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謹賀新年 / ubik0101&hato
新年明けましておめでとうございます。

2011年が皆様にとって、素晴らしい年となりますように。

本年もどうぞよろしくお願い致します。

ubik0101&hato

No.3131 - 2011/01/01(Sat) 21:44:51
不可逆・より / peer
>或いは、適宜でない場合は、その言葉以外に
>考え及ばない程度のその人、であるかも知れません。


こんばんは〜
まっ。私の場合は、バカでもなんでも
言われても思われても、あまり気にならないです。
「あー、そうかもね」と思うし。

そうしていたら「他者に関心がない・愛がない」
と・・・指摘されてまた「そうかも」と思ったり。
自由・こだわらない・淡白・無関心・・・その先は
他者がどうであってもいい。のでしょう?
になるらしいです。

ただ、「バカだねぇ」は相手を下に置きたがり
自分を上にして依存させようとするエゴ。
と見えてしまう・・・のです。スキッとしてない。
それを隠すために「おどけて見せる」のだろうかな〜と。
人の心は、何重かの構造を作り、自衛するようです。
それに付き合って、一緒におどけてもいいのだけれど。

花ゆずと、プリペット・・・お写真、お待ちしています♪

No.3101 - 2010/12/24(Fri) 04:11:44

Re: 不可逆・より / hato

こんばんは〜。

> そうしていたら「他者に関心がない・愛がない」
> と・・・指摘されてまた「そうかも」と思ったり。
> 自由・こだわらない・淡白・無関心・・・その先は
> 他者がどうであってもいい。のでしょう?
> になるらしいです。


peerさんは、掲示板での文章の柔らかい雰囲気と、実際お会いしたときに受ける印象、けっこう違って面白いのよね。

そういえば、同僚の女性から、「親しみ感があるのに、取り付く島がないのがわからない、不思議〜、なんだろうな〜」と飲み会のあとで、ほんとに頭を傾げてそう言われたことがありました。なんか、寂しくなったり可笑しかったけれど、そのときはわからなかったけど、たぶん、依存する気もさせる気も、全くないことがそんな風に映るのかも知れません。


> ただ、「バカだねぇ」は相手を下に置きたがり
> 自分を上にして依存させようとするエゴ。
> と見えてしまう・・・のです。スキッとしてない。
> それを隠すために「おどけて見せる」のだろうかな〜と。
> 人の心は、何重かの構造を作り、自衛するようです。
> それに付き合って、一緒におどけてもいいのだけれど。



面倒でしょうけど、peerさんらしくいけばいいのでは、と思いますね。

その相手はそのようかも知れないですし。ただ、言葉は言葉としてあるだけですから、その人が使った場合にそのようになる、(かも)、ということですね。そうね〜・・・動じなさそうなpeerさんに威圧感を感じているとか・・なにか打破したいとか・・当人はそれほど意味なく使ってるとか・・実は仲良くしたいとか・・・わかりませんけど。

言葉は言葉、ですよ。それは、あれこれ事態と関係なくあります。

プリペットです。背景に溶け込んでしまいましたが、常緑で、大変いい感じの小さな葉がたくさんついてます。

No.3105 - 2010/12/25(Sat) 00:16:01

Re: 不可逆・より / hato

世界の仕組み・・・あのレンゲと紅葉のように・・・まったく明らかながら、機がくるまでは、きちんと隠されています。明らかなのに、見えないのです。
そして尚、ただ、不思議は不可思議です。


やがて

いつかレンゲの花が可憐に咲き乱れると

やってくるんです

それが。


さあ!
時がきた!
常がきた!
解け!

さあ、解くのだ!

誰かでない、自身を解くのだ!


