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ありがとう / peer
他のトコロの記事の流用なんすが。

トモダチとか知人とかの悩みの相談を受ける事があります。
で、ウンウン、なるほど、どうなったの、それでどうしたいの?
みたいに聴いている。

なかなか、大変だなぁ。。

などと、思いながら、、、

時間をおいて
全体像を把握しようと、相手の話を反芻しているうちに
オヤオヤ、これは、私の問題だった。
と気づく事があります。

わたしの解決しきれていない問題が、相手の存在を通して
今、この瞬間を使って、わたしに直面してきたのだ。と。

まったく世界は、わたしのために、このような状況を
わざわざ作って、姿を現してくれている。
そんなふうに、直接の形でなく、間接的に触れようとする。
そんな世界の姿が・・・あります、ね。

わたしたちは、世界を、勝手に「こういうもの」と決めているけれど。

本当は
どんなに世界は人間を育てようとしてくれているか。
そこに思い当たる、、、日常の様々な事実とか現実とかいうものには
別の大いなる視点(もくろみ?)があって、

ときどきフイに、気づけよ。そろそろ気付けよ。と言われている。
気付けば、ただ、物語がひとつ、終りになるだけなんだけど。

お正月は・・・京都旅行して来ます。
では、皆様よいお年を。

No.3129 - 2010/12/31(Fri) 03:34:59

Re: ありがとう / hato

> 本当は
> どんなに世界は人間を育てようとしてくれているか。
> そこに思い当たる、、、日常の様々な事実とか現実とかいうものには
> 別の大いなる視点(もくろみ?)があって、
>
> ときどきフイに、気づけよ。そろそろ気付けよ。と言われている。


世界は、それぞれの人にとって、必ず調度よく学び取ることができることが驚異的です。自分にとり、世界の有り様は、関係性を映し出すというよりは、折々に自己智を引き出してくれる場として幸いです。その意味で多くのことがあり、多くのことが幸いです。

> お正月は・・・京都旅行して来ます。
> では、皆様よいお年を。


京都いいですね。ふたりより、どうぞよい旅を。
こちらは母が来て、初めての静岡での年越しです。

No.3130 - 2010/12/31(Fri) 17:54:31

Re: ありがとう / peer
↑おおっ。
なにもかも、カワイイです。
hatoさんのセンスですか。テーブルクロスとスリッパ。

京都は、こんな感じ。
大みそかに雪が降るって、珍しいらしい。です。

No.3133 - 2011/01/03(Mon) 05:37:47

Re: ありがとう / hato

> ↑おおっ。
> なにもかも、カワイイです。
> hatoさんのセンスですか。テーブルクロスとスリッパ。


スリッパは、スーパーの片隅で見つけて一緒に盛り上がりました。念のため、hatoちゃんに負けず劣らずubik0101花柄好きです。かわいいの、とてもすきなんです。

母の仕事の関係で、我が家にはなかなか素敵なファブリックがやってくるので、テーブルクロスにしたり・・・楽しんでます。


> 京都は、こんな感じ。
> 大みそかに雪が降るって、珍しいらしい。です。



お帰りなさい。。
大変素敵な画像。寒い京都、雰囲気が伝わります。今年のお正月は、あちこちに雪が、降りました。

神奈川のアパートから持ってきた山椒の鉢に、いつのまにかふたつ生えてきた、なにかの苗です。山椒は庭に植えて、こちらは我が家の玄関先に、ちょこん、としてます。

No.3138 - 2011/01/03(Mon) 20:41:44
(No Subject) / 雄大
世界とその中で生きる身体の前提が疑う事のない確信であるならば浸透するもの、超えているものなど理解は不可能である。

始めに世界と私に分割しておいて1つにしようとしているのだろうか。

理解と言っても思考の結論が作り出した一時的な停止なら、それは再び動き出し何度も結論しなければならないだろう。

それは怒りも葛藤も排除しない。
何が正しいのかどうあるべきかという古いマインドから抵抗が生じるのではないだろうか。

何も知らない謙虚さのある観察が真の姿が顕れる助けとなる。
無選択の気づき、無判断の気づき、無抵抗の気づきが連想ゲームが作り出す夢の世界を浄化するだろう。

無いものを獲得するのではない、あるものに気がつくのだから難しさや、困難さを訴える者は世界の中に消えさり世界も消える、しかしそれは消える以前と何も変わらず観察するものとされるものとしてあった世界を写し出し続けるのだ。

