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絶対不自由 / ubik0101
あるとき、おそらく1000年くらいも前のことでしょうか。雪が降る空に向かって厖(ほう)居士が指を示しました。そして、「好雪片々不落別處」。世界が変わりました。それで、たとえば、この掲示板などでも、その話をしています。

もしそこで、居士が、空に指を示さなかったら、どうなんでしょう。おそらく、この、どうなんでしょう、ということさえ、起こり得ないのではないでしょうか。ここは、起こりえなかったことが起こった、あり得なかったかもしれない、世界なんでしょうか?

ふと思いついて、ビーフシチューをつくりました。と、いっても素材は(ビーフシチューのルー、大根、人参、じゃがいも、玉葱)つまり牛肉なし、です。大根カレーも、なかなかです。

No.3186 - 2011/02/03(Thu) 12:57:07

Re: 絶対不自由 / hato

そのビーフシチューを、ランチに頂きました。こってりしたシチューの地に、みずみずしい大根の、たっぷり汁が、ふしぎな風合いです。

疲れた夜には、白子と人参、葱のポン酢仕立て。酸化防止剤無添加ワインの赤が決まって、なんと美味しい。

ペコちゃんポコちゃんは、シールのなかのチョコレート。
さて絶対不自由。

・・・也か否か、お楽しみとっておきです。

No.3187 - 2011/02/03(Thu) 23:48:30

Re: 絶対不自由 / peer
ビーフシチューなんですね。。うむ。
和洋折衷の雰囲気〜
子供の頃は貧しかったからか、家で作ったシチューもカレーも
肉の代わりにチクワが入っていました。

>もしそこで、居士が、空に指を示さなかったら、どうなんでしょう。おそらく、この、どうなんでしょう、ということさえ、起こり得ないのではないでしょうか。ここは、起こりえなかったことが起こった、あり得なかったかもしれない、世界なんでしょうか?

起こることが決まっていた。というのは、ないですか?。
それでこそ絶対不自由。
そこで感じるのは、指をさしたのは、自己の意志ではなく。
居士がいて、雪が降っている。
その時に指をさすのは、もともと、決まっていた。
因があり結果がある。のであれば。

No.3189 - 2011/02/04(Fri) 02:09:52

Re: 絶対不自由 / ubik0101
peerさん

なんだか、総ては決まってるのかもしれません。と、いうアプローチもあるのかもしれません。しかし、それでは。たとえば、ちくわカレーは、peerさんの家で宇宙開闢から、56億年で現象するように決まってた、とか。すでに時間の要素が前提にされるかもしれません。また、運命とか、偶然とか、必然とか、個別の個人の要素が前提にされてるかもしれません。総ては決まってる、ということが事実かどうか、検討も、確認も困難に思います。

たとえば、総ては決まっていた、あるいは決まってない、ということが確認できたとして、その確認することも決まってた?という疑問が生じるかもしれません。たとえば自由意志があるとしても、そう思えるだけ、また、自由意志も、そういう決まったこと、となるのでしょうか。決まってた、決まってない、どちらも堅固に思えるだけの、実は、あやふやな空想なので採用しない、その隙間が現実・・・それもまた、いいかもしれませんが・・・こう考えます。

たとえば自由意志があるとして、それを行使するとして、それは、自由意志が行使できるように、この世界が出来てるから、行使できるのではないでしょうか。つまり、なんであれ、それが出来るようにできてるから、出来るだけ・・・ほかの言い方では、選択してる、そのことは選択させられてるだけ・・・ではないでしょうか。

たとえば空に指を示すことは、空に指を示すことができるように、世界ができてるから、できるだけ、です。「好雪片々不落別處」と言えるように、世界ができてるから、出来るだけです。それは、また、空に指を示さないことも、「好雪片々不落別處」と言わないことも、そう世界ができてるから、出来るだけです。

てくてく歩いてて喫茶店に寄ることも、通り過ぎることも、歩くことも、見ることも、聞くことも・・・歩かないことも、見ないことも、聞かないことも・・・なにか出来ることも、できないことも、そのようにできてるだけです。こう思考しないことも、することも、そうできるように世界ができてるから、こう思考できるだけです。

とくに時間の要素を持ち込むまでもなく、この個別の個人の要素を持ち込むまでもなく・・・つまり、どんなことも自由、それこそが、どうしても不自由・・・です。それで、絶対不自由、と呼びます。ならば、その、無限とも言える銀河、質量、時間、空間の重さは、どうしたことなのでしょう。

No.3190 - 2011/02/04(Fri) 08:47:52

Re: 絶対不自由 / peer
>空に指を示すことは、空に指を示すことができるように、
>世界ができてるから、できるだけ、です。


そうです。だから「決まっている」こと、なのでは?
そのように出来ていなければ、出来ない事ですから。
瞬間の偶然ととることも、必然ととることも、できる。
しかし出来ていなければ、自由意思は存在しない。
空を指したいと思っても(自由意思)、そう出来ていなければ・・・。

「好雪片々不落別處」と言えたのは、その瞬間、言えるタイミングがあった。
雪が降っていなかったら、言わなかった。
相手がいなければ、言えなかった。
言える時と場所と相手がいて初めて行われた。ありがたい。

>無限とも言える銀河、質量、時間、空間の重さは、どうしたことなのでしょう。

さあ。これで遊びなさい。ということかも。
わたしらは、そのようなココで生まれた小さな子供。
限定した遊び方しか、、、していない。モッタイナイ。

No.3192 - 2011/02/04(Fri) 14:14:24

Re: 絶対不自由 / ubik0101
続きです。

くり返します。もしかして、この世界は、とても儚い、あやうい、かすかな、ことなのではないでしょうか。たった、指一本で変わってしまうのですから、羽毛のように軽いのではないでしょうか。そう、感じないでしょうか。それが人の日常ではないでしょうか。この軽さは、どうしたことなのでしょう。

そうでなく、絶対不自由から始めるなら、この世界の範疇から始めるなら、どう探っても、運命も、偶然も、必然も、因も、果も、それを繋ぐとされる縁も、自由意志も、どうにも重く、その範疇にしかないのではないでしょうか。それで、どうして世界は絶対不自由なのかと、疑問を発するところ、それは、なんでしょう。

No.3194 - 2011/02/04(Fri) 20:39:24

Re: 絶対不自由 / hato

シールのなかの、チョコレート。

それは・・・

No.3195 - 2011/02/04(Fri) 21:06:01

Re: 絶対不自由 / peer
>指一本で変わってしまうのですから、羽毛のように軽い
>のではないでしょうか。


これを「変わった」「軽い」と感じるのはどうして〜?
たとえば私ごときが指一本、指示しても、なんともならず。
誰にも無視され、世界は微動だにせず。とても重い。
どうよ? 居士ゆえに、、、なんでしょ?。

>それで、どうして世界は絶対不自由なのかと、疑問を発するところ、
>それは、なんでしょう。


・・・あまり疑問は発しないですが。
絶対不自由にしているのは、当の人間でしょ。
肉体が自分である。と思えば、束縛されまくり〜で。

・・・でなければならない。
・・・であるべきだ。
・・・みんな、そう言っている。
こんな観念に縛られて、その不自由さに気づかない。のです。

No.3196 - 2011/02/05(Sat) 02:04:45

Re: 絶対不自由 / ubik0101
>>これを「変わった」「軽い」と感じるのはどうして〜?
>たとえば私ごときが指一本、指示しても、なんともならず。
>誰にも無視され、世界は微動だにせず。とても重い。
>どうよ? 居士ゆえに、、、なんでしょ?。


どうして〜?、の理由がない、です。どれも、とても説明になりますが。いかなる判断としての概念も観念もない日常、ということです。たとえば家から歩いて、空を見上げるだけで、犬を連れた人と挨拶するだけで、世界が変わります。

