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反応パート5 / ubik0101
これも、どこかで話しましたが・・・2人が、おなじ庭で、 おなじ花を植える作業をしています。それに専念しています。でも一人はピアノ演奏者です。一人は飛行機の操縦者です。

それぞれ、ただ花を植えながら、自分の技術などについては、無思考です。 けれど一人は、ひとたびピアノの前に座れば、聴衆を魅了します。一人は大勢の乗客を乗せて高度一万メートルを飛行します。

これは技術のことですが、それでも、人のために全力であること、真実や善や美の追究、であること、その気持ちは・・・なにか行動、発言、思考、知覚、することによって、仮の中心・・・自我・・・が作られる・・・反応、それだけのこと、とは違います。

その、仮の主体、自我が、真摯であること、ほかの人を喜ばせること、良いこと、を望むのです。その、気持、それは技術の種類、また技術の巧拙にはかかわらないけど、ただ生活のための技術に埋没しない、社会の利益追求の有り様に負けない強い意志は、たぶんに必要です。

ところで、人が自分を探求するための思考は、その技術のようなものかもしれません。いろいろ人は思考するのですが、たとえば素直さ・・・正確なこと、真摯なこと・・・公平さ、注意深さ、などの良い特質は、その意志、によって獲得されることです。

No.3415 - 2011/05/16(Mon) 08:54:10

Re: 反応パート5 / ubik0101
もしそれを獲得するなら、それはその人が、意識しないでも、働いています。たとえば自分が素直だと思考しても、それは変わらず・・・(もし素直な人が、自分を素直と思考するのが変だと言うなら、そう言う人は、そうでないというだけです)・・・自分が素直だと思考しないでも、素直さは変わりません。

つまり、そのことの思考の有無には左右されません。でなくて、どうして、その人が素直であることができるでしょう。 つまり人は思考しながら、思考に。思考してないでいながら、思考してないに。依存しません。(ここで思考は正確に機能を始めます)。思考からの解放です。

そんなことに気がつくということは、人は、たとえば「見るものは見られるもの」「意識はその内容」の範疇にはないということです。

これは実は、自我は虚構、と知るときに、ほとんど瞬間に了解されることです。つまりは、自我の死、自我の削除ではなく、自我の完成です。ここでは、おおく持つ者は、よりおおく与えられます。ここに、まず自我を知ることの意味があります。それは、単なる反応から生じることではありません。

たとえば嘘をつかないこと、人の間に紛れて生きていかないこと。公平であること。なにごとにも依存しないこと。などによって結果的に醸しだされることです。

それとは逆に、もし人がなにか取り繕ったり、誤魔化そうとするなら・・・そのことを自覚しようと、自覚しないでも・・・そうです。これは、たとえ、ほかに誰が、どう思おうと思わないでも、知らなくても・・・それはそのまま、まったく正確に機能します。

午前5時頃の田圃の朝日。走る車の中からの撮影です。

No.3416 - 2011/05/16(Mon) 09:05:09

Re: 反応パート5 / hato

その朝の、香り撫子。(かおりなでしこ)

まあるいポットから出して植えたので、こうなったんですって。なんてかわいい。ピンクの花びらが、目みたいでしょ。

さっそく、ふたりの携帯待ち受けになりました。

No.3417 - 2011/05/16(Mon) 23:24:54

Re: 反応パート5 / hato

宿根霞草。白とピンクの花が、春の賑わいです。

No.3418 - 2011/05/16(Mon) 23:26:16

Re: 反応パート5 / hato

今年は、庭表の3分の2、届くでしょうか。
ubik0101さんが日々雑草を抜いて、手塩にかけてる素敵な下草(したくさ)。

姫イワダレ草の花が、少しずつ開き始めました。

むかしむかしのゲストブック。障子の穴、のお話。
とてもとても、ピンときてしまった、あの、障子にあいた、穴の、ふしぎ。

そんなことを、思い出しました。

No.3419 - 2011/05/16(Mon) 23:39:55

Re: 反応パート5 / ubik0101
ついでに因果、自業自得について探ってみます。

(a)・・・まず、人が、とある状況とか状態だとかします。その原因を探ります。それは過去のなんだかが、影響を及ぼしてる、それで結果があると考えます。それは、そういう思考の形式に乗って、それぞれ個別の特定の(そのことを仮に世界から切り取ったとして)原因と結果。つまり因果、そして自分を勘定にいれるなら自業自得が思考されます。

これは原因と結果、それを繋ぐ時間という思考の形式なので、その形式に乗ってれば、なんであれ因果、自業自得、と見なされる傾向にあります。過去に原因がある結果、そして今を原因とする未来の結果。ここから空想の自業自得も思考されます。たとえば、「先祖の祟り」「思うことは実現する」とかが主張されます。

とくに関係ないことを原因と結果の関係とみなすことも行われれているのです。それは無理に関係ない、個別の特定なことを原因と結果として関係づけるのですが、ここは、それができる、まったく絶対に関係ないことは、とくに思考できない、世界ではあります。

また。ここで面白いのは、たとえば・・・なにか悪いことが起こった、それは、過去の悪い行動が原因だ。なにか期待したら、それが実現した。これが空想に基づいていても、個別の、特定のこととしては、なにかの出来事は事実として起こり得ます。