ある権威を受け入れるのは同じ物が欲しい1つの身体に同一化した観察者があるからではないだろうか。

名前と形が世界を創り出し私に快楽と恐怖という飴と鞭で観察の焦点を制限し、私という特定の角度の観察される運動習慣を作り出すのだ。

ある前提は誰に帰属するのかよく観察してみる、理解はどうでも良い、何故ならそれは役に立たないから。

言葉はあなたの中で響いているのか。

No.3075 - 2010/12/17(Fri) 13:16:46

Re: / 夜の虎
> ある前提は誰に帰属するのかよく観察してみる、理解はどうでも良い、何故ならそれは役に立たないから。
>
> 言葉はあなたの中で響いているのか。


雄大さんの書かれていることは、ほとんど理解できないのですが、非常に重要なかつ意味のある何かを感じます。
ただ残念ながら手のつけようがありません。
理解が役に立たないのならば、何ができるのか?
ここで言われる観察とは一体?

No.3076 - 2010/12/17(Fri) 15:58:52

Re: / 雄大
名付ける事で、レッテルを貼る事で形と名前に分割する。

1つが3つに分割される。
対象、観察行為、観察者である。

体験の1つ1つに固有の体験者がいると錯覚している。
だから固有の体験者が連続する私を創り出す。

私達は、葛藤を憎悪を不安を孤独をそう名付ける事無くそれらと供に留まる事が出来るでしょうか?

イギリスで教育を受けたクリシュナムルティはギリシャの時代から分割手法を持つ民族の習慣を持つ人々、ジグムントフロイドを生み出した西洋人に、まず分析する演技をしながら欠伸が移る様に共感を、感応をさせながらその入り口まで連れて行く、聞き手が我に返るとそれは体験へと変貌させたのだろうと思います。

何故体験が重要になるのでしょう?それは1つの身体というハードに心というソフトが乗っている世界の見方があるからもしれません。

1つの身体に恐怖と快楽を生み出す他の断片が付随しているのではないでしょうか。

誰かが語っている事は何か特定の身体に帰属するようなことであったとすれば、それはくだらないガラクタなのではないでしょうか。

そして獲得したものは手放さなければならないのではないでしょうか。

ある日ある時悟りを得て、その瞬間から全てが変わったとしても、見た目には生活の仕方は変わらないのだろうと思われます。

ある特定の身体を生みだしたカルマが作用している間は物理的身体は制限を受けざるを得ないでしょうから。

お湯が徐々に冷めていくいくように気付きがカルマの作用を薄めていくでしょう。

寺の中で瞑想しながらではなく社会で義務を果たしながらカルマが浄化されていく。

カルマはある人を気付かせるためのスパイスなのだから。
だから出来事に気をとられて名付ける事に忙しく,分析する事に心を奪われてはならないのではないでしょうか。
それでなければ10年たっても同じ事を続けているあなた達が見えると。

こんなふうに、ある板でおおよそ5年以上前にも同じ事を書きました。

しかし実際は特定の身体の世界観がなければカルマなどと取り立てて問題化される事はなくなります。

意味がなくなりますから。

No.3080 - 2010/12/19(Sun) 15:39:29

狙う焦点が異なる / 雄大
意識の内容に関わらない、

葛藤、憎悪、悲しみなどと名付けない

直視しない、が避けるわけではない

陰を観る、裏を観る、ずらす、抽象化した角度を超える

そして意識の内容には関わらない。

どうしたら?では相対化から抜け出せない、しかし満足する答えを得ることが出来るだろう、だから相対化から抜け出せない。

しかし既に完成されているなかで小さな世界にだけ焦点を合せている習慣、1つの見方が心地よいのだ。

基盤に帰属する快楽と恐怖は予想以上に観点の運動をより狭く条件付ける。

No.3100 - 2010/12/24(Fri) 00:22:57

Re: / 夜の虎
雄大さんが狙う焦点とは何処ですか?
No.3103 - 2010/12/24(Fri) 14:52:45

Re: / 雄大
> 雄大さんが狙う焦点とは何処ですか?

認識可能な対象全てを除く処

今此処とその時其処に常にある連続ではない処

連続を錯覚と理解させる処

可能性の運動は何よりも小さい、しかし宇宙全体をも包み込む
認識対象に目を奪われていると時間と空間と供に消えるものと錯覚を起こす

No.3104 - 2010/12/24(Fri) 20:34:53

Re: / 夜の虎
雄大さん、ありがとうございます。
相変わらず難解ですね。
あるいは私が難しく考えすぎているのでしょうか?
前回のレスで一番とっつきやすいところは

> 認識可能な対象全てを除く処

ここの部分ですが、これは、「認識不可能な対象」と読むべきでしょうか?
それとも「認識不可能な何か」と読むべきでしょうか?