花ゆず。
クリスマス・イブに植樹した、とっておきのツリーです。

No.3106 - 2010/12/25(Sat) 00:33:07

Re: 不可逆・より / peer
>peerさんは、掲示板での文章の柔らかい雰囲気と、
>実際お会いしたときに受ける印象、けっこう違って面白いのよね。


どうも〜相手をする人・場によって、変わるみたいです。
え〜と。わりと、人見知りです。テレヤです。
あっ、それに。日々、変化してます。

>そういえば、同僚の女性から、「親しみ感があるのに、取り付く島が
>ないのがわからない、不思議〜、なんだろうな〜」と。
>たぶん、依存する気もさせる気も、全くないことがそんな風に
>映るのかも知れません。


うん。近い。
学生時代に「手を離したら、どこへ飛んでいくかわからない風船」
みたいだと言われましたね。友達に。

>言葉は言葉、ですよ。それは、あれこれ事態と関係なくあります。

そう。心もコロコロと移り変わって定まらない。
面白いのは「心」という文字。
どの辺も他の辺に触れていないんですね。バラバラ。

世界の仕組み・・・ねぇ。考えないと、知っているような気がします。
すべてが、あるように、あるがままに。あるべく、ある。

考えると、わからなくなる。急に恐怖や不安がやってくる。

あら、ホント。プリペットさん・・・どこに? みたいな。
花ゆずさん。。綺麗な。クリスマスツリー。
ふたつとも、足元がカワイイです。愛されているなぁという感じ。

No.3107 - 2010/12/25(Sat) 03:05:06

Re: 不可逆・より / hato
> え〜と。わりと、人見知りです。テレヤです。
> あっ、それに。日々、変化してます。



うふふふ。ナルホド。了解。。


> 世界の仕組み・・・ねぇ。考えないと、知っているような気がします。


ほんとですね。そんなとこありそうです。

そうですね・・・不可 思議。

といっても、やはり人は、言葉と思考でもって、そのことを明晰にしておく必要がありますね。そうでなければ、どこか不明不穏に、飛んで行ってしまいます。この意味で、状態を得た後の理解の隙間とは危ういものです。出だしはよくても、行き着くところが不穏に為りかねません。人は、それぞれの道筋でとても素敵です。そして尚、注意深い必要があるでしょう。

どういうことか。


理解する、とは、余計に思考を付随させたり、固定、記憶しておくことでは、ないのです。本当にそのことを理解されているとき、それは中途半端な知識になることがありません。理を解する、意義です。余すところなく理解されたとき、そこに空想の余地はありません。正しく理解されていない、すなわち、失われないことによって、意識は体験と内容を不適切に用いることになり、人は道を逸れるのです。もしくは、おかしなことを言うことになります。

空想は多くこれに加担しますが、空想以前に、人がそれまで持ち合わせた嗜好、性質、さらに言葉の使い方、機微が、不穏に導くことは非常に多いのです。言葉と思考とは本来、甘く扱えないものでもあります。

「その体験を余すところなく理解されることによって、」この日常を、それとして生きることができます。それであることによって、日常とは不可 思議ながら、その知恵は必要なときに使うことができるのです。


> あら、ホント。プリペットさん・・・どこに? みたいな。
> 花ゆずさん。。綺麗な。クリスマスツリー。
> ふたつとも、足元がカワイイです。愛されているなぁという感じ。



どこに?・・てなんか、かわいい。庭づくりは、ubik0101さんが日々大ハッスルですが、一緒に土を入れて作業しました。ほかにも、球根を毎日たくさん植えてくれているので、春がとても楽しみです。

神奈川のアパート近くで、ubik0101さんが見つけたどんぐりの苗を持ってきました。そのうちのひとつです。

No.3112 - 2010/12/26(Sun) 00:58:36

Re: 不可逆・より / peer
>といっても、やはり人は、言葉と思考でもって、そのことを
>明晰にしておく必要がありますね。そうでなければ、
>どこか不明不穏に、飛んで行ってしまいます。


オシャカサマは悟りを得たあと、これは誰も理解できない
だろうと思ったそうですね。
で、仲間に語ってみたら、ひとり、理解したそうで。
この、ひとりが悟ったことで、さらに確信を得た。
そんなことがあるようです。
ひとは鏡。ということのひとつ・・・かなぁ。

春が楽しみですね。ほんとに。
それは、もうすでに、心の中に春を見ているから。
可能性へのほのかな予感。

No.3119 - 2010/12/27(Mon) 18:54:33

Re: 不可逆・より / hato
> 春が楽しみですね。ほんとに。
> それは、もうすでに、心の中に春を見ているから。
> 可能性へのほのかな予感。


どうもありがとう。
ほんとうに、春は。
切ないながら、ほのかにときめく季節です。

No.3128 - 2010/12/30(Thu) 23:47:34
世界の機能パート5 / ubik0101
すこし振り返ります。自己が、自己であって、自己を知覚する必要がない、この日常では。おなじように自我も、知覚にとって、ない、です。ここで機能してるのは、眼や耳と、とその対象。そして意識と、その対象だけ、仏陀の言う「一切(いっさい)」です。

