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(No Subject) / suho
ウビさん、こんにちは。

世界、現象、運動の特質が「葛藤」そのものと仮定すると、今の世界のありよう、日常が全て説明できそうです。。
調和感、平安感という知覚は、純粋葛藤の香りと感じますが、ウビさんはどう感じられますか?

うちの息子が、まだ3歳のころ、
『パパ知ってる?スーパーで買い物してる人は実は自分で買い物してないんだよ。うしろに良い神様と悪い神様がいて喧嘩しながらどれを買うか決めてるんだよ』
と言っていたことが今になって理解できる感じがあります。

No.3029 - 2010/12/15(Wed) 12:49:05

Re: / ubik0101
まず葛藤なんですが、自分との、世界との、分離、ということは派生的なことで。その根には、人が自分を自分で確認したいという衝動があるように思います。それが、世界、現象、運動、の意味とも捉えられるかな。と思いました。

それで自ら起こす騒動に巻き込まれることによって、その興奮で、生きてる感じ・・・そこで自分で自分を自覚できると思い違いしてるのではないでしょうか。そんな争い興奮は、分離、によって起きるとして認識されもする、のではないでしょうか。

それで、みんなひとつなんだから、仲良くやろうね。という方向、姿勢も生まれるのでしょう。でも、それは、なかなか困難に思います。とりあえずかも知れませんが、どうも無理があり、解決に導かないように思います。

そうでなく。その根。自分が自分を自覚したいという衝動の解決が、分離だろうが、ひとつだろうが、関係なしに、つまりこの、ふつうの日常で調和感、平和感をもたらせるのではないでしょうか。

それで、自分が自分を自覚する衝動の必要が解決されたら、キルケゴールの言葉ですが・・・もう元の意味は忘れましたが・・・単独者・・・です。

それは、見方によっては分離のまま、孤独のまま、ことさらではない幸せ感に満ちて。それは「純粋葛藤」とも呼べそう、とは思いました。また、たとえば怒りになりきったら・・・そうでなくても、そうなんですが・・・怒りは持続できなくなる、ということもありそうです。

また、たとえば総ての光の色を重ねると透明になるように、 総ての意味を孕んで、それゆえ世界は無意味。なにかの色つまり、なにかの意味に執着しなくなったら、無意味、透明になることにも関係するかもしれません。とも思いました。

No.3033 - 2010/12/15(Wed) 16:23:42

Re: / suho
> まず葛藤なんですが、自分との、世界との、分離、ということは派生的なことで。その根には、人が自分を自分で確認したいという衝動があるように思います。それが、世界、現象、運動、の意味とも捉えられるかな。と思いました。

はい。未知が未知を確認したいという衝動とも同じかなと感じます。

> それで、みんなひとつなんだから、仲良くやろうね。という方向、姿勢も生まれるのでしょう。でも、それは、なかなか困難に思います。とりあえずかも知れませんが、どうも無理があり、解決に導かないように思います。

はい。まさにそれは無理と思います。
今の社会のありよう、運動が、素直にそれであるように感じます。

> そうでなく。その根。自分が自分を自覚したいという衝動の解決が、分離だろうが、ひとつだろうが、関係なしに、つまりこの、ふつうの日常で調和感、平和感をもたらせるのではないでしょうか。

未知の本質は「調和」なのかもしれませんが、現象は「運動」として顕れています。
一見、調和的な様相ですが、核融合による星の誕生、消滅があり、自然界の動植物でも様々な個体どうしの争い・変質(進化)があり、天候もさまざまに変化します。当然人間の活動も。この「運動」は止むことがなく、ある意味、常に「現象の変化」を促進している力と感じます。
人間は、本能的に調和を求め、苦を避けるようにできていますが、この性質自体が葛藤をを生じさせる基本プログラムであり、変化を推進するエネルギーを生みだしているようにも感じます。簡単に言えば現象の2元性でしょうか。
未知が未知を確認する条件が2元性のように感じます。

> それで、自分が自分を自覚する衝動の必要が解決されたら、キルケゴールの言葉ですが・・・もう元の意味は忘れましたが・・・単独者・・・です。
> それは、見方によっては分離のまま、孤独のまま、ことさらではない幸せ感に満ちて。それは「純粋葛藤」とも呼べそう、とは思いました。また、たとえば怒りになりきったら・・・そうでなくても、そうなんですが・・・怒りは持続できなくなる、ということもありそうです。


はい。単独者へ変質する人間もいますが、一方で、その反対の、欲望、混乱等、意識が収縮(錯覚)する方向へ変質する人間もいます。拡大と収縮の運動。
どうも人類全体で覚醒に向かう感じがしない。その両極の人間のエネルギーがまた全体的な葛藤のエネルギーを高めているように感じます。(それは、両種の人間個々が意識されるものではなく、全体のエネルギー運動として)

> また、たとえば総ての光の色を重ねると透明になるように、 総ての意味を孕んで、それゆえ世界は無意味。なにかの色つまり、なにかの意味に執着しなくなったら、無意味、透明になることにも関係するかもしれません。とも思いました。

葛藤は、それ自体が変質のプロセスであり、創造のプロセスとも言えそうで、全体的な葛藤が、純粋化、ピーク化すると、今の現象・宇宙のありよう自体が根本的に新しいものに変質するのではないか、という感じです。未知が未知の新しいポテンシャルを確認するために。
そのピーク点で「透明(無)」を経過するのかもしれません。
人間個体としての感覚は苦ですが、未知は創造の喜びに溢れているかもしれない。。
という妄想が湧きましたので、つい書いてしまいました。
ちょっとウビさんと関心の先が違うような気もしてきました。

<追記>
別の記事で盛り上がっているようですので、こちらのレスは気が向いたら、あるいはノーレスで全然構いませんです。

No.3036 - 2010/12/15(Wed) 18:42:28

Re: / ubik0101
なんだか楽しく話ができそうですが・・・もしかしてsuhoさんは、世界の総活動に関心があるのかな、と思いました。
No.3040 - 2010/12/15(Wed) 19:27:34

Re: / ubik0101
なにか対象を、ことさら対象化しなくなると・・・つまり、その対象にしてる主体、自分が自分を自覚しようとする必要がないと・・・あらとあらゆる・・・ただ知覚すること知覚されることが・・・つまり一切が・・・未知と感じられるようになります。

それで知覚されること・・・世界、現象、運動・・・は、未知なので、なにかそのほかに、未知があるというわけではないようです。たとえば身体とか知覚とか怒りとか不安、思考も、未知です。

すると疑問としては、これが、どうして、これなのか?と、なるでしょう。簡単に言えば、なぜ知覚は知覚なのか?なぜ怒りは怒りなのか?なぜ喜びは喜びなのか?ということではないでしょうか。

それをなにか、とある、ものこと、として・・・たとえば怒りや喜びや、なにかの思考・・・を世界から切り取ったと仮定して探る。と、二元性、相対とか、時間を要素に勘定すると因果とかによって、それは可能になってると、思えるようです。

それはそうで、二元性とか、相対とか、因果とかいうことは、たとえば怒りや喜びや、なにかの思考・・・を世界から切り取ったとして仮定して、原因とかを探る。ということだからです。

たとえば葛藤とか、軋轢とか、苦痛とかも・・・わたしは誰?・・・も、そのように、それを世界から仮に切り取ったとして、その原因を探ろうとする運動とも言えるでしょう。

それで、なにか分裂しても、もの、ことに集中して思考すること、 自我の機能は、素直、と同様な、獲得される特質、属性になります。そして、また切り取る背後の、切り取れない、も未知と呼べます。

