - 2011/05/29(Sun) 15:41:56
思考は正確 / ubik0101
ところで。ずっと前のsuhoさんのブログに、自分の頭の後頭部は空想、という記事がありました。まあ、自分の脳だって、知覚できないです。この意味では空想です。

と、思うと、その自分の後頭部とか脳とか、を曖昧ですけど空想できる気持になります・・・と、いうこの思考は知覚されてることです。

もし自分の後頭部が、虫に刺されて痒かったり、自分の手で触ったりすると、後頭部が、ある、と認識できます。

ここで、自分の後頭部でも、思考でも、ある、という言葉は、なにかが機能していて知覚される。という意味で使われています。それでは、ある、ということは、それだけでしょうか。

なんでもいいのですが・・・ここからは福島の原子力発電所が見えません。ここからの知覚にとっては、ない、です。思考にとっては、空想です。そして事実は、放射能を撒き散らしています。

No.3440 - 2011/05/27(Fri) 16:59:17

Re: 思考は正確 / ubik0101
と、思考します。この思考は、機能していて知覚されることを、ある、と定義するという意味で、ある、です。けど、ここで、思考には、空想と事実との識別はできないようです。と、いうことに気がつくのではないでしょうか。

たとえば、実際に自分の後頭部を触って認識したとしても、そのような空想をしたとしても、思考は、どうやら事実と空想の識別をしてないようです。このことは、思考はそう機能せざるを得ず、それは思考が正確に機能する、ということの一端のように思われます。

ついでに・・・もちろん、自分の後頭部や脳は知覚されません。また、こう思考してる自分は知覚されません。それを、ない、と呼べるでしょうか。そう呼べるとしたら、 なにかが機能していて知覚されない、ということを、ない、と呼ぶ、という定義があるということです。

No.3441 - 2011/05/27(Fri) 17:01:32

Re: 思考は正確 / suho
> ところで。ずっと前のsuhoさんのブログに、自分の頭の後頭部は空想、という記事がありました。まあ、自分の脳だって、知覚できないです。この意味では空想です。

はい。そーいえばそのようなことを書いた記憶があります。

> と、思うと、その自分の後頭部とか脳とか、を曖昧ですけど空想できる気持になります・・・と、いうこの思考は知覚されてることです。

はい。思った、が知覚されている。

> もし自分の後頭部が、虫に刺されて痒かったり、自分の手で触ったりすると、後頭部が、ある、と認識できます。

その時「後頭部だ」という認識があるかどうかは別として、知覚はあるでしょうね。
誰かに、頭の後ろに虫がいるよ、と声をかけられて触る場合には「後頭部」という認識が、あると思います。

> ここで、自分の後頭部でも、思考でも、ある、という言葉は、なにかが機能していて知覚される。という意味で使われています。

何かが機能して、という意味は、例えばこうやってPCを打つという動きがあるとき、手やPCを、ある、と認識しているという意味でしょうか?
すみません。ubiさんがおっしゃっている「ある」というものがどのような意味なのか把握できていないです。
たとえば、こうしてPCを打っていても、PCがある、手があるという認識自覚はありません。が、誰かに何しているの?と問われれば、PCを手で打っている(とは言わないでしょうけれど。。)とそこではじめて言語上で認識し、説明上します。
普段は「ある」「ない」という自覚なしに、ただ知覚の流れの中で活動しているのが実際と感じます。
他者、あるいは何かの言語を認識したときに、そこで何かを問われれば「ある」「ない」という認識が立ち上がる、ということなんですが、そういう意味ではなくて?

>それでは、ある、ということは、それだけでしょうか。

うーん。上の「ある」「ない」がまだ理解できていないので。。

> なんでもいいのですが・・・ここからは福島の原子力発電所が見えません。ここからの知覚にとっては、ない、です。

はい。実際に見えないので知覚されて、ない。はい。

>思考にとっては、空想です。そして事実は、放射能を撒き散らしています。

思考にとって、というか、そこで想起しているのは福島原発の記憶(空想)ですね。そして放射能を撒き散らしている、というのも知覚されていない、という意味で放射能拡散という情報の記憶(空想)ということになりますか。
けれど、それは、直接近くされていなくても、過去に認識した情報から、実際に物理的に起きていることだ、という認識があるから、それは事実だ、と思考していますね。

No.3442 - 2011/05/27(Fri) 20:53:06

Re: 思考は正確 / suho
> と、思考します。この思考は、機能していて知覚されることを、ある、と定義するという意味で、ある、です。

はい。そのように思考が機能していることが「知覚」されていれば、ある、と説明する、ということですね。

>けど、ここで、思考には、空想と事実との識別はできないようです。と、いうことに気がつくのではないでしょうか。

すみません。思考には、ということですが、僕がここで思考と表現しているのは、記憶の運動のこと、として使っています。思考は機械的な運動であり、つまり記憶という情報を引き出したり、ある条件のもとで照合したりと、つまりPCのように何かの知覚に反応して、記憶が運動する、という意味で使っています。
そういう意味で、たとえば「空想」という定義(記憶)があって、「事実」という定義(記憶)があって、その判別をしなければいけない状況にある場合は、その定義にしたがい自動的に照合する、ということではないでしょうか?
そういう意味では、識別できると思います。