これは自我もなければ無我もなく、どいうわけか、そう意識するまでもなく、また意識しても、とくに変わりませんが、とくに理由がない楽・・・平穏・・・です。ここで、たとえば、いわゆる心理的思考、葛藤によって波風を起こして、その騒がしさで、自分で自分を知覚しようとすることが、自我の機能、だということが理解されます。

そんな自我は、ない、の騒がしい活動で、ない、が、ない、を知ろうとしてる、ということでもあります。それで。その、ない、自我は・・・なんであれ物質や感覚や感情や思考に関わる・・・いまここ・・・に、ない、もの、こと、を・・・たとえば素敵な車や名誉や体験や恋人がない、だから、それを望む、そんな特質があります。

なにか執着と言えば、ある、ことに執着すると、思われるかもしれません。でも実際は、まったく疑う余地もなくあることには執着も不要です。ない自我が、ない、もの、ことに執着してて、そこから安定を求めるとかの混乱した演繹があって、あると思われることは失いたくない、という空想があるのではないでしょうか。

続きます。

No.3116 - 2010/12/26(Sun) 21:53:41

Re: 世界の機能パート5 / ubik0101
そして、 なにかに依存できないということは、その。なにかが、ない、と・・・たとえば感情が、ない、思考が、ない・・・素敵な自動車が名誉が体験が恋人が、ない・・・だから執着が、ない、という空想がされるかもしれません。

でも見る聞くという知覚が、感情が、意識が機能しながら、それに依存できません。というのが実際です。でも、この世界に生きていながら、この世界に依存できません。ということは。これは変ではないでしょうか。

と、いうのは説明としては、それが滞りなく機能してることが、執着がないということでもあるのですが・・・ なにかを食べたり呼吸することによって、生きてるのですから、それに依存しないって、変ではないでしょうか。

けど。自我は、ない、が、ない、に依存してたのです。その自我の完成による、依存からの解放は、なにかが、ある、それに依存しないということは、言ってみれば最強の無依存です。そのように世界はできてるのではないでしょうか。そして、依存しないならば、なにかが、あっても、なくても、それに執着しない、ではないでしょうか。

つまり、依存しないことを学ぶには、この、ある、ない、が最適で。 そんな機能が世界に働いてる、と思います。

No.3117 - 2010/12/26(Sun) 22:01:01

Re: 世界の機能パート5 / suho
> そんな自我は、ない、の騒がしい活動で、ない、が、ない、を知ろうとしてる、ということでもあります。それで。その、ない、自我は・・・なんであれ物質や感覚や感情や思考に関わる・・・いまここ・・・に、ない、もの、こと、を・・・たとえば素敵な車や名誉や体験や恋人がない、だから、それを望む、そんな特質があります。

いま、ここで実際にはないもの。空想。空想の中で空想を望む機能、ということでしょうか。

> なにか執着と言えば、ある、ことに執着すると、思われるかもしれません。でも実際は、まったく疑う余地もなくあることには執着も不要です。

これこそ、このことに関心のある人たちが望んでいることですね。執着を断ちたいと。

>ない自我が、ない、もの、ことに執着してて、そこから安定を求めるとかの混乱した演繹があって、あると思われることは失いたくない、という空想があるのではないでしょうか。

はい。ないもの(空想)の中での葛藤、混乱。

> そして、 なにかに依存できないということは、その。なにかが、ない、と・・・たとえば感情が、ない、思考が、ない・・・素敵な自動車が名誉が体験が恋人が、ない・・・だから執着が、ない、という空想がされるかもしれません。

特に執着するもの、空想がないから執着がないと思っている状態。けれど、たまたまその対象が無い、あるいは「執着が無い」という観念に同化することで錯覚している状態もありうるということでしょうか?
執着する機能自体は残っているかもしれない、ということでしょうか?
例えば「執着が無い。無我」である、ということに中心を持ち、そうでないものに反応するという場合もありうる。

> でも見る聞くという知覚が、感情が、意識が機能しながら、それに依存できません。というのが実際です。でも、この世界に生きていながら、この世界に依存できません。ということは。これは変ではないでしょうか。

ここでいう「依存」とはどういう意味でしょうか?
ある知覚にとらわれて、他の知覚が見えていない状態でも、実はそれとは無関係に刻々と知覚が機能している、とい意味で「依存(同化)」は空想である、という意味でしょうか?