続きます。

No.3421 - 2011/05/17(Tue) 21:15:30

Re: 反応パート5 / ubik0101
でも、それは常にそうだ、とは言えないので、原因と結果を濃く結びつける、縁、の概念を要します。これらは思考としての、因果、自業自得です。 勝手に関係の薄いことを、関係の濃いこととして関係づけた思考です。これは自我による、とある世界解釈です。

ここでは、およそ思考が空想と事実を区別できないことに気がついていません。その愚かさによって、思考が人を養育しています。倒錯、執着、顛倒とも呼べます。

(b)・・・さらにたとえば、個別の特定なことではなく・・・喜びも、悲しみも、怒りも、偽善も、嫉妬も、良いも、悪いも、生も死も、ありとあらゆることが一度に機能したら、どうでしょう。これは原因と結果が意味を失います。ここでは、それを覚醒体験・・・世界の総活動とか、中道とか、縁起とか・・・呼んでいます。

ここで、人の行動、発言、思考(その原因は思考だけではありません)、知覚によって・・・そうする人・・・自我・・・が創られる、という了解がなされます。これは個別の、特定なことがないのですから、自我、また自意識の居場所がありません。無我です。ほかの言い方では、世界に自我を創ってもらう必要がなくなります。

ここで人は思考の領域から、知覚の領域にシフトするとも言えます。ここでは騒がしい思考の、意識の問題はないので、平穏、楽です。しかしそれに囚われると、対立しようのない、自我と無我の比較が始まります。それは思考の解釈です。世界の総活動、縁起、そのことではありません。

続きます。

No.3422 - 2011/05/17(Tue) 21:33:21

Re: 反応パート5 / ubik0101
ここで実験です。たとえば、街や樹や鳥や空を・・・見たり聞いたりすることを・・・知覚するという言い方をします。この「知覚」を「自覚」、と言い換えて、見たり聞いたりしてみましょう。

つまり、たとえば樹を自覚する、パソコンの画面を自覚する、冷蔵庫の唸る音を自覚する、座ってる椅子のシートを自覚する・・・です。

どうでしょう。そこで見えたり聞こえたり触ったりしてるのは、街や樹や鳥や空や椅子ですが・・・それを見たり聞いたり触ったりしてる自分は見えない聞けない触れない、のではないでしょうか。

あるいは世界と自分は、素通しではないでしょうか。これが日常。そのように知覚は機能してるのではないでしょうか。

続きます。

No.3423 - 2011/05/19(Thu) 08:38:33

Re: 反応パート5 / ubik0101
そうでないなら・・・あるいは、樹を見てるのが、自分。どこかの電車の走る音を聞いてるのが、自分。椅子に座ってるのが、自分。ではないでしょうか。つまり、行動、発言、思考、知覚によって、反応、して創られてるのが自分、です。

あらゆることに先だって、自分、ということがあって行動、発言、思考、知覚してるのではありません。それで、その度、その度に創られる自分、つまり自我は、支離滅裂です。

ここで、たとえば人間関係で、嘘を言わない、ということだけでも意志が必要で、それが自我の完成に向けての姿勢になり得ます。くり返します。世界に創ってもらってる自我が、公平なこと、良いこと、人のためになることを望み得るのです。

そして、そのような自分を創り得ます。そしてそれが完成すると、怠惰、偽善、嫉妬、悪、怒り、悲しみ・・・さえ役に立った・・・ありとあらゆることの活動が、中道、縁起なのですから・・・を了解します。それは、自我のまま、そうだというわけではありません。

続きます。

No.3424 - 2011/05/19(Thu) 11:45:37

Re: 反応パート5 / hato

斑入りの、萱(かや)。健在です。寒肥を貰って、斑がはっきり出たそうです。

姫イワダレ草を背景に、この萱の葉。繊細で美しいと思います。これから夏まで大きく育って、秋には素敵なススキの穂が見られます。

No.3425 - 2011/05/19(Thu) 22:36:05
不満と恐怖の関係 / peer
>たとえば、人間関係・・・
>ほかの人の不満は、それが正当性があっても、なくても、
>恐怖を呼び起こすようです。それが権力欲の人の支離滅裂な対人関係。


他の人の不満で、自分の恐怖が呼び起こされる・・・
うーむ。よくわからない?
権力欲のある人は自分の不満感を使って他の人を動かそうとする。
ということ?

No.3398 - 2011/05/11(Wed) 02:38:48

Re: 不満と恐怖の関係 / ubik0101
たとえばpeerさんが、上司から、隣人から、家人から、不満の対象にされた・・・総て仮定ですが・・・とします。その不満は、たとえば大事な情報を伝え忘れたとかの事実に向けられても、また謂われのない空想に基づいた誤解でも、なんか落ち着かない気分を感じるのではないでしょうか。

そして、そんな、ほかの人の発する不満は攻撃性が強いと、身体的、あるいは心理的に危害を加えられる恐れがあり、恐怖を感じるのではないでしょうか。そして一度その回路、経路ができれば、それが、ささいな事実でも、相手はこう考えてるに違いないという空想でも・・・思考は事実と空想を区別できないで・・・恐怖を感じます。

それで不満の表明としての、ほかの人への支離滅裂な、理不尽な態度は・・・まあ上下関係とか、利害関係とか、権利とかを背景になされ・・・それを正当化し、その訳のわからない面倒な緊張を強いる。そう自覚してなくても、権力欲に支配されてる人の手法のようです。