そうではなく、たとえばこのように思考(記憶の運動)が起きているそのこと(つまり知覚)を「事実」というのであれば、思考自体は、みずからの運動を「運動している」とは認識できないと感じます。

> たとえば、実際に自分の後頭部を触って認識したとしても、そのような空想をしたとしても、思考は、どうやら事実と空想の識別をしてないようです。このことは、思考はそう機能せざるを得ず、それは思考が正確に機能する、ということの一端のように思われます。

思考というのはインプットに対して記憶をアウトプットする、という機能ですので(おおざっぱですが)そういう意味では機械のように正確に機能すると思います。

うーん。事実と空想の識別、という意味では上に書いたとおりですね。定義にしたがって記憶を識別する、という意味では空想と事実を識別できると言えますが、思考自体は知覚という機能が無いので、今実際に起きていること、つまり事実を知覚することはないでしょう。記憶の機械的な運動なので。PCが今ここで起きていること全体を知覚していないように。

> ついでに・・・もちろん、自分の後頭部や脳は知覚されません。また、こう思考してる自分は知覚されません。それを、ない、と呼べるでしょうか。そう呼べるとしたら、 なにかが機能していて知覚されない、ということを、ない、と呼ぶ、という定義があるということです。

はい。ある、ない、というのは、思考上の定義によって決まるものであり、記憶の運動のなかでアウトプットされる判断情報ではないでしょうか?

うーん。話がかみ合っているのかどうか。。
とりあえず、自分に起きていることの記憶から、なるべく正確に記述したつもりです。。

No.3443 - 2011/05/27(Fri) 21:20:42

Re: 思考は正確 / ubik0101
>何かが機能して、という意味は、例えばこうやってPCを打つという動きがあるとき、手やPCを、ある、と認識しているという意味でしょうか?

たとえばパソコンとか自分の手が、ある、と思考したり。あるいは普通の文章で、この庭に池が、ない、と書く場合です。ある、とは。ふつうは、それが樹であれ花であれ思考であれ、それがそれとして機能していて知覚されることで。ないとは、それが、それとして機能してないで知覚されない、という意味ではないでしょうか?という意味です。

もちろん普通は、そんなことは思考しません。(a)・・・庭作業したりの日常は、行為(行動、発言、思考)が機能してるのですが、これは自分という無音の旋律を際だたせる、通奏低音のような感じです。

あるない、が意識されるのは、自分があるない、とか。あるいは、あるとかないとか、思考することが、どのように機能してるか、を探る場合です。(b)意識とその対象という意味での、思考をしてる場合です。 この(a)(b)は、いまどうしてるか、だけで、さほどの違いはないようです。

続きます。

No.3446 - 2011/05/28(Sat) 12:19:37

Re: 思考は正確 / ubik0101
>けれど、それは、直接近くされていなくても、過去に認識した情報から、実際に物理的に起きていることだ、という認識があるから、それは事実だ、と思考していますね。

まだ総ては見切れないので、迷走しますが・・・それがもし、世界中の人が信じてるとしても、放射能が漏れてるとかは、嘘の情報かも知れません。そして、思考にそれを確かめる機能がないとしたら・・・どうでしょう。

ここは、これは事故だと、それを当然のこととして思考しない、疑わない、その上に思考が展開するのではないでしょうか。

ここで、たとえば「自分は、ない」と、思考する、とします。しかし、それは不正確な感じがします。というのは、この思考の総ての構成要素、「自分」「ある」「ない」が、なにも定義されずに判断されているかもしれません。

ここは、予め「ある」「ない」の定義があるのではなく、定義が明確ではないのに、あるないを思考してるのではないでしょうか。あるないに無知ゆえの思考が、「自分は、ある、ない」、なのではないでしょうか。

たとえば、なにかについて無知なら、そう思考してなくても、その無知が機能して。自分について無知なら、無知だと思考しても、そう思考しなくても、賢いと思考しても、その無知は機能してるかもしれません。

続きます

No.3447 - 2011/05/28(Sat) 13:58:54

Re: 思考は正確 / ubik0101
続きます。

と言って、しばらく中断して、忘れることもあるけれど、思考を続けることもできます。思考は知覚されてなくても、なにかが継続してるのかもしれません。

たとえば原子力発電所は、知覚もできないけど。知覚しても、知覚しなくても、思考しても、思考しなくても。でも、放射能の影響は、事実は事実。ということがあります。

それと、思考は、記憶からのことかもしれませんが、思考そのことは、過去とか未来を識別してないかもしれません。なので、思考は記憶から、という思考を要するのかもしれません。