> と、いうのは説明としては、それが滞りなく機能してることが、執着がないということでもあるのですが・・・ なにかを食べたり呼吸することによって、生きてるのですから、それに依存しないって、変ではないでしょうか。

現象の物理的な関係性としては依存というか、因果として理解することはできるけれども、その現象の一切自体は、空想とは無関係につつがなく流れている、という意味でしょうか?

> けど。自我は、ない、が、ない、に依存してたのです。その自我の完成による、依存からの解放は、なにかが、ある、それに依存しないということは、言ってみれば最強の無依存です。そのように世界はできてるのではないでしょうか。そして、依存しないならば、なにかが、あっても、なくても、それに執着しない、ではないでしょうか。

自我という空想と、その執着の対象という空想。空想同士の運動であることが理解されることを自我の完成というのでしょうか?依存、執着という空想が消え(抵抗、浪費が消え)、もともと生きるように、空想とは無関係に機能していた日常が、あらわになる、という意味でしょうか?
もともとそうであったと。

> つまり、依存しないことを学ぶには、この、ある、ない、が最適で。 そんな機能が世界に働いてる、と思います。

もともと空想であり、ない、自我を、ある、と錯覚している状態から、それが、ない、を理解することで、もともと依存や執着が、ない、ということを理解できる。
そのような、理解のために自我が機能している、という意味でしょうか?

No.3118 - 2010/12/27(Mon) 13:35:06

Re: 世界の機能パート5 / ubik0101
>いま、ここで実際にはないもの。空想。空想の中で空想を望む機能、ということでしょうか。

そんな表現もあり、と思います。いま、ここに、実際にはない、もの、こと・・・それは、どこかには、ある、だろう、として明確に、あるいは漠然と、空想される、もの、こと、です。おそらく、そいうことは、人が自分を中心として眺めた、狭い範囲の世界・・・空想の世界・・・で可能になってるようです。

> これこそ、このことに関心のある人たちが望んでいることですね。執着を断ちたいと。

たぶん欲望は、これを獲得したら、次、あれを獲得したら、次・・・ずーと求め続けないと満たされない・・・という衝動の現れだと思います。そうしてれば、その自分を自覚できる気がするので、いつも新しい刺激が欲しいということかもしれません。

そのことは、わたしは、ある。ということが、影のように欲望として現れてるのかもしれません。そんな欲望の完成は、わたしは、ある。自我の完成は、わたしは、ない。この、あるない、どちらも知覚の範疇にはありません。ここで言う、無我は、この、あるない、どちらの意味も含みます。

> 特に執着するもの、空想がないから執着がないと思っている状態。けれど、たまたまその対象が無い、あるいは「執着が無い」という観念に同化することで錯覚している状態もありうるということでしょうか?

そんな表現もあり、と思います。ただ、ここで言ってるのは単純な話です。なにか、ある、もの、ことに執着してると見なすならば・・・執着する対象が、ない、なら、執着する主体も、ない、という空想に囚われる、ということです。そんな状態なら、「空想がないから執着がない」、「執着が無いという観念に同化する 」も、可能に思えるかも知れません。でも、どちらも実際は、不可能だと思います。

それでも。たとえば・・・自分の中の・・・空想の誰かに・・・自分は無執着だと見せかけることで、それが実現されてると、思い違いすることはできるでしょう。それは欲望を自分に隠す、自分を騙すことですが、そうできた、と思って一生を過ごすことはできるかもしれません。でも、 それでは無意識の愚かな操作を要し、辛いでしょう。

続きます。

No.3121 - 2010/12/27(Mon) 21:10:57

Re: 世界の機能パート5 / ubik0101
>執着する機能自体は残っているかもしれない、ということでしょうか?
>例えば「執着が無い。無我」である、ということに中心を持ち、そうでないものに反応するという場合もありうる。


これは、自我がない、ことの体験後、あり得ます。ここでは残響のような自我とか、無我を張る、と呼んだことがあります。たとえば悟り体験そのことと、自分と。あるいは悟った自分と、そうでない人との分離をつくりだし、それに囚われてる状態です。

また、その体験で、善悪はない、ことも見て。その善悪がない・・・これは意識の範疇にないのですが・・・いつのまにか意識の範疇と思い違い・・・いわゆる思考からの善悪がないになって、倫理不要を標榜することがあります。やはり意識の範疇にないことは、意識の範疇にないと明確にすることは大切です。

> ここでいう「依存」とはどういう意味でしょうか?