ところで。なぜこれはこれなのか?という、それが自発的な疑問なら・・・たとえば意識って何?・・・そのことは、意識が機能していながら、意識に依存しない・・・という、疑問の形を借りた、表明ではないでしょうか。

と、いうのは実際に、意識を知らないので、意識って何?なのです。それまでは、知らないと言うことも知らないで・・・知ったということもないくらい知ったつもりで・・・なんか思考したりしてたかもしれません。

つまり、意識って何?とは、意識が、未知、ということです。それで、知ってるとしてしか、それに依存できない、つまり意識に依存できないことの表明が、意識って何?です。

このように、ぐるぐる思考が巡って、結局。一切が、未知。ということのようです。ある、ない、もそのようなことの一環です。

それで、そいうことも忘れた日常。未知も忘れたところに、います。そこで、世界には、その世界に生きていながら、この世界に依存できない・・・仏教では、解脱、と呼ぶようですが・・・そうできる機能が働いてて、それは簡単には・・・それが解らないからそうだ、と言えるのですが・・・なお、その機能は、何か?を明確にすることに、関心があります。

No.3079 - 2010/12/19(Sun) 09:33:47

Re: / suho
> なにか対象を、ことさら対象化しなくなると・・・つまり、その対象にしてる主体、自分が自分を自覚しようとする必要がないと・・・あらとあらゆる・・・ただ知覚すること知覚されることが・・・つまり一切が・・・未知と感じられるようになります。

根源は未知であるけれど、知った風に、安心して生きていられる感覚に同化していると、根源の未知は忘れてしまう。
しかし、何か(未知)の催しで、いろいろと現象を探索し始めると、この現象のしくみそれ自体が全て心地よい謎になってきます。
確かウビさんも対象と知覚がなぜ単独なのか?という疑問を書かれていたと記憶してますが、これが確かに全く持って不思議です。つーか対象の様相がなぜこうであるのか、ということも全く持って不思議です。
だから、全部不思議ですね。

> それで知覚されること・・・世界、現象、運動・・・は、未知なので、なにかそのほかに、未知があるというわけではないようです。たとえば身体とか知覚とか怒りとか不安、思考も、未知です。

はい。

> すると疑問としては、これが、どうして、これなのか?と、なるでしょう。簡単に言えば、なぜ知覚は知覚なのか?なぜ怒りは怒りなのか?なぜ喜びは喜びなのか?ということではないでしょうか。

はい。

> それをなにか、とある、ものこと、として・・・たとえば怒りや喜びや、なにかの思考・・・を世界から切り取ったと仮定して探る。と、二元性、相対とか、時間を要素に勘定すると因果とかによって、それは可能になってると、思えるようです。

はい。
そのようなストーリーは立てやすい。

> ところで。なぜこれはこれなのか?という、それが自発的な疑問なら・・・たとえば意識って何?・・・そのことは、意識が機能していながら、意識に依存しない・・・という、疑問の形を借りた、表明ではないでしょうか。
> と、いうのは実際に、意識を知らないので、意識って何?なのです。それまでは、知らないと言うことも知らないで・・・知ったということもないくらい知ったつもりで・・・なんか思考したりしてたかもしれません。
> つまり、意識って何?とは、意識が、未知、ということです。それで、知ってるとしてしか、それに依存できない、つまり意識に依存できないことの表明が、意識って何?です。


うーんと。まず確かに意識は未知です。
suhoは、この知覚の変化のプロセスを「意識」と呼んでますが、それがなぜこうであるのかは、全く未知です。
最近思うのは、現象と知覚は単独でありながら依存関係にないのは、実は次元が違うのでは?ということです。
2次元(平面)を2次元として認識するには3次元(立体)から認識する必要があるように、現象を現象として認識するにはもうひとつ上の次元に意識(知覚)があるように。。
つっても、それだけで、その後思考は進まないですが。。
(あれ?これ前にウビさんに言ったことあるかなぁ。。)

> このように、ぐるぐる思考が巡って、結局。一切が、未知。ということのようです。ある、ない、もそのようなことの一環です。

はい。まさにぐるぐる。

> それで、そいうことも忘れた日常。未知も忘れたところに、います。そこで、世界には、その世界に生きていながら、この世界に依存できない・・・仏教では、解脱、と呼ぶようですが・・・そうできる機能が働いてて、それは簡単には・・・それが解らないからそうだ、と言えるのです

そうですか。
僕は未知がなんであるかを、じぇんじぇん忘れられない。。

>が・・・なお、その機能は、何か?を明確にすることに、関心があります。

そうなんですよね。関心が止まない。。
未知が未知であることは承知の上で、最近は知覚・認知科学とか、量子力学とかがかなり進んでいるみたいですから、そのあたりをうろうろし始めています。。

今のところ、現象・人間がなぜこのようであるかの仮説は。。

------------------------
現象は【未知】による進化・創造システムである。
人間は【未知】による、進化・創造システムの1つの現象機能であり、思い、考え、制御し、行為する個々の主体ではない。
人間の知覚は【未知】の限定的知覚であり
人間の精神は【未知】の限定的精神であり
人間の行為は【未知】の限定的行為であり
人間個々の人生とは
現象の無限なるコントラストを構成・推進する部分プロセスである。
------------------------

まあ空想でーす。
宗教とか、精神世界では、人間全てが、悟り、覚醒する方向へ進んでいて、それぞれのレベルがあるように言われていることが多いですが、僕的にはそこにとても違和感がある。
人の精神や意識変化のありようも、身体や気質に個性があるのと同じように、現象の創造・進化を構成する個々の個性であり、コントラストであるような気がしてならない。。
今のところこのようなまなざしで現象を眺めて楽しんでいますが、飽きたら、いじったり別の空想を考えてしまうのでしょう(笑

No.3081 - 2010/12/19(Sun) 16:26:06

Re: / ubik0101
それで。このように世界は機能してる。それが真理だとしたら、真理を思考できるようになってる、この世界、とんでもない・・・と思う今日この頃です。

> そのようなストーリーは立てやすい。

それを日常意識は・・・因果とか、業とか・・・なんか物語として空想してしまうのかも知れません。まったく違うのに・・・ それを、ここでは中道とか、世界の総活動と呼んでます。

>対象と知覚がなぜ単独なのか?

これは記憶にないです。でも、対象と意識が、同じでもない、違うでもない、ということなら、それは中道、世界の総活動のことです。これに触れるから、日常が、未知、なのです。

それで、なにかを世界から切り取ったと仮定しないと、なにもかも忘れてるのです。これが、ちょっと面白いです。「催し」と日常を区別しないのです。

>最近思うのは、現象と知覚は単独でありながら依存関係にないのは、実は次元が違うのでは?ということです。

ふつう依存関係というと、原因が結果になり・・・という緯(よこいと)系なんでしょうが、次元が違うということは、もしかして、経(たていと)系の依存関係が視野にあるのかな?と思いました。それは進化の、それとも言えます。

No.3084 - 2010/12/20(Mon) 08:11:26

Re: / ubik0101
なんでも人の食べ物はトライするのですが、二羽とも味噌汁が好物になりました。
No.3085 - 2010/12/20(Mon) 08:16:33
素直パート2 / ubik0101
>無我というのは、余計なもの、依存、同一化、権利を主張する動きがない、素直という意味ですか?