まったく、その思考は、その思考だけだから、空想と事実を、過去と今と未来を識別しないから、思考の、あるない、と実際の、あるない、は無関係。また自分が、たとえば無執着と思考することと、その自分とは無関係。だから、とても正確に機能します。

それだから、なにも判断する機能がない思考に捕らわれるなら、いわゆる心理的思考、葛藤、混乱を起こす、ということも説明できそうです。

No.3448 - 2011/05/28(Sat) 14:18:23

Re: 思考は正確 / suho
> まだ総ては見切れないので、迷走しますが・・・それがもし、世界中の人が信じてるとしても、放射能が漏れてるとかは、嘘の情報かも知れません。そして、思考にそれを確かめる機能がないとしたら・・・どうでしょう。
> ここは、これは事故だと、それを当然のこととして思考しない、疑わない、その上に思考が展開するのではないでしょうか。


ubiさんは「思考には事実を確かめる機能が無い」ということを伝えようとされているのでしょうか?

ここで確認したいのですが、ubiさんの言われる「事実」とは何をさしているのでしょうか?

例えば、僕の場合は、物理的にも心理的にも実際に起きていること。つまり様々な知覚。このことを言っています。

で、思考は、その様々な知覚・事実の1つの様相・機能なので、「思考には事実全体を確かめる機能がない」というのならわかります。部分が全体を確かめることはできないから。

> ここで、たとえば「自分は、ない」と、思考する、とします。しかし、それは不正確な感じがします。というのは、この思考の総ての構成要素、「自分」「ある」「ない」が、なにも定義されずに判断されているかもしれません。

うーん。僕の感じでは、思考自体が知覚の1つの様相です。その思考が「自分は、ない」と思考したとして、正確かどうか、というよりも、ただ、そのように解釈している、という以外に特になにも湧かないのですが。。

> ここは、予め「ある」「ない」の定義があるのではなく、定義が明確ではないのに、あるないを思考してるのではないでしょうか。あるないに無知ゆえの思考が、「自分は、ある、ない」、なのではないでしょうか。

思考の場合、定義は無限に設定できます。たぶん定義というのは、個々の思考によって様々なのではないでしょうか?

> たとえば、なにかについて無知なら、そう思考してなくても、その無知が機能して。自分について無知なら、無知だと思考しても、そう思考しなくても、賢いと思考しても、その無知は機能してるかもしれません。

上記のとおりなので、こちらについてもその後の思考の展開ということで、特になにも感じることはありません。

No.3449 - 2011/05/28(Sat) 14:50:30

Re: 思考は正確 / suho
> と言って、しばらく中断して、忘れることもあるけれど、思考を続けることもできます。思考は知覚されてなくても、なにかが継続してるのかもしれません。
>
> たとえば原子力発電所は、知覚もできないけど。知覚しても、知覚しなくても、思考しても、思考しなくても。でも、放射能の影響は、事実は事実。ということがあります。


ということがある、という表現は、そうじゃない場合もある、ということでしょうか?
僕にとっては、上に書かれたことは、そのとおりと感じます。

> それと、思考は、記憶からのことかもしれませんが、思考そのことは、過去とか未来を識別してないかもしれません。なので、思考は記憶から、という思考を要するのかもしれません。

例えば、こうしてPCを打っているわけですが、今実際にここで起きていることは、こうして思考しながら言葉を打っている、部屋のなかでこの肉体が。窓から日がさし、窓の向こうで樹木の葉が雨で揺れています。これだけではないですが、いろいろな知覚が生じています。
そして、今思考していることは、ここに生じていること全体ではなく、その生じている全体の一部として、経験からくる記憶をベースに書いています。
過去、未来と識別するのは、思考です。脳内に生じた断片の情報(記憶)を識別しているのです。でもその思考の運動は、今起きています。僕に起きているのは、そんな感じです。

> まったく、その思考は、その思考だけだから、空想と事実を、過去と今と未来を識別しないから、思考の、あるない、と実際の、あるない、は無関係。また自分が、たとえば無執着と思考することと、その自分とは無関係。だから、とても正確に機能します。
> それだから、なにも判断する機能がない思考に捕らわれるなら、いわゆる心理的思考、葛藤、混乱を起こす、ということも説明できそうです。


うーん。すみません。よくわかりません。
僕の場合、判断は、思考がしています。何かの定義や基準によって、情報を判別しています。

葛藤や混乱を起こす要因としては、思考に集中しすぎてしまい、今起きていることを見失い、全体の連携が取れなくなったときに起こると感じます。

No.3450 - 2011/05/28(Sat) 15:06:12

Re: 思考は正確 / ubik0101

> ubiさんは「思考には事実を確かめる機能が無い」ということを伝えようとされているのでしょうか?

とりあえず。その思考は、その思考のほかのこと、たとえば、その思考の真偽を現さない、ということです。

> ここで確認したいのですが、ubiさんの言われる「事実」とは何をさしているのでしょうか?

> 例えば、僕の場合は、物理的にも心理的にも実際に起きていること。つまり様々な知覚。このことを言っています。

では、知覚されないことは、事実、ではないということでしょうか?

