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素直 / あちこち
素直な気持ち、気持ちが素直、と読むのは、誤読、不注意である。
ある気持ちや行動に関して、それが素直な属性、特質のものかどうか、そこを話している。

余計なものを削ぎ落とすと、素直が発現する。

素直を言い換えても変わらないものとして、真摯、正確、注意深く、意識的、明々白々がある。
真摯でない、正確でないというのは、もちろん素直でないということになります。

そして、余計なものとは、依存であり、曖昧に言うと同一化ということですが、これは何でしょう。
具体的には、わかりません。

No.3047 - 2010/12/16(Thu) 09:26:24

Re: 素直 / あちこち
ただわからないなりに、文脈から、その意味合いを検討してみました。

ある気持ち、行動を、一定のものだとみなしたままで、固定化しておいて、
それとは別に、素直という属性、特質を取り上げようとするのが、余計なもの、依存、同一化を持ち込んでいる、素直がないということでしょうか?

だから、そうではなくて、日常の行動、発言、思考にある、余計なもの、依存、同一化が削ぎ落とされていて、ないとき、素直がある、そういう属性を持つ、日常の行動、発言、思考があるということかな。

それで、余計なもの、依存、同一化とは?

No.3048 - 2010/12/16(Thu) 09:27:17

Re: 素直 / ubik0101
その前に、すぐこの下のスレッドに投稿した。これから始めましょう。↓


では質問です。

> 何のためでもなく、ただ質問がある。

というのは、動機なしの質問がある。という意味ですか?
それとも、あちこちさんは自分が、無我、だということですか?

No.3049 - 2010/12/16(Thu) 09:33:51

Re: 素直 / あちこち
ただ質問がある、というのに対して、
動機なしか、無我なのか、と関心が動いたということですね。

答えは、そういう問いには、何も浮かんでこないということです。
それはわざわざ考えるとなると、余計なものにはならないのかなという疑問があります。
そうはいってもそれは私の一方的な感じですから、それではしようがない。

その前に、あなたが、余計なもの、依存、同一化を、どういうものなのか、はっきりさせてください。
そうすると、素直に接近できるでしょう。
そこに戻りましょう。

No.3050 - 2010/12/16(Thu) 09:50:43

Re: 素直 / ubik0101
なにかに頼ることによって、頼ってる主体が設定されることです。その、なにか、とは物質、身体、感覚、感情、思考です。
No.3051 - 2010/12/16(Thu) 12:35:24

Re: 素直 / あちこち
依存するという意味は、何かに頼るときに、頼っている主体が設定されるような頼り方だということ、余計なものがあると。
そして、主体が設定されない頼り方がある、それは依存していない、余計なものがないということですか。

まず、頼るというのが何なのか問題ですが、例えば、椅子に腰かけるというのは、椅子に頼る例ですか。

そのとき、設定がある、余計なものがあるのと、ないのとの違いは何ですか。
よくわからないので、文脈から、推測してみます。
頼りたいとか、頼る権利があるとか、主張するということ、言ってみれば、それが、主張する主体が設定されるような頼り方であるということかな。それが余計なもの。
ただ椅子に頼り、座るだけ、あるいは椅子がなければないで、床に頼り、横になるとか、何かしているだけ、という場合には、主張する主体が設定されていないような頼り方ということかな。余計なものがない。

要約すると、
頼ることに主張がある頼り方が、依存である。
頼ることに主張がない頼り方、それは依存していない。

これでいいのかな?

No.3052 - 2010/12/16(Thu) 13:11:42

Re: 素直 / ubik0101
>そして、主体が設定されない頼り方がある、それは依存していない、余計なものがないということですか。

その余計なこととは、対象になってる、こと、という意味があります。そして、それを対象にすることで設定されてる、頼ってる主体、という意味があります。

そこで否定の道とは、対象・・・おもに思考・・・を否定することで、その設定されてる主体を否定しようとする・・・奥へ奥へと、その主体の中心を探し出そうとする運動です。

たとえば感情に頼らない、思考に頼らない、ということは、頼る原因、理由を失うことです。それは必然として、それは取り敢えずのところのですが、素直、になるしかない、です。

>頼ることに主張がある頼り方が、依存である。
>頼ることに主張がない頼り方、それは依存していない。


しかし、主体が設定されてれば、主張があってもなくても、設定されています。この主張があれば、主体は、その主張によって自覚されるような感じがするかもしれません。

そこで、主張がない、つまり主張によって自覚されるとは思いもしないのに設定されてる、主体、これが問題になりませんか?

それとも主張が、あったりなかったりすることで、そのまま、主体は、あったりなかったりすると思いますか?また、ちょっと飛躍がありますが、主張があっても、なくても主体がない、ということはないですか?

No.3054 - 2010/12/16(Thu) 14:40:02

Re: 素直 / あちこち
椅子に座る、椅子に頼るときに、主体が設定されるとは、つまり、対象が設定される、ということでしょう。
主張があるとき、設定した対象があり、それを対象にして、これは権利だと主張して、主体が設定されている。そういう意味の主張です、この場合。
だから、主体、対象の設定というのは、具体的には、例えば、主張があるという場合かな、と、話が合うかどうか、言ってみたわけですね。

主体、対象の設定がないとは、具体的には、例ば、主張がないとき。

で、主体、対象の設定は、対なので、見かけ上、分かれているだけで、同じものでしょう。その設定が、主張の存在が余計なものだというわけですね。

そこまでは、お互いに、話が合っているのかな?

No.3056 - 2010/12/16(Thu) 17:03:52

Re: 素直 / あちこち
椅子に頼る話から、感情、思考に頼る話に飛びました。

感情のままに笑っている、例えば、それが感情に頼るということですか。
そのとき、一緒に笑えなどと主張するとき、感情への頼り方に主体と対象が設定され、余計なものがある。

思考を使って、ものを組み立てる。それが思考に頼るということですか。
その時、その思考を、特定のそれでなければと主張するとき、主体、対象が設定されて、頼り方に、余計なものがある。

主張があるときが、余計なものがあり、主張が消えていると、主体、対象の設定がなく、素直であると言えると。
ここまで、お互いに話が合っていそうですね。

No.3057 - 2010/12/16(Thu) 17:04:34

Re: 素直 / あちこち
私の話では、主体、対象の設定があるというのは、具体的には主張があるということです。
対象を設定し、どうしろと動きを主張する主体を設定するような、主張があるといういこと。

>主体が設定されてれば、・・・設定されている。

という文章は、仮定文であるし、繰り返しなので、事実を表していません。
何を言いたいのかな?
次のように主体、対象の設定には、段階、連鎖があると言いたいのかな?
さまざまな主張、そして主張についての主張とさまざまにありますから、
主体、対象設定と、それについての主体、対象の設定と、さまざまにあります。

ある主張によって、主体と対象が設定されますが、
さらにその主張を対象として、自覚されるような形の主体という設定もありえます。ああ、俺はやっぱりそう主張したいのだといった俺。
主張がない場合というのを対象にして、そのとき、自覚しないが、主体があるのだと動く、主体と対象を設定する動きもあります。
主体と、対象の設定を固定する、依存する、同一化する動きでしょうか。

しかしそれは、結局、主体と対象が設定される、つまり、主張があるという意味では、同じものです。
ここも、お互いに話は合っているのかな?
少し怪しいかな?