No.3110 - 2010/12/26(Sun) 00:06:08

Re: / 夜の虎
分りにくい書き方をしてしまいました。

>ここの部分ですが、これは、「認識不可能な対象」と読むべきでしょうか?
それとも「認識不可能な何か」と読むべきでしょうか?

ここの部分を

焦点を当てるべきところは、「認識不可能な対象」と読むべきか、「認識不可能な何か」とよむべきか
に改めます。

No.3111 - 2010/12/26(Sun) 00:38:44

Re: / 雄大
> 分りにくい書き方をしてしまいました。
>
> >ここの部分ですが、これは、「認識不可能な対象」と読むべきでしょうか?
> それとも「認識不可能な何か」と読むべきでしょうか?
>
> ここの部分を
>
> 焦点を当てるべきところは、「認識不可能な対象」と読むべきか、「認識不可能な何か」とよむべきか
> に改めます。


認識可能な対象であっても、何かであってもどちらでもかまいません。

「認識可能な対象全てを除く」を認識不可能な対象、認識不可能な何かと読み換えはしません。

思考の領域に入れるのではなく分からないながら試してみてはどうでしょうか?

それは直接知覚不可能だからです。
しかし工夫するなら、認識可能なものを利用するとしたならより繊細な抽象的な感覚を利用するのです。

視覚より聴覚、聴覚より触覚を利用した方が良いでしょう。
思考を見守る、これはとても有用ですが、より醒めてくると感情,身体感覚、さらに繊細な何かへと焦点を移しますが、

1つではなく3点を繋ぐとかをやってみます。
でもこう書くと何か技術的に見えてしまいますね。

だから認識対象全てを否定していくという前提でありながら、とても矛盾したことを求めています。

まあ1人の狂った人の独り言でも捉えておいて下さいませんか。

言葉はそれ自体矛盾、2元性を含むものですから。
少し年末で忙しいので乱筆になりましたが今からまた仕事なので失礼します。

No.3120 - 2010/12/27(Mon) 19:09:48

運動 / 雄大
時計の針が動いている、そういう運動は私が言う運動ではない。

それらは変化していくが私が言う運動ではない。

心の変化も同様である。
認識対象は変化していくが、空間の中で物体が運動するとか、時間の中でイメージが変化していくとかそれら全てが私が言う運動ではない。

拡散し収縮する運動は対象が独立した実体を持つとの世界観からは理解不能だろう。

対象とは無関係に運動しているからだ。逆に対象は影響を受ける、それがなければ世界も私も現れる事無く認識不可能だからだ。

No.3125 - 2010/12/28(Tue) 23:35:00

Re: / 夜の虎
雄大さん ありがとうございます。

しかし難解ですね。
何度か読み直しては見たのですが、よく分りません。

>それは直接知覚不可能だからです。

これは、「それ」なるものが主体だからでしょうか?
直接知覚不能ならば、どのようにして知覚しますか?

No.3126 - 2010/12/30(Thu) 20:03:59

メモ / 雄大
体験があなたを変えると思われますか?

神秘体験をした者がいる。

1.それは思い出されるものだろうか?


2.もしそうなら、その体験は視覚によるものなのか
聴覚によるものなのか、臭覚によるものなのか、触覚によるものなのか?

あるいはそれらの一部、または全ての組み合わせによるものナなのか?

3。その時其処の観察する者は今此処の観察する者と異なるのか?

体験は様々に言語化し得るが、観察される対象はそれらを観察する者だ。

物理的、空間的身体と、時間的精神への拡がりの周辺は描写可能だが、その反対は如何描写できるのだろうか。

4、または持続する神秘体験ならば、やはり何を通じて経験しているのだろうか。

5、認識可能な対象全てを否定するとき純粋なより小さな一点が示される、しかしそれは入り口なのだ。

6、音霊の法などで注意を一点に縛るのは、操作不可能な別のものを動かすためなのだからあらゆる瞑想は方便であり入り口に過ぎない。

ただ出来事の分析をやるよりはより効果がある、しかし本来分析と瞑想は車の両輪のごとく用いられるべきものだ。

ただそれらは薬のようなものなので素人が気まぐれにやるので副作用も出るというものだ。

しかしその副作用はもともと隠れていたものに過ぎないのだが。

限られた身体が無限のものを感覚器官を通じて、または身体全体としても直接捉えることは出来るのだろうか。

7、名前や形に付随する権威に騙され搾取されるのは、体験を要求しているからなのだ。

あらゆる体験を否定する、過去や未来へ拡がる時間的身体と世界の中の私を位置づける空間的身体は偽りの境界、慣れ親しんだ慣習的観方なのだ。

視点を逆転さてあらゆる基盤を見つけるのだ、それが入り口だ、ただそれはスタート地点にしか過ぎないのだが。

状況分析は好きなだけ答えを見つけることが出来るだろう、しかし
中心へ何かを付け加え続けるだけなのだ。

それはその人自身が一番知っている、何も変わっていないことを。

紙一重、直ぐ側の何かに気付いた時、質問の仕方そのものが変わるだろう、それがより端的なその人の姿なのだ。

No.3127 - 2010/12/30(Thu) 20:15:40

Re: / 夜の虎
雄大さん ありがとうございます。
またしてもほとんど理解できませんが、なんとなく雄大さんが言われることの輪郭が曖昧ではありますが、形になってきたような気がします。
色々教えていただきありがとうございました。
今年もよろしくお願いします。

