はじめまして この世界は、自己、自我、真我、仏性を取り上げています。 それが、ある、ない、が、この世界では話されます。 もう少し、具体的に取り上げると、こんなものですか。
それがある、とみなしていると、他の人が眠っているのか死んでいるのか、こちらの思いが急変するとき、他の人の真我、仏性がどうなっているのか処理をする必要が生じます。 それで、その一環として、真我、仏性、の呼び名を変えて、魂などと唱えるのでしょうか。
誰それさん、いますかと呼ばれて、はい私ですと答えるときの私は、そういう私があるということではなくて、そういうことではなくて、単に個体としての心身を指しているだけなのでしょうね。 人との間の情報伝達、指示のために思考が使われているだけ。
人からバカにされて、私をバカにしたと怒るときには、バカにしたとみなす認識と、それと一緒になって、抵抗し拒絶する動きが対になって、連鎖的に動く思考があるということでしょう。対、連鎖性の一方を私と呼んだだけ。対、連鎖性がないときは私もない。
それにしても、今日は寒い朝
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No.3140 - 2011/01/07(Fri) 10:54:11
| ☆ Re: 真我、仏性 / ubik0101 | | | はじめまして
>それがある、とみなしていると、他の人が眠っているのか死んでいるのか、こちらの思いが急変するとき、他の人の真我、仏性がどうなっているのか処理をする必要が生じます。 >それで、その一環として、真我、仏性、の呼び名を変えて、魂などと唱えるのでしょうか。
どなたかの質問に、ここで言う自己は、真我、と呼べるでしょう、と答えたことがあります。けど。たとえば「犬に仏性はありますか?」とかの文書を引用して、それに含まれてる言葉でなければ・・・つまりubik0101の意見、主張として、仏性、魂、とか言ったことはないです。また、ほかの人の真我とかが、どうなってるかの処理する必要が生じたことは、全然ありません。
>人からバカにされて、私をバカにしたと怒るときには、バカにしたとみなす認識と、それと一緒になって、抵抗し拒絶する動きが対になって、連鎖的に動く思考があるということでしょう。対、連鎖性の一方を私と呼んだだけ。対、連鎖性がないときは私もない。
たとえば日常では、なにかが・・・たとえば思考の連鎖・・・が、機能、してることを、ある、と呼ぶのでしょう。けれど。もしかして、その思考の連鎖が、ない、というのも・・・ある、ないという対の、連鎖かもしれません。
というのは。私は、ある、ならば・・・思考の連鎖があっても、思考の連鎖がなくても、私は、ある、ではないでしょうか。たとえばテレビを見て、思考の連鎖を忘れてて、私を自覚できなくても、私は、ある、ではないでしょうか。それくらい、私はある・・・それを自我と呼ぶとして・・・その根は深いのではないでしょうか。
そうでなく、私は、ない、ならば・・・たとえば思考が連鎖しても、連鎖がなくても、私は、ない、ではないでしょうか。そうでなくて。あるとき私は、あったり、あるとき私は、なかったり、するのでしょうか。また。私がなければ、ずーと思考の連鎖がない、ということなのでしょうか。くり返しですが、思考の連鎖がなければ、ずーと私は、ない、ということでしょうか。
さらに・・・対、だけが思考の連鎖なのか?また、思考だけでなく、感情や知覚は行動は、ここで言ってる、私は、ある、に関係しないのか?また、わたしが、ある、にしても、ない、にしても、それが、どう機能してるのか。その意味は何か?もしかして、私だろうが何だろうが、あるのでもないのでもない、のではないだろうか?ということも疑問になると思います。
>それにしても、今日は寒い朝
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No.3141 - 2011/01/07(Fri) 16:30:22 |
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