バタフライ効果を指摘する必要もなく、ことさらに世界を対象にせず、見る聞く歩く、そのこと事態が、軽いのです。たとえば、どこか掲示板に投稿する、投稿しない、なにか思考する、その呼吸そのこと事態が、すでに変化です。

ことさら世界を対象に、つまり外に見ることなく、中に見ることなく、 たとえば世界の歴史を変えたと見なされる科学者、哲学者、賢者、と自分を比較の対象にせず・・・ この個人としての自分を評価せず・・・判断としての否定にも組みせず、肯定にも組みせず、です。

これは、そのような、いかなる概念とか観念とかが削除されてる、否定されてる、横にどけてる、それは意識にない、念頭にない、という意味ではないです。

たとえば過去も未来も現在も、掴まない、掴めない・・・なにかが・・・たとえば喜び、怒り・・・思考としての、あってもいい、なくてもいい、ではなく・・・それを生きてる、です。 そのようにしか人は、あり得ないのではないでしょうか。

続きます。

No.3197 - 2011/02/05(Sat) 09:10:18

Re: 絶対不自由 / ubik0101
>・・・あまり疑問は発しないですが。
>絶対不自由にしているのは、当の人間でしょ。
>肉体が自分である。と思えば、束縛されまくり〜で。
>・・・でなければならない。
>・・・であるべきだ。
>・・・みんな、そう言っている。
>こんな観念に縛られて、その不自由さに気づかない。のです。


いろんな経緯はあるでしょう。ただ自分は、まったく、自我がない、ということを気付きもしてない頃、絶対不自由に、気がつきました。なんどか言いましたが、俺は自由だ。どこでも走れる。という機関車が、ふと下を見たら、レールが敷いてあった。

どうやっても、楽しくても、悲しくても、その上しか走ってない。これは、絶望と呼べないほどの悲惨な絶望でした。それが、なにもかも、かなぐり捨てた否定の道のあげくにあった、その底にあった、ことでした。とても世界は重く、のしかかっていました。数年間、そこをさまよいました。

それで、なんの切っ掛けもなく、あの体験が起こりました。絶対不自由が逆転したのです。それは、自我があるとかないとかでは、説明できませんでした。自我がない、それと、どんなことでもない、意識の、世界の範疇にあるとは言えない、自己、その了解・・・それを失うこと・・・が必要でした。

No.3198 - 2011/02/05(Sat) 09:44:58

Re: 絶対不自由 / アバターラ
悩み自体が具体的でないので、あの体験があまり意味を持ちませんか。
No.3199 - 2011/02/06(Sun) 10:27:13

Re: 絶対不自由 / ubik0101
ここでアバターラさんが言う、「悩み」とは・・・絶対不自由を指すのでしょうか。それを関知しないで、他人事にするなら、具体的なことではないでしょう。

あるいは・・・「悩み」とは・・・いわゆる葛藤とか、軋轢、とかを指すのでしょうか。それも傍観して、他人事にするなら、そもそも具体的ではなく、「悩み」でさえないのではありませんか。

そのように、なんであれ他人事とするなら「具体的なことではないので」、とか思考できる・・・その、そのことも無意味とは言えないでしょうが・・・こともありそうです。

また「あの体験があまり意味を持ちませんか」。ですけど・・・あの体験なしに開設もあり得なかった、このhpとか掲示板とかが・・・凄く意味があるんだとか、あまり意味を持たない・・・とか感じることはないです。

なにか質問、疑問とかがありましたら、その趣旨を明確に具体的にしていただければ、話が早いと思います。

そんな能力はないと思うのですが・・・いつもナナ(猫)が昼寝してる日溜まりの草むらに『昼ご飯だよ』と、呼びに行ったら、なにかの羽(ヒヨドリ?)が散乱していました。

No.3200 - 2011/02/06(Sun) 11:57:57

Re: 絶対不自由 / ubik0101
続きです。

この世界の、なにか個別な、もの、こと、に縛られてる自我という・・・また・・・この世界の範疇にあるわけではない自己という、拠り所を失って・・・ある、のは、つまり機能してるのは・・・なんと呼んでもいいのですが、現象/事象/因果/知覚とその対象・意識とその対象(一切)、だけです。しかしこれも実は、姿勢として無我を前提にしています。無我を拠り所にしています。

ところで。この世界は。なにか、もの、こと、を無理に拠り所にしようとすれば、掴もうとすれば・・・無理に拠り所にしよう、掴もうとするという機能が働くだけです。そして、拠り所にしないことも、拠り所にできない、ということがあります。つまりニュートラル、です。

けど。ここから、どこにもギアは繋がっています。この意味では、自我も、無我も、自己も、それは世界の機能です。なんの問題もないです。そんな世界の機能を拒むと、それを拒む、ということが状態として生じるだけです。 もし自我が、なにかを守るように、無我が、なにか、因果とか知覚とかを擁護するように機能するなら、とくに用はありません。

No.3201 - 2011/02/07(Mon) 11:38:59

Re: 絶対不自由 / ubik0101
続きです。

この世界のどこに、自我があります?どこに、無我があります?どこに、因果があります?どこに、自己があります。どこに、いまここがあります?どこに、無選択があります?どこに、知覚からの直接行動があります?どこに、意味があります?どこに、無意味があります?なにか、そんな依存できる特定の、個別のことがあるでしょうか?

その、ない、ということが理解されるということは、それが個別のこととしてではなく、意識の対象にはなってはないけど、機能してるということです。それが、理解して失う、けど、なくなることは何もない、ということです。でなければ、いつだって、なんだって拠り所になる可能性があるでしょう。

くり返します。理解して失う・・・ならば、なにかが機能してても・・・見る、聞く、話す・・・怒り、悲しみ、喜び・・・なにかの思考・・・事象/現象/因果/知覚とその対象・意識とその対象(一切)・・・自我、無我、自己・・・なにも拠り所として掴むことができないのではないでしょうか。

そんな機能が、世界、です。その世界も、世界を個別のこととして掴むことはなく・・・とても説明すれば、世界は世界を忘れてる、のです。どれが機能しても、どれも拠り所にはならない・・・それを、無常、と呼ぶのではないでしょうか。つまり、人を解脱させる機能が、世界、その活動です。

No.3202 - 2011/02/07(Mon) 11:41:28

Re: 絶対不自由 / peer
それを突破させるのが「死」じゃないかしら。
でも「死を怖れて」近づかないから、不自由を不自由に当てない。
魚は、水の中に居ます。どこにでも行きます。なんでもします。
自由にエサを食べたり自由に子孫を増やしたり、自由に。
でも、水の中に居てこその自由。
魚はたぶん水を意識していない。
水から出たら、ちょっとはねてみて、それから・・・
人も、この地球上にいれば、自由でしょう。
それこそ、自我の束縛を受けないとすれば、自由で。
肉体が自分だということなら、地球上においてのみ。
自由であるから人は地球上に居ることを意識しない。

No.3203 - 2011/02/07(Mon) 14:31:30

Re: 絶対不自由 / ubik0101
まあ、ふつうは。なぜ世界の自由が、実は不自由なんだろう?と疑問を発する、そのことは、不自由からは外れてる・・・世界から外れてる・・・でなければ疑問を感じない・・・です。

でも、こいうことは、自我を失い、無我を失い、自己を失い、まったく日常に埋没しないと・・・世界が幻のように儚いことであり、それには依存できない・・・世界が何だろうと無問題・・・ということが明確には判らない・・・変なもんです。

なにかの新芽が、朽ちかけた切り株から出ていました。

No.3204 - 2011/02/07(Mon) 22:46:14

Re: 絶対不自由 / peer
まぁ。それにしても。それは、人の頭の中だけで起きている事としての、それとどう違うのかしら?
Aという認識からBという認識へ変わったとしても、似たようなモノかもしれないと思うのですが。
この世に存在しているということは、依存しようとしなくても世界に依存している。。のでは?

