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(No Subject) / アバターラ
目の前で降っている雪はだいたいどこかに落ち、積もります。消えたり融けたりするのもあるけれど。

降る雪を風情があると好んでいる、積もった雪は邪魔だと嫌っていると、降る雪と積もった雪の間に断絶があり、降る雪はどこにも落ちず、積もらない。
降る雪も積もった雪も同じく嫌っていると、降る雪はそのまま必ず落ち、積もってしまう。

No.3151 - 2011/01/24(Mon) 08:43:41

Re: / ubik0101
ちらほら降る雪の、その風情も、その風情に、落ちません。その平手打ちの痛みも、その痛みに落ちません。その好きも、嫌いも・・・その好きに、その嫌いに、落ちません。その私は、私に、落ちません。
No.3152 - 2011/01/24(Mon) 09:21:27

Re: / peer
雪は。
その雪を観る人の心に、落ちます。

No.3154 - 2011/01/24(Mon) 14:41:32

Re: / ubik0101
なんのことか、心、って知らないのですが・・・そこはかとなく雪は嬉しくなります。ちらほら見えると、ほかの人に言いたくなります。あっ、雪だよ。と言えば、んっ、と窓から一緒に外を見ます。ジョウビタキが、デッキに置いてる蜜柑を食べた、とかも。 そんな嬉しさを感じます。
No.3155 - 2011/01/24(Mon) 21:31:07
真我、仏性 / アバターラ
はじめまして
この世界は、自己、自我、真我、仏性を取り上げています。
それが、ある、ない、が、この世界では話されます。
もう少し、具体的に取り上げると、こんなものですか。

それがある、とみなしていると、他の人が眠っているのか死んでいるのか、こちらの思いが急変するとき、他の人の真我、仏性がどうなっているのか処理をする必要が生じます。
それで、その一環として、真我、仏性、の呼び名を変えて、魂などと唱えるのでしょうか。

誰それさん、いますかと呼ばれて、はい私ですと答えるときの私は、そういう私があるということではなくて、そういうことではなくて、単に個体としての心身を指しているだけなのでしょうね。
人との間の情報伝達、指示のために思考が使われているだけ。

人からバカにされて、私をバカにしたと怒るときには、バカにしたとみなす認識と、それと一緒になって、抵抗し拒絶する動きが対になって、連鎖的に動く思考があるということでしょう。対、連鎖性の一方を私と呼んだだけ。対、連鎖性がないときは私もない。

それにしても、今日は寒い朝

No.3140 - 2011/01/07(Fri) 10:54:11

Re: 真我、仏性 / ubik0101
はじめまして

>それがある、とみなしていると、他の人が眠っているのか死んでいるのか、こちらの思いが急変するとき、他の人の真我、仏性がどうなっているのか処理をする必要が生じます。
>それで、その一環として、真我、仏性、の呼び名を変えて、魂などと唱えるのでしょうか。


どなたかの質問に、ここで言う自己は、真我、と呼べるでしょう、と答えたことがあります。けど。たとえば「犬に仏性はありますか?」とかの文書を引用して、それに含まれてる言葉でなければ・・・つまりubik0101の意見、主張として、仏性、魂、とか言ったことはないです。また、ほかの人の真我とかが、どうなってるかの処理する必要が生じたことは、全然ありません。

>人からバカにされて、私をバカにしたと怒るときには、バカにしたとみなす認識と、それと一緒になって、抵抗し拒絶する動きが対になって、連鎖的に動く思考があるということでしょう。対、連鎖性の一方を私と呼んだだけ。対、連鎖性がないときは私もない。

たとえば日常では、なにかが・・・たとえば思考の連鎖・・・が、機能、してることを、ある、と呼ぶのでしょう。けれど。もしかして、その思考の連鎖が、ない、というのも・・・ある、ないという対の、連鎖かもしれません。

というのは。私は、ある、ならば・・・思考の連鎖があっても、思考の連鎖がなくても、私は、ある、ではないでしょうか。たとえばテレビを見て、思考の連鎖を忘れてて、私を自覚できなくても、私は、ある、ではないでしょうか。それくらい、私はある・・・それを自我と呼ぶとして・・・その根は深いのではないでしょうか。

そうでなく、私は、ない、ならば・・・たとえば思考が連鎖しても、連鎖がなくても、私は、ない、ではないでしょうか。そうでなくて。あるとき私は、あったり、あるとき私は、なかったり、するのでしょうか。また。私がなければ、ずーと思考の連鎖がない、ということなのでしょうか。くり返しですが、思考の連鎖がなければ、ずーと私は、ない、ということでしょうか。