そ、ではないです。無我とは、ただ単に、主体、つまり自我がない、という意味です。それなのに、見たり聞いたり話したりできる、ということです。そして、ふつうには、それが判るには、ない、ことの認識を要する、です。

>ふと生じる疑問は、元に戻って、素直が発現するには、余計なもの、依存、同一化、あるいは権利を主張する動きが、削り落とされる時だということで、いいのかな、違うのかなということです。

では、余計なものを、削り落とすことができる、ということでしょうか。けど、そんなことは不可能です。こう言ったら疑問でしょうか?なにか世界から削除されるとしたら、変、ではないでしょうか。世界から減るものも増えるものも、なにもなく、主体、自我は、ない、です。

しかし日常の社会生活があるから、否定の道が、可能になっています。実際は、とても複雑な経路なんですが、単純化して話します。

なんだかの・・・たとえば隣の家の人は気に入らないのだけど、仲良くしなければならない・・・とかの思考があるとします。それは、そう思考する、なんだかの立場、状態があります。そこで、なんだかの思考に正当性を与えてる、そこには現れてない前提を探り当てます。

それはもしかして・・・自分を誤魔化しても生活に支障をきたしたくないから意に反したこともする、演技をする、嘘をする、隠れて威張りたい・・・ということかもしれません。そしてそれは・・・自己保存・・・とかいうことかもしれません。そんなことが、世間、かもしれません。

そして、ここでは、その前提・・・演技をする、嘘をする、隠れて威張りたい・・・偽善、傲慢・・・自己保存・・・に正当性がないなら、なんだかの思考がある、立場、状態に正当性がないことが明らかになります。その前提は隠れてるからこそ、前提として機能していられるのです。

その前提を、あかるい意識の光に曝すと、その思考は、成立することができません。つまり消えます。ここの例では ・・・隣の家の人は気に入らないのだけど、仲良くしなければならない・・・を維持できません。そこにはなんか、滑稽さとか、自分の対象化、が隠れたりしてるのを見るかもしれません。

そして、これ、たとえば世間を、自己保存を、実際、捨てるんです。そして、偽善、傲慢、卑下、世間・・・とか、自己保存とか、そんなことを時計を分解してみるように「思考して思考して思考しまくって」定義します。部品に分解されると時計としては機能しなくなる、とも喩えることができます。ま、誰にも習わず哲学するのです。

そこからも、たとえば、自己保存の意味を汲み取る、学ぶことが、たくさんあります。また、なにか前提を隠し持ってる思考なんて、たくさんあるでしょう。同一化、もテーマになるでしょう。

続きます。

No.3072 - 2010/12/17(Fri) 09:39:14

Re: 素直パート2 / ubik0101
たとえば同一化、ということは、なにかの思考というよりは、そこに隠れた前提、たとえば偽善、傲慢、自己保存・・・それも思考されることですが・・・に依存することです。それは隠れて意識に見えないゆえの、混沌、に乗じてそう機能してるのです。それで、同一化を知りたいと、思っても困難があります。そして同一化は、実際は半同一化なんです。まったくの反同一化も、同一化も、よほどのことでなければ意識の対象になりません。経験できません。

それに囚われながら、それを見る。力の限り探査します。これは、その人が、その人において、できることです。これは・・・分裂したり、混乱したりしてる・・・自我だからできる。と言ってもいいと思います。たとえば永久凍土を掘っては埋め戻す作業です。これは一見、無駄なんです。でも、作業する人には、そう意図しないでも筋肉がつく、注意深さがつく、ようなことです。

その道で、偽善とか、傲慢とか・・・が否定されるなら、素直、でしかなくなります。なにかの思考とか、その隠れた前提、それがある根拠がなくなるんです。拠り所が、立場がなくなるんです。正当性がないことにしがみつくことはできないのです。もちろん、正当性、ということもテーマになります。

こんな否定の道は、否定し続けなければ成立しないです。そして、そうである、ということなども気がついたりします。というのも、否定して、否定して、自分が自分だと思う中心に向かう衝動、それが、その道を歩かせてるからです。

それでも、もともと正直でなければ、嘘をつかないようでなければ、否定の道を歩くことは、困難なのです。自分に自分で嘘をついてたら、自分を探査しても、それが怪しいことだからです。そして、捨てられたことは、意識からは失われますが、なくなることは、なにもないのです。これが凄いのです。これは知っただけでは・・・実際にやらねば・・・意味がないのです。

続きます。

No.3073 - 2010/12/17(Fri) 10:02:16

Re: 素直パート2 / ubik0101
>そこらあたりが、まず、余計なものとして、依存、同一化、権利を主張する動きがそうなのかどうか、あいまいで、うまくまだつかめていないのです。

その余計なものとは、ない主体をある、と見なしてる。ということです。そして、そう見なすためには、たとえば、世間を前提にしてれば、権利とか、言った言わないとか、嘘とか事実とか、偽善とか、傲慢とか、自己卑下とか、その混乱とか、 なんだかの主張が働く、ということです。

イメージしやすいように。すごく喩えなんですが、超強力な台風が発生したとします。その中心、主体は、真空です。ない、です。けど、ない、の周辺は、暴風雨です。主張です。

つまり、ない、ためには周囲の、渦巻く暴風雨が必要です。でなければ低気圧でも高気圧でもない、ただの標準大気圧です。そして、その中心、ない、は知覚されず、主張が知覚され、ある、として機能します。それで、ない、が、ある、として機能する、とも言います。

>事実関係が食い違うと、それは問題です。それだと、質問して、話を聞く意味がありません。権利を主張する動きは、思考のものですから、記憶されているわけです。
>それが余計なものなのでしょう?


これもそうですが、そこで騒がしい事実が食い違う関係をつくって主体は、ない、くせに、あるかのように思いこむのです。そのために、とくにそれだけでは問題ない記憶、思考のものとかが、利用されるだけです。素材、です。

それは実は、ない、自我、から、ある、自己、を作ろうとする働きです。それで、ない、があるとして、ほんとに、ある、を作ろうとしてる、とも言います。そして、ある、自己、も知覚にとっては、ない、です。

No.3074 - 2010/12/17(Fri) 10:13:21

Re: 素直パート2 / バンダナ
初めまして。素直を探していたらぶつかりました。
余計なものというのはなんだかの主張が働く主張という思い前提があることです、主体をあるとみなしていることです。正直でないなどの隠れた前提にしているものがあれば主張が働くということです。
隣の人との間に思い前提があるとき、それに何らかの正当性を与えているそこに現れていないそのまた前提の思いを探り当てましょう。そしてそのまた前提の思いに正当性がないなら、最初の思い前提にも正当性がないのが明らかになります。そのまた前提の思いは隠れていたので前提として機能できたのです。あらわになるとどちらの前提も成立できません、消えます、維持できません、実際に捨てるのです。言い換えるとそれらの前提についてさらにそのまた前提に分解して定義していくと、分解する前の前提も機能しなくなるのです。
隣の人との間に思い前提があるとき、それに正当性を与える隠れた前提に依存しています。その前提は隠れているのでそう機能できるのです。隠れていて見えないのでそこに困難があります。それにとらわれながら、それを見る。力の限り探索します。分裂したり混乱したりしている中でこそ、できることです。そしてその道で前提が否定されるなら、素直でしかなくなります。もともと正直でなければ、否定することは困難です。捨てられたものは意識からは失われますが世界からはなくなることは何もないのです。
これだけ思いが出てきてメモしましたが意識からは失われました。ではメモを投稿します、さようなら。

No.3077 - 2010/12/17(Fri) 17:28:04
素直 / あちこち
素直な気持ち、気持ちが素直、と読むのは、誤読、不注意である。
ある気持ちや行動に関して、それが素直な属性、特質のものかどうか、そこを話している。

余計なものを削ぎ落とすと、素直が発現する。

素直を言い換えても変わらないものとして、真摯、正確、注意深く、意識的、明々白々がある。
真摯でない、正確でないというのは、もちろん素直でないということになります。

そして、余計なものとは、依存であり、曖昧に言うと同一化ということですが、これは何でしょう。
具体的には、わかりません。

No.3047 - 2010/12/16(Thu) 09:26:24

Re: 素直 / あちこち
ただわからないなりに、文脈から、その意味合いを検討してみました。

ある気持ち、行動を、一定のものだとみなしたままで、固定化しておいて、
それとは別に、素直という属性、特質を取り上げようとするのが、余計なもの、依存、同一化を持ち込んでいる、素直がないということでしょうか?

