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雪にもイロイロと / peer
>>いちいち「原因は?」なんて考えるのは労力絶大〜

>ならば、いつでも、どこでも、そのほかの今を望むことはない・・・
>そんな意味で「いい雪です。ほかの所に落ちません」。
>も、ありそうです。


この「いい雪」という表現が気になるのよね。
「いい雪」と「ほかの所に落ちない」は・・・
どう繋がるのかしら? なんて。
なので私は、落ちる場所が決まっているから
後の事は心配しなくてもイイんだよ。
と受け取ったワケなのね。
禅の公案というのは
答えは、ない。
どう受け取るのか。
その人にお任せ。と思うんです。
ココロと言うと、わからないとなりますが
現在の姿が、現れるようなこと、かなと。

No.3158 - 2011/01/26(Wed) 02:52:19

Re: 雪にもイロイロと / ubik0101
ちらほら雪は。もの凄い横殴りの吹雪などでない、風流な雪、くらいの印象でした。でもpeerさんの指摘で。霰(あられ)雹(ひょう)そんな逆境でも、たとえば貧しくても、仕事がなくても、いい雪・・・日々是好日・・・の響きがあるのかもしれない、と思いました。

そうだとすると、いい雪だと言われて、全禅客は《風流ですね、幸せですね。そんな所に落ちるんですか?》なんて意地悪な質問をした、とも取れるかもしれません。それで。いいえ。全さんなら・・・この痛みに、衆人環視の中で嫌なめにあった、逆境に・・・どう反応しますか?という厖(ほう)居士、いきなりの平手打ち、とも読めるかもしれません。

それで感じた恥を取り繕うために「そんなに、あわてないで」などと言うなら、人を酷い眼にあわせる閻魔様に捕まると困ったことになる・・・では、どうすればいいか・・・無為自然・・・災難にあったら災難にあえばいい、死ぬときにはCENSOREDばいい、とも読めば読めてしまいそうです。

たしかに公案は、その人、その人の有り様の反映も起きるでしょう。すでに、了解してるけれど、認識してないことを、意識に教える働きもあるのでしょう。そして、どうであれ読み取ったら、忘れる、超える、という働きもあるようです。

たとえば因果は自分。として、降る雪は、私です。寒いも、痛いも、美しいも、私です。まあ・・・(雪は私、でも私は雪ではない、は度外視するとして)・・・それを映す心なんかないのです。ここは、自我も、自己も失ったところです。

つまり因果だけ、です(そう思ったら、そう実感してしまいます)。起こってることが、私、です。また、落ちるところは決まってると読んで。さて、そこも忘れる・・・もしかして、それが二回目の平手打ち、なのかもしれません。

そうだ、掘り起こした石(なぜ、こんなに都合よくあるんだろう)で、ロックガーデンをつくろう、です。

No.3159 - 2011/01/26(Wed) 13:26:25

Re: 雪にもイロイロと / hato

よい雪は別所に落ちず。

ここ、にも、そこ、にも、あそこ、にも。

ほかのどこかに落ちません。

一切は、その世界。

一切は、不可 思議にて尚、その雪は

ただ雪です。

そして尚、雪です。


温暖な静岡も、大変に冷える1月。身に滲みる寒さです。ストーブの灯が冬のにおい。ubik0101さんはキュと顔をほころばせて「ちゃっぶい、ちゃっぶい」ていいます。浜松では今日再び、雪が降ったそうです。

すこし前の雪の日、凍った路面を長く登り、とある1000年杉を見にでかけました。

No.3160 - 2011/01/26(Wed) 21:37:46

Re: 雪にもイロイロと / hato

周囲10メートルだそうです。

No.3161 - 2011/01/26(Wed) 21:51:36

Re: 雪にもイロイロと / ubik0101

説明書きです。

No.3162 - 2011/01/26(Wed) 21:54:49

Re: 雪にもイロイロと / peer
ubik0101さん。

ううーーむ。なんにしても平手打ちは私としては
できない・・・ですね。
伝える方法は様々にあると思うし。
禅宗は、手荒い事が好きなのかしら?

まっ。雪は。となろうと
杖は、となろうと
すべて自分のこととして。
なので、それを外すと平手打ちですか〜

hatoさん

うわぁー。すごい表情を見せてますね1000年杉。
東京も、いつになく寒いです。
いつ雪が降ってもおかしくない・・・けど、まだです。

No.3163 - 2011/01/27(Thu) 03:33:21

Re: 雪にもイロイロと / ubik0101
> 禅宗は、手荒い事が好きなのかしら?