なんだかの関係に留まってる、この世界の範疇にある、という意味です。それで、依存しない、ということは、解脱、です。しかし心理的なことを言ってるのではないです。とても誤解が忍び込みそうなので、あんまり言いたくはないのですが、離脱、に近いです。

それが、自己、の意味?本性?です。 ならば、この無限とも言える質量の世界、それが陽炎のようなこと、吹けば飛ぶような幽かなこととして、感じられます。これは理論的な表現では、これは、これでなくてもいいのに、これ。これは何?です。

>ある知覚にとらわれて、他の知覚が見えていない状態でも、実はそれとは無関係に刻々と知覚が機能している、とい意味で「依存(同化)」は空想である、という意味でしょうか?

そんな表現もあり、と思います。 なにか執着とかがあるということは。その状態に留まらさせられてるということで・・・それは、そいう自分の有り様を、良く見て、理解して、乗り越える(大雑把な言い方)ために・・・執着が機能します。そんな必要がなくなれば、滞りなく機能する、という意味です。

> 現象の物理的な関係性としては依存というか、因果として理解することはできるけれども、その現象の一切自体は、空想とは無関係につつがなく流れている、という意味でしょうか?

そんな表現もあり、と思います。けど、空想とは無関係に流れてるというのではなく・・・呼吸をするだけでも、呼吸を止めるだけでも、世界が変わる・・・と言ったりしますが、そんな・・・それは自覚できないのですが・・・主体性が生まれています。

続きます。

No.3122 - 2010/12/27(Mon) 21:22:56

Re: 世界の機能パート5 / ubik0101
>自我という空想と、その執着の対象という空想。空想同士の運動であることが理解されることを自我の完成というのでしょうか?依存、執着という空想が消え(抵抗、浪費が消え)、もともと生きるように、空想とは無関係に機能していた日常が、あらわになる、という意味でしょうか?
>もともとそうであったと。


もともと自我は、ない、かもしれませんが、その、ない、そのことを了解する。そんな自己・・・は、もともととは、とても思えません。けど、自我を通じて、の結果です。そして、自我は未完だから機能する、という意味を込めて・・・自我の完成と呼んでいます。自我の死、というのは、もともとないことが死ぬというのも表現としても変だと感じます。

>もともと空想であり、ない、自我を、ある、と錯覚している状態から、それが、ない、を理解することで、もともと依存や執着が、ない、ということを理解できる。
>そのような、理解のために自我が機能している、という意味でしょうか?


そんな表現もあり、と思います。ない、が、ある、として、それが依存の原因だった。それが了解されると日常、ある、もの、ことにも依存しない、それで、あまねく無依存が可能になります。そんな自己を育ててるのが世界の戦略のようです。

そんな世界は、それ自身が、それ自身の原因でも、完全な無原因でもない・・・あるのでも、ないのでもない・・・そのことによって、それが可能になってる、のだと思います。

たしかに、いろんな噛みごたえの変化が楽しいです。hatoさんも・・・おいしい、噛んだ最後が、いい・・・と言っています。 バタークッキーも、ついで買いしました。 どっちも178円でした。

No.3123 - 2010/12/27(Mon) 21:27:52

Re: 世界の機能パート5 / suho
> そんな表現もあり、と思います。ない、が、ある、として、それが依存の原因だった。それが了解されると日常、ある、もの、ことにも依存しない、それで、あまねく無依存が可能になります。そんな自己を育ててるのが世界の戦略のようです。

