素直な気持ち、気持ちが素直、と読むのは、誤読、不注意である。 ある気持ちや行動に関して、それが素直な属性、特質のものかどうか、そこを話している。
余計なものを削ぎ落とすと、素直が発現する。
素直を言い換えても変わらないものとして、真摯、正確、注意深く、意識的、明々白々がある。 真摯でない、正確でないというのは、もちろん素直でないということになります。
そして、余計なものとは、依存であり、曖昧に言うと同一化ということですが、これは何でしょう。 具体的には、わかりません。
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No.3047 - 2010/12/16(Thu) 09:26:24
| ☆ Re: 素直 / あちこち | | | ただわからないなりに、文脈から、その意味合いを検討してみました。
ある気持ち、行動を、一定のものだとみなしたままで、固定化しておいて、 それとは別に、素直という属性、特質を取り上げようとするのが、余計なもの、依存、同一化を持ち込んでいる、素直がないということでしょうか?
だから、そうではなくて、日常の行動、発言、思考にある、余計なもの、依存、同一化が削ぎ落とされていて、ないとき、素直がある、そういう属性を持つ、日常の行動、発言、思考があるということかな。
それで、余計なもの、依存、同一化とは?
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No.3048 - 2010/12/16(Thu) 09:27:17 |
| ☆ Re: 素直 / ubik0101 | | | その前に、すぐこの下のスレッドに投稿した。これから始めましょう。↓
では質問です。
> 何のためでもなく、ただ質問がある。
というのは、動機なしの質問がある。という意味ですか? それとも、あちこちさんは自分が、無我、だということですか?
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No.3049 - 2010/12/16(Thu) 09:33:51 |
| ☆ Re: 素直 / あちこち | | | ただ質問がある、というのに対して、 動機なしか、無我なのか、と関心が動いたということですね。
答えは、そういう問いには、何も浮かんでこないということです。 それはわざわざ考えるとなると、余計なものにはならないのかなという疑問があります。 そうはいってもそれは私の一方的な感じですから、それではしようがない。
その前に、あなたが、余計なもの、依存、同一化を、どういうものなのか、はっきりさせてください。 そうすると、素直に接近できるでしょう。 そこに戻りましょう。
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No.3050 - 2010/12/16(Thu) 09:50:43 |
| ☆ Re: 素直 / ubik0101 | | | なにかに頼ることによって、頼ってる主体が設定されることです。その、なにか、とは物質、身体、感覚、感情、思考です。
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No.3051 - 2010/12/16(Thu) 12:35:24 |
| ☆ Re: 素直 / あちこち | | | 依存するという意味は、何かに頼るときに、頼っている主体が設定されるような頼り方だということ、余計なものがあると。 そして、主体が設定されない頼り方がある、それは依存していない、余計なものがないということですか。
まず、頼るというのが何なのか問題ですが、例えば、椅子に腰かけるというのは、椅子に頼る例ですか。
そのとき、設定がある、余計なものがあるのと、ないのとの違いは何ですか。 よくわからないので、文脈から、推測してみます。 頼りたいとか、頼る権利があるとか、主張するということ、言ってみれば、それが、主張する主体が設定されるような頼り方であるということかな。それが余計なもの。 ただ椅子に頼り、座るだけ、あるいは椅子がなければないで、床に頼り、横になるとか、何かしているだけ、という場合には、主張する主体が設定されていないような頼り方ということかな。余計なものがない。
要約すると、 頼ることに主張がある頼り方が、依存である。 頼ることに主張がない頼り方、それは依存していない。
これでいいのかな?
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No.3052 - 2010/12/16(Thu) 13:11:42 |
| ☆ Re: 素直 / ubik0101 | | | >そして、主体が設定されない頼り方がある、それは依存していない、余計なものがないということですか。
その余計なこととは、対象になってる、こと、という意味があります。そして、それを対象にすることで設定されてる、頼ってる主体、という意味があります。
そこで否定の道とは、対象・・・おもに思考・・・を否定することで、その設定されてる主体を否定しようとする・・・奥へ奥へと、その主体の中心を探し出そうとする運動です。
たとえば感情に頼らない、思考に頼らない、ということは、頼る原因、理由を失うことです。それは必然として、それは取り敢えずのところのですが、素直、になるしかない、です。
>頼ることに主張がある頼り方が、依存である。 >頼ることに主張がない頼り方、それは依存していない。
しかし、主体が設定されてれば、主張があってもなくても、設定されています。この主張があれば、主体は、その主張によって自覚されるような感じがするかもしれません。
そこで、主張がない、つまり主張によって自覚されるとは思いもしないのに設定されてる、主体、これが問題になりませんか?