No.3058 - 2010/12/16(Thu) 17:05:08

Re: 素直 / あちこち
私の話は、主張というのが、何かを対象として設定し、権利を主張して動くという主体を設定する動きのことですから、
主張があるとは、主体と対象の設定があることの具体的な、説明なのです。

で、主張があってもなくても、主体、対象の設定がないという場合があるというのは、具体的なその説明がないとわかりません。
主張がある場合、私の話では、事実に合わず、問題です。
もちろん、主張があり、対象はあるが、主体は自覚されない、あるいは対象も自覚されない、という設定をすることは起こりえますが、それは余計なものがある場合です。 
単に、これはこうです、こうすればこういう利点があります、それが勧める要点ですといった説明は、もちろん、ここで言う主張ではありません。
で、ここは話が合っていなくて、食い違いがあるようです。
それでしたら、私の話は一旦、引っ込めます。
では、説明をどうぞ。

No.3059 - 2010/12/16(Thu) 17:05:44

Re: 素直 / ubik0101
このままでは検討の主題が煩雑になりそうです。
なので、ここから始めれば全体が見渡せるだろう、という質問を提起します。
ほかに問題があるようでしたら、それはそれで、提示ください。

ここでubik0101が言ってる設定される主体、とは、自我、のことです。それで、自我は自覚されないと、ないのでしょうか?たとえば「権利を主張して動くという主体」が自覚されないと必ず、自我がない、と見るのでしょうか?

たとえば、なんでもない日常・・・ラジオを聞く、エンドウ豆に支柱をたてる・・・それは必ず、自我がない、ということなんですか?そして、なにか主張がある、そのとき、自我、があるんですか?そのように自我は、あったりなかったり、するのですか?という質問です。

これは進められますか?

もっと感単に、はっきり決着する質問があります。
くりかえしますが、

>>それとも、あちこちさんは自分が、無我、だということですか?

と、いうのは。あちこちさんが 無我なら、それを、どう説明しようが、ubik0101とのなにか食い違いがあっても、どこにも問題はないでしょう?それは話すことでない、なら、それもそれでいいでしょうが、互いに無我の有り様を話すほうが、学ぶことがあるし、興味があるのではないですか?

No.3061 - 2010/12/16(Thu) 20:02:19

Re: 素直 / あちこち
素直というのは、それが発現するには、余計なもの、依存、同一化が削ぎ落とされるときということでした。
では、余計なもの、依存、同一化とはどんなものですか、という質問で、十分、簡潔だと思います。
それで、ものごとを対象として設定し、権利を主張して動く、主体として設定する主張があるということが、余計なもの、依存、同一化であるのなら、
そのまま簡素に進めると思います。
対象、主体の設定として、主張するという具体的なものに、着目すれば、 余計なものが、具体的なものとして捕まえられるのですから。

だから、次のテーマは、寄り道だと思います。

No.3063 - 2010/12/16(Thu) 21:24:02

Re: 素直 / あちこち
>権利を主張して動くという主体が自覚されないと、必ず自我=主体がない、と見るのでしょうか?

対象として設定したものに、権利を主張するという動きがあるとき、それが主体の設定でもあるので、
自覚の問題ではなく、見方の問題ではなく、
事実として、それだけで、余計なものがあると、事実として、言えるのでは?

既に検討済みのことを再録すると、
主張して動くときに、その主体の自覚ということになると、
主張する動きを対象として設定して、その主体を自覚するという形で主張があり、主体を対象として設定するという、
二段構えの主張、
つまり、二段構えの対象と主体の設定がある場合があるでしょう。
つまり、実際の対象と主体の設定ではなくて、それについての対象と主体の設定なので、それ自体、さらに余計なものでは?

No.3065 - 2010/12/16(Thu) 21:25:26

Re: 素直 / あちこち
権利を主張する動きは、思考のものですから、記憶されているわけです。
それが余計なものなのでしょう?
それは、具体的には、ある場面で、権利を主張する、動くという形で、出てくる。主体、対象の設定がある。
主張する動きの新たな作成、あるいは修正、変更もありますでしょう、それが記憶される。

別の場面で、あるい似た場面でも、権利を主張することが起きないこともある。主体、対象の設定がない。
その場面で、主張する動きは全くなく、単なる主張の思い出だけがあるということもある。主体、対象の設定がない。
主張する動きが、そもそも記憶から消えることもある。

主張は思考なので、記憶のものです、
そして、主張は現象的には場合により、あったり、なかったりするのですね。

No.3066 - 2010/12/16(Thu) 21:26:04

Re: 素直 / あちこち
無我というのは、余計なもの、依存、同一化、権利を主張する動きがない、素直という意味ですか?
自分は無我か? そういう質問をしても、何も返事は返ってこないということは、すでに答えました。
それについての、説明はありません。

ふと生じる疑問は、元に戻って、素直が発現するには、余計なもの、依存、同一化、あるいは権利を主張する動きが、削り落とされる時だということで、いいのかな、違うのかなということです。
そこらあたりが、まず、余計なものとして、依存、同一化、権利を主張する動きがそうなのかどうか、あいまいで、うまくまだつかめていないのです。
事実関係が食い違うと、それは問題です。それだと、質問して、話を聞く意味がありません。

No.3067 - 2010/12/16(Thu) 21:27:24

Re: 素直 / コチコチ
横からしつれい。

> そこらあたりが、まず、余計なものとして、依存、同一化、権利を主張する動きがそうなのかどうか、あいまいで、うまくまだつかめていないのです。

なぜつかみたいのですか?

> 事実関係が食い違うと、それは問題です。それだと、質問して、話を聞く意味がありません。

事実関係が食い違うと、どんな問題があるのですか?
質問して話を聞く意味がないというのは、事実関係が食い違わないことに意味があるということですか?
仮にあったとして、どんな意味があるのですか?
横なので、スルーしていただいても結構でし。

No.3069 - 2010/12/17(Fri) 00:20:44

Re: 素直 / あちこち
>なぜつかみたいのですか?