だから、そうではなくて、日常の行動、発言、思考にある、余計なもの、依存、同一化が削ぎ落とされていて、ないとき、素直がある、そういう属性を持つ、日常の行動、発言、思考があるということかな。

それで、余計なもの、依存、同一化とは?

No.3048 - 2010/12/16(Thu) 09:27:17

Re: 素直 / ubik0101
その前に、すぐこの下のスレッドに投稿した。これから始めましょう。↓


では質問です。

> 何のためでもなく、ただ質問がある。

というのは、動機なしの質問がある。という意味ですか?
それとも、あちこちさんは自分が、無我、だということですか?

No.3049 - 2010/12/16(Thu) 09:33:51

Re: 素直 / あちこち
ただ質問がある、というのに対して、
動機なしか、無我なのか、と関心が動いたということですね。

答えは、そういう問いには、何も浮かんでこないということです。
それはわざわざ考えるとなると、余計なものにはならないのかなという疑問があります。
そうはいってもそれは私の一方的な感じですから、それではしようがない。

その前に、あなたが、余計なもの、依存、同一化を、どういうものなのか、はっきりさせてください。
そうすると、素直に接近できるでしょう。
そこに戻りましょう。

No.3050 - 2010/12/16(Thu) 09:50:43

Re: 素直 / ubik0101
なにかに頼ることによって、頼ってる主体が設定されることです。その、なにか、とは物質、身体、感覚、感情、思考です。
No.3051 - 2010/12/16(Thu) 12:35:24

Re: 素直 / あちこち
依存するという意味は、何かに頼るときに、頼っている主体が設定されるような頼り方だということ、余計なものがあると。
そして、主体が設定されない頼り方がある、それは依存していない、余計なものがないということですか。

まず、頼るというのが何なのか問題ですが、例えば、椅子に腰かけるというのは、椅子に頼る例ですか。

そのとき、設定がある、余計なものがあるのと、ないのとの違いは何ですか。
よくわからないので、文脈から、推測してみます。
頼りたいとか、頼る権利があるとか、主張するということ、言ってみれば、それが、主張する主体が設定されるような頼り方であるということかな。それが余計なもの。
ただ椅子に頼り、座るだけ、あるいは椅子がなければないで、床に頼り、横になるとか、何かしているだけ、という場合には、主張する主体が設定されていないような頼り方ということかな。余計なものがない。

要約すると、
頼ることに主張がある頼り方が、依存である。
頼ることに主張がない頼り方、それは依存していない。

これでいいのかな?

No.3052 - 2010/12/16(Thu) 13:11:42

Re: 素直 / ubik0101
>そして、主体が設定されない頼り方がある、それは依存していない、余計なものがないということですか。

その余計なこととは、対象になってる、こと、という意味があります。そして、それを対象にすることで設定されてる、頼ってる主体、という意味があります。

そこで否定の道とは、対象・・・おもに思考・・・を否定することで、その設定されてる主体を否定しようとする・・・奥へ奥へと、その主体の中心を探し出そうとする運動です。

たとえば感情に頼らない、思考に頼らない、ということは、頼る原因、理由を失うことです。それは必然として、それは取り敢えずのところのですが、素直、になるしかない、です。

>頼ることに主張がある頼り方が、依存である。
>頼ることに主張がない頼り方、それは依存していない。


しかし、主体が設定されてれば、主張があってもなくても、設定されています。この主張があれば、主体は、その主張によって自覚されるような感じがするかもしれません。

そこで、主張がない、つまり主張によって自覚されるとは思いもしないのに設定されてる、主体、これが問題になりませんか?

それとも主張が、あったりなかったりすることで、そのまま、主体は、あったりなかったりすると思いますか?また、ちょっと飛躍がありますが、主張があっても、なくても主体がない、ということはないですか?

No.3054 - 2010/12/16(Thu) 14:40:02

Re: 素直 / あちこち
椅子に座る、椅子に頼るときに、主体が設定されるとは、つまり、対象が設定される、ということでしょう。
主張があるとき、設定した対象があり、それを対象にして、これは権利だと主張して、主体が設定されている。そういう意味の主張です、この場合。
だから、主体、対象の設定というのは、具体的には、例えば、主張があるという場合かな、と、話が合うかどうか、言ってみたわけですね。

主体、対象の設定がないとは、具体的には、例ば、主張がないとき。

で、主体、対象の設定は、対なので、見かけ上、分かれているだけで、同じものでしょう。その設定が、主張の存在が余計なものだというわけですね。

そこまでは、お互いに、話が合っているのかな?

No.3056 - 2010/12/16(Thu) 17:03:52

Re: 素直 / あちこち
椅子に頼る話から、感情、思考に頼る話に飛びました。

感情のままに笑っている、例えば、それが感情に頼るということですか。
そのとき、一緒に笑えなどと主張するとき、感情への頼り方に主体と対象が設定され、余計なものがある。

思考を使って、ものを組み立てる。それが思考に頼るということですか。
その時、その思考を、特定のそれでなければと主張するとき、主体、対象が設定されて、頼り方に、余計なものがある。

主張があるときが、余計なものがあり、主張が消えていると、主体、対象の設定がなく、素直であると言えると。
ここまで、お互いに話が合っていそうですね。

No.3057 - 2010/12/16(Thu) 17:04:34

Re: 素直 / あちこち
私の話では、主体、対象の設定があるというのは、具体的には主張があるということです。
対象を設定し、どうしろと動きを主張する主体を設定するような、主張があるといういこと。

>主体が設定されてれば、・・・設定されている。

という文章は、仮定文であるし、繰り返しなので、事実を表していません。
何を言いたいのかな?
次のように主体、対象の設定には、段階、連鎖があると言いたいのかな?
さまざまな主張、そして主張についての主張とさまざまにありますから、
主体、対象設定と、それについての主体、対象の設定と、さまざまにあります。

ある主張によって、主体と対象が設定されますが、
さらにその主張を対象として、自覚されるような形の主体という設定もありえます。ああ、俺はやっぱりそう主張したいのだといった俺。
主張がない場合というのを対象にして、そのとき、自覚しないが、主体があるのだと動く、主体と対象を設定する動きもあります。
主体と、対象の設定を固定する、依存する、同一化する動きでしょうか。

しかしそれは、結局、主体と対象が設定される、つまり、主張があるという意味では、同じものです。
ここも、お互いに話は合っているのかな?
少し怪しいかな?

