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(No Subject) / 雄大
体験は重要だろうか?

体験は来ては去るものであり、経験する者が残る。

感覚する身体、精神に依存するのではないか?

感覚器官を超え、感覚を超たものはそれが無ければ何も成り立たないものだ。

我々の身体も心もそれの中で起こる。
残念ながら真理も神も限られた身体と精神に帰属してはいないのだ。
別の電車が動き出せば
止まっている電車が動いたように見えるだろう。

その様に継続する私がいるような実感としての幻想を与えている。

連続する自分、継続する自分もただの感覚の1つに過ぎない。

神秘体験はそれ以外のもの全てに支えられているが、神秘体験とそれを経験したものに切り取る習慣は何処から来るのだろうか?

半年前に下手くそな拳法を練習中に突き指をして親指と人差し指の第一関節が曲がらなくなった。

突き指した当初は電気が走った感覚だけだったが、夜中に両腕の痛みで目が覚めた。痛みで両腕が上がらず寝返りも打てずに苦しんだ。

やはり打撲は怖いなと改めて感じた。
痛みを取るために少ない知識をフル動員して自己治療した結果24時間後には両腕は上がるようになり痛みも若干軽減した。

1ヵ月後痛みもほとんど無くなった頃、左手の親指と小指の第一関節が動かないことに気がついた。
ヮ−ルドカップ決勝の始まる夜中に発症したのでかれこれ半年になる。

医者は嫌いだが障碍者手帳を取得するために検査に行った。
レントゲンからCTまで検査を受けたが原因不明という診断。

しかし打撲して腫れたわけでもないのに何故レントゲンを採るのか分からない。医者にすれば第一関節が曲がらないのは神経から来ているのではないかと仮説を立てた結果のCT検査だったのかもしれないが、指には感覚があるが第一関節が曲がらないのだから其の検査も疑問だ。

私から見れば医者が儲ける為に無駄な検査をしているとしか思えない。

放射線を浴び時間とお金を無駄にして原因不明の診断ならはじめから専門医を紹介しろよな、という反応があった。

過剰な検査と投薬は止めて欲しいものだ。
少なくとも投薬も手術も診断と仮説と治療法のリスクを説明すべきではないか。と連想ゲームが続いていた。

全ては起こるべくして起こるのだから私がするというのは幻想に過ぎない。

しかしCTは拷問ですね。

No.2997 - 2010/12/12(Sun) 02:07:12

Re: / ubik0101
たとえば世界と素通しになること・・・いない自分に気がつくこと・・・そのようなことは痕跡も残さず通り過ぎて行きました。

でも、自我は虚構、を見て、それを見てる、自己、の自覚。それは、それが、それの原因である実在に繋がることでもあります。

そのことで・・・自分はない・・・という自我が発現。それは体験と体験者の分離でもあり、体験を解凍するまで、体験者を残してしまいました。

そいえば、この春、入院しました。レントゲン10数回、そして造影剤で身体が熱くなる CTスキャン、それで胸に縦一文字の手術痕です。

それからスコップでの庭作業で、右手の小指がバネ指になって動かなくなったけど、これは放置で、治りました。

No.3001 - 2010/12/12(Sun) 14:12:24

Re: / 夜の虎
ubik0101さん こんにちは


> でも、自我は虚構、を見て、それを見てる、自己、の自覚。それは、それが、それの原因である実在に繋がることでもあります。
>


ここでubik0101さんがいわれる、自我と自己、実在とはそれぞれ何を指すのでしょうか?


> そのことで・・・自分はない・・・という自我が発現。それは体験と体験者の分離でもあり、体験を解凍するまで、体験者を残してしまいました。

体験と体験者の違いとは?

No.3002 - 2010/12/12(Sun) 17:52:39

Re: / ubik0101
> ここでubik0101さんがいわれる、自我と自己、実在とはそれぞれ何を指すのでしょうか?

なにかを行動したり見たり聞いたり思考したりする、そのことによってつくられる、仮の自分、それが自我、です。

そういうことを度外視しても、なにか自分がいなければ、なにかを行動したり見たり聞いたり思考したりできるのは、まったく、あり得ないほど奇妙ではありませんか?

なので、まず予め自分があって、なにかを行動したり見たり聞いたり思考したりする、と思い込んでる。思い込まされてる、のです。なにが思いこませてるのかと言えば、世界、です。

つまり、ないのに、あるとして、見たり聞いたり思考したり機能する、自我は虚構なんです。けど、自分は、あるとも思わないほど、ある。それが、あまりに当然という暗黙の理論が働いてるかのようです。そいうトリックに掛かってる、とも言えます。

この暗黙の理論を打破するほどの観察とか、思考ができればいいのですが、それは困難です。それよりも簡単といえば、自我は虚構、を見破る体験するほうが、簡単なんです。

そのような自我なんですが。あくまで喩えですが。それは小さな弱い苗を守るための添え木のような機能を果たしています。そんな自我は、けっこう傷つきやすくて、自分を守る傾向にあるでしょう?

そして苗が生長して樹になったら、もう支柱は不要です。かえって邪魔です。その成長した樹、それが自己、と喩えられます。ないのに、あるとして機能する自我から、ある、自己、を育てる、そんな戦略が世界にあるようです。

この世界が、この世界に依存しない、添え木が不要な、自己、を育ててるとも言えます。それは、仮の自分ではない、主体、です。けど。ただない、自我、ただある自己、は知覚の範疇にはない、です。

ところで、この世界なんですが。それは、とある、もの、ことを取り出して考えると、その、もの、ことは、独立してあるわけではないでしょう。依存しあって、機能してるのではないでしょうか。つまり、それ自身が、それ自身に原因がないのです。これは、あるでもないでのでもない、です。それが知覚の範疇です。

ところが、自己は、それ自身の、それ自身に原因・・・実在・・・ほかの言い方では、神・・・との関係にあります。その関係が、愛、です。これはやはり体験しかないかもしれません。これを体験すると、ほかの人にも、体験してもらいたいと望むようになります。

>体験と体験者の違いとは?

そんな体験をすると、おおくの場合ですが自分は、ない・・・無我・・・に偏ります。それだけなら、まあ、いいのですが、そういうことを対象化してしまう傾向にあります。つまり、対象にしてる自分、体験者、の発現です。

それは、それでも問題ないのですが、自己、というのは、世界に依存しないのです。その範疇にないのです。だけど、この体験者は、体験に依存してしまう可能性から逃れることは難しいのです。

それは自分の体験を解凍すればいいだけのことなんですが。理解、して忘れればいいだけなんですが・・・それを意識に教える、と呼んでいますが・・・困難、と言えば、困難です。

No.3003 - 2010/12/12(Sun) 20:07:48

Re: / hato

>> 全ては起こるべくして起こるのだから私がするというのは幻想に過ぎない。


ほんとうに?