ここで取り上げられていた素直というのが何だろうと疑問が生じたということ。
素直が発現するのは、余計なものが削り落とされるとき、という話でしたが、
では余計なものとは何なのかな、事実として、どんなものか、まだつかめていないということ。

No.3071 - 2010/12/17(Fri) 08:30:01
(No Subject) / peer
>たとえば電車に乗ってれば、野が、山が、川が知覚され、
>後ろに去っていきます。


記憶術の本を読んだら、文字を見るだけでOKらしいです。
つまり、後ろに去っていく文字。でも記憶されている。
たぶん、このとき中心はないんでしょうね。
私が記憶せねば、と思うと時間がかかるし疲れます。

>レミングは一匹が崖から海に飛び落ちると、
>つられて集団CENSOREDすると言われています。


鉢植えの植物を一列に並べて、ひとつひとつの電位を計測できるように
しておきます。で、隅の植物に刺激を与えます。
すると、いっこいっこに電位の変化がおきます。
植物でさえ、仲間に何か伝える手段がある。ようです。
なにか・・・キケンを伝え合うような。

>そうでなく、なにを行動するか、考えてるか、感じてるかの
>・・・その自分・・・主体の発生の、ための人です。


はい。動物にも、たぶん植物にも意識のようなものは、ある。
しかし、人間は、自分が考え感じていることを、意識できる
存在であり。そこが、人間の特徴だと言える・・・のでしょう。
「あー、今こんなことを考えている」というのを知っている。
まっ。不完全ながらも、自分を客観視できるんですね。
客観視できるから、他者の心理も推測して動く・
間違っていたら修正する。
問題になるのは固定化してしまうことでしょうか。
先入観。こだわり。決めつけ。

No.3006 - 2010/12/13(Mon) 04:15:59

Re: / あちこち
> しかし、人間は、自分が考え感じていることを、意識できる

生きている自分も含めた現実の世界の動きの、思考上のモデルを持っている。

> 間違っていたら修正する。

生きている現実の世界と比べて修正すると、現実に沿える。

もう一つ、現実の世界と混同して、思考上のモデルの世界で戦うと大変?

No.3008 - 2010/12/13(Mon) 12:24:15

Re: / ubik0101
peerさん

まったく意識してなくても、ふと思い出したりします。と、いうことは記憶されたことは、そのとき意識されてなくても、ある、ということなのでしょう。それで、まったく意識してないのに、ある、と、ない、この違いがあります。

たとえば、ある人が庭に花を植えています。その人はピアノが弾けます。ほかの人も庭に花を植えています。その人はピアノが弾けません。その人達は、どちらも花を植えています。そのとき、どちらもピアノのことを意識してもいません。ここに違いはないのですが、弾く技術の、ある、ない、違います。

そ、いえば。この家の庭には、玉すだれ(ゼフィランサス・白花)の群生があります。それが年に3、4回ほど、なにか合図があるように、一斉に咲きます。それも群生から、ぽつん、ぽつんと遠くに離れたところにある玉すだれ数株も、そのとき一緒に咲きます。

ところで、見る聞く思考する。これは、なぜそれが可能なのか?とても不思議です。ただ見たことが、ただ見たこととして、ただ見える。それが、どう不思議なのか解れば説明はできるのかもしれません。

No.3009 - 2010/12/13(Mon) 14:23:53

あちこちさん / peer
>生きている自分も含めた現実の世界の動きの、思考上のモデルを持っている。

はい。モデリングします。
動いている最初に観たモノを親だと刷り込まれるヒナように。

>> 間違っていたら修正する。

>生きている現実の世界と比べて修正すると、現実に沿える。

自分のココロのレベルで現れるモノが現実なのかも。
泥棒ではない人は、家に鍵をかけない。
ウソつきではない人は「これはウソだ」と疑うこともないでしょう。
自分のココロのレベルで、世界を観ます。

世界を見て、考えた事・感じた事が、そのまま自分のココロのレベル。
で、世界が辛いと考え感じるなら、辛い世界を変えるのではなく
自分のココロのレベルを見直すしかないと思います。
それこそ「自分を知れ」・・・じゃないでしょうか。
考え・感じ、の、真実の姿を見れていないのですから。
どうやって自分を見るか・・・、そこで智慧があるかないか。ですね。
智慧というのは、そこにある真実を見る力のこと。
じゃないかなぁ。

No.3013 - 2010/12/14(Tue) 02:22:37

ubik0101さん / peer
>ところで、見る聞く思考する。これは、
>なぜそれが可能なのか?とても不思議です。


見る聞く思考する。だけならゴリラも、やっている。
とりあえず、そういう機能が備わっている。
というしかないですね。
どうしたら、どう機能するのかは、解明されつつあり
その機能を模したロボットなどが作られます。
目の機能を探究してカメラが作られたり。

ただ。どうしてそんな機能が与えられているのか
それが、わかりません。
進化論。環境の変化に対応して、様々に変化するように
それが必要になったから、、、。
必要でなくなった機能は退化します。

自分が考え感じていることを、意識できるのは
人間でも7歳くらいから見受けられる機能です。
・・・それまでは「いま」だけで生きているんですね。

No.3014 - 2010/12/14(Tue) 02:23:54

Re: / ubik0101
なにか、空の鳥とか野の花とかが自分というわけではなく、空の鳥とか野の花とか家とか山とかを含む空間、それが自分に浸透してて、それが、見る、ということなんです。

どして不思議なのか・・・説明するとですが・・・対象を対象化せずに、とくに対象にしてる主体も、そうしてる主体ではなく・・・見たり聞いたり思考したりされてる、ということです。

つまり、世界と素通しなんです。見えてる、ことのほかに、なにも、見ることに要しないのです。おなじく聞こえてる、思考してる、ことのほかに、なにも、そうすることに要しないのです。

No.3016 - 2010/12/14(Tue) 07:56:13

Re: / peer
うん。
それが智慧が顕われている状態。なんだと思うのね。
様々な表現が様々な人の口から語られるけれど。
そして、それは、やって来るものだから。突然に。
前触れもなく。・・・道はない、んですね。

No.3028 - 2010/12/15(Wed) 03:30:51

Re: / ubik0101
それが山手線の電車の中で床に、しゃがみ込んだときに突然、起こったときには、ほんとに驚きました。世界と素通しなんです。

そして、そのことを一人の友人に話したけど「それは、後になって、そうだと判るんだ」と言いました。違うんです。

そ、だということを、そのとき電車の外とか中とか自分の中、あちこち意識の終点を動かして確認したのです。それは10分か20分かのことでした。けど今は、一人あれば、日常が、そうです。

まあ、とても説明ですが、日常が神秘の、その神秘も失われるところ、です。感覚器官と、その対象。意識と、その対象。つまり「一切」も忘れるところ、です。

No.3032 - 2010/12/15(Wed) 16:09:26

Re: / peer
>そのことを一人の友人に話したけど
>「それは、後になって、そうだと判るんだ」と言いました。


自分がありながら、その中に居る状態だと
あちこち意識の終点を動かして確認することができるし。
自分がなくなって、それに包まれている状態だと
後になって、そうだ。。。と理解する。しかできない。
のではないかなぁ〜と。
たとえば
チャクラの中に飛び込んだ時と
チャクラが開いて包まれた時の違いみたいな〜。

No.3044 - 2010/12/16(Thu) 02:14:14

Re: / ubik0101
では。というわけで、実験してみました。なにかの物に意識があってると、ほとんど忘我です。それで、ちょっと引いて世界を見渡して、焦点の移動、そのことが見られるか?と思いました。というのは滑らかに焦点が移動した、その自覚の経験があって、鮮やかな印象があったからです。でも、できませんでした。

そして空間を見てると、どこかに焦点があってることではない、ので変えられません。そして人とか車とか動く物は、その残像が漂います。

この物が明確に見える状態と、空間を見てる状態、の切り替える瞬間が見えるか、とも思いました。これもできなかったです。

>後になって、そうだ。。。と理解する。しかできない。

あとになって意味が読み解ける、ということはあっても。たとえば・・・ない自分に気がつく・・・幸福感が伴う幻覚も・・・そのことの知覚がない、というのは、ないです。まあ気絶とかなら、気絶してたんだ、と、後で、その最中の感覚、はあります。

チャクラについては、明確には自分の経緯にないと、思います。

No.3060 - 2010/12/16(Thu) 18:20:22
(No Subject) / 雄大
体験は重要だろうか?