(それで、命令系統とか、ルールを決めたり、ふだんから仲良くして対応するかもしれません。それは恐怖が、そうさせる場合も、そうでない場合もあるでしょう。それを意識は区別できないかもしれません)。

ところで、なんだかの思考と・・・たとえば怒り、不安、心配、恐怖など・・・感情はループができます。なにかの感情を背景に、そのなかで動く思考が起きます。そして、思考が起きたら、さらに感情を呼び起こします。これも、いったん回路ができてしまったら癖になるかもしれません。

また一方、思考は正確に機能するということがあります。 たとえば怒り、不安、心配、恐怖などを感じて、ほかの人を非難する思考をすると、その思考は自他を区別せず、自分も非難することになってしまいます。これもループであり、苦痛ではないでしょうか。そんなことは、明確でない、曖昧な、優柔不断な、愚かな意識の有り様が、成り立たせてるようです。

それで、ともかく。怒りは怒りだけ、心配は心配だけ、不安は不安だけ・・・なんだかの思考は思考だけ・・・事実だけを判断する・・・感情と思考のループをつくらないと、その持続は困難になる、というところもあるようです。

No.3399 - 2011/05/11(Wed) 13:52:29

Re: 不満と恐怖の関係 / peer
うちの姉は、絶えず文句を言うクセがあります。
テレビを見ながら、何かをしながら・・・
一家のトップという感覚は死ぬまで続く〜ようです。
そして、その感情は持ちこさないで、その時、その時。
爆発しては沈静。爆発しては沈静。
それはそれで、スッキリしているようです。

私などは、フムフムそういうご意見なのですね〜と思う。
その矛先がアンタはこうだから・・・と言われても、
フムフムそう思っているのですね。と思う。
そういうのに慣らされたからかなぁ。

相手を優先して相手の思う通りに動いてあげる。
自分に出来ることは、してあげる。
ただ自分の出来る範囲ですから〜
なんでもかんでもはムリよね。
恐怖より愛を優先すればいいのに〜と思う。

No.3400 - 2011/05/11(Wed) 14:55:54

Re: 不満と恐怖の関係 / ubik0101
まあ、ほかの人が良かれ思うからこその不満。でも、ころころ機嫌が変わるのは、その不満さえ自分の都合、真実ではないかもね。自覚すれば?というのも、良かれと思うからこその不満。どうやっても、その人次第、なのかもしれません。

そいえばラジオが昔、どれだけ「ながら」が可能か?という話をしていました。たとえば右手で箸を持ってラーメン食べながら、左手で手紙を書いて・・・右目でテレビを見ながら、左目を閉じて夢を見ながら・・・左足でキックボクシングしながら、右足で自転車をこぎながら・・・臍で茶を沸かす・・・とか。

《その場その場で、できることをしよう》。という意味に取れます。でも、そんな思考にも、どうしても綻びがあって、それが余計な別の思考に繋がる。または、その綻びがあるから、その思考の依存に、囚われなくなる。もあるようです。

No.3402 - 2011/05/11(Wed) 21:30:36

Re: 不満と恐怖の関係 / ubik0101
ついでに。

ほとんど関係ない話ですが・・・高校時代、とても片思いの同学年の娘がいました。もう24時間、その娘のことを考え続けていました。

あるとき、ソファに寝ころんでいて、ふと、その娘のことを考えてない、ということに気がつきました。それで、うわっ、と思って、起きあがったくらいです。

とても静かで明瞭な空気、時間、部屋にいました。そうだ。考えてなくても、生きていけるんだ。くらいの驚きでした・・・そんなことを思い出しました。

No.3403 - 2011/05/11(Wed) 21:35:44

Re: 不満と恐怖の関係 / peer
同じことを考え続けるっていうのも苦行だわ。
ぜったい無理。

と言いながら、気になって仕方がないことは無視できず。
ひたすら考えて考えて考えて、頭が痛くなってグチャグチャして
ホイッと投げ捨てた時、見えて来るものがある。
ホントに人間って不思議。

No.3405 - 2011/05/12(Thu) 02:39:20

Re: 不満と恐怖の関係 / ルー
> ほとんど関係ない話ですが・・・高校時代、とても片思いの同学年の娘がいました。もう24時間、その娘のことを考え続けていました。
>
> あるとき、ソファに寝ころんでいて、ふと、その娘のことを考えてない、ということに気がつきました。それで、うわっ、と思って、起きあがったくらいです。
>
> とても静かで明瞭な空気、時間、部屋にいました。そうだ。考えてなくても、生きていけるんだ。くらいの驚きでした・・・そんなことを思い出しました。



すごく面白いです。

「ない」を発見したんですか?

No.3406 - 2011/05/12(Thu) 09:06:00

Re: 不満と恐怖の関係 / ubik0101
>ホイッと投げ捨てた時、見えて来るものがある。

なんか手探り状態でも、だんだん眼が慣れて見えてくる、という感じがあります。

No.3408 - 2011/05/12(Thu) 21:18:38

Re: 不満と恐怖の関係 / ubik0101
>「ない」を発見したんですか?

