体験は重要だろうか?
体験は来ては去るものであり、経験する者が残る。
感覚する身体、精神に依存するのではないか?
感覚器官を超え、感覚を超たものはそれが無ければ何も成り立たないものだ。
我々の身体も心もそれの中で起こる。 残念ながら真理も神も限られた身体と精神に帰属してはいないのだ。 別の電車が動き出せば 止まっている電車が動いたように見えるだろう。
その様に継続する私がいるような実感としての幻想を与えている。
連続する自分、継続する自分もただの感覚の1つに過ぎない。
神秘体験はそれ以外のもの全てに支えられているが、神秘体験とそれを経験したものに切り取る習慣は何処から来るのだろうか?
半年前に下手くそな拳法を練習中に突き指をして親指と人差し指の第一関節が曲がらなくなった。
突き指した当初は電気が走った感覚だけだったが、夜中に両腕の痛みで目が覚めた。痛みで両腕が上がらず寝返りも打てずに苦しんだ。
やはり打撲は怖いなと改めて感じた。 痛みを取るために少ない知識をフル動員して自己治療した結果24時間後には両腕は上がるようになり痛みも若干軽減した。
1ヵ月後痛みもほとんど無くなった頃、左手の親指と小指の第一関節が動かないことに気がついた。 ヮ−ルドカップ決勝の始まる夜中に発症したのでかれこれ半年になる。
医者は嫌いだが障碍者手帳を取得するために検査に行った。 レントゲンからCTまで検査を受けたが原因不明という診断。
しかし打撲して腫れたわけでもないのに何故レントゲンを採るのか分からない。医者にすれば第一関節が曲がらないのは神経から来ているのではないかと仮説を立てた結果のCT検査だったのかもしれないが、指には感覚があるが第一関節が曲がらないのだから其の検査も疑問だ。
私から見れば医者が儲ける為に無駄な検査をしているとしか思えない。
放射線を浴び時間とお金を無駄にして原因不明の診断ならはじめから専門医を紹介しろよな、という反応があった。
過剰な検査と投薬は止めて欲しいものだ。 少なくとも投薬も手術も診断と仮説と治療法のリスクを説明すべきではないか。と連想ゲームが続いていた。
全ては起こるべくして起こるのだから私がするというのは幻想に過ぎない。
しかしCTは拷問ですね。
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No.2997 - 2010/12/12(Sun) 02:07:12
| ☆ Re: / ubik0101 | | | たとえば世界と素通しになること・・・いない自分に気がつくこと・・・そのようなことは痕跡も残さず通り過ぎて行きました。
でも、自我は虚構、を見て、それを見てる、自己、の自覚。それは、それが、それの原因である実在に繋がることでもあります。
そのことで・・・自分はない・・・という自我が発現。それは体験と体験者の分離でもあり、体験を解凍するまで、体験者を残してしまいました。
そいえば、この春、入院しました。レントゲン10数回、そして造影剤で身体が熱くなる CTスキャン、それで胸に縦一文字の手術痕です。
それからスコップでの庭作業で、右手の小指がバネ指になって動かなくなったけど、これは放置で、治りました。
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No.3001 - 2010/12/12(Sun) 14:12:24 |
| ☆ Re: / 夜の虎 | | | ubik0101さん こんにちは
> でも、自我は虚構、を見て、それを見てる、自己、の自覚。それは、それが、それの原因である実在に繋がることでもあります。 >
ここでubik0101さんがいわれる、自我と自己、実在とはそれぞれ何を指すのでしょうか?
> そのことで・・・自分はない・・・という自我が発現。それは体験と体験者の分離でもあり、体験を解凍するまで、体験者を残してしまいました。
体験と体験者の違いとは?
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No.3002 - 2010/12/12(Sun) 17:52:39 |
| ☆ Re: / ubik0101 | | | > ここでubik0101さんがいわれる、自我と自己、実在とはそれぞれ何を指すのでしょうか?
なにかを行動したり見たり聞いたり思考したりする、そのことによってつくられる、仮の自分、それが自我、です。
そういうことを度外視しても、なにか自分がいなければ、なにかを行動したり見たり聞いたり思考したりできるのは、まったく、あり得ないほど奇妙ではありませんか?