体験は来ては去るものであり、経験する者が残る。

感覚する身体、精神に依存するのではないか?

感覚器官を超え、感覚を超たものはそれが無ければ何も成り立たないものだ。

我々の身体も心もそれの中で起こる。
残念ながら真理も神も限られた身体と精神に帰属してはいないのだ。
別の電車が動き出せば
止まっている電車が動いたように見えるだろう。

その様に継続する私がいるような実感としての幻想を与えている。

連続する自分、継続する自分もただの感覚の1つに過ぎない。

神秘体験はそれ以外のもの全てに支えられているが、神秘体験とそれを経験したものに切り取る習慣は何処から来るのだろうか?

半年前に下手くそな拳法を練習中に突き指をして親指と人差し指の第一関節が曲がらなくなった。

突き指した当初は電気が走った感覚だけだったが、夜中に両腕の痛みで目が覚めた。痛みで両腕が上がらず寝返りも打てずに苦しんだ。

やはり打撲は怖いなと改めて感じた。
痛みを取るために少ない知識をフル動員して自己治療した結果24時間後には両腕は上がるようになり痛みも若干軽減した。

1ヵ月後痛みもほとんど無くなった頃、左手の親指と小指の第一関節が動かないことに気がついた。
ヮ−ルドカップ決勝の始まる夜中に発症したのでかれこれ半年になる。

医者は嫌いだが障碍者手帳を取得するために検査に行った。
レントゲンからCTまで検査を受けたが原因不明という診断。

しかし打撲して腫れたわけでもないのに何故レントゲンを採るのか分からない。医者にすれば第一関節が曲がらないのは神経から来ているのではないかと仮説を立てた結果のCT検査だったのかもしれないが、指には感覚があるが第一関節が曲がらないのだから其の検査も疑問だ。

私から見れば医者が儲ける為に無駄な検査をしているとしか思えない。

放射線を浴び時間とお金を無駄にして原因不明の診断ならはじめから専門医を紹介しろよな、という反応があった。

過剰な検査と投薬は止めて欲しいものだ。
少なくとも投薬も手術も診断と仮説と治療法のリスクを説明すべきではないか。と連想ゲームが続いていた。

全ては起こるべくして起こるのだから私がするというのは幻想に過ぎない。

しかしCTは拷問ですね。

No.2997 - 2010/12/12(Sun) 02:07:12

Re: / ubik0101
たとえば世界と素通しになること・・・いない自分に気がつくこと・・・そのようなことは痕跡も残さず通り過ぎて行きました。

でも、自我は虚構、を見て、それを見てる、自己、の自覚。それは、それが、それの原因である実在に繋がることでもあります。

そのことで・・・自分はない・・・という自我が発現。それは体験と体験者の分離でもあり、体験を解凍するまで、体験者を残してしまいました。

そいえば、この春、入院しました。レントゲン10数回、そして造影剤で身体が熱くなる CTスキャン、それで胸に縦一文字の手術痕です。

それからスコップでの庭作業で、右手の小指がバネ指になって動かなくなったけど、これは放置で、治りました。

No.3001 - 2010/12/12(Sun) 14:12:24

Re: / 夜の虎
ubik0101さん こんにちは


> でも、自我は虚構、を見て、それを見てる、自己、の自覚。それは、それが、それの原因である実在に繋がることでもあります。
>


ここでubik0101さんがいわれる、自我と自己、実在とはそれぞれ何を指すのでしょうか?


> そのことで・・・自分はない・・・という自我が発現。それは体験と体験者の分離でもあり、体験を解凍するまで、体験者を残してしまいました。

体験と体験者の違いとは?

No.3002 - 2010/12/12(Sun) 17:52:39

Re: / ubik0101
> ここでubik0101さんがいわれる、自我と自己、実在とはそれぞれ何を指すのでしょうか?

なにかを行動したり見たり聞いたり思考したりする、そのことによってつくられる、仮の自分、それが自我、です。

そういうことを度外視しても、なにか自分がいなければ、なにかを行動したり見たり聞いたり思考したりできるのは、まったく、あり得ないほど奇妙ではありませんか?

なので、まず予め自分があって、なにかを行動したり見たり聞いたり思考したりする、と思い込んでる。思い込まされてる、のです。なにが思いこませてるのかと言えば、世界、です。

つまり、ないのに、あるとして、見たり聞いたり思考したり機能する、自我は虚構なんです。けど、自分は、あるとも思わないほど、ある。それが、あまりに当然という暗黙の理論が働いてるかのようです。そいうトリックに掛かってる、とも言えます。

この暗黙の理論を打破するほどの観察とか、思考ができればいいのですが、それは困難です。それよりも簡単といえば、自我は虚構、を見破る体験するほうが、簡単なんです。

そのような自我なんですが。あくまで喩えですが。それは小さな弱い苗を守るための添え木のような機能を果たしています。そんな自我は、けっこう傷つきやすくて、自分を守る傾向にあるでしょう?

そして苗が生長して樹になったら、もう支柱は不要です。かえって邪魔です。その成長した樹、それが自己、と喩えられます。ないのに、あるとして機能する自我から、ある、自己、を育てる、そんな戦略が世界にあるようです。

この世界が、この世界に依存しない、添え木が不要な、自己、を育ててるとも言えます。それは、仮の自分ではない、主体、です。けど。ただない、自我、ただある自己、は知覚の範疇にはない、です。

ところで、この世界なんですが。それは、とある、もの、ことを取り出して考えると、その、もの、ことは、独立してあるわけではないでしょう。依存しあって、機能してるのではないでしょうか。つまり、それ自身が、それ自身に原因がないのです。これは、あるでもないでのでもない、です。それが知覚の範疇です。

ところが、自己は、それ自身の、それ自身に原因・・・実在・・・ほかの言い方では、神・・・との関係にあります。その関係が、愛、です。これはやはり体験しかないかもしれません。これを体験すると、ほかの人にも、体験してもらいたいと望むようになります。

>体験と体験者の違いとは?

そんな体験をすると、おおくの場合ですが自分は、ない・・・無我・・・に偏ります。それだけなら、まあ、いいのですが、そういうことを対象化してしまう傾向にあります。つまり、対象にしてる自分、体験者、の発現です。

それは、それでも問題ないのですが、自己、というのは、世界に依存しないのです。その範疇にないのです。だけど、この体験者は、体験に依存してしまう可能性から逃れることは難しいのです。

それは自分の体験を解凍すればいいだけのことなんですが。理解、して忘れればいいだけなんですが・・・それを意識に教える、と呼んでいますが・・・困難、と言えば、困難です。

No.3003 - 2010/12/12(Sun) 20:07:48

Re: / hato

>> 全ては起こるべくして起こるのだから私がするというのは幻想に過ぎない。


ほんとうに?