>> それは自分の体験を解凍すればいいだけのことなんですが。理解、して忘れればいいだけなんですが・・・それを意識に教える、と呼んでいますが・・・困難、と言えば、困難です。


誠に。そのようです。

そこで最強ubikスプレーが効くはずなんだけど。いつでもどこでも、見つけたなら役立ちますよ。フィリップ・K・ディックが、言ってました。

hatoの読みたて新鮮メモでした。

No.3004 - 2010/12/12(Sun) 21:01:43

Re: / 夜の虎
ubik0101さん ありがとうございます。
大変難解な回答を戴いたために、要点を確認したいと思います。

まず自我ですが、
例えば、私が物を見て何かを感じ、思考する。
その時に、何かを感じる以上、感じる主体があるはずだと、主体を想定する。
しかしこの主体は架空のものである。
それが自我である。
そして架空の主体を思い込ませようとしているのが世界である。
ここでは世界とは何か? という新たな問題が生じます。

次に自己ですが、自我が成長したものである。
ここで成長とは、何がどのように成長するのかは不明ですが、自我が己を守る傾向があるのに対し、事故は己を守ろうと言う傾向がない。
つまり自己とは、質的に強くなった自我か、自身に無関心となった特殊の自我である。
自己とは、自我と基本的に同一のものである。

次に実在ですが、自己自身の原因である。
すると、自己は自我であり、自我が虚構で、世界により思い込まされているのだから、実在とは虚構であると言うことになります。
しかし、実在と言う通常の意味と、虚構とは相反するようにも思えます。
何かの錯誤があるように思います。

体験と体験者とは、
体験とは通常の経験であり、体験者とは主体を対象化することである。


以上ですが、いかがでしょうか?

No.3011 - 2010/12/13(Mon) 15:39:21

Re: / ubik0101
>まず自我ですが、
>例えば、私が物を見て何かを感じ、思考する。
>その時に、何かを感じる以上、感じる主体があるはずだと、主体を想定する。
>しかしこの主体は架空のものである。
>それが自我である。
>そして架空の主体を思い込ませようとしているのが世界である。


ここで、夜の虎さんが言ってる「私が物を見て何かを感じ、思考する」の「私」と、自我、それは同じことです。つまり私のほかに自我があるわけではないです。たとえば夜の虎さんが、すこし前に引用した「我思う、ゆえに我あり」風に言えば、「思うゆえに我あり」です。

>ここでは世界とは何か? という新たな問題が生じます。

この世界とは、物質、身体(感覚器官)、感覚、感情、意識、です。つまり人のことです。この“掲示板”のタイトルに・・・この世界は人を覚醒させる触媒です・・・とありますが、文章だけを見ると矛盾ぽいです。でも、ほかの言い方もなく、それを承知で言っています。

>次に自己ですが、自我が成長したものである。
>ここで成長とは、何がどのように成長するのかは不明ですが、自我が己を守る傾向があるのに対し、事故は己を守ろうと言う傾向がない。
>つまり自己とは、質的に強くなった自我か、自身に無関心となった特殊の自我である。
>自己とは、自我と基本的に同一のものである。


これは、まったく違います。 こんな言い方は好みませんが、自我と自己、次元が違います。

(a)よく喩えで、自我の死、と言われます。ここでは自我の完成と言います。その体験当時は、そのことによって、自己は与えられる、と感じていました。そうすると始まりがあるわけです。それは、どうも変です。

(b)そうでなくて。もし始まりがなく、初めから人が自己なら、なんの迷いも、たとえば自我も、自己を忘れることも起こりようがないので、これも、どうも変です。

それで、どっちを採っても、実情にあいません。でも、なんにしても理論的に探るのは、ほとんど不可能。その体験をするのが圧倒的に簡単。ということには変わりません。

おそらく、世界と人の関係とか、始まりの、あるない、とか、わけの分からない矛盾なくしては、この世界は、人を自己たらしめる、この世界であることは困難だからかもしれません。

また体験とは、この矛盾を飛び越えることでもあります。そこは底知れない深い淵があって、そんなこともあって、元の自我に戻るのは困難です。

>次に実在ですが、自己自身の原因である。
>すると、自己は自我であり、自我が虚構で、世界により思い込まされているのだから、実在とは虚構であると言うことになります。


これも違います。実在とは、それ自身が、それ自身の原因。ほかの言い方では、第一原因。神。ただある、です。そして、ただない、も知覚の範疇にはありません。単純な説明ですが、この世界は、ただあるない、どちらでもなく、知覚の範疇です。

>体験と体験者とは、
>体験とは通常の経験であり、体験者とは主体を対象化することである。


その体験とは、世界の総活動に触れる。なる、そんな体験です。たとえば善と悪、優と劣、嬉しいと悲しい・・・ありとあらゆることが一気に活動することです。「体験者とは主体を対象化することである 」は、まあ、そうです。

No.3012 - 2010/12/13(Mon) 19:50:14

Re: / 夜の虎
お返事ありがとうございます。

> ここで、夜の虎さんが言ってる「私が物を見て何かを感じ、思考する」の「私」と、自我、それは同じことです。つまり私のほかに自我があるわけではないです。たとえば夜の虎さんが、すこし前に引用した「我思う、ゆえに我あり」風に言えば、「思うゆえに我あり」です。
>


なるほど なんとなくでありますが、理解しました。

> この世界とは、物質、身体(感覚器官)、感覚、感情、意識、です。つまり人のことです。この“掲示板”のタイトルに・・・この世界は人を覚醒させる触媒です・・・とありますが、文章だけを見ると矛盾ぽいです。でも、ほかの言い方もなく、それを承知で言っています。
>


ここで言われる「人」とは、通常我々が言うところの人間から「自我」を引いたものですか?