それは、思考がない状態、に気がついた。と、いうだけです。でも、じゃ、気がついたのは何か?という疑問はできるかもしれません。たぶん、無思考が、無思考を自覚した、という表現はできます。

うーんと、思考=私。思考≠私。どちらも違います。たとえば、なにか思考をすることで・・・もちろん行動、発言、思考、見る聞くなどの知覚することで・・・そうしてる、その主体、中心、が・・・予め・・・時間を遡って・・・仮につくられます。その仮の主体を、自我、と呼びます。なにか時間に問題があるとしたら、これだけです。

と、ここで、このように思考してることは、あらゆる思考可能性のフィールドがあるとして、その、たった一筋を辿っています。ここで、ふと。そうだ福島の原発はどうなったんだろう?と思考すると、その一筋を辿ります。と、このように思考すると、この思考の一筋を辿っています。

つまり・・・これも、なんか数年前にも、誰かに同じようなことを言ったことを思い出しましたが・・・ここで辿ってる思考でない思考は思考してません。つまり人は、ほとんど無思考なんです。それで、そのなにかの思考が、そのなにかの思考と、わかるのだと思います。

No.3409 - 2011/05/12(Thu) 21:22:00

Re: 不満と恐怖の関係 / ルー
働いてない思考もあるってことでしょうか。
No.3411 - 2011/05/13(Fri) 08:56:09

Re: 不満と恐怖の関係 / ubik0101
その人から見て、知覚されてない思考がある、ということです。

かなりの例え話ですが、この部屋からは、阿蘇山や摩周湖は見えません・・・これは知覚にとっては、ないのですが・・・あるって感じです。

たとえば自我についての理解、それは忘れていて思考(知覚)しないでも、働いています。

もし、なにかを理解してなければ。その理解してない、ということが、知覚されなくても、働いているかもしれません。

No.3412 - 2011/05/13(Fri) 11:15:18

Re: 不満と恐怖の関係 / peer
何かを認識した。というとき、実際は
認識されないもの、という背後にあるものに
支えられた認識である。
なので、意識化されたものを手放した時
一瞬にして、その全てが姿を現す。
そこでまた、それを認識するとき、認識されないものが
まだあって・・・
宇宙がつねに拡大しているように。

No.3413 - 2011/05/14(Sat) 09:44:56

Re: 不満と恐怖の関係 / ルー
うん。

まぁ、何かを認識するとき、認識しない他のものも、実は存在しているというんですね。

No.3414 - 2011/05/14(Sat) 13:43:14
反応パート4 / ubik0101
ふつうは、なにかが機能していて知覚されることを、ある、と呼びます。たとえば、たぬきが暮らしてる壊れかけた古屋がある、というのは、古屋が古屋として機能していて、そう知覚されてる、ということです。それは、たとえば新築の家としては、ない、です。

ところでまた、機能していて知覚されないことを、ない、と呼ぶことがあります。この見たり聞いたりは、機能しているのですが、そうしてる中心は、知覚されません。これを、ない、と呼べば呼べます。つまり、見たり聞いたりしてる自分が、ない、です。

ここで、機能していて知覚されるという意味で、ある、のは、たとえば、この庭、この呼吸、この思考・・・知覚とその対象・意識とその対象・・・一切・・・だけです。それで、たとえば、この庭が自分。という表現はできるのですが、やはり不正確です。それは知覚の範疇ではない、ある、ない、を見逃しています。

その、ある、の意味は、それ自身がそれの自身に原因なことを、ある、と呼ぶ、ことです。だからこそ、自我は、ない、と識別できるのです。ただこれは、知覚の範疇にありません。もちろん、意識、思考は、それ、ある、を感知も、関知もできません。それにとっては、ない、です。

No.3384 - 2011/05/03(Tue) 21:35:49

Re: 反応パート4 / ubik0101
ところで日常は、意識から知覚にシフトしているので、思考としての・・・時間が、自我が、自分が、自己が、世界が・・・ある、ない、を言っても、ほとんど意味を失いかけています。自我とか無我とか、どうでもいい・・・自我もなければ無我もない・・・です。

ここでは、たとえば、今があるとか、ないとかは、思考の範疇にないことは明確です。思考は、いま、を知覚しようとするかも知れませんが、そうではありません。知覚が問題なく機能してること、たとえば見る聞く思考する、そのことを、いま、と呼ぶのです。

では。何が聞いてるのか?見てるのは何か?知覚できない、それは知覚の範疇にない、というだけのことです。それで、それは、機能していて知覚される、されないという意味での、あるないの、範疇にはありません。ここで、知覚されない、ある、を見逃して、ある、のは知覚だけ・・・たとえば見るものは見られるもの・・・という表現は・・・一方は自我、一方は無我・・・両義的であり不正確です。

まあ、とにかく知覚・・・そこで思考の性質が、すこし見えてきます。思考は、それが知覚されるだけで、その思考が事実なのか、空想なのか、まったく識別しません。その思考は、また知覚も、その始まりも終わりも意に介しません。それはそうで、知覚が機能してるだけだからです。

その思考、知覚が、空想なのか?また現実そうなのか?これは判断の必要があるようです。たとえば自我の場合は、これが困難な傾向にあります。その困難の原因は、意識に依存してる、その中心が仮にですが、生じてるからのようです。

No.3385 - 2011/05/03(Tue) 21:46:49

Re: 反応パート4 / ubik0101
なんでも100円ショップで、2袋100円だった春大根の種が発芽しました。ふつう野菜の種は、たくさん蒔いて成長につれ、順次間引いていくのですが、とくに大きさを揃える必要もありません。それで、はじめから間を空けて蒔いてみました。
No.3386 - 2011/05/04(Wed) 07:08:52