>> それは自分の体験を解凍すればいいだけのことなんですが。理解、して忘れればいいだけなんですが・・・それを意識に教える、と呼んでいますが・・・困難、と言えば、困難です。


誠に。そのようです。

そこで最強ubikスプレーが効くはずなんだけど。いつでもどこでも、見つけたなら役立ちますよ。フィリップ・K・ディックが、言ってました。

hatoの読みたて新鮮メモでした。

No.3004 - 2010/12/12(Sun) 21:01:43

Re: / 夜の虎
ubik0101さん ありがとうございます。
大変難解な回答を戴いたために、要点を確認したいと思います。

まず自我ですが、
例えば、私が物を見て何かを感じ、思考する。
その時に、何かを感じる以上、感じる主体があるはずだと、主体を想定する。
しかしこの主体は架空のものである。
それが自我である。
そして架空の主体を思い込ませようとしているのが世界である。
ここでは世界とは何か? という新たな問題が生じます。

次に自己ですが、自我が成長したものである。
ここで成長とは、何がどのように成長するのかは不明ですが、自我が己を守る傾向があるのに対し、事故は己を守ろうと言う傾向がない。
つまり自己とは、質的に強くなった自我か、自身に無関心となった特殊の自我である。
自己とは、自我と基本的に同一のものである。

次に実在ですが、自己自身の原因である。
すると、自己は自我であり、自我が虚構で、世界により思い込まされているのだから、実在とは虚構であると言うことになります。
しかし、実在と言う通常の意味と、虚構とは相反するようにも思えます。
何かの錯誤があるように思います。

体験と体験者とは、
体験とは通常の経験であり、体験者とは主体を対象化することである。


以上ですが、いかがでしょうか?

No.3011 - 2010/12/13(Mon) 15:39:21

Re: / ubik0101
>まず自我ですが、
>例えば、私が物を見て何かを感じ、思考する。
>その時に、何かを感じる以上、感じる主体があるはずだと、主体を想定する。
>しかしこの主体は架空のものである。
>それが自我である。
>そして架空の主体を思い込ませようとしているのが世界である。


ここで、夜の虎さんが言ってる「私が物を見て何かを感じ、思考する」の「私」と、自我、それは同じことです。つまり私のほかに自我があるわけではないです。たとえば夜の虎さんが、すこし前に引用した「我思う、ゆえに我あり」風に言えば、「思うゆえに我あり」です。

>ここでは世界とは何か? という新たな問題が生じます。

この世界とは、物質、身体(感覚器官)、感覚、感情、意識、です。つまり人のことです。この“掲示板”のタイトルに・・・この世界は人を覚醒させる触媒です・・・とありますが、文章だけを見ると矛盾ぽいです。でも、ほかの言い方もなく、それを承知で言っています。

>次に自己ですが、自我が成長したものである。
>ここで成長とは、何がどのように成長するのかは不明ですが、自我が己を守る傾向があるのに対し、事故は己を守ろうと言う傾向がない。
>つまり自己とは、質的に強くなった自我か、自身に無関心となった特殊の自我である。
>自己とは、自我と基本的に同一のものである。


これは、まったく違います。 こんな言い方は好みませんが、自我と自己、次元が違います。

(a)よく喩えで、自我の死、と言われます。ここでは自我の完成と言います。その体験当時は、そのことによって、自己は与えられる、と感じていました。そうすると始まりがあるわけです。それは、どうも変です。

(b)そうでなくて。もし始まりがなく、初めから人が自己なら、なんの迷いも、たとえば自我も、自己を忘れることも起こりようがないので、これも、どうも変です。

それで、どっちを採っても、実情にあいません。でも、なんにしても理論的に探るのは、ほとんど不可能。その体験をするのが圧倒的に簡単。ということには変わりません。

おそらく、世界と人の関係とか、始まりの、あるない、とか、わけの分からない矛盾なくしては、この世界は、人を自己たらしめる、この世界であることは困難だからかもしれません。

また体験とは、この矛盾を飛び越えることでもあります。そこは底知れない深い淵があって、そんなこともあって、元の自我に戻るのは困難です。

>次に実在ですが、自己自身の原因である。
>すると、自己は自我であり、自我が虚構で、世界により思い込まされているのだから、実在とは虚構であると言うことになります。


これも違います。実在とは、それ自身が、それ自身の原因。ほかの言い方では、第一原因。神。ただある、です。そして、ただない、も知覚の範疇にはありません。単純な説明ですが、この世界は、ただあるない、どちらでもなく、知覚の範疇です。

>体験と体験者とは、
>体験とは通常の経験であり、体験者とは主体を対象化することである。


その体験とは、世界の総活動に触れる。なる、そんな体験です。たとえば善と悪、優と劣、嬉しいと悲しい・・・ありとあらゆることが一気に活動することです。「体験者とは主体を対象化することである 」は、まあ、そうです。

No.3012 - 2010/12/13(Mon) 19:50:14

Re: / 夜の虎
お返事ありがとうございます。

> ここで、夜の虎さんが言ってる「私が物を見て何かを感じ、思考する」の「私」と、自我、それは同じことです。つまり私のほかに自我があるわけではないです。たとえば夜の虎さんが、すこし前に引用した「我思う、ゆえに我あり」風に言えば、「思うゆえに我あり」です。
>


なるほど なんとなくでありますが、理解しました。

> この世界とは、物質、身体(感覚器官)、感覚、感情、意識、です。つまり人のことです。この“掲示板”のタイトルに・・・この世界は人を覚醒させる触媒です・・・とありますが、文章だけを見ると矛盾ぽいです。でも、ほかの言い方もなく、それを承知で言っています。
>


ここで言われる「人」とは、通常我々が言うところの人間から「自我」を引いたものですか?


> これは、まったく違います。 こんな言い方は好みませんが、自我と自己、次元が違います。
>
> (a)よく喩えで、自我の死、と言われます。ここでは自我の完成と言います。その体験当時は、そのことによって、自己は与えられる、と感じていました。そうすると始まりがあるわけです。それは、どうも変です。
>
> (b)そうでなくて。もし始まりがなく、初めから人が自己なら、なんの迷いも、たとえば自我も、自己を忘れることも起こりようがないので、これも、どうも変です。
>
> それで、どっちを採っても、実情にあいません。でも、なんにしても理論的に探るのは、ほとんど不可能。その体験をするのが圧倒的に簡単。ということには変わりません。
>
> おそらく、世界と人の関係とか、始まりの、あるない、とか、わけの分からない矛盾なくしては、この世界は、人を自己たらしめる、この世界であることは困難だからかもしれません。
>
> また体験とは、この矛盾を飛び越えることでもあります。そこは底知れない深い淵があって、そんなこともあって、元の自我に戻るのは困難です。
>


自己についてはよく理解できません。
自我とは次元の違うもの。でその内実は?
真の主体? 変化しない主体? そんなニュアンスでしょうか?