さらに・・・対、だけが思考の連鎖なのか?また、思考だけでなく、感情や知覚は行動は、ここで言ってる、私は、ある、に関係しないのか?また、わたしが、ある、にしても、ない、にしても、それが、どう機能してるのか。その意味は何か?もしかして、私だろうが何だろうが、あるのでもないのでもない、のではないだろうか?ということも疑問になると思います。

>それにしても、今日は寒い朝

No.3141 - 2011/01/07(Fri) 16:30:22
パイクッキー / suho
カバヤのカレームシリーズ。
パイとクッキーの出会い「パイクッキー」。
ほのかな期待のもと食べてみましたが。。
これは微妙〜。
たぶん開発者は違うと思われ。。
あけましておめでとうございます。

No.3135 - 2011/01/03(Mon) 12:02:34

Re: パイクッキー / ubik0101&hato
では。というわけで、花ゆずの実を砂糖と煮て、ジャムにしてみました。ほんのり苦く酸っぱく甘く、なかなか、です。

これから四つ葉の苦労婆からイチゴが、たくさん貰える予定なので、それもジャムにします。冷凍庫に保存すると、あまり砂糖を使わなくても、長持ちするそうです。

今年もよろしく、です。

No.3136 - 2011/01/03(Mon) 15:32:05

Re: パイクッキー / suho
> では。というわけで、花ゆずの実を砂糖と煮て、ジャムにしてみました。ほんのり苦く酸っぱく甘く、なかなか、です。

うーん。そそられます。。
ふわりとした香りがお部屋に充満してそう。。

> これから四つ葉の苦労婆からイチゴが、たくさん貰える予定なので、それもジャムにします。冷凍庫に保存すると、あまり砂糖を使わなくても、長持ちするそうです。

そうなんですね。
そういえば、昔母親もいちごじゃむを作ってましたっけ。
でっかいガラス製の瓶で。めっちゃ甘かったですが。
料理のセンスはイマイチでしたが、とりあえず手作りチャレンジャーの母親でした。
トーストに、ごろごろしたいちごをすりつぶすように伸ばして食べてましたね。

> 今年もよろしく、です。

こちらこそ、よろしくお願いします。

ハトさんの写真に負けないよう今年は写真いっぱい撮ろうかなと思ってます(笑

No.3137 - 2011/01/03(Mon) 18:10:23

Re: パイクッキー / hato

> ハトさんの写真に負けないよう今年は写真いっぱい撮ろうかなと思ってます(笑


いつも、ありがとうございます。そう、suhoさんは写真よく撮られるのでしたね。素敵な画像です。

ubik0101さんもわたしもshopping好きで、(というか、見て歩くのがすき〜)とくに「百均」(百円ショップ)はお手のものです。静岡でも3店制覇しました。

こんな、可愛い、手袋。たまりません。

No.3139 - 2011/01/03(Mon) 20:56:16
ありがとう / peer
他のトコロの記事の流用なんすが。

トモダチとか知人とかの悩みの相談を受ける事があります。
で、ウンウン、なるほど、どうなったの、それでどうしたいの?
みたいに聴いている。

なかなか、大変だなぁ。。

などと、思いながら、、、

時間をおいて
全体像を把握しようと、相手の話を反芻しているうちに
オヤオヤ、これは、私の問題だった。
と気づく事があります。

わたしの解決しきれていない問題が、相手の存在を通して
今、この瞬間を使って、わたしに直面してきたのだ。と。

まったく世界は、わたしのために、このような状況を
わざわざ作って、姿を現してくれている。
そんなふうに、直接の形でなく、間接的に触れようとする。
そんな世界の姿が・・・あります、ね。

わたしたちは、世界を、勝手に「こういうもの」と決めているけれど。

本当は
どんなに世界は人間を育てようとしてくれているか。
そこに思い当たる、、、日常の様々な事実とか現実とかいうものには
別の大いなる視点(もくろみ?)があって、

ときどきフイに、気づけよ。そろそろ気付けよ。と言われている。
気付けば、ただ、物語がひとつ、終りになるだけなんだけど。

お正月は・・・京都旅行して来ます。
では、皆様よいお年を。

No.3129 - 2010/12/31(Fri) 03:34:59

Re: ありがとう / hato

> 本当は
> どんなに世界は人間を育てようとしてくれているか。
> そこに思い当たる、、、日常の様々な事実とか現実とかいうものには
> 別の大いなる視点(もくろみ?)があって、
>
> ときどきフイに、気づけよ。そろそろ気付けよ。と言われている。