> これは、まったく違います。 こんな言い方は好みませんが、自我と自己、次元が違います。
>
> (a)よく喩えで、自我の死、と言われます。ここでは自我の完成と言います。その体験当時は、そのことによって、自己は与えられる、と感じていました。そうすると始まりがあるわけです。それは、どうも変です。
>
> (b)そうでなくて。もし始まりがなく、初めから人が自己なら、なんの迷いも、たとえば自我も、自己を忘れることも起こりようがないので、これも、どうも変です。
>
> それで、どっちを採っても、実情にあいません。でも、なんにしても理論的に探るのは、ほとんど不可能。その体験をするのが圧倒的に簡単。ということには変わりません。
>
> おそらく、世界と人の関係とか、始まりの、あるない、とか、わけの分からない矛盾なくしては、この世界は、人を自己たらしめる、この世界であることは困難だからかもしれません。
>
> また体験とは、この矛盾を飛び越えることでもあります。そこは底知れない深い淵があって、そんなこともあって、元の自我に戻るのは困難です。
>


自己についてはよく理解できません。
自我とは次元の違うもの。でその内実は?
真の主体? 変化しない主体? そんなニュアンスでしょうか?

> これも違います。実在とは、それ自身が、それ自身の原因。ほかの言い方では、第一原因。神。ただある、です。そして、ただない、も知覚の範疇にはありません。単純な説明ですが、この世界は、ただあるない、どちらでもなく、知覚の範疇です。
>


ここで言われていることは、我々が世界と呼んでいるものはただ知覚の範疇にあるだけのものであり、知覚外のもので第一原因が実在である ということでしょうか?

もしそうならば、どのようにして実在を知ることができるかと言う問題がありますが、これは以前言われた超意識なるものですか?

> その体験とは、世界の総活動に触れる。なる、そんな体験です。たとえば善と悪、優と劣、嬉しいと悲しい・・・ありとあらゆることが一気に活動することです。「体験者とは主体を対象化することである 」は、まあ、そうです。

理解しました。

No.3024 - 2010/12/14(Tue) 15:16:07

Re: / ubik0101
>ここで言われる「人」とは、通常我々が言うところの人間から「自我」を引いたものですか?

それは、人一般、のことです。でも、ubik0101にとっては、ubik0101個人のことです。

>自己についてはよく理解できません。
>自我とは次元の違うもの。でその内実は?
>真の主体? 変化しない主体? そんなニュアンスでしょうか?


ほとんど、そう、です。と、いうのも。どんなイメージも誤りで、どんな対象にもならず、どんな意味のありそうな名前でも呼べません。ただ、自己、と呼びます。

>ここで言われていることは、我々が世界と呼んでいるものはただ知覚の範疇にあるだけのものであり、知覚外のもので第一原因が実在である ということでしょうか?

まあ、そう、です。と言うのは、この世界に生きて、それを体験することができるからです。なので。この世界を、相対界、現象界とか呼んで・・・第一原因を、(空想の対象の意味で)神、実在界とかとか呼んで・・・あたかも、ほかにあるような表現するのは好みではないです。

>もしそうならば、どのようにして実在を知ることができるかと言う問題がありますが、これは以前言われた超意識なるものですか?

そうです。知覚、意識が総活動したら、知覚、意識を超えます。それが、体験、です。これは起こることです。

No.3031 - 2010/12/15(Wed) 16:02:05

Re: / 夜の虎
ubik0101さん ありがとうございました。
No.3055 - 2010/12/16(Thu) 15:27:25
(No Subject) / 雄大
連続する体験者というフィルムが存在を通して感光されるが、存在と感光されるフィルムをも超えたものは直接知ることは出来ずかつ何も排除しない。

時間も空間も超えたそれの中で時間も空間も現れる。

何故特定の身体から世界が現れるのか?

対象の陰として現れる2番目の私はそれの入り口である1番目の私の依存しているが、実はそれらを関係として認識するのは思考が創り出した世界なのだ。

光と水蒸気と見る角度が虹を作り出すのと同様に私の身体と自我が世界の中に済む錯覚を与える。

身体にメスを入れるのは凄い事ですね。
西洋医学の暴力的な感性には疲れさせられます。

1つの部品が車を構成するような世界観で、1つの細胞が分裂し複雑化していく身体に当てはめるのは理解し難いことですね。

明日は月曜日、子供をお風呂に入れて寝かせます。

何か特別な体験を持つという人に対して私も同じ体験が欲しいと権威にひれ伏す事の意味は私とあなたと彼、彼らが世界に存在するという世界観がそのまま顕わされてしまっている。

起こることは起こる、何か特定の原因からではなく全てが原因であり結果として起こった瞬間夢のように消えていく、それが存在すると言えるものなのか推測なのか。

中心からの対象への欲望ではなく軸のない必要が世界を満たしていくのだから何も残らないのではないだろうか。

現れた瞬間消える今にしかない質は何か。
私が何かをする、それは幻想。

No.3005 - 2010/12/12(Sun) 22:24:43

Re: / 雄大
今日はある整形外科医から紹介された手専門の整形外科医で診察を受けた。

診断結果は骨間神経麻痺であった。
原因はウィルス説等2、3あるらしいが不明なのだそうだ。

で身体の別な場所から靭帯だったか何かを移植する手術をするとか言われたので丁重にお断りをした。

薬について情報公開しているように病気に対する治療法や其の治療法についての情報も一般人が自由にアクセス出来る様にすれば良いのだ。

そうすれば過度な診断や治療,投薬も無くなるのではないかな。

ま医療業界は特権的な集団だから抵抗も大きいだろうが、国家予算削減にも貢献することだと思う。

バビロニア、エジプトなどの特権階級が支配する官僚主義ではなく、ギリシャのような民主主義に近づけて欲しいものだ。

医者という権威に妄信してしまう人達を見ているとあまりに哀れだ。

多少時間がかかったとしても自然に治癒するのが一番だ。
思考のリズムではなく身体にとって必要な待ち時間がある。

手遅れと言う言葉に恐怖するが、やりすぎという言葉には注意を向けない。

全ての権威を疑うことは重要な事だ。

理解が単なる結論なら何も変わらない,生き方そのものがその人の理解を表現しているわけだ。

知っていることと実際そうであることは違う。

No.3027 - 2010/12/15(Wed) 00:11:18

Re: / ubik0101
レントゲンをみて、手術以外の手段があるかもしれない、とは思えませんでした。 ubik0101の手術には3人の医師があたりました。一人は、やってやった、と喜び。一人は、癒着とか浸潤がなく、ラッキーでした。と言い。一人は触診しながら、意外でした。と言いました。百万円くらいの費用だそうですが、高額医療制度のおかげで、数万円ですみました。

