| それは、そう、であって、そう、であることには気がつかないというケースでもあるかもしれません。そうなら、たとえば因果を、なにかの幾何学の図形の意味を解くために描かれる(もともとは図形には描かれてない)補助線のようなこととして使って、見えないことが見えてくる、ということもありそうです。
まあ因果は、世界に描いた、補助線のようなことで、あくまで概念です。それは、もともとは図形に描かれてない空白に意図して描かないと、見えません。それが見えると言うことは、世界からは、ちょっと外れてる・・・対象化・・・そうしてる自分も世界から外れる。そんな見方を要します。それで、どうやっても因果は世界との整合性がありません。
まあ、極端に言えば、そんな判断とか、解釈とか、比較とか・・・葛藤、軋轢・・・騒がしいことばかり人はやってるとも言えるのです。 それで、それが静まっていく途中にあって、たとえば固定観念、既成概念、に埋もれてた因果の概念が明確になる、という捉え方もできます。ごつごつした大理石の塊を彫ると、青年ダビデが現れる。ざわざわ自我の騒がしい話し声が静まると、どこかで美しいせせらぎが聞こえてくる。ように、です。
で、そんな因果はそれはそれで機能し、とても実用になります。 とりあえず因果を理解したら、それを外に見ずに、因果=私。となります。この場合の私も、ちょっと世界と外れてますが、いわゆる無我に偏ってますが・・・ここで見ると、せせらぎの音は私、青年ダビデは私、世界は私、思考は私、見るものは見られるもの、私がなければ世界はない、とか。いろいろ表現はあるでしょう。
続きます。
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No.3209 - 2011/02/09(Wed) 09:54:21 |