Re: 反応パート4 / ubik0101
その大根の芽の畝の近く・・・たんぽぽの種、です。
No.3387 - 2011/05/04(Wed) 07:11:04

Re: 反応パート4 / ubik0101
なかなかそれらしい、廃墟のカフェ前にある、蔦の絡まる石です。
No.3388 - 2011/05/04(Wed) 07:30:47

Re: 反応パート4 / hato

そこで今日は、みどりの日。庭の木々や花をみたり、ふたりともすこし、昼寝をしました。

昨日は、パソコン教室で知り合った知人たちが、遊びにやってきてくれて、大掃除に準備にと大奔走。ubik0101さんのアクアパッツァが大変好評で、なんて嬉しい。ちょっとした庭散策が喜ばれた、春ひとときでした。

すこし前、ユーカリと桜の木の下に、カフェテーブルを置いてみました。廃墟のカフェとは、また違った趣です。

No.3389 - 2011/05/04(Wed) 19:55:56

Re: 反応パート4 / ubik0101
ラジオが、東北の津波の瓦礫の片づけのボランティアの話をしていました。そこで、ふと。人がボランティアするという表現もあるかもしれないけど、ボランティアすることで、そうしてる人が創られる。ということも言えそうです。と、思考しました。

たとえば、まず自分があって、それが、ほかの人のために頑張ろう、という理由で、行動するのでしょうか?という疑問です。それは計画が頓挫したり、変更したりすることで停滞するかもしれません。

そうではなくて、《作業は辛いかな?でも人のために頑張ろう》という人は《作業は辛いかな?でも人のために頑張ろう》という自分。そして実際に行動したら、その自分。行動しなかったら、その自分。を創っているのではないでしょうか。

じゃ、あなたは、ボランティアに行かないの?という人は、じゃ、あなたはボランティアに行かないの?いや、ボランティアより優れたことをする、という人は、ボランティアより優れたことをする・・・なんであれ、その行動で、発言で、思考で・・・また、見る、聞く、味わう、嗅ぐ、触るで・・・そんな自分を創ってるのではないでしょうか。

そしてこれは、誰かが、どう思考するとか、しないとか、理由の有無に、まったく関係なく、正確に、そうなのではないでしょうか。これは仏教用語に詳しくありませんが、自業自得、ということでしょうか。なにかの過去のことが結果として現れたのではなく、ただ、いま、そうなのではないでしょうか。

ここで、世界は、つまり自分は変えられることに気がつくのではないでしょうか。このことの精髄が「あらゆる悪いことをせず、あらゆる善いことをしよう」ではないでしょうか。

たとえば自我・・・心理的思考・・・葛藤・・・そのことは、苦しいのかもしれませんが、たとえば空想と事実を混同し、そういう苦しい自分を創ってるのではないでしょうか。そして、これは世界と自分との、自分と自分との分離だ。とか見なすならば。それは、そう見なす自分を創ってるのではないでしょうか。

たとえば、非難と正当化。(a)ほかの人を非難して、自分を正当化するとします。そして、正確に機能する思考は、順列組み合わせの通りに、(b)ほかの人を正当化して、自分を非難する、それぞれ単独もある、ということを等しく用意しています。

たとえば(a)だけではアンバランスなのですが、そのためには空想と事実を識別しない愚かさ、曖昧な思考、とかを要するようです。

No.3390 - 2011/05/06(Fri) 20:17:59

Re: 反応パート4 / peer
いや〜まぁ。考えますね。
ボランティアする人を作るのは、それを求めている人。
じゃないかな〜と思いますよ。
何をしたらいいか分からないけれど、この災害をジッと見ていられない。
みたいな想いが、人を動かすでしょ。
困り切っている人を観て「それは他人の事だから」と思ったら
ボランティアというモノがあることにも気付かない。
ボランティアしている人を観て「偽善だ」とさえ、言いかねない。

No.3391 - 2011/05/07(Sat) 03:02:38

Re: 反応パート4 / ubik0101
そこで、ほかの人を観て「偽善だ」とか、そういうことを言う誰かは、そういうことを言う、その自分を作ってる、または創らされてしまってる、のかもしれません。そこで、

>ボランティアしている人を観て「偽善だ」とさえ、言いかねない

そんなことを言うpeerさんは、そんなことを言うpeerさんを創ってる・・・と、思考してるubik0101は、そう思考してるubik0101を創ってる。そこで、

じゃ、どう思考しても自分のことでしかないのだ。人は人。これは空想することが問題なのかな?じゃ、事実だけを見よう・・・いや、そういう自分が創られなければ無問題?・・・でも、それはそういう自分のことでしかない・・・で、なんか閉塞感が漂います。

No.3392 - 2011/05/07(Sat) 19:08:38

Re: 反応パート4 / peer
いゃあ〜どうだか分からないんですけどね。
やってみたら、考えていたコトと違うかも知れないし。
生きると言うのは、やっぱ、何かと関わる事だと思う。
もちろん、これ、私の狭い考えですけど。
関わらないと自分の考えや想像の世界に埋没しちゃう。
・・・つまりは、自分のことしか考えていない人、になる
危険を感じる。ので。

No.3393 - 2011/05/08(Sun) 01:41:48

Re: 反応パート4 / ubik0101
ちょい単純にしてみました。たとえば庭を見ています。すると見てる自分が創られます。その自分は、なんだか訳がわかりませんが、庭を見ています。