No.3205 - 2011/02/08(Tue) 03:42:54

Re: 絶対不自由 / ubik0101
ま、逆に。世界は人の頭の中では不自由なのかもしれません。と、言っても・・・頭がなければ、自由。というわけでもないでしょう。そんなことなら不自由なのに、それに気がつかなければ、自由。としてるようなことでしょう。それでは解決ではないです。これも直接に辿る道はないのですが、説明を試みてみます。

なんであれ自分には見えないなら、ない、わけではないでしょう。また。ないことは見えない(その、ない、ことの確認もしてない、つまり空想なのに、それに気がつかない)で・・・見えるなら、どんなことも、ある。というわけでもないでしょう。つまり、これはあるよ。というだけの知覚。じゃ、それ以外は、ないんだね。という意識に依存することはできない、です。

また、たとえば。ご飯を食べてるのに、ご飯に依存しないとか、ありえないのでは?世界に生きてながら、世界に依存しないなんて、ありえないのでは?とか、この世界の範疇、不自由から始めたら、どうあっても、この世界の範疇、不自由、です。 そのように特定された、固い、重い、思考される世界では・・・ほかの世界を思うなら、もうアウトですが・・・自由が、不自由として現れています。

No.3206 - 2011/02/08(Tue) 09:32:44

Re: 絶対不自由 / アバターラ
絶望・・・自由、不自由に関して、自分がこうなりたい、こうしてもらいたいと、よりよい状態を期待し、その実現を願う・・・その希望を失いそうになる、なくなりそうな感じ、
絶望、それを悩みという言葉で表現した。
さて、自由、不自由に関する、その絶望が、具体的にどんなものか、なぜそれが問題になったのか、はっきりさせないと、あの体験が、あまり意味を持たないでしょう。

No.3211 - 2011/02/09(Wed) 11:47:55

Re: 絶対不自由 / peer
そこは、じつは、はっきりしているのでは?
ubik0101さん曰く
不自由を見るためには自由の場を作らなければならない。
ってことじゃないですか?
そして、その場を得たので、見えた。っと。

No.3212 - 2011/02/09(Wed) 13:08:02

Re: 絶対不自由 / ubik0101
ん?すでに話しています。否定の道は、わたしは誰?です。そこで否定することが見つからなくなったところで・・・そうなろうとしてではなく・・・また、なにか哲学の課題として問題になったのではなく・・・この自分、その生活が・・・絶対不自由です。

でもなお、アバターラさんが、そう言う理由は。ubik0101には見落としがある。アバターラさんは、絶対不自由を経緯して、それをはっきりさせた。ので・・・どんなアバターラさんの、あの体験か知りませんが・・・意味があるということでしょうか。それは何でしょう?

No.3214 - 2011/02/09(Wed) 13:33:55

Re: 絶対不自由 / アバターラ
> さて、自由、不自由に関する、その絶望が、具体的にどんなものか、なぜそれが問題になったのか、はっきりさせないと、あの体験が、あまり意味を持たないでしょう。

あの体験自体の意味を聞いているのではありません。

どう希望し、絶望したのか、具体的にどんなものか、なぜ問題になったのか、そこを話さないと、二つのものの関連としては、意味がないでしょうということ。

No.3215 - 2011/02/09(Wed) 16:34:39

Re: 絶対不自由 / ubik0101
わたしは誰?の衝動は、ものごころが生じた頃に始まったのですが、希望なんですか?なにか、家とか車とか地位とか名誉とか、なにかと比較できる、とあること、また人の状態、境地とかを求めることではなかったので・・・そもそも、なにかを求めてることも否定する、否定の道なので・・・それが希望とは、思ってもいませんでした。

そして絶対不自由は、その否定の道のあげくに、自分がそうなっていた。ということです。道を歩いたら行き着いた、ということで、あれかこれかというように、希望と絶望という較べられるような「二つのものの関連」として、意味を読みとるのは困難です。

まあ、自分の中心を見たいという衝動を、あえて希望と命名しても・・・もし中心が見えてたら、絶対不自由に行き着かなかったかもしれませんが・・・自分の中心が見えない、という理由で絶望したわけではないと思います。

それでもなお、わたしは誰?を希望と命名して、絶対不自由を、絶望と命名して。あたかも葛藤、自我の機能のように比較するとして・・・その希望は絶望だった・・・とか命名しても。そこに意味があるとは思えないです。

No.3217 - 2011/02/09(Wed) 22:27:52

Re: 絶対不自由 / アバターラ
わかりました。
自由、不自由に関して、悲惨な絶望、世界が重くのしかかる、さまようとは言っても、具体的に、どういうことというのは、まったくないので、その領域内では返事がない、できないということ。
実際は、自由、不自由についての抽象的な世界での、抽象的思索だけがあったということ。
そこは答えられる。

No.3218 - 2011/02/10(Thu) 11:17:20

Re: 絶対不自由 / ubik0101
アバターラさんが、それを経緯したこともなく、抽象と考えてるのは、判りました。
No.3219 - 2011/02/10(Thu) 11:44:13

Re: 絶対不自由 / アバターラ
一部分、その場合、そうです。

>>あの体験自体の意味を聞いているのではありません。

>>どう希望し、絶望したのか、具体的にどんなものか、なぜ問題になったのか、そこを話さないと、二つのものの関連としては、意味がないでしょうということ。

絶望が具体的な世界のものであれ、抽象的な思索の世界の絶望であれ。
具体的なものがあれば、関連、経緯として話せるでしょうということ。それなら、関連、経緯が、意味があります。
抽象的なものなら、具体的には話せない、具体的な関連、経緯は話せない、ないということ。

そして、私には、関連があること、つまり、経緯、いきさつ、細かい事情を経ることの必要は、必ずしもないということがあります。
その点は、いかがですか?

No.3220 - 2011/02/10(Thu) 14:20:28
実験 / ubik0101
その1

たとえば、友人を家に招きます。そして、たとえば風呂に入ってもらいます。その間に、そっと友人の服を自分が着てしまいます。その代わりに自分の服を置いておきます。その友人は、なにも疑問を持たずに、その服を着るでしょうか?

そんな、気の置けない友人がいるといいのですが。これから実験する、と意気込んで実験しても、もしかして失敗するかもしれません。

さて、ともかく、なりゆきで自然に服を交換して、食事をしたり、飲んだり、談笑でもしてみてください。すると、自分の前にいる、その友人が自分なんです。つまり、談笑してる、相手が自分、と実感します。

その2

たぶん夜のほうがいいです。ふつうに車を誰かに運転してもらって、自分は助手席に座ります。そこで。なにか、とりとめないことを考えてる、そのときは、思考を見ていて、眼は風景を見てますが、風景に意識は注意してない、ほとんど見えてない状態です。

その状態のまま、ちょっとシフトして、意識が注意してない風景を見ます。すると、車が走ってるのではありません。向こうから流れ来る道路が自分の中に吸い込まれていきます。知覚は、そのように見てるのかもしれません。また車の横の風景も、いつもと違って見えると思います。これは、そうしようとしなくても、そうだと気がつくかもしれません。

どちらも、たあいのないことですが、ちょっと面白いかもしれません。

No.3207 - 2011/02/08(Tue) 13:56:35

Re: 実験 / peer
なんというか〜一種独特の感性みたいな気もします。
他の方はどうか分かりませんが。

その1については、それを実感するのは難しいかな。
洋服を見ているわけではなく、その人を見ているし。
やっぱり〜ひとりひとり人間には特有の資質・個性があって。
深いところで、それは感じて関わっているような気がします。
その2についても、3D画像のようなものかな〜と、、、、。