んー、そんな疑問を感じたことはないです。でも、自分の腕を切るとか、門を閉めるとき足が挟まって骨が折れたとか・・・あんまり詳しくはないですが・・・そんな話はあるようです。そ、いえば読んでて、、、何度か、中央公論の「禅語録」を力一杯に床に投げつけたことがあります。

No.3164 - 2011/01/27(Thu) 19:26:04

Re: 雪にもイロイロと / hato

> うわぁー。すごい表情を見せてますね1000年杉。
> 東京も、いつになく寒いです。
> いつ雪が降ってもおかしくない・・・けど、まだです。



そうでしたか。東京はいつも、春までには1、2度降りますよね。静岡では少し前、ほんのちらほら・・の雪でしたが、結構な騒ぎになっていました。車が渋滞して20分が2時間だったとか。慣れていないんですね。

夕方、庭の空を見上げると、鳶が北の山に帰っていくのが見えます。少しずつ、あちこち群れをなして、たくさんの鳶です。空が広いので目に付くのでしょうが、ときどき輪を描きながら、おつかれさ〜ん、な感じでゆっくり仲間と一緒に帰っていきます。「わぁ〜い!」と手を振って、

「ま〜た、あしたね〜!」

今年は海はまだですが、そういえば、カモメの大群が船のあとをついていくのを見ました。

No.3165 - 2011/01/27(Thu) 22:20:12

Re: 雪にもイロイロと / peer
>んー、そんな疑問を感じたことはないです。でも、自分の腕を切るとか、門を閉めるとき足が挟まって骨が折れたとか・・・

ほーほー。なるほど。
禅宗って武士の仏教イメージというか〜自力ですからねぇ。
ちょっとキツイモノがあるのかも。です。
法門無尽といいますから、お好きな方からどうぞ。かな。

渡り鳥が一斉に飛び立つのを観ると
うん。何万羽も一斉に、、、なのに、ぶつかりあわない。
あれも、面白い風景ですね。

No.3166 - 2011/01/28(Fri) 05:02:53

Re: 雪にもイロイロと / ubik0101
ノンノンが、やっと飛び始めた頃に、ルンルンと空中で衝突したことがあります。えー、鳥なのに?と思いましたが、学習能力はあるようです。

とくにノンノンは、よくペンとか眼鏡を、噛んで運んだり頭で押したりして、テーブルの縁から下に落として、なぜなんだろう?と首を傾げて落ちた物を見ています。

それで、「あのね。落としてから考えるより、考えてから落としなさい」と言い聞かせます。すると、あんまり落とさなくなりました。きっとペンや眼鏡は鳥のようには飛ばないことを理解したのかもしれません。

ところで思いついて、不昧因果、をグーグル検索してみました。どうも、因果、とは仏教の基本概念で、なんでもそれから外れることはないそうです。たしかに因果は因果を眩まさず、因果は因果に落ちはしないけれど・・・世界の総活動/中道/縁起を誤解した、因果、という・・・それは無我を強調しますが・・・そんな思考を、さらに演繹したり帰納したりしても、どうかな、と感じます。

ケイタイをかまえると気がついて、何?何?といって近づいてくるので、なかなか撮れないのですが・・・ブランコの鎖を首の後ろに廻して・・・自分の足では届かないところを掻いています。

No.3167 - 2011/01/28(Fri) 13:03:28

Re: 雪にもイロイロと / hato

カモメの大群に続いてこちらは鵜の大群。驚愕ものです。ubik0101さんとふたり、しばし佇み、眺めたのでした。

No.3168 - 2011/01/28(Fri) 21:10:23

Re: 雪にもイロイロと / hato

拡大してみると、雰囲気が伝わるかも知れません。

No.3169 - 2011/01/28(Fri) 21:12:00

Re: 雪にもイロイロと / hato

ひょっとして一万羽くらいはいたでしょうか。圧巻でした。

No.3170 - 2011/01/28(Fri) 21:15:51

Re: 雪にもイロイロと / peer
因果で言うと
ノンノンは無邪気が「因」でしょう。
「果」としてインコの形(色)をして無邪気さを表現している。
のでは?
そんな気がします〜

No.3171 - 2011/01/30(Sun) 03:25:53

Re: 雪にもイロイロと / ubik0101
ノンノン、今朝は、テーブルから時計を落としました。そこで「ノンちゃん、時計は飛ばないんだよ」と言い聞かせてみました。