> で、思考は、その様々な知覚・事実の1つの様相・機能なので、「思考には事実全体を確かめる機能がない」というのならわかります。部分が全体を確かめることはできないから。

うーんと、その全体って、事実として知覚されますか?また、部分が全体を確かめられない、というのは、どのように確認できますか?

> > ここで、たとえば「自分は、ない」と、思考する、とします。しかし、それは不正確な感じがします。というのは、この思考の総ての構成要素、「自分」「ある」「ない」が、なにも定義されずに判断されているかもしれません。
>
> うーん。僕の感じでは、思考自体が知覚の1つの様相です。その思考が「自分は、ない」と思考したとして、正確かどうか、というよりも、ただ、そのように解釈している、という以外に特になにも湧かないのですが。。


それは、たしかに。とくに解釈しないというのも、問題ないのです。でも、解釈でない、あるない、は?不問なのでしょうか。

> > ここは、予め「ある」「ない」の定義があるのではなく、定義が明確ではないのに、あるないを思考してるのではないでしょうか。あるないに無知ゆえの思考が、「自分は、ある、ない」、なのではないでしょうか。
>
> 思考の場合、定義は無限に設定できます。たぶん定義というのは、個々の思考によって様々なのではないでしょうか?


たとえば、ある、について。それが機能してて知覚されることを、ある、と呼ぶ。ほかに、なにか定義できるといいのですが?

No.3451 - 2011/05/28(Sat) 16:09:25

Re: 思考は正確 / ubik0101

> > たとえば原子力発電所は、知覚もできないけど。知覚しても、知覚しなくても、思考しても、思考しなくても。でも、放射能の影響は、事実は事実。ということがあります。

> ということがある、という表現は、そうじゃない場合もある、ということでしょうか?

ここでは原子力発電所は知覚できないけど機能してることがある、ことの喩えです。

> 例えば、こうしてPCを打っているわけですが、今実際にここで起きていることは、こうして思考しながら言葉を打っている、部屋のなかでこの肉体が。窓から日がさし、窓の向こうで樹木の葉が雨で揺れています。これだけではないですが、いろいろな知覚が生じています。
> そして、今思考していることは、ここに生じていること全体ではなく、その生じている全体の一部として、経験からくる記憶をベースに書いています。
> 過去、未来と識別するのは、思考です。脳内に生じた断片の情報(記憶)を識別しているのです。でもその思考の運動は、今起きています。僕に起きているのは、そんな感じです。


おなじことですが、その全体には、知覚されないことも(含まれてある)かもしれない、ということです。

> うーん。すみません。よくわかりません。

すごく簡単です。その思考には、その思考(内容)が空想か、事実か、識別機能がないというだけです。それで、事実か空想かを、なにが識別するのかは判らないのです。すると、その思考が総合判断しても誤ることもある、ということでしょうか。

> 僕の場合、判断は、思考がしています。何かの定義や基準によって、情報を判別しています。
>
> 葛藤や混乱を起こす要因としては、思考に集中しすぎてしまい、今起きていることを見失い、全体の連携が取れなくなったときに起こると感じます。

No.3452 - 2011/05/28(Sat) 16:24:52

Re: 思考は正確 / ubik0101
もしかしてsuhoさんは・・・知覚がさまざま機能してる、それを全体、と呼んでるのかもしれません。なら、それは、そんな定義かもしれません。それは確かな定義ですか。ほかの定義はできますか。また、その定義を外せますか?
No.3453 - 2011/05/28(Sat) 16:42:04

Re: 思考は正確 / suho
> とりあえず。その思考は、その思考のほかのこと、たとえば、その思考の真偽を現さない、ということです。

思考の真偽というのはどういう意味でしょうか?
真偽を付けるのもまた思考の働きであり、何かの基準を持っていると感じます。

> > 例えば、僕の場合は、物理的にも心理的にも実際に起きていること。つまり様々な知覚。このことを言っています。
>
> では、知覚されないことは、事実、ではないということでしょうか?


僕がここで知覚と表現しているのは、今ここで生じている現象全体といってもいいですし、とにかく起きていることを指しています。思考、五感、ありとあらゆる知覚です。
ですので、それ以外、というのもはないです。
例えば、リビングにいるとき、知覚の中にはトイレはありませんが、何かの拍子でトイレを思い出せば、それがある、ということは、経験の記憶から、事実のこととして確認できる、ということです。

> > で、思考は、その様々な知覚・事実の1つの様相・機能なので、「思考には事実全体を確かめる機能がない」というのならわかります。部分が全体を確かめることはできないから。
>
> うーんと、その全体って、事実として知覚されますか?また、部分が全体を確かめられない、というのは、どのように確認できますか?