>たとえば家から歩いて、空を見上げるだけで、犬を連れた人と
>挨拶するだけで、世界が変わります。


これ↑。どんなふうに変わるのかずっと考えてましたが
やっぱり、わからない。

No.3208 - 2011/02/09(Wed) 02:31:31

Re: 実験 / ubik0101
それは、そう、であって、そう、であることには気がつかないというケースでもあるかもしれません。そうなら、たとえば因果を、なにかの幾何学の図形の意味を解くために描かれる(もともとは図形には描かれてない)補助線のようなこととして使って、見えないことが見えてくる、ということもありそうです。

まあ因果は、世界に描いた、補助線のようなことで、あくまで概念です。それは、もともとは図形に描かれてない空白に意図して描かないと、見えません。それが見えると言うことは、世界からは、ちょっと外れてる・・・対象化・・・そうしてる自分も世界から外れる。そんな見方を要します。それで、どうやっても因果は世界との整合性がありません。

まあ、極端に言えば、そんな判断とか、解釈とか、比較とか・・・葛藤、軋轢・・・騒がしいことばかり人はやってるとも言えるのです。 それで、それが静まっていく途中にあって、たとえば固定観念、既成概念、に埋もれてた因果の概念が明確になる、という捉え方もできます。ごつごつした大理石の塊を彫ると、青年ダビデが現れる。ざわざわ自我の騒がしい話し声が静まると、どこかで美しいせせらぎが聞こえてくる。ように、です。

で、そんな因果はそれはそれで機能し、とても実用になります。 とりあえず因果を理解したら、それを外に見ずに、因果=私。となります。この場合の私も、ちょっと世界と外れてますが、いわゆる無我に偏ってますが・・・ここで見ると、せせらぎの音は私、青年ダビデは私、世界は私、思考は私、見るものは見られるもの、私がなければ世界はない、とか。いろいろ表現はあるでしょう。

続きます。

No.3209 - 2011/02/09(Wed) 09:54:21

Re: 実験 / ubik0101
このあたり、です。因果を変えるのは因果です。世界を変えるのは世界です。ということが実感として事実になります。これは、誰もがそうなんです。そうであって、それに気がつかないだけです。とくに因果という経緯でなくても、いいです。たとえば知覚からも、あるない、からも、ふつうに寝たり起きたり働いたりも、「悪いことをしてはいけない、善いことをしよう」も、おそらく、それらの組み合わせが、経緯でしょう。

それで、ともかく。初めて、空を飛ぶ鳥に指を差すだけで、呼吸をするだけでも、呼吸を止めるだけでも、世界が変わることに気がついたときは、かなり驚きました。そうなんだ。これを自覚することは、かかっていた世界の圧力を、 ひっくりかえすくらいの、感覚がありました。 これでよし、です。

この 世界に乗ってる ・・・♪♪♪運転手は僕だ、車掌は君だ・・・ それはそれで当たり前なので、ことさら感じる必要もないのですが、それを感じて、それが日常になると、因果も用がなくなります。無我も不要です。それが世界の軽さです。とても説明すれば、たとえば食物は消化されると見えなくなる。なにか意識から失われても、なくなることは、なにもないので、引きずって歩くこともない、です。

No.3210 - 2011/02/09(Wed) 09:59:15

Re: 実験 / peer
因果を変えるのは情報です。世界を変えるのは情報です。
と言えそうです。
世界には、もともと情報しかない。みたいな〜
これは、あると思えばあるし、ないと思えばない
ようなものでしょう。
情報に使われるか、情報を使うか。
使われるほうは不自由で、使う方になれば自由。っと。

No.3213 - 2011/02/09(Wed) 13:16:35

Re: 実験 / ubik0101
> 使われるほうは不自由で、使う方になれば自由。っと。

たしかに、それで倒錯、顛倒、の解決です。つまりは、方向としては、解脱、です。

ところで、ある意味、凄っ+な歌を見つけました。

イヨマンテの夜  伊藤久男.wmv

http://www.youtube.com/watch?v=8UxL8fJshnw&feature=related

No.3216 - 2011/02/09(Wed) 21:01:30
(No Subject) / peer
>あのとき、ああすればよかった。《過去》。
>そうしたら、こうでは、なかった。《現在》。
>そうだとしたら、どうなるだろう。《未来》。
>そんな・・・過去、現在、未来・・・それは空想の時間旅行です。
>そのことは、自分が自分と分離してる、
>そのことが可能にしているのではないでしょうか。


《過去》こうしたら《現在》こうではなかった・・・かどうか
分かったもんじゃないのに、そんなふうに考えるんですよね。
何か、落ち着く場所を求めてのことでしょうか。
これを「反省することで未来は変わる」と観る人もいますが。
このクセがあったら、、、変わらないと思う。
終わってしまったコトは、どうとでも言えるし思えるし。
今に不満がある。それだけのことなんですから。

コトガラには、真の意味はなくて、どう解釈するか
しか人には与えられていないのかも。
解釈によっては、様々に受けて採れてしまう。
因果も、その筋の話じゃないかな〜。

原因があって結果がある。も、それだけのこと。
種がなければ、根も葉も出ない。ワケです。から。
そのことに、意味づけして、浮いたり沈んだり。
自分がどんな種なのか、知らないから因を知りたがる。
ということかも知れない。

>世間話としても。ことさら関係ないこと(因)、たとえば
>「天変地異やら暴動」を、ことさら「変革の時」という
>(果)と関係づける、ことはないです。


これは〜因果の話とは、別のことで。
世間は無常な物で、様々に変化しております。
小さな対岸の波も、折り返して高波になることもある。
変化を、ある意味、、楽しんでいるトコロもある。

No.3178 - 2011/02/02(Wed) 02:32:58

Re: / アバターラ
降っている雪が、形は変わるが、積もる雪となる場合。
そこに同じものであるということを認めるので、
だから、その変化を説明するのに、原因、結果を求めるのでしょう。
あるいはその変化を説明するのに、相互関係を求める。

No.3179 - 2011/02/02(Wed) 11:42:09

Re: / peer
降っている雪と、積もった雪が「同じ」と
継続させようとするのが思考の仕事なのでしょう。
同じくさせる必要がどこにあるのか?
それは、どこにもないのに思考は維持したがる性格があるようです。
ただ。人が生活していくことにおいて、先回りして準備する
思考の性格が活用されます。
いつも言われることですが、それにも、囚われず。が肝心要で。
先回りして準備したことを無駄にしたくない・・・(執着)
現実を準備したコトに合わせたくなる。そこが、問題になってしまうのでしょう。

No.3180 - 2011/02/02(Wed) 12:03:36

Re: / アバターラ
継続は、変化を認めるときに、ひとりでにあるのでしょう。
ほら、ほら、食べないとご飯が冷えるよ。
そのとき、同じご飯であることは、前提になっている。

No.3181 - 2011/02/02(Wed) 12:51:16

Re: / ubik0101
たとえば・・・過去を変えることができるなら、因果は成立しないでしょう。そしてまた、未来を変えることできないなら、因果は成立しないでしょう。

このように、思考を知覚している・・・そこでは部屋の空気やテーブルや椅子は眼には見えてはいても、それを意識は見ていません・・・ふと、その思考が終わります。そこで窓の外を見ます。

その瞬間に、知覚は、風景で一杯に塗り変えられ・・・冬の青い空・・・庭・・・その思考の余韻も、速やかに消えていきます。

その風景には因果の概念は、探すまでもなく、ありません。その、ないことにおいて・・・ざわめく樹、鳥の鳴き声・・・この、とんでもない世界・・・これは何なんだろう・・・ここに理解が起きるようです。