No.3058 - 2010/12/16(Thu) 17:05:08

Re: 素直 / あちこち
私の話は、主張というのが、何かを対象として設定し、権利を主張して動くという主体を設定する動きのことですから、
主張があるとは、主体と対象の設定があることの具体的な、説明なのです。

で、主張があってもなくても、主体、対象の設定がないという場合があるというのは、具体的なその説明がないとわかりません。
主張がある場合、私の話では、事実に合わず、問題です。
もちろん、主張があり、対象はあるが、主体は自覚されない、あるいは対象も自覚されない、という設定をすることは起こりえますが、それは余計なものがある場合です。 
単に、これはこうです、こうすればこういう利点があります、それが勧める要点ですといった説明は、もちろん、ここで言う主張ではありません。
で、ここは話が合っていなくて、食い違いがあるようです。
それでしたら、私の話は一旦、引っ込めます。
では、説明をどうぞ。

No.3059 - 2010/12/16(Thu) 17:05:44

Re: 素直 / ubik0101
このままでは検討の主題が煩雑になりそうです。
なので、ここから始めれば全体が見渡せるだろう、という質問を提起します。
ほかに問題があるようでしたら、それはそれで、提示ください。

ここでubik0101が言ってる設定される主体、とは、自我、のことです。それで、自我は自覚されないと、ないのでしょうか?たとえば「権利を主張して動くという主体」が自覚されないと必ず、自我がない、と見るのでしょうか?

たとえば、なんでもない日常・・・ラジオを聞く、エンドウ豆に支柱をたてる・・・それは必ず、自我がない、ということなんですか?そして、なにか主張がある、そのとき、自我、があるんですか?そのように自我は、あったりなかったり、するのですか?という質問です。

これは進められますか?

もっと感単に、はっきり決着する質問があります。
くりかえしますが、

>>それとも、あちこちさんは自分が、無我、だということですか?

と、いうのは。あちこちさんが 無我なら、それを、どう説明しようが、ubik0101とのなにか食い違いがあっても、どこにも問題はないでしょう?それは話すことでない、なら、それもそれでいいでしょうが、互いに無我の有り様を話すほうが、学ぶことがあるし、興味があるのではないですか?

No.3061 - 2010/12/16(Thu) 20:02:19

Re: 素直 / あちこち
素直というのは、それが発現するには、余計なもの、依存、同一化が削ぎ落とされるときということでした。
では、余計なもの、依存、同一化とはどんなものですか、という質問で、十分、簡潔だと思います。
それで、ものごとを対象として設定し、権利を主張して動く、主体として設定する主張があるということが、余計なもの、依存、同一化であるのなら、
そのまま簡素に進めると思います。
対象、主体の設定として、主張するという具体的なものに、着目すれば、 余計なものが、具体的なものとして捕まえられるのですから。

だから、次のテーマは、寄り道だと思います。

No.3063 - 2010/12/16(Thu) 21:24:02

Re: 素直 / あちこち
>権利を主張して動くという主体が自覚されないと、必ず自我=主体がない、と見るのでしょうか?

対象として設定したものに、権利を主張するという動きがあるとき、それが主体の設定でもあるので、
自覚の問題ではなく、見方の問題ではなく、
事実として、それだけで、余計なものがあると、事実として、言えるのでは?

既に検討済みのことを再録すると、
主張して動くときに、その主体の自覚ということになると、
主張する動きを対象として設定して、その主体を自覚するという形で主張があり、主体を対象として設定するという、
二段構えの主張、
つまり、二段構えの対象と主体の設定がある場合があるでしょう。
つまり、実際の対象と主体の設定ではなくて、それについての対象と主体の設定なので、それ自体、さらに余計なものでは?

No.3065 - 2010/12/16(Thu) 21:25:26

Re: 素直 / あちこち
権利を主張する動きは、思考のものですから、記憶されているわけです。
それが余計なものなのでしょう?
それは、具体的には、ある場面で、権利を主張する、動くという形で、出てくる。主体、対象の設定がある。
主張する動きの新たな作成、あるいは修正、変更もありますでしょう、それが記憶される。

別の場面で、あるい似た場面でも、権利を主張することが起きないこともある。主体、対象の設定がない。
その場面で、主張する動きは全くなく、単なる主張の思い出だけがあるということもある。主体、対象の設定がない。
主張する動きが、そもそも記憶から消えることもある。

主張は思考なので、記憶のものです、
そして、主張は現象的には場合により、あったり、なかったりするのですね。

No.3066 - 2010/12/16(Thu) 21:26:04

Re: 素直 / あちこち
無我というのは、余計なもの、依存、同一化、権利を主張する動きがない、素直という意味ですか?
自分は無我か? そういう質問をしても、何も返事は返ってこないということは、すでに答えました。
それについての、説明はありません。

ふと生じる疑問は、元に戻って、素直が発現するには、余計なもの、依存、同一化、あるいは権利を主張する動きが、削り落とされる時だということで、いいのかな、違うのかなということです。
そこらあたりが、まず、余計なものとして、依存、同一化、権利を主張する動きがそうなのかどうか、あいまいで、うまくまだつかめていないのです。
事実関係が食い違うと、それは問題です。それだと、質問して、話を聞く意味がありません。

No.3067 - 2010/12/16(Thu) 21:27:24

Re: 素直 / コチコチ
横からしつれい。

> そこらあたりが、まず、余計なものとして、依存、同一化、権利を主張する動きがそうなのかどうか、あいまいで、うまくまだつかめていないのです。

なぜつかみたいのですか?

> 事実関係が食い違うと、それは問題です。それだと、質問して、話を聞く意味がありません。

事実関係が食い違うと、どんな問題があるのですか?
質問して話を聞く意味がないというのは、事実関係が食い違わないことに意味があるということですか?
仮にあったとして、どんな意味があるのですか?
横なので、スルーしていただいても結構でし。

No.3069 - 2010/12/17(Fri) 00:20:44

Re: 素直 / あちこち
>なぜつかみたいのですか?

ここで取り上げられていた素直というのが何だろうと疑問が生じたということ。
素直が発現するのは、余計なものが削り落とされるとき、という話でしたが、
では余計なものとは何なのかな、事実として、どんなものか、まだつかめていないということ。

No.3071 - 2010/12/17(Fri) 08:30:01
(No Subject) / peer
>たとえば電車に乗ってれば、野が、山が、川が知覚され、
>後ろに去っていきます。


記憶術の本を読んだら、文字を見るだけでOKらしいです。
つまり、後ろに去っていく文字。でも記憶されている。
たぶん、このとき中心はないんでしょうね。
私が記憶せねば、と思うと時間がかかるし疲れます。

>レミングは一匹が崖から海に飛び落ちると、
>つられて集団CENSOREDすると言われています。


鉢植えの植物を一列に並べて、ひとつひとつの電位を計測できるように
しておきます。で、隅の植物に刺激を与えます。
すると、いっこいっこに電位の変化がおきます。
植物でさえ、仲間に何か伝える手段がある。ようです。
なにか・・・キケンを伝え合うような。

>そうでなく、なにを行動するか、考えてるか、感じてるかの
>・・・その自分・・・主体の発生の、ための人です。


はい。動物にも、たぶん植物にも意識のようなものは、ある。
しかし、人間は、自分が考え感じていることを、意識できる
存在であり。そこが、人間の特徴だと言える・・・のでしょう。
「あー、今こんなことを考えている」というのを知っている。
まっ。不完全ながらも、自分を客観視できるんですね。
客観視できるから、他者の心理も推測して動く・
間違っていたら修正する。
問題になるのは固定化してしまうことでしょうか。
先入観。こだわり。決めつけ。

No.3006 - 2010/12/13(Mon) 04:15:59

Re: / あちこち
> しかし、人間は、自分が考え感じていることを、意識できる

生きている自分も含めた現実の世界の動きの、思考上のモデルを持っている。

> 間違っていたら修正する。

生きている現実の世界と比べて修正すると、現実に沿える。

もう一つ、現実の世界と混同して、思考上のモデルの世界で戦うと大変?