そいえば病院で。斜め向かいのベッドの人、もう2ヶ月も入院していました。そして毎回のように食事に文句を言います。手術する人は、すぐに退院して行く。皮膚筋炎で自分は2ヶ月も入院して、毎日2錠の薬を飲むだけだ。手術の人はいいなあ。とか、ぼやいていました。

ある日、胃カメラの検査から病室に帰って来て。胃ガンだった。画像を見てると、蜘蛛みたいなのが、あった。その組織の一部をピンセットみたいなので、ピッ、と取った画像を見た。医師は知ってたんだ。とか、 言います。なにか考え深そうにしていました。どうなったか知りませんが、うーん、です。

No.3034 - 2010/12/15(Wed) 16:56:59

Re: / 雄大
昔聞いた話ですが、ある人が診断のために県をまたいで3つの病院で診察を受けた。

もちろん他の病院で診察を受けていることは内緒でです。
すると驚いたことに3つの病院の診断が3つとも異なっていた。

別の例ではある人がある病院で入院していた。原因が不明なので同じ病院の別の課に移った。

別の課の先生が診断したところ何故こんなになるまで放置しておいたのかと親族に対して怒ったそうだ。

いや昨日まで隣の課で入院してましたと親族が答えたら医者は沈黙したそう。で数日後に患者は死亡した。

その患者の親族は恨み言は言ったが泣き寝入りした。

ま、こんなことは氷山の一角だろうと思います。

ものがないと言う事と、ものそれ自体としてはないということでは意味が異なる。

あるものは同じものを原因として生まれたのか、あるいは異なるものを原因として生まれたのか、あるいは同じものまたは異なるものを原因として生まれたのか、あるいは同じものでも異なるものでもないものから生まれたのか?

病院で検査しているだけで身体の調子が悪くなる様な気になります。

No.3043 - 2010/12/15(Wed) 22:20:51

Re: / ubik0101
>あるものは同じものを原因として生まれたのか、あるいは異なるものを原因として生まれたのか、あるいは同じものまたは異なるものを原因として生まれたのか、あるいは同じものでも異なるものでもないものから生まれたのか?

あるものは、その、あるものが原因ではありません。しかも、なにが、どう原因かも、不確実。しかし、あるものは、あるものとして生起します。それで、あるものにも、その仕組みにも依存できて、しかも依存できない、となってるようです。

そ、いえば集中治療室で隣のベッドの人、かなりの高齢でしたが、一晩中、わめき散らし暴れていました。CENSORED未遂でした。これも、うーん、です。

No.3053 - 2010/12/16(Thu) 13:31:25
(No Subject) / あちこち
>《困った、な》という気持を「検討しますか?」ということ・・・それは思考の不連続を話すことに繋がることです。

お互いに取り上げている、当初の素直な気持ちを検討するに際して、
非常に違うという感じが生じ、一旦、思考が止まった、思考の不連続があった。
そこで、検討は、その思考の不連続を話すことに繋がると素直に感じた。
そこで、その思考、その自分を検討しようかどうか疑問、提案が生じました。
そして、そこを学びます。

それで、お互いに取り上げている、当初の素直な気持ちはどうなったのでしょう?

No.3007 - 2010/12/13(Mon) 11:07:20

Re: / ubik0101
もしかして、当初の素直な気持ちとは、これのことでしょうか。

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(No Subject) / あちこち

>あさ、布団の中で、さっと起きて何かがしたい感じがする。
>ぬくぬくと寝ていたい感じもする。


>どちらが素直な気持ちだろう。

>葛藤しているのが素直な気持ちだろうか?

>葛藤なしに、単に二つのの感じがあるというだけのことか?

No.2865 - 2010/11/10(Wed) 08:20:30
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では、あちこちさんの言う、葛藤、の定義が必要です。自分が分裂して自分と闘ってる、ということを指すのでしょうか。そんな、自我の機能の一側面を指すのでしょうか。とりあえず、そうだとして進めます。

>葛藤しているのが素直な気持ちだろうか?

これは、葛藤してる人が、葛藤してると、自分で素直に判るだろうか?という疑問なんでしょうか。ならば。ある人が、自分は自我に縛られてると判っただけで、それから解放されることは困難でしょう。解放されてから、これまでずっと自我だった、との了解は得られるでしょう。

>葛藤なしに、単に二つのの感じがあるというだけのことか?

たとえば、ぬくぬく寝てるのに、「ぬくぬく寝ていたい」と思考するのは、寒いとか疲れてるとかで、さっさと起きて何かをしてないという状態です。それで、「さっと起きて何かがしたい」という思考がでるのでしょう。自我の機能というほどではないにしても、それを葛藤と呼べば、呼べるでしょう。

No.3010 - 2010/12/13(Mon) 14:30:42

Re: / あちこち
おや、出だしに話は戻りました。やり取りの話が違いすぎて、どこに戻るか、困ったなと思いが途絶えたということでした。では、出だしに戻って、そこを仕切り直しで見直します。素直な気持ちって何だろう?

どうしようかとぐずぐずする気持ち、葛藤がある場合と、単に二つの感じがある場合が検討されています。その場合ついて検討したいのですが、

その前に、どちらが素直な気持ちだろうという質問がありました。そこは、すっと素通りされています。ここは、こちらが素直な気持ちに決まっているでしょう、と進んで行くといったことは何もないということでしょうか。

No.3015 - 2010/12/14(Tue) 07:49:15

Re: / ubik0101
もし布団で眼が覚めて、そのままで、とくになにかないなら、「ぬくぬくと寝ていたい感じもする」も「さっと起きて何かがしたい感じがする」も、ありません。つまり、ひとつの気持もありません。

また、 さっと起きて何かをしてるなら、とくに何かないなら 「ぬくぬくと寝ていたい感じもする」も「さっと起きて何かがしたい感じがする」も、ありません。つまり、ひとつの気持もありません。

ということは、すでに返事したと思います。

それでも、どっちかとして仮定して検討できることがあるなら、どっちでもいいですが「ぬくぬくと寝ていたい感じもする」を、素直な気持ちとして、検討してください。

No.3017 - 2010/12/14(Tue) 08:11:04

Re: / あちこち
では、次に進みます。

素直な気持ちというのは、自分で素直に判る気持ちのことですか?
話が違いすぎて、どこに戻るか困った、ここを検討しようかどうしようか、という素直な気持ちが生じた、それは自分で素直に判る気持ちです、ということでしょうか。
そこを主張しておられるのですか?