それとも主張が、あったりなかったりすることで、そのまま、主体は、あったりなかったりすると思いますか?また、ちょっと飛躍がありますが、主張があっても、なくても主体がない、ということはないですか?
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No.3054 - 2010/12/16(Thu) 14:40:02 |
| ☆ Re: 素直 / あちこち | | | 椅子に座る、椅子に頼るときに、主体が設定されるとは、つまり、対象が設定される、ということでしょう。 主張があるとき、設定した対象があり、それを対象にして、これは権利だと主張して、主体が設定されている。そういう意味の主張です、この場合。 だから、主体、対象の設定というのは、具体的には、例えば、主張があるという場合かな、と、話が合うかどうか、言ってみたわけですね。
主体、対象の設定がないとは、具体的には、例ば、主張がないとき。
で、主体、対象の設定は、対なので、見かけ上、分かれているだけで、同じものでしょう。その設定が、主張の存在が余計なものだというわけですね。
そこまでは、お互いに、話が合っているのかな?
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No.3056 - 2010/12/16(Thu) 17:03:52 |
| ☆ Re: 素直 / あちこち | | | 椅子に頼る話から、感情、思考に頼る話に飛びました。
感情のままに笑っている、例えば、それが感情に頼るということですか。 そのとき、一緒に笑えなどと主張するとき、感情への頼り方に主体と対象が設定され、余計なものがある。
思考を使って、ものを組み立てる。それが思考に頼るということですか。 その時、その思考を、特定のそれでなければと主張するとき、主体、対象が設定されて、頼り方に、余計なものがある。
主張があるときが、余計なものがあり、主張が消えていると、主体、対象の設定がなく、素直であると言えると。 ここまで、お互いに話が合っていそうですね。
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No.3057 - 2010/12/16(Thu) 17:04:34 |
| ☆ Re: 素直 / あちこち | | | 私の話では、主体、対象の設定があるというのは、具体的には主張があるということです。 対象を設定し、どうしろと動きを主張する主体を設定するような、主張があるといういこと。
>主体が設定されてれば、・・・設定されている。
という文章は、仮定文であるし、繰り返しなので、事実を表していません。 何を言いたいのかな? 次のように主体、対象の設定には、段階、連鎖があると言いたいのかな? さまざまな主張、そして主張についての主張とさまざまにありますから、 主体、対象設定と、それについての主体、対象の設定と、さまざまにあります。
ある主張によって、主体と対象が設定されますが、 さらにその主張を対象として、自覚されるような形の主体という設定もありえます。ああ、俺はやっぱりそう主張したいのだといった俺。 主張がない場合というのを対象にして、そのとき、自覚しないが、主体があるのだと動く、主体と対象を設定する動きもあります。 主体と、対象の設定を固定する、依存する、同一化する動きでしょうか。
しかしそれは、結局、主体と対象が設定される、つまり、主張があるという意味では、同じものです。 ここも、お互いに話は合っているのかな? 少し怪しいかな?
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No.3058 - 2010/12/16(Thu) 17:05:08 |
| ☆ Re: 素直 / あちこち | | | 私の話は、主張というのが、何かを対象として設定し、権利を主張して動くという主体を設定する動きのことですから、 主張があるとは、主体と対象の設定があることの具体的な、説明なのです。
で、主張があってもなくても、主体、対象の設定がないという場合があるというのは、具体的なその説明がないとわかりません。 主張がある場合、私の話では、事実に合わず、問題です。 もちろん、主張があり、対象はあるが、主体は自覚されない、あるいは対象も自覚されない、という設定をすることは起こりえますが、それは余計なものがある場合です。 単に、これはこうです、こうすればこういう利点があります、それが勧める要点ですといった説明は、もちろん、ここで言う主張ではありません。 で、ここは話が合っていなくて、食い違いがあるようです。 それでしたら、私の話は一旦、引っ込めます。 では、説明をどうぞ。
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No.3059 - 2010/12/16(Thu) 17:05:44 |
| ☆ Re: 素直 / ubik0101 | | | このままでは検討の主題が煩雑になりそうです。 なので、ここから始めれば全体が見渡せるだろう、という質問を提起します。 ほかに問題があるようでしたら、それはそれで、提示ください。
ここでubik0101が言ってる設定される主体、とは、自我、のことです。それで、自我は自覚されないと、ないのでしょうか?たとえば「権利を主張して動くという主体」が自覚されないと必ず、自我がない、と見るのでしょうか?
たとえば、なんでもない日常・・・ラジオを聞く、エンドウ豆に支柱をたてる・・・それは必ず、自我がない、ということなんですか?そして、なにか主張がある、そのとき、自我、があるんですか?そのように自我は、あったりなかったり、するのですか?という質問です。
これは進められますか?