全体とは知覚であり、上で書いたとおりです。そのときに知覚されているものです。
思考は、その時生じている知覚の一部であって、部分要素ともいえます。断片の情報が知覚の部分として運動している。
単に、部分なので、全体ではないことが事実として確認される、という意味です。

> > うーん。僕の感じでは、思考自体が知覚の1つの様相です。その思考が「自分は、ない」と思考したとして、正確かどうか、というよりも、ただ、そのように解釈している、という以外に特になにも湧かないのですが。。
>
> それは、たしかに。とくに解釈しないというのも、問題ないのです。でも、解釈でない、あるない、は?不問なのでしょうか。


そこなんですよね。わからないのは。
僕の場合、ある、ない、というのは、あくまでも伝達する際の記号です。思考機能の一部なので、判断、解釈そのものです。ですので、解釈でない、あるない、というのがよくわからないのです。

> > 思考の場合、定義は無限に設定できます。たぶん定義というのは、個々の思考によって様々なのではないでしょうか?
>
> たとえば、ある、について。それが機能してて知覚されることを、ある、と呼ぶ。ほかに、なにか定義できるといいのですが?


あ、それは、ある、の定義ということではなく「自分が、ない」という思考の例を書かれていたので、その「自分」のことを指していました。それは思考によってどの知覚を自分と特定するか、というのはいくつでもバリエーションがあるでしょうね、という意味で。もちろん「自分」という解釈をしなくともいいわけですが。

あるない、については、上に書いたとおりです。
その定義を「それが機能してて知覚されることを、ある、と呼ぶ」でも、特に疑問はありません。
どうも、僕の中では、あるない、ということを検討することに関心が湧いていないようです。。
僕にとっては、特定の知覚について、その存在の有無を伝達する際の「記号」なので、それ以外に何かあるのかなー、という疑問がわかないみたいです。

No.3454 - 2011/05/28(Sat) 16:54:02

Re: 思考は正確 / suho
> おなじことですが、その全体には、知覚されないことも(含まれてある)かもしれない、ということです。

ああ、それはあるんじゃないですか。はい。

> すごく簡単です。その思考には、その思考(内容)が空想か、事実か、識別機能がないというだけです。

え−と、その事実とは?
例えば、2つの思考がありました。
1つは会ったこともないような絶世の美女を思い浮かべニヤニヤ。
もう1つは会社の同僚の無愛想な女性を思い浮かべうーん。。
この場合は、上が空想で、下が事実、という意味でいいのでしょうか?つまり実際に物理的経験として記憶しているものを事実としている?

だとして、その思考自体は、ある意味データですので、それ自体で自身を判別する機能はないのでは。モノ、無機物のような感じ。
けれど、そのデータ自体が、空想か、事実の記憶かをそのままあらわしているので、判別というプロセスは必要ない、というか、それが介入することはないのでは、と思います。

>それで、事実か空想かを、なにが識別するのかは判らないのです。すると、その思考が総合判断しても誤ることもある、ということでしょうか。

うーん。。

No.3455 - 2011/05/28(Sat) 17:06:45

Re: 思考は正確 / suho
> もしかしてsuhoさんは・・・知覚がさまざま機能してる、それを全体、と呼んでるのかもしれません。なら、それは、そんな定義かもしれません。

はい。伝達上の記号です。

>それは確かな定義ですか。ほかの定義はできますか。

確かという意味は?なにか絶対の伝達記号があるとは思えないのですが。。ですので、一切ですとか、現象ですとか、そんな記号も使えます。

>また、その定義を外せますか?

伝達の必要がないときは、そもそも定義自体がないですね。

No.3456 - 2011/05/28(Sat) 17:10:09

Re: 思考は正確 / ubik0101
まあ、絶世の美女を前にして、絶世の美女を。無愛想な女性を前にして、無愛想な女性を、空想するってことはないでしょう。

どちらも空想しようとして空想してるので、それは、空想と明確です。おなじように何かを判断する思考なら、判断しようとする動機は意識されなくても働いてるのでしょう。それは経験の記憶とかを参照にしてるかもしれません。

>伝達の必要がないときは、そもそも定義自体がないですね。

その定義のないところから始まる思考はありませんか。そこで、その思考が空想か事実か、その思考そのことに判断できますか?いつも思考は比較とか、記憶とかによって始まるのでしょうか?

なにか思考は、その思考が知覚されてるだけで、その思考には、それ以外の要素、たとえば思考(内容)が事実なのか、空想なのか識別機能は付属してない、それでも思考は成立する、ということです。

なにか過去の事例から判断するなら、なにか過去の事例から判断すると思考できます。と、このような思考自体を思考できます。

たとえばsuhoさんが虚偽でなく、そのあり方のままを思考します。それしか思考はできないかもしれません。それ自体に思考には判断機能がないから、なんでも思考できる。その思考そのことが、過去を参照するというのではないけど、判断といも言える。ってことでしょうか。これは、

>だとして、その思考自体は、ある意味データですので、それ自体で自身を判別する機能はないのでは。モノ、無機物のような感じ。
>けれど、そのデータ自体が、空想か、事実の記憶かをそのままあらわしているので、判別というプロセスは必要ない、というか、それが介入することはないのでは、と思います。


ということでしょうか。

No.3457 - 2011/05/28(Sat) 18:47:35

Re: 思考は正確 / suho
> まあ、絶世の美女を前にして、絶世の美女を。無愛想な女性を前にして、無愛想な女性を、空想するってことはないでしょう。

わはは。それは確かに。

> どちらも空想しようとして空想してるので、それは、空想と明確です。

うーん。ubiさんの言う「事実」の指しているものを確認する意味で書いたのですが。。
では再び、ubiさんの言う「事実」とはなんですか?