起きたいのと、寝ていたいのとの気持ちの間で、ぐずぐずしている気持ちがあるとき、葛藤があるとき、
それはもちろん、ぐずぐずしている気持ちは、はっきりそんなふうに意識されるでしょうが、それを素直な気持ちとして、そこで、どう問題があるのでしょうか?

No.3018 - 2010/12/14(Tue) 08:20:35

Re: / ubik0101
なんだかの気持が生じたとします。それは自覚できます。自覚されてるのは、その気持だけです。それは水を飲んだら水を飲んだ、と自覚できることと変わりません。それは、変な言い方ですが、ことさらの観察者を要しません。

つまり、その気持と類似の気持、反対の気持ち、無関係な気持、それらがない・・・水ではなくジュース飲みたいとか、公園に行こうとかが、ある気持の裏に隠れてはいない・・・ということです。それらがあるなら、いわゆる観察者を要するかもしれません。

もちろん、いろいろあっても、問題がないのです。それはもともと、観察者がいない、からです。たとえば、布団でぬくぬくしていながら、世界って何だろう?と探ります。さっさっと起きて、畑に種を蒔きながら、あるない、の機能を探ります。

ここで言いたいのは、ある気持が自覚されると観察者がある・・・つまり葛藤がある・・・ということではなく・・・ある気持の、あるない、と観察者の、あるない、は連動してはないということです。観察者があるなら、ある。ないなら、ない。違いがあると言えば、それだけです。

もっと極端を言えば、布団でぬくぬくしていながら・・・ふつうは、そう思考するまでもなく、そうなのですが・・・ 布団でぬくぬくしてると思考しても・・・無問題・・・それは事実の認識・・・ということです。

たとえば、水を飲んだら・・・なにかの病気でなければ・・・水を飲んだと自覚できるということです。そして水を飲んだと思考しても、事実の認識だ。ということです。これは、命名、だと捉えられるかもしれませんが、そうでなくて、ここから展開できることもあります。

ところで、まずは。観察者が、あるない、これを解決しないで、葛藤があるとかないとか言っても、単なる空想かもしれません。これは主張というより、ただ事実ではないでしょうか。で、質問です。観察者の、あるない、どいうことでしょうか?

No.3019 - 2010/12/14(Tue) 09:51:30

Re: / あちこち
二つの感じがある場合を、何かをしようとして、思考する場合として取り上げられています。
二つとも、あるいは一方を、思考のものとして取り上げられています。

しかし、その検討の前にちょっと質問があります。
その場合だけなのかな。生理的な感じとして、過ごしている状態として、ふわっと、いくつかのものがあるときがありませんか?
ふと目が覚めかかっていて、さっと起きて体を動かしたいあふれるエネルギー感もあれば、ぬくぬく眠っているその心地よい感じも、ふわっとある。それらの感じのまま、全体を感じていると、いつの間にか、また寝入ってしまったり、あるいは、ふと、起き上がっていたり。
そのときは、ある場面で、いくつかの感じがある、そしてその経過中で変化もあるのが、素直な気持ちなのかなと。

No.3020 - 2010/12/14(Tue) 10:12:39

Re: / ubik0101
その件については、気持でも同じですが、思考は不連続だ、と言ったはずです。そのつど、なにかの気持が立ち上がる、です。そして、去っていく、です。で、それを連続してると思うのは、ことさら自分の継続性が意識されてるということです。とも、言ったと思います。

もしかして、あちこちさんが、思考、と言うのは・・・思考と、心理的な思考は混ざっていて・・・総ての思考は心理的思考、と見なしているということでしょうか?その範疇では、自分の継続性が濃く意識されてて、思考の不連続は見えにくいでしょう。とも言ったと思います。

もしかして。自分の生きてる感じ、現実感、のことを言ってるのでしょうか?あるいは時間感覚のことでしょうか?それも、 ことさら感じるなら、ことさら自分の継続性が意識されてるということではありませんか?あるいは知覚と行動の混乱を検討したいのでしょうか?

とくに混乱がないなら、このまえ言ったと思いますが「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」。つまり、なんであれ、物質であれ、身体であれ、感情であれ、思考であれ、その、いわゆる対象化は消えてるのではないでしょうか。なのに、見る聞く思考する、この不思議、これも言ったと思うのですが・・・これに関心が向きます。

No.3021 - 2010/12/14(Tue) 11:23:58

Re: / あちこち
それで、最初に戻って、あれこれではなくて、素直な気持ちで進む、などと言っているとき、
素直な気持ちって、どんな気持ちのことなのですか?

No.3022 - 2010/12/14(Tue) 11:54:32

Re: / ubik0101
これまで、素直な気持ちで進む、などと言って、進んだことはないです。もしかして、この“掲示板”で言ってる、素直、ということの意味を聞いてるのでしょうか。

それなら、気持、ではなくて、特質、あるいは、属性、のことです。それは否定の道を歩くことで、つまり余計なことを削ぎ落とすことで・・・失うことで・・・発現することです。

それが日常の行動、発言、思考に現れると、真摯に、正確に、です。注意深くとか、意識的とか、明々白々とか、言っても変わりません。

なにか、とある気持が素直とかいう話ではありません。また、素直であろうとする、設定があるのではありません。

No.3025 - 2010/12/14(Tue) 17:55:23

Re: / あちこち
素直の話は、特質、属性として、正直、真摯、正確、注意深く、意識的、明々白々と言い換えられます。
その前に素直が発現するには、余計なことを削ぎ落とす・・・があります。
話は、余計なことに移りました。
では、余計なこととは?

No.3030 - 2010/12/15(Wed) 13:55:45

Re: / ubik0101
たとえば。この掲示板でubik0101が言ったことに対する疑問・質問が、真摯で正確、な言葉でなかったので、意味不明なまま進んでしまいました。

そのように、真摯で正確でない、不注意な、その姿勢が余計なことの現れです。たとえば、感覚への依存、感情への依存、思考への依存です。これは、そうだと本人が認識するしないに無関係に、そうです。

それだから、根が深いのです。ほかの誰かのことは知りませんが・・・それを解決しようとしてのことではないけれど・・・それが、わたしは誰?否定の道です。

No.3035 - 2010/12/15(Wed) 17:18:30

Re: / あちこち
この掲示板で、ある場面での、ある気持ちからの行動に関して、素直ということが取り上げられ、言われていました。
それで、素直な気持ちとは何だろうと疑問に思い、私は質問しました。
そしてその後の、やり取りが、意味不明なところがあるままに進行したということ。
このどこかに、例えば取り上げたこと、言ったこと、あるいは例えば疑問、質問に、真摯で、正確な言葉ではないところがある、という判断があります。
その、真摯で正確ではない、素直ではないということがあれば、余計なことだということ。
これでは素直でなければ余計だということなので、説明が堂々巡りですが、もう少し先を読むと、感覚、感情、思考への依存が、余計なことだということ。
ここですね。では、依存というのは、具体的にどういうことでしょう?