ところで。たとえば因果という、未知の何かがあって、それは、あんなことだ、こういうことだ、どういうことだと探る・・・そんなことをしてる、その自分は勘定にいれてない・・・しかし、そのことは実は自分を不可侵なこととしてみなしてる・・・つまり、そこで思考されてる因果の外にいる ・・・ それは見る中心ができている・・・因果を対象にしてる、私、がいる。 つまり因果と、自分との分離です。それが問題と言えば問題です。

そして、そんな因果と自分を別のこととして見ることも、ひねくれてるけど、因果と言えば因果なんです。それで、そのように生きていながら、そのように生きてることに、なかなか気がつかない原因かもしれません。でも、そうだということは・・・見えない香りのように・・・なんとなく雰囲気として漂っています。なので、そのことに、ふと、気がつくこともありそうです。うまくいくと、因果が、私、です。それに決着すれば、因果の概念が消えてなくなります。

ところで、爪を網戸に引っかけて、助けを呼ぶ、ナナです。

No.3172 - 2011/01/30(Sun) 10:50:42

Re: 雪にもイロイロと / hato

真っ白な鷺の集団を見つけて、とても驚いたこともありました。100羽、200羽・・・はいたでしょうか。同じねぐらに帰るのを見ました。

No.3173 - 2011/01/31(Mon) 21:46:48

Re: 雪にもイロイロと / hato

> それで、「あのね。落としてから考えるより、考えてから落としなさい」と言い聞かせます。すると、あんまり落とさなくなりました。きっとペンや眼鏡は鳥のようには飛ばないことを理解したのかもしれません。


すると、あんまり落とさなくなった・・は、・・・したからそうなった・・・というわけではありませんよ、念のため。

因果。作用が織り成されるところでの果実。けれど人は、現在、過去、未来を、一本に繋げる物語を愛しており、なにより世界に一縷の縁を見出したい・・のかも知れません。その人がなにより、そこはかとなくあるからこそ、そのように見て信じることもできるでしょう。人はどうしても、なにか誰かを縁にして、世界を拠り所にしていたいものかも・・・知れません。


好雪片々・・・それは、ふと瞬いた銀白色の粒子のよう・・・どこに落ちるともなく消え行く雪の結晶です。どこに落ちるでもなく、ただそのようにあります。

ここのところすっかりお兄さんになって、遊ぶより給餌行動に忙しい、ルンルンです。

No.3174 - 2011/01/31(Mon) 22:26:41

Re: 雪にもイロイロと / peer
>たとえば因果という、未知の何かがあって、それは、
>あんなことだ、こういうことだ、どういうことだ
>と探る・・・そんなことをしてる、その自分は
>勘定にいれてない・・・


因果は、自分(自我意識)とは無関係・・・かもです。
物を落とせば、地に落ちる。そんな単純なモノで
そして人間が、あーのこーのと言う事も、確認することも
難しいんじゃないかしら?

作用と反作用の法則。因果の法則。
循環の法則。自然の法則。愛の法則。
宇宙は意外と秩序があるようで〜。
分かるのは、自分のした事は、自分に戻る〜と。
まっ。。因を作らないこと、しか、ないかも。
それだけは自分の責任になりそうですし。

どこに落ちるともなく落ちる雪は、今年は・・・
四メートル越え〜とかで、困っている人も多いようです。
いや〜ホントに。あちこちで天変地異やら暴動やら。
変革の時というのは、どうもホンキらしい。

No.3175 - 2011/02/01(Tue) 01:58:17

Re: 雪にもイロイロと / ubik0101
>因果は、自分(自我意識)とは無関係・・・かもです。

うーん、あのとき、ああすればよかった。《過去》。そうしたら、こうでは、なかった。《現在》。そうだとしたら、どうなるだろう。《未来》。そんな・・・過去、現在、未来・・・それは空想の時間旅行です。そのことは、自分が自分と分離してる、そのことが可能にしているのではないでしょうか。ふつうは、そんなことを自我意識と呼ぶようです。

そいう人の心理的な有り様に注目すると、とくに問題とも思われない技術的な、実用的な時間の思考とは区別したりする必要も起きるのでしょう。そんなことは、(苦痛をともなう、あるいは苦痛とも自覚しない)騒がしい、なにか個別の原因と結果を求める誤解された因果を生きてるゆえに起きることかもしれません。それは世界が、人に因果を通じての自我の理解を望んでることの現れ、かもしれません。

とくに、その経路でなくてもいいのですが、因果を理解することで自分との分離を解決し、心理的な時間旅行の愚かさ、迷いを終わらせることができる。という、説明、はできるのかもしれません。また、ふらふら心理的な時間旅行をしてる人に対してですが、いまここ、が提唱されたりもするでしょう。

>そして人間が、あーのこーのと言う事も、確認することも
>難しいんじゃないかしら?