2つの見方があるのかなと。

1つは、空想自体生じていることが事実ですよね。
ですので、どうも空想と事実は比較できないなあ、ということです。

もう1つは、先に書いたように「物理的な経験の記憶」を「事実」である思考と呼び、「物理的な経験なしの思考」を「空想」である思考と呼ぶ場合です。

後者でなければ、ubiさんの事実とは何を指しているのか?となるのです。


> >伝達の必要がないときは、そもそも定義自体がないですね。
>


> なにか思考は、その思考が知覚されてるだけで、その思考には、それ以外の要素、たとえば思考(内容)が事実なのか、空想なのか識別機能は付属してない、それでも思考は成立する、ということです。

はい。それはわかります。単なる情報という意味で。
思考過程の要素ですね。

> なにか過去の事例から判断するなら、なにか過去の事例から判断すると思考できます。と、このような思考自体を思考できます。

はい。

> たとえばsuhoさんが虚偽でなく、そのあり方のままを思考します。それしか思考はできないかもしれません。それ自体に思考には判断機能がないから、なんでも思考できる。その思考そのことが、過去を参照するというのではないけど、判断といも言える。ってことでしょうか。これは、

事実か空想かの虚偽、という意味であれば、先のことがわからないとなんともです。

僕がここで書いている「思考」の指し示しているものとしては、情報とその判断プロセスを含めて言っています。
データとその処理プロセスですね。
もちろん、目的の自覚なく情報だけが浮かび上がってくることもありますし(雑念)、ある目的のために情報を記憶から抽出する場合もありますし、加工したり、造作して、別の情報を作り出し結論づける、というプロセスもあります。
そういう意味で、目的・動機、判断する定義があれば(これも情報ですが)とうぜん、それによって情報を判別はできるということです。

> >だとして、その思考自体は、ある意味データですので、それ自体で自身を判別する機能はないのでは。モノ、無機物のような感じ。

この場合は、上で書いたところの「情報」だけのことを言っています。

> >けれど、そのデータ自体が、空想か、事実の記憶かをそのままあらわしているので、判別というプロセスは必要ない、というか、それが介入することはないのでは、と思います。

これは、上で書いた2つの「事実の見方」の、後者の意味では、情報自体がそのものをあらわしている、ということで書きました。

No.3458 - 2011/05/28(Sat) 19:40:59

Re: 思考は正確 / ubik0101
これから出掛けます。たぶん返信は明日になると思います。
No.3459 - 2011/05/28(Sat) 19:50:35
反応パート6 / ubik0101
この庭は、自分、ではなく、この庭を見たり聞いたり・・・花の苗を植えたり、誰かと話したりすることで・・・たとえば磁石に接近した鉄片が磁気を帯びるように・・・そうしてる自分、が創られます。これが、反応、です。これは、そう気がつく気がつかない、思考する思考しないに関わらず、たとえば庭を、ある、と見なしています。

そして、その知覚の反応によって生じた自分が、花を見たり、風を聞いたりすると捉えると、その自分が予め、ある、と見なされています。これは、その人の行動、発言、思考、知覚によって自覚できるような気がする自我ではないでしょうか。

ここで、(A)庭の花とか蜜蜂とかはもちろんですが・・・(B)熱い寒い痛い痒いとかの身体感覚、感情、思考も知覚されることです。どれも知覚であり、そのことによって、それを知覚してる自分が創られます。けど、その自分そのことは・・・無我が明確なら明確ですが・・・自分で知覚できません。これは何を意味するのでしょう?

ひとつには知覚がなければ、自分が創られないということです。(B)を自分と呼ぶとして、それがなければ(A)つまり世界もない、と感じられるかもしれません。

また。 ほんとーに庭が自分なら、それを知覚できないでしょう。ということです。では、やはり知覚とは、差の認識、ではないでしょうか。花や鳥、身体感覚や感情や思考は、差を認識してるのです。

そして、どんなこととも差がなく・・・どんなことでもある、どんなことでもない。とか、どう言っても大差なしの・・・知覚できない何かを、自分、と呼ぶのではないでしょうか。

No.3426 - 2011/05/23(Mon) 14:44:06

Re: 反応パート6 / ubik0101
ただ知覚が機能してる、ここで、たとえば時計を自覚します。植物の種を自覚します。こんな実験をすると、それらにまったく名前が付けられてないことに気がつくのではないでしょうか。じっと蛍光灯を凝視して、蛍光灯と思いもできてないのです。