No.3037 - 2010/12/15(Wed) 18:48:19

Re: / ubik0101
>この掲示板で、ある場面での、ある気持ちからの行動に関して、素直ということが取り上げられ、言われていました。

なんだかの気持が素直。そのような意味で、素直、とは言いません。誤読ではないでしょうか。不注意です。

>ここですね。では、依存というのは、具体的にどういうことでしょう?

ふつうの曖昧な言い方では、たとえば感覚に、感情に、思考に、同一化、です。ところで、何のために質問していますか?

No.3039 - 2010/12/15(Wed) 19:16:23

Re: / あちこち
具体的には引用しませんが、ある気持ちからの行動に関して、素直かどうか取り上げられていましたね。
それについて、気持ちが素直と読んで、誤読、不注意にしてもいいのですが、
気持ちと行動が、素直な属性のものかどうかというふうにも理解できるのでは?
いずれにしても、その依存、同一化が問題になるのですね。
それで、次の話も含めて、いまは、その不注意、素直でないことは止んでいるのでしょう?

>ここですね。では、依存というのは、具体的にどういうことでしょう?

依存とは感覚、感情、思考との同一化のことであり、それが余計なものですか。
同一化を削ぎ落とすときに、素直が発現すると。

で、余計なものとは何か、依存、同一化とは何か聞いているのは、それが削ぎ落とされる時に素直が出現するということですが、余計なもの、依存、同一化がわからない、尋ねている、というわけですね。
何のためでもなく、ただ質問がある。

これで、問題がなければ、このサブジェクトでの話は終わりましょう。

No.3042 - 2010/12/15(Wed) 20:11:40

Re: / ubik0101

では質問です。

> 何のためでもなく、ただ質問がある。

というのは、動機なしの質問がある。という意味ですか?
それとも、あちこちさんは自分が、無我、だということですか?

No.3046 - 2010/12/16(Thu) 09:24:34
(No Subject) / peer
>なにか辛い生活をしながらも自分を、、、、
>嘘の本音を捏造することもありそうです。


対世間に対して、ですね。
対世間に対しては、どんなことだって捏造するでしょう。
でも、自分に対しては、捏造出来ないですね。
その件については、どうやっても嘘だと知ってますから。

そうなると、何が辛いって、生活そのものではなく、
ひとかどの人と思っていたいことが、辛いんじゃないでしょうか。

朝起きて、さあ、何かをするぞ。と思うのも本音だし
温かい布団のなかで、ぬくぬくしたい、も本音。も、あるかなぁ
たぶん、前者は脳みその機能。
後者は、肉体の反応。ということは、ないかしら?

> 仕事を変わりたいなら、たとえば「ぬくぬくしていたい」ではなく、
> 仕事を変わりたいと思考するだけです。


仕事を●●の反応かどうかは、体に聴いてみる、として。
●●へ行きたくない・・・朝起きたら風邪で頭が痛い。腰が痛いとなる。

で、腰が痛い。という人に「なにか、したくないこと、ありません?」
と聞いてみたら、心当たりがあるようで。
「そうか、アレをしたくないんだ」と気づいたとたん
腰の痛みがスーーッと抜けていた。
ということも、あるです。不思議ですが。

>どんなことも人との関係も、仕事も、隠し事がないという意味で、
>プライベートです。


隠し事がない・・・我を垂れ流しする。
というのは、ちょっと勘弁して欲しい・・・かも。
まっ。わたしの例は、覚醒した人の話ではないので、
すみません〜

No.2984 - 2010/12/10(Fri) 03:42:10

Re: / あちこち
>>あさ、布団の中で、さっと起きて何かがしたい感じがする。
>>ぬくぬくと寝ていたい感じもする。


>>どちらが素直な気持ちだろう。

>>葛藤しているのが素直な気持ちだろうか?

>>葛藤なしに、単に二つのの感じがあるというだけのことか?


>いいえ。


いいえと答えたものの、話がずれすぎていて、どこまで戻ってどこから話すか、説明しようとするところには進まないで、素直な気持ちとして、困ったなという気持ちを持ったということ。
そしてさらに少し進んで、気持ちは変化し、これを検討しようか、どうしようかと思った。
そして、気持ちは次々に起きるできごとに応じて、次々に変化します。
数日経って、新たな問いかけもあり、いま、質問を見直すと、どんな気持ちでしょう、そしてどんな行動が生じるのでしょう?

新たな問いかけがありますが、ある時点で、本音が(タテマエでもいいですが)(それ以外の何かでもいいですが)二つあるというだけなのかなあ、そしてどう変化するのだろう、と途中では聞いています。

No.2985 - 2010/12/10(Fri) 08:39:18

Re: / ubik0101
peerさん

そ、言えば。子供の頃に見たTVドラマで「自分のことは自分がよく解る」という病人の言葉を聞いて、うん、そうだ、そうだ。と思ったことがありました。でも、そんな気持で生活してみると、どうも違いました。

まあ、ほかの人の嘘が事実に思える。ほかの人の事実が嘘に思える。自分の嘘が、ほかの人には事実。自分の事実が、ほかの人には嘘。それは嘘だと解らなければ事実なので、事実、も疑う。とか・・・ころころ態度を変える人もいて、混乱があって、それで、どうも怪しい、と思ったのかもしれません。 嘘と知って嘘を言う、事実と信じて言うことが実は嘘・・・確信犯・・・ということもありそうです。

ふつうにも、誰もが嘘と自覚できないから、嘘を言ってない、とみなしてしまうこともありそうです。たとえば自分の感覚に、感情に、自分の思考に依存していながら・・・それを素直なこととして・・・なにか行動、発言、思考するなら・・・なにかの行動、発言、思考はできますが・・・それは倒錯で・・・それは嘘って、こともありそうです。

たとえば自己顕示欲が強い人が、なんだかんだ行動してるとして、自分の自己顕示欲に気がついてないことも。また、そ、勝手に空想する、誰かがいるというだけのことかもしれません。自我って、そう現れることもあるようです。どうであれ、自我は、そんな自分に自分が切り込むことことができるので、それを使わない手はないようです。