No.3008 - 2010/12/13(Mon) 12:24:15

Re: / ubik0101
peerさん

まったく意識してなくても、ふと思い出したりします。と、いうことは記憶されたことは、そのとき意識されてなくても、ある、ということなのでしょう。それで、まったく意識してないのに、ある、と、ない、この違いがあります。

たとえば、ある人が庭に花を植えています。その人はピアノが弾けます。ほかの人も庭に花を植えています。その人はピアノが弾けません。その人達は、どちらも花を植えています。そのとき、どちらもピアノのことを意識してもいません。ここに違いはないのですが、弾く技術の、ある、ない、違います。

そ、いえば。この家の庭には、玉すだれ(ゼフィランサス・白花)の群生があります。それが年に3、4回ほど、なにか合図があるように、一斉に咲きます。それも群生から、ぽつん、ぽつんと遠くに離れたところにある玉すだれ数株も、そのとき一緒に咲きます。

ところで、見る聞く思考する。これは、なぜそれが可能なのか?とても不思議です。ただ見たことが、ただ見たこととして、ただ見える。それが、どう不思議なのか解れば説明はできるのかもしれません。

No.3009 - 2010/12/13(Mon) 14:23:53

あちこちさん / peer
>生きている自分も含めた現実の世界の動きの、思考上のモデルを持っている。

はい。モデリングします。
動いている最初に観たモノを親だと刷り込まれるヒナように。

>> 間違っていたら修正する。

>生きている現実の世界と比べて修正すると、現実に沿える。

自分のココロのレベルで現れるモノが現実なのかも。
泥棒ではない人は、家に鍵をかけない。
ウソつきではない人は「これはウソだ」と疑うこともないでしょう。
自分のココロのレベルで、世界を観ます。

世界を見て、考えた事・感じた事が、そのまま自分のココロのレベル。
で、世界が辛いと考え感じるなら、辛い世界を変えるのではなく
自分のココロのレベルを見直すしかないと思います。
それこそ「自分を知れ」・・・じゃないでしょうか。
考え・感じ、の、真実の姿を見れていないのですから。
どうやって自分を見るか・・・、そこで智慧があるかないか。ですね。
智慧というのは、そこにある真実を見る力のこと。
じゃないかなぁ。

No.3013 - 2010/12/14(Tue) 02:22:37

ubik0101さん / peer
>ところで、見る聞く思考する。これは、
>なぜそれが可能なのか?とても不思議です。


見る聞く思考する。だけならゴリラも、やっている。
とりあえず、そういう機能が備わっている。
というしかないですね。
どうしたら、どう機能するのかは、解明されつつあり
その機能を模したロボットなどが作られます。
目の機能を探究してカメラが作られたり。

ただ。どうしてそんな機能が与えられているのか
それが、わかりません。
進化論。環境の変化に対応して、様々に変化するように
それが必要になったから、、、。
必要でなくなった機能は退化します。

自分が考え感じていることを、意識できるのは
人間でも7歳くらいから見受けられる機能です。
・・・それまでは「いま」だけで生きているんですね。

No.3014 - 2010/12/14(Tue) 02:23:54

Re: / ubik0101
なにか、空の鳥とか野の花とかが自分というわけではなく、空の鳥とか野の花とか家とか山とかを含む空間、それが自分に浸透してて、それが、見る、ということなんです。

どして不思議なのか・・・説明するとですが・・・対象を対象化せずに、とくに対象にしてる主体も、そうしてる主体ではなく・・・見たり聞いたり思考したりされてる、ということです。

つまり、世界と素通しなんです。見えてる、ことのほかに、なにも、見ることに要しないのです。おなじく聞こえてる、思考してる、ことのほかに、なにも、そうすることに要しないのです。

No.3016 - 2010/12/14(Tue) 07:56:13

Re: / peer
うん。
それが智慧が顕われている状態。なんだと思うのね。
様々な表現が様々な人の口から語られるけれど。
そして、それは、やって来るものだから。突然に。
前触れもなく。・・・道はない、んですね。

No.3028 - 2010/12/15(Wed) 03:30:51

Re: / ubik0101
それが山手線の電車の中で床に、しゃがみ込んだときに突然、起こったときには、ほんとに驚きました。世界と素通しなんです。

そして、そのことを一人の友人に話したけど「それは、後になって、そうだと判るんだ」と言いました。違うんです。

そ、だということを、そのとき電車の外とか中とか自分の中、あちこち意識の終点を動かして確認したのです。それは10分か20分かのことでした。けど今は、一人あれば、日常が、そうです。

まあ、とても説明ですが、日常が神秘の、その神秘も失われるところ、です。感覚器官と、その対象。意識と、その対象。つまり「一切」も忘れるところ、です。

No.3032 - 2010/12/15(Wed) 16:09:26

Re: / peer
>そのことを一人の友人に話したけど
>「それは、後になって、そうだと判るんだ」と言いました。


自分がありながら、その中に居る状態だと
あちこち意識の終点を動かして確認することができるし。
自分がなくなって、それに包まれている状態だと
後になって、そうだ。。。と理解する。しかできない。
のではないかなぁ〜と。
たとえば
チャクラの中に飛び込んだ時と
チャクラが開いて包まれた時の違いみたいな〜。

No.3044 - 2010/12/16(Thu) 02:14:14

Re: / ubik0101
では。というわけで、実験してみました。なにかの物に意識があってると、ほとんど忘我です。それで、ちょっと引いて世界を見渡して、焦点の移動、そのことが見られるか?と思いました。というのは滑らかに焦点が移動した、その自覚の経験があって、鮮やかな印象があったからです。でも、できませんでした。

そして空間を見てると、どこかに焦点があってることではない、ので変えられません。そして人とか車とか動く物は、その残像が漂います。

この物が明確に見える状態と、空間を見てる状態、の切り替える瞬間が見えるか、とも思いました。これもできなかったです。

>後になって、そうだ。。。と理解する。しかできない。

あとになって意味が読み解ける、ということはあっても。たとえば・・・ない自分に気がつく・・・幸福感が伴う幻覚も・・・そのことの知覚がない、というのは、ないです。まあ気絶とかなら、気絶してたんだ、と、後で、その最中の感覚、はあります。

チャクラについては、明確には自分の経緯にないと、思います。

No.3060 - 2010/12/16(Thu) 18:20:22
(No Subject) / 雄大
体験は重要だろうか?

体験は来ては去るものであり、経験する者が残る。

感覚する身体、精神に依存するのではないか?

感覚器官を超え、感覚を超たものはそれが無ければ何も成り立たないものだ。

我々の身体も心もそれの中で起こる。
残念ながら真理も神も限られた身体と精神に帰属してはいないのだ。
別の電車が動き出せば
止まっている電車が動いたように見えるだろう。

その様に継続する私がいるような実感としての幻想を与えている。

連続する自分、継続する自分もただの感覚の1つに過ぎない。

神秘体験はそれ以外のもの全てに支えられているが、神秘体験とそれを経験したものに切り取る習慣は何処から来るのだろうか?