あとウビキさん、ハトさん、去年は色々とありがとうございました。
今年もよろしくお願いしますね。

No.3132 - 2011/01/01(Sat) 22:16:56
謹賀新年 / ubik0101&hato
新年明けましておめでとうございます。

2011年が皆様にとって、素晴らしい年となりますように。

本年もどうぞよろしくお願い致します。

ubik0101&hato

No.3131 - 2011/01/01(Sat) 21:44:51
不可逆・より / peer
>或いは、適宜でない場合は、その言葉以外に
>考え及ばない程度のその人、であるかも知れません。


こんばんは〜
まっ。私の場合は、バカでもなんでも
言われても思われても、あまり気にならないです。
「あー、そうかもね」と思うし。

そうしていたら「他者に関心がない・愛がない」
と・・・指摘されてまた「そうかも」と思ったり。
自由・こだわらない・淡白・無関心・・・その先は
他者がどうであってもいい。のでしょう?
になるらしいです。

ただ、「バカだねぇ」は相手を下に置きたがり
自分を上にして依存させようとするエゴ。
と見えてしまう・・・のです。スキッとしてない。
それを隠すために「おどけて見せる」のだろうかな〜と。
人の心は、何重かの構造を作り、自衛するようです。
それに付き合って、一緒におどけてもいいのだけれど。

花ゆずと、プリペット・・・お写真、お待ちしています♪

No.3101 - 2010/12/24(Fri) 04:11:44

Re: 不可逆・より / hato

こんばんは〜。

> そうしていたら「他者に関心がない・愛がない」
> と・・・指摘されてまた「そうかも」と思ったり。
> 自由・こだわらない・淡白・無関心・・・その先は
> 他者がどうであってもいい。のでしょう?
> になるらしいです。


peerさんは、掲示板での文章の柔らかい雰囲気と、実際お会いしたときに受ける印象、けっこう違って面白いのよね。

そういえば、同僚の女性から、「親しみ感があるのに、取り付く島がないのがわからない、不思議〜、なんだろうな〜」と飲み会のあとで、ほんとに頭を傾げてそう言われたことがありました。なんか、寂しくなったり可笑しかったけれど、そのときはわからなかったけど、たぶん、依存する気もさせる気も、全くないことがそんな風に映るのかも知れません。


> ただ、「バカだねぇ」は相手を下に置きたがり
> 自分を上にして依存させようとするエゴ。
> と見えてしまう・・・のです。スキッとしてない。
> それを隠すために「おどけて見せる」のだろうかな〜と。
> 人の心は、何重かの構造を作り、自衛するようです。
> それに付き合って、一緒におどけてもいいのだけれど。



面倒でしょうけど、peerさんらしくいけばいいのでは、と思いますね。

その相手はそのようかも知れないですし。ただ、言葉は言葉としてあるだけですから、その人が使った場合にそのようになる、(かも)、ということですね。そうね〜・・・動じなさそうなpeerさんに威圧感を感じているとか・・なにか打破したいとか・・当人はそれほど意味なく使ってるとか・・実は仲良くしたいとか・・・わかりませんけど。

言葉は言葉、ですよ。それは、あれこれ事態と関係なくあります。

プリペットです。背景に溶け込んでしまいましたが、常緑で、大変いい感じの小さな葉がたくさんついてます。

No.3105 - 2010/12/25(Sat) 00:16:01

Re: 不可逆・より / hato

世界の仕組み・・・あのレンゲと紅葉のように・・・まったく明らかながら、機がくるまでは、きちんと隠されています。明らかなのに、見えないのです。
そして尚、ただ、不思議は不可思議です。


やがて

いつかレンゲの花が可憐に咲き乱れると

やってくるんです

それが。


さあ!
時がきた!
常がきた!
解け!

さあ、解くのだ!

誰かでない、自身を解くのだ!