なので、まず予め自分があって、なにかを行動したり見たり聞いたり思考したりする、と思い込んでる。思い込まされてる、のです。なにが思いこませてるのかと言えば、世界、です。
つまり、ないのに、あるとして、見たり聞いたり思考したり機能する、自我は虚構なんです。けど、自分は、あるとも思わないほど、ある。それが、あまりに当然という暗黙の理論が働いてるかのようです。そいうトリックに掛かってる、とも言えます。
この暗黙の理論を打破するほどの観察とか、思考ができればいいのですが、それは困難です。それよりも簡単といえば、自我は虚構、を見破る体験するほうが、簡単なんです。
そのような自我なんですが。あくまで喩えですが。それは小さな弱い苗を守るための添え木のような機能を果たしています。そんな自我は、けっこう傷つきやすくて、自分を守る傾向にあるでしょう?
そして苗が生長して樹になったら、もう支柱は不要です。かえって邪魔です。その成長した樹、それが自己、と喩えられます。ないのに、あるとして機能する自我から、ある、自己、を育てる、そんな戦略が世界にあるようです。
この世界が、この世界に依存しない、添え木が不要な、自己、を育ててるとも言えます。それは、仮の自分ではない、主体、です。けど。ただない、自我、ただある自己、は知覚の範疇にはない、です。
ところで、この世界なんですが。それは、とある、もの、ことを取り出して考えると、その、もの、ことは、独立してあるわけではないでしょう。依存しあって、機能してるのではないでしょうか。つまり、それ自身が、それ自身に原因がないのです。これは、あるでもないでのでもない、です。それが知覚の範疇です。
ところが、自己は、それ自身の、それ自身に原因・・・実在・・・ほかの言い方では、神・・・との関係にあります。その関係が、愛、です。これはやはり体験しかないかもしれません。これを体験すると、ほかの人にも、体験してもらいたいと望むようになります。
>体験と体験者の違いとは?
そんな体験をすると、おおくの場合ですが自分は、ない・・・無我・・・に偏ります。それだけなら、まあ、いいのですが、そういうことを対象化してしまう傾向にあります。つまり、対象にしてる自分、体験者、の発現です。
それは、それでも問題ないのですが、自己、というのは、世界に依存しないのです。その範疇にないのです。だけど、この体験者は、体験に依存してしまう可能性から逃れることは難しいのです。
それは自分の体験を解凍すればいいだけのことなんですが。理解、して忘れればいいだけなんですが・・・それを意識に教える、と呼んでいますが・・・困難、と言えば、困難です。
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No.3003 - 2010/12/12(Sun) 20:07:48 |
| ☆ Re: / hato | | | >> 全ては起こるべくして起こるのだから私がするというのは幻想に過ぎない。
ほんとうに?
>> それは自分の体験を解凍すればいいだけのことなんですが。理解、して忘れればいいだけなんですが・・・それを意識に教える、と呼んでいますが・・・困難、と言えば、困難です。
誠に。そのようです。
そこで最強ubikスプレーが効くはずなんだけど。いつでもどこでも、見つけたなら役立ちますよ。フィリップ・K・ディックが、言ってました。
hatoの読みたて新鮮メモでした。
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No.3004 - 2010/12/12(Sun) 21:01:43 |
| ☆ Re: / 夜の虎 | | | ubik0101さん ありがとうございます。 大変難解な回答を戴いたために、要点を確認したいと思います。
まず自我ですが、 例えば、私が物を見て何かを感じ、思考する。 その時に、何かを感じる以上、感じる主体があるはずだと、主体を想定する。 しかしこの主体は架空のものである。 それが自我である。 そして架空の主体を思い込ませようとしているのが世界である。 ここでは世界とは何か? という新たな問題が生じます。
次に自己ですが、自我が成長したものである。 ここで成長とは、何がどのように成長するのかは不明ですが、自我が己を守る傾向があるのに対し、事故は己を守ろうと言う傾向がない。 つまり自己とは、質的に強くなった自我か、自身に無関心となった特殊の自我である。 自己とは、自我と基本的に同一のものである。
次に実在ですが、自己自身の原因である。 すると、自己は自我であり、自我が虚構で、世界により思い込まされているのだから、実在とは虚構であると言うことになります。 しかし、実在と言う通常の意味と、虚構とは相反するようにも思えます。 何かの錯誤があるように思います。
体験と体験者とは、 体験とは通常の経験であり、体験者とは主体を対象化することである。
以上ですが、いかがでしょうか?