ここで、知覚の範疇だけ大雑把に認識するなら、これは、見えてるのも見てるのも自分・・・庭は自分だ。と、すると。あまりに小さいループができて、閉塞感があります。

それはまた、とにかく庭がある、ということが暗黙の内に前提にされてるようです。庭という客観が確かに、ある、ということです。 これも、ちょっと閉塞感です。

このような、なにかによって創られる自分、というのは、自我の機能です。人は世界に自分を創ってもらってるのです。これも閉塞感です。

でも、そんなことも忘れて玄関から出て、花を植えたり、畑を作ったりして、庭を変えることができます。そこで、そのことによって作られる自分も変わります。 それで自分も庭も変化するという認識ができます。

これは世界(知覚)でも、人間関係、もしかして自分との関係(意識)でも、まあ、同じような案配のようです。

ここでまた、世界とか、ほかの人とかに関わって、創られる自分。あるいは創られる必要がない、自分。それが見えないので何だか分からない、ということもあります。

ところで、さて。たとえば朝、誰かに出会って、お早う、と言います。とくに分離とか、心理的な思考の有無とかではなく。ただ、反応、があるだけです。これが、自我と言えば、自我です。こんな状態が、ここでの課題かもしれません。

ここでは、このように観察されます・・・たとえば、人間関係・・・ほかの人の不満は、それが正当性があっても、なくても、恐怖を呼び起こすようです。それが権力欲の人の支離滅裂な対人関係。

そういう恐怖を感じなくするためには、たとえば隣家の喧噪をテレビの大音量で打ち消したつもりになれるように、不満に不満を投げ返して鈍感になる。けど、自分が発する不満も、自分にとって恐怖。そう作られてるようです。

この辺では、いざらい、という用水路の掃除があります。そのあぜ道、あざみ、が咲いていました。

No.3394 - 2011/05/08(Sun) 20:46:01

Re: 反応パート4 / hato

こちら、今年初の、デッキで発見した、エルちゃん。
どう撮ってみても、なにか不満気な風情が漂うエルちゃん1号。まだ身体が慣れないのかも知れません。いい陽気に誘われて、出てきたのでしょう。ドアのあたりにもう一匹。春ですねえ。

こんにちは。冬眠、いかがでしたか?

No.3395 - 2011/05/08(Sun) 22:33:07

Re: 反応パート4 / hato

さくらんぼが食べ頃です。赤いのをすこしだけ、採りました。なんてきれいな実。

No.3396 - 2011/05/08(Sun) 22:35:47

Re: 反応パート4 / hato

確かに、さくらんぼの味がしました。

No.3397 - 2011/05/08(Sun) 22:37:33

Re: 反応パート4 / ルー
> すこし前、ユーカリと桜の木の下に、カフェテーブルを置いてみました。廃墟のカフェとは、また違った趣です。

素敵な写真ですね!

こんなところで、やさしい風に吹かれながら読書などしてみたら貴婦人のようではないですか。

No.3401 - 2011/05/11(Wed) 16:02:41

Re: 反応パート4 / hato

> こんなところで、やさしい風に吹かれながら読書などしてみたら貴婦人のようではないですか。

ルーさん、なんてロマンチックな。
若干の問題は、遠州空っ風(からっかぜ)。凄いんです。本のページは吹っ飛び・・・目もパチパチしてしまいそうです。無風のひとときを見つけねば。

ライラック。薄紫の花の形がいいですね。素敵な香りがします。

No.3404 - 2011/05/11(Wed) 22:23:55

Re: 反応パート4 / ルー
> ライラック。薄紫の花の形がいいですね。素敵な香りがします。

ほんとう。ひとつひとつの花びら(?)の形がきれい。

蕾の時の形や色もいいですね。

花言葉を調べたら、紫のライラックは「愛の芽生え、初恋」でした。

何か、韓流ドラマをイメージしてしまう私は、もう毒されているのかしら?

No.3407 - 2011/05/12(Thu) 09:33:02

Re: 反応パート4 / hato

> 花言葉を調べたら、紫のライラックは「愛の芽生え、初恋」でした。

きれいですね。初恋。

> 何か、韓流ドラマをイメージしてしまう私は、もう毒されているのかしら?

初恋は、そのままよい響きですが、愛の芽生え。て、妙〜な感じですもんね。

自分は興味が持てないのですけど、韓流、嵌ると凄いらしいですね。。

こちら小さな花の雰囲気が、すこし似ているでしょうか。画像は反射してしまいましたが、カナメの花。とても可愛いんですよ。

No.3410 - 2011/05/12(Thu) 23:00:26
反応パート2 / ubik0101
ラジオが消費税の話をしていました。そこで、ふと。ほんとうは国の税収の全額が望ましいのですが、その1%でもいいので、どこかの銀行に貯金します。そして、国民の全員にカードを渡します。と考えました。

それで、国民は誰でも、《どうしても必要な時》に、望むだけの金額を引き出せるものとします。もちろん返却できるときには、返却できます。これで、ほとんどの経済に関する困難は、解決しないでしょうか。

すると、好きなように勝手に引き出す人がいるかもしれない・・・働かない人が増えるかも知れない・・・とか、いろんな可能性を考えて、反対意見が出るでしょう。

そこで。そんな、ほかの人がどうするか分からない?とかいう空想はともかく、あなた自身は、どうなんですか。あなたのことは、あなたに任されてある、その、あなた自身は、その銀行のカードを使う《どうしても必要な時》は、どんな時でしょう?