世界は、それぞれの人にとって、必ず調度よく学び取ることができることが驚異的です。自分にとり、世界の有り様は、関係性を映し出すというよりは、折々に自己智を引き出してくれる場として幸いです。その意味で多くのことがあり、多くのことが幸いです。

> お正月は・・・京都旅行して来ます。
> では、皆様よいお年を。


京都いいですね。ふたりより、どうぞよい旅を。
こちらは母が来て、初めての静岡での年越しです。

No.3130 - 2010/12/31(Fri) 17:54:31

Re: ありがとう / peer
↑おおっ。
なにもかも、カワイイです。
hatoさんのセンスですか。テーブルクロスとスリッパ。

京都は、こんな感じ。
大みそかに雪が降るって、珍しいらしい。です。

No.3133 - 2011/01/03(Mon) 05:37:47

Re: ありがとう / hato

> ↑おおっ。
> なにもかも、カワイイです。
> hatoさんのセンスですか。テーブルクロスとスリッパ。


スリッパは、スーパーの片隅で見つけて一緒に盛り上がりました。念のため、hatoちゃんに負けず劣らずubik0101花柄好きです。かわいいの、とてもすきなんです。

母の仕事の関係で、我が家にはなかなか素敵なファブリックがやってくるので、テーブルクロスにしたり・・・楽しんでます。


> 京都は、こんな感じ。
> 大みそかに雪が降るって、珍しいらしい。です。



お帰りなさい。。
大変素敵な画像。寒い京都、雰囲気が伝わります。今年のお正月は、あちこちに雪が、降りました。

神奈川のアパートから持ってきた山椒の鉢に、いつのまにかふたつ生えてきた、なにかの苗です。山椒は庭に植えて、こちらは我が家の玄関先に、ちょこん、としてます。

No.3138 - 2011/01/03(Mon) 20:41:44
(No Subject) / 雄大
世界とその中で生きる身体の前提が疑う事のない確信であるならば浸透するもの、超えているものなど理解は不可能である。

始めに世界と私に分割しておいて1つにしようとしているのだろうか。

理解と言っても思考の結論が作り出した一時的な停止なら、それは再び動き出し何度も結論しなければならないだろう。

それは怒りも葛藤も排除しない。
何が正しいのかどうあるべきかという古いマインドから抵抗が生じるのではないだろうか。

何も知らない謙虚さのある観察が真の姿が顕れる助けとなる。
無選択の気づき、無判断の気づき、無抵抗の気づきが連想ゲームが作り出す夢の世界を浄化するだろう。

無いものを獲得するのではない、あるものに気がつくのだから難しさや、困難さを訴える者は世界の中に消えさり世界も消える、しかしそれは消える以前と何も変わらず観察するものとされるものとしてあった世界を写し出し続けるのだ。

ある権威を受け入れるのは同じ物が欲しい1つの身体に同一化した観察者があるからではないだろうか。

名前と形が世界を創り出し私に快楽と恐怖という飴と鞭で観察の焦点を制限し、私という特定の角度の観察される運動習慣を作り出すのだ。

ある前提は誰に帰属するのかよく観察してみる、理解はどうでも良い、何故ならそれは役に立たないから。

言葉はあなたの中で響いているのか。

No.3075 - 2010/12/17(Fri) 13:16:46

Re: / 夜の虎
> ある前提は誰に帰属するのかよく観察してみる、理解はどうでも良い、何故ならそれは役に立たないから。
>
> 言葉はあなたの中で響いているのか。


雄大さんの書かれていることは、ほとんど理解できないのですが、非常に重要なかつ意味のある何かを感じます。
ただ残念ながら手のつけようがありません。
理解が役に立たないのならば、何ができるのか?
ここで言われる観察とは一体?

No.3076 - 2010/12/17(Fri) 15:58:52

Re: / 雄大
名付ける事で、レッテルを貼る事で形と名前に分割する。

1つが3つに分割される。
対象、観察行為、観察者である。

体験の1つ1つに固有の体験者がいると錯覚している。
だから固有の体験者が連続する私を創り出す。

私達は、葛藤を憎悪を不安を孤独をそう名付ける事無くそれらと供に留まる事が出来るでしょうか?