ところで。たとえば「さっさと起きてなにかしたい」と「ぬくぬくしていたい」とかの、違う気持が、まったく同時、に起こるのでしょうか?たぶん、ぬくぬくしていながら 「さっさと起きてなにかしたい」とか。さっさと起きてなにかしながら、「ぬくぬくしていたい」。あるいは、どっちつかず、ぐずぐず、なのではないでしょうか?ならば、世界の継続、に依存してるのかもしれません。

そんな嫌だなー、という気持が気分や体調に現れる・・・そ、言えば。よくジンマシンが、腕に発生する上司がいました。ある日、給湯室で、歯磨き粉を腕に塗り込みながら言いました。「これは自分で、プラシーボ(偽薬)だと解ってるんだけど、効果があるんだ」 。うーん、でした。聖痕、とかもあるようです。

ほかの人が仕事をするわけではないし、ほかの人が社会生活をするわけではないし、プライベートでしかないのではないでしょうか。そ、いえば。むかし「あなたは世間様ですか?」と聞いて、はい、と答える人はいないだろう。つまり世間様は空想、と思ったのですが、いいえ、と言いながらも空想に生きてることもありそうに思います。と、そんなことをいくら見ても、それは始めも終わりもない観察ではなく、始めも終わりもない迷いに思います。

まだ小さいですが、春菊、順調です。

No.2986 - 2010/12/10(Fri) 14:05:02

Re: / ubik0101
あちこちさん

>そしてさらに少し進んで、気持ちは変化し、これを検討しようか、どうしようかと思った。

もう言い得ることは言ってるので、さらに検討しようとは思わなかったです。。ただ、この件についての返信があれば、そこで、なにかの気持が起こるでしょう。

つまり、なにか新展開があれば、その反応として・・・なにかの気持、たとえば《困った、な》が、ほかの気持に変化するのではなく・・・なんだかの気持、たとえば《ふむふむ》が新たに生起します。

などということは、ほかの誰かのことを観察しても空想だし、ubik0101の気持を、ubik0101が検討しますか?でした。それで、なにかの気持が、ほかの気持に変化すると感じるのは。なんだかの連続性というか同一性があるということでしょう。

それは人が、ことさら求めなくても、そうでしょう。ことさら求めると、意識による対象化で・・・たとえば自分は自分だとか思うなら、自分が自分だということが・・・強調され濃くなるようなことでしょう。

それでは気持の不連続に気がつきにくいので、たとえば慈しみから憎しみに連続して変化してるように感じるのではないでしょうか。 そうでもなければ、なにかの気持も起こったとしても、ふつうは、すぐに消える、忘れてしまいます。

それは自分で奮い起こさなければ・・・それでも間歇的であり・・・それも、なんだの、ことさらに意識するまでもない連続性、同一性が機能してるのでしょうし・・・持続できないのではないでしょうか。

青梗菜の新芽です。

No.2987 - 2010/12/10(Fri) 19:30:45

Re: / あちこち
>>違います。

この違いの大きさ、どこに戻るかという問題。そして、

>>《困った、な》・・・というのが、ここでの素直な気持ちです。で、これを検討しますか?

> もう言い得ることは言ってるので、さらに検討しようとは思わなかったです。

なるほど。
このふたつの検討したい気持ち、そして検討しようと思わない気持ちは、気持ちの違いというより、意味が少し違うのですね。

>ただ、この件についての返信があれば、そこで、なにかの気持が起こるでしょう。

それで、私の問いとご自身で起きていることが合わさって、そこから、いろいろ、思いが生じ、気持ちが生じて、検討してくださっているのですね。

No.2988 - 2010/12/10(Fri) 20:48:48

Re: / ubik0101
たしかに、ほかの人との対話は、自分のことを検討するための力になります。
No.2989 - 2010/12/10(Fri) 21:22:16

Re: / peer
サルから進化した人間。
どうして進化したか。確定したモノはありませんが。
他人がなにを考えているか、感じているか。
それを、推測したり、求められる前に行動する
という人間らしさを、獲得せねばならない
という必要があって、進化した・・・のかな〜と。

だから〜力で物事を押し通そうとするのは
サルのまま。ってことになるのでしょう。。か。

No.2990 - 2010/12/11(Sat) 02:32:31

Re: / peer
>ある時点で、本音が(タテマエでもいいですが)
>(それ以外の何かでもいいですが)二つあるというだけ
>なのかなあ、そしてどう変化するのだろう、
>と途中では聞いています。


あちこちさん。こんばんは。

本当は想念は二つどころじゃないのかも、と思います。
わたしらは、生きて関わって来た人間たちを
取り込んでます。その人たちは、様々な考え・思い
が、あるんだよ。と教えてくれました。
「●●を、どうしよう」と考えた時
あの人ならどうするだろう。この人だったら。
そんなふうなことも、ありますね。
こんなこともあった。あんなこともあった・・

その最たるものは両親・兄弟。
わたしの中には、確実に、みんな、存在してるわ。
それを考えると、オリジナルなんて、あるのかな。
とも思ったり。

PS)
ubik0101さんとの検討に横入シチャイマシタガ。。。
どうぞ・・・。続けてね。

No.2991 - 2010/12/11(Sat) 02:55:56

Re: / あちこち
>>で、これを検討しますか?

これは疑問は生じている、思考はそこで止み、保留があるということですね。

>つまり、なにか新展開があれば、その反応として・・・

これは説明ですが、
具体的には、行動として生じているのは、思考が止んでいるということで、何かの観察があるだけということでしょうか。
それによって行動や気持ちは自然に生じてくるというような。


寝床の中で、行動が、すっと生じていないとき、葛藤はないけれども、何か保留があり、思考は止み、何かの観察があるだけというのと似ているのでしょうか?
ひょっとしたら、カゼの引きかけみたいな身体のだるさみたいなものが感じとして新たに生じてくるとか。

No.2992 - 2010/12/11(Sat) 07:21:34

Re: / ubik0101
peerさん

ま、捏造でしょうが 、レミングは一匹が崖から海に飛び落ちると、つられて集団CENSOREDすると言われています。

そうでなく、なにを行動するか、考えてるか、感じてるかの・・・その自分・・・主体の発生の、ための人です。

No.2994 - 2010/12/11(Sat) 13:17:03

Re: / ubik0101
あちこちさん

し、しまった。よく見たら、このまえ植えた苗は、スナップエンドウではなくて、空豆だった。ちょっと遅いけど、新しい畝をつくって、種を蒔こう。

そんな日常。たとえば、東京にいて、サラリーマンやってても、九州でビル掃除やってても、なんて空想の余地なく、そう、です。これで過不足ない、です。

で、ここでは選択とか無選択とか、葛藤とか軋轢とかには、問題は向きません。そこから、たとえば。この世界って、なんだろう。どう、ある、ない、は機能するんだろう。に向かうのです。