とあることを世界の総活動から切り取ったと仮定して思考したことが概念としての因果ですが・・・世界の総活動に触れることで自我がないとかを了解すれば・・・すでに、それを飛び越えてるのです。そのことの説明、確認として、因果の概念は役立つといえるだけのこと、でもあります。

そして、なにかとあることは原因があって結果があるという因果の概念は不完全だから機能できるし・・・それが消えてから・・・思考には世界の総活動は理解できないのですし・・・その概念が消えた、そのことが、その通り正しいと、了解できるのではないでしょうか。たとえばジグソーパズルは未完だから遊びとして機能できる。完成したら天袋直行・・・のように、です。

>いや〜ホントに。あちこちで天変地異やら暴動やら。
>というのは、どうもホンキらしい。


まあ、世間話としても。ことさら関係ないこと(因)、たとえば「天変地異やら暴動」を、ことさら「変革の時」という(果)と関係づける、ことはないです。うろ覚えで、しかも誰が言った言葉かを忘れましたが、「道は眼の前にあります」で、充分と感じます。

No.3176 - 2011/02/01(Tue) 15:58:07

Re: 雪にもイロイロと / hato

とある清水が、綺麗に氷を張っていました。切れそうに冷たい水が、それでもほんのすこし、春の兆しです。

No.3177 - 2011/02/01(Tue) 21:57:15
好雪片々不落別處 / ubik0101
ときに、因果、という言葉を聞くことがあります。ある結果は、ある原因によって起こる、ということのようです。それは、とある、もの、こと、を世界から切り取った、と仮定して思考されてるのではないでしょうか。それは、なんとなくですが切り取られない世界を背景にしてるようです。

そのようにして、その、もの、ことの、これも切り取られたとして仮定される原因とか結果を探るなら、すでに、なにか過去未来現在という限定された時間を前提にしてるのではないでしょうか。

すると当然、それは因果が働いてると思考されるのではないでしょうか。つまりその思考する人の因果に囚われた有り様を、そのままその思考が、表現してるだけです。

そして。とある、もの、こと、を仮に世界から切り取ったとして思考すると、そのずっと過去も、ずっと未来も、つまり最初の因も最終の果も、とても不明ではないでしょうか。

それに、なんだかの結果が起こってるとして原因は実は、不確定ではないのではないでしょうか。そこで・・・まったく無関係な、もの、こと、はないのですが・・・それに乗じて、ことさら関係ないことを因と見なして、ことさら関係ないことを果と見なすことも起こるようです。

それで、切り取って思考するという、そのこと、それが成立しない、ということを示しています。すると、もしかして、その思考の逆としての、すべては切り取ることのできない繋がってる、という思考も、それだけしかないなら単なる思考であり、世界を、そのように捉えてる、捉えられてる、のかもしれません。

続きます。

いつも、こんなに寒いのですか?と聞いたら・・・16年振りの雪だった、と近所の人が話してくれました。前日まで、わさわさ、だったブロッコリーの苗の葉が、つぐみ(たぶん)の大群に食べられてしまっていました。

No.3142 - 2011/01/21(Fri) 09:15:19

Re: 好雪片々不落別處 / ubik0101
どちらも、その思考する人の有り様を、そのまま思考が表現してるだけであり、そこには気がつかない誤りが隠れて、それに縛られてるのではないでしょうか。と、いうのは、完全に切り取られたことも、完全にひと繋がりも、どちらも極端な思考、つまり空想にあるだけです。そんな思考に依存してるのではないでしょうか。

碧巌録・第42則

厖(ほう)居士(在家の仏教修行者)が薬山禅師の寺を去るとき、薬山は十人の禅客に見送りを命じました。みんなで門前に来た時、厖居士は空に舞う雪を指して「いい雪です、ほかの所に落ちません」。と言います。

そこで全(ぜん)という禅客が「では、どこに落ちるのですか?」と尋ねます。いきなり厖居士は全禅客を平手打ちします。

「そんなに、あわてないで」と全が答えます。厖居士は「そんなことで禅客などと言っていると閻魔様が許しません」、と答えます。

「では居士ならどう答えますか」、と全が聞きます。厖居士はまた全を平手打ちして「眼は見ていても、眼が見えないと同然。口は話していても、口が利けないと同然です」と答えます。