半年前に下手くそな拳法を練習中に突き指をして親指と人差し指の第一関節が曲がらなくなった。

突き指した当初は電気が走った感覚だけだったが、夜中に両腕の痛みで目が覚めた。痛みで両腕が上がらず寝返りも打てずに苦しんだ。

やはり打撲は怖いなと改めて感じた。
痛みを取るために少ない知識をフル動員して自己治療した結果24時間後には両腕は上がるようになり痛みも若干軽減した。

1ヵ月後痛みもほとんど無くなった頃、左手の親指と小指の第一関節が動かないことに気がついた。
ヮ−ルドカップ決勝の始まる夜中に発症したのでかれこれ半年になる。

医者は嫌いだが障碍者手帳を取得するために検査に行った。
レントゲンからCTまで検査を受けたが原因不明という診断。

しかし打撲して腫れたわけでもないのに何故レントゲンを採るのか分からない。医者にすれば第一関節が曲がらないのは神経から来ているのではないかと仮説を立てた結果のCT検査だったのかもしれないが、指には感覚があるが第一関節が曲がらないのだから其の検査も疑問だ。

私から見れば医者が儲ける為に無駄な検査をしているとしか思えない。

放射線を浴び時間とお金を無駄にして原因不明の診断ならはじめから専門医を紹介しろよな、という反応があった。

過剰な検査と投薬は止めて欲しいものだ。
少なくとも投薬も手術も診断と仮説と治療法のリスクを説明すべきではないか。と連想ゲームが続いていた。

全ては起こるべくして起こるのだから私がするというのは幻想に過ぎない。

しかしCTは拷問ですね。

No.2997 - 2010/12/12(Sun) 02:07:12

Re: / ubik0101
たとえば世界と素通しになること・・・いない自分に気がつくこと・・・そのようなことは痕跡も残さず通り過ぎて行きました。

でも、自我は虚構、を見て、それを見てる、自己、の自覚。それは、それが、それの原因である実在に繋がることでもあります。

そのことで・・・自分はない・・・という自我が発現。それは体験と体験者の分離でもあり、体験を解凍するまで、体験者を残してしまいました。

そいえば、この春、入院しました。レントゲン10数回、そして造影剤で身体が熱くなる CTスキャン、それで胸に縦一文字の手術痕です。

それからスコップでの庭作業で、右手の小指がバネ指になって動かなくなったけど、これは放置で、治りました。

No.3001 - 2010/12/12(Sun) 14:12:24

Re: / 夜の虎
ubik0101さん こんにちは


> でも、自我は虚構、を見て、それを見てる、自己、の自覚。それは、それが、それの原因である実在に繋がることでもあります。
>


ここでubik0101さんがいわれる、自我と自己、実在とはそれぞれ何を指すのでしょうか?


> そのことで・・・自分はない・・・という自我が発現。それは体験と体験者の分離でもあり、体験を解凍するまで、体験者を残してしまいました。

体験と体験者の違いとは?

No.3002 - 2010/12/12(Sun) 17:52:39

Re: / ubik0101
> ここでubik0101さんがいわれる、自我と自己、実在とはそれぞれ何を指すのでしょうか?

なにかを行動したり見たり聞いたり思考したりする、そのことによってつくられる、仮の自分、それが自我、です。

そういうことを度外視しても、なにか自分がいなければ、なにかを行動したり見たり聞いたり思考したりできるのは、まったく、あり得ないほど奇妙ではありませんか?

なので、まず予め自分があって、なにかを行動したり見たり聞いたり思考したりする、と思い込んでる。思い込まされてる、のです。なにが思いこませてるのかと言えば、世界、です。

つまり、ないのに、あるとして、見たり聞いたり思考したり機能する、自我は虚構なんです。けど、自分は、あるとも思わないほど、ある。それが、あまりに当然という暗黙の理論が働いてるかのようです。そいうトリックに掛かってる、とも言えます。

この暗黙の理論を打破するほどの観察とか、思考ができればいいのですが、それは困難です。それよりも簡単といえば、自我は虚構、を見破る体験するほうが、簡単なんです。

そのような自我なんですが。あくまで喩えですが。それは小さな弱い苗を守るための添え木のような機能を果たしています。そんな自我は、けっこう傷つきやすくて、自分を守る傾向にあるでしょう?

そして苗が生長して樹になったら、もう支柱は不要です。かえって邪魔です。その成長した樹、それが自己、と喩えられます。ないのに、あるとして機能する自我から、ある、自己、を育てる、そんな戦略が世界にあるようです。

この世界が、この世界に依存しない、添え木が不要な、自己、を育ててるとも言えます。それは、仮の自分ではない、主体、です。けど。ただない、自我、ただある自己、は知覚の範疇にはない、です。

ところで、この世界なんですが。それは、とある、もの、ことを取り出して考えると、その、もの、ことは、独立してあるわけではないでしょう。依存しあって、機能してるのではないでしょうか。つまり、それ自身が、それ自身に原因がないのです。これは、あるでもないでのでもない、です。それが知覚の範疇です。

ところが、自己は、それ自身の、それ自身に原因・・・実在・・・ほかの言い方では、神・・・との関係にあります。その関係が、愛、です。これはやはり体験しかないかもしれません。これを体験すると、ほかの人にも、体験してもらいたいと望むようになります。

>体験と体験者の違いとは?

そんな体験をすると、おおくの場合ですが自分は、ない・・・無我・・・に偏ります。それだけなら、まあ、いいのですが、そういうことを対象化してしまう傾向にあります。つまり、対象にしてる自分、体験者、の発現です。

それは、それでも問題ないのですが、自己、というのは、世界に依存しないのです。その範疇にないのです。だけど、この体験者は、体験に依存してしまう可能性から逃れることは難しいのです。

それは自分の体験を解凍すればいいだけのことなんですが。理解、して忘れればいいだけなんですが・・・それを意識に教える、と呼んでいますが・・・困難、と言えば、困難です。

No.3003 - 2010/12/12(Sun) 20:07:48

Re: / hato

>> 全ては起こるべくして起こるのだから私がするというのは幻想に過ぎない。


ほんとうに?


>> それは自分の体験を解凍すればいいだけのことなんですが。理解、して忘れればいいだけなんですが・・・それを意識に教える、と呼んでいますが・・・困難、と言えば、困難です。


誠に。そのようです。

そこで最強ubikスプレーが効くはずなんだけど。いつでもどこでも、見つけたなら役立ちますよ。フィリップ・K・ディックが、言ってました。

hatoの読みたて新鮮メモでした。

No.3004 - 2010/12/12(Sun) 21:01:43

Re: / 夜の虎
ubik0101さん ありがとうございます。
大変難解な回答を戴いたために、要点を確認したいと思います。

まず自我ですが、
例えば、私が物を見て何かを感じ、思考する。
その時に、何かを感じる以上、感じる主体があるはずだと、主体を想定する。
しかしこの主体は架空のものである。
それが自我である。
そして架空の主体を思い込ませようとしているのが世界である。
ここでは世界とは何か? という新たな問題が生じます。

次に自己ですが、自我が成長したものである。
ここで成長とは、何がどのように成長するのかは不明ですが、自我が己を守る傾向があるのに対し、事故は己を守ろうと言う傾向がない。
つまり自己とは、質的に強くなった自我か、自身に無関心となった特殊の自我である。
自己とは、自我と基本的に同一のものである。

次に実在ですが、自己自身の原因である。
すると、自己は自我であり、自我が虚構で、世界により思い込まされているのだから、実在とは虚構であると言うことになります。
しかし、実在と言う通常の意味と、虚構とは相反するようにも思えます。
何かの錯誤があるように思います。

体験と体験者とは、
体験とは通常の経験であり、体験者とは主体を対象化することである。


以上ですが、いかがでしょうか?