うーん、ほかの人が困ってるから、プレゼントする?というのは変です。その困ってる、その人が、カードを使ってお金を引き出せばいいのですから、それは、誰にとっても自分のためにしか使えないのです。

じゃ、借金を返す、というのはどうでしょう。うーん。でも、人に貸して損した誰か、その人が、《どうしても必要な時》にお金を引き出せるのですから、借金を返す、というのは、どうしても、とはならないでしょう。なにか夢を実現したい?それ、どうしても、でしょうか。

ところでさて。自分のために使うという、その、どうすれば、その自分のためになるんでしょう?また、その自分は何なんでしょう?それが明確でなくて、自分のためにする、ということは困難な気がします。どうすれば、そのカードを使えるのでしょう。

と、思考してしまいましたが、
うーん、とりとめなく迷走するかもしれません。
えいっ(目を閉じて投稿ボタンを押すときの気合い)です。

No.3368 - 2011/04/27(Wed) 19:43:28

Re: 反応パート2 / peer
将来、困らないように貯蓄をする。という考え方があります。

しかし、いつでも引き出せる億単位のお金がある。としたら
貯蓄なんてバカなことは、しないでしょう。
使い切れないほどのお金を稼ごうという気持ちも持たないでしょう。
どれほどの財産があるかで、人を比較することもないでしょう。

比較をさせて、死ぬほど働かせて、得をする人が、この世の
こんなシステムを作ったんでしょう。

No.3369 - 2011/04/28(Thu) 03:04:30

Re: 反応パート2 / ペトルス
「地の塩」という運動がありました。
No.3370 - 2011/04/28(Thu) 07:42:19

Re: 反応パート2 / ペトルス
電車の駅に箱を置いて、お金を入れるのです。
必要とする人がそれを使いました。
かなり長い間、その運動は続いていたと思います。
日本での話。

No.3371 - 2011/04/28(Thu) 07:48:14

Re: 反応パート2 / ubik0101
peerさん

そもそも、のどかで平等そうな風景に思える原始時代の物々交換というのが、取引、商売なのでしょう。それはやはり自分のものとか、ほかの人のものとか、分けようもないことを分ける気持、愚かな意識が思いついたのかもしれません。

そこから労働の対価とか、権利とか、支配とか、敵と仲間とか、ありもしない空想に囚われるようになったのかもしれません。お金も、法律も、社会常識も、便利なんですが、自分たちでつくった仕組みに縛られる・・・そこで軋轢や葛藤が起こり・・・その見えることを通じて、その、そもそもの愚かさを成り立たせてる見えない中心、自我を学ぶ。そのためには、いい仕組みなのかもしれません。

でも、もうそれはいいんだ。そうでなくても、できるんだ。生きていけるんだ。人が成長しさえば、いいんだ。これに、みんなが気がついていてるけど・・・できない・・・それが不満として現れてることもあるようです。

ところで、これは去年の秋に種を蒔いて、
そのまま成長して草丈が1mちょっとある春菊、
この雨上がりに咲いています。

No.3372 - 2011/04/28(Thu) 09:53:04

Re: 反応パート2 / ubik0101
ペトルスさん

どうも愚かな意識は、バランスを考えるのかも知れません。これだけ働いたら、これだけ貰える。これは公平だ。まったく間違いはないだろ?と。

では、神を信じれば救ってくれる?でも、神は、そんな損得商売をしないかもしれません。と、訪ねてきた、なんとか教会の人に話したことを思い出しました。

No.3373 - 2011/04/28(Thu) 10:02:49

Re: 反応パート2 / ペトルス
地の塩をネット検索してみました。

http://www.vinet.or.jp/~toro/genko/syowa3.html

http://mikanharu.at.webry.info/201008/article_7.html

http://blogs.yahoo.co.jp/damedame3212/22361198.html

http://rutoru.blog2.fc2.com/blog-entry-963.html

No.3374 - 2011/04/28(Thu) 16:47:14

Re: 反応パート2 / ubik0101
ペトルスさんは、地の塩の箱を復活させたいでしょうか?ネットで検索したら、「国民の声・・・内閣府」が見つかりました。提案してみてください。たぶん箱は、宗教色のない名前で、駅でなく、図書館とか、市役所とかに設置したほうがいいように思います。こちらは、上の投稿の銀行を提案・・・文書に数日かかるでしょうが・・・します。

http://www.cao.go.jp/sasshin/kokumin_koe/index.html

No.3375 - 2011/04/28(Thu) 21:59:38

Re: 反応パート2 / peer
お金でお金を増やす方法を考えた利口モノが居たんですね。
利息をとる。というヤツね。

そういえば、貧しくて生活しにくい地区の女性に、利息を取らないで
お金を貸し出す。そのお金を元手に商品を作って、売って。
利益が出たら、そこから借りたお金を返す。そのお金は、また他の人に貸し出す。・・・みたいな。

いわば。飢えた人にサカナを与えるのではなく
サカナの取り方を教える。ような感じでしょうか。

No.3376 - 2011/04/29(Fri) 01:49:22

Re: 反応パート2 / ubik0101
たとえば、お金で、お金を売り買いするとか。株の売買とか。そのことだけに地球の全員が携わるとして・・・それは暮らしとして、社会として成立しません。