この、ちらほら雪は風に乗って、どこと選ばず冬の空に舞って、不落です。どの雪も・・・落ちるかもしれない所は、まだ不確定で・・・どこにも落ちてないのです。どこかに落ちたとしても、ほかの所では落ちない、です。「いい雪です。ほかの所に落ちません」。それは原因にも、結果にも、切り取ることも、その逆の、ひと繋がりにも、落ちる所がない雪の風景です。

ここでなされる「どこに雪は落ちますか?」という疑問は、 しかしそれでも、雪は雪として雪です。その美しさは、その美しさです。なんでもいいのですが、怒りは、怒り、悲しみは、悲しみ、です。なにかの思考は、その思考です。 なぜ、これは、これなんですか?わたしは誰?という質問です。

続きます。

このあたり遠州では生け垣に使われる真木(まき)の木の実です。青い実と、赤い実が繋がってなります。その赤い実は食べられます。子供時代を過ごした大分では、人形実、と呼ばれていました。とても薄味の、グミのような感じです。

No.3143 - 2011/01/21(Fri) 11:20:12

Re: 好雪片々不落別處 / peer
この話を知った時
では、雪が発現した時に、すでに、どこに落ちるのかは決まっている。ということかな。と思って
それならば、私たちはすでに起きている人生を生きるのだろうか。とも考え。さらに
アインシュタインの「月は、観ていない時は、ないのか、あるのか」という言葉がリンクして。。

・・・話の続きを、お待ちしております。

No.3144 - 2011/01/21(Fri) 13:07:10

Re: 好雪片々不落別處 / ubik0101
peerさん

うーんと。それぞれの雪が、決まったところに落ちる。と読めるとは思ってもいませんでした。決まった所に落ちる。なら・・・感じとしては、なんとなく重く湿った、ぼた雪で・・・決まったところに落ちると言うでしょう。それで、ほかの所には落ちない、という表現には、情景としても、眼で見えてててもトレースできない、雪の舞い踊る美しさを感じました。

アインシュタインの言葉は、知りませんでした。ふつうは、たとえばテレビがある、怒りがあるなど、それが機能してて知覚されることを、ある、と言うのですが・・・その範疇にない、ある、ない、を探る言葉としても読めると感じました。

この庭の西側に、名前は知らないけど、なかなか姿のいい木が見つかりました。そうだ、これは、睡蓮鉢の日除けにしよう。というわけで、さっそく掘り起こして鉢に植えました。しばらくは物置で養生して配置します。

No.3145 - 2011/01/22(Sat) 16:40:48

Re: 好雪片々不落別處 / ubik0101
ところで。それぞれ、雪でも、見るでも、美しいでも、それが何だとしても、落ちるとしても、ほかのところには・・・それなら・・・ここという個別な所にも落ちません。ならば、とある、もの、こと、を仮に世界から切り取るにも、ひと繋がりにも、ほかの何にも、落ちない、です。

どんな対象化もせずに・・・つまり、それを対象にしてる主体がつくられず・・・因果そのこと、です。 ことさら言うなら、どこにも落ちない因果が、その人です。 ほかの言い方では、その平手打ちの、痛っ、が全、です。ほかには、なにもないです。

これが、因果を対象にしないところ、因果の概念が、ないところ、です 。それが不完全なゆえに機能してた因果の概念が、知覚される必要がなくなるところ、です。因果が因果を確認する必要がない、という意味です。もっと簡単には、因果には、因果という概念はないのです。どんな、たとえば、ありのまま、という概念も壊滅、です。

ならば始まりも、終わりも、あるもないも、ないのです。いわゆる自我も無我も、業も、輪廻も、この世界だけ、でもない、のです。でないなら、たとえば善い悪い報いを勘定する、因果の概念、閻魔様から逃れることはできません。ここで僅かでも、とあるもの、ことに意識が動くと、 この世界、このとき壊滅し、生成される、つまり因果は持続なしに持続すると見なされるようです。

また、余談ですが、因果を変えることができるのは因果だけです。これは当然のことですが、人は世界を変え続けているのですが、そうであって、そのことには、なかなか気がつかないようです。このとき、このとき、世界の進路を変えています。これに気がついて、かなり驚いた覚えがあります。