この知覚の領域では、まったく差のないことも、まったく差であることも認識不能です。それは簡単に言って、中道、ということで。この世界は、苦しみあり、憎しみあり、慈しみあり・・・思考あり無思考であり・・・生あり死あり・・・知覚できる範囲も、範囲外も、総活動してる、それゆえ特定の個別のことはない、のではないでしょうか。

そして人は、特定の個別のもの、ことの知覚から創られる個別の自我ではないゆえに自覚できない・・・自我の完成です。ならば、ことさら自分が、世界に創られる必要がなくなります。なにかを知覚しながら、知覚に依存しないということです。でないと、どうして依存しない、がありえるでしょう。なら、この世界がどんなことであれ、問題でなくなります。

それにまた。たとえばひと繋がりでも、個別のことの集合が世界であろうと、自我であろうと無我であろうと、あるとかないとかも・・・とあることと、その類似のことと、その反対のことと、その無関係なこと・・・森羅万象・・・なにか特定の個別のことではない、です。世界は、そのようなのではないでしょうか。

トキハツユクサの茂る水道の蛇口です。

No.3427 - 2011/05/23(Mon) 15:18:42

Re: 反応パート6 / peer
知覚を遮断するカプセルに入って、覚醒を体験させる
というコトがあるそうです。
なにも感じないから、自分がないを体験するらしい。
「自分はなんでもないモノ。のモノもない」
これが覚醒かどうか、分かりませんけど。
行く道は遠いが、帰る道は近い。
というようなものでしょうか。

No.3428 - 2011/05/24(Tue) 02:15:09

Re: 反応パート6 / ubik0101
アイソレーション・タンク、というそうです。図書館閲覧者さんが経験したそうです。「幻覚を見る?」と聞いてみました。「う・・・ん」。それ以上は話したい気配がしなかったので、聞きませんでした。

>行く道は遠いが、帰る道は近い。
>というようなものでしょうか。


そ、いえば。なかり前、suhoさんのブログに、悟り体験をした同僚の話がありました。たしか、こちらの素晴らしい世界を知ったので、そちらの世界はつまらない、と無気力社員になってる。という記事だったと思います。

なんとも言えませんけど。そこで、もう人生の目的を達成した、ということではなく、そこが出発だと思うのですが・・・無気力社員になるために生まれたわけではないと思いますが・・・はふ、です。

そ、いえば。どこかの誰かが、エベレストに登った、というニュースを子供の頃に聞いたことがあります。シェルパ族が酸素ボンベや食料などの重い荷物を運んだり、道案内したりするのだそうです。

なんかガッカリしました。じゃ、その登った誰かは、ほんとうに登った?登らせてもらったのではないだろうか、という気持でした。

いくら迷ってもかまいません。ガイドは要りません。でも、道の仲間は嬉しいのです。こんなのは、やはり気質?なのかも知れません。

この冬は、とても寒くて毎日のように霜が降り、水道管も2度、凍りました。それで初雪葛も、ほとんど枯れたかな状態でしたが。5月になって順調に復活。これからダイカンドラとかアイビーとかとの入り混じり具合が楽しみです。

No.3429 - 2011/05/24(Tue) 18:22:01

Re: 反応パート6 / hato

庭では、下草のダイカンドラと姫イワダレ草が、よい具合に織り成してる様子。シャラ、姫シャラ、オリーブにヒペリカム・・・・十分に育つと、いいな、と思います。

No.3430 - 2011/05/24(Tue) 23:14:00

Re: 反応パート6 / peer
どこかの誰かが、エベレストに登った、ということは
ニュースになりますが・・・もともとシェルパ族は
自分の庭ですから太古の昔から登頂していたでしょうに。

まっ。そんなふうに。
「あっ、あれが覚醒でしたか」みたいなことは
人知られずに沢山あるんでしょう。
無気力になってしまうのは、それが目的だと思うから
でしょうか。
バカと煙は登りたがる〜ようです。
登ったきり、降り方を知らない。

No.3431 - 2011/05/25(Wed) 01:47:11

Re: 反応パート6 / peer
庭が広いって、いいですね〜
最近ポトスというのを購入しました。
部屋の空気を浄化してくれるとか・・・
放射能も浄化してくれると助かりますが(つぶやき)。

No.3432 - 2011/05/25(Wed) 01:50:05

Re: 反応パート6 / suho
ubiさん、どうもです。

> そ、いえば。なかり前、suhoさんのブログに、悟り体験をした同僚の話がありました。たしか、こちらの素晴らしい世界を知ったので、そちらの世界はつまらない、と無気力社員になってる。という記事だったと思います。

うーん。これを読んで、はて?書いたっけ?と記憶をたどってみたら、だいぶ前のブログで書いたような記憶がおぼろげながらよみがえって来ました。
彼とは距離が遠くなり、最近はほとんど話していないのですが、表情や雰囲気を見る限り、あいかわらず何かもやっとしたものをまとっている感じです。。

> なんとも言えませんけど。そこで、もう人生の目的を達成した、ということではなく、そこが出発だと思うのですが・・・無気力社員になるために生まれたわけではないと思いますが・・・はふ、です。

笑うと意外と愛らしい表情になるんですよね。もう60間近のおっさんですが。
感度は抜群なのですが、その後の頭の処理で混乱しているような感じで。それが「もやっ」を生み出しているようです。でも憎めない、というか好きな人です。いつものように毎晩飲み屋街でベロベロ千鳥足で彷徨っていると思います(笑

それと、ちょっとブログ休憩です。
気分的なものです。

なんかubiさんの文章が以前と印象違う感じですねー。
すっきり爽やか。さらさらした感じ。流れてますね〜!