そうでなく、たとえば人類の全員が農業だけをやるとして、それなら成立しないとはいえないのです。

が、それはどうしても、人の適性とか地域の特性とかあるし快適に働くためには・・・たとえ鍬一つだって、生産とか運送とか販売とか消費とか、企画とか研究とか・・・多様な状況が必要、とするとします。

しかしその多様なことから生じた余剰を、ただ自分の快適の追求に使う極端なのは嫌だということだと思います。でも、そんなことに適性がある人もいるのでしょう。

やはり、問題は自我かもしれません。でもそれは、どうしても、その自分のことは、その自分に任されてるようです。

だって、69億何千万人の誰がどうであれ無関係に、この自分さえ解決すれば、そのことは実現できる、 そのことに世界の総てが機能しています。

それはともかく、誰でも、入金、引き出しが自由。口座の金額は0から始める・・・そいうのは主催者が国でなければ、信頼を得られないので・・・というのも「国民の声」に提案してみます。

No.3377 - 2011/04/29(Fri) 07:24:07

Re: 反応パート2 / ペトルス
> そういえば、貧しくて生活しにくい地区の女性に、利息を取らないで
> お金を貸し出す。そのお金を元手に商品を作って、売って。
> 利益が出たら、そこから借りたお金を返す。そのお金は、また他の人に貸し出す。・・・みたいな。


たしか、インドで、いま、なんとかさんの提案で実施され、うまく、成り立っているものでしょう。

No.3378 - 2011/04/29(Fri) 07:30:50

Re: 反応パート2 / ubik0101
ついさっき、上記投稿の趣旨を・・・「国民の声」・・・ 内閣府共通意見等登録システム ・・・で提案しました。
No.3379 - 2011/04/30(Sat) 09:01:44

Re: 反応パート2 / peer
> > そういえば、貧しくて生活しにくい地区の女性に、利息を取らないで
> > お金を貸し出す。そのお金を元手に商品を作って、売って。
> > 利益が出たら、そこから借りたお金を返す。そのお金は、また他の人に貸し出す。・・・みたいな。
>
> たしか、インドで、いま、なんとかさんの提案で実施され、うまく、成り立っているものでしょう。


ペトルスさん。こんにちは。
まっ。アイデアというのは、数々生じます。
しかし現実に動く確率のあるアイデアは貴重になりそうです。
こういうアイデアだと、一万円程度でも、動き出します。
1000円からでも、個人的にでも動きます。
集団を作らなくても、ですね。
そして、やってみたら、有効に活用するか、しぼむか・・・。
必要なものなら、地域に適切であったら。条件はありますが。
まず、最小に出来ることから。でしょうか。

No.3381 - 2011/05/02(Mon) 13:08:16

Re: 反応パート2 / ペトルス
これがそれではないかと思います。

http://qazx.blog.eonet.jp/docdoc/2008/08/post-8dd4.html

No.3382 - 2011/05/02(Mon) 16:44:02

Re: 反応パート2 / peer
> これがそれではないかと思います。
>
> http://qazx.blog.eonet.jp/docdoc/2008/08/post-8dd4.html


教えてくださって、ありがとうございます。
他の地域の、もっと単純で緊急な状況で同じ作業をしていたのを
知っていたのですが、その原点があったのですね。

No.3383 - 2011/05/03(Tue) 09:21:07
反応パート3 / ubik0101
それで、なんだかの思考から知覚へのシフトは、誰でも簡単です。たとえば窓から外を見ればいいのです。風に吹かれれば、鳥の鳴き声が聞こえれば・・・それ、が、それ、です。

それを対象にしてないのに世界は・・・見ようとしなくても・・・見えて・・・聞こうとしてないのに・・・聞こえてるのではないでしょうか。

その対象にしないということは・・・とても説明ですが・・・対象にしてる中心、自我、自分、自己が、ない、という事態です。これは、この、このことが、神秘。とても不思議なんです。

ここは。たとえば世界が、自分が、時間が、あってもなくても、そんな、あるないの範疇になくても・・・畑を耕し種を蒔き、疲れては休んでも・・・そのことに、なんの関係もなく、そうです。なんであれ、自分の、世界の、不思議の、探求を、始めるのは常にここからです。これしか、したことがないように思います。

ここで、すこしの疑問が生じます。たとえば、自我がない、という体験。それは明瞭なんです。これまでの、どんな状態とも違う、総てが変わってしまうほどのことです。しかし、それは、ない、ということが、どいうことか知らないのです。

もしかして、ない、ということが何かを知らないということにおいて、その自我はない、という体験、そして表現は、なされてるかもしれません。ならば、その体験とか表現とかの基本、前提が、不明ということです。それはもう疑いようがなく当然のこととして、数学の公式のように不問にすることは、好みではないです。

ない、体験によって、その、ない、ということが、 どいう意味なのか?が、やっと視野に捉えられるようになる、のではないでしょうか。そこに未知が明るく深く静かに広がってるのではないでしょうか。

こんなことを、雨の日・・・晴れの日・・・桜吹雪の季節・・・水茄子の苗の季節・・・鳥の鳴き声・・・が、話しかけています。聞きます。それが、日常、という言葉の意味です。

No.3380 - 2011/05/01(Sun) 08:08:36
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