続きます。

No.3146 - 2011/01/22(Sat) 17:33:11

Re: 好雪片々不落別處 / hato

よい雪は別所に落ちず。

ここ、にも、そこ、にも、あそこ、にも。

ほかのどこかに落ちません。

その一切は、不可 思議。

尚、その雪は、ただ雪です。


そして尚、雪です。


とあるいつかの朝、小さなアパートの外は白銀に光っており、メジロがベランダの砂糖水を飲みにきていました。

No.3147 - 2011/01/22(Sat) 22:39:12

Re: 好雪片々不落別處 / peer
雪が見える。ということは、遠いどこかから落ちてきた。
いま、とつぜん、発生したワケでもなく。
なので、因果の法則・・・かな〜と。
地面に落ちる途中で消えるかもしれないから
どこに落ちるかは決まっているとも言えない。
・・・未来は未定。

子供の頃
雪が降ってくるのを下から眺めると
光が遮断されて薄黒いモノが、ウヨウヨとして。。
まるで虫が大量に降ってくるようで、
なんだか怖いような気がしたこともあります。

雪。といえば
「雪が解けると、どうなる?」
水になる。という人あり
春になる。という人あり。

No.3148 - 2011/01/23(Sun) 04:26:26

Re: 好雪片々不落別處 / ubik0101
peerさん

そうでした。子供の頃、初めて雪を見上げて何か感じました。うようよした、その感じだけで、世界が一杯で。なんとなく不思議に嬉しかった。それでまた雪が降ると、それを感じることを期待して見上げてみたのですが、もう感じることができず、ガッカリしたことを思い出しました。

きっと、過去を変えることができるなら、因果は成立しないでしょう。でも人は、心理的には過去を作りかえて、なにかを判断したり、評価したりすることもあるのでしょう。その不完全さゆえに、そんな思考ができるのかもしれません。

そうだ、小さな丸い花壇を、庭のあちこちに、たくさん作ろう。というわけで、そのひとつに去年の秋、スノードロップの球根を植えました。つぼみが見えています。

No.3149 - 2011/01/23(Sun) 21:26:32

Re: 好雪片々不落別處 / ubik0101
ただ指を空に指すだけで、風が変わります。雪の軌跡が変わります。世界が変わります。 それは、ほかの所にも、過去にも未来にも落ちません。

なにかの原因を求めたり、それから結果を考えたりすることは、不完全な因果の概念です。壊れています。それは、因果が因果を思考するからというわけでもなく、不完全な偏った人としての因果が、そう思考するのです。ただ思考は、そのように思考する人だということを、そのまま表現します。

そうでなく、なににも偏らない因果である人は、因果を自覚せず、無選択を選択せず、過去を思わず、未来も思わず、今も思わず、 それは、見ても、眼が不自由な人のように、見るということなしに見えてる。話しても、言葉が話せない人が話すように、どんな話そうとする意図なく話してる、です。

どうして、そうなのでしょう。たとえば、ある人は満面の笑みで喜んでいます。ある人は泣き叫んでいます。ある人は、怒っています。ある人は怠惰です。ある人は、賢明です。あるいは、善で、あるいは悪で、あるいは傲慢です。

そのように世界は、あることと、反対のことも、類似のことも、無関係なことも、まんべんなく全て活動してるのではないでしょうか。そうでないときなど、ないです。それゆえどれか個別の、特定のもの、ことに偏る、依存できないのです。これを、ここでは世界の総活動、中道と呼んでいます。そして人は、その全でありながら一筋でありながら全ではないでしょうか。

もし、仮に、例えば・・・完全に切り取られたことがあるとして、また、完全にひと繋がりだとして、どうして変化が起きるでしょうか?どれでもないから、因果が可能なのではないでしょうか。どこにも、どのほかの所にも落ちない、どこにも引っ掛からない、なににも躓かない・・・雪は雪でなくてもいいのに雪・・・です。

No.3150 - 2011/01/23(Sun) 21:33:03

Re: 好雪片々不落別處 / peer
>もう感じることができず、ガッカリしたことを思い出しました。

雪は雪だ。どう観ようとしても確定したことだ。
ってことかもしれないです。
いちど体験すると、そこから他へ動かない。
心は、どうも安定したがる傾向があるようで。
子供が同じことを何度も何度も体験したがるのは
同じことはない。ということを知っているからか。
あるいは次がどうなるか知っている安定が心地よいから・・・か。
わかりませんが。