> これも違います。実在とは、それ自身が、それ自身の原因。ほかの言い方では、第一原因。神。ただある、です。そして、ただない、も知覚の範疇にはありません。単純な説明ですが、この世界は、ただあるない、どちらでもなく、知覚の範疇です。
>


ここで言われていることは、我々が世界と呼んでいるものはただ知覚の範疇にあるだけのものであり、知覚外のもので第一原因が実在である ということでしょうか?

もしそうならば、どのようにして実在を知ることができるかと言う問題がありますが、これは以前言われた超意識なるものですか?

> その体験とは、世界の総活動に触れる。なる、そんな体験です。たとえば善と悪、優と劣、嬉しいと悲しい・・・ありとあらゆることが一気に活動することです。「体験者とは主体を対象化することである 」は、まあ、そうです。

理解しました。

No.3024 - 2010/12/14(Tue) 15:16:07

Re: / ubik0101
>ここで言われる「人」とは、通常我々が言うところの人間から「自我」を引いたものですか?

それは、人一般、のことです。でも、ubik0101にとっては、ubik0101個人のことです。

>自己についてはよく理解できません。
>自我とは次元の違うもの。でその内実は?
>真の主体? 変化しない主体? そんなニュアンスでしょうか?


ほとんど、そう、です。と、いうのも。どんなイメージも誤りで、どんな対象にもならず、どんな意味のありそうな名前でも呼べません。ただ、自己、と呼びます。

>ここで言われていることは、我々が世界と呼んでいるものはただ知覚の範疇にあるだけのものであり、知覚外のもので第一原因が実在である ということでしょうか?

まあ、そう、です。と言うのは、この世界に生きて、それを体験することができるからです。なので。この世界を、相対界、現象界とか呼んで・・・第一原因を、(空想の対象の意味で)神、実在界とかとか呼んで・・・あたかも、ほかにあるような表現するのは好みではないです。

>もしそうならば、どのようにして実在を知ることができるかと言う問題がありますが、これは以前言われた超意識なるものですか?

そうです。知覚、意識が総活動したら、知覚、意識を超えます。それが、体験、です。これは起こることです。

No.3031 - 2010/12/15(Wed) 16:02:05

Re: / 夜の虎
ubik0101さん ありがとうございました。
No.3055 - 2010/12/16(Thu) 15:27:25
(No Subject) / 雄大
連続する体験者というフィルムが存在を通して感光されるが、存在と感光されるフィルムをも超えたものは直接知ることは出来ずかつ何も排除しない。

時間も空間も超えたそれの中で時間も空間も現れる。

何故特定の身体から世界が現れるのか?

対象の陰として現れる2番目の私はそれの入り口である1番目の私の依存しているが、実はそれらを関係として認識するのは思考が創り出した世界なのだ。

光と水蒸気と見る角度が虹を作り出すのと同様に私の身体と自我が世界の中に済む錯覚を与える。

身体にメスを入れるのは凄い事ですね。
西洋医学の暴力的な感性には疲れさせられます。

1つの部品が車を構成するような世界観で、1つの細胞が分裂し複雑化していく身体に当てはめるのは理解し難いことですね。

明日は月曜日、子供をお風呂に入れて寝かせます。

何か特別な体験を持つという人に対して私も同じ体験が欲しいと権威にひれ伏す事の意味は私とあなたと彼、彼らが世界に存在するという世界観がそのまま顕わされてしまっている。

起こることは起こる、何か特定の原因からではなく全てが原因であり結果として起こった瞬間夢のように消えていく、それが存在すると言えるものなのか推測なのか。

中心からの対象への欲望ではなく軸のない必要が世界を満たしていくのだから何も残らないのではないだろうか。

現れた瞬間消える今にしかない質は何か。
私が何かをする、それは幻想。

No.3005 - 2010/12/12(Sun) 22:24:43

Re: / 雄大
今日はある整形外科医から紹介された手専門の整形外科医で診察を受けた。

診断結果は骨間神経麻痺であった。
原因はウィルス説等2、3あるらしいが不明なのだそうだ。

で身体の別な場所から靭帯だったか何かを移植する手術をするとか言われたので丁重にお断りをした。

薬について情報公開しているように病気に対する治療法や其の治療法についての情報も一般人が自由にアクセス出来る様にすれば良いのだ。

そうすれば過度な診断や治療,投薬も無くなるのではないかな。

ま医療業界は特権的な集団だから抵抗も大きいだろうが、国家予算削減にも貢献することだと思う。

バビロニア、エジプトなどの特権階級が支配する官僚主義ではなく、ギリシャのような民主主義に近づけて欲しいものだ。

医者という権威に妄信してしまう人達を見ているとあまりに哀れだ。

多少時間がかかったとしても自然に治癒するのが一番だ。
思考のリズムではなく身体にとって必要な待ち時間がある。

手遅れと言う言葉に恐怖するが、やりすぎという言葉には注意を向けない。

全ての権威を疑うことは重要な事だ。

理解が単なる結論なら何も変わらない,生き方そのものがその人の理解を表現しているわけだ。

知っていることと実際そうであることは違う。

No.3027 - 2010/12/15(Wed) 00:11:18

Re: / ubik0101
レントゲンをみて、手術以外の手段があるかもしれない、とは思えませんでした。 ubik0101の手術には3人の医師があたりました。一人は、やってやった、と喜び。一人は、癒着とか浸潤がなく、ラッキーでした。と言い。一人は触診しながら、意外でした。と言いました。百万円くらいの費用だそうですが、高額医療制度のおかげで、数万円ですみました。

そいえば病院で。斜め向かいのベッドの人、もう2ヶ月も入院していました。そして毎回のように食事に文句を言います。手術する人は、すぐに退院して行く。皮膚筋炎で自分は2ヶ月も入院して、毎日2錠の薬を飲むだけだ。手術の人はいいなあ。とか、ぼやいていました。

ある日、胃カメラの検査から病室に帰って来て。胃ガンだった。画像を見てると、蜘蛛みたいなのが、あった。その組織の一部をピンセットみたいなので、ピッ、と取った画像を見た。医師は知ってたんだ。とか、 言います。なにか考え深そうにしていました。どうなったか知りませんが、うーん、です。

No.3034 - 2010/12/15(Wed) 16:56:59

Re: / 雄大
昔聞いた話ですが、ある人が診断のために県をまたいで3つの病院で診察を受けた。

もちろん他の病院で診察を受けていることは内緒でです。
すると驚いたことに3つの病院の診断が3つとも異なっていた。

別の例ではある人がある病院で入院していた。原因が不明なので同じ病院の別の課に移った。

別の課の先生が診断したところ何故こんなになるまで放置しておいたのかと親族に対して怒ったそうだ。

いや昨日まで隣の課で入院してましたと親族が答えたら医者は沈黙したそう。で数日後に患者は死亡した。

その患者の親族は恨み言は言ったが泣き寝入りした。

ま、こんなことは氷山の一角だろうと思います。

ものがないと言う事と、ものそれ自体としてはないということでは意味が異なる。

あるものは同じものを原因として生まれたのか、あるいは異なるものを原因として生まれたのか、あるいは同じものまたは異なるものを原因として生まれたのか、あるいは同じものでも異なるものでもないものから生まれたのか?