No.3182 - 2011/02/02(Wed) 13:33:13

Re: / peer
>ほら、ほら、食べないとご飯が冷えるよ。
>そのとき、同じご飯であることは、前提になっている。


そうですね。
そして、「自分の都合」の範囲内の変化を観ています。
都合の範囲以上の変化を、人は認めたくないかも、です。
雪、と観れば雪にこだわり。
ご飯、と観ればご飯にこだわり。
ソコしか見ませんが、ソコは世界の、ほんの一部。

そこでubik0101さんの言う、
その風景には因果の概念は、探すまでもなく
・・・となります、か。

No.3183 - 2011/02/02(Wed) 13:47:56

Re: / hato

そして、そのとある森では、滝が凍っていました。

No.3184 - 2011/02/02(Wed) 19:39:34

Re: / アバターラ
> ソコしか見ませんが、ソコは世界の、ほんの一部。

ものを買うとき、ものは移動しますが、買おうとしたのと、別のものかどうかを気にし、ある意味、確認します。
賞味期限がくるとき、ある意味、同じものが変化したのであって、別のものだとはみなしていない。
そういうものの世界のことであるにすぎない。
この世界があるので、思うこともそれに合っている。

それしか見ない世界というのは、都合よく、動かそうとして、思っている世界のことなのでしょう。
その場合はその都合のいい世界と動かそうとして思うことは合っていない。
そのとき、ものの因果は合わず、消えるが、思うことにはその因果があるということ。

No.3185 - 2011/02/03(Thu) 08:40:26

Re: / peer
>それしか見ない世界というのは、都合よく、動かそうとして、
>思っている世界のことなのでしょう。


自分の見えるモノが、すべてであると思うのでしょう。
見えるモノの世界は、見えないモノの力に支えられて、
そこに存在している。ということもありますが。
見えないモノ。その一つが因果の法則とも言えます。
そこが見えないので、自分の都合でモノゴトをみてしまう
ということが、起きてくるのかも知れません。

No.3188 - 2011/02/04(Fri) 01:57:50

Re: / アバターラ
変化の中で、
変わらないものがあるのだとか、
変わらないものはないのだとか、
それにこだわるのも、
こだわらないでいいのだというのも、
この文化圏の病なのかな。

No.3191 - 2011/02/04(Fri) 10:55:18

Re: / peer
>変わらないものがあるのだとか、
>変わらないものはないのだとか、


非常に〜科学的だと思います。
物質世界の法則を忠実に科学したんじゃないかしら?
モノは誕生したとたんに崩壊へ動いて行きます。
壊れない・変化しない物質は、なにひとつない。でしょ?
変わらないモノとは、その法則のこと・・かな。
法則から逃れられるモノは、、ないと言えそうです。

No.3193 - 2011/02/04(Fri) 14:23:37
雪にもイロイロと / peer
>>いちいち「原因は?」なんて考えるのは労力絶大〜

>ならば、いつでも、どこでも、そのほかの今を望むことはない・・・
>そんな意味で「いい雪です。ほかの所に落ちません」。
>も、ありそうです。


この「いい雪」という表現が気になるのよね。
「いい雪」と「ほかの所に落ちない」は・・・
どう繋がるのかしら? なんて。
なので私は、落ちる場所が決まっているから
後の事は心配しなくてもイイんだよ。
と受け取ったワケなのね。
禅の公案というのは
答えは、ない。
どう受け取るのか。
その人にお任せ。と思うんです。
ココロと言うと、わからないとなりますが
現在の姿が、現れるようなこと、かなと。

No.3158 - 2011/01/26(Wed) 02:52:19

Re: 雪にもイロイロと / ubik0101
ちらほら雪は。もの凄い横殴りの吹雪などでない、風流な雪、くらいの印象でした。でもpeerさんの指摘で。霰(あられ)雹(ひょう)そんな逆境でも、たとえば貧しくても、仕事がなくても、いい雪・・・日々是好日・・・の響きがあるのかもしれない、と思いました。

そうだとすると、いい雪だと言われて、全禅客は《風流ですね、幸せですね。そんな所に落ちるんですか?》なんて意地悪な質問をした、とも取れるかもしれません。それで。いいえ。全さんなら・・・この痛みに、衆人環視の中で嫌なめにあった、逆境に・・・どう反応しますか?という厖(ほう)居士、いきなりの平手打ち、とも読めるかもしれません。

それで感じた恥を取り繕うために「そんなに、あわてないで」などと言うなら、人を酷い眼にあわせる閻魔様に捕まると困ったことになる・・・では、どうすればいいか・・・無為自然・・・災難にあったら災難にあえばいい、死ぬときにはCENSOREDばいい、とも読めば読めてしまいそうです。

たしかに公案は、その人、その人の有り様の反映も起きるでしょう。すでに、了解してるけれど、認識してないことを、意識に教える働きもあるのでしょう。そして、どうであれ読み取ったら、忘れる、超える、という働きもあるようです。

たとえば因果は自分。として、降る雪は、私です。寒いも、痛いも、美しいも、私です。まあ・・・(雪は私、でも私は雪ではない、は度外視するとして)・・・それを映す心なんかないのです。ここは、自我も、自己も失ったところです。

つまり因果だけ、です(そう思ったら、そう実感してしまいます)。起こってることが、私、です。また、落ちるところは決まってると読んで。さて、そこも忘れる・・・もしかして、それが二回目の平手打ち、なのかもしれません。

そうだ、掘り起こした石(なぜ、こんなに都合よくあるんだろう)で、ロックガーデンをつくろう、です。

No.3159 - 2011/01/26(Wed) 13:26:25

Re: 雪にもイロイロと / hato

よい雪は別所に落ちず。

ここ、にも、そこ、にも、あそこ、にも。

ほかのどこかに落ちません。

一切は、その世界。

一切は、不可 思議にて尚、その雪は

ただ雪です。

そして尚、雪です。


温暖な静岡も、大変に冷える1月。身に滲みる寒さです。ストーブの灯が冬のにおい。ubik0101さんはキュと顔をほころばせて「ちゃっぶい、ちゃっぶい」ていいます。浜松では今日再び、雪が降ったそうです。

すこし前の雪の日、凍った路面を長く登り、とある1000年杉を見にでかけました。

No.3160 - 2011/01/26(Wed) 21:37:46

Re: 雪にもイロイロと / hato

周囲10メートルだそうです。

No.3161 - 2011/01/26(Wed) 21:51:36

Re: 雪にもイロイロと / ubik0101

説明書きです。

No.3162 - 2011/01/26(Wed) 21:54:49

Re: 雪にもイロイロと / peer
ubik0101さん。

ううーーむ。なんにしても平手打ちは私としては
できない・・・ですね。
伝える方法は様々にあると思うし。
禅宗は、手荒い事が好きなのかしら?

まっ。雪は。となろうと
杖は、となろうと
すべて自分のこととして。
なので、それを外すと平手打ちですか〜

hatoさん

うわぁー。すごい表情を見せてますね1000年杉。
東京も、いつになく寒いです。
いつ雪が降ってもおかしくない・・・けど、まだです。

No.3163 - 2011/01/27(Thu) 03:33:21

Re: 雪にもイロイロと / ubik0101
> 禅宗は、手荒い事が好きなのかしら?