No.3011 - 2010/12/13(Mon) 15:39:21

Re: / ubik0101
>まず自我ですが、
>例えば、私が物を見て何かを感じ、思考する。
>その時に、何かを感じる以上、感じる主体があるはずだと、主体を想定する。
>しかしこの主体は架空のものである。
>それが自我である。
>そして架空の主体を思い込ませようとしているのが世界である。


ここで、夜の虎さんが言ってる「私が物を見て何かを感じ、思考する」の「私」と、自我、それは同じことです。つまり私のほかに自我があるわけではないです。たとえば夜の虎さんが、すこし前に引用した「我思う、ゆえに我あり」風に言えば、「思うゆえに我あり」です。

>ここでは世界とは何か? という新たな問題が生じます。

この世界とは、物質、身体(感覚器官)、感覚、感情、意識、です。つまり人のことです。この“掲示板”のタイトルに・・・この世界は人を覚醒させる触媒です・・・とありますが、文章だけを見ると矛盾ぽいです。でも、ほかの言い方もなく、それを承知で言っています。

>次に自己ですが、自我が成長したものである。
>ここで成長とは、何がどのように成長するのかは不明ですが、自我が己を守る傾向があるのに対し、事故は己を守ろうと言う傾向がない。
>つまり自己とは、質的に強くなった自我か、自身に無関心となった特殊の自我である。
>自己とは、自我と基本的に同一のものである。


これは、まったく違います。 こんな言い方は好みませんが、自我と自己、次元が違います。

(a)よく喩えで、自我の死、と言われます。ここでは自我の完成と言います。その体験当時は、そのことによって、自己は与えられる、と感じていました。そうすると始まりがあるわけです。それは、どうも変です。

(b)そうでなくて。もし始まりがなく、初めから人が自己なら、なんの迷いも、たとえば自我も、自己を忘れることも起こりようがないので、これも、どうも変です。

それで、どっちを採っても、実情にあいません。でも、なんにしても理論的に探るのは、ほとんど不可能。その体験をするのが圧倒的に簡単。ということには変わりません。

おそらく、世界と人の関係とか、始まりの、あるない、とか、わけの分からない矛盾なくしては、この世界は、人を自己たらしめる、この世界であることは困難だからかもしれません。

また体験とは、この矛盾を飛び越えることでもあります。そこは底知れない深い淵があって、そんなこともあって、元の自我に戻るのは困難です。

>次に実在ですが、自己自身の原因である。
>すると、自己は自我であり、自我が虚構で、世界により思い込まされているのだから、実在とは虚構であると言うことになります。


これも違います。実在とは、それ自身が、それ自身の原因。ほかの言い方では、第一原因。神。ただある、です。そして、ただない、も知覚の範疇にはありません。単純な説明ですが、この世界は、ただあるない、どちらでもなく、知覚の範疇です。

>体験と体験者とは、
>体験とは通常の経験であり、体験者とは主体を対象化することである。


その体験とは、世界の総活動に触れる。なる、そんな体験です。たとえば善と悪、優と劣、嬉しいと悲しい・・・ありとあらゆることが一気に活動することです。「体験者とは主体を対象化することである 」は、まあ、そうです。

No.3012 - 2010/12/13(Mon) 19:50:14

Re: / 夜の虎
お返事ありがとうございます。

> ここで、夜の虎さんが言ってる「私が物を見て何かを感じ、思考する」の「私」と、自我、それは同じことです。つまり私のほかに自我があるわけではないです。たとえば夜の虎さんが、すこし前に引用した「我思う、ゆえに我あり」風に言えば、「思うゆえに我あり」です。
>


なるほど なんとなくでありますが、理解しました。

> この世界とは、物質、身体(感覚器官)、感覚、感情、意識、です。つまり人のことです。この“掲示板”のタイトルに・・・この世界は人を覚醒させる触媒です・・・とありますが、文章だけを見ると矛盾ぽいです。でも、ほかの言い方もなく、それを承知で言っています。
>


ここで言われる「人」とは、通常我々が言うところの人間から「自我」を引いたものですか?


> これは、まったく違います。 こんな言い方は好みませんが、自我と自己、次元が違います。
>
> (a)よく喩えで、自我の死、と言われます。ここでは自我の完成と言います。その体験当時は、そのことによって、自己は与えられる、と感じていました。そうすると始まりがあるわけです。それは、どうも変です。
>
> (b)そうでなくて。もし始まりがなく、初めから人が自己なら、なんの迷いも、たとえば自我も、自己を忘れることも起こりようがないので、これも、どうも変です。
>
> それで、どっちを採っても、実情にあいません。でも、なんにしても理論的に探るのは、ほとんど不可能。その体験をするのが圧倒的に簡単。ということには変わりません。
>
> おそらく、世界と人の関係とか、始まりの、あるない、とか、わけの分からない矛盾なくしては、この世界は、人を自己たらしめる、この世界であることは困難だからかもしれません。
>
> また体験とは、この矛盾を飛び越えることでもあります。そこは底知れない深い淵があって、そんなこともあって、元の自我に戻るのは困難です。
>


自己についてはよく理解できません。
自我とは次元の違うもの。でその内実は?
真の主体? 変化しない主体? そんなニュアンスでしょうか?

> これも違います。実在とは、それ自身が、それ自身の原因。ほかの言い方では、第一原因。神。ただある、です。そして、ただない、も知覚の範疇にはありません。単純な説明ですが、この世界は、ただあるない、どちらでもなく、知覚の範疇です。
>


ここで言われていることは、我々が世界と呼んでいるものはただ知覚の範疇にあるだけのものであり、知覚外のもので第一原因が実在である ということでしょうか?

もしそうならば、どのようにして実在を知ることができるかと言う問題がありますが、これは以前言われた超意識なるものですか?

> その体験とは、世界の総活動に触れる。なる、そんな体験です。たとえば善と悪、優と劣、嬉しいと悲しい・・・ありとあらゆることが一気に活動することです。「体験者とは主体を対象化することである 」は、まあ、そうです。

理解しました。

No.3024 - 2010/12/14(Tue) 15:16:07

Re: / ubik0101
>ここで言われる「人」とは、通常我々が言うところの人間から「自我」を引いたものですか?

それは、人一般、のことです。でも、ubik0101にとっては、ubik0101個人のことです。

>自己についてはよく理解できません。
>自我とは次元の違うもの。でその内実は?
>真の主体? 変化しない主体? そんなニュアンスでしょうか?


ほとんど、そう、です。と、いうのも。どんなイメージも誤りで、どんな対象にもならず、どんな意味のありそうな名前でも呼べません。ただ、自己、と呼びます。

>ここで言われていることは、我々が世界と呼んでいるものはただ知覚の範疇にあるだけのものであり、知覚外のもので第一原因が実在である ということでしょうか?

まあ、そう、です。と言うのは、この世界に生きて、それを体験することができるからです。なので。この世界を、相対界、現象界とか呼んで・・・第一原因を、(空想の対象の意味で)神、実在界とかとか呼んで・・・あたかも、ほかにあるような表現するのは好みではないです。

>もしそうならば、どのようにして実在を知ることができるかと言う問題がありますが、これは以前言われた超意識なるものですか?

そうです。知覚、意識が総活動したら、知覚、意識を超えます。それが、体験、です。これは起こることです。

No.3031 - 2010/12/15(Wed) 16:02:05

Re: / 夜の虎
ubik0101さん ありがとうございました。
No.3055 - 2010/12/16(Thu) 15:27:25
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