病院で検査しているだけで身体の調子が悪くなる様な気になります。

No.3043 - 2010/12/15(Wed) 22:20:51

Re: / ubik0101
>あるものは同じものを原因として生まれたのか、あるいは異なるものを原因として生まれたのか、あるいは同じものまたは異なるものを原因として生まれたのか、あるいは同じものでも異なるものでもないものから生まれたのか?

あるものは、その、あるものが原因ではありません。しかも、なにが、どう原因かも、不確実。しかし、あるものは、あるものとして生起します。それで、あるものにも、その仕組みにも依存できて、しかも依存できない、となってるようです。

そ、いえば集中治療室で隣のベッドの人、かなりの高齢でしたが、一晩中、わめき散らし暴れていました。CENSORED未遂でした。これも、うーん、です。

No.3053 - 2010/12/16(Thu) 13:31:25
(No Subject) / あちこち
>《困った、な》という気持を「検討しますか?」ということ・・・それは思考の不連続を話すことに繋がることです。

お互いに取り上げている、当初の素直な気持ちを検討するに際して、
非常に違うという感じが生じ、一旦、思考が止まった、思考の不連続があった。
そこで、検討は、その思考の不連続を話すことに繋がると素直に感じた。
そこで、その思考、その自分を検討しようかどうか疑問、提案が生じました。
そして、そこを学びます。

それで、お互いに取り上げている、当初の素直な気持ちはどうなったのでしょう?

No.3007 - 2010/12/13(Mon) 11:07:20

Re: / ubik0101
もしかして、当初の素直な気持ちとは、これのことでしょうか。

------------------------------------------------------
(No Subject) / あちこち

>あさ、布団の中で、さっと起きて何かがしたい感じがする。
>ぬくぬくと寝ていたい感じもする。


>どちらが素直な気持ちだろう。

>葛藤しているのが素直な気持ちだろうか?

>葛藤なしに、単に二つのの感じがあるというだけのことか?

No.2865 - 2010/11/10(Wed) 08:20:30
------------------------------------------------------

では、あちこちさんの言う、葛藤、の定義が必要です。自分が分裂して自分と闘ってる、ということを指すのでしょうか。そんな、自我の機能の一側面を指すのでしょうか。とりあえず、そうだとして進めます。

>葛藤しているのが素直な気持ちだろうか?

これは、葛藤してる人が、葛藤してると、自分で素直に判るだろうか?という疑問なんでしょうか。ならば。ある人が、自分は自我に縛られてると判っただけで、それから解放されることは困難でしょう。解放されてから、これまでずっと自我だった、との了解は得られるでしょう。

>葛藤なしに、単に二つのの感じがあるというだけのことか?

たとえば、ぬくぬく寝てるのに、「ぬくぬく寝ていたい」と思考するのは、寒いとか疲れてるとかで、さっさと起きて何かをしてないという状態です。それで、「さっと起きて何かがしたい」という思考がでるのでしょう。自我の機能というほどではないにしても、それを葛藤と呼べば、呼べるでしょう。

No.3010 - 2010/12/13(Mon) 14:30:42

Re: / あちこち
おや、出だしに話は戻りました。やり取りの話が違いすぎて、どこに戻るか、困ったなと思いが途絶えたということでした。では、出だしに戻って、そこを仕切り直しで見直します。素直な気持ちって何だろう?

どうしようかとぐずぐずする気持ち、葛藤がある場合と、単に二つの感じがある場合が検討されています。その場合ついて検討したいのですが、

その前に、どちらが素直な気持ちだろうという質問がありました。そこは、すっと素通りされています。ここは、こちらが素直な気持ちに決まっているでしょう、と進んで行くといったことは何もないということでしょうか。

No.3015 - 2010/12/14(Tue) 07:49:15

Re: / ubik0101
もし布団で眼が覚めて、そのままで、とくになにかないなら、「ぬくぬくと寝ていたい感じもする」も「さっと起きて何かがしたい感じがする」も、ありません。つまり、ひとつの気持もありません。

また、 さっと起きて何かをしてるなら、とくに何かないなら 「ぬくぬくと寝ていたい感じもする」も「さっと起きて何かがしたい感じがする」も、ありません。つまり、ひとつの気持もありません。

ということは、すでに返事したと思います。

それでも、どっちかとして仮定して検討できることがあるなら、どっちでもいいですが「ぬくぬくと寝ていたい感じもする」を、素直な気持ちとして、検討してください。

No.3017 - 2010/12/14(Tue) 08:11:04

Re: / あちこち
では、次に進みます。

素直な気持ちというのは、自分で素直に判る気持ちのことですか?
話が違いすぎて、どこに戻るか困った、ここを検討しようかどうしようか、という素直な気持ちが生じた、それは自分で素直に判る気持ちです、ということでしょうか。
そこを主張しておられるのですか?

起きたいのと、寝ていたいのとの気持ちの間で、ぐずぐずしている気持ちがあるとき、葛藤があるとき、
それはもちろん、ぐずぐずしている気持ちは、はっきりそんなふうに意識されるでしょうが、それを素直な気持ちとして、そこで、どう問題があるのでしょうか?

No.3018 - 2010/12/14(Tue) 08:20:35

Re: / ubik0101
なんだかの気持が生じたとします。それは自覚できます。自覚されてるのは、その気持だけです。それは水を飲んだら水を飲んだ、と自覚できることと変わりません。それは、変な言い方ですが、ことさらの観察者を要しません。

つまり、その気持と類似の気持、反対の気持ち、無関係な気持、それらがない・・・水ではなくジュース飲みたいとか、公園に行こうとかが、ある気持の裏に隠れてはいない・・・ということです。それらがあるなら、いわゆる観察者を要するかもしれません。

もちろん、いろいろあっても、問題がないのです。それはもともと、観察者がいない、からです。たとえば、布団でぬくぬくしていながら、世界って何だろう?と探ります。さっさっと起きて、畑に種を蒔きながら、あるない、の機能を探ります。

ここで言いたいのは、ある気持が自覚されると観察者がある・・・つまり葛藤がある・・・ということではなく・・・ある気持の、あるない、と観察者の、あるない、は連動してはないということです。観察者があるなら、ある。ないなら、ない。違いがあると言えば、それだけです。

もっと極端を言えば、布団でぬくぬくしていながら・・・ふつうは、そう思考するまでもなく、そうなのですが・・・ 布団でぬくぬくしてると思考しても・・・無問題・・・それは事実の認識・・・ということです。

たとえば、水を飲んだら・・・なにかの病気でなければ・・・水を飲んだと自覚できるということです。そして水を飲んだと思考しても、事実の認識だ。ということです。これは、命名、だと捉えられるかもしれませんが、そうでなくて、ここから展開できることもあります。

ところで、まずは。観察者が、あるない、これを解決しないで、葛藤があるとかないとか言っても、単なる空想かもしれません。これは主張というより、ただ事実ではないでしょうか。で、質問です。観察者の、あるない、どいうことでしょうか?