花ゆず。
クリスマス・イブに植樹した、とっておきのツリーです。

No.3106 - 2010/12/25(Sat) 00:33:07

Re: 不可逆・より / peer
>peerさんは、掲示板での文章の柔らかい雰囲気と、
>実際お会いしたときに受ける印象、けっこう違って面白いのよね。


どうも〜相手をする人・場によって、変わるみたいです。
え〜と。わりと、人見知りです。テレヤです。
あっ、それに。日々、変化してます。

>そういえば、同僚の女性から、「親しみ感があるのに、取り付く島が
>ないのがわからない、不思議〜、なんだろうな〜」と。
>たぶん、依存する気もさせる気も、全くないことがそんな風に
>映るのかも知れません。


うん。近い。
学生時代に「手を離したら、どこへ飛んでいくかわからない風船」
みたいだと言われましたね。友達に。

>言葉は言葉、ですよ。それは、あれこれ事態と関係なくあります。

そう。心もコロコロと移り変わって定まらない。
面白いのは「心」という文字。
どの辺も他の辺に触れていないんですね。バラバラ。

世界の仕組み・・・ねぇ。考えないと、知っているような気がします。
すべてが、あるように、あるがままに。あるべく、ある。

考えると、わからなくなる。急に恐怖や不安がやってくる。

あら、ホント。プリペットさん・・・どこに? みたいな。
花ゆずさん。。綺麗な。クリスマスツリー。
ふたつとも、足元がカワイイです。愛されているなぁという感じ。

No.3107 - 2010/12/25(Sat) 03:05:06

Re: 不可逆・より / hato
> え〜と。わりと、人見知りです。テレヤです。
> あっ、それに。日々、変化してます。



うふふふ。ナルホド。了解。。


> 世界の仕組み・・・ねぇ。考えないと、知っているような気がします。


ほんとですね。そんなとこありそうです。

そうですね・・・不可 思議。

といっても、やはり人は、言葉と思考でもって、そのことを明晰にしておく必要がありますね。そうでなければ、どこか不明不穏に、飛んで行ってしまいます。この意味で、状態を得た後の理解の隙間とは危ういものです。出だしはよくても、行き着くところが不穏に為りかねません。人は、それぞれの道筋でとても素敵です。そして尚、注意深い必要があるでしょう。

どういうことか。


理解する、とは、余計に思考を付随させたり、固定、記憶しておくことでは、ないのです。本当にそのことを理解されているとき、それは中途半端な知識になることがありません。理を解する、意義です。余すところなく理解されたとき、そこに空想の余地はありません。正しく理解されていない、すなわち、失われないことによって、意識は体験と内容を不適切に用いることになり、人は道を逸れるのです。もしくは、おかしなことを言うことになります。

空想は多くこれに加担しますが、空想以前に、人がそれまで持ち合わせた嗜好、性質、さらに言葉の使い方、機微が、不穏に導くことは非常に多いのです。言葉と思考とは本来、甘く扱えないものでもあります。

「その体験を余すところなく理解されることによって、」この日常を、それとして生きることができます。それであることによって、日常とは不可 思議ながら、その知恵は必要なときに使うことができるのです。


> あら、ホント。プリペットさん・・・どこに? みたいな。
> 花ゆずさん。。綺麗な。クリスマスツリー。
> ふたつとも、足元がカワイイです。愛されているなぁという感じ。



どこに?・・てなんか、かわいい。庭づくりは、ubik0101さんが日々大ハッスルですが、一緒に土を入れて作業しました。ほかにも、球根を毎日たくさん植えてくれているので、春がとても楽しみです。

神奈川のアパート近くで、ubik0101さんが見つけたどんぐりの苗を持ってきました。そのうちのひとつです。

No.3112 - 2010/12/26(Sun) 00:58:36

Re: 不可逆・より / peer
>といっても、やはり人は、言葉と思考でもって、そのことを
>明晰にしておく必要がありますね。そうでなければ、
>どこか不明不穏に、飛んで行ってしまいます。


オシャカサマは悟りを得たあと、これは誰も理解できない
だろうと思ったそうですね。
で、仲間に語ってみたら、ひとり、理解したそうで。
この、ひとりが悟ったことで、さらに確信を得た。
そんなことがあるようです。
ひとは鏡。ということのひとつ・・・かなぁ。

春が楽しみですね。ほんとに。
それは、もうすでに、心の中に春を見ているから。
可能性へのほのかな予感。

No.3119 - 2010/12/27(Mon) 18:54:33

Re: 不可逆・より / hato
> 春が楽しみですね。ほんとに。
> それは、もうすでに、心の中に春を見ているから。
> 可能性へのほのかな予感。


どうもありがとう。
ほんとうに、春は。
切ないながら、ほのかにときめく季節です。

No.3128 - 2010/12/30(Thu) 23:47:34
世界の機能パート5 / ubik0101
すこし振り返ります。自己が、自己であって、自己を知覚する必要がない、この日常では。おなじように自我も、知覚にとって、ない、です。ここで機能してるのは、眼や耳と、とその対象。そして意識と、その対象だけ、仏陀の言う「一切(いっさい)」です。