原因を探りたい人は、今を受け入れないから。
今を受け入れているってことは
原因も今も結果も、一瞬で受け入れていている
それをどうもこうも、がない状態なのかな。
だって、あることに対して、確定したコトに対して
いちいち「原因は?」なんて考えるのは労力絶大〜

No.3153 - 2011/01/24(Mon) 14:37:04

Re: 好雪片々不落別處 / ubik0101
たしかに見上げると、空から舞い降りる雪は、それぞれの中心あたりが暗く灰色に見えたのです。でも・・・ふつうに横から見る風景の雪は白いので・・・暗く見えた、そのことが不思議な嬉しさの原因だと思って、おなじように暗く見ようとした、のです。

でも、そのように暗く見える見えないではなく、最初の、うわあ不思議、そのこと。その雪の知覚だけで、自意識のないこと・・・まあ子供の頃のことなので、わからないけど・・・それが嬉しく感じたのかもしれません。

>いちいち「原因は?」なんて考えるのは労力絶大〜

ならば、いつでも、どこでも、そのほかの今を望むことはない・・・そんな意味で「いい雪です。ほかの所に落ちません」。も、ありそうです。

まあ、原因を探ったりすることは、これからの選択肢を探ってる・・・それと関連づけた未来の行動のシミュレーションで・・・そんな、ぐずぐずしてる状態は苦痛だけど、でも実際に行動しても失敗するかもしれないから、それよりは、楽、って取り越し苦労・・・もありそうです。

No.3156 - 2011/01/24(Mon) 21:36:42
(No Subject) / アバターラ
目の前で降っている雪はだいたいどこかに落ち、積もります。消えたり融けたりするのもあるけれど。

降る雪を風情があると好んでいる、積もった雪は邪魔だと嫌っていると、降る雪と積もった雪の間に断絶があり、降る雪はどこにも落ちず、積もらない。
降る雪も積もった雪も同じく嫌っていると、降る雪はそのまま必ず落ち、積もってしまう。

No.3151 - 2011/01/24(Mon) 08:43:41

Re: / ubik0101
ちらほら降る雪の、その風情も、その風情に、落ちません。その平手打ちの痛みも、その痛みに落ちません。その好きも、嫌いも・・・その好きに、その嫌いに、落ちません。その私は、私に、落ちません。
No.3152 - 2011/01/24(Mon) 09:21:27

Re: / peer
雪は。
その雪を観る人の心に、落ちます。

No.3154 - 2011/01/24(Mon) 14:41:32

Re: / ubik0101
なんのことか、心、って知らないのですが・・・そこはかとなく雪は嬉しくなります。ちらほら見えると、ほかの人に言いたくなります。あっ、雪だよ。と言えば、んっ、と窓から一緒に外を見ます。ジョウビタキが、デッキに置いてる蜜柑を食べた、とかも。 そんな嬉しさを感じます。
No.3155 - 2011/01/24(Mon) 21:31:07
真我、仏性 / アバターラ
はじめまして
この世界は、自己、自我、真我、仏性を取り上げています。
それが、ある、ない、が、この世界では話されます。
もう少し、具体的に取り上げると、こんなものですか。

それがある、とみなしていると、他の人が眠っているのか死んでいるのか、こちらの思いが急変するとき、他の人の真我、仏性がどうなっているのか処理をする必要が生じます。
それで、その一環として、真我、仏性、の呼び名を変えて、魂などと唱えるのでしょうか。

誰それさん、いますかと呼ばれて、はい私ですと答えるときの私は、そういう私があるということではなくて、そういうことではなくて、単に個体としての心身を指しているだけなのでしょうね。
人との間の情報伝達、指示のために思考が使われているだけ。

人からバカにされて、私をバカにしたと怒るときには、バカにしたとみなす認識と、それと一緒になって、抵抗し拒絶する動きが対になって、連鎖的に動く思考があるということでしょう。対、連鎖性の一方を私と呼んだだけ。対、連鎖性がないときは私もない。

それにしても、今日は寒い朝

No.3140 - 2011/01/07(Fri) 10:54:11

Re: 真我、仏性 / ubik0101
はじめまして

>それがある、とみなしていると、他の人が眠っているのか死んでいるのか、こちらの思いが急変するとき、他の人の真我、仏性がどうなっているのか処理をする必要が生じます。
>それで、その一環として、真我、仏性、の呼び名を変えて、魂などと唱えるのでしょうか。