No.3019 - 2010/12/14(Tue) 09:51:30

Re: / あちこち
二つの感じがある場合を、何かをしようとして、思考する場合として取り上げられています。
二つとも、あるいは一方を、思考のものとして取り上げられています。

しかし、その検討の前にちょっと質問があります。
その場合だけなのかな。生理的な感じとして、過ごしている状態として、ふわっと、いくつかのものがあるときがありませんか?
ふと目が覚めかかっていて、さっと起きて体を動かしたいあふれるエネルギー感もあれば、ぬくぬく眠っているその心地よい感じも、ふわっとある。それらの感じのまま、全体を感じていると、いつの間にか、また寝入ってしまったり、あるいは、ふと、起き上がっていたり。
そのときは、ある場面で、いくつかの感じがある、そしてその経過中で変化もあるのが、素直な気持ちなのかなと。

No.3020 - 2010/12/14(Tue) 10:12:39

Re: / ubik0101
その件については、気持でも同じですが、思考は不連続だ、と言ったはずです。そのつど、なにかの気持が立ち上がる、です。そして、去っていく、です。で、それを連続してると思うのは、ことさら自分の継続性が意識されてるということです。とも、言ったと思います。

もしかして、あちこちさんが、思考、と言うのは・・・思考と、心理的な思考は混ざっていて・・・総ての思考は心理的思考、と見なしているということでしょうか?その範疇では、自分の継続性が濃く意識されてて、思考の不連続は見えにくいでしょう。とも言ったと思います。

もしかして。自分の生きてる感じ、現実感、のことを言ってるのでしょうか?あるいは時間感覚のことでしょうか?それも、 ことさら感じるなら、ことさら自分の継続性が意識されてるということではありませんか?あるいは知覚と行動の混乱を検討したいのでしょうか?

とくに混乱がないなら、このまえ言ったと思いますが「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」。つまり、なんであれ、物質であれ、身体であれ、感情であれ、思考であれ、その、いわゆる対象化は消えてるのではないでしょうか。なのに、見る聞く思考する、この不思議、これも言ったと思うのですが・・・これに関心が向きます。

No.3021 - 2010/12/14(Tue) 11:23:58

Re: / あちこち
それで、最初に戻って、あれこれではなくて、素直な気持ちで進む、などと言っているとき、
素直な気持ちって、どんな気持ちのことなのですか?

No.3022 - 2010/12/14(Tue) 11:54:32

Re: / ubik0101
これまで、素直な気持ちで進む、などと言って、進んだことはないです。もしかして、この“掲示板”で言ってる、素直、ということの意味を聞いてるのでしょうか。

それなら、気持、ではなくて、特質、あるいは、属性、のことです。それは否定の道を歩くことで、つまり余計なことを削ぎ落とすことで・・・失うことで・・・発現することです。

それが日常の行動、発言、思考に現れると、真摯に、正確に、です。注意深くとか、意識的とか、明々白々とか、言っても変わりません。

なにか、とある気持が素直とかいう話ではありません。また、素直であろうとする、設定があるのではありません。

No.3025 - 2010/12/14(Tue) 17:55:23

Re: / あちこち
素直の話は、特質、属性として、正直、真摯、正確、注意深く、意識的、明々白々と言い換えられます。
その前に素直が発現するには、余計なことを削ぎ落とす・・・があります。
話は、余計なことに移りました。
では、余計なこととは?

No.3030 - 2010/12/15(Wed) 13:55:45

Re: / ubik0101
たとえば。この掲示板でubik0101が言ったことに対する疑問・質問が、真摯で正確、な言葉でなかったので、意味不明なまま進んでしまいました。

そのように、真摯で正確でない、不注意な、その姿勢が余計なことの現れです。たとえば、感覚への依存、感情への依存、思考への依存です。これは、そうだと本人が認識するしないに無関係に、そうです。

それだから、根が深いのです。ほかの誰かのことは知りませんが・・・それを解決しようとしてのことではないけれど・・・それが、わたしは誰?否定の道です。

No.3035 - 2010/12/15(Wed) 17:18:30

Re: / あちこち
この掲示板で、ある場面での、ある気持ちからの行動に関して、素直ということが取り上げられ、言われていました。
それで、素直な気持ちとは何だろうと疑問に思い、私は質問しました。
そしてその後の、やり取りが、意味不明なところがあるままに進行したということ。
このどこかに、例えば取り上げたこと、言ったこと、あるいは例えば疑問、質問に、真摯で、正確な言葉ではないところがある、という判断があります。
その、真摯で正確ではない、素直ではないということがあれば、余計なことだということ。
これでは素直でなければ余計だということなので、説明が堂々巡りですが、もう少し先を読むと、感覚、感情、思考への依存が、余計なことだということ。
ここですね。では、依存というのは、具体的にどういうことでしょう?

No.3037 - 2010/12/15(Wed) 18:48:19

Re: / ubik0101
>この掲示板で、ある場面での、ある気持ちからの行動に関して、素直ということが取り上げられ、言われていました。

なんだかの気持が素直。そのような意味で、素直、とは言いません。誤読ではないでしょうか。不注意です。

>ここですね。では、依存というのは、具体的にどういうことでしょう?

ふつうの曖昧な言い方では、たとえば感覚に、感情に、思考に、同一化、です。ところで、何のために質問していますか?

No.3039 - 2010/12/15(Wed) 19:16:23

Re: / あちこち
具体的には引用しませんが、ある気持ちからの行動に関して、素直かどうか取り上げられていましたね。
それについて、気持ちが素直と読んで、誤読、不注意にしてもいいのですが、
気持ちと行動が、素直な属性のものかどうかというふうにも理解できるのでは?
いずれにしても、その依存、同一化が問題になるのですね。
それで、次の話も含めて、いまは、その不注意、素直でないことは止んでいるのでしょう?

>ここですね。では、依存というのは、具体的にどういうことでしょう?

依存とは感覚、感情、思考との同一化のことであり、それが余計なものですか。
同一化を削ぎ落とすときに、素直が発現すると。

で、余計なものとは何か、依存、同一化とは何か聞いているのは、それが削ぎ落とされる時に素直が出現するということですが、余計なもの、依存、同一化がわからない、尋ねている、というわけですね。
何のためでもなく、ただ質問がある。

これで、問題がなければ、このサブジェクトでの話は終わりましょう。

No.3042 - 2010/12/15(Wed) 20:11:40

Re: / ubik0101

では質問です。

> 何のためでもなく、ただ質問がある。

というのは、動機なしの質問がある。という意味ですか?
それとも、あちこちさんは自分が、無我、だということですか?

No.3046 - 2010/12/16(Thu) 09:24:34
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