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No.3011 - 2010/12/13(Mon) 15:39:21 |
| ☆ Re: / ubik0101 | | | >まず自我ですが、 >例えば、私が物を見て何かを感じ、思考する。 >その時に、何かを感じる以上、感じる主体があるはずだと、主体を想定する。 >しかしこの主体は架空のものである。 >それが自我である。 >そして架空の主体を思い込ませようとしているのが世界である。
ここで、夜の虎さんが言ってる「私が物を見て何かを感じ、思考する」の「私」と、自我、それは同じことです。つまり私のほかに自我があるわけではないです。たとえば夜の虎さんが、すこし前に引用した「我思う、ゆえに我あり」風に言えば、「思うゆえに我あり」です。
>ここでは世界とは何か? という新たな問題が生じます。
この世界とは、物質、身体(感覚器官)、感覚、感情、意識、です。つまり人のことです。この“掲示板”のタイトルに・・・この世界は人を覚醒させる触媒です・・・とありますが、文章だけを見ると矛盾ぽいです。でも、ほかの言い方もなく、それを承知で言っています。
>次に自己ですが、自我が成長したものである。 >ここで成長とは、何がどのように成長するのかは不明ですが、自我が己を守る傾向があるのに対し、事故は己を守ろうと言う傾向がない。 >つまり自己とは、質的に強くなった自我か、自身に無関心となった特殊の自我である。 >自己とは、自我と基本的に同一のものである。
これは、まったく違います。 こんな言い方は好みませんが、自我と自己、次元が違います。
(a)よく喩えで、自我の死、と言われます。ここでは自我の完成と言います。その体験当時は、そのことによって、自己は与えられる、と感じていました。そうすると始まりがあるわけです。それは、どうも変です。
(b)そうでなくて。もし始まりがなく、初めから人が自己なら、なんの迷いも、たとえば自我も、自己を忘れることも起こりようがないので、これも、どうも変です。
それで、どっちを採っても、実情にあいません。でも、なんにしても理論的に探るのは、ほとんど不可能。その体験をするのが圧倒的に簡単。ということには変わりません。
おそらく、世界と人の関係とか、始まりの、あるない、とか、わけの分からない矛盾なくしては、この世界は、人を自己たらしめる、この世界であることは困難だからかもしれません。
また体験とは、この矛盾を飛び越えることでもあります。そこは底知れない深い淵があって、そんなこともあって、元の自我に戻るのは困難です。
>次に実在ですが、自己自身の原因である。 >すると、自己は自我であり、自我が虚構で、世界により思い込まされているのだから、実在とは虚構であると言うことになります。
これも違います。実在とは、それ自身が、それ自身の原因。ほかの言い方では、第一原因。神。ただある、です。そして、ただない、も知覚の範疇にはありません。単純な説明ですが、この世界は、ただあるない、どちらでもなく、知覚の範疇です。
>体験と体験者とは、 >体験とは通常の経験であり、体験者とは主体を対象化することである。
その体験とは、世界の総活動に触れる。なる、そんな体験です。たとえば善と悪、優と劣、嬉しいと悲しい・・・ありとあらゆることが一気に活動することです。「体験者とは主体を対象化することである 」は、まあ、そうです。
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No.3012 - 2010/12/13(Mon) 19:50:14 |
| ☆ Re: / 夜の虎 | | | お返事ありがとうございます。
> ここで、夜の虎さんが言ってる「私が物を見て何かを感じ、思考する」の「私」と、自我、それは同じことです。つまり私のほかに自我があるわけではないです。たとえば夜の虎さんが、すこし前に引用した「我思う、ゆえに我あり」風に言えば、「思うゆえに我あり」です。 >
なるほど なんとなくでありますが、理解しました。
> この世界とは、物質、身体(感覚器官)、感覚、感情、意識、です。つまり人のことです。この“掲示板”のタイトルに・・・この世界は人を覚醒させる触媒です・・・とありますが、文章だけを見ると矛盾ぽいです。でも、ほかの言い方もなく、それを承知で言っています。 >
ここで言われる「人」とは、通常我々が言うところの人間から「自我」を引いたものですか?