どなたかの質問に、ここで言う自己は、真我、と呼べるでしょう、と答えたことがあります。けど。たとえば「犬に仏性はありますか?」とかの文書を引用して、それに含まれてる言葉でなければ・・・つまりubik0101の意見、主張として、仏性、魂、とか言ったことはないです。また、ほかの人の真我とかが、どうなってるかの処理する必要が生じたことは、全然ありません。

>人からバカにされて、私をバカにしたと怒るときには、バカにしたとみなす認識と、それと一緒になって、抵抗し拒絶する動きが対になって、連鎖的に動く思考があるということでしょう。対、連鎖性の一方を私と呼んだだけ。対、連鎖性がないときは私もない。

たとえば日常では、なにかが・・・たとえば思考の連鎖・・・が、機能、してることを、ある、と呼ぶのでしょう。けれど。もしかして、その思考の連鎖が、ない、というのも・・・ある、ないという対の、連鎖かもしれません。

というのは。私は、ある、ならば・・・思考の連鎖があっても、思考の連鎖がなくても、私は、ある、ではないでしょうか。たとえばテレビを見て、思考の連鎖を忘れてて、私を自覚できなくても、私は、ある、ではないでしょうか。それくらい、私はある・・・それを自我と呼ぶとして・・・その根は深いのではないでしょうか。

そうでなく、私は、ない、ならば・・・たとえば思考が連鎖しても、連鎖がなくても、私は、ない、ではないでしょうか。そうでなくて。あるとき私は、あったり、あるとき私は、なかったり、するのでしょうか。また。私がなければ、ずーと思考の連鎖がない、ということなのでしょうか。くり返しですが、思考の連鎖がなければ、ずーと私は、ない、ということでしょうか。

さらに・・・対、だけが思考の連鎖なのか?また、思考だけでなく、感情や知覚は行動は、ここで言ってる、私は、ある、に関係しないのか?また、わたしが、ある、にしても、ない、にしても、それが、どう機能してるのか。その意味は何か?もしかして、私だろうが何だろうが、あるのでもないのでもない、のではないだろうか?ということも疑問になると思います。

>それにしても、今日は寒い朝

No.3141 - 2011/01/07(Fri) 16:30:22
パイクッキー / suho
カバヤのカレームシリーズ。
パイとクッキーの出会い「パイクッキー」。
ほのかな期待のもと食べてみましたが。。
これは微妙〜。
たぶん開発者は違うと思われ。。
あけましておめでとうございます。

No.3135 - 2011/01/03(Mon) 12:02:34

Re: パイクッキー / ubik0101&hato
では。というわけで、花ゆずの実を砂糖と煮て、ジャムにしてみました。ほんのり苦く酸っぱく甘く、なかなか、です。

これから四つ葉の苦労婆からイチゴが、たくさん貰える予定なので、それもジャムにします。冷凍庫に保存すると、あまり砂糖を使わなくても、長持ちするそうです。

今年もよろしく、です。

No.3136 - 2011/01/03(Mon) 15:32:05

Re: パイクッキー / suho
> では。というわけで、花ゆずの実を砂糖と煮て、ジャムにしてみました。ほんのり苦く酸っぱく甘く、なかなか、です。

うーん。そそられます。。
ふわりとした香りがお部屋に充満してそう。。

> これから四つ葉の苦労婆からイチゴが、たくさん貰える予定なので、それもジャムにします。冷凍庫に保存すると、あまり砂糖を使わなくても、長持ちするそうです。

そうなんですね。
そういえば、昔母親もいちごじゃむを作ってましたっけ。
でっかいガラス製の瓶で。めっちゃ甘かったですが。
料理のセンスはイマイチでしたが、とりあえず手作りチャレンジャーの母親でした。
トーストに、ごろごろしたいちごをすりつぶすように伸ばして食べてましたね。

> 今年もよろしく、です。

こちらこそ、よろしくお願いします。

ハトさんの写真に負けないよう今年は写真いっぱい撮ろうかなと思ってます(笑

No.3137 - 2011/01/03(Mon) 18:10:23

Re: パイクッキー / hato

> ハトさんの写真に負けないよう今年は写真いっぱい撮ろうかなと思ってます(笑


いつも、ありがとうございます。そう、suhoさんは写真よく撮られるのでしたね。素敵な画像です。

ubik0101さんもわたしもshopping好きで、(というか、見て歩くのがすき〜)とくに「百均」(百円ショップ)はお手のものです。静岡でも3店制覇しました。

こんな、可愛い、手袋。たまりません。

No.3139 - 2011/01/03(Mon) 20:56:16
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