イギリスで教育を受けたクリシュナムルティはギリシャの時代から分割手法を持つ民族の習慣を持つ人々、ジグムントフロイドを生み出した西洋人に、まず分析する演技をしながら欠伸が移る様に共感を、感応をさせながらその入り口まで連れて行く、聞き手が我に返るとそれは体験へと変貌させたのだろうと思います。

何故体験が重要になるのでしょう?それは1つの身体というハードに心というソフトが乗っている世界の見方があるからもしれません。

1つの身体に恐怖と快楽を生み出す他の断片が付随しているのではないでしょうか。

誰かが語っている事は何か特定の身体に帰属するようなことであったとすれば、それはくだらないガラクタなのではないでしょうか。

そして獲得したものは手放さなければならないのではないでしょうか。

ある日ある時悟りを得て、その瞬間から全てが変わったとしても、見た目には生活の仕方は変わらないのだろうと思われます。

ある特定の身体を生みだしたカルマが作用している間は物理的身体は制限を受けざるを得ないでしょうから。

お湯が徐々に冷めていくいくように気付きがカルマの作用を薄めていくでしょう。

寺の中で瞑想しながらではなく社会で義務を果たしながらカルマが浄化されていく。

カルマはある人を気付かせるためのスパイスなのだから。
だから出来事に気をとられて名付ける事に忙しく,分析する事に心を奪われてはならないのではないでしょうか。
それでなければ10年たっても同じ事を続けているあなた達が見えると。

こんなふうに、ある板でおおよそ5年以上前にも同じ事を書きました。

しかし実際は特定の身体の世界観がなければカルマなどと取り立てて問題化される事はなくなります。

意味がなくなりますから。

No.3080 - 2010/12/19(Sun) 15:39:29

狙う焦点が異なる / 雄大
意識の内容に関わらない、

葛藤、憎悪、悲しみなどと名付けない

直視しない、が避けるわけではない

陰を観る、裏を観る、ずらす、抽象化した角度を超える

そして意識の内容には関わらない。

どうしたら?では相対化から抜け出せない、しかし満足する答えを得ることが出来るだろう、だから相対化から抜け出せない。

しかし既に完成されているなかで小さな世界にだけ焦点を合せている習慣、1つの見方が心地よいのだ。

基盤に帰属する快楽と恐怖は予想以上に観点の運動をより狭く条件付ける。

No.3100 - 2010/12/24(Fri) 00:22:57

Re: / 夜の虎
雄大さんが狙う焦点とは何処ですか?
No.3103 - 2010/12/24(Fri) 14:52:45

Re: / 雄大
> 雄大さんが狙う焦点とは何処ですか?

認識可能な対象全てを除く処

今此処とその時其処に常にある連続ではない処

連続を錯覚と理解させる処

可能性の運動は何よりも小さい、しかし宇宙全体をも包み込む
認識対象に目を奪われていると時間と空間と供に消えるものと錯覚を起こす

No.3104 - 2010/12/24(Fri) 20:34:53

Re: / 夜の虎
雄大さん、ありがとうございます。
相変わらず難解ですね。
あるいは私が難しく考えすぎているのでしょうか?
前回のレスで一番とっつきやすいところは

> 認識可能な対象全てを除く処

ここの部分ですが、これは、「認識不可能な対象」と読むべきでしょうか?
それとも「認識不可能な何か」と読むべきでしょうか?

No.3110 - 2010/12/26(Sun) 00:06:08

Re: / 夜の虎
分りにくい書き方をしてしまいました。

>ここの部分ですが、これは、「認識不可能な対象」と読むべきでしょうか?
それとも「認識不可能な何か」と読むべきでしょうか?

ここの部分を

焦点を当てるべきところは、「認識不可能な対象」と読むべきか、「認識不可能な何か」とよむべきか
に改めます。

No.3111 - 2010/12/26(Sun) 00:38:44

Re: / 雄大
> 分りにくい書き方をしてしまいました。
>
> >ここの部分ですが、これは、「認識不可能な対象」と読むべきでしょうか?
> それとも「認識不可能な何か」と読むべきでしょうか?
>
> ここの部分を
>
> 焦点を当てるべきところは、「認識不可能な対象」と読むべきか、「認識不可能な何か」とよむべきか
> に改めます。


認識可能な対象であっても、何かであってもどちらでもかまいません。

「認識可能な対象全てを除く」を認識不可能な対象、認識不可能な何かと読み換えはしません。

思考の領域に入れるのではなく分からないながら試してみてはどうでしょうか?