> これは、まったく違います。 こんな言い方は好みませんが、自我と自己、次元が違います。 > > (a)よく喩えで、自我の死、と言われます。ここでは自我の完成と言います。その体験当時は、そのことによって、自己は与えられる、と感じていました。そうすると始まりがあるわけです。それは、どうも変です。 > > (b)そうでなくて。もし始まりがなく、初めから人が自己なら、なんの迷いも、たとえば自我も、自己を忘れることも起こりようがないので、これも、どうも変です。 > > それで、どっちを採っても、実情にあいません。でも、なんにしても理論的に探るのは、ほとんど不可能。その体験をするのが圧倒的に簡単。ということには変わりません。 > > おそらく、世界と人の関係とか、始まりの、あるない、とか、わけの分からない矛盾なくしては、この世界は、人を自己たらしめる、この世界であることは困難だからかもしれません。 > > また体験とは、この矛盾を飛び越えることでもあります。そこは底知れない深い淵があって、そんなこともあって、元の自我に戻るのは困難です。 >
自己についてはよく理解できません。 自我とは次元の違うもの。でその内実は? 真の主体? 変化しない主体? そんなニュアンスでしょうか?
> これも違います。実在とは、それ自身が、それ自身の原因。ほかの言い方では、第一原因。神。ただある、です。そして、ただない、も知覚の範疇にはありません。単純な説明ですが、この世界は、ただあるない、どちらでもなく、知覚の範疇です。 >
ここで言われていることは、我々が世界と呼んでいるものはただ知覚の範疇にあるだけのものであり、知覚外のもので第一原因が実在である ということでしょうか?
もしそうならば、どのようにして実在を知ることができるかと言う問題がありますが、これは以前言われた超意識なるものですか?
> その体験とは、世界の総活動に触れる。なる、そんな体験です。たとえば善と悪、優と劣、嬉しいと悲しい・・・ありとあらゆることが一気に活動することです。「体験者とは主体を対象化することである 」は、まあ、そうです。
理解しました。
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No.3024 - 2010/12/14(Tue) 15:16:07 |
| ☆ Re: / ubik0101 | | | >ここで言われる「人」とは、通常我々が言うところの人間から「自我」を引いたものですか?
それは、人一般、のことです。でも、ubik0101にとっては、ubik0101個人のことです。 >自己についてはよく理解できません。 >自我とは次元の違うもの。でその内実は? >真の主体? 変化しない主体? そんなニュアンスでしょうか?
ほとんど、そう、です。と、いうのも。どんなイメージも誤りで、どんな対象にもならず、どんな意味のありそうな名前でも呼べません。ただ、自己、と呼びます。 >ここで言われていることは、我々が世界と呼んでいるものはただ知覚の範疇にあるだけのものであり、知覚外のもので第一原因が実在である ということでしょうか?
まあ、そう、です。と言うのは、この世界に生きて、それを体験することができるからです。なので。この世界を、相対界、現象界とか呼んで・・・第一原因を、(空想の対象の意味で)神、実在界とかとか呼んで・・・あたかも、ほかにあるような表現するのは好みではないです。
>もしそうならば、どのようにして実在を知ることができるかと言う問題がありますが、これは以前言われた超意識なるものですか?
そうです。知覚、意識が総活動したら、知覚、意識を超えます。それが、体験、です。これは起こることです。
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No.3031 - 2010/12/15(Wed) 16:02:05 |
| ☆ Re: / 夜の虎 | | | No.3055 - 2010/12/16(Thu) 15:27:25 |
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