もっと感単に、はっきり決着する質問があります。 くりかえしますが、
>>それとも、あちこちさんは自分が、無我、だということですか?
と、いうのは。あちこちさんが 無我なら、それを、どう説明しようが、ubik0101とのなにか食い違いがあっても、どこにも問題はないでしょう?それは話すことでない、なら、それもそれでいいでしょうが、互いに無我の有り様を話すほうが、学ぶことがあるし、興味があるのではないですか?
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No.3061 - 2010/12/16(Thu) 20:02:19 |
| ☆ Re: 素直 / あちこち | | | 素直というのは、それが発現するには、余計なもの、依存、同一化が削ぎ落とされるときということでした。 では、余計なもの、依存、同一化とはどんなものですか、という質問で、十分、簡潔だと思います。 それで、ものごとを対象として設定し、権利を主張して動く、主体として設定する主張があるということが、余計なもの、依存、同一化であるのなら、 そのまま簡素に進めると思います。 対象、主体の設定として、主張するという具体的なものに、着目すれば、 余計なものが、具体的なものとして捕まえられるのですから。
だから、次のテーマは、寄り道だと思います。
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No.3063 - 2010/12/16(Thu) 21:24:02 |
| ☆ Re: 素直 / あちこち | | | >権利を主張して動くという主体が自覚されないと、必ず自我=主体がない、と見るのでしょうか?
対象として設定したものに、権利を主張するという動きがあるとき、それが主体の設定でもあるので、 自覚の問題ではなく、見方の問題ではなく、 事実として、それだけで、余計なものがあると、事実として、言えるのでは?
既に検討済みのことを再録すると、 主張して動くときに、その主体の自覚ということになると、 主張する動きを対象として設定して、その主体を自覚するという形で主張があり、主体を対象として設定するという、 二段構えの主張、 つまり、二段構えの対象と主体の設定がある場合があるでしょう。 つまり、実際の対象と主体の設定ではなくて、それについての対象と主体の設定なので、それ自体、さらに余計なものでは?
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No.3065 - 2010/12/16(Thu) 21:25:26 |
| ☆ Re: 素直 / あちこち | | | 権利を主張する動きは、思考のものですから、記憶されているわけです。 それが余計なものなのでしょう? それは、具体的には、ある場面で、権利を主張する、動くという形で、出てくる。主体、対象の設定がある。 主張する動きの新たな作成、あるいは修正、変更もありますでしょう、それが記憶される。
別の場面で、あるい似た場面でも、権利を主張することが起きないこともある。主体、対象の設定がない。 その場面で、主張する動きは全くなく、単なる主張の思い出だけがあるということもある。主体、対象の設定がない。 主張する動きが、そもそも記憶から消えることもある。
主張は思考なので、記憶のものです、 そして、主張は現象的には場合により、あったり、なかったりするのですね。
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No.3066 - 2010/12/16(Thu) 21:26:04 |
| ☆ Re: 素直 / あちこち | | | 無我というのは、余計なもの、依存、同一化、権利を主張する動きがない、素直という意味ですか? 自分は無我か? そういう質問をしても、何も返事は返ってこないということは、すでに答えました。 それについての、説明はありません。
ふと生じる疑問は、元に戻って、素直が発現するには、余計なもの、依存、同一化、あるいは権利を主張する動きが、削り落とされる時だということで、いいのかな、違うのかなということです。 そこらあたりが、まず、余計なものとして、依存、同一化、権利を主張する動きがそうなのかどうか、あいまいで、うまくまだつかめていないのです。 事実関係が食い違うと、それは問題です。それだと、質問して、話を聞く意味がありません。
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No.3067 - 2010/12/16(Thu) 21:27:24 |
| ☆ Re: 素直 / コチコチ | | | 横からしつれい。
> そこらあたりが、まず、余計なものとして、依存、同一化、権利を主張する動きがそうなのかどうか、あいまいで、うまくまだつかめていないのです。
なぜつかみたいのですか?
> 事実関係が食い違うと、それは問題です。それだと、質問して、話を聞く意味がありません。
事実関係が食い違うと、どんな問題があるのですか? 質問して話を聞く意味がないというのは、事実関係が食い違わないことに意味があるということですか? 仮にあったとして、どんな意味があるのですか? 横なので、スルーしていただいても結構でし。
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No.3069 - 2010/12/17(Fri) 00:20:44 |
| ☆ Re: 素直 / あちこち | | | >なぜつかみたいのですか?
ここで取り上げられていた素直というのが何だろうと疑問が生じたということ。 素直が発現するのは、余計なものが削り落とされるとき、という話でしたが、 では余計なものとは何なのかな、事実として、どんなものか、まだつかめていないということ。
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No.3071 - 2010/12/17(Fri) 08:30:01 |
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