んー、そんな疑問を感じたことはないです。でも、自分の腕を切るとか、門を閉めるとき足が挟まって骨が折れたとか・・・あんまり詳しくはないですが・・・そんな話はあるようです。そ、いえば読んでて、、、何度か、中央公論の「禅語録」を力一杯に床に投げつけたことがあります。

No.3164 - 2011/01/27(Thu) 19:26:04

Re: 雪にもイロイロと / hato

> うわぁー。すごい表情を見せてますね1000年杉。
> 東京も、いつになく寒いです。
> いつ雪が降ってもおかしくない・・・けど、まだです。



そうでしたか。東京はいつも、春までには1、2度降りますよね。静岡では少し前、ほんのちらほら・・の雪でしたが、結構な騒ぎになっていました。車が渋滞して20分が2時間だったとか。慣れていないんですね。

夕方、庭の空を見上げると、鳶が北の山に帰っていくのが見えます。少しずつ、あちこち群れをなして、たくさんの鳶です。空が広いので目に付くのでしょうが、ときどき輪を描きながら、おつかれさ〜ん、な感じでゆっくり仲間と一緒に帰っていきます。「わぁ〜い!」と手を振って、

「ま〜た、あしたね〜!」

今年は海はまだですが、そういえば、カモメの大群が船のあとをついていくのを見ました。

No.3165 - 2011/01/27(Thu) 22:20:12

Re: 雪にもイロイロと / peer
>んー、そんな疑問を感じたことはないです。でも、自分の腕を切るとか、門を閉めるとき足が挟まって骨が折れたとか・・・

ほーほー。なるほど。
禅宗って武士の仏教イメージというか〜自力ですからねぇ。
ちょっとキツイモノがあるのかも。です。
法門無尽といいますから、お好きな方からどうぞ。かな。

渡り鳥が一斉に飛び立つのを観ると
うん。何万羽も一斉に、、、なのに、ぶつかりあわない。
あれも、面白い風景ですね。

No.3166 - 2011/01/28(Fri) 05:02:53

Re: 雪にもイロイロと / ubik0101
ノンノンが、やっと飛び始めた頃に、ルンルンと空中で衝突したことがあります。えー、鳥なのに?と思いましたが、学習能力はあるようです。

とくにノンノンは、よくペンとか眼鏡を、噛んで運んだり頭で押したりして、テーブルの縁から下に落として、なぜなんだろう?と首を傾げて落ちた物を見ています。

それで、「あのね。落としてから考えるより、考えてから落としなさい」と言い聞かせます。すると、あんまり落とさなくなりました。きっとペンや眼鏡は鳥のようには飛ばないことを理解したのかもしれません。

ところで思いついて、不昧因果、をグーグル検索してみました。どうも、因果、とは仏教の基本概念で、なんでもそれから外れることはないそうです。たしかに因果は因果を眩まさず、因果は因果に落ちはしないけれど・・・世界の総活動/中道/縁起を誤解した、因果、という・・・それは無我を強調しますが・・・そんな思考を、さらに演繹したり帰納したりしても、どうかな、と感じます。

ケイタイをかまえると気がついて、何?何?といって近づいてくるので、なかなか撮れないのですが・・・ブランコの鎖を首の後ろに廻して・・・自分の足では届かないところを掻いています。

No.3167 - 2011/01/28(Fri) 13:03:28

Re: 雪にもイロイロと / hato

カモメの大群に続いてこちらは鵜の大群。驚愕ものです。ubik0101さんとふたり、しばし佇み、眺めたのでした。

No.3168 - 2011/01/28(Fri) 21:10:23

Re: 雪にもイロイロと / hato

拡大してみると、雰囲気が伝わるかも知れません。

No.3169 - 2011/01/28(Fri) 21:12:00

Re: 雪にもイロイロと / hato

ひょっとして一万羽くらいはいたでしょうか。圧巻でした。

No.3170 - 2011/01/28(Fri) 21:15:51

Re: 雪にもイロイロと / peer
因果で言うと
ノンノンは無邪気が「因」でしょう。
「果」としてインコの形(色)をして無邪気さを表現している。
のでは?
そんな気がします〜

No.3171 - 2011/01/30(Sun) 03:25:53

Re: 雪にもイロイロと / ubik0101
ノンノン、今朝は、テーブルから時計を落としました。そこで「ノンちゃん、時計は飛ばないんだよ」と言い聞かせてみました。

ところで。たとえば因果という、未知の何かがあって、それは、あんなことだ、こういうことだ、どういうことだと探る・・・そんなことをしてる、その自分は勘定にいれてない・・・しかし、そのことは実は自分を不可侵なこととしてみなしてる・・・つまり、そこで思考されてる因果の外にいる ・・・ それは見る中心ができている・・・因果を対象にしてる、私、がいる。 つまり因果と、自分との分離です。それが問題と言えば問題です。

そして、そんな因果と自分を別のこととして見ることも、ひねくれてるけど、因果と言えば因果なんです。それで、そのように生きていながら、そのように生きてることに、なかなか気がつかない原因かもしれません。でも、そうだということは・・・見えない香りのように・・・なんとなく雰囲気として漂っています。なので、そのことに、ふと、気がつくこともありそうです。うまくいくと、因果が、私、です。それに決着すれば、因果の概念が消えてなくなります。

ところで、爪を網戸に引っかけて、助けを呼ぶ、ナナです。

No.3172 - 2011/01/30(Sun) 10:50:42

Re: 雪にもイロイロと / hato

真っ白な鷺の集団を見つけて、とても驚いたこともありました。100羽、200羽・・・はいたでしょうか。同じねぐらに帰るのを見ました。

No.3173 - 2011/01/31(Mon) 21:46:48

Re: 雪にもイロイロと / hato

> それで、「あのね。落としてから考えるより、考えてから落としなさい」と言い聞かせます。すると、あんまり落とさなくなりました。きっとペンや眼鏡は鳥のようには飛ばないことを理解したのかもしれません。


すると、あんまり落とさなくなった・・は、・・・したからそうなった・・・というわけではありませんよ、念のため。

因果。作用が織り成されるところでの果実。けれど人は、現在、過去、未来を、一本に繋げる物語を愛しており、なにより世界に一縷の縁を見出したい・・のかも知れません。その人がなにより、そこはかとなくあるからこそ、そのように見て信じることもできるでしょう。人はどうしても、なにか誰かを縁にして、世界を拠り所にしていたいものかも・・・知れません。


好雪片々・・・それは、ふと瞬いた銀白色の粒子のよう・・・どこに落ちるともなく消え行く雪の結晶です。どこに落ちるでもなく、ただそのようにあります。

ここのところすっかりお兄さんになって、遊ぶより給餌行動に忙しい、ルンルンです。

No.3174 - 2011/01/31(Mon) 22:26:41

Re: 雪にもイロイロと / peer
>たとえば因果という、未知の何かがあって、それは、
>あんなことだ、こういうことだ、どういうことだ
>と探る・・・そんなことをしてる、その自分は
>勘定にいれてない・・・


因果は、自分(自我意識)とは無関係・・・かもです。
物を落とせば、地に落ちる。そんな単純なモノで
そして人間が、あーのこーのと言う事も、確認することも
難しいんじゃないかしら?