これは自我もなければ無我もなく、どいうわけか、そう意識するまでもなく、また意識しても、とくに変わりませんが、とくに理由がない楽・・・平穏・・・です。ここで、たとえば、いわゆる心理的思考、葛藤によって波風を起こして、その騒がしさで、自分で自分を知覚しようとすることが、自我の機能、だということが理解されます。

そんな自我は、ない、の騒がしい活動で、ない、が、ない、を知ろうとしてる、ということでもあります。それで。その、ない、自我は・・・なんであれ物質や感覚や感情や思考に関わる・・・いまここ・・・に、ない、もの、こと、を・・・たとえば素敵な車や名誉や体験や恋人がない、だから、それを望む、そんな特質があります。

なにか執着と言えば、ある、ことに執着すると、思われるかもしれません。でも実際は、まったく疑う余地もなくあることには執着も不要です。ない自我が、ない、もの、ことに執着してて、そこから安定を求めるとかの混乱した演繹があって、あると思われることは失いたくない、という空想があるのではないでしょうか。

続きます。

No.3116 - 2010/12/26(Sun) 21:53:41

Re: 世界の機能パート5 / ubik0101
そして、 なにかに依存できないということは、その。なにかが、ない、と・・・たとえば感情が、ない、思考が、ない・・・素敵な自動車が名誉が体験が恋人が、ない・・・だから執着が、ない、という空想がされるかもしれません。

でも見る聞くという知覚が、感情が、意識が機能しながら、それに依存できません。というのが実際です。でも、この世界に生きていながら、この世界に依存できません。ということは。これは変ではないでしょうか。

と、いうのは説明としては、それが滞りなく機能してることが、執着がないということでもあるのですが・・・ なにかを食べたり呼吸することによって、生きてるのですから、それに依存しないって、変ではないでしょうか。

けど。自我は、ない、が、ない、に依存してたのです。その自我の完成による、依存からの解放は、なにかが、ある、それに依存しないということは、言ってみれば最強の無依存です。そのように世界はできてるのではないでしょうか。そして、依存しないならば、なにかが、あっても、なくても、それに執着しない、ではないでしょうか。

つまり、依存しないことを学ぶには、この、ある、ない、が最適で。 そんな機能が世界に働いてる、と思います。

No.3117 - 2010/12/26(Sun) 22:01:01

Re: 世界の機能パート5 / suho
> そんな自我は、ない、の騒がしい活動で、ない、が、ない、を知ろうとしてる、ということでもあります。それで。その、ない、自我は・・・なんであれ物質や感覚や感情や思考に関わる・・・いまここ・・・に、ない、もの、こと、を・・・たとえば素敵な車や名誉や体験や恋人がない、だから、それを望む、そんな特質があります。

いま、ここで実際にはないもの。空想。空想の中で空想を望む機能、ということでしょうか。

> なにか執着と言えば、ある、ことに執着すると、思われるかもしれません。でも実際は、まったく疑う余地もなくあることには執着も不要です。

これこそ、このことに関心のある人たちが望んでいることですね。執着を断ちたいと。

>ない自我が、ない、もの、ことに執着してて、そこから安定を求めるとかの混乱した演繹があって、あると思われることは失いたくない、という空想があるのではないでしょうか。

はい。ないもの(空想)の中での葛藤、混乱。

> そして、 なにかに依存できないということは、その。なにかが、ない、と・・・たとえば感情が、ない、思考が、ない・・・素敵な自動車が名誉が体験が恋人が、ない・・・だから執着が、ない、という空想がされるかもしれません。

特に執着するもの、空想がないから執着がないと思っている状態。けれど、たまたまその対象が無い、あるいは「執着が無い」という観念に同化することで錯覚している状態もありうるということでしょうか?
執着する機能自体は残っているかもしれない、ということでしょうか?
例えば「執着が無い。無我」である、ということに中心を持ち、そうでないものに反応するという場合もありうる。

> でも見る聞くという知覚が、感情が、意識が機能しながら、それに依存できません。というのが実際です。でも、この世界に生きていながら、この世界に依存できません。ということは。これは変ではないでしょうか。

ここでいう「依存」とはどういう意味でしょうか?
ある知覚にとらわれて、他の知覚が見えていない状態でも、実はそれとは無関係に刻々と知覚が機能している、とい意味で「依存(同化)」は空想である、という意味でしょうか?