もしかして、ubiさんが表現する「自己」とは、精神のことを言っているのかな、と感じました。
精神、それ自体が無我であること(自性、実体がないこと)を理解しつつ、それでも精神がいまここにある、という実感のようなもの。
自己の機能である自我を通じて、自己が無我であることを知り、自己が世界であることを知り、しかも自己は自己であることを知ること。それを成長とubiさんは言っているのかなと。
このあたりは、まだ検討中です。

> そんな世界は、それ自身が、それ自身の原因でも、完全な無原因でもない・・・あるのでも、ないのでもない・・・そのことによって、それが可能になってる、のだと思います。

「ある」「ない」どちらか一方に収まらないと満足できない自我にとっては恐怖。それで「ある(確実なもの)」のみを求めて騒がしく運動する。しかしそれは事実を理解するための必然のプロセス。
確かに世界が「ある」だけではこの運動はそもそも起こらないですね。

> たしかに、いろんな噛みごたえの変化が楽しいです。hatoさんも・・・おいしい、噛んだ最後が、いい・・・と言っています。

お!ですよね!

>バタークッキーも、ついで買いしました。 どっちも178円でした。

うう。。先を越された。。
僕も今日買ってこよーっと。

ubiさんとのやりとりで、検討が進みました。
ありがとうございました。

No.3124 - 2010/12/28(Tue) 08:13:11
未知の推測3 / suho
> どうも、この先もありそうなんですが、人の限界のようです。この、それぞれの層の緯(よこいと)系・・・それは断続して機能するようです・・・の依存関係と。それぞれの層を貫く、経(たていと)系・・・それは静まれば透明になるようです・・・の依存関係の交点が、日常、です。

現象(緯糸)って、経糸の上から眺めたら、経糸を中心に同心円状にひろがっている曼荼羅のようだったりして。
そのコントラスト(知覚差異)の変化率が時間で、いろいろな物語を生み出し、また新たなコントラストを展開しているとか。
その中心(経糸の位置)が、曼荼羅界?で自我と名付けられ、空想されている位置だったりして。。そこに同化していると見えない位置。
そんなイメージが湧きました。
曼荼羅もまんざらでないかも。。

【追記】
上のイメージは、3次元空間を前提にしているわけで。
つまり、経糸の位置を中心に同心円状に展開している現象(曼荼羅)は平面的な扱いとなりますが、現象は実際3次元空間として生起しているので、これを基準に空間イメージを再構築すると、経糸方向は位置を持たなくなります。3次元上では無となる。
イメージ的には、3次元空間ベースでは、現象(曼荼羅)は2次元に凝縮されていますが、そこには3次元的日常が全部凝縮されているので経糸上部からは全部見えている状態です。
この2次元の曼荼羅を3次元に復活させると、経糸方向はそもそも現象全てを見ている位置ですので、3次元の曼荼羅を全部みることができる位置、つまり曼荼羅それ自体に浸透している位置になります。

No.3098 - 2010/12/23(Thu) 07:54:24

Re: 未知の推測3 / ubik0101
まあ経と緯の、そのスケールは見渡す限り異ならず、互いに浸透してる・・・ここに透明感、自由感、寛ぎ感があります。それと、この世界は解きほぐれつつある実在で・・・その解きほぐれかたが、時間かな、と妄想します。そんな経緯の全体の姿は、とても掴めず、漠としています。
No.3102 - 2010/12/24(Fri) 09:19:00

Re: 未知の推測3 / suho
昨日スーパーにいって、ふとめにとまったお菓子。
カバヤの「ざっくりクッキーチョコ」
http://www.kabaya.co.jp/okitem/car_zakkuri_c.html

「なんだ。カバヤか。。」と素通りしそうになったのですが、どこか後ろ髪ひかれる感じ。
安売りしてるしまあいいかと買ってみたのですが。。

ハートを軽く射抜かれました。

大きすぎず、小さすぎないちょうどよいサイズ。
しかしあなどれないクッキーの厚み。
ひと噛み目にとどろくザクッっとした歯ざわり。
アーモンドパウダー入りのクッキーが口の中で香ばしくとろけます。チョコはさほどでもないですが、全体のバランスを乱していない。
ざくっ、ざくっ、ざくっと噛みすすめるとそこは至福しかありませんの世界。
味噌汁の最後の一滴を飲み干したときに地の底から湧き上がるようなヴぁぁ〜という喜びとはちと違いますが。。