それは直接知覚不可能だからです。
しかし工夫するなら、認識可能なものを利用するとしたならより繊細な抽象的な感覚を利用するのです。

視覚より聴覚、聴覚より触覚を利用した方が良いでしょう。
思考を見守る、これはとても有用ですが、より醒めてくると感情,身体感覚、さらに繊細な何かへと焦点を移しますが、

1つではなく3点を繋ぐとかをやってみます。
でもこう書くと何か技術的に見えてしまいますね。

だから認識対象全てを否定していくという前提でありながら、とても矛盾したことを求めています。

まあ1人の狂った人の独り言でも捉えておいて下さいませんか。

言葉はそれ自体矛盾、2元性を含むものですから。
少し年末で忙しいので乱筆になりましたが今からまた仕事なので失礼します。

No.3120 - 2010/12/27(Mon) 19:09:48

運動 / 雄大
時計の針が動いている、そういう運動は私が言う運動ではない。

それらは変化していくが私が言う運動ではない。

心の変化も同様である。
認識対象は変化していくが、空間の中で物体が運動するとか、時間の中でイメージが変化していくとかそれら全てが私が言う運動ではない。

拡散し収縮する運動は対象が独立した実体を持つとの世界観からは理解不能だろう。

対象とは無関係に運動しているからだ。逆に対象は影響を受ける、それがなければ世界も私も現れる事無く認識不可能だからだ。

No.3125 - 2010/12/28(Tue) 23:35:00

Re: / 夜の虎
雄大さん ありがとうございます。

しかし難解ですね。
何度か読み直しては見たのですが、よく分りません。

>それは直接知覚不可能だからです。

これは、「それ」なるものが主体だからでしょうか?
直接知覚不能ならば、どのようにして知覚しますか?

No.3126 - 2010/12/30(Thu) 20:03:59

メモ / 雄大
体験があなたを変えると思われますか?

神秘体験をした者がいる。

1.それは思い出されるものだろうか?


2.もしそうなら、その体験は視覚によるものなのか
聴覚によるものなのか、臭覚によるものなのか、触覚によるものなのか?

あるいはそれらの一部、または全ての組み合わせによるものナなのか?

3。その時其処の観察する者は今此処の観察する者と異なるのか?

体験は様々に言語化し得るが、観察される対象はそれらを観察する者だ。

物理的、空間的身体と、時間的精神への拡がりの周辺は描写可能だが、その反対は如何描写できるのだろうか。

4、または持続する神秘体験ならば、やはり何を通じて経験しているのだろうか。

5、認識可能な対象全てを否定するとき純粋なより小さな一点が示される、しかしそれは入り口なのだ。

6、音霊の法などで注意を一点に縛るのは、操作不可能な別のものを動かすためなのだからあらゆる瞑想は方便であり入り口に過ぎない。

ただ出来事の分析をやるよりはより効果がある、しかし本来分析と瞑想は車の両輪のごとく用いられるべきものだ。

ただそれらは薬のようなものなので素人が気まぐれにやるので副作用も出るというものだ。

しかしその副作用はもともと隠れていたものに過ぎないのだが。

限られた身体が無限のものを感覚器官を通じて、または身体全体としても直接捉えることは出来るのだろうか。

7、名前や形に付随する権威に騙され搾取されるのは、体験を要求しているからなのだ。

あらゆる体験を否定する、過去や未来へ拡がる時間的身体と世界の中の私を位置づける空間的身体は偽りの境界、慣れ親しんだ慣習的観方なのだ。

視点を逆転さてあらゆる基盤を見つけるのだ、それが入り口だ、ただそれはスタート地点にしか過ぎないのだが。

状況分析は好きなだけ答えを見つけることが出来るだろう、しかし
中心へ何かを付け加え続けるだけなのだ。

それはその人自身が一番知っている、何も変わっていないことを。

紙一重、直ぐ側の何かに気付いた時、質問の仕方そのものが変わるだろう、それがより端的なその人の姿なのだ。

No.3127 - 2010/12/30(Thu) 20:15:40

Re: / 夜の虎
雄大さん ありがとうございます。
またしてもほとんど理解できませんが、なんとなく雄大さんが言われることの輪郭が曖昧ではありますが、形になってきたような気がします。
色々教えていただきありがとうございました。
今年もよろしくお願いします。

あとウビキさん、ハトさん、去年は色々とありがとうございました。
今年もよろしくお願いしますね。

No.3132 - 2011/01/01(Sat) 22:16:56
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