> と、いうのは説明としては、それが滞りなく機能してることが、執着がないということでもあるのですが・・・ なにかを食べたり呼吸することによって、生きてるのですから、それに依存しないって、変ではないでしょうか。

現象の物理的な関係性としては依存というか、因果として理解することはできるけれども、その現象の一切自体は、空想とは無関係につつがなく流れている、という意味でしょうか?

> けど。自我は、ない、が、ない、に依存してたのです。その自我の完成による、依存からの解放は、なにかが、ある、それに依存しないということは、言ってみれば最強の無依存です。そのように世界はできてるのではないでしょうか。そして、依存しないならば、なにかが、あっても、なくても、それに執着しない、ではないでしょうか。

自我という空想と、その執着の対象という空想。空想同士の運動であることが理解されることを自我の完成というのでしょうか?依存、執着という空想が消え(抵抗、浪費が消え)、もともと生きるように、空想とは無関係に機能していた日常が、あらわになる、という意味でしょうか?
もともとそうであったと。

> つまり、依存しないことを学ぶには、この、ある、ない、が最適で。 そんな機能が世界に働いてる、と思います。

もともと空想であり、ない、自我を、ある、と錯覚している状態から、それが、ない、を理解することで、もともと依存や執着が、ない、ということを理解できる。
そのような、理解のために自我が機能している、という意味でしょうか?

No.3118 - 2010/12/27(Mon) 13:35:06

Re: 世界の機能パート5 / ubik0101
>いま、ここで実際にはないもの。空想。空想の中で空想を望む機能、ということでしょうか。

そんな表現もあり、と思います。いま、ここに、実際にはない、もの、こと・・・それは、どこかには、ある、だろう、として明確に、あるいは漠然と、空想される、もの、こと、です。おそらく、そいうことは、人が自分を中心として眺めた、狭い範囲の世界・・・空想の世界・・・で可能になってるようです。

> これこそ、このことに関心のある人たちが望んでいることですね。執着を断ちたいと。

たぶん欲望は、これを獲得したら、次、あれを獲得したら、次・・・ずーと求め続けないと満たされない・・・という衝動の現れだと思います。そうしてれば、その自分を自覚できる気がするので、いつも新しい刺激が欲しいということかもしれません。

そのことは、わたしは、ある。ということが、影のように欲望として現れてるのかもしれません。そんな欲望の完成は、わたしは、ある。自我の完成は、わたしは、ない。この、あるない、どちらも知覚の範疇にはありません。ここで言う、無我は、この、あるない、どちらの意味も含みます。

> 特に執着するもの、空想がないから執着がないと思っている状態。けれど、たまたまその対象が無い、あるいは「執着が無い」という観念に同化することで錯覚している状態もありうるということでしょうか?

そんな表現もあり、と思います。ただ、ここで言ってるのは単純な話です。なにか、ある、もの、ことに執着してると見なすならば・・・執着する対象が、ない、なら、執着する主体も、ない、という空想に囚われる、ということです。そんな状態なら、「空想がないから執着がない」、「執着が無いという観念に同化する 」も、可能に思えるかも知れません。でも、どちらも実際は、不可能だと思います。

それでも。たとえば・・・自分の中の・・・空想の誰かに・・・自分は無執着だと見せかけることで、それが実現されてると、思い違いすることはできるでしょう。それは欲望を自分に隠す、自分を騙すことですが、そうできた、と思って一生を過ごすことはできるかもしれません。でも、 それでは無意識の愚かな操作を要し、辛いでしょう。

続きます。

No.3121 - 2010/12/27(Mon) 21:10:57

Re: 世界の機能パート5 / ubik0101
>執着する機能自体は残っているかもしれない、ということでしょうか?
>例えば「執着が無い。無我」である、ということに中心を持ち、そうでないものに反応するという場合もありうる。


これは、自我がない、ことの体験後、あり得ます。ここでは残響のような自我とか、無我を張る、と呼んだことがあります。たとえば悟り体験そのことと、自分と。あるいは悟った自分と、そうでない人との分離をつくりだし、それに囚われてる状態です。

また、その体験で、善悪はない、ことも見て。その善悪がない・・・これは意識の範疇にないのですが・・・いつのまにか意識の範疇と思い違い・・・いわゆる思考からの善悪がないになって、倫理不要を標榜することがあります。やはり意識の範疇にないことは、意識の範疇にないと明確にすることは大切です。

> ここでいう「依存」とはどういう意味でしょうか?