未知からの168円のクリスマスプレゼント^^
「満足の9袋」というフレーズは間違いなかった。。
カバヤさん。見直しました。
パッケージ側面にはこんなコピーが。。
「素を生かし、素を味わう」

食べるという現象は、なんとも未知なる幸せです。

No.3108 - 2010/12/25(Sat) 08:40:32

Re: 未知の推測3 / ubik0101
そいえば。カリッと噛むと、すっと空気のように舌に溶けて、とても優しい香りを食べてるように感じる・・・たまごボーロ・・・子供の頃の大好物でした。

それを去年、神奈川のスーパーで、見つけました。たぶん2種類あって、ひとつはいまいち、だった記憶があったけど、これは大当たり、まったく同じ印象、そうそう、これこれ。なんか日本も捨てたもんじゃないって、感じでした。

というわけで「ざっくりクッキーチョコ」のパッケージの写真を携帯で撮って出掛けたけど、hatoさんと地元の野菜中心の食べ放題に満足して、ホームセンターで安売りの花の球根を見たら買ってしまい、忘れてしまいました。

この片田舎でも、売ってるでしょう。そのうち見つかったら、投稿します。ところで、ルンルン、ノンノンも、キャラメル、リンゴ、ポテトチップ、煎餅とか大好きです。どうも味覚は、動物は共通のようです。

No.3109 - 2010/12/25(Sat) 19:05:28

Re: 未知の推測3 / suho
> そいえば。カリッと噛むと、すっと空気のように舌に溶けて、とても優しい香りを食べてるように感じる・・・たまごボーロ・・・子供の頃の大好物でした。

はいはいはい。
いい味出してましたねー。
ちょっと口の中がぱさぱさしてくるので牛乳を飲みながら食べたりしてました。

> それを去年、神奈川のスーパーで、見つけました。たぶん2種類あって、ひとつはいまいち、だった記憶があったけど、これは大当たり、まったく同じ印象、そうそう、これこれ。なんか日本も捨てたもんじゃないって、感じでした。

日本も捨てたモンじゃないです。
地味だけどちゃんとまじめに商品作りしているメーカーはありますね。ミスターイトウとかギンビスとか。。
あ、別に菓子マニアではないですけど。

> というわけで「ざっくりクッキーチョコ」のパッケージの写真を携帯で撮って出掛けたけど、hatoさんと地元の野菜中心の食べ放題に満足して、ホームセンターで安売りの花の球根を見たら買ってしまい、忘れてしまいました。
>
> この片田舎でも、売ってるでしょう。そのうち見つかったら、投稿します。


機会があったら、ぜひ^^

>ところで、ルンルン、ノンノンも、キャラメル、リンゴ、ポテトチップ、煎餅とか大好きです。どうも味覚は、動物は共通のようです。

そうなんですね。
そーいえば、小さいころ手乗り文鳥を飼っていたとき、確かにお菓子やジュースなど普通に一緒に食べてたのを思い出しました。なんで文鳥はまぶたが下についているのか不思議でしたねー。手でくるんで頬擦りしながら名前を呼んであげると全身を震わせながら「ククククっ」と喜ぶんですよね。
鳥ってすごく敏感なんだなあと思いました。
毎朝、餌の殻吹きをしていたのですが、時々目に入って痛かった。ああ、中学校のころですね。

No.3113 - 2010/12/26(Sun) 06:18:03

Re: 未知の推測3 / ubik0101
あなどれないのが、ポップコーン、あの香ばしい噛みしめ感・・・黒砂糖味も、バター味も秀逸です。九州には、チェリー豆という、ウニ味のそらまめ、とかありました。さくさくで、もちもちの、オールレーズンも、なかなかです。

そいえばノンノンが雛の頃、お湯でふやかした剥き粟を小さなスプーンで食べさせたのですが、お腹一杯になると、首を横に振って、もういらない、て仕草をしてました。あれ、人と同じだ、と思いました。

No.3115 - 2010/12/26(Sun) 21:45:45
未知の運動 / suho
>この世界は解きほぐれつつある実在で・・・その解きほぐれかたが、時間かな、と妄想します。

それは確かなと。
全てが、全ての錯覚の中心を解きほぐすための精妙な運動と思います。

No.3114 - 2010/12/26(Sun) 07:50:58
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