と、いうのも、もし、仮に、たとえば、日本のどこかで、また地球のどこかで、なにをやっていたって・・・それは無問題で・・・この日常の神秘が研究の課題になるのです。

すでに、それ、に触れた、なった、とも言えるので、どんな哲学によらず宗教によらず瞑想によらず、ただ世界を見ることによって。もっと正確には・・・自分に浸透してる、自分と繋がってる・・・これ、を見ることによって。

と、いうことで、つるなしえんどう、の種を買ってきました。青色にコーティングされています。

No.2995 - 2010/12/11(Sat) 13:18:12

Re: / ubik0101
たとえば電車に乗ってれば、野が、山が、川が知覚され、後ろに去っていきます。そして、たとえば、思考、それも知覚されるだけのことです。

なにか思考してるなら、眼、は鳥や樹を見てても、それは見てるとは意識されず、思考、を見てるだけではないでしょうか。で、眼を閉じても思考は見えるでしょう。思考は知覚です。

なぜ、その知覚、たとえば野の花や空の鳥ではなく、思考の有無が気になるのでしょう。もしかして、思考への依存、が気になるだけのことではないでしょうか。その問題の根は、思考の有無にはありません。

なにかの知覚されること、たとえば家や絵画や音楽や、思考を対象にして、それに依存して、派生する、仮の中心。それを、自分、だと思い誤ることにあります。思考に問題はありません。

ただ、たとえば家や車や、それを持ったり持たなかったりする・・・とくに・・・ない、ことも範疇にできる・・・思考・・・に依存することを背景に人は、自分が自分を感じ、たとえば力で物事を押し通そうとするだけ、なんです。

そのことは、そのことが、その人に、仮の中心がつくられてるよ。依存してるよ。倒錯してるよ。と、親密に教えてることでもあります。なぜ、それを始めから拒むのでしょう。

それから、どうして学ばないのでしょう。学ばないことも、仮の中心、自我の機能、ではないでしょうか。なぜ、その自分を学ばないのでしょう。

No.2998 - 2010/12/12(Sun) 09:10:25

Re: / あちこち
>で、これを検討しますか?

>さらに検討しようとは思わなかったです。

これは違う二つの思いであり、そこから、自分を学ぶのだということでしょうか?

No.2999 - 2010/12/12(Sun) 10:26:47

Re: / ubik0101
(a)《困った、な》という気持を「検討しますか?」ということ・・・それは思考の不連続を話すことに繋がることです。(b)「検討しようとは思わなかった 」ということ・・・それまで話した思考の依存性と独立性は充分に言ってることです。この(a)(b)の比較ができるのでしょうか。

それが思考の不連続なら、あまりに遠いけど、まあ思考の不連続です。それは世界の継続を見せてくれます。それは世界の機能を学んでいるのです。こんなことは、仮の中心、つまり自我には、見えにくいし、見てもあんまり意味がないでしょう。それよりも、まず、自我は虚構と体験して、それを解決するのが先決ではないでしょうか。

なんであれ、仮の中心が自分として機能してるなら、それが行動、発言、思考に、あるいは軋轢として、あるいは葛藤として現れます。また現れないことがあります。それは、自覚できることであり、また、自覚できないことです。そんな暮らしは、ただ暮らしだけではなく、それを学ぶことにしかなりません。自我が自我を学ぶ、その臨界まで学ぶ、です。

とくに日常に問題も見つからないなら、虚空から掴み取るように。自分の、世界の、深い淵から、苦悶するように、問題を掴み取るの、です。それは、意識に現れない、つまり自覚できない、行動、発言、思考に現れない自我も学ぶ、ことにもなります。

No.3000 - 2010/12/12(Sun) 14:00:05
(No Subject) / 雄大
何かになることも何かであるがままにあることも興味が無い。

何かそれ自体としてないのだから、何かとか誰かとか私とか一瞬はあるようでないようなものに生命を与えるものだけがある確定的事実だ。

しかしそれさえ失われてしまう。
身体を中心にした夢を追い続ける間は神は其の扉を開けることは無い。

快楽への欲望と継続、恐怖、苦痛からの逃避
それは自然なものだ。

しかし誰に起こると想像しているのだろうか?
そんな人いないが抵抗するからそれらが生じ、目くるめく対象に焦点を合せたままなので消耗し続ける。

私にはあなたが必要だ、世界が必要だ、それ以外のものが必要だ。それら全てに浸透しそれらを超えているものはただ対象の否定により理解される、飛ぶ鳥が跡を残さない様に理解も後を引かない。

既に自分お悟りとは何かを知っている、イメージを作り上げてしまっている、それで見えない、私という古い中心を残したままで何をしようというのか。

心の状態だという思い込みと結果を焦り過ぎる事。
それで無いという否定を通じて理解されることは
木が揺れることで風を感じるのに似る。

最近外食ばかりだなーと感じつつ子供を連れて今から外食しに行こう。

そして外食ばかり続けていると何を食べても不味くなるという事。

No.2993 - 2010/12/11(Sat) 10:13:57

Re: / hato
> 心の状態だという思い込みと結果を焦り過ぎる事。
> それで無いという否定を通じて理解されることは
> 木が揺れることで風を感じるのに似る。


> 最近外食ばかりだなーと感じつつ子供を連れて今から外食しに行こう。
>
> そして外食ばかり続けていると何を食べても不味くなるという事。



外食、ubik0101さんもわたしもすきですよ。家庭の食事は、やっぱり嬉しいですけど、忙しい折は、手軽なこと有り難いですね。マクドナルドのソフトツイストはubik0101さんの大好物。わたしは思い立って、珈琲を飲みに行くのが楽しみなんです。

サラ・ボーン。20代の頃、246沿いの三軒茶屋あたり、昭和女子大での公演を聴きに行きました。大きな身体を揺らして、とてもとてもチャーミングな、可愛い人でした。

ふたりから。

バードランドの子守歌(訳詞付)/サラ・ボーン

http://www.youtube.com/watch?v=GzyRPjlniH4&feature=related

No.2996 - 2010/12/11(Sat) 21:13:01
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