なんだかの関係に留まってる、この世界の範疇にある、という意味です。それで、依存しない、ということは、解脱、です。しかし心理的なことを言ってるのではないです。とても誤解が忍び込みそうなので、あんまり言いたくはないのですが、離脱、に近いです。

それが、自己、の意味?本性?です。 ならば、この無限とも言える質量の世界、それが陽炎のようなこと、吹けば飛ぶような幽かなこととして、感じられます。これは理論的な表現では、これは、これでなくてもいいのに、これ。これは何?です。

>ある知覚にとらわれて、他の知覚が見えていない状態でも、実はそれとは無関係に刻々と知覚が機能している、とい意味で「依存(同化)」は空想である、という意味でしょうか?

そんな表現もあり、と思います。 なにか執着とかがあるということは。その状態に留まらさせられてるということで・・・それは、そいう自分の有り様を、良く見て、理解して、乗り越える(大雑把な言い方)ために・・・執着が機能します。そんな必要がなくなれば、滞りなく機能する、という意味です。

> 現象の物理的な関係性としては依存というか、因果として理解することはできるけれども、その現象の一切自体は、空想とは無関係につつがなく流れている、という意味でしょうか?

そんな表現もあり、と思います。けど、空想とは無関係に流れてるというのではなく・・・呼吸をするだけでも、呼吸を止めるだけでも、世界が変わる・・・と言ったりしますが、そんな・・・それは自覚できないのですが・・・主体性が生まれています。

続きます。

No.3122 - 2010/12/27(Mon) 21:22:56

Re: 世界の機能パート5 / ubik0101
>自我という空想と、その執着の対象という空想。空想同士の運動であることが理解されることを自我の完成というのでしょうか?依存、執着という空想が消え(抵抗、浪費が消え)、もともと生きるように、空想とは無関係に機能していた日常が、あらわになる、という意味でしょうか?
>もともとそうであったと。


もともと自我は、ない、かもしれませんが、その、ない、そのことを了解する。そんな自己・・・は、もともととは、とても思えません。けど、自我を通じて、の結果です。そして、自我は未完だから機能する、という意味を込めて・・・自我の完成と呼んでいます。自我の死、というのは、もともとないことが死ぬというのも表現としても変だと感じます。

>もともと空想であり、ない、自我を、ある、と錯覚している状態から、それが、ない、を理解することで、もともと依存や執着が、ない、ということを理解できる。
>そのような、理解のために自我が機能している、という意味でしょうか?


そんな表現もあり、と思います。ない、が、ある、として、それが依存の原因だった。それが了解されると日常、ある、もの、ことにも依存しない、それで、あまねく無依存が可能になります。そんな自己を育ててるのが世界の戦略のようです。

そんな世界は、それ自身が、それ自身の原因でも、完全な無原因でもない・・・あるのでも、ないのでもない・・・そのことによって、それが可能になってる、のだと思います。

たしかに、いろんな噛みごたえの変化が楽しいです。hatoさんも・・・おいしい、噛んだ最後が、いい・・・と言っています。 バタークッキーも、ついで買いしました。 どっちも178円でした。

No.3123 - 2010/12/27(Mon) 21:27:52

Re: 世界の機能パート5 / suho
> そんな表現もあり、と思います。ない、が、ある、として、それが依存の原因だった。それが了解されると日常、ある、もの、ことにも依存しない、それで、あまねく無依存が可能になります。そんな自己を育ててるのが世界の戦略のようです。

もしかして、ubiさんが表現する「自己」とは、精神のことを言っているのかな、と感じました。
精神、それ自体が無我であること(自性、実体がないこと)を理解しつつ、それでも精神がいまここにある、という実感のようなもの。
自己の機能である自我を通じて、自己が無我であることを知り、自己が世界であることを知り、しかも自己は自己であることを知ること。それを成長とubiさんは言っているのかなと。
このあたりは、まだ検討中です。

> そんな世界は、それ自身が、それ自身の原因でも、完全な無原因でもない・・・あるのでも、ないのでもない・・・そのことによって、それが可能になってる、のだと思います。

「ある」「ない」どちらか一方に収まらないと満足できない自我にとっては恐怖。それで「ある(確実なもの)」のみを求めて騒がしく運動する。しかしそれは事実を理解するための必然のプロセス。
確かに世界が「ある」だけではこの運動はそもそも起こらないですね。

> たしかに、いろんな噛みごたえの変化が楽しいです。hatoさんも・・・おいしい、噛んだ最後が、いい・・・と言っています。

お!ですよね!

>バタークッキーも、ついで買いしました。 どっちも178円でした。

うう。。先を越された。。
僕も今日買ってこよーっと。

ubiさんとのやりとりで、検討が進みました。
ありがとうございました。

No.3124 - 2010/12/28(Tue) 08:13:11
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