それでは。

No.3433 - 2011/05/25(Wed) 18:58:57

Re: 反応パート6 / ubik0101
リンクのページに(ちょい休憩中です)と表示しました。

ヒメイワダレソイウの咲く庭に、トマトを植えています。

No.3434 - 2011/05/25(Wed) 20:16:51

Re: 反応パート6 / suho
> リンクのページに(ちょい休憩中です)と表示しました。

あ、すみません。ありがとうございます。
けっこう目立ってますね。思わず笑っちゃいました。

> ヒメイワダレソイウの咲く庭に、トマトを植えています。

ちっちゃい花綺麗ですねー。
トマトは土地がやせているほど甘みが増すとか。。
ubiさん愛情注ぎ過ぎないように。。

No.3435 - 2011/05/25(Wed) 20:28:00

Re: 反応パート6 / hato

> 庭が広いって、いいですね〜
> 最近ポトスというのを購入しました。
> 部屋の空気を浄化してくれるとか・・・
> 放射能も浄化してくれると助かりますが(つぶやき)。


みどりの庭の、日々の変化は楽しいです。今日はubik0101さんが 百日草 を植えて、わたしもひとつふたつ、苗床押さえ(定植)に参加しました。

ポトスいいですね。部屋のちょっとした緑に、気持ちが和みますね。放射能は・・・なんとも、大変ですね。


庭のあちこちに、土筆のあとのスギナが出ていて。強いスギナは、雑草としては問題といえば問題ですが、ダイカンドラの合間の、スギナのてっぺんに、朝露がまるく乗ってるのを見つけて、嬉しくなりました。

No.3436 - 2011/05/26(Thu) 20:50:52

Re: 反応パート6 / hato

姫イワダレ草。

No.3437 - 2011/05/26(Thu) 20:55:05

Re: 反応パート6 / hato

雪の結晶のような花です。

No.3438 - 2011/05/26(Thu) 20:56:14

Re: 反応パート6 / suho
> 雪の結晶のような花です。

ああ。。
いろんな花があるのですね。。
毎日お庭で。
草の香りと土の香りがふんわりするのでしょうね。
うーん。小さい花。かわいい。
やはりクローズアップレンスを買うべきか。。
いまのレンズじゃ近くまで寄れないのです。

No.3439 - 2011/05/27(Fri) 15:27:16

Re: 反応パート6 / hato

> ああ。。
> いろんな花があるのですね。。
> 毎日お庭で。



suhoさんは、花に敏感に反応しますね。いつも、こちらの花画像、喜んで頂いて。


> 草の香りと土の香りがふんわりするのでしょうね。


この時期から初夏・・・夏の頃にかけては、草の、濃い匂いがたちこめます。昔はもっともっと、濃かった気がするのだけど、それでもまだ、草の、濃い匂い。蛙の声も健在です。


> うーん。小さい花。かわいい。
> やはりクローズアップレンスを買うべきか。。
> いまのレンズじゃ近くまで寄れないのです。



そうですね。庭に、ほんとに小さな、5ミリ程度の青い花が咲いてますが、結構カッコウなんでも携帯、とはいえ、さすがに雰囲気すら出すのが難しくて、残念なんですよ。


こちらは、白鳥花(ハクチョウゲ)。可憐で、何気ないながら、上品な感じの花がつきます。

No.3444 - 2011/05/27(Fri) 22:33:21

Re: 反応パート6 / hato

そういえば・・・

春になって、狸をめっきり見かけなくなって、隣家の爺ちゃに毒まかれたのかも、と本気で心配し始めたその翌日、夜中の庭で、ぱったり出会いました。

懐中電灯を照らしたら、ちょっと向こうに走り出したけど、なにか気がついた風に一匹がゆっくり、懐中電灯をまっすぐ見ながら歩いてきて、餌箱前で、なにかジェスチャーしました。もしかすると、ひもじかった寒い冬の夜、この懐中電灯に照らされながら、食べものを貰ったことを思い出したのかも知れません。

なにより健在をアピールしてくれて、嬉しかった。安心しました。

名前は、リンザイ。と、ジョウシュウ。
(手前に1匹。植木鉢の後ろに、もう1匹います)

すでに3匹になってるのかも。。。

No.3445 - 2011/05/27(Fri) 23:08:31
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