作用と反作用の法則。因果の法則。
循環の法則。自然の法則。愛の法則。
宇宙は意外と秩序があるようで〜。
分かるのは、自分のした事は、自分に戻る〜と。
まっ。。因を作らないこと、しか、ないかも。
それだけは自分の責任になりそうですし。

どこに落ちるともなく落ちる雪は、今年は・・・
四メートル越え〜とかで、困っている人も多いようです。
いや〜ホントに。あちこちで天変地異やら暴動やら。
変革の時というのは、どうもホンキらしい。

No.3175 - 2011/02/01(Tue) 01:58:17

Re: 雪にもイロイロと / ubik0101
>因果は、自分(自我意識)とは無関係・・・かもです。

うーん、あのとき、ああすればよかった。《過去》。そうしたら、こうでは、なかった。《現在》。そうだとしたら、どうなるだろう。《未来》。そんな・・・過去、現在、未来・・・それは空想の時間旅行です。そのことは、自分が自分と分離してる、そのことが可能にしているのではないでしょうか。ふつうは、そんなことを自我意識と呼ぶようです。

そいう人の心理的な有り様に注目すると、とくに問題とも思われない技術的な、実用的な時間の思考とは区別したりする必要も起きるのでしょう。そんなことは、(苦痛をともなう、あるいは苦痛とも自覚しない)騒がしい、なにか個別の原因と結果を求める誤解された因果を生きてるゆえに起きることかもしれません。それは世界が、人に因果を通じての自我の理解を望んでることの現れ、かもしれません。

とくに、その経路でなくてもいいのですが、因果を理解することで自分との分離を解決し、心理的な時間旅行の愚かさ、迷いを終わらせることができる。という、説明、はできるのかもしれません。また、ふらふら心理的な時間旅行をしてる人に対してですが、いまここ、が提唱されたりもするでしょう。

>そして人間が、あーのこーのと言う事も、確認することも
>難しいんじゃないかしら?


とあることを世界の総活動から切り取ったと仮定して思考したことが概念としての因果ですが・・・世界の総活動に触れることで自我がないとかを了解すれば・・・すでに、それを飛び越えてるのです。そのことの説明、確認として、因果の概念は役立つといえるだけのこと、でもあります。

そして、なにかとあることは原因があって結果があるという因果の概念は不完全だから機能できるし・・・それが消えてから・・・思考には世界の総活動は理解できないのですし・・・その概念が消えた、そのことが、その通り正しいと、了解できるのではないでしょうか。たとえばジグソーパズルは未完だから遊びとして機能できる。完成したら天袋直行・・・のように、です。

>いや〜ホントに。あちこちで天変地異やら暴動やら。
>というのは、どうもホンキらしい。


まあ、世間話としても。ことさら関係ないこと(因)、たとえば「天変地異やら暴動」を、ことさら「変革の時」という(果)と関係づける、ことはないです。うろ覚えで、しかも誰が言った言葉かを忘れましたが、「道は眼の前にあります」で、充分と感じます。

No.3176 - 2011/02/01(Tue) 15:58:07

Re: 雪にもイロイロと / hato

とある清水が、綺麗に氷を張っていました。切れそうに冷たい水が、それでもほんのすこし、春の兆しです。

No.3177 - 2011/02/01(Tue) 21:57:15
好雪片々不落別處 / ubik0101
ときに、因果、という言葉を聞くことがあります。ある結果は、ある原因によって起こる、ということのようです。それは、とある、もの、こと、を世界から切り取った、と仮定して思考されてるのではないでしょうか。それは、なんとなくですが切り取られない世界を背景にしてるようです。

そのようにして、その、もの、ことの、これも切り取られたとして仮定される原因とか結果を探るなら、すでに、なにか過去未来現在という限定された時間を前提にしてるのではないでしょうか。

すると当然、それは因果が働いてると思考されるのではないでしょうか。つまりその思考する人の因果に囚われた有り様を、そのままその思考が、表現してるだけです。

そして。とある、もの、こと、を仮に世界から切り取ったとして思考すると、そのずっと過去も、ずっと未来も、つまり最初の因も最終の果も、とても不明ではないでしょうか。

それに、なんだかの結果が起こってるとして原因は実は、不確定ではないのではないでしょうか。そこで・・・まったく無関係な、もの、こと、はないのですが・・・それに乗じて、ことさら関係ないことを因と見なして、ことさら関係ないことを果と見なすことも起こるようです。

それで、切り取って思考するという、そのこと、それが成立しない、ということを示しています。すると、もしかして、その思考の逆としての、すべては切り取ることのできない繋がってる、という思考も、それだけしかないなら単なる思考であり、世界を、そのように捉えてる、捉えられてる、のかもしれません。

続きます。

いつも、こんなに寒いのですか?と聞いたら・・・16年振りの雪だった、と近所の人が話してくれました。前日まで、わさわさ、だったブロッコリーの苗の葉が、つぐみ(たぶん)の大群に食べられてしまっていました。

No.3142 - 2011/01/21(Fri) 09:15:19

Re: 好雪片々不落別處 / ubik0101
どちらも、その思考する人の有り様を、そのまま思考が表現してるだけであり、そこには気がつかない誤りが隠れて、それに縛られてるのではないでしょうか。と、いうのは、完全に切り取られたことも、完全にひと繋がりも、どちらも極端な思考、つまり空想にあるだけです。そんな思考に依存してるのではないでしょうか。

碧巌録・第42則

厖(ほう)居士(在家の仏教修行者)が薬山禅師の寺を去るとき、薬山は十人の禅客に見送りを命じました。みんなで門前に来た時、厖居士は空に舞う雪を指して「いい雪です、ほかの所に落ちません」。と言います。

そこで全(ぜん)という禅客が「では、どこに落ちるのですか?」と尋ねます。いきなり厖居士は全禅客を平手打ちします。

「そんなに、あわてないで」と全が答えます。厖居士は「そんなことで禅客などと言っていると閻魔様が許しません」、と答えます。

「では居士ならどう答えますか」、と全が聞きます。厖居士はまた全を平手打ちして「眼は見ていても、眼が見えないと同然。口は話していても、口が利けないと同然です」と答えます。


この、ちらほら雪は風に乗って、どこと選ばず冬の空に舞って、不落です。どの雪も・・・落ちるかもしれない所は、まだ不確定で・・・どこにも落ちてないのです。どこかに落ちたとしても、ほかの所では落ちない、です。「いい雪です。ほかの所に落ちません」。それは原因にも、結果にも、切り取ることも、その逆の、ひと繋がりにも、落ちる所がない雪の風景です。

ここでなされる「どこに雪は落ちますか?」という疑問は、 しかしそれでも、雪は雪として雪です。その美しさは、その美しさです。なんでもいいのですが、怒りは、怒り、悲しみは、悲しみ、です。なにかの思考は、その思考です。 なぜ、これは、これなんですか?わたしは誰?という質問です。

続きます。

このあたり遠州では生け垣に使われる真木(まき)の木の実です。青い実と、赤い実が繋がってなります。その赤い実は食べられます。子供時代を過ごした大分では、人形実、と呼ばれていました。とても薄味の、グミのような感じです。

No.3143 - 2011/01/21(Fri) 11:20:12

Re: 好雪片々不落別處 / peer
この話を知った時
では、雪が発現した時に、すでに、どこに落ちるのかは決まっている。ということかな。と思って
それならば、私たちはすでに起きている人生を生きるのだろうか。とも考え。さらに
アインシュタインの「月は、観ていない時は、ないのか、あるのか」という言葉がリンクして。。

・・・話の続きを、お待ちしております。

No.3144 - 2011/01/21(Fri) 13:07:10

Re: 好雪片々不落別處 / ubik0101
peerさん

うーんと。それぞれの雪が、決まったところに落ちる。と読めるとは思ってもいませんでした。決まった所に落ちる。なら・・・感じとしては、なんとなく重く湿った、ぼた雪で・・・決まったところに落ちると言うでしょう。それで、ほかの所には落ちない、という表現には、情景としても、眼で見えてててもトレースできない、雪の舞い踊る美しさを感じました。

アインシュタインの言葉は、知りませんでした。ふつうは、たとえばテレビがある、怒りがあるなど、それが機能してて知覚されることを、ある、と言うのですが・・・その範疇にない、ある、ない、を探る言葉としても読めると感じました。

この庭の西側に、名前は知らないけど、なかなか姿のいい木が見つかりました。そうだ、これは、睡蓮鉢の日除けにしよう。というわけで、さっそく掘り起こして鉢に植えました。しばらくは物置で養生して配置します。

No.3145 - 2011/01/22(Sat) 16:40:48

Re: 好雪片々不落別處 / ubik0101
ところで。それぞれ、雪でも、見るでも、美しいでも、それが何だとしても、落ちるとしても、ほかのところには・・・それなら・・・ここという個別な所にも落ちません。ならば、とある、もの、こと、を仮に世界から切り取るにも、ひと繋がりにも、ほかの何にも、落ちない、です。

どんな対象化もせずに・・・つまり、それを対象にしてる主体がつくられず・・・因果そのこと、です。 ことさら言うなら、どこにも落ちない因果が、その人です。 ほかの言い方では、その平手打ちの、痛っ、が全、です。ほかには、なにもないです。

これが、因果を対象にしないところ、因果の概念が、ないところ、です 。それが不完全なゆえに機能してた因果の概念が、知覚される必要がなくなるところ、です。因果が因果を確認する必要がない、という意味です。もっと簡単には、因果には、因果という概念はないのです。どんな、たとえば、ありのまま、という概念も壊滅、です。

ならば始まりも、終わりも、あるもないも、ないのです。いわゆる自我も無我も、業も、輪廻も、この世界だけ、でもない、のです。でないなら、たとえば善い悪い報いを勘定する、因果の概念、閻魔様から逃れることはできません。ここで僅かでも、とあるもの、ことに意識が動くと、 この世界、このとき壊滅し、生成される、つまり因果は持続なしに持続すると見なされるようです。

また、余談ですが、因果を変えることができるのは因果だけです。これは当然のことですが、人は世界を変え続けているのですが、そうであって、そのことには、なかなか気がつかないようです。このとき、このとき、世界の進路を変えています。これに気がついて、かなり驚いた覚えがあります。

続きます。

No.3146 - 2011/01/22(Sat) 17:33:11

Re: 好雪片々不落別處 / hato

よい雪は別所に落ちず。

ここ、にも、そこ、にも、あそこ、にも。

ほかのどこかに落ちません。

その一切は、不可 思議。

尚、その雪は、ただ雪です。


そして尚、雪です。


とあるいつかの朝、小さなアパートの外は白銀に光っており、メジロがベランダの砂糖水を飲みにきていました。

No.3147 - 2011/01/22(Sat) 22:39:12

Re: 好雪片々不落別處 / peer
雪が見える。ということは、遠いどこかから落ちてきた。
いま、とつぜん、発生したワケでもなく。
なので、因果の法則・・・かな〜と。
地面に落ちる途中で消えるかもしれないから
どこに落ちるかは決まっているとも言えない。
・・・未来は未定。

子供の頃
雪が降ってくるのを下から眺めると
光が遮断されて薄黒いモノが、ウヨウヨとして。。
まるで虫が大量に降ってくるようで、
なんだか怖いような気がしたこともあります。

雪。といえば
「雪が解けると、どうなる?」
水になる。という人あり
春になる。という人あり。

No.3148 - 2011/01/23(Sun) 04:26:26

Re: 好雪片々不落別處 / ubik0101
peerさん

そうでした。子供の頃、初めて雪を見上げて何か感じました。うようよした、その感じだけで、世界が一杯で。なんとなく不思議に嬉しかった。それでまた雪が降ると、それを感じることを期待して見上げてみたのですが、もう感じることができず、ガッカリしたことを思い出しました。

きっと、過去を変えることができるなら、因果は成立しないでしょう。でも人は、心理的には過去を作りかえて、なにかを判断したり、評価したりすることもあるのでしょう。その不完全さゆえに、そんな思考ができるのかもしれません。

そうだ、小さな丸い花壇を、庭のあちこちに、たくさん作ろう。というわけで、そのひとつに去年の秋、スノードロップの球根を植えました。つぼみが見えています。

No.3149 - 2011/01/23(Sun) 21:26:32

Re: 好雪片々不落別處 / ubik0101
ただ指を空に指すだけで、風が変わります。雪の軌跡が変わります。世界が変わります。 それは、ほかの所にも、過去にも未来にも落ちません。

なにかの原因を求めたり、それから結果を考えたりすることは、不完全な因果の概念です。壊れています。それは、因果が因果を思考するからというわけでもなく、不完全な偏った人としての因果が、そう思考するのです。ただ思考は、そのように思考する人だということを、そのまま表現します。

そうでなく、なににも偏らない因果である人は、因果を自覚せず、無選択を選択せず、過去を思わず、未来も思わず、今も思わず、 それは、見ても、眼が不自由な人のように、見るということなしに見えてる。話しても、言葉が話せない人が話すように、どんな話そうとする意図なく話してる、です。

どうして、そうなのでしょう。たとえば、ある人は満面の笑みで喜んでいます。ある人は泣き叫んでいます。ある人は、怒っています。ある人は怠惰です。ある人は、賢明です。あるいは、善で、あるいは悪で、あるいは傲慢です。

そのように世界は、あることと、反対のことも、類似のことも、無関係なことも、まんべんなく全て活動してるのではないでしょうか。そうでないときなど、ないです。それゆえどれか個別の、特定のもの、ことに偏る、依存できないのです。これを、ここでは世界の総活動、中道と呼んでいます。そして人は、その全でありながら一筋でありながら全ではないでしょうか。

もし、仮に、例えば・・・完全に切り取られたことがあるとして、また、完全にひと繋がりだとして、どうして変化が起きるでしょうか?どれでもないから、因果が可能なのではないでしょうか。どこにも、どのほかの所にも落ちない、どこにも引っ掛からない、なににも躓かない・・・雪は雪でなくてもいいのに雪・・・です。

No.3150 - 2011/01/23(Sun) 21:33:03

Re: 好雪片々不落別處 / peer
>もう感じることができず、ガッカリしたことを思い出しました。

雪は雪だ。どう観ようとしても確定したことだ。
ってことかもしれないです。
いちど体験すると、そこから他へ動かない。
心は、どうも安定したがる傾向があるようで。
子供が同じことを何度も何度も体験したがるのは
同じことはない。ということを知っているからか。
あるいは次がどうなるか知っている安定が心地よいから・・・か。
わかりませんが。

原因を探りたい人は、今を受け入れないから。
今を受け入れているってことは
原因も今も結果も、一瞬で受け入れていている
それをどうもこうも、がない状態なのかな。
だって、あることに対して、確定したコトに対して
いちいち「原因は?」なんて考えるのは労力絶大〜

No.3153 - 2011/01/24(Mon) 14:37:04

Re: 好雪片々不落別處 / ubik0101
たしかに見上げると、空から舞い降りる雪は、それぞれの中心あたりが暗く灰色に見えたのです。でも・・・ふつうに横から見る風景の雪は白いので・・・暗く見えた、そのことが不思議な嬉しさの原因だと思って、おなじように暗く見ようとした、のです。

でも、そのように暗く見える見えないではなく、最初の、うわあ不思議、そのこと。その雪の知覚だけで、自意識のないこと・・・まあ子供の頃のことなので、わからないけど・・・それが嬉しく感じたのかもしれません。

>いちいち「原因は?」なんて考えるのは労力絶大〜

ならば、いつでも、どこでも、そのほかの今を望むことはない・・・そんな意味で「いい雪です。ほかの所に落ちません」。も、ありそうです。

まあ、原因を探ったりすることは、これからの選択肢を探ってる・・・それと関連づけた未来の行動のシミュレーションで・・・そんな、ぐずぐずしてる状態は苦痛だけど、でも実際に行動しても失敗するかもしれないから、それよりは、楽、って取り越し苦労・・・もありそうです。

No.3156 - 2011/01/24(Mon) 21:36:42
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